アナログレコードをデジタル化する

ここのところいろんなものをデジタル化しているが、今回はあたらしいターンテーブルが手に入ったので、昔買ったLPレーコドのデジタル化をやってみたのでその報告。

必要なもの

  • ターンテーブル(新しい製品でPC出力ができるもの)
  • PC(今回はMacbookAir)
  • 録音ソフトウエア(Audacityというフリーソフトを使う)
  • もちろんアナログレコード

操作

  1. ターンテーブルとPCをUSBで接続する。
  2. PC上でオーディオの設定をする。
    • MACの場合 システム環境設定 サウンド 入力 で USB PnP Audio Device を選択 確認する。
  3. 録音ソフトウエア(Audacityというフリーソフト)をPCにインストールする。

    • WEBで検索 Audacity mac ですぐに出てくるはず。(もちろんWIN版もある)
    • audacity-3-0-2.dmg をDL
    • 展開、導入
  4. Audacityを起動

    • 入力装置(マイクアイコン)のところをUSB PnP Audio Deviceにしておく。
    • レコードをかけたら、録音ボタンを押す。
    • 終了したら、停止ボタンを押し、
    • ファイルから書き出しを選び、MP3として書き出す。

これで録音は終了する。なお、この録音ソフト多機能で色々と修正ができるようだ。
レコードはどうしても傷による雑音が入っている場合があるので修正するといい。
これについてはまた後日。
暇な時に昔聞いたレコード

日本古典文学総復習続編7『太平記』2

『太平記』を読むその2

久しぶりに古典文学の記事、「太平記」の続編。

第二部、巻12から巻21までは、建武政権の乱脈を批判しつつ、諸国の武士の、新政に対する不満を背景に足利・新田の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。
では各巻の概略を見ておこう。

巻12

新政権発足から、大塔宮護良親王が捕われ鎌倉へ護送・幽閉されるまでを描く。
王朝体制の回復が進むが、早くも大塔宮と足利高氏の対立が顕在化し、武士たちも論功行賞をめぐって不満を募らせ、社会は決して安定しない。また、大内裏造営の計画が進むが作者は北野天神縁起を長々と引いてこれが時代にそぐわないことを語る。

巻13

新政権内部の矛盾が引き続き現れ、北条残党の謀反も生じ、一時は北条残党が鎌倉を奪還するが、足利尊氏の活躍により平定され、足利尊氏の存在感が一躍脚光を浴びることを語る。

巻14

足利尊氏と新田義貞との対立抗争が中心的に語られる。足利尊氏と新田義貞はいわば論功行賞をめぐって対立し、戦うことになる。一時尊氏は恭順の意を示したりするが、結局は天皇をいただく新田義貞を京から天皇とともに追い出すことに一時的に成功する。ここにこの書の第二部の世界が展開し始める。

巻15

ここも尊氏と義貞の対立抗争が描かれる。この抗争がいわば全国展開を見せ、この巻では足利尊氏が九州に敗走するまでを描く。また、延暦寺と園城寺との対立がそれに絡んで語られ、俵藤太説話が語られたり、後醍醐天皇の失意の恋物語が語られたりする。

巻16

九州に到着した尊氏は九州を平定、その後再び京を目指し、新田軍・楠軍と湊川で戦い勝利する。ここで楠木正成は自害し、新田軍は京都へ退くことになる。後醍醐天皇は東坂本(比叡山)に難を避けるが、光厳院ら持明院統の人々は、尊氏の待機する東寺へ入る。
この巻ではなんといっても後々語られることとなる正成の自害とその子正行の話がクライマックスだろう。また、尊氏の正成に対する評価も見逃せない。

巻17

この巻は尊氏と新田義貞の一進一退の戦いの様を描く。
上洛を遂げた足利尊氏は、後醍醐天皇を匿い支援する山門(延暦寺)の攻略を図り、坂本で新田軍と戦うが、神仏に阻まれ敗退、これを新田軍が追って京を攻めるが、機を逸したため敗北、というように決着がつかない。
結局新田は東宮を擁して北国にのがれる。一方尊氏は天皇を幽閉して、新田のこもる金崎城攻略のため大群を差し向けるが、これも責め切れない。

巻18

最終的に尊氏の勝利を描く。
幽閉の身であった後醍醐天皇は花山院を脱出、吉野衆徒の協力を得て吉野へ臨幸、この知らせが新田軍の立てこもる金崎城へもたらされ城内の兵は活気ずくが、援軍のない金崎城は落城、新田義貞は脱出、しかし新田義詮は自害を遂げる。東宮も捕らえられ、尊氏の勝利は確実となる。

巻19

光厳天皇を重祚させた足利尊氏は将軍職につき、一門栄華を極める。
しかしながら、新田義貞ら南朝側の抵抗も各地で起きていることを描く。北条時行が先帝に拝謁、許されて尊氏討伐の勅許を得たり、奥州に下っていた北畠顕家が兵を挙げて、鎌倉に足利義光らを破って上洛の途についたり、といった具合だ。ただ、こうした動きに統一感はなく、結局は尊氏側の勝利となってしまう。

巻20

ここは新田義貞の最期を語る部分。
北陸にとどまっていた義貞は、大群を持っていながら、平泉寺の衆徒が味方する足利高経を攻めきれず、かえって藤島城に直接赴いて討ち死にしてしまう。やがて義貞の首が京の大路を引かれ獄門にかけられ、その北の方を始め京の人々の涙を誘う。
このことが南朝側の離散をうみ、諸国の趨勢は北朝側に有利に働き始める。かくて新田物語は幕を閉じる。

巻21

物語の展開が、編年の順序に従っていないのはいつものことで、史実に照らすと年次に混乱があるようだが、ここでも南朝側の抵抗と北朝側の結果的な勝利が描かれる。また、ついにここで後醍醐天皇の崩御が語られる。また、足利側の内部の不祥事が語られる。高師直と塩谷判官の話もここで語られる。いうまでもなく江戸時代の忠臣蔵が仮託した話だ。

以上が第二部。足利尊氏と新田義貞の戦いが中心となっている。そこに楠木正成の最後と後醍醐天皇の崩御が語られている。さて、この太平記の本文はどのようなものかも紹介しなければならない。楠木正成の自害の場面を引いておこう。

この勢いにても打ち破って落ちは落ちつべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今はこれまでと思ふ所存有ければ、一足も引かず戦ひて、機すでに疲れければ、湊川の北に当たつて在家の一村有ける中にへ走り入つて、腹を切らんために、鎧を脱いでわが身を見るに、斬り傷十一箇所までぞ負うたりける。(中略)正成座上に居つつ、舎弟の正季に向かつて、「そもそも最後の一念に依つて、善悪の生を引くといへり。九界の間に何か御辺の願ひなる」と問ひければ、正季からからとうち笑うて、「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん」と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕に臥にけり。

この「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」という言葉が、後々尊氏が朝敵で正成が忠臣という図式を生むことになるが、実はこの「太平記」はどちらにも偏らない立場で書いているように思える。

今回はここまで。

2021.06.17

WordPressのサイトが真っ白になったら

WordPressのサイトが真っ白に

この記事の前に長い記事を書いて、久しぶりにUPしようとした。その時テーマの更新の知らせがあったので、更新してしまった!その後記事のプレビューを見ようとすると画面が真っ白なのだ。やってしまった!注意不足だった。PHPのバージョンと使っているテーマが合わないのだ。これは逆にサーバーのPHPのバージョンを更新した時にも起こった。その時は確かPHPのバージョンをサーバー側で戻して修復した。さて今度はどうするか?テーマを古いバージョンに戻せばいいということになる。さてどうするか。その手順をここに書いておく。

使っているテーマの配布ページに行く
ダウンロードボタンを右クリックして、リンクアドレスをコピーする
https://downloads.wordpress.org/theme/graphy.2.3.2.zip
これが最新バージョンということになる
これのバージョンを下げてアクセスしてみる
https://downloads.wordpress.org/theme/graphy.2.3.0.zip
2.3.1はなかったので、これが以前のバージョンということになる
これをダウンロードして
テーマフォルダに入れ替える

これで戻った!

