日本古典文学総復習続編20『歎異抄・三帖和讃』

はじめに

今回は親鸞の言説。これを文学と言えるかどうかだが、現在でも評価の高い僧侶であり、その言説といえるから、ここに収められているのはそれなりの根拠があるのだろう。小生も、年少の頃より私淑してきた思想家がこの親鸞を高く評価し、論じてきたという経緯から、少なからず関心を持ってきた。
ただ、それが災いしてこの親鸞の言説を素直に読めないかもしれないが、なるべく本書に沿って読んでいきたいと考える。

本書の内容

『歎異抄』『三帖和讃』『末燈鈔』の3作品?だ(先ほどから親鸞の言説という言い方をしてきたのは『三帖和讃』以外は後の人が親鸞の言説や書簡を記録編集したものだからだ)。それぞれの内容を見ていく。

『歎異抄』

序言があって、第一から第一八までの親鸞の言説があり、後記があるという体裁を持っている。
序言では著者の唯円という人物の嘆きが語られる。故人となった親鸞の教えが乱れて伝えられていると嘆き、それを自分が聞いたところを記して、正したいと言う。

故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留むるところ、いささか、これを注す。ひとへに、同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々

と言っている。

さて、中身については頭注にある編者(この本の)の文言を借りて記しておく。以下だ。

  • 序   唯円の嘆き
  • 第一  絶対他力の信心
  • 第二  出合いによる得信
  • 第三  悪人を自覚する心
  • 第四  恩愛を超えた慈悲
  • 第五  恩愛を超えた念仏
  • 第六  自然の道理としての念仏
  • 第七  何ものにも妨げられない念仏の道
  • 第八  賢者精進の修行とは無縁な念仏
  • 第九  煩悩を生きる人間を摂め取る仏
  • 第十  人間の思惟を超えた他力の大悲
  • 中序  聖人の仰せにあらざる異議
  • 第十一 誓願の功徳と名号との関係
  • 第十二 学問と信仰をめぐる問題
  • 第十三 他力をたのむ悪人
  • 第十四 摂取不捨の利益にあずかる念仏
  • 第十五 他力のさとり
  • 第十六 廻心ということ
  • 第十七 辺地より真実報土へ
  • 第十八 寺院・道場経営者の論理
  • 後記  歎異の心

さて、こうして様々な形で論じている親鸞の根本的な思想は何かというと、それは「絶対他力」という事になろうかと思う。「他力本願」という言葉は現在でも使われ、決していい意味ではないように思うが、親鸞の言う「他力本願」とは、全ては阿弥陀仏の計らいによって決まるということのようだ。

人々はいつの時代も現世が辛いから宗教に救いを求める。そして来世が素晴らしい世界であることを望む。それがここ日本では平安から「浄土」と呼ばれ、「極楽往生」することをあらゆる仏教が唱える。ドイツの思想家カールマルクスは「宗教はアヘンだ」と言ったというが、「だから宗教は悪だ」と言ったのではないはずだ。人間の弱さ・痛みがアヘンを求めるように宗教に救いを求めてしまう。問題なのは「なぜ人間は救いを求めなくてはならないのか、(なぜ解放されていないのか)」なのだと言っているはずだ。未だ人間は解放されてはいずに、従って宗教は今も存在する。ましてや親鸞が生きた時代は現代以上に生きにくい時代で、相次ぐ戦乱や天災によって飢えや病気で多くの人々が死を迎えなくてはならない世だったはずだ。

そんな中登場したのが法然の浄土宗であった。これは特別な修行をせずともただひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できるという趣旨の宗派で、多くの人々に向かい入れられた。そしてそれをもっと徹底させたのが親鸞だった。多くの普通の人々「衆生」はもともと阿弥陀仏によって救われることになっているのだという。念仏を一心に唱えることも必要はないとまで言っている。ましてや修行などいらないと。ここまでくるとほとんど宗教の否定のように思えてくるが、ここに親鸞という人物のラジカルさがうかがえる。そして親鸞の徹底した自己省察と深い自己否定とが伺える。そこからくる人間観、これが「絶対他力」というこだと思う。

第十三にこんなエピソードがある。

親鸞が唯円に「私の言うことがきけるか」と言い、唯円が「なんでも聖人様の言う通りにします」と答える。すると親鸞は「だったら人を千人殺せ。そうすれば往生は決定する。」と言う。それに対して唯円は「私にはそんな器量はありません。人一人も殺すことなどできません」と言う。そこで親鸞は次のように言ったと言うのだ。

これにて知るべし。何事もこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし

つまり、親鸞はこう言っている。「何事も心の思うままになるのなら往生のために千人殺せるはずだ。しかしそうはいかないのだ。きっかけ(業縁)がなければ一人も殺せないし、殺したくないと思っていても百人・千人を殺してしまうこともあるのだ」と。

これが親鸞のいう「絶対他力」ということなのだろう。人間がいかに相対的な存在であるかということだ。そういう相対的な存在であるが故に阿弥陀仏が初めから救ってくれるのだと。これが「他力本願」だと。親鸞がこうした境地に至るには、長い比叡山での修行(自力)と徹底的な自己省察と、流罪になって見てきた地獄にも似た「衆生」の現実に対する認識があったといえる。

さて、もう一つ有名な「悪人正機」の一説を見ておこう。第三にある。

善人なほもつて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや。
しかるを、世の人つねに言はく、『悪人なほ往生す。いかにいわんや、善人をや』。この条、一旦、そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人はひとえに他力をたのむこころ欠けたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがへして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰せ候ひき。

ここでも「他力本願」とは何かを言っている。それは「弥陀の本願」であり、煩悩具足のわれら、すなわち悪人を救うためなのだと。つまり相対的に生きるしかない(他力で生きるしかない)「衆生」を救うのが「弥陀の本願」であり、すなわちそれが「他力本願」だと言っている。
こういう親鸞の思想はどこぞの宗教のように決して寄付を求めないだろうし、修行を求めない。もはや反宗教と言っても良いかもしれない。だが、親鸞の死後、この教えが全国的に広まり、大宗教になってしまう。現在の本願寺の有り様を見ると不思議な気がする。

『三帖和讃』

さて、先を急ごう。今度は「和讃」だ。

まずは「和讃」とは何かを確認しておこう。辞書によれば「仏教歌謡の一種で,仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をほめたたえる讃歌。梵語による梵讃,漢語による漢讃に対して,日本語で詠われるためこの名がある。」という。また「鎌倉時代以後和讃の主流となった4句1首形式は,今様の影響下に成立したものといわれ,和讃作者として高く評価されている親鸞の和讃も,すべてこの4句1首形式で,七五調によっている。親鸞の代表作は,浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃のいわゆる《三帖和讃》で,親鸞自身の豊かな宗教感動を軸として,抒情に流されることなく,理智的な構成美と高い格調を持っている。」(改訂新版 世界大百科事典による)

辞書に言う通り、浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃が収められている。
浄土和讃116首・浄土高僧和讃117首・正像末法和讃92首だ。

