日本古典文学総復習続編5『金槐和歌集』

今回は『金槐和歌集』だ。

『金槐和歌集』とは

これは鎌倉時代の将軍源実朝の私家集である。自らの手で編集したものと言われている。金槐とは鎌倉の将軍という意味だという。武士の棟梁たる将軍の歌集が文学史上に名を残してること自体が異色だ。歴史的に江戸時代の終わりまで多くの武士の棟梁たる将軍と呼ばれた人たちがいた。その人たちも教養として和歌を詠んだであろう。しかし、誰一人として文学史上に歌集を残していない。この実朝だけが唯一の存在だ。まずはこのことがこの歌集を特色あるものにしている気がする。
しかもこの将軍は暗殺されている。鎌倉幕府を開いた父源頼朝は絶対的な力を持つ将軍であった。しかし、頼朝の死後将軍となったその子頼家は幽閉され惨殺されていた。その跡目を継いだその弟である実朝は独特な立場に置かれていたはずだ。単に将軍の歌集というばかりでなく、やがて暗殺されなければなかった将軍の歌集であるということもこの歌集の異色さを物語っている。

歌人としての実朝は

では純粋に歌人としてはどうだったのか。その和歌はどうだったのだろうか。一般的に中世和歌史上、この実朝の歌自体も異色だったと言われている。これは賀茂真淵の評価に始まり、近代の正岡子規、斎藤茂吉などのアララギ派の歌人たちによる実朝評価が大きいようだ。
記紀歌謡、万葉集にはじまり古今集に至って完成したといわれる和歌文学が、中世に入ってその本来の文学的な生命力を失って行ったなか、実朝の歌だけが万葉集にあるような生命力あふれる歌だと評価されている。
こうした経緯から実朝はその後も取り上げられることが多い。純粋な歌人と言うより、暗殺された将軍としての歌人という取り上げ方だ。先の太平洋戦争中は、太宰治と小林秀雄が取り上げている。また、戦後はそれを受けて吉本隆明が本格的にとりあげた。

『金槐和歌集』の構成

さて、こうした概略はともかく、この歌集と実朝の歌自体はどう言うものなのか。これからみていきたい。
『金槐和歌集』は春・夏・秋・冬および賀・恋・旅・雑の八部構成からなり、全663首の歌が納められている。(なお、この古典集成には「実朝歌拾遺」と言うことで94首プラスされている。)
八部構成の各部の歌数は以下のとおりである。
春116首・夏38首・秋120首・冬78首・賀18首・恋141首・旅24首・雑128首である。

実朝の歌作り

さて、実際の歌だが、この書を紐解いて頭注を見て目立つことは、ほとんどの歌に参考歌があると言うことだ。例えば歌の数が少ない夏の部の歌を見てみると38首中頭注に参考歌が引かれていないのがたった2首。しかもその2首とも前の歌とも関連があり、ある意味で前の歌の参考歌をつづいて見ていると言うことにもなり、ほとんどの歌に参考歌があると言うことになる。ただ、これは頭注者が考えたものであり、実際に実朝が影響されたかどうかは定かでは無いだろうが、(頭注とは別に巻末に「参考歌一覧」というのがあり、ここに影響関係を想定できる先行歌を挙げている。夏の部では9首が除かれている。)実は当時の歌作には「本歌取り」といういわば技法があり、これらが「本歌取り」に当たるかどうかはともかくにして、先行歌を踏まえて歌をつくることは決して不思議ではない。実際を見てみよう。

140 うたた寝の 夜の衣に かをるなり もの思ふ宿の 軒のたちばな

橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする (『新古今集』夏 藤原俊成の女)

この参考歌そのものも以下を参考歌にしているのは明らかだ。

さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする (『古今集』夏 読み人知らず)

他の部の例を見てみよう。春。

38 さりともと 思ひしほどに 梅の花 散り過ぐるまで 君が来まさぬ

さりともと思ひし人は音もせで萩の上葉に風ぞ吹くなる (『後拾遺集』秋上、三条小左近)

見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ (『万葉集』巻二十、中臣清麻呂)

なるほどこうやって作歌していたんだと思わせてくれる。実朝が歌を相当勉強していることが窺えるともいえる。実際に実朝は当時の和歌の宗匠と言える藤原定家に師事している。また、当時作歌は『古今集』を最も大切な手本としていたから、実朝の頭の中には『古今集』を中心とした歴代の歌集の歌があったと思われる。
ところでこうして作られた歌はどこに作った人間のオリジナリティがあるのだろうか。実際をみてみよう。

140番の歌は、『新古今集』夏・藤原俊成の女の歌から、「うたた寝」という言葉そのものと「たちばな」の香りをいただいている。藤原俊成の女の歌も
『古今集』夏・読み人知らずの歌から「花橘の香」をいただいているし、「昔の人の袖の香ぞする」もずばりそのままいただいている。ただ、内容は少しずつ変化している。『古今集』の歌は「5月になって、待っていたよう花咲く花橘の香をかぐと、その香りを身に纏っていた昔の恋人を思い出す。」と言う心情を直線的に歌っている。それに対し、藤原俊成の女の歌はそれを「うたた寝の夢」という観念のなかでのこととしている。さらに実朝はもう一度それを現実の「もの思ふ宿でのうたた寝」の自分の衣に香るとしているのだ。ここに実朝のオリジナリティがある。

しかし、38番の歌はどうだろう。二つの歌の前半と後半をほぼそのままつなぐことによってできているといえるから、今だったら「盗作」か、よく言って「剽窃」と言われかねない。しかし、よく考えてみると「盗作」「剽窃」と言った言葉自体、近代のものなのである。これは「著作権」なる近代的な概念に基づいて言われることなのだ。もっと言えば「オリジナリティ」なる概念も近代的なものなのである。実朝自身はそんなことなど考えていない。『後拾遺集』に使われていた「さりともと 思ひし」という歌い出しが気に入っていたのだ。これは現代語にすれば、「そうであったとしても」ということになるだろうが、もっといえば「いくらなんでも今日こそは」ということになる。『後拾遺集』秋上の三条小左近の歌には「資良朝臣、音し侍らざりければ、つかはしける」という詞書があり、これは女の来ない男への恨み節だ。『万葉集』巻二十、中臣清麻呂の歌は「恨めしく 君はもあるか やどの梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける」という歌の返しとなっている。これは男女の恨み節というのではなく、宴の主人と客との挨拶ということのようだ。梅が散り過ぎた後でも会えた喜びを逆説的に歌っている歌ということらしい。この歌をもういちど男女の歌に戻したのが実朝の歌ということになるようだ。無理に言えば、こうしたところに実朝の「オリジナリティ」があるということになるのかもしれない。