それにしてもWordPressはめんどうですね。
よく考えてみると本来はPHPとテーマ両方バージョンアップすればいいのだけれど
どの順序でやるべきか、ようく考えてやらないといけない。

プラグインのバージョンアップも気をつけましょう。

2021.06.04

ITいろいろ

ここのところIT関係ではいくつか行ったことがあったので報告
実はいずれもきっかけがあってのこと

WINマシンのメモリ増設

WINマシンでの画面録画と動画編集

これのきっかけはWINマシンでの動画編集。
これまでMACでやってきたが、WINでも行う必要が生じたためだ。
YoutubeにHTMLに関した学習動画を載せているが、世の中はWINユーザーが多いので、WIN上での操作を画面録画する必要が生じたからだ。
これも当初はWIN標準のツールでできるとの話だったが、これが使い物にならず(どうもゲーム専用のようだ)、
フリーで画面録画できるツールを探していたら、OBSという本来は同時配信用のオープンソフトが画面録画にも使えるということでやってみた。
これはこれで中々の代物だが、結構使えることがわかった。
(ついでにこの過程でもう一つWEBカメラも導入した。これはこれで色々問題があるのだが。まあ使えているのでよしとする。)
さて、すると当然録画したものを編集する必要が生じてくる。
これも標準のツール(フォト)で可能という話だったが、どうもうまくいかなかった。書き出しができないのだ。
これは結論的にはメモリー不足が原因だったが、なぜがそのエラー表示が出なかった。
そこでこれもオープンのShotCutというツールを入れて試してみた。使い勝手はMACのiMovieに似ていてよかったのだが
これはしっかり「メモリーが足りません」といわれて出力できなかったわけだ。
そこでのメモリー増設となった。

メモリー増設

さて、小生のWINマシンはなんと2006年に導入した代物だ。もう15年も使っている。しかし当時としてはハイエンドなPCだ。
GPUも入れていて、ここにメモリーもあるし、たしか一回メモリーも増設している。また、HDDもSSDに交換している。
まあ中身を色々いじって生き延びてきたし、これまでの作業で不足を感じたことはなかった。
実は最近になったようやくWIN10を導入したばかりだが、それもそんなにストレスを感じるものではなかった。
というのもメモリーと速さが必要な作業はMACがやってきたということなのかもしれない。
さて件のメモリー増設だが、不安がなかったわけでは無い。というのは古いマシンだけに対応するメモリーがあるかどうかだ。
そこでまずは調査となる。これは筐体を開けて確認すればいいのだが、まずはCPUZというツールで確認する。
そうすれば今入っているメモリーの仕様がわかる。それと同様の仕様で要領の大きいものを探せばいい。
今回4枚セットで売っていたので、すべて取り換えることにした。メモリー交換は全て変えた方がリスクが少ないからだ。
これで保存の際メモリエラーは出なくなった。

ネットワーク環境の更新

ケーブルテレビの営業

これのきっかけはケーブルテレビの営業だ。
現在テレビはJ:COMに契約している。実はこれもある行きがかりからそうなってしまった。これをまずは語っておこう。
我が家は、かつてあった米軍の通信隊という施設の近くにあり、地デジ化以前からケーブルでテレビを見ていた。(BSは独自にアンテナを立てていた)
つまり電波障害があるということで、防衛施設庁が資金を出し、ケーブル施設が作られて、アンテナ組合とか言ったか、そこに年間で少しの資金を出してケーブルを自宅に引いてテレビを見ていたわけだ。
それがその米軍施設が横浜市に返還となり、その組合も解散となり、それが地デジ化と重なったため、地元のケーブルテレビ会社がそのケーブル設備をそのまま引き継ぐということで、工事なしで地元のケーブルテレビ会社(確か南横浜ケーブルテレビとかなんとか言った)と契約することとなった。
そしてその会社がJ:COMに吸収合併されてしまって、そのまま契約を引き継ぐことにしたわけだ。
しかもそのころ娘もまだ同居していたせいか、かなりのチャンネルを見られる契約をし、そのままになっていたというわけだ。

さて、本題に戻るが、ある日そのJ:COMを名乗る女性から電話があって、点検に来たいという。一応来宅してもらうことにしたが、このJ:COMの点検というのが実に怪しく、結局はしつこい営業だ(多分インターネット契約とか携帯の契約とかの抱き合わせ販売)という話を各方面から耳にしたので、こちらから改めて電話をすることにした。中々通じなかったが、ここはリアルにJ:COMの担当者と話をしなければならないと思い、我慢して待った。(何せ暇人!)そして男性の社員と話ができた。まずはその営業の電話を確認できるか聞き、その上で現在の契約内容を確認し、そちらの点検の内容、営業の提案について聞いた。(実はその前にネットで現在のJ:COMの契約プランを調べておいた。)結局は来宅する必要なく、契約を変える必要のないことを確認した。というより、これはもうJ:COMをやめて、光テレビにするか、フレッツテレビにする方がお得な気がしてきた。そこでこれもずっと放っていた光回線についても見直すこととなったわけだ。

光回線の見直し

我が家は随分前からNTT東日本のフレッツ光の回線を使っている。しかもLAN配線を各部屋に敷設していた(これは自分で屋根裏に潜ったり、壁に穴を開けたり、一階の天井と二階の床を貫通させたり、外を回すしかなかったりと色々やった)。これまで別段遅くてイラつくとか、そんなこともなく使っていた。しかし、今回この光を使ったテレビについて検討したのと、実は去年の秋に大規模な自宅のリフォームをした際ケーブルを更新し、すべて壁に埋め込んでもらったことからこの見直しとなった。(このリフォームを請け負ってもらった地元の工務店はなかなかだった。LANケーブルを壁に通すにあたって鉄骨に穴を開けなければならず(自宅は軽量鉄骨構造)、かなり苦労したようだがやってくれた。しかもケーブルの種類についてもよく知っていた。どこぞの業者は「お客さん。今はwifiでしょ。」などと知ったかするそうだが。)

光回線等インターネット網の進化

さて、こうしたきっかけから、まずは現在のインターネット環境の進化について勉強することとなった。

やれ5Gだ、wifiは5G帯を使うべきだ、光回線はいまや5Gだ、IPv6を使うと速くなる、など色々と言われているのはなんとなく耳にしていた。しかし、しっかりと認識できていたわけではない。どうも原則的に理解できないと済まない性格なので、改めて勉強したわけだ。その上で我が家のインターネット環境を変更した。

さて、まずは誤解されやすい用語だが、今世間で言われている5GのGはgenerationすなわち世代のGだ。第5世代の通信規格という意味だ。このGという文字はよく使われるので混乱する。G7のGはGroupすなわちグループの意味(これはインターネットとは関係ないけど)。さて、wifiの5Gは正確には5GHzで周波数のことで電波の帯域を表している。wifiでは他に2.4GHz帯を使っているが、これは他の機器でも使うので干渉しやすいという(ただ、5GHzと違い壁等を通りやすいプラスの面もあるという)。しかもそれぞれの帯域に複数のチャンネルがある。そこをみんながいろいろと使っているわけだ。さて光回線の5GのGはギババイトのGで正確にいうと5Gbpsのことで、5ギガバイトパーセコンド、すなわち1秒間に転送できるデータの量を表す。
このあたり、携帯の料金や速さと容量の関係等でしっかり理解していないといけませんね。それにIPv6なる用語も出てきて混乱します。この辺を理解した上で自宅インターネット環境を整備することにした。

自宅インターネット環境の更新

回線自体の契約更新

まずNTTの光回線を100Mbpsを1Gbpsに変更することにした。これは比較的簡単に終了。WEB上で申し込んだら、向こうから電話があった。当初NTTからレンタルしている機器も変えようとしたが、変える必要がないということで、月額200円ぐらいのアップで済むという話だった。開通日が指定され、その日にONUをリセットすれば済むという話だった。ところが速度計測しても速度が全く変わらない。実はここに大きなポイントがあり、そこは一通り認識していたはずであったが、一点だけ見逃していたのだ。そこに気づかずNTTのサポートに電話することになり、やっと気づくという顛末だった。

