日本古典文学総復習続編13『狭衣物語』上下

はじめに

またまた間が空いてしまった。前回が6月初旬だったから、また丸四ヶ月空いてしまった。その間別段忙しかったわけではなかった。ただ、なんとなくきっかけが取れず、この上下2冊を積読したままにしてしまったのだ。だが、ここへ来て、取り組んでいた別のことが一段落したこともあって(これについてはFacebookで報告している。一つは経済学史のお勉強。もう一つはTPC/IPのお勉強。)、ようやく書けるまでになった。

文学史的位置

さて、今回は久々の平安王朝物語文学だ。この平安王朝物語文学は『源氏物語』によって頂点を見てしまったわけだが、この『狭衣物語』はその後の物語の中ではそれなりの評価を得ているもののようだ。こうした後続の物語は余程の新規軸を出さない限り、どうしても『源氏物語』の焼き直しか、換骨奪胎したパロディかに脱しかねない物だ。この『狭衣物語』もそのご多分に漏れているとは言えないようだ。その人物造形にしても主人公の設定やその相手となる女性陣にしても『源氏物語』の登場人物の色濃い影響が伺える。ただ、文章そのものや、物語中に引かれている和歌に見るべきがあるようで、その後の時代に『無名草子』や藤原定家によって、そうした点が評価されている。

梗概

さて、この物語の内容だが、四巻に分かれているが、主人公は一貫して狭衣の大将と呼ばれている貴種のいわばスーパーマンだ。これは光源氏と同様である。いやむしろ光源氏よりは正統的な出自を持っている青年だ(光源氏は天皇の子とはいえ、母親が更衣という身分の低い女であるが、この主人公は、一旦臣籍に降ったとはいえ、王族の父と母を持っている)。そしてこの青年王族が、さまざまな女性と関係を持っていくという話なのである。ただ、このさまざまな女性との関わりが決して思うようにいくわけではないところに物語の胆がある。これは『源氏物語』でいえば、宇治十帖の源氏の子、薫大将の物語に近いかもしれない。特に「源氏の宮」と呼ばれる女性との関係がこの物語の縦糸として重要な役割を持っている。ここからこの物語をみていくこととしよう。

登場する女性たち

源氏の宮

この「源氏の宮」という女性は、主人公の母親の姪にあたる人物として設定されている。その主人公の母は、亡くなっている先の帝の妹で、その先帝の娘が「源氏の宮」なのである。そして叔母にあたる主人公の母親がこの姪を養女として引き取って、同じ屋敷に住まわせていたのである。したがって主人公とはいわば兄妹のように育てられたということになっている。しかし成長とともに「源氏の宮」の美しさが際立つようになり、主人公も女性として思慕するようになる。この「源氏の宮」、以下のように書かれている。

十に四つ五つあまらせたまへる御かたち有様、見たてまつらむ人はいかなる武士なりともやはらぐ心はかならずつきぬべきを、中将の御心のうちはことわりぞかし(ここでいう「中将」とは主人公狭衣のことである。)

もう一箇所。これは実際に狭衣が暑いある日「源氏の宮」に会った場面の「源氏の宮」の描写。

昼つかた、源氏の宮の御かたに参りたまへれば、白き薄物の単衣着たまひて、いと赤き紙なる書を見たまふ。御色は単衣よりも白う透きたまへるに、額の髪のゆらゆらとこぼれたまへる、その裾のそぎ末、幾年を限りに生ひゆかむとすらむと、ところせげなるものから、たをたをとあてになまめかしう見えたまふ。隠れなき御単衣に御髪のひまひまより見えたる御腰つき、腕などのうつくしさは、人にも似たまはねば、…

どちらかというと、成熟した女性というより、可憐な美しさを持った女性として描かれている。こうした表現を読むとやはり王朝女流物語文学だなあと今さらのように感じる。
さて、そんな「源氏の宮」への思慕の情が募って、ついに打ち明けるが、「源氏の宮」はただおののくばかりであった。そしてこの時以来彼女は狭衣の思いを拒否し続けることとなる。最終的にはこの「源氏の宮」は賀茂の斎院に卜定される。すなわち神の妻となって、誰とも関係を持たないこととなる。つまりは狭衣はこの思いを遂げることができずに最後まで物語を生きるということになるのだ。

飛鳥井の女君

次にこの物語の中で重要な役割を演じるのが、この「飛鳥井の女君」と呼ばれる女性だ。
この女性、「源氏の宮」とは違って実に薄幸を絵に描いたような女性として登場している。太宰の帥の中納言の姫君という出自だが、父は既になく乳母の元で育てられているが、後見人の仁和寺の法師に誘拐・略奪されそうになる。そこをたまたま目撃した狭衣に助けられる。そしてそのまま結ばれることになる。
その時のやりとり

(女)とまれともえこそ言われぬ飛鳥井に 宿りはつべきかげしなければ (お泊まりくださいとはとても口に出せないのです。私の家にはあなた様を気持ちよくお引き止めできるようなしつらえが、何一つございませんので。)
 と言ふさまぞ、なほその水影見ではえやむまじうおぼされける。
 (狭衣)飛鳥井に影見まほしき宿りして みまくさがくれ人やとがめむ (そなたの家でゆっくりとお姿を見たいもの。私が泊まると、誰か隠れている人が見咎めると言うのかね)(()内の和歌の意訳は本書頭注による)

こうしてこの女性、主人公と関係を持つことになり、やがて身篭り、娘を産むこととなるのだが、狭衣の家来筋に当たるものにみそめられて、またもや略奪され、筑紫へと連れて行かれそうになり、途中で海に身を投げたという話となる。これはこの男性が狭衣の家臣だと知ったためであり、抵抗を示すためであった。しかしこの入水は後に未遂だったということになるのだが、物語的にはこの時点では全く入水して亡くなったように描かれている。いわばこの女性、狭衣だけに身を許し、他の男には操を守り通したということになる。
そうして後に主人公が出家を思い立ち吉野に行った際に、この「飛鳥井の女君」が兄の法師の手で救われていたことを知る。また遺児がいることも知るのであった。この「飛鳥井の女君」には、入水事件から『源氏物語』宇治十帖に登場する「浮舟」の面影を感じるが、設定から言うと「夕顔」のような存在だったのかもしれない。

女二の宮

さて、次はこの物語で独特な位置を占めるのがこの「女二の宮」という女性だ。この女性、その名から天皇の娘で、実は狭衣の妃候補だったのだが、狭衣が「源氏の宮」への思いから断っていた相手なのだ。そのくせ狭衣はふとした機会にこの女性と関係をもってしまう。(なんて奴だ!)。そして「女二の宮」は孕ってしまうのだ。しかし周囲はその相手が狭衣だということを知らず、天皇の娘が誰とも知れない男の子を宿したということになり、大変なことになる。そこで母親が子を宿したということにし、娘「女二の宮」が産んだ男子を自分の子として育てようとする。しかし、その後、狭衣の子とわかって母后は憤死し、「女二の宮」は悲観して出家することとなるのだ。だが、こうした経緯があるのに(いやあるからこそか)主人公狭衣はこの「女二の宮」への執心が止まず、きりに二の宮に接近しようとするが、宮はがんとして逢あおうとはしない。その場面。

