日本古典文学総復習続編18『無名草子』

はじめに

今回はそれほど間が開かなった。

小冊子だということもあるし、今月は久しぶりに遠出する予定がないということもあった。

さて、今回は『無名草子』を取り上げる。前回に続いて評論的な古典だ。時代はやや戻るが、前回が世阿弥の芸術論だったが、今回は文学論と言ったところだ。作者は俊成卿女という風に推察されている。
しかし、文学論と言っても現代のそれとは全く趣を異にしている。これまでこの書については、文学史上で散逸した物語を知る資料としてのみ知っていたが、今回しっかり読んでみて、なかなか面白い書であったことがわかった。つまりこの書の設定というか、構えが面白いのだ。
語り手である老尼が仏前に供える花を摘みに出かけた散歩の途中ある屋敷に出くわし、そこに招き入れられるところから話が始まる。そして、その屋敷に集まっている女性たちが様々なことを語り合うという形で最後まで話が進んでいく。実はこの老尼は聞き手だと思っているとその後は全く顔を出さなくなる。要はこの屋敷に集った女性たちの論談の記録という形でこの書が構成されているのだ。

(前略)若き、大人しき、添ひて、七八と居並みて、「今宵は御伽して、やがて居明かさむ。月もめづらし」など言ひて、集ひ合はれたり

ということで、いわば文学論というか、平安期の文化について物語を中心に語られていく。今風に言えば文学についてのガールズトークの記録といったところだ。

この書の構成

では、まずこの書の内容を整理しておく。(決して章立てのようには書かれていないが)

  • 導入部
  • 源氏物語論
  • その他の物語論
  • 歌物語論
  • 歌集論
  • 女性論
  • 終章

と言った展開である。

ではそれぞれを見ていこう。

それぞれの内容

導入部

「はじめに」に書いた内容。いわばこの書の場の設定。「月」「文(手紙)」「夢」「涙」「阿弥陀仏」「法華経」について語り合う。

源氏物語論

「法華経」に言及がないとして『源氏物語』を取り上げる。ここで若い女性が聞き役となる。老尼は寝ていて登場しなくなる。

「巻巻の論」

やや「明石」の巻に詳しく言及

「女性論」

『源氏物語』に登場する女性たちを論評。「いみじき女」「このもしき女」「いとほしき女」などに分類して語る。花散里、紫の上、夕顔、中君等を評価。女三宮には以下のような痛烈な論評もある。

(前略)余りに言ふかいひなきものから、さすがに色めかしき所のおはするが、心づきなきなり。(本文33頁)
 あまりに年齢相応の思慮もないくせに、妙に異性関係にだけは神経の働く点が、気に入りません(本書傍注訳)

「男性論」

主人公は別にして、頭の中将について賛否両論的に論評。薫大将は高評価。

「ふしぶしの論」

ここでは女性たちの「死に様」(死の情景描写)について取り上げる。

「いみじきこと」「いとほしきこと」「心やましきこと」「あさましきこと」

いわば枕の草子の類聚章段のように、物語中の話題を取り上げている。

その他の物語論

ここで多くの源氏物語以降に書かれたと思われる物語を取り上げる。詳しく論じているのは七篇ぐらい。あとは書名紹介程度でいずれも評価は高いとは言えない。結局は『源氏物語』ほど求めるものはないということのようだ。

以下の物語だ。

『狭衣物語』『夜の寝覚』『みつの浜松』『玉藻に遊ぶ大納言』『古本とりかへばや』『隠れ蓑』『今とりかへばや』『心高き』『朝倉』『川霧』『岩うつ浪』『海人の刈藻』『末葉の露』『露の宿り』『三河に咲ける』『宇治の河浪』『駒迎へ』『緒絶え沼』『うきなみ』『松浦の宮』『有明の別れ』『夢語り』『浪路の姫君』『浅茅が原の尚侍』

ここには多く散逸物語が含まれていて、文学史上の資料となっている。

歌物語論

これまで語ってきた物語はすべて「偽り・虚言」とし、ここであげる『伊勢物語』『大和物語』は「げにあること」を書いたものだとして取り上げている。ただ、ここは簡単にみんなが知っているからと、「去れば、細かに申すに及ばず。」とし、歌についても「古今集」を見よとだけ言っている。しかもこの簡単な扱いから、これまで語ってきた物語が作り事だからみるべきのもがないと言っているわけではないことが、むしろ伺えると言えるようだ。

歌集論

ここは歌物語の流れから歌集について論じている。ただ少ない分量の中、『万葉集』・『古今集』をはじめ勅撰集・私歌集を論じているだけに詳しい評価はない。
『万葉集』は古すぎてよくわからないとし、『古今集』をはじめ勅撰集は勅撰ということから論ずることを畏れ多いとし、『千載集』のみは編者の苦労を指摘している。
私歌集についてはあまり高い評価をあたえてない。

ただ、この段で注目すべきは以下のことばだ。

「あはれ、折につけて、三位の入道のやうなる身にて、集を撰び侍らばや」(本書104頁)
「いでや、いみじけれども、女ばかり口惜しきものなし。」(同上)
「昔より色を好み、道を習ふ輩多かれど、女のいまだ集など撰ぶことなきこそ、いと口惜しけれ」(本書105頁)

ここは語り手のというより、この書の筆者の本音だろう。漢文は男専用、しかし和文は女のものというのが常識のようだが、和文の世界にも正式に女性が活躍できていないことを嘆いているのだ。では女性が才能がなかったのか、そんなことはない。ということでつぎの女性論となる。

女性論

ここは平安朝の著名な女性たちを取り上げる。

小野小町・清少納言・小式部の内侍・和泉式部・宮の宣旨・伊勢の御息所・兵衛の内侍・紫式部・皇后定子・上東門院・大斎院選子・小野の皇太后宮の12人だ。

以下のようにそれぞれを語っている。

  • 小野小町・清少納言は晩年の落魄ぶりを。
  • 小式部の内侍は命短かかったこと、大江山の歌を。
  • 和泉式部は娘の死がかえって晩年を幸にしたことを。
  • 宮の宣旨も和泉式部同様歌をもって人生を貫いたことを。
  • 伊勢の御息所は出家後の生活がいいことを。
  • 兵衛の内侍は音楽の才を。
  • 紫式部はなんと言っても『源氏物語』を創造したことを。
  • 皇后定子は逆境に対しても気品を失わない生活ぶりを。
  • 上東門院は紫式部が仕えていた。清少納言が仕えていた定子に比べるとやや低い評価を。
  • 大斎院選子の長命であったこと、その老後の生活ぶりがすばらしかったことを。
  • 小野の皇太后宮も晩年のひっそりとした生活ぶりを。

こう読んでくると、この書の女性観は、王朝的な優雅な生活、決して派手というのでもなく、慎ましく花鳥風月をめでて生きるのが良いとするものであったようだ。

終章

最後に、これまで女性ばかりとりあげているのは片手落ちではと聞き手が言うと、それは『栄花物語』や『大鏡』に聞いてくれ(読んでくれ)、といってこの書は閉じられている。

終わりに

こう読んでくると、この書が『大鏡』を意識して、書かれていることがわかる。しかも女性の観点で、女性の(歴史というより)文学を語るという意図がはっきりしてくる気がする。先に引いた「女ばかり口惜しきものなし」という言が響いている。

2023.12.06

この項、了

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