インターネットの速度はボトルネックに注意

光回線を100Mbpsを1Gbpsに変更しても、どこかに1Gbpsに対応していない機器があると速度は出ないということは事前に学んでいた。例えばPCのイーサネットのアダプタが1Gbpsに対応していないとダメだし、コードも対応していないとだめだ。それはわかっていたのだが、実は肝心のONUとルーターの間のLANケーブルが対応していなかったのだ。ここはNTTからレンタルしている部分なので(機器は変えなくても大丈夫と言っていたが)見逃していたのだ。なんとそのケーブル、カテゴリー5のケーブルで、Eがついていなかった。壁を這っているケーブルはリフォームの時にカテゴリー6Aにしているし、古いケーブルもカテゴリー5Eである。まさに入り口にボトルネックがあったわけだ。(ちなみにボトムネックという人がいるが、これは間違い。瓶、ボトルの首が狭くなっていることを言う言葉だ。)

Wifi機器も入れ替える

今度は他の機器も変えなくてはいけない。2階から1階にLANコードを回しているが、ダイニングにおいてカミさんが使っているデスクトップPCは間にwifi機能付きのHUBをおいてLANコードで繋いでいて、と同時に一階でのwifi環境にしていた。しかしこの機器はLANのコネクタが1Gに対応していないし、wifi自体も遅い規格のものだ。そこで単純な1G対応のスイッチングハブを購入し、wifiルーターもNECのものを購入した(実はここはアクセスポイントモードでしか使わないから、いわゆるホテルで使うような簡易なもので良いのだが、これも1G対応のLANコネクタを持つものがいまだにないのだ。このNECの機器はアクセスポイントモードとは言わず、ブリッジモードというようだ)。これでこれまでより高速なインターネット環境が一応整ったと言える。速度テストして面白かったのは、一階のカミさんのデスクトップが一番速かったことだ。このPC決して新しくはなく、OSはWIN7だ。しかし、2階のWIN10のPCより速かったのだ。これにはいくつか理由がありそうだ。wifi環境ではMacBookAirやiPadやiPhoneなどを使っているが、いずれも有線ほどではないが速くなった。また、2階でもwifiを使うので2階にも新しいwifiルーターを購入した(これもアクセスポイントモードで使っている)。今回購入した新しくした機器は以下だ。

新規導入機器

  • エレコム ELECOM EHC-G05PA-B-K [Giga対応 1000BASE-T対応 スイッチングハブ 5ポート プラスチック筐体 電源外付モデル ブラック]
  • NEC エヌイーシー PA-WG1200CR [Aterm 無線ルーター IEEE802.11ac対応 867Mbps]
  • BUFFALO WiFi 無線LAN ルーター WSR-1166DHPL2/N 11ac ac1200 866+300Mbps IPv6対応 デュアルバンド 3LDK 2階建向け 簡易パッケージ テレワーク 日本メーカー 【iPhone12/11/iPhone SE(第二世代) メーカー動作確認済み】
  • エレコム ELECOM LD-GPAT/BU05 [LANケーブル CAT6A(カテゴリ6A) 爪折れ防止 ヨリ線 0.5m ブルー] および1m

価格は全部で10,000円弱

IPoE、IPv6の話

この話は結構難しい話。この間色々調べ、また実際に設定できるかどうかやってみて、また色々と問い合わせをやってみてようやく理解でき、実現できたところだ。その報告。

「IPv6使えばインターネットが速くなるよ」ってほんと?

よく巷で「IPv6使えばインターネットが速くなるよ」などという言葉を聞く。しかしこれは字面だけだと間違っている。

そもそもIPv6は速さと直接関係がないようだ(このあと詳述するが、間接的には大いに関係ある)。これはIPアドレスを増やすための規格だ。
IPというのはIPアドレスと言われるようにインターネット上のデバイスのそれぞれの住所だ。IPv4のIPアドレスは、たとえば0〜255.0〜255.0〜255.0〜255という形で表される(具体的には192.168.1.1といった具合だ)。2の8乗(256)が4個ある形だ。すなわち32ビット(2の32乗)だ。約43億個あることになる。しかし、この数だけではもはや足りないほどインターネットが膨張した(もちろんもっと増える形、グローバルアドレスとプライベートアドレスを変換して使う方法などで使っているが)。

そこでそのIPアドレスを大幅に増やしたのがIPv6アドレスというわけだ(この6というのもあくまでバージョン6ということ)。では何個になったか?そうIPv6は、32ビットがさらに4個ある形32✖️4、すなわち128ビット(2の128乗)で340澗(かん)個のアドレスを持つことができるといわれている。「澗」とは今まで聞いたことがない単位だ。340澗は340兆の1兆倍の1兆倍と説明されている。これなら世界中の個々の機器に直接振っても足りる気がしてくる。

ではなぜアドレスを増やしただけのIPv6によってインターネットのアクセスが速くなる、なんて言うんだろうか。増やしたら遅くならないか?「IPv6使えばインターネットが速くなるよ」といったことは字面だけだと間違っている。しかしそう言うには理由もありそうだ。

まずそもそもIPv4とIPv6ではアクセスの方法が異なるということがある。

これまでのインターネット接続すなわちIPv4ではPPPoE方式という方式がとられている。PPPとはPoint-to-Point Protocolの略で電話回線を前提にした接続方法で、これをインターネット接続に応用したものだそうだ。ユーザー側でルーターやアダプターなど、専用の通信機器の設置することが必須となっているが、このユーザー側の機器がインターネットと通信するためにネットワーク終端装置(NTE)を利用することになる。この装置は、ISP(プロバイダー)ごとに用意され設置されているということだが、この装置にはセッション数(ほぼユーザー数)に限界があって、アクセスが増加するとどうしても遅くなるということだ。

これに対してIPv6では違った通信方式をとっている。これをIPoE方式と呼んでいる。 IPoEはIP over Ethernetの略でユーザー側がルーターやアダプターなど、専用の通信機器を設置する必要は基本的には無くなる。しかもボトルネックになっていたプロバイダーごとのネットワーク終端装置(NTE)を利用しない。もっと大容量のGWR(ゲートウェイルーター)というもを使ってインターネットにアクセスする。だから速いということになるようだ。
すなわち通信方法の違いによって速くなるわけだ。

だったらすべてIPoEを使えるIPv6にすればいいということになる。しかし、そうはいかない。実はIPv4とIPv6のネットワークは全く別のネットワークとして存在してる。IPv4のネットワークからIPv6に移行するには莫大な費用がかかるという。事実IPv6のネットワークを使っているのはYoutube、Google、Facebook、Netflixなど限られたサイトで、AmazonやYahooなどの多くのサイトはIPv4のネットワークのままだ。基本IPoEはIPv6のみに対応しているので、こうした多くのIPv4のネットワークには未だPPPoE方式が必要ということになる。

ちなみにPCのイーサネットの設定でIPv6のみ接続する設定にしてみると(IPv4の接続のチェックをはずす)とYoutube、Google、Facebook、Netflixなどは接続できるけれども、AmazonやYahooは接続できなくなってしまう。ここにも誤解がある。IPv6=IPoEという誤解だ。「IPv6使えばインターネットが速くなるよ」といったことは、正しくは「IPoE方式を使えばインターネットが速くなるよ」というべきだ。
ではIPv4のネットワークにIPoE方式を使うことはできないのかということになる。基本的にはできないが、やる方法を考え出したんだ。これがIPv6 IPoE方式と言うことになる。正確にいうとIPv4 over IPv6ということになる。

この技術はOCNの説明をかりると

「ユーザーがIPv6でインターネットに接続しながら、IPv4にしか対応していないWebサイトの閲覧やWebサービスの利用をする場合、自動的にIPv4接続へと変換される技術です。IPv4 over IPv6では、ブロードバンドルーターでIPv4のパケットデータをIPv6に変換して通信を行うしくみになっています。「IPv6に見せかけたIPv4」のパケットは、IPv6通信網を抜け、通信先のWebサイトやWebサービスに到達する直前でIPv4へと再変換されます。IPv6の仮想のトンネルを抜けていくため、この技術は「トンネリング」と呼ばれています。このようにトンネリングをすることで、IPv6に対応していないIPv4のWebサイトやWebサービスでもIPoE方式で扱うことができるわけです。」

と言うことになる。一種のマジックだ。

「IPv6使えばインターネットが速くなるよ」という言葉は、正確に言うと「IPv6の通信技術のIPoEをIPv4にも使えるようにすればインターネットが速くなるよ」ということになる。ではこれをどう実現するのか?