「本歌取り」とは

さて、こうした形の実朝の歌は当時の歌の技法であった「本歌取り」ということなのだろうか。実朝は時の和歌の大御所とも言うべき藤原定家に師事している。定家は和歌の作り手であると共に和歌についての理論家であったから、当時の歌の技法である「本歌取り」についても定家から学んでいるはずだ。
では、定家の言う「本歌取り」とはどう言うものなのか。定家は簡略化すると以下のようなことを言っている。
「本歌からはせいぜい二つくらいの句をいただいて、それを歌の上下に置くのがいい。そして内容も本歌が恋の歌だったら恋の歌では無い歌にするのがいい。」と。(実際はもっと詳しく『毎月抄』で展開している)
こうしたことから言うと先に引いた140の歌などは「本歌取り」と言えるだろう。しかし、38の歌などは明らかに定家のいう「本歌取り」からは逸脱している。そしてこうした逸脱こそが実朝の個性であり、実力であったと言えるのかもしれない。

実朝歌の真骨頂

では最後に実朝の実朝らしい個性ある実力を示した歌を引いておく。まずは若い実朝が「老い」について歌った歌

相州の土屋といふ所に、年九十にあまれる朽法師あり。おのづから来たる。昔語などせしついでに、身の立居に堪へずなむなりぬることを泣く泣く申し出でぬ。時に、老といふことを人々におほせて、つかうまつらせしついでによみ侍る歌
595 われ幾そ 見し世のことを 思ひいでつ 明くるほどなき 夜の寝覚に
596 思ひいでて 夜はすがらに 音をぞ泣く ありしむかしの 世々のふるごと
597 なかなかに 老いは呆れても 忘れなで などかむかしを いと偲ぶらむ
598 道遠し 腰はふたへに 屈まれり 杖にすがりてぞ ここまでも来る
599 さりともと 思ふものから 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しさ

もう一つは親を亡くした子に思いを寄せた歌

慈悲の心を
607 ものいはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ
道のほとりに、幼なき童の、母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、「父母なん身罷りにし」と答へ侍りしを聞きてよめる
608 いとほしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母を尋ぬる

そして有名な二所詣ででの旅の歌だ

636 旅を行きし あとの宿守 おのおのに 私あれや 今朝はいまだ来ぬ
638 たまくしげ 箱根のみうみ けけれあれや 二国かけて なかにたゆたふ
639 箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 浪のよる見ゆ
642 わたつうみの 中に向ひて いづる湯の 伊豆のお山と むべもいひけり

こうした歌を読むと、やはり実朝は当時の歌の専門家には無い自由な個性があったと言い得る。

2021.04.11

次回は『太平記』に挑む。

昔のモノクロ写真をカラー化する

今、昔の写真を整理していて、その主な仕事はデジタル化なんだけど、この際最近話題になっているAIを使ったカラー化をやってみたので報告。
まずは写真を見てもらいます。こんな小さな写真です。

元の白黒プリント
元の白黒プリント

次がスキャンしたオリジナル画像

スキャンした画像
スキャンした画像

次が一次加工のグレースケール

グレイスケール
グレイスケール

そしてカラー化した画像

自動でカラー化した画像
自動でカラー化した画像

 

写真プリントの裏書に「昭和三十四年五月八日撮影」とあります。
東京都豊島区長崎にあった貸本屋の店先での撮影です。
個人情報ですが、貸本屋さんは友達の家で、学校帰りによく寄って漫画本をただで読ませてもらっていました。学校道具を持っているのが小生のご幼少のみぎりです。隣がご学友で貸本屋さんの息子さんです。
なんでこの写真があるかというと、確かこのあと間もなくこの一家はこの貸本屋をたたんで、北海道へ転居してしまったんで、その記念にということで誰かが撮ってくれたようです。
カラー化するととてもリアルで、昔(62年前!)を思い出しますね。

さて、これをどうやるかの報告です。二つのやり方があります。
①パソコンとスキャナを使った方法と
(こちらはいろいろと細かなことができます。ただ、ちょっと道具がいるし面倒です。)
②Padやスマホを使った方法です。
(こちらは大雑把なやり方ですが、それなりにできます。)
まずは①を説明します。

1.まずは写真をスキャナで取り込みます。小生の場合はScanSnapを持っているのでそれで自動モードで取り込みました。(プリンタ等についているスキャナでももちろん大丈夫です。)

scansnap
scansnapに装填
scansnapの設定
scansnapの設定

(原稿が小さいと自動モードだとレシートに認識されてしまいますが、種別を後で変えれば大丈夫です)
このスキャナが便利なのはプリントそのものの大きさでスキャンされる点です。プリンタ等についているスキャナの場合は画像の大きさをトリミングする必要があるかもしれません、
スキャンしたら画像を保存します。

2.インターネットで以下のサイトにアクセスします。
https://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/

サイトを開いたところ

 

青い「画像を選択」をクリックします。

保存したファイルを開く
保存したファイルを開く

エクスプローラーが現れるので、保存した画像を選んで「開く」をクリックします。

カラー化が現れる
カラー化が現れる

画像が選ばれると右矢印がでて「カラー化」というボタンが現れます。ちなみに下にスクロールするとオリジナル画像(元画像)とグレースケール画像(プレビュー)が並んで表示されます。
カラー化をクリックします。(フレーバーは「使わない」のままで大丈夫です)

グレイスケール
グレイスケール
カラー化できた
カラー化できた

しばらくするとカラー化された画像が現れます。下に現れます。
画像の上で右クリックして画像を保存します

次に②Padやスマホを使った方法

基本的にパソコンを使った時と同じですが、写真の取り込みと、保存方法が違うだけです。

1. Padやスマホで写真を平らなところにおいてカメラ機能で撮影します。この時光線やゆがみに注意します。

2. 次にブラウザでインターネットにアクセスします。
https://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/
あとはパソコンと同様ですが、
「画像を選択」は写真フォルダになります。
またできたときに保存する場合は長押しで、写真フォルダを選びます。

この場合は写真プリントを撮影するのが一番難しいかもしれません。

なお、ここに紹介したサイトは「作者について」にあるようにこの技術を開発した開発者のサイトではありません。
そこにある開発者のリンク(早稲田大学関連)は現在たどることはできません。
同様なことは以下のサイトでもできます。
http://iizuka.cs.tsukuba.ac.jp/projects/colorization/web/
また、スマホではiPhoneやAndroid用のアプリがあるようです。ただし有料のものが多いようです。紹介したのはいずれもWEBサービスなのでインストールがいらなくて便利ですね。やってみてください。
以上