「浄土和讃」は以下に分類されている。
讃阿弥陀仏偈和讃・浄土和讃・諸経意弥陀仏和讃・現世の利益和讃・大勢至菩薩和讃だ。
いずれも浄土真宗の教えを歌の形にしたものと理解すれば良いと思う。信者が後の時代に唱えるべきものという。
「浄土高僧和讃」は七人の浄土の高僧を弥陀他力の法の尊さをほめ讃たものという。
「正像末法和讃」は以下に分類されるが、これが一番文学的価値が高いように思われる。
すなわち正像末法和讃・愚禿述壊・愚禿悲嘆述壊だ。これらは親鸞の最晩年に作られてというもので、親鸞そのものがよく表されているように思う。ここにも徹底した自己省察が伺える。決して悟りを開いた高僧のイメージはない。あくまで自己を愚かな凡夫とする思想家親鸞のイメージである。一つだけ引いておこう。

悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆゑに
  虚仮の行とぞ名づけたる

身にそなわっている悪性をとどめることは、全く不可能にひとしく、煩悩の心は毒蛇やさそりのように恐ろしい。たとえ善行を修めたとしても、そこには煩悩の毒がまじっているので、虚仮の行と名づけ、真実の業とはいわない。(編者口訳)

晩年になってもこうした自己省察を怠らず、自分を凡夫といい、「愚禿」と規定する姿は、後の大宗派の創始者というより、一人の孤独な思想家の姿である。

『末燈鈔』

さて、最後に『末燈鈔』を見ていこう。

この書は親鸞の書簡集。親鸞最晩年のものだ。親鸞は京都にあって、東国の門徒たちの論争に終止符を打つべく、精力的に消息を送っていたようだ。それを後に編集したもの。

では、実際にその内容を例によって本書に沿ってその要約を見ていく。

  • 第一書簡 真実信心の人は来迎往生をまたず。
  • 第二書簡 自力の念仏と他力の本願念仏の違い
  • 第三書簡 真実信心の人は如来とひとし
  • 第四書簡 信心よろこぶ人は、諸々の如来にひとし
  • 第五書簡 しからむるということば
  • 第六書簡 往生は如来の御はからい
  • 第七書簡 信心の人をば諸仏に等しと申すなり
  • 第八書簡 浄土の教えは、人の思惟を超えた真実である
  • 第九書簡 他力は、人智の及ばない不思議である
  • 第十書簡 他力にはとかくのはからいがあってはならない
  • 第十一書簡 弥陀の誓願によってさし向けられた信心と名号
  • 第十二書簡 名号となうとも本願を信じない者は辺地に往生す
  • 第十三書簡 信心が定まるのは、如来の摂取にあずかる時である
  • (慶信の上書)信心よろこぶ人は如来にひとしい
  • 第十四書簡 阿弥陀仏は智慧の光にてまします
  • (蓮位の添状)この手紙の趣旨に間違いはありません
  • 第十五書簡 自力の心で、わが身を如来とひとしいと思ってはならない
  • 第十六書簡 悪くるしからずということは、とんでもない考えです
  • 第十七書簡 他力のなかにまた他力と申すことは聞き候はず
  • 第十八書簡 信心をえたる人は、臨終を期し、来迎を待つ必要がない
  • 第十九書簡 誓願があるからといって、わざと悪を好んではいけない
  • 第二十書簡 薬あればとて、毒を好むべからず
  • 第二一書簡 念仏往生の願をひたすら信じることを一向専修という
  • 第二二書簡 弥陀の本願は行にあらず善にあらず

ここで第一六書簡を見ておこう。

これは親鸞の教えが最も誤解を生むところについて答えているからだ。それは「造悪無碍」の考え方に対する批判ということになる。先にも見たように親鸞は現世の善悪について相対視しているので、悪は思うままに振る舞っても構わないという誤解を生んできた。実際それを吹聴する者が多く関東に現れ、それが弾圧の口実となったようだ。また、第十九書簡にあるようにわざと悪をなすものが往生を約束されているからと多く現れたという。これらは親鸞の考え方が最も陥りやすい誤解であり、それがこの宗派を拡大させた要素でもあり、またそれゆえに弾圧の口実を与えた要素であった。そこをどう門徒たちに説明するか、親鸞は苦労したのではないか。「経典や祖師がたの書かれたものを少しも知らず、 如来のお言葉も知らない人々に対して、 悪は往生のさまたげにならないなどと決していってはなりません。 謹んで申しあげます。」と言っている。これは「他力本願」の誤解によるのだと。「他力本願」の趣旨をしっかり理解しろと。言ってみれば、進んで悪をなすのは「自力」であり、「他力」すなわち否応なく悪を犯してしまうのとは全く異なると。

ただ、これらの書簡は門徒たちとのやりとりだけに細部は理解不能なところが多い。しかし親鸞は最晩年でも自己省察をやめることはなかったことだけは窺える。

終わりに

こう読んできて、親鸞は特異な僧侶であることは間違いないと思える。いわば反宗教的とも言っていい感じがしないでもない。しかしやはり仏教の中に存在していることは間違いないのだろう。仏教については知るところがほとんどないので、これ以上何かを論じることはできないが、そんな親鸞の宗派がこの後大宗派に発展するメカニズムが不思議でならない。それは弾圧された原始キリスト教がその後大教会をもつ世界宗教になったこととも関連があるのだろうか。

今回はここまで。

2024.02.22 この項了

日本古典文学総復習続編19『説経集』

はじめに

今回は『説経集』である。

こう言われてピンとくる人は少ないと思う。日本古典文学の中でもいわば忘れられた存在だ。

この「説経」、元は「説教」とも書いたらしいが、現在ではこの「説教」と「説経」ではニュアンスが異なる。現在「説教」は「先生に説教された」という風に使い、いわば人の道・道徳的なことを「教え、諭される」こと、という意味である。だが一方の「説経」は一般的にはあまり使われず、わずかに寺院に於いての僧侶の講和という形で使われるように思う。つまりは「お経」を「説く」という意味である。

したがって、この『説経集』はそうした仏教的な話を集めたものというふうに考えられるかもしれない。

しかし、それもやや違う。では「説経節」というのをご存じだらうか。実はこの『説経集』は「説経節」のいくつかの作品?を集めたものなのである。そしてこの「説経節」は仏教的な要素はもちろん含んでいるが、むしろ、ある傾向の物語を語る「芸能」であったのだ。

「歌舞伎」や「文楽」(人形浄瑠璃)はご存知の方も多いだろう。実はこの「説経節」もそうした芸能の一つだった。この書ではもちろん文字で書かれた物語が示されている。しかし、元は「説経節」はその名のように「語り」であった。この書はそれを文字化したもの(「正本」と言う)で、元はいわば「口唱文芸」であった。

口絵を見ていただきたい。これは北野天満宮の門前で「説経節」が行われている様子である。語り手が「ささら」を持ち(これが一種の楽器、後、浄瑠璃となると三味線に変わる)、大きな傘をさして(これが一種の目印)物語を語っている。これが「説経節」である。そして、その語り手は多く下層の僧侶であったようである。そして聴衆もまた下層の人々であったようだ。