具体的手順

先ずは自分のプロバイダでのIPoEの提供状況を調べる。

すると
IPoEとIPoE(ホームゲートウェイ・無線LANルーター*¹対応)という欄があり

IPoEの欄は 提供中となっていて
IPoE(ホームゲートウェイ・無線LANルーター*¹対応) 未提供

となっていた。

次にプロバイダの接続確認というのをやってみる。

すると
確認結果  接続環境   IPアドレス
IPv4             PPPoE方式     省略32ビットアドレス
IPv6             IPoE方式         省略128ビットアドレス

となっている。

つまりはIPv4 over IPv6はできていないということになる。
(これがわかるまで随分時間を要した。)

ではどうするのか?
提供状況のIPoEの欄に※で以下の文言がある。

※対応ルーターを接続することでIPoE(IPv4 over IPv6)通信が可能となります。
但し、NTT東日本・西日本のフレッツ・v6オプション工事が完了している場合に限ります。
※対応ルーターのレンタル提供(OCN v6アルファ)をご希望の方は こちら

問題はルーターとオプション工事ということになりそうだ。
「対応ルーター」にリンクがかかっていてそれをみると、自分が使っているNTTからレンタルしているルーターが載っていた。対応はしているようだ。
ただここにも但し書きがあり、これまたわからないことだらけだった。

こうなったら電話で聞くしかないと思い、NTTの機器設定についてのサポートに電話してみた。
ところがこの電話サポートが酷かった!「わからない。私が答えることではない。プロバイダに聞いてくれ。」の繰り返し。
虫の居所が悪かったのか(日曜日出勤だから?)若い女性の最も悪い物言いだった。あとでわかったがNTT東日本はエンドユーザーへのサポートは全くやる気がなく、他の子会社に任せ切るつもりのようで、回線も提供するだけにしたいみたいだ。

仕方がない。こうなったらプロバイダに聞くしかない。日曜日に通じる電話にかけたが、案の定「月曜にかけてくれ」と違う番号を教わった。時間は9時からとの話だった。翌朝9時ぴったりにかけると、10時からになったと言う。コロナ禍のせいだと言う。違う電話があったので、11時近くになってかけた。するとこの電話も違うと言う。そこでいい加減あたまにくるところだが、この電話対応した女性が実いい対応だった。NTTとはえらい違いだ。たぶんベテランの女性のようで物言いが柔らかく丁寧であった。そこで教わった電話番号に電話をかけ、なんとか話ができた。しかし、ここでもまたNTTに電話をする羽目になった。

NTTレンタルの対応ルーターの光電話のタイプを確認し、プロバイダに設定を依頼する

光電話のタイプの確認が必要だった。これは契約書ではわからず、聞く羽目になったわけだ。タイプによって対応できるできないがあるらしい。結果はOKだった。するとなんとすんなり手続きが済んだ。30分後に確認してくれとのことだった。これが申し込みと言うことになるらしい。
申し込みがなくても待っていれば、順次メールが来てできるようになるといっていた。

さてもう一度

自分のプロバイダでのIPoEの提供状況を調べる。

すると

IPoE 提供中
IPoE(ホームゲートウェイ・無線LANルーター*¹対応) 提供中

となっていた。

次にプロバイダの接続確認をする。

すると
確認結果  接続環境   IPアドレス
IPv4             IPoE方式         省略32ビットアドレス
IPv6             IPoE方式         省略128ビットアドレス

となっている。

IPv4も接続環境がIPoE方式になっていればOKということだ。これでめでたしめでたしということだ。

(ああ疲れた!)

最後に一つ。この接続確認だが、いろいろなデバイスでやってみるとよい。

自宅には2台のデスクトップPC(Win10とWin7)、2台のノートPC(MacBookAirとUbuntu)、それに2台のiPad(旧型とmini)、それにiPhoneがあるのだが、それらでこの接続確認をやってみると面白い。それぞれのIPアドレスを見てみると、IPv4は皆同じだ。これは要するにルーターのアドレスということになる。実際のそれぞれのアドレスはここからNATでローカルアドレスが振られるわけだ。しかし、IPv6のアドレスは最初から別々だ。ここにIPv6の最大の特色があると言える。要するに全ての機器に独自の直接的なアドレスが与えられるということだ。

この記事長すぎた。ここまで。

2021.06.04

日本古典文学総復習続編6『太平記』1

『太平記』を読むその1

はじめに

『太平記』は大部な作品である。この古典集成でも五冊あり。物語としては八冊ある『源氏物語』に次いで長い。『源氏物語』はかなり以前から部分的に読んできたので通読に時間はかからなかった。以前の新古典文学体系の総復習で確か4回に分けて書いている。(このブログで検索していただければ幸いです。)しかしこの『太平記』はほとんど初見である。したがってかなりの時間を要したし、その内容を追うだけでも大変であった。

全体の構成

さてその内容だが、全体を三部に区分けできるようだ。全40巻あるが、解説によれば以下に区分けできるという。これにそってとりあえずは内容を追ってみたい。
第一部、巻1から巻11まで。
後醍醐天皇による北条幕府討伐の計画から、その成就、そして建武政権の確立までを楠正成らの動きを軸として描く。
第二部、巻12から巻21まで。
建武政権の乱脈を批判しつつ、諸国の武士の、新政に対する不満を背景に足利・新田の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。
第三部は、巻22から巻21まで。
観応の擾乱、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌から細川頼之の将軍補佐による太平の世の到来までを描く。

第一部を読む

そしてこのブログでは各部の詳細を追っていきたい。まず今回は第一部。(なお、集成本は5冊構成だが、この三部構成とは一致してはいない。1冊目は巻1から巻8まで。2冊目は巻9から巻15。3冊目は巻16から巻22。4冊目は巻23から巻31。5冊目が巻32から巻40までである。)

巻1

序を含んでいる。
後醍醐天皇即位から正中の変までを描く。北条高時の暴虐、後醍醐天皇の善政。しかしその後宮の乱れも指摘している。そして倒幕を企てた正中の変の挫折を描いている。その首謀者日野資朝・日野俊基に対しても批判的であることが注目される。

巻2

正中の変から6年経過。元弘の乱へと展開。後醍醐天皇の挙兵の準備とその発覚。幕府に皇位継承を提起。比叡山との戦いを描く。
語り物・中国の故事・合戦談を集めて元弘の乱への核心を描いているところに特徴が見られる。山門内の勢力争い、打算的な衆徒の動きも描き、一方漢楚の故事の引用、君臣の忠節も描く。

巻3

元弘の乱の緒戦から乱が一応の頓挫を見るまで。後醍醐天皇の夢に現れた楠木正成の登場。諸国の挙兵と東国の援軍鎌倉を出発。
後醍醐天皇、笠置を落ちる。六波羅へ遷幸。光厳天皇即位。正成の機略の数々。ここから楠木正成が中心的な人物として描かれるようになる。

巻4

笠置の合戦の後日談。幕府の事後処理をめぐる流刑等を多様に描く。もう一つは先帝の隠岐遷幸を描く。呉越説話がほぼ半分を占める。これは後日の先帝復活の伏線とおもわれるが、この長文の故事の引用は『太平記』ならではである。

巻5

持明院系の栄華からはじまり、やがて北条一門が滅亡の道を辿る前兆を描く。高時が田楽を愛好し、闘犬をあそぶことを記し、天下の乱れの予兆とする。
関東の命令に従う熊野別当や吉野在地武士の動きに関わらず、次第に先帝や大塔宮の側に有利に局面が展開し始める。ここでも漢籍の世界をかりて描いている。

巻6

先帝復帰の予告。楠木正成の活躍。関東の大群上洛するが、北条一門の滅亡が近いことを描く。楠木正成の奇略の数々が描かれる。

巻7

大塔宮と二階堂道蘊との吉野で戦い。千早城の楠。新田義貞の先帝側への意を通じ関東へ帰る。情勢の変化に基づいて先帝、隠岐を脱出、船上山に立て篭もる。攻める佐々木らは敗走。諸国の勢力、船上山へ馳せ参じる。新田義貞に綸旨を賜う。倒幕を企てる。

巻8

いよいよ京へ攻め入るが膠着状態が続く。赤松兄弟の奮闘がえがかれる。

巻9

足利高氏の裏切り。はじめ北条の大将であったが、高時への私憤から先帝に意を通じる。丹羽篠村で討幕の兵をあげることとなる。六波羅敗退。これによって機内の大勢決することとなることを描く。