日本古典文学総復習続編4『大鏡』

今回は『大鏡』だ。

これまでこの作品は部分的には読んいた。実は浪人時代、とある予備校で古典の試験対策の教材によく使われていたためだ。それはかつてこの作品が東大等有名大学で出題されることが多かったためだと言われている。現在はどうか知らないが、高校の古典の教科書にも取られていたと思う。ただ、この作品はそれだけの印象で、興味を惹かれるものではなかった。

しかし、今こうして通読してみると結構興味深い作品であることがわかる。まずはその設定が面白い。これは知っている人も多いと思うが、現実離れした年齢の老人が昔語りをするということで歴史が語られれるという設定だ。190歳の大宅世次と言う人物と夏山重木と言う180歳ぐらいの人物がかつて宮中近くに働いていて見聞きしたことを語り合う。そこに聞き役の侍風の男も登場し、二人の妻も話の中で登場する。それを「筆者」が記録したと言うのだ。

また、この作品が歴史物語と言われているように平安期の歴史を様々なエピソードで語っている点だ。勿論正式な歴史書ではないが、それに変わりうる内容を持っている。(実は『日本書紀』以来の正式な史書はこの時代で途切れてしまっている。)しかもそれを「かな文」で記述している点にも注目される。当時「かな」は女手と言われ、男子が書くものではなかった。しかしこの作品は男性が書いたと思われ、一応の歴史書の体裁を持っている。(よくこの作品と比較される『栄花物語』は赤染衛門と言う女性の手になる。)

ではまずその全体の構成を見てみよう。
第一から第六までの六巻構成である。
第一が「帝王本紀」で天皇紀である。五十五代の文徳天皇から六十八代の後一条天皇まで14代の時代が語られている。
第二からは「大臣列伝」で藤原氏の大臣たちを中心に語られる。
第二が左大臣冬嗣から左大臣師尹まで11名の大臣
第三が右大臣師輔から太政大臣公季まで5名
第四が太政大臣兼家・内大臣道隆・右大臣道兼の3名
そして
第五・第六がこの物語の中心人物太政大臣藤原道長の物語である。

こうみると内容が平安期の藤原氏の歴代の栄華の物語のように見えるが、実は決してそうでもない。それぞれの時代の天皇なり、大臣を挙げて、その時代にあった事件や様々なエピソードを語るところに眼目がある。
例えば興味深いのは以下のようなエピソードだ。
花山天皇が藤原道兼に騙された話(第一)
大鏡という書名の由来(同)
菅原道真の物語(第二時平伝)
和泉式部のエピソード(第二師尹伝)(第四兼家伝)
三島大明神が藤原佐理の書を所望された話(第二実頼伝)
藤原公任大井河三船のほまれの話(第二頼忠伝)
小一条院、東宮退位の意向を漏らす話(第二師尹伝)
道長の話(これは色々)(第五・第六)
と言ったものだ。

その中でいわば政治的事件を語った部分と当時の才人たちの才芸の話が面白い。また、前回取り上げた和泉式部についても触れていて、いかに彼女が有名人であったかが窺えるのも興味深い。菅原道真の物語はこの後、人口に膾炙した話で今でも取り上げられることも多い話だ。これらのエピソードを勿論ひとりの人物が見聞きしたはずはない。ということはこの作品が描かれた時にはすでに世間で語られていた話だと思われる。つまり、この歴史物語は一つの説話集ということでもあるのだろう。しかし、一方で全くの作り話ということもない。それなりの歴史的事実に基づいているはずだ。しかも作者はそうした歴史的事実についてある程度批判的な注も加えている。このことがこの書を単なる平安藤原家讃歌に終わらせていない所以である。
例えば、と言うことで、こうしたことを花山天皇の部分で取り上げて見てみたい。

まずは歴史的事実だが、花山天皇は第65代天皇で冷泉天皇の第1皇子、母は太政大臣藤原伊尹の女懐子だという。在位は984年からのたったの二年に過ぎないが、饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した、という。しかし藤原道兼の偽計に陥り出家し、退位後は仏事や風流をこととし、和歌をよくした、という。また996年には誤解により藤原伊周の従者に射られたという事件にも遭遇している。(「日本大百科全書」森田悌氏による)

さて、『大鏡』の本文は以下だ。

「花山寺におはしましつきて、御髪下させたまひて後にぞ、粟田殿は、
『まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿今一度見え、斯くと案内申して、必ず参り侍らむ。』
と申したまひければ、
『我をば謀るなりけり。』
とてこそ、泣かせたまひけれ。あはれに悲しき事なりな。日ごろよく『御弟子にてさぶらはむ』と契りて、すかし申したまひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、『もしさる事やしたまふ』と危ふさに、さるべく大人しき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞ、うち出で参りける。寺などにては、『もし、押して、人などやなし奉る』とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ目守り申しける。」

ここでいう「粟田殿」とは藤原道兼、「東三条殿」とはその父藤原兼家のこと。要するにこの藤原親子が花山天皇を騙して退位出家させたお話。道兼が一緒に出家しようと持ちかけて、先に花山天皇を出家させ、自分は父に出家前の姿を今一度見せると言って逃げてしまう。しかも、万が一のことを考えて父の兼家が自分の息子を出家させないように警護の武士までつけていたと言う。まさにクーデター。要するに外戚にあたる当時皇太子であった一条天皇を早く天皇の座に据えんがための策略だった。これは花山天皇の施作(饗宴の禁制を布告・荘園整理令など)に対する不満も背景にあったかも知れない。花山天皇とて藤原氏の外戚であったが、早くに外祖父の藤原伊尹は亡くなってしまい、後ろ盾を失っていた。したがってこれは藤原氏内部の権力争いでもあったわけだ。それは菅原道真の失脚とは違っていた。そしてこの事件を「あはれに悲しき事なりな。」「契りて、すかし申したまひけむが恐ろしさよ。」とこの事件を語る人物(大宅世次)に語らせているところが注目される。別段ここで筆者は藤原氏の横暴を批判しているわけではないが、一定の距離を持って描いていることは事実だ。こうした姿勢は他でもみられる。

もう一つ、和泉式部のエピソードについて触れておきたい。

「(前略)また、今一所の女君は、冷泉院の四の親王、帥宮と申す御上にて、二三年ばかりおはせしほどに、宮、和泉式部におぼし移りにしかば、本意なくて、小一条殿に帰らせたまえにし後、このごろ聞けば、心得ぬ有様の、殊の外なるにてこそおはすなれ」(第二師尹)

