日本古典文学総復習続編15『御伽草子集』

はじめに

いよいよ書かなくてはいけなくなった。
ずいぶんとサボったものだ。前回が確か2月だったからもう3ヶ月を要してしまった。
何も取り組んでいないなかったわけではない。実際に読んではいたし、周辺も調査しメモをとっていた。しかし書くとなると勢いが必要なのだ。
さまざまなことが重なり積読状態がつづいてしまった。
言い訳はこのぐらいにしよう。

御伽草子について

さて、今回は「御伽草子集」だ。
この「御伽草子」は実に書籍によって採られている作品が異なる。
一般に「御伽草子」というと「浦島太郎」や「猿蟹合戦」「一寸法師」などを思い浮かべるのではないだろうか。
しかしこの新潮社の古典集成の「御伽草子集」に納められているのは以下の話である。

浄瑠璃十二段草紙・天稚彦草子・俵藤太物語・岩屋・明石物語・諏訪の本地 甲賀三郎物語・小男の草子・小敦盛絵巻・弥兵衛鼠絵巻

ちなみに岩波書店旧古典文学大系の「御伽草子」には以下の作品が収められている。

文正さうし・鉢かづき・小町草紙・御曹子島渡・唐糸さうし・木幡狐・七草草紙・猿源氏草紙・物くさ太郎・さゞれいし・蛤の草紙・小敦盛・二十四孝・梵天国・のせ猿さうし・猫のさうし・浜出草紙・和泉式部・一寸法師・さいき・浦嶋太郎・横笛草紙・酒呑童子・福冨長者物語・あきみち・熊野の御本地のさうし・三人法師・秋夜長物語

すなわち「御伽草子」と言っても極めて多数の多岐にわたる物語を指しているということになり、編集者によってどれを採るは異なるということだ。

では古来「御伽草子」というまとまった書籍はなかったのだろうか。調べてみると江戸時代に「御伽文庫」なる書籍があったようだ。これは絵入りの冊子で23編が39冊に収められているようだ。実際を見てみよう。

これは、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブで公開公開されている物だ。
『一すんほうし』の部分である。

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さて、岩波の「御伽草子」はこの江戸時代の「御伽文庫」の内容とほぼ重なる。これが今までの一般的な「御伽草子集」ということだろう。しかし、ここで取り上げる新潮社古典集成はこれに異を唱えている。この書の凡例に

御伽草子を室町時代の物語の汎称として用いるのであれば、その二十三篇(「御伽文庫」のということ 筆者注)は、テキストとしても、内容の面からも、御伽草子を代表させるに必ずしも適切とは言えない。

としている。
となると実は以前、岩波の新古典文学大系で『室町物語集』上下を取り上げているので、この書と重なることになる。確かにその中で「岩屋の草子」「小男の草子」「俵藤太物語」は取り上げた記憶がある。『日本古典文学総復習』54 55『室町物語集上・下』

はたして「御伽草子」を「室町時代の物語の汎称」と言っていいかは甚だ疑問だ。むしろ柳田國男がいうようにその源流が「昔語り」にあり、またそれを「御伽衆(おとぎず)」とよばれる人々が全国に広め、後の世で文字化されていった物という理解の方がいいのではないかと思われる。「室町時代の物語の汎称」という括りではそこに入らない物語もあると思われるのだが。

さて、前置きはこれぐらいにして、それぞれの作品?について触れていきたい。なお以前総復習の岩波書店の新古典文学体系の『室町物語集上下』で触れたものはここでは省略する。

収録物語

「浄瑠璃十二段草紙」

義経ものと言っていい話。義経が奥州への下向の途中に出会って、契りを結んだ長者の娘があった。その娘は才色兼備で浄瑠璃御前と呼ばれていた。義経はその娘と別れを告げ、再び奥州へ向かうが、その途次、病に倒れ死してしまう。それを八幡大菩薩のお告げで知った浄瑠璃御前が駆けつけ、神々に祈り蘇生させる、というお話。蘇生話はいろいろあるが、その典型か。絵本・絵巻物としても流布し、操り芝居にもなり、その際12段に編成されたという。

「天稚彦草子」

短いお話。七夕の由来ともいうべき話。長者の娘に大蛇が求婚し、父母を救うために三人娘の末娘だけが承諾する。この大蛇、娘に自分の頭を斬るように頼み、娘がそうするとなんと立派な若者となり、天稚彦と名乗り、二人は幸せに暮らす。ある時天に登った夫の留守中、末娘の幸福を妬んだ姉二人によって禁戒が破られたために夫は天から戻れなくなる。そこで娘は自ら天に登るが、夫の父の鬼にいろいろ試される。結果二人は許されるが、七夕・彦星として、年に一度あうことになった、というお話。古い絵巻が元になった話という。

「俵藤太物語」

以前触れているので略

「岩屋」

以前触れているので略

「明石物語」

俵藤太物語と同様、武家物の一つ。播磨国の豪族、明石の三郎とその北の方の別れと再会の物語。時の関白の息子がこの北の方に横恋慕したのがきっかけ。明石は騙されて奥州に流されてしまう。それを追って奥州に向かった北の方は途次、小夜の中山で男子を出産、絶命寸前に。しかし、山神に助けられ手厚く保護される。一方明石の三郎も脱走に成功し、愛でたく二人は再会をはたす。そして都に上り無実の罪をはらし、その後末長く栄えたというお話。ハッピーエンドです。
愛する男女が外部の迫害によって苦難を受けるが、やがて克服して幸せに暮らすという典型的なお話でした。

「諏訪の本地 甲賀三郎物語」

「本地物」と呼ばれる神の縁起を語った物の一つ。ここは諏訪神社の上社と下社の縁起を語っている。甲賀三郎と春日姫の二人の本地は普賢菩薩と千手観音という。本地垂迹思想の現れ。つまり日本の神々は仏が姿を変えて現れた物だとする考え方。そしてこの物語も愛する男女が外部の迫害で苦難を受けるというパターンだ。主人公の甲賀三郎は愛する春日姫を魔物に奪われる。一旦は姫を取り戻すが、兄の奸計で地底に残される。しかしそこで認められ日本に帰ることができ、二人は再開する。そして神明の法を授かり、神として諏訪神社の上社と下社に現れたというお話。