風の迷ひにやをら押しあけて見たまふに、御殿油ほのかにて、もの見分くべうもなけれど、「さにや」と見ゆる方ざまに伝ひ寄りたまふにほひの、人よりはことに、さとにほひたるを、おぼしやりつるもしるく、姫宮はいつも解けて寝させたまふことなかりければ、「あやし」とおぼして少し見やりたまへるに、あさましく思ひかけざりし夜な夜なに変はらねば、その折よりもいま少し心騒ぎせられて、萎えたる御単衣を奉りて、御張の後にすべり下りたまふも、わたわたとわななかれて、とみにも動かれたまはざりけり。

ある晩狭衣が「女二の宮」の寝所に押し入った場面。彼女はこんなこともあろうかと日頃から警戒していて、その香の香りからすぐに狭衣だと気づき、単衣一枚で震えながら几帳の影に隠れたという。ここにこの女性の真骨頂が現れている。ここも拒否する女性が描かれている。

一品の宮・式部卿宮の姫君

「一品の宮」というのは一般名詞である。すなわち序列一番目の皇女という意味である。したがって人物関係がわかりにくくなるが、ここでは一条院の皇女で飛鳥井の女君の遺児を養育していた人物を指す。狭衣は自分と飛鳥井の女君との間にできた子に会いたさにこの宮のところに足繁く通う。これが誤解を産んで、この宮に狭衣が好意を寄せていると思われ、やむなく結婚することになる。しかしこの結婚はそうした周囲の誤解からさせられたものであり、二人の関係は最初から冷えたままであった。
もう一人の結婚相手が「式部卿宮の姫君」である。この女性は終生思い続けている「源氏の宮」に似ているということで結婚した人物。ここも「一品の宮」と同様な公的な妻という立場にすぎない女性として登場している。

今姫君

最後にどうしてもここで取り上げたい女性がいる。この女性、この物語では異色の存在だ。
「今姫君」という呼称は、新しい姫君という意味で、これもまた一般名詞だが、ここでは狭衣の父堀川大臣の落胤とされる人物で、母親は宮中に仕える女房であった、という。だが母・乳母が相次いで亡くなったということで、堀川邸に引き取られていた。そしてその後、帝の妃として入内するという話になっていた。しかし、この姫君がなんと、よくいえば天真爛漫、悪くいえば幼稚で無教養な女性として登場させられている。そういう意味ではこれまで見てきた女性たちとは全く異なる女性なのだ。笑いの対象となってしまっている場面もある。入内を目前に控えた「今姫君」に琵琶の指導を施すために訪れた狭衣の前で、「いたち笛吹く、猿かなづ」という歌詞の、情趣もない風俗歌を演奏し始め、母代がそれに興に乗って歌いだしたりする場面だ。それを狭衣は、

をかしなども世の常のことをこそ言へ、明け暮れものむつかしき心の中、今日ぞみな忘れぬるに、思ふままにも伏しまろぴえ笑はず念ずるぞ、いとわぴしかりける。

という気分になるのだ。明らかに彼女は他の女性たちとは違っている。これまで取り上げた女性たちはその質はことなるものの、狭衣にとっては「明け暮れものむつかしき心の中」にある女性なのだ。しかしこの「今姫君」は良くも悪くもそうしたことを「みな忘れ」させてくれる存在だと言っている。『源氏物語』の女三ノ宮、末摘花、玉鬘に擬する向きがあるようだが、それはともかく、この女性の存在はこの物語に明るい要素を付け加えていると言える。
結局この女性は入内などせずに、思いもかけず結ばれてた大納言によって自邸へ迎えられ、多くの子に恵まれて安定した結婚生活を送ることとなる。めでたしめでたしというわけだ。
だが、主人公はめでたしとはいかない。最後まで満足いく女性との関係は築けず、出家も思うようにできずに、天皇になったものの、さまざまな思いをのこしたままこの物語は終わる。

まとめ

こうして『狭衣物語』を読んでくると、狭衣大将という男性の物語というより、さまざまな宮中に生きる女性の物語だという気がする。書いたもの多分宮中の女性だろうし、こうした物語の読者も宮中の女性たちだったろう。しかし、理想の男性像や女性像が描かれてはいない。なぜか男性を拒絶する宮中の上位の女性を描いているのがこの物語の最大の特徴のように思われた。
今回はここまで。
2022.11.08

日本古典文学総復習続編12『古今著聞集』

はじめに

大分間が空いてしまった。前回書いたのが2月始めだったから丸4ヶ月を要したことになる。
こうした締め切りのない仕事はいいようで、いくらでもサボれるので良くない。自分でしっかり締め切りを作らなくてはいけないのかもしれない。

さて、今回は『古今著聞集』だ。説話集である。これまでもいくつか説話集を読んできたが、これは『今昔物語集』とならんで、まとまったやや大部の書である。こうした説話集は『日本霊異記』に始まったと言えるが、その展開は日本文学史の中でも大きな役割を占めていると言える。これまでも以下の説話集について書いてきた。

『日本古典文学総復習』30 『日本霊異記』
『日本古典文学総復習』31 『三宝絵』『注好選』
『日本古典文学総復習』32 『江談抄』『中外抄』『富家語』
『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』123
『日本古典文学総復習』40『宝物集』『閑居の友』『比良山古人霊託』
『日本古典文学総復習』41『古事談』『続古事談』
『日本古典文学総復習』42『宇治拾遺物語』『古本説話集』

概略

特にこの中では『今昔物語集』が一番大部なものである。そしてそれから約130年後に編まれたこの書がそれに次いで大部なものとなっている。今昔もそうだが、この書も説話を分類整理して編集している点に大きな特徴がある。この書には約700話の説話が収められているが、それを30編に分類整理し、それぞれの編には「序」をつけている。(この集成本は上下二巻で以下のようにまとめてある)
上巻
神祇、釈教、政道忠臣・公事、文学、和歌、管絃歌舞、能書・術道、孝行恩愛・好色、武勇・弓箭、馬芸・相撲強力、(巻第一から巻第十、第1編から第15編まで)
下巻
画図・蹴鞠、博奕・偸盗、祝言・哀傷、遊覧、宿執・闘諍、興言利口、恠異・変化、飲食、草木、魚虫禽獣(巻十一から巻第二十、第16編から第30編まで)