「この春宮の御弟の宮たちは少し軽々にぞおはしましし。帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部の君と相乗らせたまて御覧ぜしさまも。いと興ありきやな。(中略)いかにぞ、物見よりは、それをこそ人見るめりしか」(第四兼家)

いずれも和泉式部と帥宮について語っている。上は和泉式部日記の結末にあったように、帥宮が屋敷に和泉式部を入れたが故に正妻の「今一所の女君」すなわち皇后の妹が実家にもどって零落してしまったという話。やや同情をもって語っている。
下は葵祭の際に帥宮が車に和泉式部を同乗させて見物している様子を描く。中略の部分はその派手な様子を描いているが、ここで語り手の世次の言を借りてそれを「いと興ありきやな」と言い。祭り見物の人々も祭りそっちのけでその帥宮と和泉式部の車の様子を見ていたと言っている。
こうした部分は読んでいて、とてもリアリティーがあるように感じられる。和泉式部という人物がいかに当時有名な人物であったかが読み取れるし、この親王との恋愛?が、いわば芸能人並みに取り沙汰されていたがわかる。

こう読んでくると、この『大鏡』という作品が平安時代の貴族社会の実相をよく捉えているのがわかる。それは当時を見聞きした人物が語るという設定にもよるのだろうが、この歴史物語のスタイルが後の歴史物語はもちろん説話集や軍記物語等にも影響していると言えるようだ。

今回はここまでにしておく。次回は『金塊和歌集』をとりあげる。

日本古典文学総復習続編3『和泉式部日記・和泉式部集』

 『和泉式部日記・和泉式部集』を読み返した。

和泉式部日記

 和泉式部は実に興味深い人物だ。平安朝の女性としては紫式部、清少納言とともに有名な人物だが、単に歴史上の有名歌人というだけではなく、いわば伝説的な人物なのだ。その奔放な男性遍歴が伝説的だし、近代になってからもそのファンが多いのも興味深い。
 しかもどういうわけだが、いくつかの地方にその出生の伝説が残っていたりする。何故こんなことが起きるのか、伝説についての泰斗柳田國男は「和泉式部の足袋」という文章の中でこう言っている。

「説話の人物の固有名詞の如きは、決してさう固有のものでは無かつた。単に昔昔或る歌の上手な上﨟があつてと、話して居たものの引き続きに過ぎなかつたのが、何か因縁があつて小野村なら小野小町、泉といふ部落なら和泉式部と、一旦具体化してしまふともう変えられなかつた。さうして我々のやうにそれを昔話だといふ者を憎んで見たり、若しくは伝説とは歴史のことだと、考へたりするやうにもなつたのである。」(柳田國男集第八巻所収、一部漢字を新字体に改めた)

 確かにその通りだろう。だが、和泉式部には伝説を生む何かが生前からあったと思われる。近代になってからの評価や人気もそのためだ。では一体どんな人物だったのだろうか。そんな興味を持って今回この『和泉式部日記・和泉式部集』を読み返した。

 まずは「和泉式部日記」だが、これは日記と言っていいのか?いささか疑問に思われる作品だ。
 内容は和泉式部と、亡くなったかつての恋人の弟との、一年足らずの交渉を歌のやりとりを中心に描いたものだ。
 四月に始まり、八ヶ月にわたる二人の交渉、冬十二月についにその弟の屋敷に入り、いわば正妻を追い出してしまうまでの物語である。
 基本的には和泉式部と思われる人物が一人称で語ると言う形は取っている。しかし、途中その本人がいないところでの描写が挟まれていたりする。特に後半の男の正妻の気持ちが語られる場面などは物語的である。ただ、日記であろうが物語であろうが、当時の上流社会の男女の恋愛模様を描いたものだとして読めばいいのかもしれない。
 しかしそれにしてもこの男女の恋愛模様は現代からすると実に奇妙なものだ。お弟が兄嫁に惚れると言う話は現代でもよくある話かもしれない。しかも兄は亡くなっているのだから何の問題もない。しかし、この間和泉式部は事実として結婚をしていたはずだ。ただ、当時の婚姻形態は女が実家に居て、男が通ってくるという形態なので、ほとんど正式な相手が通って来なくなれば自然と離婚が成立していたのかもしれない。(この辺りは「伊勢物語」にも「男が三年来ざりければ、、、、、新枕、、、」と言う話があるから、そのなのだろう。)しかし、この日記の内容からすると、どうも和泉式部のところには複数の男が通っている形跡があるのだ。はっきりとは書かれていないが、弟宮が和泉式部のところにやって来ても何か別の男の気配を感じて帰ってしまうと言う場面がある。この弟宮はこの日記の中で実に優柔不断な男として描かれている。親王だと言う身分的なこともあるかのしれないが、当時の男としてはどうなのかと言う気がしてくる。ただ式部にとっては歯痒い所はあるものも誠実な男性であったに違いない。
 一方和泉式部はどんな女性だったのだろうか?こう言う日記を読んでもあまりイメージできないのが正直な所だ。歌が多く引かれているが、その歌からもあまりイメージできない。ただ、常に男の気配がある女性であることに間違いはないようだ。ここらあたりから伝説が生じるのだろうが、当時のこうした女性は実に受け身であったことも念頭に入れておかなければならない。実家に居て、評判が立つと男たちがやって来る。すると、その男が強引であれば受け入れざるを得なかったのかもしれない。どうも和泉式部は当時からかなり貴紳たちの間で評判になっていた女性だった気配がある。この弟宮の態度にそのことが見え隠れするが、最後には自分の屋敷に和泉式部を招き入れたのはこうした事情があったのかもしれない。
 ただ、この日記と言うか物語はここで終わってしまう。

和泉式部集

 さて、今度は「和泉式部集」についても触れておかなければならない。
この「和泉式部集」和歌が150首しかない。和泉式部は多作の人として有名で、その10倍以上の歌を残していると言われている。したがって、アンソロジーというわけだ。元本は『宸翰本和泉式部歌集』だという。「宸翰」というのは、天皇直筆の文書を言う言葉、後醍醐天皇が写したと伝えられる本が残っていてそれを使ったようだ。もちろん編集したのが天皇ということはないだろう。いずれにしても後の世に何某が編集したアンソロジーということになる。
 内容は春が6首、夏が3首、秋が9首、冬が5首と少なく、あとは恋の部の歌という構成である。全部で150首あるが内5首は和泉式部以外の人の歌となっている。
 いくつか歌を抜書きする。