つまりこの『説経集』、下層で漂白の僧侶たちが語り歩いた芸能たる「説経節」の代表的な「話」を集めたものということになる。

それぞれの梗概

ではそれはどんな傾向を持った話なのだろうか。この書では六篇の話が収められているが、まずはそれぞれの「話」の概要を見ていくことにする。

『かるかや』

「かるかや」とは「刈萱道心」という名の高野山の僧侶のこと。この僧侶、元は武将であったが、思うところあって妻子を捨てて出家した人物。この人物には子があってその名を石童丸と言った。その子は父の顔を知らずに育ったが、父会いたさに高野山に登る。いろいろ経緯があって結局は高野山で父の弟子となる。しかし父はそれと知りながらあくまで石童丸を子として認めない。しかも石童丸は最後までその「刈萱道心」が父だと知らずにいる。父は「棄恩入無為の誓い」(恩愛の情を捨て、世俗の執着を断ち切って、悟りの道にはいること。)を守り通したという話。しかしこの話はそれだけではなく、この父子が菩薩の化身で、常行念仏の偉大な尊者であるという点だ。そしてこの父子が刻んだというみ親子地蔵尊が信濃の善光寺本尊として祀られ、いまなお多くの人の信仰を集めているという点が「説経」たる所以である。

『さんせう太夫』

これは森鴎外の小説『山椒太夫』でよく知られていると思う。もちろんそれとは趣を事にするが話の大方は同じである。

讒言によって父が流罪となったその母子姉弟の苦難に満ちた物語。京に上る途中人買いに騙され母と 乳母は蝦夷に、姉弟は丹後国由良の山椒太夫のもとへ売られ、そこで酷い仕打ちを受ける。しかしなんとか弟のつし王は姉の手助けと犠牲で逃れことができ、その後、国分寺の僧や金焼地蔵の霊験、聖徳太子の計らい、梅津院の援助などによって奥州五十四郡の主に返り咲くことができる。しかし、つし王は元の領地よりも丹後国守を望み、そこで山椒太夫に対する復讐を遂げる。また、盲目となった母と再会し、金焼地蔵によってその眼を開眼させることができたというお話。これも初めに「金焼地蔵の御本地」とある点が注目される。

『しんとく丸』

河内国高安の長者が清水観音に願をかけ授かった子の話。この子「しんとく丸」、容姿よし、頭脳明晰であった。ということで四天王寺の稚児舞楽に選ばれて舞うこととなり、そこで隣村の蔭山長者の娘・乙姫に見染められ一緒になることを願うようになる。しかしこれが災いの端緒となった。継母が自分の子を世継ぎにしたいがために「しんとく丸」を虐待し、ついに失明までさせられてしまう。その後癩病にも侵され、ついに家から追い出されてしまう。その後何とか四天王寺で乞食となりはてて暮らすこととなる。しかし、乙姫が「しんとく丸」を見つけ出し、二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、病気が快癒して、その後乙姫のところで幸せに暮らしたという。一方継母は家が没落、物乞いとなった。というお話。

『をぐり』

「説経節」の代表的な話。後、歌舞伎等でも演じられ続けている。

話は一種の「貴種流離譚」。大納言兼家の嫡子小栗判官が故あって常陸の国に流され、そこで美貌の娘である照手姫を知り、無理矢理婿入りをする。しかしそれに怒った照手姫の兄郡代横山は小栗たちを毒殺し、照手姫を相模川に流してしまう。照手姫は一旦は救われるが、人買いに売り飛ばされ、美濃国でこき使われることとなる。一方死んだはずの小栗は、閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。遊行上人は餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せ、「この車を引くものは供養になるべし」として、多くの人々に車を引かせて、照手姫のいる美濃国を通り、熊野に至らしめる。照手姫はその餓鬼阿弥が小栗であることも知らずに車を引いていた。そして熊野到着後、湯の峰温泉で49日の湯治の末、小栗は復活する。復活後元の地位を回復し、照手姫とも再会し、横山を滅ぼこととなるというお話。死後は美濃墨俣の正八幡に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた、という。

『あいごの若』

これも一種の「貴種流離譚」と言えるが、結末が酷い。これまでの話はいわばハッピーエンドだったが、これは登場人物ほとんど全てが死んでしまうという結末。主人公の「あいごの若」が15歳で投身自殺してしまうのだが、それを追って百八人もの人物が投身自殺するという惨たらしい結末だ。

さて、この「あいごの若」という人物、左大臣の子だが、やっとの思いで神仏に祈願して生まれた人物。ただ、母が神仏によって死んでしまうという運命にあり、しかも父の後添えに惚れられて、その後添えの策略で父にも疎まれ、叔父を訪ねて比叡山に行くが、盗賊と間違われて結局は投身自殺するというお話。大筋で言うとこうなるが、この話には途中、この「あいごの若」を助ける人々も登場し、これがいわゆる地下の者たちで、職人や農民なのだ。これが「説経節」たる所以といえる。またこの人物は山王権現に結び付けられている。

『まつら長者』

これまた、神仏に祈願して生まれた子の話。ここは娘で「さよ姫」と言った。しかし、この父はしばらくしてなくなってしまう。すると母子二人では家運は傾き、父の供養もできない身の上となる。そこで「さよ姫」は自ら身を売って父の供養をする事になる。ただ、その身売り先がなんと大蛇の生け贄だった。池中に構えられた贄棚に上った姫は一心に法華経を読誦する。すると大蛇は改悛し、その甲斐あってさよ姫は奈良に帰され、松浦長者として栄えたと言うお話。後に竹生島の弁財天として現れたと言う。

共通する要素

こう読でくると、いずれも話のパターンは同じようだ。まず主人公は本来は貴種とういか、社会的立場の上位にいる人物だということ。そしてその主人公があるきっかけで酷い仕打ちを受け、真っ逆さまに社会の下層に落ちぶれてしまう(もしくはむなしくなってしまう)こと。だが、最後は元の位置に戻るか、神か仏として祀られるというパターンだ。これは「説経」が神仏の「本地」を語るという形になっているからだ。ほとんどの話の冒頭に以下ような言葉がある。

ただ今、説きたて広め申し候本地は、国を申さば信濃の国、善光寺如来堂の弓手のわきに、親子地蔵菩薩といははれておはします御本地を…(『かるかや』冒頭)

ただ今語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼地蔵の御本地を、…(『さんせう太夫』冒頭)

ただ今語り申す御本地、国を申さば近江の国、竹生島の弁財天の由来を…(『まつら長者』冒頭)

では「本地」とは何か。本来、神として現れた(これを「垂迹」という)本の仏をいう言葉だ。この「説経」においては話の主人公が垂迹した人物という事になり、本来は仏であったということを語っているという事になる。

こうした話に共通する、主人公たちの艱難辛苦に満ちた生涯が実は多くの下層民の実際の生活実態であり、それゆえに下層民の聴衆がこうした話に同調し、それが実は神仏であったという事で安心をもたらしていたと言えるのかもしれない。

最後に

こうした「説経」はもはやほとんど存在しない。わずかに浄瑠璃や歌舞伎の中にその片鱗を残しているのみだ。だが、実は我々日本人の中に未だに、こうした物語のパターンに心が揺るぐものが残っているような気がする。そういう意味でもっと研究していい分野だと思う。