「小男の草子」

以前触れているので略

「小敦盛絵巻」

『平家物語』の悲劇の主人公のひとり平敦盛の遺児の話。一ノ谷の合戦で平家の公達敦盛を心ならずも討った熊谷直実という人物、その後出家して法然上人の門に入っていた。一方敦盛の北の方は出産した敦盛の遺児を源氏の追手から逃すために下松に捨てる。法然上人がそれを拾い育て、やがて母子が再開を果たす。賀茂の明神によって亡霊ながら父敦盛との対面も果たすことになる。そして母子共々出家し、この遺児は西山の善慧上人と言われる人物となる。いわば『平家物語』の後日談として創作された絵巻である。

「弥兵衛鼠絵巻」

異類物と呼ばれる鼠を主人公とする話。東寺の塔に住んでいた弥兵衛という鼠が、北の方が妊娠して雁の羽交の身を欲しがるので雁に飛びついたところ,そのまま東の奥の常盤の里まで連れて行かれてしまう。しかし弥兵衛は放浪の末、里の長者左衛門という人物に大黒天の使者として大事にされる。やがて都に上る左衛門の荷駄に乗せてもらい、京都に帰って妻子と再会を果たす。その礼に弥兵衛は金銀と共に娘の鼠を左衛門に贈る。子鼠を迎えた左衛門は大黒天の加護で益々栄え三国一の大福長者となった、というお話。鼠となっているものの完全に人間のように描かれているから不思議だ。これも苦難に会うが最後はめでたしめでたしで終わる夫婦の話である。

今回は以上
次回は『竹馬狂吟集・新撰犬筑波集』です。早めに取り組まないとね。

2023.05.25

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MacPCでKindle書籍の保存

MacPCでKindle書籍(unlimited,primereading)の保存

はじめに

最近読書はもっぱら電子書籍だ。そのなかでもKindleを使って読むことがほとんどだ。
Amazonで購入した書籍は(0円であっても)サーバー上に保存されるので、無期限に読むことができる。
しかし、unlimited,prime readingの書籍は期限があって、長く使うことはできない。
自分はアマゾンのプレミアム会員を長い間続けていて、prime readingも無料なので、よく使っている。
しかし、プログラムの勉強のための書籍など、長い間読むことになったり、メモを書き込んで読みたいということがある。
そこで保存したいということになる。

そこで、Kindle書籍(unlimited,primereading)の保存の方法をここで記録することにする。(もちろん個人使用が前提だ)
保存にはスクショを使う。(スクショとはスクリーンショットすなわち画面録画のことだ)
スクショはスマホやパッドでもできるが、数ページを行うには骨が折れる。そこでパソコンを使って自動スクショを行うことにする。
パソコンで自動スクショのスクリプトを書いて実行するわけだ。それ(画像)をトリミングした上でPDF化して別のアプリで読むというわけだ。
 

準備

必要な物 MacPC

  • スクリプトエディター (標準で入っている)
  • Kindele for Mac (無料アプリ)
  • Xn Convert (無料アプリ)
  • Kindle書籍(unlimited,primereading)
  • スクリプトコード (公開されている物。プログラム大学による)

アプリの設定等

  1. Kindele for Mac (アプリ)をAmazonに登録
    • アプリを実行すれば、登録画面になる。アマゾンのアカウントを記述する。パスの記述と第二認証がある。
  2. 保存フォルダの作成
    • ピクチャー(~/Pictures)の中に作成する。
    • Macのフォルダを探すのは結構面倒臭いので検索を使うといい。
    • 名前はなんでも良いが、書籍名にするといい。
  3. 保存すべきKindle書籍のページ数、開き方向の調査(画像1)


    Kindle書籍をKindele for Macで全画面で表示し、ページ数、開き方を確認する。

  4. スクリプトコードの保存(画像2)

                       

    • スクリプトエディタ(Launchpadの「その他」に入っている)を起動し、以下のコードをコピペする。
    •                  

    • スクリプトエディタセキュリティ設定を解除する。
    •                

スクリプトの設定

  • ページ数を設定する。書籍の表示で調べたページ数の8割増しにする。(表示によってページ数がかわるため)
    テストで使った書籍は106ページだったが180ページ設定にした。
    set pages to 180
  • フォルダの指定をする。ここはkindletest1とした。
    set savepath to “~/Pictures/kindletest1/”
  • めくり方向(1=左 2=右)を指定する。
    set pagedir to 2
  • スクリプトを名前をつけて保存する。

実行

  1. Kindele for Mac で書籍を表示する。全画面表示にする。
  2. スクリプトエディタを起動し、スクリプトを実行する。(しばらくかかる)
  3. 保存フォルダを開き、一枚目をプレビューしてみる。(画像3)

    そこで余白部分(上下左右の余分な部分)のピクセル数を調査する
  4. XnConvertを起動し、画像を作成する。(画像41)

    • 下部にある「フォルダーの追加」をタップし、スクショしたフォルダーを開く
    • 上部にある「動作」をタップし、左上の「動作の追加」から「画像」「トリミング」を選択する。(画像42)
    • 調査した上下左右の余分な部分のピクセル数を記入する。(画像43)
    • 右下の「変換」ボタンをタップし、
    • 新たな画面で「New Folder」をタップ、トリミングした画像を保存するフォルダを作り、
    • 「open」ボタンをタップし実行する。
  5. できた画像ファイルの最後を確認する。(ページ数が曖昧なため)
  6. その上で、できた画像ファイルを全て選択(command+A)し、ダブルタップしてプルダウンメニューから
    「クイックアクション」「PDFの作成」をタップ(画像5)
  7. できたPDFファイルをクラウド等を利用して、pad等にコピーし、書き込みのできる「ブック」や「GoodNote」などで開く。
  8. ここまでできたら、画像ファイルやトリミング後の画像ファイルは削除してかまわない