27 黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞこひしき
62 あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの 逢ふこともがな
81 おくと見し 露もありけり はかなくて きえにし人を なににたとへん
125 ものおもへば 沢のほたるも わが身より あくがれいづる たまかとぞ見る
132 あやめぐさ かりにも来らん ものゆゑに ねやのつまとや 人の見るらん

 一応歌の解説

27 有名な歌。「まづかきやりし 人」がポイント。初めて乱れた黒髪を手で櫛上げてくれた男ということでしょう。こういう歌があるから和泉式部は男好きのする女性ということになるんだろうね。

62 これも有名な歌。百人一首にあるから知っている人も多いはず。「こころあしきころ、人に」と詞書にある。「もう死ぬかもしれない。だから来て。お願い。」と言っている。

81 「はかなくて きえにし人を」は詞書によれば、男ではなく、娘の小式部内侍のこと。若くして亡くなってしまった。その後一緒に仕えていた上東門院から連絡があって答えた歌。娘は萩に露を置いた模様の着物を愛用していたという。

125 有名な歌だが、他の歌集にはないという歌。詞書に「男に忘られて侍りしころ、貴船に参りて」とある。「あくがれ」は魂(あく)が離れる(がる)をことをいう。貴船に参りてとあるからか、貴船明神からの返歌がついている。「あまり物思いをしなさんな」という意の返歌である。本人が創作したのだろうか。

132 なんかやたら技巧的な歌。これも詞書があって、忍んできた男が明るくなってから帰り、「それを見られたことがむしろ嬉しい」と言ってきたのに返した歌。
集成本の訳をそのまま引く。
「いくら五月の節句の日だからとて、二人の仲が知られたことを、そんな手放し喜ぶなんてどうかと思いますよ。私の処などどうせ仮寝の宿なのですから、「妻」だなんて他の人が思ってくれるものでしょうかねえ。」
女も内心喜んでいるみたいだけど。
「かり」が「刈り」「仮」、「ねやのつま」は「閨の妻」と「根」「端」がかかっている。五月にあやめを屋根の軒先(端)に葺く(ふく)習慣があった。しかも「根」は「あやめぐさ」の縁語。

最後に引いた歌などはわかりにくさはあるが、全体に和泉式部の歌は素直に読める歌が多いように思う。
解説によれば後の時代になってから、多く勅撰集に取られている。『後拾遺集』にはなんと六十七首に及んでいて、集中第一位である。『新古今集』にも二十五首、時代が下った『玉葉集』にも三十四首も取られている。いかに和泉式部が人気歌人だったかがわかる。近代になってからもファンは多い。
和歌について批評するのは任ではないのでここまでにしておく。

書籍の電子化についてまとめ

1PDF化してPCやPadで読む

これは簡単。書籍をバラバラにできるなら、ScanSnapを使えば簡単に短時間でできる。
できたファイルをDropBoxなどクラウドに置けば、Padで読める。
ただし、読書専用機(例えばKindle Paperwhite)で読むには不適だ。それにはPDFをテキスト化する必要がある。

2PDFをOCRでテキスト化する。

方法として以下の二つがある。

1ScanSnap同梱のツールを使いwordに書き出す。
2Googleドキュメントを使い、テキスト化する。

3その上で電子ブック形式(Kindle Paperwhiteなら.mobi)に変換する

ただしコンテンツと機器によって方法が異なる

文字種が比較的単純で、横書きの場合は

Mac PCを使うなら、Pagesにテキストを読み込ませて、epub形式に出力させる。
Win PCを使うなら、Wordにテキストを読み込ませて、そのまま保存する。
その上で、どちらもKindle Previewerを使って、.mobiにエクスポートする。

文字種が比較的単純で、縦書きの場合は

Mac PCを使うなら、Pagesにテキストを読み込ませて、epub形式に出力させて
epub内のcssを編集した上でもう一度epub形式に出力させる。(この方法はググってみてね)
Win PCを使うなら、フリーソフトを使い、縦書きのepub形式のブックに出力させる。
その上で、どちらもKindle Previewerを使って、.mobiにエクスポートする。

文字種が複雑で、縦書きの場合は

OCRの精度が問題となるので、かなりの校正をしなければならない。
しかもルビ等についても配慮しなければならない。
この場合はwordの校正機能を使ったり、エディタの置換機能を使ったりし、
最終的には「青空文庫」のテキスト形式を作成すると良い。(この件は「青空文庫」のサイトを参照)
その上で、AozoraEpub3というツールを使い、電子ブック化する。(この方法は別記事
以上

MACでAozoraEpub3.jarが動かなかった件

AozoraEpub3

前の記事で青空文庫のコンテンツをKindle形式に変換するツールのAozoraEpub3.jarが動かないと言う報告をした。AozoraEpub3.jarをダブルクリックしてもエラーがでてしまう。
これについてJavaが存在せず、またインストールできないと言うところに原因を求めてしまった。確かにWIN10の方はJavaが存在していなかったし、上手くインストールできていなかった。(しかし後日インストールできた)このMacも初期化をしたし、OSのバージョンアップもしたのでそれが原因と考えていていた。しかしそれは間違っていた。Javaは存在していたがpathが通っていなかったのだ。

ターミナルで
$ /Library/Internet\ Plug-Ins/JavaAppletPlugin.plugin/Contents/Home/bin/java -version
とコマンドすると
java version “1.8.0_281”
Java(TM) SE Runtime Environment (build 1.8.0_281-b09)
Java HotSpot(TM) 64-Bit Server VM (build 25.281-b09, mixed mode)
と返ってきて確かに存在していた。

そこでコマンドラインでAozoraEpub3.jarがあるところに行った上で
$ /Library/Internet\ Plug-Ins/JavaAppletPlugin.plugin/Contents/Home/bin/java -jar AozoraEpub3.jar
とすると、動きました。

AozoraEpub3
AozoraEpub3が動いた

あとは起動しやすいようにJavaのpathを通しておけば良い。それには環境変数の設定が必要。
しかし、これはインストールというか、展開したところがダウンロードフォルダだったからいけないので、アプリケーションフォルダに移せばなんのことはないパスは通っていた。

なおwin10でもjavaがインストールできれば動く。以下からダウンロードでき、インストールできる。こちらはすぐにパスが通るので、そのままjarファイルをダブルクリックすれば起動できる。

https://www.oracle.com/java/technologies/javase-downloads.html

参考までに。

追記

このままだとKindle形式に出力できない。以前書いた記事にもあるように、kindlegenというツールをAozoraEpub3.jarがあるところに入れなくてならない。ところがこのツールが現在ネット上のどこにもない。これはAmazonがリリースしていたのだが、現在はKIndlePreviewerというツールに統一されているため、ここから取り出さなくてはならない。取り出し方はMacの場合やや厄介だ。KIndlePreviewerをインストールしたら、そのアプリフォルダのKIndlePreviewer上で右クリックして、「パッケージ内容を表示」を選択して、Contents上で検索窓にkindleと打つ。そうするとkindlegenが現れるので、これをコピーして、AozoraEpub3.jarがあるところにペーストする。

