『日本古典文学総復習』42『宇治拾遺物語』『古本説話集』

『宇治拾遺物語』を読む

これもまた説話集である。この説話集は『今昔物語集』と共に人口に膾炙したものだ。近代作家の芥川龍之介がこの説話集の幾つかの話から作品を書いたことも一般に知られた要因だ。例えば、一八の「利仁、暑預粥事」、二五の「鼻長き僧の事」や三八の「絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶ事」などだ。
さて、この『宇治拾遺物語』は『今昔物語集』とは違って集められている説話はそれほど多くはない。上下あわせて二百に満たない。もっとも『今昔物語集』があまりに網羅的なので、そう見えるかもしれない。また、この『宇治拾遺物語』は先行する多くの説話集と重複する説話が多い。『今昔物語集』はもちろん先に見た『古事談』等からも多くの説話をとっている。
しかし、この『宇治拾遺物語』はそうした先行する説話集の単なる焼き直しに止まってはいない。ある統一的な編集方針といった物がうかがえるし、同じ説話でもより文学的な脚色が含まれている。また、編集者の優しい眼差しといったものもうかがえる話もある。ここではそれを紹介しておこう。

(一二 児ノカイ餅スルニ空寝シタル事 巻一ノ一二)
是も今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざかひもちいせん」といひけるを、この児、心よせに聞きけり。さりとて、しいださんを待ちて、寝ざらんも、わろかりなんと思ひて、かたかたよりて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでに、し出したるさまにて、ひしめき合ひたり。
この児、定めておどろかさんずらんと待ちゐたるに、僧の「物申さぶらはん。おどろかせ給へ」といふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへんも、待ちけるかともぞ思ふとて、今一声よばれていらへんと、念じて寝たる程に、「や、なおこしたてまつりそ。幼き人は寝入給ひにけり」といふ声のしければ、あなわびしと思ひて、今一度、おこせかしと思寝に聞けば、「ひしひし」とただくひにくふ音のしければ、すべなくて、無期の後に、「えい」といらへたりければ、僧達、笑ふ事、かぎりなし。

これは教科書にもとられていて知っている人も少なからずいるかと思う。いかにも少年らしい感情が語られている。多分この「児」は高貴な出なのかもしれない。そんな少年をあったかく見守る「僧達」もいい。微笑ましい説話だ。

 (一三 田舎児、桜ノ散ヲ見泣事 巻一ノ一三)
これも今は昔、ゐ中の児の、比叡の山へのぼりたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、此児、さめざめと泣きけるを見て、僧の、やわらよりて、「など、かうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなき物にて、かく程なくうつろひ候なり。されども、さのみぞさぶらふ」となぐさめければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。我父の作りたる麦の花散りて、実のいらざらん、思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、「よよ」と泣きければ、うたてしやな。

これも児の話。これは情緒ではなく実利を考える孝行な少年の話。「僧」と「児」の「ちぐはぐさ」がまたなんとも微笑ましい。最後の「うたてしやな」という語が単に「情けないことだ」と言っているのではなく、その「ちぐはぐさ」をおかしがっているように読めて、いい。
こうした話を取っている『宇治拾遺物語』は説話集の中でも一つの完成形に近い物を持っている気がする。一種の短編物語集の趣を持っていいる。

『古本説話集』を読む

これも説話集だが、昭和に入ってから発見されたという。前に見た『宇治拾遺物語』と成立を同じくしていた物だと言われている。この説話集も話がかなり編集され完成されている話が多いように思う。ここで取り上げる「僧」と「吉祥天女」の話もこれまで見てきた説話集に散見できた物だが、ここではしっかり一つの物語のように作られている。長いが本文を電子化したので読んでもらいたい。