2024.01.24
この項了

小刀の鞘を作成

木工の話題。

小刀は木工道具としては汎用性があって、とても便利なもの。剥き身の小刀があって、先日研いだので、一本を娘のところに置いておこうと考えて、鞘を作ることにした。その記録。

まず材料は柔らかい木の必要があり、朴の古い板があったのでそれを使うことに。削れば綺麗になる。ここが木のいいところ。

大きい板のまま、小刀の形に溝を彫る。ミニルーターを使う手もあるが、ここは彫刻刀と鑿を使う。結構大変だけど、これが楽しい。この楽しみが素人木工のいいところ。

溝が彫れたら、大体の大きさに板を切って、蓋にする部分も切っておく。蓋の部分は鉋でかなり薄くしておく。

溝がある板に刃を入れるところをテープで養生して、ボンドを塗る。

蓋の板を重ね、圧着しておく。一晩置いておいた。

鉋を中心に使って形を整える。ここでかなり細くする。

ほとんど形になったら、ほぼ半分に切断する。この時はアサリのない鋸を使う。刃を嵌めてみる。

その状態で手元の方に穴を開ける。これは刃が抜けないようにするためだ。接着してしまう手もあるが、ここは穴に止める棒を嵌めて取り外しができるようにする。こうすると、刃を研ぐ時に便利だ。ただ、この作業が一番大変だった。なにせ鉄に穴をあけるのだから。鉄鋼用のドリル刃を慎重に細いものから使っていけば、このように丸く穴が開く。

そして穴に埋める棒は小刀で削って作る。

 

ちょっと太い感がないでもないが、綺麗にできたと思う。

 

 

 

ガラステーブルの炬燵化アダプタの作成

木工の話題
作成過程は詳細に記録しなかったので簡単に記録しておく。

新しい天板を用意し、高くするための脚を加工してボルトで止める。
下にボードを貼って、横に止めるための横棒をボルトで止める。
炬燵の熱源を取り付ける。
材料は炬燵の熱源以外はいずれも家にあったもの。
脚はガラステーブルのと同様、欅の板を使う。例によって手鋸をつかうため、正確に切るのが難しかった。
ダボで止めるため、その穴あけも何回か調整が必要だった。
炬燵の熱源を横棒に止めるのも、下のボードの厚さの関係で結構苦労した。

ガラステーブルの脚がしっかりはまることを確認。

その上で、天板にあたらしい合板を接着。これは天板に使った合板が雨ざらしで汚かったので、こうした。これは購入した。ボルトで止めることも考えたが、天板が薄いのでボンドでとめた。

あとは脚をつけて、設置し、布団とカバーをつけて、もとのガラス天板を載せれば完成。布団とカバーは横長の掘り炬燵用のもので代用。

カミさんが気に入ってくれた。なによりだ。

日本古典文学総復習続編18『無名草子』

はじめに

今回はそれほど間が開かなった。

小冊子だということもあるし、今月は久しぶりに遠出する予定がないということもあった。

さて、今回は『無名草子』を取り上げる。前回に続いて評論的な古典だ。時代はやや戻るが、前回が世阿弥の芸術論だったが、今回は文学論と言ったところだ。作者は俊成卿女という風に推察されている。
しかし、文学論と言っても現代のそれとは全く趣を異にしている。これまでこの書については、文学史上で散逸した物語を知る資料としてのみ知っていたが、今回しっかり読んでみて、なかなか面白い書であったことがわかった。つまりこの書の設定というか、構えが面白いのだ。
語り手である老尼が仏前に供える花を摘みに出かけた散歩の途中ある屋敷に出くわし、そこに招き入れられるところから話が始まる。そして、その屋敷に集まっている女性たちが様々なことを語り合うという形で最後まで話が進んでいく。実はこの老尼は聞き手だと思っているとその後は全く顔を出さなくなる。要はこの屋敷に集った女性たちの論談の記録という形でこの書が構成されているのだ。

(前略)若き、大人しき、添ひて、七八と居並みて、「今宵は御伽して、やがて居明かさむ。月もめづらし」など言ひて、集ひ合はれたり

ということで、いわば文学論というか、平安期の文化について物語を中心に語られていく。今風に言えば文学についてのガールズトークの記録といったところだ。

この書の構成

では、まずこの書の内容を整理しておく。(決して章立てのようには書かれていないが)

  • 導入部
  • 源氏物語論
  • その他の物語論
  • 歌物語論
  • 歌集論
  • 女性論
  • 終章

と言った展開である。

ではそれぞれを見ていこう。

それぞれの内容

導入部

「はじめに」に書いた内容。いわばこの書の場の設定。「月」「文(手紙)」「夢」「涙」「阿弥陀仏」「法華経」について語り合う。

源氏物語論

「法華経」に言及がないとして『源氏物語』を取り上げる。ここで若い女性が聞き役となる。老尼は寝ていて登場しなくなる。

「巻巻の論」

やや「明石」の巻に詳しく言及

「女性論」

『源氏物語』に登場する女性たちを論評。「いみじき女」「このもしき女」「いとほしき女」などに分類して語る。花散里、紫の上、夕顔、中君等を評価。女三宮には以下のような痛烈な論評もある。

(前略)余りに言ふかいひなきものから、さすがに色めかしき所のおはするが、心づきなきなり。(本文33頁)
 あまりに年齢相応の思慮もないくせに、妙に異性関係にだけは神経の働く点が、気に入りません(本書傍注訳)

「男性論」

主人公は別にして、頭の中将について賛否両論的に論評。薫大将は高評価。

「ふしぶしの論」

ここでは女性たちの「死に様」(死の情景描写)について取り上げる。

「いみじきこと」「いとほしきこと」「心やましきこと」「あさましきこと」

いわば枕の草子の類聚章段のように、物語中の話題を取り上げている。

その他の物語論

ここで多くの源氏物語以降に書かれたと思われる物語を取り上げる。詳しく論じているのは七篇ぐらい。あとは書名紹介程度でいずれも評価は高いとは言えない。結局は『源氏物語』ほど求めるものはないということのようだ。

以下の物語だ。

『狭衣物語』『夜の寝覚』『みつの浜松』『玉藻に遊ぶ大納言』『古本とりかへばや』『隠れ蓑』『今とりかへばや』『心高き』『朝倉』『川霧』『岩うつ浪』『海人の刈藻』『末葉の露』『露の宿り』『三河に咲ける』『宇治の河浪』『駒迎へ』『緒絶え沼』『うきなみ』『松浦の宮』『有明の別れ』『夢語り』『浪路の姫君』『浅茅が原の尚侍』

ここには多く散逸物語が含まれていて、文学史上の資料となっている。

歌物語論

これまで語ってきた物語はすべて「偽り・虚言」とし、ここであげる『伊勢物語』『大和物語』は「げにあること」を書いたものだとして取り上げている。ただ、ここは簡単にみんなが知っているからと、「去れば、細かに申すに及ばず。」とし、歌についても「古今集」を見よとだけ言っている。しかもこの簡単な扱いから、これまで語ってきた物語が作り事だからみるべきのもがないと言っているわけではないことが、むしろ伺えると言えるようだ。