 

 

 

ScanSnapをもう一度やってみた。今度はOCRを中心に。

ScanSnapを実行

ScanSnapをUSB接続した上でScanSnapHomeを起動
Scanをクリックして、スキャン画面を出し、左下の二つの丸ボタンから
カラーモードを「白黒」に、画質を「ファイン」に設定

ScanSnapHomeを起動
ScanSnapHomeを起動

原稿(16ページ8枚)を下向き、若いページが下にくる形でセットして、
(下からスキャンされるので)
本体の四角い青くなったScanボタンを押す。

Scanボタンを押す
Scanボタンを押す

30秒ぐらいでスキャン終了し、保存画面が現れる。「ファイン」でも「白黒」だと速いようだ。

保存画面が現れる
保存画面が現れる

(この場合保存場所をデスクトップ等に変えておくとよい。)

OCRを実行1

保存をしたら、今回はまずScanSnapHomeに付属するアプリでOCRを実行してみる。
付属のABYYFineReaderというツールだ。
ScanSnapHomeから保存された文書の上で右クリックし、
「アプリケーション連携」から「Word文書に変換」を選択

アプリケーション連携
アプリケーション連携

変換中の画面が現れて(もしくはタクスバーに)

変換中の画面
変換中の画面

変換が終了すると同じファイル名.docxで保存される。
品質は以下の画像だ

ファイル名.docxで保存
ファイル名.docxで保存

思ったよりうまく認識できている。
レイアウトも同時に認識している。

OCRを実行2

今度はGoogleで変換してみる。
Google Chromeを起動して、右上のGoogleアプリボタンから「ドライブ」を選択
「マイドライブ」で右クリック、「ファイルをアップロード」を選択

ファイルをアップロード
ファイルをアップロード

保存されたPDFファイルを指定する。
(保存場所を変更していない場合は C:\Users\(今ログインしているユーザー名)\AppData\Roaming\PFU\ScanSnap Home\ScanSnap Home にある。(しかもデフォルトでは隠しフォルダになっている可能性があるので注意))
次にアップロードされたファイルの上で右クリック、「アプリで開く」から「Googleドキュメント」を選択

「Googleドキュメント」を選択
「Googleドキュメント」を選択

しばらくして現れた画面で上の「ファイル」から「ダウンロード」から「書式なしテキスト(.txt)」を選択

「書式なしテキスト(.txt)」を選択
「書式なしテキスト(.txt)」を選択

それをエディタで表示する

エディタで表示
エディタで表示

ここで校正してもいいのだが、これを今度はWordに貼り付ける
エディタですべて選択し、コピーし、Wordを起動して新規文書を作成し、貼り付ける。

Wordに貼り付け
Wordに貼り付け

文書の校正

この文書の変換上の特徴を把握する。
①奇数ページ上段余白にある横書きタイトル名も認識している。
②半角スペースがところどころに入る。
③改ページのところで改行が入る。
まずここを置換機能を使って校正しておく。エディタ上でやるといい。
そのうえでwordの校正機能を使う。
ここはあまりこだわらずに自分の文章感覚で校正すればいい。
というのはwordの校正機能は絶対ではないからだ。
ここまで来たら縦書きにしてみよう。

wordの校正機能
wordの校正機能

Kindleにアップ

ではこのワードのファイルをKindleにアップしてみる。
添付ファイルで自分のアマゾンKindleのアドレスに送る。
ただ、このままだと縦書きにしたはずのファイルがKindle専用機で横表示になっている。
しかし、文字の拡大等はできるようになっていて、PDFそのままより圧倒的に見やすくはなっている。

Kindle専用機で横表示
Kindle専用機で横表示

しかし、縦書き表示にしたいのでwordファイルではなく、電子ブック形式にしてみる。これについてはかつて記事に書いたことがある。
(リンク)
しかし、これは青空文庫の話なので、別の方法を模索した。
まずは縦書きのワードのファイルを電子ブック形式にする。
今回はWIN上でフリーソフトを使い、取りあえすepub形式のファイルに変換した。
(実はMacであればPagesを使えばepub形式に出力できるが、これも縦書きにするにはかなり手間がかかる。これについては別途書く予定がある。)
それをアマゾン本家のKindle Previewerを使ってKindle形式にさらに変換する。
Kindle PreviewerをDLして、導入し、そこにePubファイルを読み込ませた上で、mobi形式でエクスポートする。
それをアマゾンにメールでアップする。
こうすればKindle専用機で縦書きで表示される。

Kindle専用機で縦書き
Kindle専用機で縦書き

今日はここまで。

久しぶりにScanSnapを使う

WIN10上でのScanSnap

デスクトップを遅ればせながらWIN10に変えたので、ScanSnapを使えるようにした。
ScanSnapはエントリーモデルのS1300i。ScanSnapのアプリを変更。その当初も一応使えるようにしたのだが、ScanSnapManagerをScanSnapHomeに変える。富士通のサイトから導入できる。ただし、古いManagerはアンインストールする必要がある。使ってみると、こちらの方が使い勝手がいい。
一枚のペーパーならなんの問題もないことは確認済み。

古い新書、文庫本を自炊

文庫本と新書本
対象の文庫本と新書本
背をカットしたところ
表紙を剥がし、背をカットしたところ

実際にスキャンをやってみることに。
新書は224ページ112枚、文庫は168ページ84枚。
新書は遠山啓の『数学入門』1970年版、ちなみに初版は1959年に発行。大学入学後に購入した。国文学専攻なのに数学?実は高校時代の低学年までは得意科目は数学でした。この本にもっと前に出会っていれば、数学を専攻していたかも。でも物にはならなかったけど。勿論国文学も物にはなっていませんが。それはともかくこの本は名著です。しかももう一度読み返したいし、孫にも与えたい本だ。しかし、新書本と言うこともあり、かなり老朽化していた。新書は簡易製本なので、もはやバラバラになる状態。まさに電子化するに適した材料ということ。もう一つは横書きで図や数式等が入っているというのも選んだ理由。
もう一つの文庫は伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』1986年版、初版は1981年。これはさほど古くもなく、本自体も老朽化していないが、文字が詰まっていて、振り仮名も多く、字も小さいので、こういう文庫を電子化し、電子ブックで読めたらいいということで選んだ。老朽化していないが、思いっきりカッターで背の部分5ミリぐらいのところで切断した。