 (六二 和泉国国分寺住持艶寄吉祥天女事)
今は昔、和泉の国国分寺に、鐘撞き法師ありけり。鐘撞き歩きけるに、吉祥天のおはしましけるを見たてまつるだに、思ひかけたてまりて、掻き抱きたてまつり、引き抓みたてまつり、口吸ふ真似などして、月ごろ経る程に、夢に見るやう、鐘撞きに上りたるに、例の事なれば、吉祥天をまさぐりたてまつるに、うちはたらきての給やう、「わ法師の、月来我を思ひかけてかくする、いとあはれ也。我、汝が妻にならむ。その月のその日、播磨の印南野にかならず来会え。そこにてぞ会はむずる」と見て、覚めて、嬉しきこと限りなし。物仰せられつる御顔の、現のやうに面影に立ちて見えさせ給へば、「いつしか、その月日になれかし」とおぼゆ。
明け暮るるもしづ心なき程に、からうじて待ちつけて、まづかしこにきををきて、印南野に、その日になりて、いつしかいつしかとし歩くに、えもいはぬ女房の、色々の衣着て、裾取り出で来たり。見つけて、「これか」と思へど、わななかれて、ふえ寄り付かず。女房、「いとあはれに来会ひたり」とて、「今は、まづ入るべき家一つ造れ」。「あはれ、いかにしてか造り候ふべき」と申せば、「ことにもあらず。とく始めよ」とある程に、男の、ある一人出で来て、「かく野中には、いかなる人のおはしますぞ」と言へば、「この辺に住まむと思ひて来たるに、家もなし。便りもなければ、いかがせまし」と言へば、「さては事にも候はず。己が候へば、何事に候ふと仕らん」と言へば、「まづおはしまし所造り候はん」とて、「人召して参らむ」とて往ぬ。その辺の宗とある物の、党多かるなりけり。告げまはしたりければ、集りて、桁一つをのをの持て続きて来たり。何も彼も降り湧くやうに出で来れば、このかく物する者とても、かつは、をのが物ども取り持て来。又物取らせなどして、程なく家めでたく造り、えもいはすしつらひて、据ゑたてまつりつ。近く参り寄りて臥したる心地、置き所なし。仰せらるる様、「我、今は汝か妻になりにたり。我を思はば、異妻なせそ。ただ我一人のみをせよ」と仰せらるる。これは、ただあらん女の、少し思はしからんが言はんだに、従はざるべきにあらず。まして、これは言ふ限りなし。「いかにも、ただ仰せに従ひてこそ候はめ」と申せば、「いとよく言ひたり」とて、あはれとおぼしたり。
かくて、田を作れば、この一反は異人の十町に向はりぬ。よろづに乏しき物つゆなし。その郡の人、叶はぬなし。隣の郡の人も、聞きつつ、物乞ふに従ひつ取らす。又持て居る馬、牛多かり。かくしつつ、一国に満ちにたれば、国の守も、やむごとなき物にして、言ひと言ふ事の聞かぬなし。
かく楽しくて年来ある程に、事の沙汰しに上の郡に行きて、日来ある程に、追従する物、「あはうの郡の、なにがしと申す者の女のいとよきをこそ召して、御足など打たせさせ給はめ」と言ひければ、「好き心湧きたりとも、犯さばこそはあらめ」と思ひて、「よかんなり」と言ひければ、心うく装束かせて、出で来にけり。近く呼び寄せて、足もたせなどしける程に、いかがありにけむ、親しくなりにけり。思ふとならねど、日来有りける程置きたりけり。
事の沙汰果てて帰りたりけるに、御気色いと悪しげにて、「いかで、さばかり契りしことをば破るぞ」とて、むつからせ給ひて、「今は我帰りなむ。ここにえあらじ」と仰せられければ、ことわり申し、なを慕ひ申けれど、「これ、年来の物なり」とて、大きなりける桶に、白き物を二桶かき出だして賜びて、いづちともなくて失せ給ひにければ、悔い泣きしけれども甲斐なし。この桶なりける物は、この法師の年来の淫欲といふ物を、溜め置かせ給へりけるなりけり。さて後は、いとどをのやうにもこそなけれど、いと貧しからぬ物にて、いとよくて、聖にて止みにけると、人の語りし也。

身分の低い僧が吉祥天女像に懸想して自慰行為をするという話の発端はこれまでの説話にも多く語られている。グラビヤや、まして動画などなかった時代、美しくふくよかな吉祥天女像は僧とはいえ若い男の性欲を刺激したに違いない。ただ、その吉祥天女像が反応する。吉祥天女は男の気持ちを汲み、「いとあはれ也。我、汝が妻にならむ」と言ってくれる。そして霊験あらたかにこの男の妻となっただけでなく、この男を出世させる。ただ、この天女多くの妻と同様嫉妬深かった。他の女を近づけるなと約束させる。しかし、男はある人の紹介で女と関係してしまう。よくある話だ。それを天女は知る。当然超能力者だからだ。その結末。なんと天女は「これ、年来の物なり」といって、「この法師の年来の淫欲といふ物」すなわち精液を、二桶置いて出て行ってしまう。いやはやなんとも言い難い結末だ。ただ、この僧そんなには不幸にはならなかったとしてこの話は終わっている。
そこに教訓めいた文言はない。よくまとまった話である。ここに説話が一つの短編物語に仕立てられる様を見る事ができる。
こうした説話集は読んでいて面白い物だ。『源氏物語』などは王朝の宮廷で語られ聞かれ読まれた。そしてこうした説話は中世以降やや広がった知識層に好まれ読まれ語られ聞かれたに違いない。それが江戸時代にもっと一般化する小説的な物へと発展する、そう思える。

この項了

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