以上

日本古典文学総復習続編14『連歌集』

連歌初折の表

今回は連歌集。

はじめに

さて、俳句といえば知らぬ者はいないはず。昨今もテレビ等でも取り上げられ、またまたブームのようだ。
しかし、その祖父に当たる連歌は全くと言っていいほど陽があたらない。一般だけでなく、文学史においてもだ。
小生はそれを嘆いているのだが、ここで連歌集が回ってきたのは実に幸いである。ここでは色々語りたいことがある。
先ほど連歌は俳句の祖父だといった。これは俳句が芭蕉の子だというとわかりやすいかもしれない。俳句という語はもともと俳諧連歌の発句から出た語なのである。そして芭蕉こそ、その俳諧連歌の完成者ということになる。そして俳諧連歌は連歌の子ということになる。
俳諧連歌はそれまでの堂上連歌を俳諧化したもので、連歌であることに基本的に変わりはない。
図式化すると、和歌ー短歌ー単連歌ー鎖連歌(百韻形式)ー俳諧連歌(歌仙式)ー俳句(発句独立)という展開ということになる。
短歌形式の上の句(五七五)と下の句(七七)を別の人間が詠むのが単連歌。それを続けていくのが鎖連歌というわけだが、この鎖連歌が中世において実に大流行したのである。やがて形式が整えられ、百韻形式が定着した。百韻すなわち百句を複数人が詠み続け一巻の作品に仕上げるのである。
今回取り上げるこの書には十篇の連歌作品、すなわち十篇の百韻が収められている。そしてそれらに登場する人物は連歌師と言われる専門の文学者ということになる。一部そうした連歌師たちの作品ではなく、いわば一般人が詠んだ作品が収められているが、そこでもそうした連歌師たちがそれらを指導しものと思われる。そしてまた芭蕉も時代が下った後のそうした連歌師の一人であったわけだ。
有名な芭蕉の『奥の細道』の冒頭部の最後にこんなくだりがある。

「股引の破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も住み替る代ぞ雛の家
表八句を庵の柱に掛けおく。」

(本文は新潮日本古典集成『芭蕉文集』)
ここで取り上げたいのは「表八句」という語だ。これは実は連歌の百韻形式の1ページ目を意味する「初折りの表」に書かれた八つの句という意味だが、ここではその「初折りの表」そのものを柱に掛けておいたと言っている。すなわち芭蕉はここでも百韻連歌をやっていたということなのである。

連歌について

そこで連歌についてもう少し形式的なことを説明する必要があるようだ。
連歌はある形式で書き記すことになっている。まず四枚の懐紙をそれぞれ横長に半折し、上下(表裏)に句を記していくのだが、一枚目を初折り、2枚目を二折り、3枚目を三折り、4枚目を名残の折りといい、それぞれに表裏があり、記す句数が決まっている。百韻は百句あるので「初折りの表」と「名残の折りの裏」が八句、他がそれぞれ十四句づつ書くことになっていて合計百句ということになる。(8+14*6(84)+8=100)
そしてそれぞれの「折り」にいろいろな決まり事があり、百句つないで一巻の作品とするのである。(しかし後の芭蕉はこれを簡略化し「歌仙式」という三六句形式の連歌を多く作った)

十の連歌百韻

では、この書に収められた十の連歌百韻を紹介しよう。以下である。
『文和千句第一百韻』
『至徳二年石山百韻』
『応永三十年熱田法楽百韻』
『享徳二年宗砌等何路百韻』
『寛正七年心敬等何人百韻』
『宗伊宗祇湯山両吟』
『水無瀬三吟』
『湯山三吟』
『新撰菟玖波祈念百韻』
『天正十年愛宕百韻』
編者によれば「それぞれに特色のあるものを揃えて,約二百三十年にわたる連歌史の展開がうかがえるよう配慮した」とある。
では、それぞれの概要と題およびはじめの四句(発句・脇・第三・平句)と最後の挙句とその前の句をみていきたい。

『文和千句第一百韻』

文芸としての連歌を確立した二条良基の初期を代表する作品

題 賦何人連歌

発句  名は高く声はうへなし郭公  侍
脇    しげる木ながら皆松の風  御
第三  山陰は涼しき水の流れきて  文
初表4  月は峰こそはじめなりけれ 坂

名裏7 佐保山の陰より深し石清水  御
挙句   ときはなる木は榊橘    侍

侍=救済、御=二条良基、文=救済門の水運、坂=救済門の周阿

『至徳二年石山百韻』

今度は二条良基の晩年を代表する作品

題 賦何船連歌

発句  月は山風ぞしぐれににほの海  良基公
脇    さざ波さむき夜こそふけぬれ 石山座主坊
第三  松一木あらぬ落葉に色かへで  周阿
初表4  花のすぎてものこる秋草   通郷

名裏7 横雲をそのまま花に明けなして 良基公         
挙句   又とちぎれば此の山のはる  右大弁

『応永三十年熱田法楽百韻』

良基・救済以後の連歌史の谷間と言われる応永期の熱田における祠官・寺僧らによる作品

題 賦山何連歌

発句  雪はけふ歌は神代を始め哉   満範
脇    はや冬木にも梅の八重垣   仲稲
第三  待つ春の花を御山の月出でて  李泰
初表4  ゆうべのみねか雲しづかなる 宮寿丸

名裏7 あら玉の年又としのゆたかにて 宥任         
挙句   大宮司すゑぞひさしき    仲昌

『享徳二年宗砌等何路百韻』

連歌中興期のうちから前期の宗砌中心のもの

題 賦何路連歌

発句  咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉   砌
脇    春に色かる松の一しほ    忍
第三  嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて 行
初表4  霞にうすく残る月影     順

名裏7 御幸する桜が本の今日の春   砌        
挙句   花に相あふ日こそ稀なれ   光長

『寛正七年心敬等何人百韻』

連歌中興期のうちから後期の心敬・専順・行助らが中心のもの

題 賦何人連歌

発句  比やとき花にあづまの種も哉  心敬
脇    春にまかする風の長閑さ   行助
第三  雲遅く行く月の夜は朧にて   専順
初表4  帰るや雁の友したふらん   英仲

名裏7 神垣や絶えず手向けの茂き世に 永  
挙句   いのりし事のたれか諸人   英

『宗伊宗祇湯山両吟』

先輩宗伊を向こうにまわして宗祇が縦横に力量を発揮した作品

題 賦何路連歌

発句  鶯は霧にむせびて山もなし    宗伊
脇    梅かをるのの霜寒き比     宗祇
第三  もえそむる草のかきほは色付きて 伊
初表4  いり日の庭の風のしづけさ   祇