巻10

前半は新田の軍記物語。後半は追い詰められた鎌倉勢の滅亡までを描く。

巻11

三部にわかれる。第一部は鎌倉幕府滅亡後の北条一門とその子女の悲劇。第二部は後醍醐天皇の二条内裏への遷幸と赤松と楠の供奉。第三部はこの間の地方各地の情勢変化を描く。

第一部の評価

というのが第一部だ。つまり戦乱を描いているからこれは軍記物語といっていいが、これまで軍記物語の一つの達成である『平家物語』と比べると、どうも文章が硬い気がする。確かに『平家物語』にあるような以下のような表現もある。

『この矢一つをば冥途の旅の用心に持つべし』と言ひて腰にさし、『日本一の剛の者、謀反に与し自害する有様、身置いて人に語れ』と高声に呼ばはつて、太刀の鋒を口に啣へて、櫓よりさかさまに飛び落ちて、貫かれてこそ死ににけれ。

しかし一方で漢籍の引用も多い。有名な「呉越合戦」「漢楚合戦」などは巻一つの何分の一をしめていたりする。これは『平家物語』にはないことだ。
また序文にある以下の考え方はこの書の政治的な考え方を如実に表していて、後醍醐天皇評価にもある治世論がおおく漢籍の儒教的な考え方に寄っていることがわかる。

もしそれその徳欠くるときは、位有りといへども持たず。いわゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗らる。その道違ふときは威有りといへども久しからず。

「もし君子がその徳に欠けている場合は、帝位にあっても位を維持できない。周知のように夏という国の桀という暴君は殷の国の王によって南巣という所に追われて滅びたし、その殷の紂という暴君も周の武王に追われて牧野という所で打たれて滅んだ。また、その臣下も臣下の道を誤ればたとえ威勢を奮っていてもそれは長続きしない。」(筆者口語訳)

周知のようにこの鎌倉幕府滅亡から南北朝へ展開する歴史は天皇制の問題と絡んでいわば微妙な時代である。天皇制が一時的とは言え分裂した時代だからである。後世この時代、特に後醍醐天皇をどう評価するか、南朝をどう見るか、ということが歴史的にも揺れてきた。それは幕末から明治初期、そして太平洋戦争期まで尾を引いてきた。ただ、『太平記』をここまで読んできて、そんな後世の後醍醐天皇や南朝に対する過剰な評価も過小な評価も見当たらなかった。むしろ比較的客観的に歴史を描いていいるように見えた。

今回はここまで。

2021.04.27

日本古典文学総復習続編5『金槐和歌集』

今回は『金槐和歌集』だ。

『金槐和歌集』とは

これは鎌倉時代の将軍源実朝の私家集である。自らの手で編集したものと言われている。金槐とは鎌倉の将軍という意味だという。武士の棟梁たる将軍の歌集が文学史上に名を残してること自体が異色だ。歴史的に江戸時代の終わりまで多くの武士の棟梁たる将軍と呼ばれた人たちがいた。その人たちも教養として和歌を詠んだであろう。しかし、誰一人として文学史上に歌集を残していない。この実朝だけが唯一の存在だ。まずはこのことがこの歌集を特色あるものにしている気がする。
しかもこの将軍は暗殺されている。鎌倉幕府を開いた父源頼朝は絶対的な力を持つ将軍であった。しかし、頼朝の死後将軍となったその子頼家は幽閉され惨殺されていた。その跡目を継いだその弟である実朝は独特な立場に置かれていたはずだ。単に将軍の歌集というばかりでなく、やがて暗殺されなければなかった将軍の歌集であるということもこの歌集の異色さを物語っている。

歌人としての実朝は

では純粋に歌人としてはどうだったのか。その和歌はどうだったのだろうか。一般的に中世和歌史上、この実朝の歌自体も異色だったと言われている。これは賀茂真淵の評価に始まり、近代の正岡子規、斎藤茂吉などのアララギ派の歌人たちによる実朝評価が大きいようだ。
記紀歌謡、万葉集にはじまり古今集に至って完成したといわれる和歌文学が、中世に入ってその本来の文学的な生命力を失って行ったなか、実朝の歌だけが万葉集にあるような生命力あふれる歌だと評価されている。
こうした経緯から実朝はその後も取り上げられることが多い。純粋な歌人と言うより、暗殺された将軍としての歌人という取り上げ方だ。先の太平洋戦争中は、太宰治と小林秀雄が取り上げている。また、戦後はそれを受けて吉本隆明が本格的にとりあげた。

『金槐和歌集』の構成

さて、こうした概略はともかく、この歌集と実朝の歌自体はどう言うものなのか。これからみていきたい。
『金槐和歌集』は春・夏・秋・冬および賀・恋・旅・雑の八部構成からなり、全663首の歌が納められている。(なお、この古典集成には「実朝歌拾遺」と言うことで94首プラスされている。)
八部構成の各部の歌数は以下のとおりである。
春116首・夏38首・秋120首・冬78首・賀18首・恋141首・旅24首・雑128首である。

実朝の歌作り

さて、実際の歌だが、この書を紐解いて頭注を見て目立つことは、ほとんどの歌に参考歌があると言うことだ。例えば歌の数が少ない夏の部の歌を見てみると38首中頭注に参考歌が引かれていないのがたった2首。しかもその2首とも前の歌とも関連があり、ある意味で前の歌の参考歌をつづいて見ていると言うことにもなり、ほとんどの歌に参考歌があると言うことになる。ただ、これは頭注者が考えたものであり、実際に実朝が影響されたかどうかは定かでは無いだろうが、(頭注とは別に巻末に「参考歌一覧」というのがあり、ここに影響関係を想定できる先行歌を挙げている。夏の部では9首が除かれている。)実は当時の歌作には「本歌取り」といういわば技法があり、これらが「本歌取り」に当たるかどうかはともかくにして、先行歌を踏まえて歌をつくることは決して不思議ではない。実際を見てみよう。

140 うたた寝の 夜の衣に かをるなり もの思ふ宿の 軒のたちばな

橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする (『新古今集』夏 藤原俊成の女)

この参考歌そのものも以下を参考歌にしているのは明らかだ。

さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする (『古今集』夏 読み人知らず)

他の部の例を見てみよう。春。

38 さりともと 思ひしほどに 梅の花 散り過ぐるまで 君が来まさぬ

さりともと思ひし人は音もせで萩の上葉に風ぞ吹くなる (『後拾遺集』秋上、三条小左近)

見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ (『万葉集』巻二十、中臣清麻呂)

なるほどこうやって作歌していたんだと思わせてくれる。実朝が歌を相当勉強していることが窺えるともいえる。実際に実朝は当時の和歌の宗匠と言える藤原定家に師事している。また、当時作歌は『古今集』を最も大切な手本としていたから、実朝の頭の中には『古今集』を中心とした歴代の歌集の歌があったと思われる。
ところでこうして作られた歌はどこに作った人間のオリジナリティがあるのだろうか。実際をみてみよう。

140番の歌は、『新古今集』夏・藤原俊成の女の歌から、「うたた寝」という言葉そのものと「たちばな」の香りをいただいている。藤原俊成の女の歌も
『古今集』夏・読み人知らずの歌から「花橘の香」をいただいているし、「昔の人の袖の香ぞする」もずばりそのままいただいている。ただ、内容は少しずつ変化している。『古今集』の歌は「5月になって、待っていたよう花咲く花橘の香をかぐと、その香りを身に纏っていた昔の恋人を思い出す。」と言う心情を直線的に歌っている。それに対し、藤原俊成の女の歌はそれを「うたた寝の夢」という観念のなかでのこととしている。さらに実朝はもう一度それを現実の「もの思ふ宿でのうたた寝」の自分の衣に香るとしているのだ。ここに実朝のオリジナリティがある。

