日本古典文学総復習続編20『歎異抄・三帖和讃』

はじめに

今回は親鸞の言説。これを文学と言えるかどうかだが、現在でも評価の高い僧侶であり、その言説といえるから、ここに収められているのはそれなりの根拠があるのだろう。小生も、年少の頃より私淑してきた思想家がこの親鸞を高く評価し、論じてきたという経緯から、少なからず関心を持ってきた。
ただ、それが災いしてこの親鸞の言説を素直に読めないかもしれないが、なるべく本書に沿って読んでいきたいと考える。

本書の内容

『歎異抄』『三帖和讃』『末燈鈔』の3作品?だ(先ほどから親鸞の言説という言い方をしてきたのは『三帖和讃』以外は後の人が親鸞の言説や書簡を記録編集したものだからだ)。それぞれの内容を見ていく。

『歎異抄』

序言があって、第一から第一八までの親鸞の言説があり、後記があるという体裁を持っている。
序言では著者の唯円という人物の嘆きが語られる。故人となった親鸞の教えが乱れて伝えられていると嘆き、それを自分が聞いたところを記して、正したいと言う。

故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留むるところ、いささか、これを注す。ひとへに、同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々

と言っている。

さて、中身については頭注にある編者(この本の)の文言を借りて記しておく。以下だ。

  • 序   唯円の嘆き
  • 第一  絶対他力の信心
  • 第二  出合いによる得信
  • 第三  悪人を自覚する心
  • 第四  恩愛を超えた慈悲
  • 第五  恩愛を超えた念仏
  • 第六  自然の道理としての念仏
  • 第七  何ものにも妨げられない念仏の道
  • 第八  賢者精進の修行とは無縁な念仏
  • 第九  煩悩を生きる人間を摂め取る仏
  • 第十  人間の思惟を超えた他力の大悲
  • 中序  聖人の仰せにあらざる異議
  • 第十一 誓願の功徳と名号との関係
  • 第十二 学問と信仰をめぐる問題
  • 第十三 他力をたのむ悪人
  • 第十四 摂取不捨の利益にあずかる念仏
  • 第十五 他力のさとり
  • 第十六 廻心ということ
  • 第十七 辺地より真実報土へ
  • 第十八 寺院・道場経営者の論理
  • 後記  歎異の心

さて、こうして様々な形で論じている親鸞の根本的な思想は何かというと、それは「絶対他力」という事になろうかと思う。「他力本願」という言葉は現在でも使われ、決していい意味ではないように思うが、親鸞の言う「他力本願」とは、全ては阿弥陀仏の計らいによって決まるということのようだ。

人々はいつの時代も現世が辛いから宗教に救いを求める。そして来世が素晴らしい世界であることを望む。それがここ日本では平安から「浄土」と呼ばれ、「極楽往生」することをあらゆる仏教が唱える。ドイツの思想家カールマルクスは「宗教はアヘンだ」と言ったというが、「だから宗教は悪だ」と言ったのではないはずだ。人間の弱さ・痛みがアヘンを求めるように宗教に救いを求めてしまう。問題なのは「なぜ人間は救いを求めなくてはならないのか、(なぜ解放されていないのか)」なのだと言っているはずだ。未だ人間は解放されてはいずに、従って宗教は今も存在する。ましてや親鸞が生きた時代は現代以上に生きにくい時代で、相次ぐ戦乱や天災によって飢えや病気で多くの人々が死を迎えなくてはならない世だったはずだ。

そんな中登場したのが法然の浄土宗であった。これは特別な修行をせずともただひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できるという趣旨の宗派で、多くの人々に向かい入れられた。そしてそれをもっと徹底させたのが親鸞だった。多くの普通の人々「衆生」はもともと阿弥陀仏によって救われることになっているのだという。念仏を一心に唱えることも必要はないとまで言っている。ましてや修行などいらないと。ここまでくるとほとんど宗教の否定のように思えてくるが、ここに親鸞という人物のラジカルさがうかがえる。そして親鸞の徹底した自己省察と深い自己否定とが伺える。そこからくる人間観、これが「絶対他力」というこだと思う。