これを見てもわかるように実にさまざまな説話を収集していることがわかる。収集ということは当然以前の説話集にとられている話も多くある。(また、「抄入」という形で著者とは別な人物が『十訓抄』などから付け加えたと思われる話も少なからずそれぞれの巻末にある)

また、その分類も大きく上巻にある内容と下巻にある内容とでは傾向が違うのがわかる。上巻にはいわば公的な内容が多く、中世ではあるが貴族的な観点からの話が多いように思われる。しかし下巻はやや卑属な内容の話が多くなる。分類名を見ただけでもそれがわかるだろう。今回はそれぞれの巻(集成の上下)から一話づつ取り上げてみたい。

「馬芸・相撲強力」から第377話

まずは上巻でもやや卑俗な側面のある「馬芸・相撲強力」から第377話
「佐伯氏長、強力の女高島の大井子に遇ふ事並びに大井子、水論にて初めて大力を顕はす事」
を取り上げたい。

この話はこの時代の説話によく登場する美女でありながら男勝りの女性の話だ。

佐伯氏長という力自慢で京都に相撲節会にでかける男が、高島というところで水を汲んでいる美女に出会い声をかける、というより腕を掴んで親しくなろうとする。ところがこの美女、この男の腕を挟んだまま家まで引きずっていってしまう。あまりの力に驚いたが、近くで見るこの女は一層美しく、しかもこの男を家に置いてくれることになる。
そしてこの女、氏長に、「その程度の力自慢では方々からやってくる男たちにはかなうまい、一つ自分が鍛えてあげる」というのだ。時間に余裕があったので鍛えてもらうことになった。その鍛え方が変わっていた。噛めないような硬い握り飯を女が作り、この男に食わせるというものだった。はじめは全く歯が立たなかったが、3週間もすると食べられるようになり、すっかり強くなったという。そしてこの男を京に登らせたというのだ。(はじめこの男この女に「歯が立たない」。しかしやがて「歯が立つようになった」ということだろうか。)

実はこの力の強い美女、大井子といって田んぼを多く持っていた女であった。田に水を引くべき時、村人がこの女と争いになり、この女の田に水をやらないようにしたという。しかしこの大井子、夜陰に乗じて大きな石を運んで逆に村人の田に水が行かないようにしてしまった。これには村人たちもこまり、百人からの村人を動員して石を動かそうとしたけれど動かなかった。そこで仕方なく大井子に詫びを入れて、石を動かしてもらったという。まさに「百人力」というわけだ。文末に

「件の石、おほゐ子が水口石とて、かの郡にいまだ侍り」

とあり、この百人力の美女の伝説の記念となっているようだ。この話は『日本霊異記』にもあるようだが、相撲の節会の話と結びつけて語られたのはこの書の発想のようだ。実に中世にはこういうたくましく、しかも美しい女性がいたということだ。

「興言利口」から第551話

次に下巻からは「興言利口」から第551話
「ある僧一生不犯の尼に恋着し、女と偽りてその尼に仕へて思ひを遂ぐる事」
を取り上げてみたい。

この話、ややエロティックで長いのだが、ここは本文にそって口訳してみたい。

いまだ男性と通じたことない尼がいた(一生不犯の尼)。しかも女盛りで、容貌もよく、暮らし向きも不如意ではなかった。その尼が外出した際、ある僧が見初めて、後をつけ、居処を見届けた。この僧、その後もこの尼のことが忘れられず、この尼のところを尋ねた。この僧は男ながら尼僧に似ていたので、尼僧のふりをして尋ねたのだ。そして「自分は夫に先立たれて尼になった、宮仕えも叶わないので、もし良ければ置いてくれないか、なんでもするから。」と言い、この尼のもとに置いてもらうこととなった。それから数年の間、甲斐甲斐しく尼に仕えて信用を得ることができた。ついにはこの尼の近くに寝ることさえ許されるようになった。
さて、二回の年の暮れを過ぎ、正月の七日間、この尼が「別事念仏」といって持仏堂にこもって念仏修行に勤めた。それが開けた八日目の夜、尼はすっかりつかれてぐっすり寝てしまった。そこでこの僧、「ついに思いを遂げる時が来た、よくぞ三年も我慢してきた、もういいだろう。」ということで、

よく寝入りたる尼のまたをひろげてはさまりぬ。かねてよりしかりまうけたるおびたたし物をやうもなく根もとまで突きいれけり

ということとなった。(ここはリアルに口語訳はあえてしませんよ。)尼は

おほきにおびえまどひて、何といふ事なくひきはづして、持仏堂のかたへ走り行きぬ。(何を引き外したがはわかりますよね。)

といことになってしまったので、この僧は「どうしよう、よせばよかったと」思い、持仏堂の角の柱のもとでかがまっていると、持仏堂からかねを打ち鳴らす音がして、尼は戻ってきた。これはいよいよ「とが」はまぬがれないと僧は思ったが、何やら尼の機嫌は悪そうでなく、「どこにいますか」と聞くではないか。そこで「ここにおります」とこたえると、

やがてまたをひろげて、おほはりかかりてければ、返す返す思ひの外におぼえて、やがておし伏せて年比の本意、思ひのごとくに責め伏せてけり。」ここも口語訳しませんがわかりますよね。)

ということになった。そこで僧は尼に「最初の時はなんで引き抜いて持仏堂に入ったのですか。」と尋ねると、なんと尼が答えるには

『これほどによき事をいかがはわればかりにてあるべき。上分、仏に参らせんとて、かねうちならしにまいりたりつるぞ』と

「これほどによき事」とは、なんて素晴らしい物言いでしょう。そしてその「うあまえ」を仏に捧げるとは。そして

この後は、うちたえて隙なくしければ、女男になりてぞ侍りける。(何をひまなくしたのか、わかりますよね。)

ということで、めでたしめでたし。

この話、実にいいではないか。尼僧に化けてまんまと思いを遂げた僧は気弱で実に我慢強い男だし、この尼僧も実に正直でいい。中世でも(だからこそか)明るさを感じる話だと思うけど、どうでしょう。こういうの好きなですよ。明るいエロティックコメディー、見ないよなこういうの最近!