名裏7 閑なる浜路のしらす霧晴れて   祇
挙句   島のほかまでなびく君が代   伊

『水無瀬三吟』

宗祇・肖柏・宗長の三吟で、古来もっとも著名な作品のひとつ

題 賦何人連歌

発句  雪ながら山もとかすむ夕かな     宗祇
脇    行く水とほく梅にほふ里      肖柏
第三  川かぜに一むら柳春みえて      宗長
初表4  舟さすおとはしるき明がた     祇

名裏7 いやしきも身ををさむるは有りつべし 祇
挙句   人をおしなべみちぞただしき    長

『湯山三吟』

宗祇・肖柏・宗長の三吟で、古来もっとも著名な作品のもうひとつ

題 賦何人連歌

発句  薄雪に木の葉色こき山路かな   肖柏
脇    岩もとすすき冬やなほみん   宗長
第三  松むしにさそはれそめし宿出でて 宗祇
初表4  さ夜ふけけりな袖のあき風   柏

名裏7 露のまをうきふる里とおもふなよ 祇
挙句   一むらさめに月ぞいさよふ   柏

『新撰菟玖波祈念百韻』

宗祇・兼載らによる『新撰菟玖波集』の撰進を祈念しての重要な意義をになった作品

題 賦何人連歌

発句  あさ霞おほふやめぐみ菟玖波山 宗祇
脇    新桑まゆをひらく青柳    西
第三  春の雨のどけき空に糸はへて  兼載
初表4  しろきは露の夕暮の庭    玄宣

名裏7 天津星梅咲く窓に匂ひ来て   友興
挙句   鶯なきぬあかつきの宿    玄清

『天正十年愛宕百韻』

紹巴時代のものとして、明智光秀の伝説をともなって有名な作品

発句  ときは今天が下しる五月哉   光秀
脇    水上まさる庭の夏山     行祐
第三  花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
初表4  風に霞を吹き送るくれ    宥源

名裏7 色も香も酔をすすむる花の本  前
挙句   国々は猶のどかなるころ   光慶

連歌の特質

どうでしょう。これだけ読んでもよくわかりませんね。百句の内のはじめと終わりの一部分だけですから。ただ連歌は、俳諧もそうですが、「付け合い」が肝です。それぞれの句自体というより、前句にどう付けてどう展開を呼ぶかという点に力量が表れますが、この部分を見ただけでもそれはある程度はわかるはずです。その中でも第三は重要ですね。発句は独立性があって、場に対する挨拶の意味があり、しかも題(賦し物といって何何の何)を読み込まなくてはなりません。そして脇はその発句によりそって二句で一つの世界をつくるわけです。しかし、第三はその世界をうけつつ展開を担います。そこでほとんどが「何々て」という形をとっています。どう展開したのか、ここを見てみるといいかと思います。まあ、付かず離れずといったところがいいんでしょうが、此の時代の連歌の連想は割と定式化しているような気がします。また言葉も情緒も基本的に王朝文化風な気がします。これは以前に読んだ芭蕉の俳諧に比べるとよくわかります。(これについては以下参照)
『日本古典文学総復習』69『初期俳諧集』70『芭蕉七部集』
もう少し具体的に見ていきましょう。
発句をAとします。脇がB、第三がC、その次をDとします。するとABで一つの短歌の形式になります。そしてCBでも短歌形式になりますね。いわば下の句が同一の短歌という事です。そしてさらにはCDも短歌形式です。これは上の句が同一の短歌ということになるわけです。
『水無瀬三吟』の例で示すと
1 雪ながら山もとかすむ夕かな 行く水とほく梅にほふ里
2 川かぜに一むら柳春みえて 行く水とほく梅にほふ里
3 川かぜに一むら柳春みえて 舟さすおとはしるき明がた
いわばこんな形です。もちろん短歌を作ろうとはしていないのですが、この三つの短歌で1とに2、2と3が、そして何よりも1と3が、どれくらい違っているかがポイントになります。それは言葉の上だけでなくその情景やこめられたこころが違っていなくてはならないわけです。
ただ、この頃の連歌は大きく異なることを嫌ったようで、似たような情景、雰囲気で少しづつ展開しているようにみえます。「かすむ」に「梅にほふ」、「梅にほふ」に「柳春みえて」、「川」に「舟」、そして「夕べ」に「明け方」です。他の例でも見てみるといいとおもいます。実はこの連想、すなわち「付け方」には当時の連歌にはうるさい規則がありました。そのためにそんなに飛躍的な展開がなかったとも言えます。
そしてもう一つ大事なのはこうした連想ゲームを一つの場で複数の人間がやっているという点です(独吟といって一人で行う場合もあるが)。そしてその進行を制御する人物も必要だったわけです。それが連歌師といわれるプロということになります。当時のその代表が「宗祇」と言われる人物です。そして後の時代の代表的連歌師が「芭蕉」ということになるわけです。

今回はここまで。

2023.01.26

日本古典文学総復習続編13『狭衣物語』上下

はじめに

またまた間が空いてしまった。前回が6月初旬だったから、また丸四ヶ月空いてしまった。その間別段忙しかったわけではなかった。ただ、なんとなくきっかけが取れず、この上下2冊を積読したままにしてしまったのだ。だが、ここへ来て、取り組んでいた別のことが一段落したこともあって(これについてはFacebookで報告している。一つは経済学史のお勉強。もう一つはTPC/IPのお勉強。)、ようやく書けるまでになった。

文学史的位置

さて、今回は久々の平安王朝物語文学だ。この平安王朝物語文学は『源氏物語』によって頂点を見てしまったわけだが、この『狭衣物語』はその後の物語の中ではそれなりの評価を得ているもののようだ。こうした後続の物語は余程の新規軸を出さない限り、どうしても『源氏物語』の焼き直しか、換骨奪胎したパロディかに脱しかねない物だ。この『狭衣物語』もそのご多分に漏れているとは言えないようだ。その人物造形にしても主人公の設定やその相手となる女性陣にしても『源氏物語』の登場人物の色濃い影響が伺える。ただ、文章そのものや、物語中に引かれている和歌に見るべきがあるようで、その後の時代に『無名草子』や藤原定家によって、そうした点が評価されている。