歌集論

ここは歌物語の流れから歌集について論じている。ただ少ない分量の中、『万葉集』・『古今集』をはじめ勅撰集・私歌集を論じているだけに詳しい評価はない。
『万葉集』は古すぎてよくわからないとし、『古今集』をはじめ勅撰集は勅撰ということから論ずることを畏れ多いとし、『千載集』のみは編者の苦労を指摘している。
私歌集についてはあまり高い評価をあたえてない。

ただ、この段で注目すべきは以下のことばだ。

「あはれ、折につけて、三位の入道のやうなる身にて、集を撰び侍らばや」(本書104頁)
「いでや、いみじけれども、女ばかり口惜しきものなし。」(同上)
「昔より色を好み、道を習ふ輩多かれど、女のいまだ集など撰ぶことなきこそ、いと口惜しけれ」(本書105頁)

ここは語り手のというより、この書の筆者の本音だろう。漢文は男専用、しかし和文は女のものというのが常識のようだが、和文の世界にも正式に女性が活躍できていないことを嘆いているのだ。では女性が才能がなかったのか、そんなことはない。ということでつぎの女性論となる。

女性論

ここは平安朝の著名な女性たちを取り上げる。

小野小町・清少納言・小式部の内侍・和泉式部・宮の宣旨・伊勢の御息所・兵衛の内侍・紫式部・皇后定子・上東門院・大斎院選子・小野の皇太后宮の12人だ。

以下のようにそれぞれを語っている。

  • 小野小町・清少納言は晩年の落魄ぶりを。
  • 小式部の内侍は命短かかったこと、大江山の歌を。
  • 和泉式部は娘の死がかえって晩年を幸にしたことを。
  • 宮の宣旨も和泉式部同様歌をもって人生を貫いたことを。
  • 伊勢の御息所は出家後の生活がいいことを。
  • 兵衛の内侍は音楽の才を。
  • 紫式部はなんと言っても『源氏物語』を創造したことを。
  • 皇后定子は逆境に対しても気品を失わない生活ぶりを。
  • 上東門院は紫式部が仕えていた。清少納言が仕えていた定子に比べるとやや低い評価を。
  • 大斎院選子の長命であったこと、その老後の生活ぶりがすばらしかったことを。
  • 小野の皇太后宮も晩年のひっそりとした生活ぶりを。

こう読んでくると、この書の女性観は、王朝的な優雅な生活、決して派手というのでもなく、慎ましく花鳥風月をめでて生きるのが良いとするものであったようだ。

終章

最後に、これまで女性ばかりとりあげているのは片手落ちではと聞き手が言うと、それは『栄花物語』や『大鏡』に聞いてくれ(読んでくれ)、といってこの書は閉じられている。

終わりに

こう読んでくると、この書が『大鏡』を意識して、書かれていることがわかる。しかも女性の観点で、女性の(歴史というより)文学を語るという意図がはっきりしてくる気がする。先に引いた「女ばかり口惜しきものなし」という言が響いている。

2023.12.06

この項、了

日本古典文学総復習続編17『世阿弥芸術論集』

書籍表紙

はじめに

また随分間が空いてしまった。前回のアップが6月だったから、なんと4ヶ月を要したことになる。どうも他のことが忙しく古典に向き合うのが疎かになりがちだ。しかしようやく暑さも収まり秋の気配が濃厚になってきたので取り組むことにした。

今回は世阿弥である。能については古典の中で不得意な分野である。どうも近付き難いイメージが強い。なぜだかわからないが現在の能の位置というのが好きになれない。しかし、ここは能を取り上げるわけではなく、それの完成者たる世阿弥の著述である。そしてこの著述を読むと能が現在の古典芸能というものではなく、実に生き生きとした芸能であったことがわかる。また、これらの世阿弥の著述は芸道論を超えて一種の人生論として読む読まれ方が現在あるが、このこともやや違う気がする。古典をどう読もうが自由だが、これらの世阿弥の著述をもっと当時の本来の位置で読んでみたい気がする。

収録作品

前置きはこのぐらいにして、まずはこの書の内容を以下に示す。

「風姿花伝」「至花道」「花鏡」「九位」「世子六十以後申楽談儀」が収録されている。その梗概は以下の通りである。

「風姿花伝」
後述
「至花道」
世阿弥が58歳のときに著した能楽論書。応永27年(1420年)成立。真実の能に到達するための正しい稽古法をおしえたもの。
「花鏡」
嫡子元雅に相伝された一巻。応永31年(1424年)成立。著者40歳以降の自身の思索の成果を収めたもの。
「九位」
成立年不明。仏教の九品になぞらえて能の芸の段階(芸位)を9段階に分けて示したもの。
「世子六十以後申楽談儀」
世阿弥の芸談を次男の元能が筆録したもの。能の歴史や、名人の芸風・逸話、能作・演出の要点などが語られている。

「風姿花伝」の内容

さて、ここでは「風姿花伝」を詳しく取り上げたい。

この書は父の庭訓をその都度書き止めたもので、この家の秘伝書となっている。内容は以下だ。

(「序」)
能風雅な神楽
「風姿花伝第一 年來稽古条々」
七歳・十二、三より・十七、八より・二十四、五・三十四、五・四十四、五・五十有餘
「風姿花伝第二 物學条々」
物真似の本質と限界。女・老人・直面・物狂・法師・修羅・神・鬼・唐事
「風姿花伝第三 問答条々」
九個の問と答え)観客の動静・序破急・自作自演・花能の命・慢心の恐れ・位について・言葉について・花のしおれ・花を知る
「風姿花伝第四 神儀云」
歴史的考察
「風姿花伝第五 奥儀讃歎云」
風姿花伝とはなにか。その風を得て、心より心に傳はる花なれば、風姿花傳と名附く。
「花伝第六 花修云」
謡曲の書き方良き能とは
「花伝第七 別紙口伝」
花とは何か・秘伝と花

まさに能という芸能をいかに他に負けないように演ずるかという一点に内容が絞られている。父観阿弥が早世したために息子の世阿弥がいわば必死に父に追いつくために努力し、またそれを後世に伝えようとした情熱が感じられる内容だ。

このことをよく示す一節を引こう。

「風姿花伝」の本文

問。ここに大いなる不審あり。はや却入りたる爲手の、しかも名人なるに、ただ今の若為手の、立合に勝つことあり。これ不審なり。
答。これこそ、先に申しつる、三十以前の時分の花なれ。古き爲手は、はや花失せて古様なる時分に、珍しき花にて勝ことあり。真実の目利きは見分くべし。さあらば、目利き・目利かずの、批判の勝負になるべきか。
 さりながら、様あり。五十以来まで花の失せざらんほどの爲手には、いかなる若き花なりとも、勝つことはあるまじ。ただこれ、よきほどの上手の、花の失せたる故に、負くることあり。いかなる名木なりとも、花の咲かぬ時の木をや見ん、犬桜の一重なりとも、初花色々と咲けるをや見ん。かやうの譬を思ふ時は、一旦の花なりとも、立合に勝つは理なり。
 されば肝要、この道は、ただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、もとの名望ばかりを頼まんこと、古為手のかへすがへす誤りなり。物数をば似せたりとも、花のあるやうを知らざらんは、花咲かぬ時の草木を集めて見んがごとし。万木千草において、花の色もみなみな異なれども、面白しと見る心は、同じ花なり。物数は少くとも、一方の花を取り窮めたらん為手は、一体の名望は久しかるべし。されば主の心には、随分花ありと思へども、人の目に見ゆるる公案なからんは、田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんが如し。
 また、同じ上手なりとも、その内にて重々あるべし。たとひ、随分窮めたる上手・名人なりとも、この花の公案なからん為手は、上手にては通るとも、花は後まであるまじきなり。公案を極めたらん上手は、たとへ能は下がるとも、花は残るべし。花だに残らば、面白さは一期あるべし。さればまことの花の残りたる為手には、いかなる若き為手なりとも、勝つ事はあるまじきなり。