第十三にこんなエピソードがある。

親鸞が唯円に「私の言うことがきけるか」と言い、唯円が「なんでも聖人様の言う通りにします」と答える。すると親鸞は「だったら人を千人殺せ。そうすれば往生は決定する。」と言う。それに対して唯円は「私にはそんな器量はありません。人一人も殺すことなどできません」と言う。そこで親鸞は次のように言ったと言うのだ。

これにて知るべし。何事もこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし

つまり、親鸞はこう言っている。「何事も心の思うままになるのなら往生のために千人殺せるはずだ。しかしそうはいかないのだ。きっかけ(業縁)がなければ一人も殺せないし、殺したくないと思っていても百人・千人を殺してしまうこともあるのだ」と。

これが親鸞のいう「絶対他力」ということなのだろう。人間がいかに相対的な存在であるかということだ。そういう相対的な存在であるが故に阿弥陀仏が初めから救ってくれるのだと。これが「他力本願」だと。親鸞がこうした境地に至るには、長い比叡山での修行(自力)と徹底的な自己省察と、流罪になって見てきた地獄にも似た「衆生」の現実に対する認識があったといえる。

さて、もう一つ有名な「悪人正機」の一説を見ておこう。第三にある。

善人なほもつて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや。
しかるを、世の人つねに言はく、『悪人なほ往生す。いかにいわんや、善人をや』。この条、一旦、そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人はひとえに他力をたのむこころ欠けたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがへして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰せ候ひき。

ここでも「他力本願」とは何かを言っている。それは「弥陀の本願」であり、煩悩具足のわれら、すなわち悪人を救うためなのだと。つまり相対的に生きるしかない(他力で生きるしかない)「衆生」を救うのが「弥陀の本願」であり、すなわちそれが「他力本願」だと言っている。
こういう親鸞の思想はどこぞの宗教のように決して寄付を求めないだろうし、修行を求めない。もはや反宗教と言っても良いかもしれない。だが、親鸞の死後、この教えが全国的に広まり、大宗教になってしまう。現在の本願寺の有り様を見ると不思議な気がする。

『三帖和讃』

さて、先を急ごう。今度は「和讃」だ。

まずは「和讃」とは何かを確認しておこう。辞書によれば「仏教歌謡の一種で,仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をほめたたえる讃歌。梵語による梵讃,漢語による漢讃に対して,日本語で詠われるためこの名がある。」という。また「鎌倉時代以後和讃の主流となった4句1首形式は,今様の影響下に成立したものといわれ,和讃作者として高く評価されている親鸞の和讃も,すべてこの4句1首形式で,七五調によっている。親鸞の代表作は,浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃のいわゆる《三帖和讃》で,親鸞自身の豊かな宗教感動を軸として,抒情に流されることなく,理智的な構成美と高い格調を持っている。」(改訂新版 世界大百科事典による)

辞書に言う通り、浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃が収められている。
浄土和讃116首・浄土高僧和讃117首・正像末法和讃92首だ。

「浄土和讃」は以下に分類されている。
讃阿弥陀仏偈和讃・浄土和讃・諸経意弥陀仏和讃・現世の利益和讃・大勢至菩薩和讃だ。
いずれも浄土真宗の教えを歌の形にしたものと理解すれば良いと思う。信者が後の時代に唱えるべきものという。
「浄土高僧和讃」は七人の浄土の高僧を弥陀他力の法の尊さをほめ讃たものという。
「正像末法和讃」は以下に分類されるが、これが一番文学的価値が高いように思われる。
すなわち正像末法和讃・愚禿述壊・愚禿悲嘆述壊だ。これらは親鸞の最晩年に作られてというもので、親鸞そのものがよく表されているように思う。ここにも徹底した自己省察が伺える。決して悟りを開いた高僧のイメージはない。あくまで自己を愚かな凡夫とする思想家親鸞のイメージである。一つだけ引いておこう。

悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆゑに
  虚仮の行とぞ名づけたる

身にそなわっている悪性をとどめることは、全く不可能にひとしく、煩悩の心は毒蛇やさそりのように恐ろしい。たとえ善行を修めたとしても、そこには煩悩の毒がまじっているので、虚仮の行と名づけ、真実の業とはいわない。(編者口訳)