ところで、この「興言利口」とはなんでしょう。小序によれば、

興言利口(きょうげんりこう)は、放遊境を得るの時、談話に虚言を成し、当座殊に笑ひを取り、耳を驚かすこと有るものなり。

ということ。すなわち笑い話ということのようだ。そしてこの項目70話という多さで、全体の10分の1を占めている(全体は30項目700話)ことから編者の橘成季も笑い話の好きな人物だったのだろう。

まだ、まだ紹介したい話はあるのだけれど、この辺で終わりにしておく。

2021.06.07

日本古典文学総復習続編11『建礼門院右京大夫集』

大原寂光院

久しぶりに古典文学総復習。
今回は『建礼門院右京大夫集』
西行を書いたのは去年の12月の初めだから、約2ヶ月経ってしまった。
手元にこの書籍を置いて、時々ページを括っていたが、どうも書く気持ちが湧いてこなかった。
山家集ほど大部でもないし、読みにくいものでもない。なのに書くきっかけがわかなかった。
そして2月になり、なんとか書ける気がしてきた。
そこでたどたどしくはあるかもしれないが、書いてみることにする。

この建礼門院右京大夫と言う名はこれまでも知ってはいた。また、一部の文章は高校の古典教科書にも取られていたし、入試問題にも取り上げられていたからだ。しかし、しっかり読んだことはなかった。

読んでみてまず感じたのは「王朝女流日記」だなと言う印象だ。建礼門院右京大夫は歌人だとばっかり思っていたが、むしろ紫式部や清少納言のような存在だったようだ。したがってこの書は私歌集というより、紫式部日記や枕草子、いや「更級日記」や「蜻蛉日記」に近いような気が、まずした。冒頭に以下の序文らしき文がある。

 家の集などいひて、歌よむ人こそ書きとどむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず。ただ、あはれにも、かなしくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることどもの、あるをりをり、ふと心におぼえしを思い出らるままに、わが目ひとつ見むとて書きおくなり。

私歌集ではない、とわざわざ断っている。そしてここで言う「あはれにも、かなしくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることども」は作者が宮仕していた時のことだから、やはり宮中女官日記という色彩だ。

前半はそうした華やかな宮中生活が描かれる。

「建礼門院」とは平清盛の娘で、後の安徳天皇の母である。その人物に仕えたのがこの作者建礼門院右京大夫と言うことになる。
そこにまさに我が世の春を謳歌する平家の公達たちが出入りし、作者もまたそうした男性たちと交流する。そんな宮中生活が回想される。

ただ、先行する平安時代の女流日記と決定的に異なるのはその時代背景だ。
藤原氏全盛の中で生きた先行する女官たちとは全く違った世界がそこにはあった。

やがて平家は滅びの道を歩むこととなる。
平家は貴族的な振る舞いをしていたが、結局武門なのだ。武門である以上「戦い」が待っている。
そしてその戦いで源氏に追い詰められた平家は最後に壇ノ浦で滅んでしまう。
建礼門院はその壇ノ浦で幼い安徳天皇とともに入水することとなる。
ただ、自分だけは源氏に助けられ、その後も生なければならなかった。

建礼門院はいわば平家の隆盛から滅亡にいたる歴史をまさに生きた象徴的な人物なのである。
その人物に仕えた作者もまたそうした大きな歴史の流れの中に生きたわけだ。

しかも実は作者は、平重盛の子で一族同様壇ノ浦で死んでいる資盛と言う人物と恋仲になっていたようだ。こういう言い方をするのは、はっきり書いてはいないからだが、この書の中心がこの恋愛体験の回想にあるのはまちがいない。

資盛がこの書ではっきり名で登場するのは歌の作者としてである。

 もろともに 尋ねてをみよ 一枝の 花に心の げにもうつらば(11)(番号はこの書内の歌番号)

という歌の前に「資盛の少将」とある。

この歌は

 さそはれぬ 憂さも忘れて ひと枝の花にそみつる 雲のうへ人(9)

という作者の歌(ただし中宮の依頼で詠んだ歌)の返事の一つ(もう一つは「隆房の少将」のもの)だが、この歌はまさに誘いの歌に違いない。
この作者の歌は「花見に誘われなかった憂さもわすれて中宮の御方の人々は桜の枝の素晴らしさに見とれています」と言った意味だが、これは平家の公達が花見の土産に桜の枝を中宮に持ってきたお礼の歌だ。それを資盛は筆者の思いと受け取って「だったら今度は一緒に行ってみませんか」と言っているわけだ。

ただこの登場は名が記されているだけに、恋の記憶と言ったところまでいっていない。資盛の回想は飛び飛びにいくつか現れるが、やはり一番象徴的なのは「雪の朝の橘の枝の記憶」ということになりそうだ。「雪の深くつもりたりしあした、」で始まる部分とそれを思い出す「橘の木に雪深くつもりたるを見るにも、」の部分だろう。その部分の歌が以下だ。

 とし月の つもりはてても そのをりの 雪のあしたは なほぞ恋しき (114)

 立ちなれし み垣のうちに たち花も 雪と消えにし 人や恋ふらむ (247)

また、梅の花に資盛を忍ぶ章段もある。その段の歌。

 思ふこと 心のままに 語らはむ なれける人を 花も偲ばば (210)

こうした資盛に対する追憶の部分が実は飛び飛びに現れる。これもこの書の特徴と言えるが、どんな意図があってそうしているのかはわからない。

また、資盛だけでなく肝心の建礼門院に対する気持ちも語られているのは勿論だ。
大原に建礼門院を訪ねた章段にある歌。

 今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき (239)

 なげきわび わがなからましと 思ふまでの 身ぞわれながら かなしかりける (242)

華やかだった時期をともに生きただけに、一層いまの零落した姿が直視し難かったのかもしれない。しかもあわせて資盛のことを思うと「死」まで考えてしまうと言っている。

ただ、こうした資盛や建礼門院への思いのみにこの書は覆われているわけではない。
年上の手練手管のプレイボーイとの恋の駆け引きや再び後鳥羽上皇の宮中に出仕したことも語られる。また、まとまった歌の紹介などもある。歌人としてはそれほど名を残していないが、やはり歌に生きた女性であったことも間違いない。

最後に定家から「書置きたる物や」と尋ねられたことが記されている。

 言の葉の もし世に散らば しのばしき 昔の名こそ とめまほしけれ (358)

   かへし   民部卿

 おなじくは 心とめける いにしへの その名をさらに 世に残さなむ (359)