スキャンの実際

自動モードで新書をスキャン。実に早い。両面スキャンなので100枚以上あるけど、20枚づつセットして(ちなみに10枚が限度と言われているが紙が薄いので大丈夫)、1分12枚両面24ページいけるということだが、実際には15分ぐらいで(紙の入れ替えを含め)、全ページスキャンできた。しかも、自動でPDFになっているので便利だ。
文庫の方は自動だと遅いモードになってしまった。これは文庫のページをScanSnapが詳細と判断したか、紙が黄色味を帯びているということもあるのか、ファインモードになったようだ。あまりに遅いと感じたので、モードを自動ではなく、普通に変えると早くなった。ほぼ全ページ10分程度でPDF化できた。

スキャン中
実際にスキャンしているところ

KindleでPDFを読む

目的はここにあるので早速やってみることにする。まずはKindle-paperwhiteで読めるようにしたい。それには二つの方法がある。一つはKindle-paperwhiteをusbでPCに繋ぎ、直接本体にPDFファイルを転送する方法。もう一つは自分のアマゾンのKindle用アドレスにメールの添付ファイルで送る方法だ。後者の方法はいわゆるアマゾンのクラウドに置けるので、いろいろな端末から見ることができるのでいいのだが、ファイルが大きいと添付ファイルで送れないという難点がある。しかも、高速でスキャンしたPDFはKindle-paperwhiteで読むのは現実的ではない。やはりしっかりしたテキストでないと読みづらい。
そこで、こうしたPDFはパッドで読むのがいい。iPadminiのKindleアプリで表示したのが、この画像だ。(画像の上でクリックすると拡大表示します。)

新書本のPDF
新書本のPDF
文庫本のPDF
文庫本のPDF

OCRについて

さて、PDFをテキスト化することについて触れておく。PDF化は簡単にできるが、これをテキスト化できれば、いろいろな形に変換できて、Kindle-paperwhiteでも文字を大きくしたり、色々できて、いうことがないのだが、これがそう簡単にはいかない。色々試してみたが結論から言うと、PDFのテキスト化はgoogleドライブのドキュメントに限ると言うことだ。そのためにはPDFの品質に問題があるのだが、今回の場合、スピードスキャンしたものは上手くいかなかった。上の画像にあるようなPDFは認識すらしてくれない。しかし、文庫で最初にファインモードでスキャンしたPDFはかなりの精度でテキスト化してくれた。その方法を以下に記しておく。

  1. googledriveにアクセスし、マイドライブで右クリック、ファイル(用意したPDF)をアップロードする。
  2. そのファイルを右クリック、「アプリで開く」から「ドキュメント」を選択する。
  3. 上メニューの「ファイル」から「ダウンロード」を選び、「書式なしテキスト(.txt)」を選ぶ。

以上でダウンロードフォルダに同じ名前のテキストファイルが入る。

これはテキストばかりかワードファイルやPDF、電子ブックファイルなどに変えてくれる。しかし、一旦テキストに落としてエラーや誤変換がないか確認が必要だ。
長くなったが、以上です。
2021.01.30

日本古典文学総復習続編2『古事記』その2

今回は古事記の中身について触れなければならない。
古事記は古代日本の歴史について、天皇家の立場で書かれたものだが、後の正式な歴史書、例えば『日本書紀』と違って、歴史的に公式に評価されなかった歴史書である点が注目される。また、決して大部なものではなく、原文のままだと小冊子と言っていいほどのものである点も注目される。この古典集成本でも本文はたかだか280ページにも満たないものだ。これが上中下3巻に分たれている。ただその物語性ゆえに現代においても愛読される書だ。内容をざっと見ておこう。
上巻は序から始まって、創世の神々の話から、イザナギ・イザナミの国産みや人間の生死の起源の話、天照大神と須佐之男命の話、大国主命の話を経て、天孫降臨へと続く。
中巻は、神武天皇から応神天皇までの15代。
下巻は、仁徳天皇から推古天皇までで終わっている。

この中で古事記が最も面白いのはやはり上巻である。古事記について語られるのもこの部分が多いと思う。なぜならこの部分は日本の天皇制が確立するまでの過程を物語るものだからだ。ここにある様々な神話を読み解くと、如何にして天皇制が確立していったかが窺えるからだ。例えば、先に引いたスサノオの命の話にしても、出雲と大和朝廷との関係を窺わせるし、その他の様々なエピソードにしても、各地にあった伝承を如何に取り込んでいったが窺える。こうした点から古事記について語られる時上巻が多く取り上げられる。

しかし、中巻以降にも様々なエピソードが散りばめられている。中巻以降の各天皇の記述も、皇統譜と言って各天皇の来歴や事跡が羅列されている部分以外にはさまざまな話があって、後の世にも興味を引いた物語はある。
中巻では神武天皇の東征の物語、景行天皇の倭健命の物語は特に有名だ。他にも垂仁天皇の沙本ひめの反逆の話、仲哀天皇の神功皇后の話、などがある。
下巻では仁徳天皇の女鳥王と速総別王の反逆の話、允恭天皇の軽太子の話、雄略天皇の一言主神の話などだ。
こう観てくると、古事記は天皇家の歴史を軸に、当時まで伝えられたさまざまな伝承・説話をそこに絡めて形作られていることがわかる。これは、古事記にある伝承・説話は元々は独立して存在していたものであったとも言える。

もう一つ内容的に注目されるのは、古事記には多くの歌謡と言われる「和歌」が挿入されているということだ。いわゆる記紀歌謡と言われるものだ。これは万葉集に先行する日本古代の「和歌」である。しかもこれらの「和歌(歌謡)」はほとんどが、伝承・説話の中で引用されている点も注目される。この記紀歌謡は古事記に限っても百首以上ある。それが約三十の挿話の中で紹介されている。そのほんの一例を紹介しておく。

下巻、仁徳天皇の部分の女鳥王と速総別王(はやぶさわけのおほきみ)の話に以下の歌謡が登場する。

女鳥の わが王(おおきみ)の 織ろす服(はた)
誰(た)が料(たね)ろかも

高行くや 速総別の 御襲料(みおすいがね)

