『日本古典文学総復習』73『天明俳諧集』

『天明俳諧集』を読む

 江戸の俳諧は芭蕉によってその頂点に達したと思われた。確かに芭蕉は俳諧を一つの芸術に高めたと言える。しかし一方で俳諧は点取り俳諧に見られるように江戸の多くの人によってその裾野が支えられていた。芭蕉以後、俳諧はいわゆる蕉風といわれる芭蕉を祖とする俳諧と其角らの点取り俳諧を基本にする江戸風の謂わば都市俳諧とに二分された。一方は地方において、他方は京大坂江戸といった都市において盛んに行われたようだ。それが天明期に至って蕪村という稀有な俳人が現れて様相が変わる。蕪村は芭蕉復興を唱えて登場するが、けっして蕉風の単なる追随者ではなかった。感覚的にまた資質的に都市的な要素を多分にもった才能であった。いわばここに地方系俳諧と都市系俳諧の芭蕉復活運動を通じた統合が行われたといっていいようだ。この『天明俳諧集』において、その蕪村を中心とした天明期の俳諧の様子を見ることとなる。芭蕉はもちろん好きだが、より蕪村に親近感を覚える。

「其雪影」

編者は高井几董。宝暦12年(1762)成立。上巻は連句集、下巻は発句集からなる。蕪村門下の実力を世に問うた。例は連句の蕪村の発句と几董の脇。

欠々て月もなく成夜寒哉  蕪村
 秋しづかさに謡一番   几董

「あけ鳥」

これも几董の編に成る。安永2年(1772)成立。蕉風復興を志向し、俳諧に新風を世に示そうとした蕪村の傾向が色濃い。例は九湖の発句と几董の脇。

山吹の縄ゆるされて盛かな 九湖
 掃ちぎりたる庭の春風  キ董

「続明鳥」

全篇の続編。3年後に成立。四百十六の発句と十二巻の連句を収める。都市系俳諧と地方系俳諧との接近混交によってなった蕪村の天明調をもっとも具体的に示す。例は一句。

うぐひすや障子に透る春の色 万容

「写経社集」

編者は道立。安永5年(1776)成立。道立の発起で洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵を再建。元の芭蕉庵は松尾芭蕉とは別人の庵であったというが、芭蕉を系愛した道立が誤解のまま再建したという。冒頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再建記」なる一文がある。例は道立の発句、松宗の脇、蕪村の第三を引く。

植かかるはじめはひくき田うたかな 道立
 夏もおくあるしほり戸の道    松宗
茶のにほひかしこき人やおはすらん 蕪村

「夜半楽」

編者は蕪村。安永6年の成立。俳詩として名高い蕪村の「春風馬堤曲」を収める。ここは蕪村の発句と月居の脇を引く。

歳旦をしたりかほなる俳諧師  蕪村
 脇は何者節の飯たい     月居

「花鳥篇」

編者は蕪村。天明3年(1782)成立か。蕪村独自の拝風を示した一書。挿絵もあり、花桜の艶やかさ引き立つ春興帳。ここは宗因の発句に蕪村がつけた脇に几董の第三までを引く。

ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞 宗因
 ましてやまぢかきゆふだちの雲  蕪村
江を襟の山ふところに舟よせて   几董

「五車反古」

編者は維駒。天明3年(1782)の刊行。几董の協力を得て編んだ父春泥舎召波の十三回忌追悼集。しかし、追悼集の色彩より召波が生前親交のあった俳人たちの句に妙味がある。ここは一句を引く。

船頭の鼾を逃るほたる哉  在江戸 燕史

「秋の日」

編者は暁台。芭蕉の「冬の日」の続編を意図した歌仙集。すなわち尾張続五歌仙の別名を持つ。芭蕉の「冬の日」も尾張五歌仙。いわば天明期の芭蕉復活の魁となったという。ここは白図の発句に暁台の脇を引く。

今幾日ありて又来んむら紅葉  白図
 月な荒しそ天ラ低き雲    暁台

「ゑぼし桶」

編者は蕪村と親しい美角という人物。暁台が京の美角邸に逗留し、芭蕉追善の俳諧を催した時の作を編集した物。ここにも芭蕉復興の気概のあった暁台が京の蕪村一派に加わろうとする姿勢が見える。ここは一句のみ。

納豆たたくこだまや四百八十寺 暁台

「俳諧月の夜」

編者は樗良。安永5年(1776)成立。蕪村とも交流があり、蕪村一門の句も多く惹かれているが、樗良自身は蕪村と一線を画していたようだ。ここは一句のみ。

雲晴て人の呼まで月見かな   蛙水

「仮日記」

江涯の編になる書。江涯は加賀の出身の行脚俳人。様々な地域で活動した俳人らしく、その俳諧活動をしるした句日記から春の句だけを収めた書。いろいろな地域の俳人の作を見ることができる。ただ、後半は近江八幡の人々の連句や発句を収める。ここは一句。

うかうかと華にくれ行命哉   闌山

「遠江の記」

五升庵蝶夢の作になる紀行文。浜名湖遊覧一日の記録だが、そこに風景把握に新しみがあり、多く句が挿入されている。ここは一句のみ。

舟ぞよき物くひながらやまざくら 方壺

2018.01.25
この項了

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