晩年になってもこうした自己省察を怠らず、自分を凡夫といい、「愚禿」と規定する姿は、後の大宗派の創始者というより、一人の孤独な思想家の姿である。

『末燈鈔』

さて、最後に『末燈鈔』を見ていこう。

この書は親鸞の書簡集。親鸞最晩年のものだ。親鸞は京都にあって、東国の門徒たちの論争に終止符を打つべく、精力的に消息を送っていたようだ。それを後に編集したもの。

では、実際にその内容を例によって本書に沿ってその要約を見ていく。

  • 第一書簡 真実信心の人は来迎往生をまたず。
  • 第二書簡 自力の念仏と他力の本願念仏の違い
  • 第三書簡 真実信心の人は如来とひとし
  • 第四書簡 信心よろこぶ人は、諸々の如来にひとし
  • 第五書簡 しからむるということば
  • 第六書簡 往生は如来の御はからい
  • 第七書簡 信心の人をば諸仏に等しと申すなり
  • 第八書簡 浄土の教えは、人の思惟を超えた真実である
  • 第九書簡 他力は、人智の及ばない不思議である
  • 第十書簡 他力にはとかくのはからいがあってはならない
  • 第十一書簡 弥陀の誓願によってさし向けられた信心と名号
  • 第十二書簡 名号となうとも本願を信じない者は辺地に往生す
  • 第十三書簡 信心が定まるのは、如来の摂取にあずかる時である
  • (慶信の上書)信心よろこぶ人は如来にひとしい
  • 第十四書簡 阿弥陀仏は智慧の光にてまします
  • (蓮位の添状)この手紙の趣旨に間違いはありません
  • 第十五書簡 自力の心で、わが身を如来とひとしいと思ってはならない
  • 第十六書簡 悪くるしからずということは、とんでもない考えです
  • 第十七書簡 他力のなかにまた他力と申すことは聞き候はず
  • 第十八書簡 信心をえたる人は、臨終を期し、来迎を待つ必要がない
  • 第十九書簡 誓願があるからといって、わざと悪を好んではいけない
  • 第二十書簡 薬あればとて、毒を好むべからず
  • 第二一書簡 念仏往生の願をひたすら信じることを一向専修という
  • 第二二書簡 弥陀の本願は行にあらず善にあらず

ここで第一六書簡を見ておこう。

これは親鸞の教えが最も誤解を生むところについて答えているからだ。それは「造悪無碍」の考え方に対する批判ということになる。先にも見たように親鸞は現世の善悪について相対視しているので、悪は思うままに振る舞っても構わないという誤解を生んできた。実際それを吹聴する者が多く関東に現れ、それが弾圧の口実となったようだ。また、第十九書簡にあるようにわざと悪をなすものが往生を約束されているからと多く現れたという。これらは親鸞の考え方が最も陥りやすい誤解であり、それがこの宗派を拡大させた要素でもあり、またそれゆえに弾圧の口実を与えた要素であった。そこをどう門徒たちに説明するか、親鸞は苦労したのではないか。「経典や祖師がたの書かれたものを少しも知らず、 如来のお言葉も知らない人々に対して、 悪は往生のさまたげにならないなどと決していってはなりません。 謹んで申しあげます。」と言っている。これは「他力本願」の誤解によるのだと。「他力本願」の趣旨をしっかり理解しろと。言ってみれば、進んで悪をなすのは「自力」であり、「他力」すなわち否応なく悪を犯してしまうのとは全く異なると。

ただ、これらの書簡は門徒たちとのやりとりだけに細部は理解不能なところが多い。しかし親鸞は最晩年でも自己省察をやめることはなかったことだけは窺える。

終わりに

こう読んできて、親鸞は特異な僧侶であることは間違いないと思える。いわば反宗教的とも言っていい感じがしないでもない。しかしやはり仏教の中に存在していることは間違いないのだろう。仏教については知るところがほとんどないので、これ以上何かを論じることはできないが、そんな親鸞の宗派がこの後大宗派に発展するメカニズムが不思議でならない。それは弾圧された原始キリスト教がその後大教会をもつ世界宗教になったこととも関連があるのだろうか。

今回はここまで。

2024.02.22 この項了

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