「風姿花伝」の趣旨

これは「風姿花伝第三 問答条々」の一部だが、ここでも「花」という世阿弥にとっての重要な概念であることばが多用されている。「花」が能の命であることを述べている。ただ注目してほしいのは「立合に勝つ」という部分だ。質問は立合能でベテランに駆け出しの役者が勝つことがあるはどうしてかと言っている。

さて、立合能とは何か?能楽用語事典によれば

流派の異なる演者が同じ舞台に集い、芸を競い合って演じること。別々の曲で競演する場合と、同じ曲中で相舞する場合など様々な形がある。能が新しい芸能として興り、多くの座(芸能集団)が自らの名声を獲得すべく活動していたころ、立合は自らの命運を左右する真剣勝負の場であった。能の大成者といわれる世阿弥も、自身が著した能楽論書「風姿花伝」で、立合に勝つための心構えを述べ、後世に伝えている。

とある。

すなわち能は当時そういうものだったということだ。多くの座が競い合っていた勝負の場であったわけだ。その勝負の場でいかに勝つかというのがこの書の大きな目的だあったわけだ。そして肝心なのは「花」なのだといっている。しかしこの「花」には色々あり、若い為手が持っているのがいわば「時分の花」だ。これにはたとえ名望があっても「花」を失った古為手は敵わない。大事なのは「まことの花」なのだ。これが残っている為手はどんな若き為手にも勝つと言っている。そしてその「まことの花」には「人の目に見ゆる公案」が必要だと言っている。ここでいう「公案」とは元禅で謂う「課題」と謂うことだろうが、ここでは弛まぬ工夫と言ったらいいだろうか。しかもそれは「人の目に」見えなくてはならないとしている。これは観客ということだ。「目利き」という言葉を使っているがこれが「観客」だ。「花」とは目立つ良さといったらいいものだが、単にそれは「田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんが如し」としている。そうではなくて、観客にわかる工夫というものがなければ「まことの花」ではないというのだ。
ここでいかに世阿弥が観客というものを問題にしているかがわかる。実にビビットな論議である。

おわりに

この一文を読んだだけでもいかに当時の「能」が古典芸能と化した現在の「能」と違ったものかがわかる気がする。これは現在の「能」への言われなき小生の偏見かもしれないが。

今回はここまで。

2023.10.25

Youtubeのビデオの字幕の訂正

ここ数日Youtubeのビデオの訂正に時間をかなり費やしてきました。

実は小生がアップした「新WEB開発入門講座」のビデオの自動字幕が全く役に立たないものだったということで、この改善に努力していました。
Youtubeのビデオには自動字幕の機能があります。録音の音声から文字起こしをしてくれます。はっきり聞き取れない部分がかなりあってそれを補ううえで「字幕」は欠かせません。
それにある時気づいたのですが、どうも年のせいか、活舌がわるく、また録音も悪いためか、Youtubeの文字起こしのAIがうまく機能しませんでした。
これはYoutubeのAIの問題もあるかもしれませんが、特に最後のビデオは全くと言っていいほど読み取れないものでした。
そこで字幕ファイルを作成して、それをアップするということをやることにしました。
以下に示す手順でやるのですが、これがなかなか大変でした。

字幕を正確にするための手順

  1. Youtubeの編集画面から「字幕」を選択(この際言語が日本語になていること。動画の詳細の下部で「すべて表示」にして、設定する)
  2. 字幕(自動生成)を表示
  3. その右上の点々をクリック
  4. 「字幕をダウンロード」を選択
  5. ダウンロードに入ったファイル「captions.sbv」をエディタで開く(テキストエディタで開けます)
  6. そして大まかに訂正や文字の統一などを実施して上書き保存する
  7. 再び「字幕」からその右上の点々をクリック
  8. 「ファイルをアップロード」を選択
  9. 「タイムコードあり」を選択
  10. 「エラーがあっても無視して実行」にチェックをいれて実行
  11. 右側のビデオを実行しながらタイミング等を調整し訂正する
  12. 最後まで行ったら「完了」ボタンをクリック
  13. 下に「日本語字幕を公開しました」とでれば終了

なにしろ時間がかかりました。

これは多分原稿を用意して、きっちりと発声すればもっと簡単だったかもしれません。
ただ、このYoutubeの文字起こし機能と編集機能はすぐれていて、ほかにも利用できる気がしました。
よかったらもう一度「新WEB開発入門講座」を見てください。

その際、設定から倍速(ゆっくり過ぎるので)、字幕日本語を選んで再生してください。
ビデオのURLは
 https://www.youtube.com/playlist?list=PLH8RezOPNZUyZiYX-hREAS-Amj8PYrie7

なお、実践編で作成したギャラリーサイトもUPしてあります。よかったら見てください。
 作成したwebsite

日本古典文学総復習続編16『竹馬狂吟集・新撰犬筑波集』

新撰犬筑波集

はじめに

「月に柄をさしたらばよきうちはかな」

この句、予備知識なしでどう思われるだろうか。「実にいい句だ」「いや子供の句だ」「ふざけているんじゃない」などなどいろいろあるだろう。しかし、実はこの句、文学史上大事な句であることは間違い無いのだ。
この句は今回とりあげる「新撰犬筑波集」の巻末近く「発句夏」に掲載されている句なのだが、『芭蕉七部集』中の「あらの」員外の歌仙に山崎宗鑑の発句としてとりあげられ、蕉門の俳人たちが、この句を出発点として歌仙を巻いているという句なのだ。そこにこそこの句の文学史的意味があるように思う。
芭蕉たちの俳諧は連歌の流れを受けながら、時代に即した一つの芸術的な到達点に至ったわけだが、その中間に宗鑑らの連歌の俳諧化があり、その影響があったということだ。
先に連歌を見て来た(リンク)。その連歌は確かに中世的な要素を持っていたが、表現は未だに王朝的な和歌の伝統の中に止まっていたといえる。それを大胆に打ち破ったのが、ここで取り上げる「俳諧連歌」であり、その中心的な人物がこの句を詠んだと思われる山崎宗鑑なのである。
山崎宗鑑らの俳諧の連歌なしには、芭蕉の俳諧はなかったと言っていい。