梗概

さて、この物語の内容だが、四巻に分かれているが、主人公は一貫して狭衣の大将と呼ばれている貴種のいわばスーパーマンだ。これは光源氏と同様である。いやむしろ光源氏よりは正統的な出自を持っている青年だ(光源氏は天皇の子とはいえ、母親が更衣という身分の低い女であるが、この主人公は、一旦臣籍に降ったとはいえ、王族の父と母を持っている)。そしてこの青年王族が、さまざまな女性と関係を持っていくという話なのである。ただ、このさまざまな女性との関わりが決して思うようにいくわけではないところに物語の胆がある。これは『源氏物語』でいえば、宇治十帖の源氏の子、薫大将の物語に近いかもしれない。特に「源氏の宮」と呼ばれる女性との関係がこの物語の縦糸として重要な役割を持っている。ここからこの物語をみていくこととしよう。

登場する女性たち

源氏の宮

この「源氏の宮」という女性は、主人公の母親の姪にあたる人物として設定されている。その主人公の母は、亡くなっている先の帝の妹で、その先帝の娘が「源氏の宮」なのである。そして叔母にあたる主人公の母親がこの姪を養女として引き取って、同じ屋敷に住まわせていたのである。したがって主人公とはいわば兄妹のように育てられたということになっている。しかし成長とともに「源氏の宮」の美しさが際立つようになり、主人公も女性として思慕するようになる。この「源氏の宮」、以下のように書かれている。

十に四つ五つあまらせたまへる御かたち有様、見たてまつらむ人はいかなる武士なりともやはらぐ心はかならずつきぬべきを、中将の御心のうちはことわりぞかし(ここでいう「中将」とは主人公狭衣のことである。)

もう一箇所。これは実際に狭衣が暑いある日「源氏の宮」に会った場面の「源氏の宮」の描写。

昼つかた、源氏の宮の御かたに参りたまへれば、白き薄物の単衣着たまひて、いと赤き紙なる書を見たまふ。御色は単衣よりも白う透きたまへるに、額の髪のゆらゆらとこぼれたまへる、その裾のそぎ末、幾年を限りに生ひゆかむとすらむと、ところせげなるものから、たをたをとあてになまめかしう見えたまふ。隠れなき御単衣に御髪のひまひまより見えたる御腰つき、腕などのうつくしさは、人にも似たまはねば、…

どちらかというと、成熟した女性というより、可憐な美しさを持った女性として描かれている。こうした表現を読むとやはり王朝女流物語文学だなあと今さらのように感じる。
さて、そんな「源氏の宮」への思慕の情が募って、ついに打ち明けるが、「源氏の宮」はただおののくばかりであった。そしてこの時以来彼女は狭衣の思いを拒否し続けることとなる。最終的にはこの「源氏の宮」は賀茂の斎院に卜定される。すなわち神の妻となって、誰とも関係を持たないこととなる。つまりは狭衣はこの思いを遂げることができずに最後まで物語を生きるということになるのだ。

飛鳥井の女君

次にこの物語の中で重要な役割を演じるのが、この「飛鳥井の女君」と呼ばれる女性だ。
この女性、「源氏の宮」とは違って実に薄幸を絵に描いたような女性として登場している。太宰の帥の中納言の姫君という出自だが、父は既になく乳母の元で育てられているが、後見人の仁和寺の法師に誘拐・略奪されそうになる。そこをたまたま目撃した狭衣に助けられる。そしてそのまま結ばれることになる。
その時のやりとり

(女)とまれともえこそ言われぬ飛鳥井に 宿りはつべきかげしなければ (お泊まりくださいとはとても口に出せないのです。私の家にはあなた様を気持ちよくお引き止めできるようなしつらえが、何一つございませんので。)
 と言ふさまぞ、なほその水影見ではえやむまじうおぼされける。
 (狭衣)飛鳥井に影見まほしき宿りして みまくさがくれ人やとがめむ (そなたの家でゆっくりとお姿を見たいもの。私が泊まると、誰か隠れている人が見咎めると言うのかね)(()内の和歌の意訳は本書頭注による)

こうしてこの女性、主人公と関係を持つことになり、やがて身篭り、娘を産むこととなるのだが、狭衣の家来筋に当たるものにみそめられて、またもや略奪され、筑紫へと連れて行かれそうになり、途中で海に身を投げたという話となる。これはこの男性が狭衣の家臣だと知ったためであり、抵抗を示すためであった。しかしこの入水は後に未遂だったということになるのだが、物語的にはこの時点では全く入水して亡くなったように描かれている。いわばこの女性、狭衣だけに身を許し、他の男には操を守り通したということになる。
そうして後に主人公が出家を思い立ち吉野に行った際に、この「飛鳥井の女君」が兄の法師の手で救われていたことを知る。また遺児がいることも知るのであった。この「飛鳥井の女君」には、入水事件から『源氏物語』宇治十帖に登場する「浮舟」の面影を感じるが、設定から言うと「夕顔」のような存在だったのかもしれない。

女二の宮

さて、次はこの物語で独特な位置を占めるのがこの「女二の宮」という女性だ。この女性、その名から天皇の娘で、実は狭衣の妃候補だったのだが、狭衣が「源氏の宮」への思いから断っていた相手なのだ。そのくせ狭衣はふとした機会にこの女性と関係をもってしまう。(なんて奴だ!)。そして「女二の宮」は孕ってしまうのだ。しかし周囲はその相手が狭衣だということを知らず、天皇の娘が誰とも知れない男の子を宿したということになり、大変なことになる。そこで母親が子を宿したということにし、娘「女二の宮」が産んだ男子を自分の子として育てようとする。しかし、その後、狭衣の子とわかって母后は憤死し、「女二の宮」は悲観して出家することとなるのだ。だが、こうした経緯があるのに(いやあるからこそか)主人公狭衣はこの「女二の宮」への執心が止まず、きりに二の宮に接近しようとするが、宮はがんとして逢あおうとはしない。その場面。

風の迷ひにやをら押しあけて見たまふに、御殿油ほのかにて、もの見分くべうもなけれど、「さにや」と見ゆる方ざまに伝ひ寄りたまふにほひの、人よりはことに、さとにほひたるを、おぼしやりつるもしるく、姫宮はいつも解けて寝させたまふことなかりければ、「あやし」とおぼして少し見やりたまへるに、あさましく思ひかけざりし夜な夜なに変はらねば、その折よりもいま少し心騒ぎせられて、萎えたる御単衣を奉りて、御張の後にすべり下りたまふも、わたわたとわななかれて、とみにも動かれたまはざりけり。