   とありしなむ うれしくおぼえし。

これが結びである。やはり歌人としての自負はあったと思われる。

藤原氏絶頂期に生きた女流文学者は多く取り上げられるが、平安末期平氏が滅亡に至る時代を生きた女性として、この建礼門院右京大夫もっと取り上げられてもいいと思った。

この辺で終わりにしたい。

2023.02.07

日本古典文学総復習続編10『山家集』

久しぶりの古典文学総復習

今年も終わりになりそうなので、なんとかもう一冊ということで、今回は西行の『山家集』。
実はこれまでも西行についてはこの総復習で触れてきている。試みに検索すると6篇ほどで名前が挙がっている。
『千載和歌集』、『新古今和歌集』は当然のこと。『新古今和歌集』の項では「歌人別では一番多くの歌が取られているのがなんと西行である。94首ある。これは後鳥羽院の西行好きが影響しているのだろうか?」と書いている。『中世和歌集鎌倉編』には「西行晩年の最も小規模な自選詩華選」とした『山家心中集』がある。
また、『室町物語集上』には「歌人西行は多くの伝説があり、後の世にも多くを語られた人物だが、この物語は歌人としての西行よりも、恩愛の執着と葛藤する西行の発心・道心を印象深く簡潔に描いている」と書いた「西行」という物語がある。
さらには『とはずがたり』の項では「作者二条は幼いころ西行の旅の絵を見て旅に憧れたという記述が初めの方にある。」と書いている。
珍しいところでは江戸時代前期の狂歌集である『古今夷曲集』の中に西行を題材にした狂歌まである。
というようにいかに西行が日本の古典文学の中で大きな存在であるかがわかる。これは江戸時代の芭蕉や近代になってからの文学者たちからも敬愛され続けたことからも言える。いったいその理由は何なのだらろうか。単に、「優れた歌人で多くの名歌を残したから」、だけではないようだ。これは西行の人生にあるようだ。名門の武家であった(後の世に一世を風靡する平清盛といわば同僚であった)が、23歳の若さで突如出家し、その後は漂白に身をやつし、山に籠る生活を送ったとされるその人生選択が好まれるからのようだ。実際のところはどんな事情とどんな人生だったかはわからないが、この辺りは後の世に流布した「西行物語」や「西行物語絵巻」が果たした役割が大きいように思う。いわば伝説化した人物であったことには間違いはない。

さて、それはともかく、今回は西行の最大の個人歌集である『山家集』をしっかり読んでいくことにする。
『山家集』は個人歌集(私歌集)としては大部なものである。上中下三巻、1552首の歌を収める。
上巻は四季で、春173首、夏80首、秋237首、冬87首、計577首を収め、
中巻は恋と雑で、恋が134首、雑が330首、計464首
下巻は雑で511首(内恋100首)という構成になっている。

これらを全て詳細に読むことはできないので、3種の歌をとり挙げてみたいと思う。それは「花(さくら)」「月」、「恋」の歌である。実はこの3種のテーマの歌が極めて多いのだ。それに気づいた時、すぐに芭蕉のいわゆる歌仙式を思い出した。「なるほど」と一人で合点した。芭蕉は西行を敬愛していた。芭蕉たちによって完成した俳諧のいわゆる歌仙式は連歌の伝統から引き継いで三六句のうち必ず「ニ花三月」といって、「花」の句二句と「月」の句三句を詠むことになっている。(ちなみに「月」は定座といってきまったところで詠むことになっている)しかも「恋」の句も必ず含むように定められているのだ。しかしこれは余談。早速実際の歌を引いておく。(WEB上の優れた歌集「千人万首」に引かれた歌を中心に、ただし表記は「日本古典集成」の表記とする。)

先ずは「花」すなわち桜の歌から

64 おしなべて 花の盛りに なりにけり 山の端ごとに かかる白雲
66 吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき
67 あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき
68 花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける
76 花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に
77 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
78 仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば
108 いかでわれ この世のほかの 思ひ出でに 風をいとはで 花をながめん
118 もろともに われをも具して 散りね花 憂き世をいとふ 心ある身ぞ
119 思へただ 花のちりなん 木のもとに 何をかげにて わが身住みなん
120 ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ
134 風さそふ 花のゆくへは 知らねども 惜しむ心は 身にとまりけり
987 空わたる 雲なりけりな 吉野山 花もてわたる 風と見たれば

100首を超える「花」の歌から、筆者としてはいわば無作為に抽出したものだが、何か特徴がある気がする。それは「心」や「身」という言葉だ。桜の咲く、または散る情景を詠むというのではなしに、自分の「心」や「身」に、つまりは自分の「生」に関わるものとして花を詠んでいる気がする。有名な77番の歌は「その通りになった」と伝説に言われている歌だが、釈迦入滅の日(旧暦2月15日)に自分も死にたいという気持ちを歌ったというより、なにしろ満開の桜と自分が同化するようになりたいという願望のように思える。118番の歌などはその気持ちをズバリ歌っているように思えるのだが。

そして「月」の歌

311 播磨潟 灘の深沖に 漕ぎ出でて あたり思はぬ 月をながめん
333 うちつけに また来ん秋の 今宵まで 月ゆゑ惜しく なる命かな
349 月を見て 心うかれし いにしへの 秋にもさらに めぐりあひぬる
350 なにごとも 変はりのみゆく 世の中に 同じ影にて すめる月かな
351 夜もすがら 月こそ袖に 宿りけれ 昔の秋を 思ひ出づれば
353 ゆくへなく 月に心の すみすみて 果てはいかにか ならんとすらん
773 月を見て いづれの年の 秋までか この世にわれが 契りあるらん
774 いかでわれ 今宵の月を 身にそへて 死出の山路の 人を照らさん
1104 深き山に すみける月を 見ざりせば 思い出もなき わが身ならまし
1407 雲晴れて 身にうれへなき 人の身ぞ さやかに月の かげは見るべき

月については万葉の昔から多くの歌が作られてきたようだ。これは現代と違って、闇が深かった、昔の人々にとって、特別な感情を呼び起こす存在だったことによる。しかし「月並み」という言葉があるように歌や俳諧にとっての「月」は次第にありきたりな存在に成り果ててしまったようだ。西行にとってはどうだったか。ややその傾向が見え始めた時代だったかもしれない。しかし、もう一つ、仏教において「月」が特別な意味を持っていることに注目しなければならないといえる。「仏教では悟りの姿を月に見立てて、「真如の月」と言ったりもします。「真如」という言葉は、ありのままの姿、万物本体としての、永久不変の真理という意味があります。そして、「真如の月」と言った場合には、仏の教えの言葉となって、真如(永久不変の真理)によって煩悩の迷いが晴れるという意味になります。月の光は仏の慈悲の光と同じように考えられていたのかもしれませんね。」(京都芸術大学通信教育部ブログから)というように。西行の「月」はやはり月並みな情景としての「月」というより、仏教的な意味の「月」だった気がこれらの歌から読み取れるようだ。

最後に「恋」

617 知らざりき 雲居のよそに 見し月の かげを袂に やどすべしとは
618 あはれとも 見る人あらば 思はなん 月のおもてに やどす心は
620 弓張の 月に外れて 見し影の やさしかりしは いつか忘れん
621 おもかげの 忘らるまじき 別れかな 名残りを人の 月にとどめて
628 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる 我が涙かな
644 くまもなき をりしも人を 思ひ出でて 心と月を やつしつるかな

599 葉隠れに 散りとどまれる 花のみぞ 忍びし人に 逢ふ心地する

653 数ならぬ 心の咎に なし果てじ 知らせてこそは 身をも恨みめ
658 なにとなく さすがに惜しき 命かな あり経ば人や 思ひ知るとて
675 さまざまに 思ひ乱るる 心をば 君がもとにぞ 束ねあつむる
682 人は憂し 嘆きはつゆも 慰まず さはこはいかに すべき心ぞ
685 今ぞ知る 思ひ出でよと ちぎりしは 忘れむとての 情けなりけり
710 あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 来ん世もかくや 苦しかるべき