さて前置きが長くなったが、今回取り上げるのはその山崎宗鑑が編んだと言われる「新撰犬筑波集」とそれに先行したと思われる「竹馬狂吟集」である。

「竹馬狂吟集」について

この書は実は近年発見された物だ。撰者はよくわかってはいない。内容は全十巻全452句を収める。構成は以下の通りである。

  • 第一巻から第四巻 発句 春・夏・秋・冬 全20句
  • 第五巻から第八巻 付け合い 春・夏・秋・冬 全114句(付け合いとしては57種) 
  • 第九巻 付け合い 恋 全32句(付け合いとしては16種)
  • 第十巻 付け合い 雑 全286句(付け合いとしては143種)

「竹馬狂吟集」収録の発句および付け合いの例

A かへるなよ我がびんぼふの神無月(16・巻第四冬部)

B 見えすくや帷雪のまつふぐり(19・巻第四冬部)

C 瓜をも冷やす猿沢の池(63・巻第六 夏部)
あおによし奈良酒のみてすずむ日に(64)

D とめ所なき人の恋しさ(137・巻第九 恋部)
玉づさにあなかしこをも書かずして(138)

E あなおそろしや夜の盗人(141・巻第九 恋部)
若俗に昼寝のものをまづみせて(142)

F 口を吸ひつつ離れやられず(149・巻第九 恋部)
ねぶと持つかうやく売りに契りして(150)

G 槍をにぎりて法師かけけり(179・巻第十 雑部)
稚児の射る引目の音におどろきて(180)

H 出家のそばに寝たる女房(227・巻第十 雑部)
遍昭にかくす小町が歌枕(228)

I 暗き夜に小便所をたづぬらん(311・巻第十 雑部)
そこと教へばやがてしとせよ(312)

J へへのはたこそ濡れわたりけれ(333・巻第十 雑部)
荒いそに舟と舟とを漕ぎ寄せて(334)

K 今ぞ知りぬる山吹の花(359・巻第十 雑部)
あやまつて漆の桶に腰かけて(360)

L 握り細めてぐつと入れけり(371・巻第十 雑部)
葉茶壺の口の細きに大ぶくろ(372)

「竹馬狂吟集」収録の発句および付け合いに対する若干の注釈

語注 帷(薄い単の着物)・まつふぐり(松笠、睾丸の隠語)・玉づさ(手紙のこと、玉門の隠語)・ねぶと(おでき、腫れ物のこと)・引目の音(放屁の音の比喩)・しと(尿)・へへ(女性器)・漆の桶(肥桶)

こう語注を並べただけでいかに卑俗な内容かがわかる。しかし、つけ合いとして読むことが大事である。つまり卑俗な前句をべつな物で「はぐらかす」というところに真骨頂があるのだ。また、まともな前句を卑俗な付句で「落とし込む」という場合も同様である。JやLのつけ合いはまさに上記の「はぐらかす」いい例だ。またKなどはその反対の「落とし込む」例だ。これはある意味連歌からの伝統だが、それを「笑い」に結びつけている点が「俳諧」たる所以だろう。もう一度振り返って鑑賞してほしい。その面白さがわかると思う。

「新撰犬筑波集」について

山崎宗鑑の手になる俳諧集。元は「俳諧連歌抄」と言ったようだ。後に宗祇らの『新撰菟玖波集』に対してそう呼ばれたものと思われる。「犬」という語は「似非」すなわち似て非なるものと言う意があり、よく植物名などにも使われている語だ。一見卑下しているようだが、むしろ連歌に対するはっきりとした対抗心がうかがえる書名ということになる。全416句(長短)が収められている。内容は以下だ。

  • 春 付け合い 全67句(付け合いとしては33種)
  • 夏 付け合い 全30句(付け合いとしては15種)
  • 秋 付け合い 全44句(付け合いとしては22種)
  • 冬 付け合い 全23句(付け合いとしては11種)
  • 恋 付け合い 全54句(付け合いとしては27種)
  • 発句 春夏秋冬 全94句

「新撰犬筑波集」収録の発句および付け合いの例

A 霞の衣すそはぬれけり(1・春)
佐保姫の春立ちながら尿をして(2)

B はなちがしらのうちも寝られす(54・春)
風わたるよるの枕に花散りて(55)

C 五条あたりに立てる尼ごぜ(76・夏)
夕顔の花の帽子を引きかづき(77)

D おそれながら入れてこそみれ(140・秋)
足洗ふたらひの水に夜はの月(141)

E 寒き夜はこそ人丸になれ(150・冬)
うす衾引きかぶりたるかきのもと(151)

F 命知らずとよし言はば言へ(191・恋)
君故に腎虚せんこそ望みなれ(192)

G 内は赤くて外はまつ黒(199・恋)
知らねども女の持てる物に似て(200)

H たとひつくとも人なとがめそ(288・雑)
わが持つは翁さびたる槍ぞかし(289)

I 花よりも団子とたれか岩つづじ(350・発句)

J 月に柄をさしたらばよきうちはかな(373・発句 夏)

K 山の端に月はいで栗むく夜かな(386・発句 秋)

L 帰るなよわが貧乏の神な月(394・発句 冬)

「新撰犬筑波集」収録の発句および付け合いに対する若干の注釈

語注 はなちがしら(放ち髪のこと)・尼ごぜ(ここは遊女、立君のこと)・腎虚(過度の性交による身体の衰弱、男性に言う)

さて、今度はどうだろう。基本はほとんど前著と同様である。それどころか同じ句も少なからず採られている(AとL)。しかし、通読してみてこの書の方がやや表現が穏当のように思われた。冒頭のAの句にしてもこともあろうに「姫」の「立ちながら」の「尿(しと)」を詠んでいるが、句柄はそんなに「いやらしい」感じはしない。Dの句にしろ、前句がなければJの句と同様、なんともほのぼのとした句柄といえる。そう感じるのは筆者だけだろうか。しかし俳諧連歌は連歌であることに間違いはない。すなわち「付け合い」の妙味こそその特徴だからだ。これは一つは後に「前句付け」として大流行した「川柳」に受け継がれる。FやG、Hの付け合いは正にその例と言えるだろう。ただ、一方は談林俳諧の流行を経て、芭蕉たちの蕉風俳諧にしっかりと受け継がれていることにも注目していいと思う。

おわりに

こうした俳諧連歌などの古典を読んでいると、いかに現代の文学が「笑い」「滑稽」といった要素を失ってしまったかを考えさせられる。

最後に先に紹介した『芭蕉七部集』「あらの」員外の歌仙の発句・脇・第三を引いて置く。

月に柄をさしたらばよき団哉 宗鑑
 蚊のをるばかり夏の夜の疵 越人
とつくりを誰が置かへてころぶらん 傘下

ここからは「俳諧」の質が変化していくが。

2023/06/22
この項了

日本古典文学総復習続編15『御伽草子集』

はじめに

いよいよ書かなくてはいけなくなった。
ずいぶんとサボったものだ。前回が確か2月だったからもう3ヶ月を要してしまった。
何も取り組んでいないなかったわけではない。実際に読んではいたし、周辺も調査しメモをとっていた。しかし書くとなると勢いが必要なのだ。
さまざまなことが重なり積読状態がつづいてしまった。
言い訳はこのぐらいにしよう。

御伽草子について

さて、今回は「御伽草子集」だ。
この「御伽草子」は実に書籍によって採られている作品が異なる。
一般に「御伽草子」というと「浦島太郎」や「猿蟹合戦」「一寸法師」などを思い浮かべるのではないだろうか。
しかしこの新潮社の古典集成の「御伽草子集」に納められているのは以下の話である。