雲雀(ひばり)は 天(あめ)に翔(かけ)る
高行くや 速総別 鷦鷯(さざき)取らさね

はしたての 倉椅山(くらはしやま)を
嶮(さが)しみと 岩懸(か)きかねて わが手取らすも

はしたての 倉椅山は
嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず

()内は古典集成本のふりがな

この一連の歌謡は仁徳天皇とその弟速総別王との女鳥王をめぐる確執と謀反、そしてその滅亡の話の中で引用されている。仁徳天皇が女鳥王を嫁にしたいと弟の速総別王を女鳥王のところに遣わす。ところが女鳥王は仁徳天皇の申し出を断って、こともあろうか使者の速総別王と結ばれてしまう。それに怒った仁徳天皇はこの二人を責め立て倉椅山に追い詰めて滅ぼしてしまうというお話だ。この話は田辺聖子さんの小説で苞に有名となり、宝塚でも上演されたという。

では歌謡の内容を見ておこう。
初めの二首は天皇と女鳥王とのやりとりだ。「あなたが織っている布は誰の服を作るためですか」と天皇が問う。それに対して「これは素敵な速総別王の服のためです」と女鳥王が答えている。実に堂々と。
そして、三首目はその女鳥王が速総別王に歌った歌。「素晴らしいあなた、あのちっぽけな天皇なんてやっつけて終いなさいよ」と過激なことを言っている。(鷦鷯は仁徳天皇の別名であり、小さな鳥の「ミソサザイ」のことでもある)
そして後の二首は天皇の軍によって倉椅山に追い詰められた二人、その心境を歌う速総別王の歌。「私の手にしっかり掴まってなさい。そうすれば大丈夫。このあとは辛いことしかないだろうけど、お前と一緒ならなんともないよ。」と言ったところだろう。
しかし結末は、この倉椅山を乗り越えて宇陀の「そに」というところに至った時に派遣された将軍に二人とも殺されてしまうということとなる。こうしたお話である。

ここで私が注目したいのは、この歌謡がこの話のために作られたのではないのではないかということだ。もっと言えばこの話も古事記のために創作されたのではないのではないかということだ。もともと仁徳天皇と弟の確執と権力争いはあっただろう。そして弟が廃されてしまうということもあったろう。これを古事記は別の伝承とこれまた別に伝承された歌謡を巧みに繋いで、一編の物語に仕立て上げたと思えるのだ。特に歌謡はそれぞれ独立して鑑賞できる。このことは古事記の別の部分でも言えることで、これを証明するのはそんなに難しい事ではないと思う。日本書紀にもこの話は出ているが、かなりテーストは違っている。女鳥王は影を潜め、速総別王が完全に悪者化して語られている。また、歌謡も一部変更されている。この点も証左となるだろう。
この歌謡と伝承とのセットは後の文学にも大きな影響を与えていると思う。平安期の歌物語がその典型である。これはまた取り上げる機会があるだろう。この辺で古事記については擱筆する。

2021 01.19

日本古典文学総復習続編1『古事記』その1

古事記を新潮社の古典集成本で再読した。
この新潮社の古典集成本の特徴はその傍注にある。傍注といってもほとんど口語訳である。そういう意味では分かりやすいが、字が小さいのが難点だ。
もう一つこの古典集成本の古事記には巻末に神の名の釈義が載っている。これは興味深い研究といえる。古事記を読むとさまざまな神が登場し、名前のみの場合も多い。そこで名前にどんな意味があるのだろうかと興味を惹かれるからだ。実に三百以上の神の名について分析している。
ここで神の名もそうだが、その表記法について触れなければならない。この本でも、読みやすさを考えて、漢字かな交じり文で表記されている。
しかし、これは後の時代のものだ。この本には載っていないが、かつて読んだ岩波の古典体系本、朝日古典全書本には、もとの表記も載っている。
一例を紹介する。

故、取此大刀、思異物而、白上於天照大御神也。是者草那芸之大刀也。故是以其速須佐之男命、宮可造作之地、求出雲国。爾到須賀地而詔之、吾来此地、我御心須賀須賀斯而、其地作宮坐。故、其地者於今云須賀也。茲大神、初作須賀宮之時、自其地雲立騰。爾作御歌。其歌曰、夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁

この部分の古典集成本の書き下し文は以下である。

かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀ぞ。
かれ ここをもちて、その速須佐之男の命、宮造作るべき地を出雲の国に求ぎたまひき。しかして、須賀の地に到りまして詔らししく、
「あれここに来て、あが御心すがすがし」
とのらして、そこに宮を作りて坐しき。かれ 、そこは今に須賀といふ。この大神、初めて須賀の宮を作らしし時に、そこより雲立ち騰りき。しかして、御歌を作みたまひき。その歌に曰ひしく、
八雲立つ 出雲八重垣
妻篭みに 八重垣作る その八重垣を

実はこの書き下し文は書籍によってかなり異なることも知っていなければならない。なお、上記の表記も岩波の古典体系本、朝日古典全書本では訓点が施されている。ということは基本的に本文は漢文だということだ。ただし、日本語独特な語彙は字音を使って表記されている。「歌」がいい例である。この日本最古の歌とされる「八雲立つ」の歌もそうである。日本書紀も同様なのだが、この字音表記の仕方が古事記の場合むしろ統一感があって、この辺りがこの古事記が実は後の時代にかかれたものではという偽書説の根拠になったりしている。また、万葉仮名と呼ばれる表記とも違っている。この問題は実に興味深いのだが、ここはこの辺りにとどめておきたい。むしろ内容が問題だからだ。この部分の口語訳も紹介しておく。実は古事記は研究者ならともかく、一般の読者は口語訳で読めばいいと思う。いろいろな口語訳が出ているが、ここは子供向けの古典叢書(講談社少年少女古典文学館)の、枕草子の名訳で名高い橋本治氏の訳を紹介しておく。

 スサノオの命が須賀の宮をつくり終えられたとき、豊かな大地の実りを約束するような、美しい雲が立ちのぼりました。「出雲」という土地の名にふさわしい、りっぱで美しい雲の群れでした。
その美しい雲の姿に感動され、そしてりっぱなお住まいをつくり終えられたことに満足されたスサノオの命は、そのお心を三十一文字の和歌にしてお詠みになりました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣つくる その八重垣を

「妻籠み」とは、たいせつな妻をかくしておくという意味です。スサノオの命のお詠みになったこの歌は、わが国で最初の和歌とされているのです。

部分的に省略し、説明を加えてわかりやすくしている。
もし、もっと本文に忠実に行った口語訳が読みたければ、武田祐吉氏の口語訳がいい。青空文庫で公開されているし、電子ブックで読める。是非読んでもらいたい。
今回はここまでにしておく。内容については次の記事で。

2021.01.12