ある晩狭衣が「女二の宮」の寝所に押し入った場面。彼女はこんなこともあろうかと日頃から警戒していて、その香の香りからすぐに狭衣だと気づき、単衣一枚で震えながら几帳の影に隠れたという。ここにこの女性の真骨頂が現れている。ここも拒否する女性が描かれている。

一品の宮・式部卿宮の姫君

「一品の宮」というのは一般名詞である。すなわち序列一番目の皇女という意味である。したがって人物関係がわかりにくくなるが、ここでは一条院の皇女で飛鳥井の女君の遺児を養育していた人物を指す。狭衣は自分と飛鳥井の女君との間にできた子に会いたさにこの宮のところに足繁く通う。これが誤解を産んで、この宮に狭衣が好意を寄せていると思われ、やむなく結婚することになる。しかしこの結婚はそうした周囲の誤解からさせられたものであり、二人の関係は最初から冷えたままであった。
もう一人の結婚相手が「式部卿宮の姫君」である。この女性は終生思い続けている「源氏の宮」に似ているということで結婚した人物。ここも「一品の宮」と同様な公的な妻という立場にすぎない女性として登場している。

今姫君

最後にどうしてもここで取り上げたい女性がいる。この女性、この物語では異色の存在だ。
「今姫君」という呼称は、新しい姫君という意味で、これもまた一般名詞だが、ここでは狭衣の父堀川大臣の落胤とされる人物で、母親は宮中に仕える女房であった、という。だが母・乳母が相次いで亡くなったということで、堀川邸に引き取られていた。そしてその後、帝の妃として入内するという話になっていた。しかし、この姫君がなんと、よくいえば天真爛漫、悪くいえば幼稚で無教養な女性として登場させられている。そういう意味ではこれまで見てきた女性たちとは全く異なる女性なのだ。笑いの対象となってしまっている場面もある。入内を目前に控えた「今姫君」に琵琶の指導を施すために訪れた狭衣の前で、「いたち笛吹く、猿かなづ」という歌詞の、情趣もない風俗歌を演奏し始め、母代がそれに興に乗って歌いだしたりする場面だ。それを狭衣は、

をかしなども世の常のことをこそ言へ、明け暮れものむつかしき心の中、今日ぞみな忘れぬるに、思ふままにも伏しまろぴえ笑はず念ずるぞ、いとわぴしかりける。

という気分になるのだ。明らかに彼女は他の女性たちとは違っている。これまで取り上げた女性たちはその質はことなるものの、狭衣にとっては「明け暮れものむつかしき心の中」にある女性なのだ。しかしこの「今姫君」は良くも悪くもそうしたことを「みな忘れ」させてくれる存在だと言っている。『源氏物語』の女三ノ宮、末摘花、玉鬘に擬する向きがあるようだが、それはともかく、この女性の存在はこの物語に明るい要素を付け加えていると言える。
結局この女性は入内などせずに、思いもかけず結ばれてた大納言によって自邸へ迎えられ、多くの子に恵まれて安定した結婚生活を送ることとなる。めでたしめでたしというわけだ。
だが、主人公はめでたしとはいかない。最後まで満足いく女性との関係は築けず、出家も思うようにできずに、天皇になったものの、さまざまな思いをのこしたままこの物語は終わる。

まとめ

こうして『狭衣物語』を読んでくると、狭衣大将という男性の物語というより、さまざまな宮中に生きる女性の物語だという気がする。書いたもの多分宮中の女性だろうし、こうした物語の読者も宮中の女性たちだったろう。しかし、理想の男性像や女性像が描かれてはいない。なぜか男性を拒絶する宮中の上位の女性を描いているのがこの物語の最大の特徴のように思われた。
今回はここまで。
2022.11.08

日本古典文学総復習続編12『古今著聞集』

はじめに

大分間が空いてしまった。前回書いたのが2月始めだったから丸4ヶ月を要したことになる。
こうした締め切りのない仕事はいいようで、いくらでもサボれるので良くない。自分でしっかり締め切りを作らなくてはいけないのかもしれない。

さて、今回は『古今著聞集』だ。説話集である。これまでもいくつか説話集を読んできたが、これは『今昔物語集』とならんで、まとまったやや大部の書である。こうした説話集は『日本霊異記』に始まったと言えるが、その展開は日本文学史の中でも大きな役割を占めていると言える。これまでも以下の説話集について書いてきた。

『日本古典文学総復習』30 『日本霊異記』
『日本古典文学総復習』31 『三宝絵』『注好選』
『日本古典文学総復習』32 『江談抄』『中外抄』『富家語』
『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』123
『日本古典文学総復習』40『宝物集』『閑居の友』『比良山古人霊託』
『日本古典文学総復習』41『古事談』『続古事談』
『日本古典文学総復習』42『宇治拾遺物語』『古本説話集』

概略

特にこの中では『今昔物語集』が一番大部なものである。そしてそれから約130年後に編まれたこの書がそれに次いで大部なものとなっている。今昔もそうだが、この書も説話を分類整理して編集している点に大きな特徴がある。この書には約700話の説話が収められているが、それを30編に分類整理し、それぞれの編には「序」をつけている。(この集成本は上下二巻で以下のようにまとめてある)
上巻
神祇、釈教、政道忠臣・公事、文学、和歌、管絃歌舞、能書・術道、孝行恩愛・好色、武勇・弓箭、馬芸・相撲強力、(巻第一から巻第十、第1編から第15編まで)
下巻
画図・蹴鞠、博奕・偸盗、祝言・哀傷、遊覧、宿執・闘諍、興言利口、恠異・変化、飲食、草木、魚虫禽獣(巻十一から巻第二十、第16編から第30編まで)

これを見てもわかるように実にさまざまな説話を収集していることがわかる。収集ということは当然以前の説話集にとられている話も多くある。(また、「抄入」という形で著者とは別な人物が『十訓抄』などから付け加えたと思われる話も少なからずそれぞれの巻末にある)

