日本古典文学総復習続編17『世阿弥芸術論集』

書籍表紙

はじめに

また随分間が空いてしまった。前回のアップが6月だったから、なんと4ヶ月を要したことになる。どうも他のことが忙しく古典に向き合うのが疎かになりがちだ。しかしようやく暑さも収まり秋の気配が濃厚になってきたので取り組むことにした。

今回は世阿弥である。能については古典の中で不得意な分野である。どうも近付き難いイメージが強い。なぜだかわからないが現在の能の位置というのが好きになれない。しかし、ここは能を取り上げるわけではなく、それの完成者たる世阿弥の著述である。そしてこの著述を読むと能が現在の古典芸能というものではなく、実に生き生きとした芸能であったことがわかる。また、これらの世阿弥の著述は芸道論を超えて一種の人生論として読む読まれ方が現在あるが、このこともやや違う気がする。古典をどう読もうが自由だが、これらの世阿弥の著述をもっと当時の本来の位置で読んでみたい気がする。

収録作品

前置きはこのぐらいにして、まずはこの書の内容を以下に示す。

「風姿花伝」「至花道」「花鏡」「九位」「世子六十以後申楽談儀」が収録されている。その梗概は以下の通りである。

「風姿花伝」
後述
「至花道」
世阿弥が58歳のときに著した能楽論書。応永27年(1420年)成立。真実の能に到達するための正しい稽古法をおしえたもの。
「花鏡」
嫡子元雅に相伝された一巻。応永31年(1424年)成立。著者40歳以降の自身の思索の成果を収めたもの。
「九位」
成立年不明。仏教の九品になぞらえて能の芸の段階(芸位)を9段階に分けて示したもの。
「世子六十以後申楽談儀」
世阿弥の芸談を次男の元能が筆録したもの。能の歴史や、名人の芸風・逸話、能作・演出の要点などが語られている。

「風姿花伝」の内容

さて、ここでは「風姿花伝」を詳しく取り上げたい。

この書は父の庭訓をその都度書き止めたもので、この家の秘伝書となっている。内容は以下だ。

(「序」)
能風雅な神楽
「風姿花伝第一 年來稽古条々」
七歳・十二、三より・十七、八より・二十四、五・三十四、五・四十四、五・五十有餘
「風姿花伝第二 物學条々」
物真似の本質と限界。女・老人・直面・物狂・法師・修羅・神・鬼・唐事
「風姿花伝第三 問答条々」
九個の問と答え)観客の動静・序破急・自作自演・花能の命・慢心の恐れ・位について・言葉について・花のしおれ・花を知る
「風姿花伝第四 神儀云」
歴史的考察
「風姿花伝第五 奥儀讃歎云」
風姿花伝とはなにか。その風を得て、心より心に傳はる花なれば、風姿花傳と名附く。
「花伝第六 花修云」
謡曲の書き方良き能とは
「花伝第七 別紙口伝」
花とは何か・秘伝と花

まさに能という芸能をいかに他に負けないように演ずるかという一点に内容が絞られている。父観阿弥が早世したために息子の世阿弥がいわば必死に父に追いつくために努力し、またそれを後世に伝えようとした情熱が感じられる内容だ。

このことをよく示す一節を引こう。

「風姿花伝」の本文

問。ここに大いなる不審あり。はや却入りたる爲手の、しかも名人なるに、ただ今の若為手の、立合に勝つことあり。これ不審なり。
答。これこそ、先に申しつる、三十以前の時分の花なれ。古き爲手は、はや花失せて古様なる時分に、珍しき花にて勝ことあり。真実の目利きは見分くべし。さあらば、目利き・目利かずの、批判の勝負になるべきか。
 さりながら、様あり。五十以来まで花の失せざらんほどの爲手には、いかなる若き花なりとも、勝つことはあるまじ。ただこれ、よきほどの上手の、花の失せたる故に、負くることあり。いかなる名木なりとも、花の咲かぬ時の木をや見ん、犬桜の一重なりとも、初花色々と咲けるをや見ん。かやうの譬を思ふ時は、一旦の花なりとも、立合に勝つは理なり。
 されば肝要、この道は、ただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、もとの名望ばかりを頼まんこと、古為手のかへすがへす誤りなり。物数をば似せたりとも、花のあるやうを知らざらんは、花咲かぬ時の草木を集めて見んがごとし。万木千草において、花の色もみなみな異なれども、面白しと見る心は、同じ花なり。物数は少くとも、一方の花を取り窮めたらん為手は、一体の名望は久しかるべし。されば主の心には、随分花ありと思へども、人の目に見ゆるる公案なからんは、田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんが如し。
 また、同じ上手なりとも、その内にて重々あるべし。たとひ、随分窮めたる上手・名人なりとも、この花の公案なからん為手は、上手にては通るとも、花は後まであるまじきなり。公案を極めたらん上手は、たとへ能は下がるとも、花は残るべし。花だに残らば、面白さは一期あるべし。さればまことの花の残りたる為手には、いかなる若き為手なりとも、勝つ事はあるまじきなり。

「風姿花伝」の趣旨

これは「風姿花伝第三 問答条々」の一部だが、ここでも「花」という世阿弥にとっての重要な概念であることばが多用されている。「花」が能の命であることを述べている。ただ注目してほしいのは「立合に勝つ」という部分だ。質問は立合能でベテランに駆け出しの役者が勝つことがあるはどうしてかと言っている。

さて、立合能とは何か?能楽用語事典によれば

流派の異なる演者が同じ舞台に集い、芸を競い合って演じること。別々の曲で競演する場合と、同じ曲中で相舞する場合など様々な形がある。能が新しい芸能として興り、多くの座(芸能集団)が自らの名声を獲得すべく活動していたころ、立合は自らの命運を左右する真剣勝負の場であった。能の大成者といわれる世阿弥も、自身が著した能楽論書「風姿花伝」で、立合に勝つための心構えを述べ、後世に伝えている。

とある。

すなわち能は当時そういうものだったということだ。多くの座が競い合っていた勝負の場であったわけだ。その勝負の場でいかに勝つかというのがこの書の大きな目的だあったわけだ。そして肝心なのは「花」なのだといっている。しかしこの「花」には色々あり、若い為手が持っているのがいわば「時分の花」だ。これにはたとえ名望があっても「花」を失った古為手は敵わない。大事なのは「まことの花」なのだ。これが残っている為手はどんな若き為手にも勝つと言っている。そしてその「まことの花」には「人の目に見ゆる公案」が必要だと言っている。ここでいう「公案」とは元禅で謂う「課題」と謂うことだろうが、ここでは弛まぬ工夫と言ったらいいだろうか。しかもそれは「人の目に」見えなくてはならないとしている。これは観客ということだ。「目利き」という言葉を使っているがこれが「観客」だ。「花」とは目立つ良さといったらいいものだが、単にそれは「田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんが如し」としている。そうではなくて、観客にわかる工夫というものがなければ「まことの花」ではないというのだ。
ここでいかに世阿弥が観客というものを問題にしているかがわかる。実にビビットな論議である。

おわりに

この一文を読んだだけでもいかに当時の「能」が古典芸能と化した現在の「能」と違ったものかがわかる気がする。これは現在の「能」への言われなき小生の偏見かもしれないが。

今回はここまで。

2023.10.25

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