1269 逢ふまでの 命もがなと 思ひしに くやしかりける わが心かな
1320 いとほしや さらに心の をさなびて 魂切れらるる 恋もするかな

先に紹介したようにこの『山家集』には中巻と下巻に250首近くの「恋」の歌が収められている。僧侶であった西行にこれだけの「恋」の歌があるのは一見不思議である。しかし、「恋」は伝統的に歌のテーマであり、西行自身も出家以前には多分情熱的な「恋」を経験しているという。ここは前とのつながりからまず「月」と絡んだ「恋」の歌6首、「花」と絡んだ「恋」の歌1首、中巻の部立て「恋」から6首、下巻の「恋百首」から2首を引いておく。
さて西行は実際の「恋」を歌ったんだろうか。例えば621の歌、これなどは「後朝の別れ」が実体験的にあった上での歌のように思われる。また、自分より遠い存在の女性を思う気持ちが実際にあったようにも思われる。653の歌などはまさにそのことが率直に歌われている。また、710の歌などは西行にしか詠めない心の叫びと言っていい歌だ。

ここまで西行の歌を「花」「月」「恋」と絞ってみてきたが、他にも多くの優れた歌があるはずだ。しかし、今のところこれ以上は手に負えないので、今回はここまでにしておく。

2021.12.09

この項了

日本古典文学総復習続編9『和漢朗詠集』

 随分間が空いてしまったが、久しぶりに古典文学総復習続編を報告できることになった。約2ヶ月を要してしまった。今回は時代が戻ってしまうが、『和漢朗詠集』という詩歌集。そんなに大部なものではない。
 この書はその名の通り朗詠すなわち歌うための漢詩・漢文・和歌のアンソロジーである。平安時代中期の人で公卿の藤原公任という人物が編集したと言われている。成立は1013年ごろと言われている。
 内容は上下二巻で上巻が四季に分類され、下巻がいわば「雑」の部で以下の分類になっている。
上巻 春 立春 早春 春興 春夜 子日付若菜 三月三日付桃花 暮春 三月尽 閏三月 鶯 霞 雨 梅付紅梅 柳 花 落花 躑躅 款冬 藤
   夏 更衣 首夏 夏夜 納涼 晩夏 橘花 蓮 郭公 蛍 蝉 扇
   秋 立秋 早秋 七夕 秋興 秋晩 秋夜 八月十五夜付月 九日付菊 九月尽 女郎花 萩 槿 前栽 紅葉附落葉 雁付帰雁 虫 鹿 露 霧 擣衣
   冬 初冬 冬夜 歳暮 炉火 霜 雪 氷付春氷 霰 仏名
下巻 雑 風 雲 晴 暁 松 竹 草 鶴 猿 管絃附舞妓 文詞附遺文 酒 山附山水 水附漁父 禁中 古京 故宮附故宅 仙家附道士隠倫 山家 田家 隣家 山寺 仏事 僧 閑居 眺望 餞別 行旅 庚申 帝王附法王 親王附王孫 丞相附執政 将軍 刺史 詠史 王昭君 妓女 遊女 老人 交友 懐旧 述懐 慶賀 祝 恋 無常 白
 当時漢詩文は貴族の必須の教養であった。また、和歌も私的な趣味としてようやく本格化していた。また、朗詠ということが盛んだったらしく、いわば簡便にそうしたものを知る書が必要であったのだいえる。この分類も貴族生活のその時々の場面に応じた詩や歌をまとめた虎の巻だったのかもしれない。

具体的に見ていこう。先ずは上巻の秋「七夕」から。(表記はこの古典集成本の表記。ただしカッコ内の読みは便宜上筆者が付けた。)

七⼣

212 憶ひ得たり少年に⻑く乞巧することを ⽵竿の頭上に願⽷多し 白
   憶得少年⻑乞巧 ⽵竿頭上願⽷多 白
(おもひえたりせうねんのながくきつかうすることを ちくかんのとうしやうにげんしおほし)

213 ⼆星たまたま逢うていまだ別緒依々の恨みを叙べざるに 五更まさに明けなむとして 頻に涼風颯々の声に驚く  美材
   ⼆星適逢 未叙別緒依々之恨  五更将明 頻驚涼⾵颯々之声  美材
(にせいたまたまあうて、いまだべつしよのいいたるうらみをのべず、 ごこうまさにあけなんとして、しきりにりやうふうのさつさつたるこゑにおどろく)

214 露は別涙なるべし珠空しく落つ 雲はこれ残粧鬟いまだ成らず 菅
   露応別涙珠空落 雲是残粧鬟未成 菅
(つゆはわかれのなみだなるべしたまむなしくおつ くもはこれざんしやうもとゞりいまだならず)

215 風は昨の夜より声いよいよ怨む 露は明朝に及んで涙禁ぜず、
   ⾵従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁
(かぜはきのうのよよりこゑいよいようらむ つゆはみやうてうにおよんでなみだきんぜず)

216 去⾐浪に曳いて霞湿ふべし ⾏燭流れに浸して⽉消えなんとす 菅三品
去⾐曳浪霞応湿 ⾏燭浸流⽉欲消 菅三品
(きよいなみにひいてかすみうるふべし かうしよくながれにひたしてつききえなんとす)

217 詞は微波に託けてかつかつ遣るといへども ⼼は⽚⽉を期して媒とせんとす  輔昭
   詞託微波雖且遣 ⼼期⽚⽉欲為媒  輔昭
(ことばはびはにつけてかつかつやるといへども こゝろはへんがつをきしてなかだちとせんとす)

218 天の川 とほき渡りに あらねども 君が舟出は 年にこそ待て  ⼈丸

219 ひと年に ひと夜と思へど たなばたの あひ見む秋の 限りなきかな   貫之

220 年ごとに 逢ふとはすれど たなばたの 寝る夜の数ぞ すくなかりける   躬恒

次は下巻の「⾏旅」から。

⾏旅

641 孤館宿る時⾵⾬を帯びたり 遠帆の帰る処に⽔雲に連なる   許渾
   孤館宿時⾵帯⾬。遠帆帰処⽔連雲。 送李樹別詩 許渾
(こくわんにやどるときかぜあめをおびたり ゑんはんのかへるところにみづくもにつらなる)

642 ⾏々として重ねて⾏々たり 明⽉峡の暁の⾊尽きず  眇々としてまた眇々たり ⻑⾵浦の暮の声なほ深し、
   ⾏々重⾏々 明⽉峡之暁⾊不尽  眇々復眇々 ⻑⾵浦之暮声猶深  順
(かうかうとしてかさねてかうかうたり めいげつかふのあかつきのいろつきず  べうべうとしてまたべうべうたり ちやうふほのくれのこゑなほふかし)