また、その分類も大きく上巻にある内容と下巻にある内容とでは傾向が違うのがわかる。上巻にはいわば公的な内容が多く、中世ではあるが貴族的な観点からの話が多いように思われる。しかし下巻はやや卑属な内容の話が多くなる。分類名を見ただけでもそれがわかるだろう。今回はそれぞれの巻(集成の上下)から一話づつ取り上げてみたい。

「馬芸・相撲強力」から第377話

まずは上巻でもやや卑俗な側面のある「馬芸・相撲強力」から第377話
「佐伯氏長、強力の女高島の大井子に遇ふ事並びに大井子、水論にて初めて大力を顕はす事」
を取り上げたい。

この話はこの時代の説話によく登場する美女でありながら男勝りの女性の話だ。

佐伯氏長という力自慢で京都に相撲節会にでかける男が、高島というところで水を汲んでいる美女に出会い声をかける、というより腕を掴んで親しくなろうとする。ところがこの美女、この男の腕を挟んだまま家まで引きずっていってしまう。あまりの力に驚いたが、近くで見るこの女は一層美しく、しかもこの男を家に置いてくれることになる。
そしてこの女、氏長に、「その程度の力自慢では方々からやってくる男たちにはかなうまい、一つ自分が鍛えてあげる」というのだ。時間に余裕があったので鍛えてもらうことになった。その鍛え方が変わっていた。噛めないような硬い握り飯を女が作り、この男に食わせるというものだった。はじめは全く歯が立たなかったが、3週間もすると食べられるようになり、すっかり強くなったという。そしてこの男を京に登らせたというのだ。(はじめこの男この女に「歯が立たない」。しかしやがて「歯が立つようになった」ということだろうか。)

実はこの力の強い美女、大井子といって田んぼを多く持っていた女であった。田に水を引くべき時、村人がこの女と争いになり、この女の田に水をやらないようにしたという。しかしこの大井子、夜陰に乗じて大きな石を運んで逆に村人の田に水が行かないようにしてしまった。これには村人たちもこまり、百人からの村人を動員して石を動かそうとしたけれど動かなかった。そこで仕方なく大井子に詫びを入れて、石を動かしてもらったという。まさに「百人力」というわけだ。文末に

「件の石、おほゐ子が水口石とて、かの郡にいまだ侍り」

とあり、この百人力の美女の伝説の記念となっているようだ。この話は『日本霊異記』にもあるようだが、相撲の節会の話と結びつけて語られたのはこの書の発想のようだ。実に中世にはこういうたくましく、しかも美しい女性がいたということだ。

「興言利口」から第551話

次に下巻からは「興言利口」から第551話
「ある僧一生不犯の尼に恋着し、女と偽りてその尼に仕へて思ひを遂ぐる事」
を取り上げてみたい。

この話、ややエロティックで長いのだが、ここは本文にそって口訳してみたい。

いまだ男性と通じたことない尼がいた(一生不犯の尼)。しかも女盛りで、容貌もよく、暮らし向きも不如意ではなかった。その尼が外出した際、ある僧が見初めて、後をつけ、居処を見届けた。この僧、その後もこの尼のことが忘れられず、この尼のところを尋ねた。この僧は男ながら尼僧に似ていたので、尼僧のふりをして尋ねたのだ。そして「自分は夫に先立たれて尼になった、宮仕えも叶わないので、もし良ければ置いてくれないか、なんでもするから。」と言い、この尼のもとに置いてもらうこととなった。それから数年の間、甲斐甲斐しく尼に仕えて信用を得ることができた。ついにはこの尼の近くに寝ることさえ許されるようになった。
さて、二回の年の暮れを過ぎ、正月の七日間、この尼が「別事念仏」といって持仏堂にこもって念仏修行に勤めた。それが開けた八日目の夜、尼はすっかりつかれてぐっすり寝てしまった。そこでこの僧、「ついに思いを遂げる時が来た、よくぞ三年も我慢してきた、もういいだろう。」ということで、

よく寝入りたる尼のまたをひろげてはさまりぬ。かねてよりしかりまうけたるおびたたし物をやうもなく根もとまで突きいれけり

ということとなった。(ここはリアルに口語訳はあえてしませんよ。)尼は

おほきにおびえまどひて、何といふ事なくひきはづして、持仏堂のかたへ走り行きぬ。(何を引き外したがはわかりますよね。)

といことになってしまったので、この僧は「どうしよう、よせばよかったと」思い、持仏堂の角の柱のもとでかがまっていると、持仏堂からかねを打ち鳴らす音がして、尼は戻ってきた。これはいよいよ「とが」はまぬがれないと僧は思ったが、何やら尼の機嫌は悪そうでなく、「どこにいますか」と聞くではないか。そこで「ここにおります」とこたえると、

やがてまたをひろげて、おほはりかかりてければ、返す返す思ひの外におぼえて、やがておし伏せて年比の本意、思ひのごとくに責め伏せてけり。」ここも口語訳しませんがわかりますよね。)

ということになった。そこで僧は尼に「最初の時はなんで引き抜いて持仏堂に入ったのですか。」と尋ねると、なんと尼が答えるには

『これほどによき事をいかがはわればかりにてあるべき。上分、仏に参らせんとて、かねうちならしにまいりたりつるぞ』と

「これほどによき事」とは、なんて素晴らしい物言いでしょう。そしてその「うあまえ」を仏に捧げるとは。そして

この後は、うちたえて隙なくしければ、女男になりてぞ侍りける。(何をひまなくしたのか、わかりますよね。)

ということで、めでたしめでたし。

この話、実にいいではないか。尼僧に化けてまんまと思いを遂げた僧は気弱で実に我慢強い男だし、この尼僧も実に正直でいい。中世でも(だからこそか)明るさを感じる話だと思うけど、どうでしょう。こういうの好きなですよ。明るいエロティックコメディー、見ないよなこういうの最近!