しかし、38番の歌はどうだろう。二つの歌の前半と後半をほぼそのままつなぐことによってできているといえるから、今だったら「盗作」か、よく言って「剽窃」と言われかねない。しかし、よく考えてみると「盗作」「剽窃」と言った言葉自体、近代のものなのである。これは「著作権」なる近代的な概念に基づいて言われることなのだ。もっと言えば「オリジナリティ」なる概念も近代的なものなのである。実朝自身はそんなことなど考えていない。『後拾遺集』に使われていた「さりともと 思ひし」という歌い出しが気に入っていたのだ。これは現代語にすれば、「そうであったとしても」ということになるだろうが、もっといえば「いくらなんでも今日こそは」ということになる。『後拾遺集』秋上の三条小左近の歌には「資良朝臣、音し侍らざりければ、つかはしける」という詞書があり、これは女の来ない男への恨み節だ。『万葉集』巻二十、中臣清麻呂の歌は「恨めしく 君はもあるか やどの梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける」という歌の返しとなっている。これは男女の恨み節というのではなく、宴の主人と客との挨拶ということのようだ。梅が散り過ぎた後でも会えた喜びを逆説的に歌っている歌ということらしい。この歌をもういちど男女の歌に戻したのが実朝の歌ということになるようだ。無理に言えば、こうしたところに実朝の「オリジナリティ」があるということになるのかもしれない。

「本歌取り」とは

さて、こうした形の実朝の歌は当時の歌の技法であった「本歌取り」ということなのだろうか。実朝は時の和歌の大御所とも言うべき藤原定家に師事している。定家は和歌の作り手であると共に和歌についての理論家であったから、当時の歌の技法である「本歌取り」についても定家から学んでいるはずだ。
では、定家の言う「本歌取り」とはどう言うものなのか。定家は簡略化すると以下のようなことを言っている。
「本歌からはせいぜい二つくらいの句をいただいて、それを歌の上下に置くのがいい。そして内容も本歌が恋の歌だったら恋の歌では無い歌にするのがいい。」と。(実際はもっと詳しく『毎月抄』で展開している)
こうしたことから言うと先に引いた140の歌などは「本歌取り」と言えるだろう。しかし、38の歌などは明らかに定家のいう「本歌取り」からは逸脱している。そしてこうした逸脱こそが実朝の個性であり、実力であったと言えるのかもしれない。

実朝歌の真骨頂

では最後に実朝の実朝らしい個性ある実力を示した歌を引いておく。まずは若い実朝が「老い」について歌った歌

相州の土屋といふ所に、年九十にあまれる朽法師あり。おのづから来たる。昔語などせしついでに、身の立居に堪へずなむなりぬることを泣く泣く申し出でぬ。時に、老といふことを人々におほせて、つかうまつらせしついでによみ侍る歌
595 われ幾そ 見し世のことを 思ひいでつ 明くるほどなき 夜の寝覚に
596 思ひいでて 夜はすがらに 音をぞ泣く ありしむかしの 世々のふるごと
597 なかなかに 老いは呆れても 忘れなで などかむかしを いと偲ぶらむ
598 道遠し 腰はふたへに 屈まれり 杖にすがりてぞ ここまでも来る
599 さりともと 思ふものから 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しさ

もう一つは親を亡くした子に思いを寄せた歌

慈悲の心を
607 ものいはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ
道のほとりに、幼なき童の、母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、「父母なん身罷りにし」と答へ侍りしを聞きてよめる
608 いとほしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母を尋ぬる

そして有名な二所詣ででの旅の歌だ

636 旅を行きし あとの宿守 おのおのに 私あれや 今朝はいまだ来ぬ
638 たまくしげ 箱根のみうみ けけれあれや 二国かけて なかにたゆたふ
639 箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 浪のよる見ゆ
642 わたつうみの 中に向ひて いづる湯の 伊豆のお山と むべもいひけり

こうした歌を読むと、やはり実朝は当時の歌の専門家には無い自由な個性があったと言い得る。

2021.04.11

次回は『太平記』に挑む。

昔のモノクロ写真をカラー化する

今、昔の写真を整理していて、その主な仕事はデジタル化なんだけど、この際最近話題になっているAIを使ったカラー化をやってみたので報告。
まずは写真を見てもらいます。こんな小さな写真です。

元の白黒プリント
元の白黒プリント

次がスキャンしたオリジナル画像

スキャンした画像
スキャンした画像

次が一次加工のグレースケール

グレイスケール
グレイスケール

そしてカラー化した画像

自動でカラー化した画像
自動でカラー化した画像

 

写真プリントの裏書に「昭和三十四年五月八日撮影」とあります。
東京都豊島区長崎にあった貸本屋の店先での撮影です。
個人情報ですが、貸本屋さんは友達の家で、学校帰りによく寄って漫画本をただで読ませてもらっていました。学校道具を持っているのが小生のご幼少のみぎりです。隣がご学友で貸本屋さんの息子さんです。
なんでこの写真があるかというと、確かこのあと間もなくこの一家はこの貸本屋をたたんで、北海道へ転居してしまったんで、その記念にということで誰かが撮ってくれたようです。
カラー化するととてもリアルで、昔(62年前!)を思い出しますね。

さて、これをどうやるかの報告です。二つのやり方があります。
①パソコンとスキャナを使った方法と
(こちらはいろいろと細かなことができます。ただ、ちょっと道具がいるし面倒です。)
②Padやスマホを使った方法です。
(こちらは大雑把なやり方ですが、それなりにできます。)
まずは①を説明します。

1.まずは写真をスキャナで取り込みます。小生の場合はScanSnapを持っているのでそれで自動モードで取り込みました。(プリンタ等についているスキャナでももちろん大丈夫です。)

scansnap
scansnapに装填
scansnapの設定
scansnapの設定

(原稿が小さいと自動モードだとレシートに認識されてしまいますが、種別を後で変えれば大丈夫です)
このスキャナが便利なのはプリントそのものの大きさでスキャンされる点です。プリンタ等についているスキャナの場合は画像の大きさをトリミングする必要があるかもしれません、
スキャンしたら画像を保存します。

2.インターネットで以下のサイトにアクセスします。
https://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/

サイトを開いたところ

 

青い「画像を選択」をクリックします。

保存したファイルを開く
保存したファイルを開く

エクスプローラーが現れるので、保存した画像を選んで「開く」をクリックします。

カラー化が現れる
カラー化が現れる

画像が選ばれると右矢印がでて「カラー化」というボタンが現れます。ちなみに下にスクロールするとオリジナル画像(元画像)とグレースケール画像(プレビュー)が並んで表示されます。
カラー化をクリックします。(フレーバーは「使わない」のままで大丈夫です)

グレイスケール
グレイスケール
カラー化できた
カラー化できた

しばらくするとカラー化された画像が現れます。下に現れます。
画像の上で右クリックして画像を保存します

次に②Padやスマホを使った方法

基本的にパソコンを使った時と同じですが、写真の取り込みと、保存方法が違うだけです。

1. Padやスマホで写真を平らなところにおいてカメラ機能で撮影します。この時光線やゆがみに注意します。

2. 次にブラウザでインターネットにアクセスします。
https://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/
あとはパソコンと同様ですが、
「画像を選択」は写真フォルダになります。
またできたときに保存する場合は長押しで、写真フォルダを選びます。

この場合は写真プリントを撮影するのが一番難しいかもしれません。

なお、ここに紹介したサイトは「作者について」にあるようにこの技術を開発した開発者のサイトではありません。
そこにある開発者のリンク(早稲田大学関連)は現在たどることはできません。
同様なことは以下のサイトでもできます。
http://iizuka.cs.tsukuba.ac.jp/projects/colorization/web/
また、スマホではiPhoneやAndroid用のアプリがあるようです。ただし有料のものが多いようです。紹介したのはいずれもWEBサービスなのでインストールがいらなくて便利ですね。やってみてください。
以上

日本古典文学総復習続編4『大鏡』

今回は『大鏡』だ。

これまでこの作品は部分的には読んいた。実は浪人時代、とある予備校で古典の試験対策の教材によく使われていたためだ。それはかつてこの作品が東大等有名大学で出題されることが多かったためだと言われている。現在はどうか知らないが、高校の古典の教科書にも取られていたと思う。ただ、この作品はそれだけの印象で、興味を惹かれるものではなかった。

しかし、今こうして通読してみると結構興味深い作品であることがわかる。まずはその設定が面白い。これは知っている人も多いと思うが、現実離れした年齢の老人が昔語りをするということで歴史が語られれるという設定だ。190歳の大宅世次と言う人物と夏山重木と言う180歳ぐらいの人物がかつて宮中近くに働いていて見聞きしたことを語り合う。そこに聞き役の侍風の男も登場し、二人の妻も話の中で登場する。それを「筆者」が記録したと言うのだ。