643 暁⻑松の洞に⼊れば 巌泉咽て嶺猿吟ず 夜極浦の波に宿すれば ⻘嵐吹いて皓⽉冷じ
   暁⼊⻑松之洞 巌泉咽嶺猿吟  夜宿極浦之波 ⻘嵐吹皓⽉冷   為雅
(あかつきちやうしようのほらにいれば がんせんむせてれいゑんぎんず  よるきよくほのなみにしゅくすれば せいらんふいてかうげつすさまじ)

644 渡⼝の郵船は⾵定まて出づ 波頭の謫処は⽇晴れて看ゆ  野
   渡⼝郵船⾵定出 波頭謫処⽇晴看  野
(とこうのいうせんはかぜさだまていづ はとうのてきしよはひはれてみゆ)

645 州蘆の夜の⾬の他郷の涙 岸柳の秋の⾵の遠塞の情  直幹
   州蘆夜⾬他郷涙 岸柳秋⾵遠塞情  直幹
(しうろのよるのあめたきやうのなみだ がんりうのあきのかぜゑんさいのこゝろ)

646 蒼波路遠し雲千⾥ ⽩霧⼭深し⿃⼀声 同
蒼波路遠雲千⾥ ⽩霧⼭深⿃⼀声 同
(さうはみちとほしくもせんり はくむやまふかしとりひとこゑ)

647 ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞおもふ    ⼈丸

648 わたのはら 八十島かけて 漕ぎいでぬと ⼈には告げよ 海人の釣舟   野

649 たよりあらば 都へいかで 告げやらむ 今日白河の関は越えぬと    兼盛

こうしてみただけでも漢詩文が中心になっていることがわかる。ただ漢詩文といっても作品の一部である。また、漢詩文は必ずしも大陸の古典だけではない。日本人の作成したものもそれなりにあることもわかる。いまやこうした漢詩文の教養は失われてしまったが、幕末まで支配層や知識人層にはしっかり生きていたことはこの古典総復習でもみてきた通りである。

今回はここまで。

2021.09.22

日本古典文学総復習続編8『太平記』3

『太平記』を読むその3

ようやく読了したので、報告。第三部だ。
この第三部は、観応の擾乱、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌から細川頼之の将軍補佐による太平の世の到来までを描く。
例によって各巻の内容を見ていく。

巻22

四国・中国方面の南朝方の衰退を語る。足利軍は鷹巣にたてこもる畑らを攻め、激戦の末、これを討つ。美濃の根尾にあった脇屋義助は、尾張・伊勢・伊賀を経て吉野へ参り、これまでの労に対し恩賞を賜る。伊予からの要請により、備前、佐々木信胤の援護をもえて義助は四国の今治に下り、四国全土を従えるが、突然病をえて急死。足利方の細川頼春は、この宮方の弱みにつけこんで金谷経氏らの軍を備後の鞆などに破り、さらに世田城に大館氏明を攻めて討ちとる。宮方にとって、重ねて転機を迎えたわけである。

巻23

楠正成・後醍醐天皇らの怨霊のなせるわざか、京都に種々異変があり、足利直義が発病する。光厳院は直義の快癒を石清水八幡宮へ祈願、そのしるしがあってか直義は忽ち回復する。光厳院が故伏見院供養のため、その旧跡へおもむいた還幸の途中、土岐頼遠の一行に行きあい、かれらの狼藉にあう。事件を聞いた直義は激怒し、頼遠の討伐を土岐一門に命じたので、頼遠は夢窓国師にとりなしを頼む。結果として、一門の所領安堵はかなえられるが、頼遠は処刑される。以後、貴族も武家も、この頼遠事件の顛末に怖れをなして極端に神経質になり、京の人々の笑いをかった。

巻24

夢窓国師の天龍寺の建立をめぐる延暦寺の山門大衆とそれに与した興福寺と幕府の対立が描かれる。結局天龍寺は建立され、幕府側は盛大に祝するが、天皇側が遠慮する形で納めた。その頃、備前の三宅高徳が、丹波の荻野朝忠としめし合せて、討幕の兵を挙げるが、事成らず、この間、謀叛にくみした香勾高遠は、壬生
地蔵の身代りにより追及の手を免れたなどの話が展開する。

巻25

京都の持明院殿では崇光天皇が即位、直仁が皇太子に立つ。かつて父正成より朝敵追討の遺訓を受けていた正行が、亡父の遠忌を契機に、天王寺・住吉方面に挙兵、幕府ではその追討に細川らを派遣する。楠正行の追討に向った幕府軍は、住吉で楠軍の逆襲にあい、山名らは敗走する。そのころ寿永の昔、平家とともに壇浦に水没した宝剣を発見したとの進奏が伊勢からもたらさた。平野社の卜部兼員がこれを真の宝剣であると卜定するが、坊城経顕が否定したので、剣は平野社へ移される。

巻26

安部野の合戦に楠軍は勝利する。幕府側の捕虜となった人たちは、かえって正行の恩情に浴して感動し、これに帰服したことが語られる。しかし、正行軍は四条畷に幕府軍を攻めるが苦戦し、討死をとげる。ついで師直らが吉野の攻略に向ったので、南朝は賀名生に退く。しかし、勝利した幕府內に亀裂が生じる。仁和寺に集まった先帝側近の怨霊たちのことが語られる。幕府は、西国平定のため、直冬を西国探題に任じ、備前へ下す。

巻27

貞和五年の年始から天下に異変が続くことが語られる。天狗の所為か、四条河原での田楽興行に桟敷が倒壊し、多くの死者が出た事件が語られる。足利直義と高師直兄弟の対立が表面化し、直義は師直の暗殺を企てるが露顕、挫折に終る。師直は逆に将軍兄弟を攻め、直義の隠退を条件に包囲を解き、関東より義詮を後任として上洛させるといった具合に幕府側の内紛が語られる。事が一応落着すると、北朝では延引していた崇光天皇の即位の大礼を行う。

巻28

この巻は、その大半が北畠親房の語る漢楚の故事で占められる。このころ高師直が実質的に幕府の実権を握っているためか、慧源(直義)が難を避けて大和へ下り、持明院殿から鎮守府将軍の院宣を得るが、窮するあまり南朝へ降服を願い出るといったことになり、この件について南朝ではせん議の末、漢楚の故事を引いて説く北畠親房の意見を容れて慧源の願いを許すこととしたという。

巻29

慧源(直義)との合体成った南朝が動き始めたため、尊氏・師直は九州下向を断念、帰洛を急ぐことになる。しかし、形勢は尊氏側にまずく、一時は尊氏が自害を考えることになるほどだった。しかし、饗庭の交渉により直義との和睦がなって自害を思いとどまることができた。一方これまで権勢を誇っていた師直兄弟も望みを断たれ出家するが、帰洛の道中、武庫川で斬られてしまう。