ところで、この「興言利口」とはなんでしょう。小序によれば、

興言利口(きょうげんりこう)は、放遊境を得るの時、談話に虚言を成し、当座殊に笑ひを取り、耳を驚かすこと有るものなり。

ということ。すなわち笑い話ということのようだ。そしてこの項目70話という多さで、全体の10分の1を占めている(全体は30項目700話)ことから編者の橘成季も笑い話の好きな人物だったのだろう。

まだ、まだ紹介したい話はあるのだけれど、この辺で終わりにしておく。

2021.06.07

日本古典文学総復習続編11『建礼門院右京大夫集』

大原寂光院

久しぶりに古典文学総復習。
今回は『建礼門院右京大夫集』
西行を書いたのは去年の12月の初めだから、約2ヶ月経ってしまった。
手元にこの書籍を置いて、時々ページを括っていたが、どうも書く気持ちが湧いてこなかった。
山家集ほど大部でもないし、読みにくいものでもない。なのに書くきっかけがわかなかった。
そして2月になり、なんとか書ける気がしてきた。
そこでたどたどしくはあるかもしれないが、書いてみることにする。

この建礼門院右京大夫と言う名はこれまでも知ってはいた。また、一部の文章は高校の古典教科書にも取られていたし、入試問題にも取り上げられていたからだ。しかし、しっかり読んだことはなかった。

読んでみてまず感じたのは「王朝女流日記」だなと言う印象だ。建礼門院右京大夫は歌人だとばっかり思っていたが、むしろ紫式部や清少納言のような存在だったようだ。したがってこの書は私歌集というより、紫式部日記や枕草子、いや「更級日記」や「蜻蛉日記」に近いような気が、まずした。冒頭に以下の序文らしき文がある。

 家の集などいひて、歌よむ人こそ書きとどむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず。ただ、あはれにも、かなしくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることどもの、あるをりをり、ふと心におぼえしを思い出らるままに、わが目ひとつ見むとて書きおくなり。

私歌集ではない、とわざわざ断っている。そしてここで言う「あはれにも、かなしくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることども」は作者が宮仕していた時のことだから、やはり宮中女官日記という色彩だ。

前半はそうした華やかな宮中生活が描かれる。

「建礼門院」とは平清盛の娘で、後の安徳天皇の母である。その人物に仕えたのがこの作者建礼門院右京大夫と言うことになる。
そこにまさに我が世の春を謳歌する平家の公達たちが出入りし、作者もまたそうした男性たちと交流する。そんな宮中生活が回想される。

ただ、先行する平安時代の女流日記と決定的に異なるのはその時代背景だ。
藤原氏全盛の中で生きた先行する女官たちとは全く違った世界がそこにはあった。

やがて平家は滅びの道を歩むこととなる。
平家は貴族的な振る舞いをしていたが、結局武門なのだ。武門である以上「戦い」が待っている。
そしてその戦いで源氏に追い詰められた平家は最後に壇ノ浦で滅んでしまう。
建礼門院はその壇ノ浦で幼い安徳天皇とともに入水することとなる。
ただ、自分だけは源氏に助けられ、その後も生なければならなかった。

建礼門院はいわば平家の隆盛から滅亡にいたる歴史をまさに生きた象徴的な人物なのである。
その人物に仕えた作者もまたそうした大きな歴史の流れの中に生きたわけだ。

しかも実は作者は、平重盛の子で一族同様壇ノ浦で死んでいる資盛と言う人物と恋仲になっていたようだ。こういう言い方をするのは、はっきり書いてはいないからだが、この書の中心がこの恋愛体験の回想にあるのはまちがいない。

資盛がこの書ではっきり名で登場するのは歌の作者としてである。

 もろともに 尋ねてをみよ 一枝の 花に心の げにもうつらば(11)(番号はこの書内の歌番号)

という歌の前に「資盛の少将」とある。

この歌は

 さそはれぬ 憂さも忘れて ひと枝の花にそみつる 雲のうへ人(9)

という作者の歌(ただし中宮の依頼で詠んだ歌)の返事の一つ(もう一つは「隆房の少将」のもの)だが、この歌はまさに誘いの歌に違いない。
この作者の歌は「花見に誘われなかった憂さもわすれて中宮の御方の人々は桜の枝の素晴らしさに見とれています」と言った意味だが、これは平家の公達が花見の土産に桜の枝を中宮に持ってきたお礼の歌だ。それを資盛は筆者の思いと受け取って「だったら今度は一緒に行ってみませんか」と言っているわけだ。

ただこの登場は名が記されているだけに、恋の記憶と言ったところまでいっていない。資盛の回想は飛び飛びにいくつか現れるが、やはり一番象徴的なのは「雪の朝の橘の枝の記憶」ということになりそうだ。「雪の深くつもりたりしあした、」で始まる部分とそれを思い出す「橘の木に雪深くつもりたるを見るにも、」の部分だろう。その部分の歌が以下だ。

 とし月の つもりはてても そのをりの 雪のあしたは なほぞ恋しき (114)

 立ちなれし み垣のうちに たち花も 雪と消えにし 人や恋ふらむ (247)

また、梅の花に資盛を忍ぶ章段もある。その段の歌。

 思ふこと 心のままに 語らはむ なれける人を 花も偲ばば (210)

こうした資盛に対する追憶の部分が実は飛び飛びに現れる。これもこの書の特徴と言えるが、どんな意図があってそうしているのかはわからない。

また、資盛だけでなく肝心の建礼門院に対する気持ちも語られているのは勿論だ。
大原に建礼門院を訪ねた章段にある歌。

 今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき (239)

 なげきわび わがなからましと 思ふまでの 身ぞわれながら かなしかりける (242)

華やかだった時期をともに生きただけに、一層いまの零落した姿が直視し難かったのかもしれない。しかもあわせて資盛のことを思うと「死」まで考えてしまうと言っている。

ただ、こうした資盛や建礼門院への思いのみにこの書は覆われているわけではない。
年上の手練手管のプレイボーイとの恋の駆け引きや再び後鳥羽上皇の宮中に出仕したことも語られる。また、まとまった歌の紹介などもある。歌人としてはそれほど名を残していないが、やはり歌に生きた女性であったことも間違いない。

最後に定家から「書置きたる物や」と尋ねられたことが記されている。

 言の葉の もし世に散らば しのばしき 昔の名こそ とめまほしけれ (358)

   かへし   民部卿

 おなじくは 心とめける いにしへの その名をさらに 世に残さなむ (359)

   とありしなむ うれしくおぼえし。

これが結びである。やはり歌人としての自負はあったと思われる。

藤原氏絶頂期に生きた女流文学者は多く取り上げられるが、平安末期平氏が滅亡に至る時代を生きた女性として、この建礼門院右京大夫もっと取り上げられてもいいと思った。

この辺で終わりにしたい。

2023.02.07