浄瑠璃十二段草紙・天稚彦草子・俵藤太物語・岩屋・明石物語・諏訪の本地 甲賀三郎物語・小男の草子・小敦盛絵巻・弥兵衛鼠絵巻

ちなみに岩波書店旧古典文学大系の「御伽草子」には以下の作品が収められている。

文正さうし・鉢かづき・小町草紙・御曹子島渡・唐糸さうし・木幡狐・七草草紙・猿源氏草紙・物くさ太郎・さゞれいし・蛤の草紙・小敦盛・二十四孝・梵天国・のせ猿さうし・猫のさうし・浜出草紙・和泉式部・一寸法師・さいき・浦嶋太郎・横笛草紙・酒呑童子・福冨長者物語・あきみち・熊野の御本地のさうし・三人法師・秋夜長物語

すなわち「御伽草子」と言っても極めて多数の多岐にわたる物語を指しているということになり、編集者によってどれを採るは異なるということだ。

では古来「御伽草子」というまとまった書籍はなかったのだろうか。調べてみると江戸時代に「御伽文庫」なる書籍があったようだ。これは絵入りの冊子で23編が39冊に収められているようだ。実際を見てみよう。

これは、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブで公開公開されている物だ。
『一すんほうし』の部分である。

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さて、岩波の「御伽草子」はこの江戸時代の「御伽文庫」の内容とほぼ重なる。これが今までの一般的な「御伽草子集」ということだろう。しかし、ここで取り上げる新潮社古典集成はこれに異を唱えている。この書の凡例に

御伽草子を室町時代の物語の汎称として用いるのであれば、その二十三篇(「御伽文庫」のということ 筆者注)は、テキストとしても、内容の面からも、御伽草子を代表させるに必ずしも適切とは言えない。

としている。
となると実は以前、岩波の新古典文学大系で『室町物語集』上下を取り上げているので、この書と重なることになる。確かにその中で「岩屋の草子」「小男の草子」「俵藤太物語」は取り上げた記憶がある。『日本古典文学総復習』54 55『室町物語集上・下』

はたして「御伽草子」を「室町時代の物語の汎称」と言っていいかは甚だ疑問だ。むしろ柳田國男がいうようにその源流が「昔語り」にあり、またそれを「御伽衆(おとぎず)」とよばれる人々が全国に広め、後の世で文字化されていった物という理解の方がいいのではないかと思われる。「室町時代の物語の汎称」という括りではそこに入らない物語もあると思われるのだが。

さて、前置きはこれぐらいにして、それぞれの作品?について触れていきたい。なお以前総復習の岩波書店の新古典文学体系の『室町物語集上下』で触れたものはここでは省略する。

収録物語

「浄瑠璃十二段草紙」

義経ものと言っていい話。義経が奥州への下向の途中に出会って、契りを結んだ長者の娘があった。その娘は才色兼備で浄瑠璃御前と呼ばれていた。義経はその娘と別れを告げ、再び奥州へ向かうが、その途次、病に倒れ死してしまう。それを八幡大菩薩のお告げで知った浄瑠璃御前が駆けつけ、神々に祈り蘇生させる、というお話。蘇生話はいろいろあるが、その典型か。絵本・絵巻物としても流布し、操り芝居にもなり、その際12段に編成されたという。

「天稚彦草子」

短いお話。七夕の由来ともいうべき話。長者の娘に大蛇が求婚し、父母を救うために三人娘の末娘だけが承諾する。この大蛇、娘に自分の頭を斬るように頼み、娘がそうするとなんと立派な若者となり、天稚彦と名乗り、二人は幸せに暮らす。ある時天に登った夫の留守中、末娘の幸福を妬んだ姉二人によって禁戒が破られたために夫は天から戻れなくなる。そこで娘は自ら天に登るが、夫の父の鬼にいろいろ試される。結果二人は許されるが、七夕・彦星として、年に一度あうことになった、というお話。古い絵巻が元になった話という。

「俵藤太物語」

以前触れているので略

「岩屋」

以前触れているので略

「明石物語」

俵藤太物語と同様、武家物の一つ。播磨国の豪族、明石の三郎とその北の方の別れと再会の物語。時の関白の息子がこの北の方に横恋慕したのがきっかけ。明石は騙されて奥州に流されてしまう。それを追って奥州に向かった北の方は途次、小夜の中山で男子を出産、絶命寸前に。しかし、山神に助けられ手厚く保護される。一方明石の三郎も脱走に成功し、愛でたく二人は再会をはたす。そして都に上り無実の罪をはらし、その後末長く栄えたというお話。ハッピーエンドです。
愛する男女が外部の迫害によって苦難を受けるが、やがて克服して幸せに暮らすという典型的なお話でした。

「諏訪の本地 甲賀三郎物語」

「本地物」と呼ばれる神の縁起を語った物の一つ。ここは諏訪神社の上社と下社の縁起を語っている。甲賀三郎と春日姫の二人の本地は普賢菩薩と千手観音という。本地垂迹思想の現れ。つまり日本の神々は仏が姿を変えて現れた物だとする考え方。そしてこの物語も愛する男女が外部の迫害で苦難を受けるというパターンだ。主人公の甲賀三郎は愛する春日姫を魔物に奪われる。一旦は姫を取り戻すが、兄の奸計で地底に残される。しかしそこで認められ日本に帰ることができ、二人は再開する。そして神明の法を授かり、神として諏訪神社の上社と下社に現れたというお話。

「小男の草子」

以前触れているので略

「小敦盛絵巻」

『平家物語』の悲劇の主人公のひとり平敦盛の遺児の話。一ノ谷の合戦で平家の公達敦盛を心ならずも討った熊谷直実という人物、その後出家して法然上人の門に入っていた。一方敦盛の北の方は出産した敦盛の遺児を源氏の追手から逃すために下松に捨てる。法然上人がそれを拾い育て、やがて母子が再開を果たす。賀茂の明神によって亡霊ながら父敦盛との対面も果たすことになる。そして母子共々出家し、この遺児は西山の善慧上人と言われる人物となる。いわば『平家物語』の後日談として創作された絵巻である。

「弥兵衛鼠絵巻」

異類物と呼ばれる鼠を主人公とする話。東寺の塔に住んでいた弥兵衛という鼠が、北の方が妊娠して雁の羽交の身を欲しがるので雁に飛びついたところ,そのまま東の奥の常盤の里まで連れて行かれてしまう。しかし弥兵衛は放浪の末、里の長者左衛門という人物に大黒天の使者として大事にされる。やがて都に上る左衛門の荷駄に乗せてもらい、京都に帰って妻子と再会を果たす。その礼に弥兵衛は金銀と共に娘の鼠を左衛門に贈る。子鼠を迎えた左衛門は大黒天の加護で益々栄え三国一の大福長者となった、というお話。鼠となっているものの完全に人間のように描かれているから不思議だ。これも苦難に会うが最後はめでたしめでたしで終わる夫婦の話である。

今回は以上
次回は『竹馬狂吟集・新撰犬筑波集』です。早めに取り組まないとね。

2023.05.25

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