『日本古典文学総復習』32 『江談抄』『中外抄』『富家語』

『江談抄』を読む

ここでもまた漢文が登場する。
『江談抄』は、院政期の説話集とされている変体漢文の書だ。しかしこれは大江匡房という人物が語った話を記録した聞書集で、その内容も漢詩文・公事・音楽など多方面にわたっていて雑然としたものであったらしい。ただ後に多少の改編・加筆があり、説話集としての体裁が整えられたようだ。この大系本は後の本が採用されていて内容によって六部に分けられている。以下だ。
第一 「公の事」「摂関家の事」「仏神の事」 全四十九話
第二 「雑事」 全四十七話
第三 「雑事」 全七十七話
第四 副題なし 全百二十五話
第五 「詩の事」 全七十四話
第六 「長句の事」 全七十三話
こう書くと随分と大部の書のように見えるが、いずれの話も短く、原文はこの大系本で76ページしかない。
さて、談話の主、大江匡房は平安末期の漢学者である。当時の漢学者は貴族社会のおいて独特な位置を占めていたと思われる。漢文が国家にとってのいわば公用語であったため、それに通じている漢学者は国家にとって極めて重要な人物であったはずだ。しかし、その社会的地位すなわち貴族としての官位はそれほど高くはなかった。しかも、『源氏物語』にやや滑稽な人物として描かれている(源氏の子息夕霧のお受験シーンに出てくる)ように、浮世ばなれした学者といったイメージで見られていたようだ。それともう一つ、漢文に通じたものがやや反体制的な要素を持った人物のように見られていたように思われる点だ。古くは管原道真がそうであるが、この書に登場する小野篁などにそのイメージがある。(談話者の大江匡房はけっしてそうではなかったようだが。)
ここで小野篁が登場する談話を紹介しよう。
小野篁は遣唐使の福使に任じられたが大使と争い、職を辞して遣唐使を風刺したために左遷された人物だ。また、和漢の詩文に通じた人物としても知られ、白居易の詩文の最初の受容者の一人と言われる当代きっての漢学者である。しかも多くの伝説を持つ人物で、地獄の閻魔大王の補佐役でもあったとされるいわくつきの人物だ。この人物、この書で度々登場する。以下、第一の3、第三の38・39、第四の5・18・24に登場している。ここでは有名な第三の38・39を読んでみる事にする。
本文

(三八)野篁并高藤卿遇百鬼夜行事
 又云、野篁并高藤卿中納言中将之時、於朱雀門前遇百鬼夜行之時、高藤下自車。夜行鬼神等見高藤称尊勝陀羅尼云々。高藤不知、其衣中乳母籠尊勝陀羅尼之故云々。野篁其時奉為高藤致芳意令遇鬼神云々。

書き下し文

(三八)野篁ならびに高藤卿、百鬼夜行に遇ふ事
 また云はく、「野篁ならびに高藤卿、中納言中将の時、朱雀門の前において百鬼夜行に遇へる時、高藤車より下る。夜行の鬼神ら高藤を見て、「尊勝陀羅尼」と称へりと云々。高藤知らざるも、その衣の中に乳母の尊勝陀羅尼を籠めたる故なりと云々。野篁、その時、高藤の奉為に芳意を致し、鬼神に遇はしむ」と云々。

本文

(三九)野篁為閻魔庁第二冥官事
 其後経五六ヶ日、篁参結政剋限、於陽明門前為高藤卿被切車簾鞦等云々。干時篁左中弁也。即篁参高藤父冬嗣亭、令申子細之間、高藤俄以頓滅云々。篁即以高藤手引発。仍蘇生。高藤下庭拝篁云、不覚俄到閻魔庁。此弁被坐第二冥官云々。仍拝之也云々。

書き下し文

(三九)野篁は閻魔庁の第二の冥官為る事
 「その後五、六ヶ日を経て、篁、結政に参る剋限に、陽明門の前において、高藤卿のために車の簾・鞦などを切らるると云々。時に、篁は左中弁なり。すなはち篁、高藤の父の冬嗣の亭に参りて、子細を申さしむる間、高藤にはかにもつて頓滅すと云々。篁すなはち高藤の手をもつて引き発す。よりて蘇生す。高藤庭に下りて篁を拝して云はく、「覚えずしてにはかに閻魔庁に到る。この弁、第二の冥官に坐せらると云々。よりて拝するなり」と云々。

この二つは一続きの話だが、篁が百鬼夜行に遭遇した事、その時一緒だった高藤卿が数日後頓死したが、蘇ったという話。そして高藤卿が蘇ったのは閻魔庁で篁に救われた為だったという話だ。この話は後に多くの説話集に取られ有名になった。現在でも篁の人気は高い。ちなみにウェブサイトで検索してしてみれば多くのサイトにヒットする。
又、この話以外にも謎解き話の類が幾つかある。嵯峨天皇とのやりとりは有名だ。漢字の読み方の謎解きだ。
それにしても説話集は面白い。

『中外抄』『富家語』を読む

『中外抄』は、同様院政期の聞書集である。話の冒頭に日時と場所が克明に記されているので日記に分類されることもあるようだ。藤原忠実の言談の筆録である。全2巻の小冊子だ。保延3年(1137年)から久安4年(1148年)閏6月までの記事が上巻、同年7月から久寿元年(1154年)までの記事が下巻を成している。原文は漢文というより漢字片仮名平仮名の仮名交じり文で記される。
『富家語』も『中外抄』と同様、藤原忠実の言談の筆録である。ただ、記録者が異なっている。これも小冊子で時代が明記され、細かな話が記録されている。文体も『中外抄』と同様だ。しかし、『中外抄』と異なり、談話の時期は明記されていない。内容は概して保元の乱に連座して船岡山山麓の知足院に幽閉されていた忠実晩年の言談とされている。
いずれも説話集というより、有職故実・公事を中心とする題材の記録である。ただ、こうした記録が後世の説話集に材料を提供したため、説話に分類されることもあるようだ。
ここで注目していいのはその文体、というよりその表記についてだ。平安時代になって和文が和歌や女房日記を中心に発展してきた。一方漢文は貴族の男性が使う公式な文章であった。しかし、その漢文が日本語化つまり和文的になっていったプロセスを示しているように思われる。やがてこれが中世に至って和漢混淆文へと発展し、現代の文章へと展開していく。その姿をこの院政期の説話集に見る事が出来る。
次は説話文学の達成点『今昔物語集』全5巻が待っている。

この項了

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