また、この作品が歴史物語と言われているように平安期の歴史を様々なエピソードで語っている点だ。勿論正式な歴史書ではないが、それに変わりうる内容を持っている。(実は『日本書紀』以来の正式な史書はこの時代で途切れてしまっている。)しかもそれを「かな文」で記述している点にも注目される。当時「かな」は女手と言われ、男子が書くものではなかった。しかしこの作品は男性が書いたと思われ、一応の歴史書の体裁を持っている。(よくこの作品と比較される『栄花物語』は赤染衛門と言う女性の手になる。)

ではまずその全体の構成を見てみよう。
第一から第六までの六巻構成である。
第一が「帝王本紀」で天皇紀である。五十五代の文徳天皇から六十八代の後一条天皇まで14代の時代が語られている。
第二からは「大臣列伝」で藤原氏の大臣たちを中心に語られる。
第二が左大臣冬嗣から左大臣師尹まで11名の大臣
第三が右大臣師輔から太政大臣公季まで5名
第四が太政大臣兼家・内大臣道隆・右大臣道兼の3名
そして
第五・第六がこの物語の中心人物太政大臣藤原道長の物語である。

こうみると内容が平安期の藤原氏の歴代の栄華の物語のように見えるが、実は決してそうでもない。それぞれの時代の天皇なり、大臣を挙げて、その時代にあった事件や様々なエピソードを語るところに眼目がある。
例えば興味深いのは以下のようなエピソードだ。
花山天皇が藤原道兼に騙された話(第一)
大鏡という書名の由来(同)
菅原道真の物語(第二時平伝)
和泉式部のエピソード(第二師尹伝)(第四兼家伝)
三島大明神が藤原佐理の書を所望された話(第二実頼伝)
藤原公任大井河三船のほまれの話(第二頼忠伝)
小一条院、東宮退位の意向を漏らす話(第二師尹伝)
道長の話(これは色々)(第五・第六)
と言ったものだ。

その中でいわば政治的事件を語った部分と当時の才人たちの才芸の話が面白い。また、前回取り上げた和泉式部についても触れていて、いかに彼女が有名人であったかが窺えるのも興味深い。菅原道真の物語はこの後、人口に膾炙した話で今でも取り上げられることも多い話だ。これらのエピソードを勿論ひとりの人物が見聞きしたはずはない。ということはこの作品が描かれた時にはすでに世間で語られていた話だと思われる。つまり、この歴史物語は一つの説話集ということでもあるのだろう。しかし、一方で全くの作り話ということもない。それなりの歴史的事実に基づいているはずだ。しかも作者はそうした歴史的事実についてある程度批判的な注も加えている。このことがこの書を単なる平安藤原家讃歌に終わらせていない所以である。
例えば、と言うことで、こうしたことを花山天皇の部分で取り上げて見てみたい。

まずは歴史的事実だが、花山天皇は第65代天皇で冷泉天皇の第1皇子、母は太政大臣藤原伊尹の女懐子だという。在位は984年からのたったの二年に過ぎないが、饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した、という。しかし藤原道兼の偽計に陥り出家し、退位後は仏事や風流をこととし、和歌をよくした、という。また996年には誤解により藤原伊周の従者に射られたという事件にも遭遇している。(「日本大百科全書」森田悌氏による)

さて、『大鏡』の本文は以下だ。

「花山寺におはしましつきて、御髪下させたまひて後にぞ、粟田殿は、
『まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿今一度見え、斯くと案内申して、必ず参り侍らむ。』
と申したまひければ、
『我をば謀るなりけり。』
とてこそ、泣かせたまひけれ。あはれに悲しき事なりな。日ごろよく『御弟子にてさぶらはむ』と契りて、すかし申したまひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、『もしさる事やしたまふ』と危ふさに、さるべく大人しき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞ、うち出で参りける。寺などにては、『もし、押して、人などやなし奉る』とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ目守り申しける。」

ここでいう「粟田殿」とは藤原道兼、「東三条殿」とはその父藤原兼家のこと。要するにこの藤原親子が花山天皇を騙して退位出家させたお話。道兼が一緒に出家しようと持ちかけて、先に花山天皇を出家させ、自分は父に出家前の姿を今一度見せると言って逃げてしまう。しかも、万が一のことを考えて父の兼家が自分の息子を出家させないように警護の武士までつけていたと言う。まさにクーデター。要するに外戚にあたる当時皇太子であった一条天皇を早く天皇の座に据えんがための策略だった。これは花山天皇の施作(饗宴の禁制を布告・荘園整理令など)に対する不満も背景にあったかも知れない。花山天皇とて藤原氏の外戚であったが、早くに外祖父の藤原伊尹は亡くなってしまい、後ろ盾を失っていた。したがってこれは藤原氏内部の権力争いでもあったわけだ。それは菅原道真の失脚とは違っていた。そしてこの事件を「あはれに悲しき事なりな。」「契りて、すかし申したまひけむが恐ろしさよ。」とこの事件を語る人物(大宅世次)に語らせているところが注目される。別段ここで筆者は藤原氏の横暴を批判しているわけではないが、一定の距離を持って描いていることは事実だ。こうした姿勢は他でもみられる。

もう一つ、和泉式部のエピソードについて触れておきたい。

「(前略)また、今一所の女君は、冷泉院の四の親王、帥宮と申す御上にて、二三年ばかりおはせしほどに、宮、和泉式部におぼし移りにしかば、本意なくて、小一条殿に帰らせたまえにし後、このごろ聞けば、心得ぬ有様の、殊の外なるにてこそおはすなれ」(第二師尹)

「この春宮の御弟の宮たちは少し軽々にぞおはしましし。帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部の君と相乗らせたまて御覧ぜしさまも。いと興ありきやな。(中略)いかにぞ、物見よりは、それをこそ人見るめりしか」(第四兼家)

いずれも和泉式部と帥宮について語っている。上は和泉式部日記の結末にあったように、帥宮が屋敷に和泉式部を入れたが故に正妻の「今一所の女君」すなわち皇后の妹が実家にもどって零落してしまったという話。やや同情をもって語っている。
下は葵祭の際に帥宮が車に和泉式部を同乗させて見物している様子を描く。中略の部分はその派手な様子を描いているが、ここで語り手の世次の言を借りてそれを「いと興ありきやな」と言い。祭り見物の人々も祭りそっちのけでその帥宮と和泉式部の車の様子を見ていたと言っている。
こうした部分は読んでいて、とてもリアリティーがあるように感じられる。和泉式部という人物がいかに当時有名な人物であったかが読み取れるし、この親王との恋愛?が、いわば芸能人並みに取り沙汰されていたがわかる。

こう読んでくると、この『大鏡』という作品が平安時代の貴族社会の実相をよく捉えているのがわかる。それは当時を見聞きした人物が語るという設定にもよるのだろうが、この歴史物語のスタイルが後の歴史物語はもちろん説話集や軍記物語等にも影響していると言えるようだ。

今回はここまでにしておく。次回は『金塊和歌集』をとりあげる。

日本古典文学総復習続編3『和泉式部日記・和泉式部集』

 『和泉式部日記・和泉式部集』を読み返した。

和泉式部日記

 和泉式部は実に興味深い人物だ。平安朝の女性としては紫式部、清少納言とともに有名な人物だが、単に歴史上の有名歌人というだけではなく、いわば伝説的な人物なのだ。その奔放な男性遍歴が伝説的だし、近代になってからもそのファンが多いのも興味深い。
 しかもどういうわけだが、いくつかの地方にその出生の伝説が残っていたりする。何故こんなことが起きるのか、伝説についての泰斗柳田國男は「和泉式部の足袋」という文章の中でこう言っている。

「説話の人物の固有名詞の如きは、決してさう固有のものでは無かつた。単に昔昔或る歌の上手な上﨟があつてと、話して居たものの引き続きに過ぎなかつたのが、何か因縁があつて小野村なら小野小町、泉といふ部落なら和泉式部と、一旦具体化してしまふともう変えられなかつた。さうして我々のやうにそれを昔話だといふ者を憎んで見たり、若しくは伝説とは歴史のことだと、考へたりするやうにもなつたのである。」(柳田國男集第八巻所収、一部漢字を新字体に改めた)

 確かにその通りだろう。だが、和泉式部には伝説を生む何かが生前からあったと思われる。近代になってからの評価や人気もそのためだ。では一体どんな人物だったのだろうか。そんな興味を持って今回この『和泉式部日記・和泉式部集』を読み返した。

 まずは「和泉式部日記」だが、これは日記と言っていいのか?いささか疑問に思われる作品だ。
 内容は和泉式部と、亡くなったかつての恋人の弟との、一年足らずの交渉を歌のやりとりを中心に描いたものだ。
 四月に始まり、八ヶ月にわたる二人の交渉、冬十二月についにその弟の屋敷に入り、いわば正妻を追い出してしまうまでの物語である。
 基本的には和泉式部と思われる人物が一人称で語ると言う形は取っている。しかし、途中その本人がいないところでの描写が挟まれていたりする。特に後半の男の正妻の気持ちが語られる場面などは物語的である。ただ、日記であろうが物語であろうが、当時の上流社会の男女の恋愛模様を描いたものだとして読めばいいのかもしれない。
 しかしそれにしてもこの男女の恋愛模様は現代からすると実に奇妙なものだ。お弟が兄嫁に惚れると言う話は現代でもよくある話かもしれない。しかも兄は亡くなっているのだから何の問題もない。しかし、この間和泉式部は事実として結婚をしていたはずだ。ただ、当時の婚姻形態は女が実家に居て、男が通ってくるという形態なので、ほとんど正式な相手が通って来なくなれば自然と離婚が成立していたのかもしれない。(この辺りは「伊勢物語」にも「男が三年来ざりければ、、、、、新枕、、、」と言う話があるから、そのなのだろう。)しかし、この日記の内容からすると、どうも和泉式部のところには複数の男が通っている形跡があるのだ。はっきりとは書かれていないが、弟宮が和泉式部のところにやって来ても何か別の男の気配を感じて帰ってしまうと言う場面がある。この弟宮はこの日記の中で実に優柔不断な男として描かれている。親王だと言う身分的なこともあるかのしれないが、当時の男としてはどうなのかと言う気がしてくる。ただ式部にとっては歯痒い所はあるものも誠実な男性であったに違いない。
 一方和泉式部はどんな女性だったのだろうか?こう言う日記を読んでもあまりイメージできないのが正直な所だ。歌が多く引かれているが、その歌からもあまりイメージできない。ただ、常に男の気配がある女性であることに間違いはないようだ。ここらあたりから伝説が生じるのだろうが、当時のこうした女性は実に受け身であったことも念頭に入れておかなければならない。実家に居て、評判が立つと男たちがやって来る。すると、その男が強引であれば受け入れざるを得なかったのかもしれない。どうも和泉式部は当時からかなり貴紳たちの間で評判になっていた女性だった気配がある。この弟宮の態度にそのことが見え隠れするが、最後には自分の屋敷に和泉式部を招き入れたのはこうした事情があったのかもしれない。
 ただ、この日記と言うか物語はここで終わってしまう。

和泉式部集

 さて、今度は「和泉式部集」についても触れておかなければならない。
この「和泉式部集」和歌が150首しかない。和泉式部は多作の人として有名で、その10倍以上の歌を残していると言われている。したがって、アンソロジーというわけだ。元本は『宸翰本和泉式部歌集』だという。「宸翰」というのは、天皇直筆の文書を言う言葉、後醍醐天皇が写したと伝えられる本が残っていてそれを使ったようだ。もちろん編集したのが天皇ということはないだろう。いずれにしても後の世に何某が編集したアンソロジーということになる。
 内容は春が6首、夏が3首、秋が9首、冬が5首と少なく、あとは恋の部の歌という構成である。全部で150首あるが内5首は和泉式部以外の人の歌となっている。
 いくつか歌を抜書きする。

27 黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞこひしき
62 あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの 逢ふこともがな
81 おくと見し 露もありけり はかなくて きえにし人を なににたとへん
125 ものおもへば 沢のほたるも わが身より あくがれいづる たまかとぞ見る
132 あやめぐさ かりにも来らん ものゆゑに ねやのつまとや 人の見るらん

 一応歌の解説

27 有名な歌。「まづかきやりし 人」がポイント。初めて乱れた黒髪を手で櫛上げてくれた男ということでしょう。こういう歌があるから和泉式部は男好きのする女性ということになるんだろうね。

62 これも有名な歌。百人一首にあるから知っている人も多いはず。「こころあしきころ、人に」と詞書にある。「もう死ぬかもしれない。だから来て。お願い。」と言っている。

81 「はかなくて きえにし人を」は詞書によれば、男ではなく、娘の小式部内侍のこと。若くして亡くなってしまった。その後一緒に仕えていた上東門院から連絡があって答えた歌。娘は萩に露を置いた模様の着物を愛用していたという。

125 有名な歌だが、他の歌集にはないという歌。詞書に「男に忘られて侍りしころ、貴船に参りて」とある。「あくがれ」は魂(あく)が離れる(がる)をことをいう。貴船に参りてとあるからか、貴船明神からの返歌がついている。「あまり物思いをしなさんな」という意の返歌である。本人が創作したのだろうか。

132 なんかやたら技巧的な歌。これも詞書があって、忍んできた男が明るくなってから帰り、「それを見られたことがむしろ嬉しい」と言ってきたのに返した歌。
集成本の訳をそのまま引く。
「いくら五月の節句の日だからとて、二人の仲が知られたことを、そんな手放し喜ぶなんてどうかと思いますよ。私の処などどうせ仮寝の宿なのですから、「妻」だなんて他の人が思ってくれるものでしょうかねえ。」
女も内心喜んでいるみたいだけど。
「かり」が「刈り」「仮」、「ねやのつま」は「閨の妻」と「根」「端」がかかっている。五月にあやめを屋根の軒先(端)に葺く(ふく)習慣があった。しかも「根」は「あやめぐさ」の縁語。

最後に引いた歌などはわかりにくさはあるが、全体に和泉式部の歌は素直に読める歌が多いように思う。
解説によれば後の時代になってから、多く勅撰集に取られている。『後拾遺集』にはなんと六十七首に及んでいて、集中第一位である。『新古今集』にも二十五首、時代が下った『玉葉集』にも三十四首も取られている。いかに和泉式部が人気歌人だったかがわかる。近代になってからもファンは多い。
和歌について批評するのは任ではないのでここまでにしておく。

書籍の電子化についてまとめ

1PDF化してPCやPadで読む

これは簡単。書籍をバラバラにできるなら、ScanSnapを使えば簡単に短時間でできる。
できたファイルをDropBoxなどクラウドに置けば、Padで読める。
ただし、読書専用機(例えばKindle Paperwhite)で読むには不適だ。それにはPDFをテキスト化する必要がある。

2PDFをOCRでテキスト化する。

方法として以下の二つがある。

1ScanSnap同梱のツールを使いwordに書き出す。
2Googleドキュメントを使い、テキスト化する。

3その上で電子ブック形式(Kindle Paperwhiteなら.mobi)に変換する

ただしコンテンツと機器によって方法が異なる

文字種が比較的単純で、横書きの場合は

Mac PCを使うなら、Pagesにテキストを読み込ませて、epub形式に出力させる。
Win PCを使うなら、Wordにテキストを読み込ませて、そのまま保存する。
その上で、どちらもKindle Previewerを使って、.mobiにエクスポートする。

文字種が比較的単純で、縦書きの場合は

Mac PCを使うなら、Pagesにテキストを読み込ませて、epub形式に出力させて
epub内のcssを編集した上でもう一度epub形式に出力させる。(この方法はググってみてね)
Win PCを使うなら、フリーソフトを使い、縦書きのepub形式のブックに出力させる。
その上で、どちらもKindle Previewerを使って、.mobiにエクスポートする。

文字種が複雑で、縦書きの場合は

OCRの精度が問題となるので、かなりの校正をしなければならない。
しかもルビ等についても配慮しなければならない。
この場合はwordの校正機能を使ったり、エディタの置換機能を使ったりし、
最終的には「青空文庫」のテキスト形式を作成すると良い。(この件は「青空文庫」のサイトを参照)
その上で、AozoraEpub3というツールを使い、電子ブック化する。(この方法は別記事
以上