巻30

将軍足利尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義の派閥と、幕府執事高師直・将軍尊氏の派閥が争い、そこに対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家同士の確執なども絡んで、ここまで語られてきたのが観応の擾乱だ。その観応の擾乱の終結が描かれる。最終的には師直も直義も死亡したことから、生き残った尊氏が擾乱に勝利したことになる。しかし、南北朝の確執は続き、世は平和にならないことが語られる。

巻31

いまだに南北朝の争いが各地で燻っている様が描かれる。関東の小手差原・鎌倉の戦い、それに京の周辺、八幡山の合戦にも、両軍ともにこれといった決め手のないまま世の中は混乱状態が続くのである。

巻32

関東では小手差原・鎌倉での足利尊氏と新田義興らとの合戦、畿内では八幡での足利義詮軍と和田・楠ら吉野朝軍との合戦、いずれもこれといった決め手がないまま世は混乱状態にあった。そうした中に持明院統の後光厳が即位、文和と改元するが、おりから京には大火があり、世はますます衰微する。その上、足利政権内部の紛争が、吉野殿を利用しつつとどまることなく続く経過を語る。

巻33

尊氏の死をはさんで、とどまることのない諸国の乱れを語るのがこの巻である。
洛中の荒廃、貴族たちの疲労は大きいが、逆に佐々木道誉ら武将たちの奢りには目に余るものがある。世の不安を静めようとする願いを込めてのことであろう、故直義に従二位を贈るが、尊氏が発病し、あわただしく死去する。さらに新待賢門院・梶井二品親王が相次ぎ薨去。おりから九州南朝方の菊池が畠山治部大輔を攻めて動き始め、関東でも新田義興らが挙兵するなどいまだ戦乱は続く。

巻34

義詮の将軍就任を機に畠山らが南朝攻めを企てるが、決定的な成果をあげられないというのが、この巻の内容である。
尊氏の亡き後、足利義詮が将軍の宣旨を受けたので、兄弟間の仲が懸念された鎌倉の基氏と義詮との和解をはかろうと、畠山道誉が南朝攻めを志し大軍を率いて上洛する。南朝では楠・和田がこれを迎え撃つべく後村上天皇は観心寺へ遷る。しかし、一進一退が続き結局は南朝攻めを中断して帰洛するといった具合だ。

巻35

将軍側の内乱と、この隙をねらって事を起す南朝側の動きが、この巻の内容である。
畠山道誉が細川らと仁木討伐を企て、事を知った仁木はその旨を将軍に訴え、将軍を自分の保護下におくが、佐々木道誉がひそかに将軍を逃がしたので仁木は狼狽し都を落ちる といった将軍側の内紛が語られる。そこに南朝側がからんでまた戦いがはじまる。

巻36

前巻にひき続き将軍側近の内乱を描く。
道誉の介入により細川清氏が不本意にも将軍から離反、追及された清氏は若狭へ脱出するが、結局これも南朝につくことになり、この清氏に呼応する動きが将軍方に相つぎ、将軍義詮は狼狽するといった具合だ。また、関東では、畠山道誓兄弟が関東管領基氏に追放されるといったことが起きる・

巻37

南朝側の攻勢がまた始まるが、それほどの勢いにはならない。また関東でも内紛があり、世の中は落ち着かない。これらの情勢に対し語り手は、宮方が大将を立てるすべを知らないと批判のことばをさしはさむ。

巻38

前年から怪異がうち続き、各地で宮方の蜂起が続いた。山名時氏が伯耆に、細川清氏が讃岐に兵を挙げる。越中の桃井直常が加賀の富樫を攻めるなどだ。
将軍方では、九州の宮方菊池に手を焼く少弐・大友を助けるため斯波氏経を探題に任命して送るが、士気が上がらず長者原の合戦に敗れ、少勢の菊池軍に包囲される。伊豆にこもっていた畠山道誓・義深兄弟は、足利基氏の策にはまりおびき出されて敗れ、時衆を頼って落ち行く。いずれにしても宮方も勢いを取り戻せないようだ。例によって語り手は、細川清氏の敗北を、宋を滅ぼした元の老皇帝の故事を引き、一門の頼之の策に敗れたと評する。

巻39

かつて宮方だった山名時氏や仁木義長が将軍に帰順したり、将軍方でも関東の芳賀入道禅可が鎌倉公方足利基氏に背いて挙兵したりと、宮方の離反が相次ぎ、将軍方でも内乱が続く。また、この頃、元・高麗の浦々に倭寇が跋扈、元帝の抗議を受ける。語り手は文永・弘安の元軍来襲を回想し、神功皇后の新羅攻めをも回想するが、それらとは性格が異なり、日本滅亡の兆しかと危ぶむ。持明院統の光厳院が高野へ御幸、吉野の後村上天皇と会い、来し方を語る。還御後、丹波へ隠棲、その地に崩御、葬儀が営まれる。

巻40

後光厳天皇は、後白河法皇遠忌供養のために長講堂へ行幸、併せて中殿御会の儀の開催を関白良基らに命じ準備を始める。当日、御会は盛儀をきわめるが、内々世に不相応とするささやきがあり、はたせるかな天龍寺火災の怪が起きる。ついで鎌倉の足利基氏が死去、園城寺の衆徒が南禅寺を破却すべしとして強訴、大内裏での最勝講の法会に南都・北嶺の衆徒が闘諍に及ぶ。異変が続く中に将軍義詮が死去し、細川頼之が執事に就き、新将軍義満を補佐することで、ようやく世は鎮まる。

ということで、長かったけれどようやくこの「太平記」は終わりを迎える。なんとも冗長というか、同様な話の繰り返しというか、はっきり言って古典作品としては二流の謗りを免れない気がする。
それにしてもこの南北朝の時代はなんともこまった時代だった気がする。足利尊氏にしても決して英雄的ではないし、他に登場する武将たちもなんとも節操のない人たちだ。現実はこんなもので、それをよくも悪くも第三者的立場で書いているとは言えそうだ。
また、ここに登場する怪異現象による事件の描写や中国古典に典拠した批評は僅かにこの作品の特徴と言えるのかもしれない。
あらすじを追うだけに終わったが、これも大変であった。

『太平記』はここまで。
次は『和漢朗詠集』です。

2021.07.20

書籍の電子化手順(まとめ)

1  PDF の作成

非破壊書籍の場合、 iPad mini などで Adobe Scan というアプリを使って PDF を作成する。、
できれば専用のスキャナーの台をつくるといい。
本を解体してバラバラにできる場合は ScanSnap を使う。

2  PDF の OCR 化

PDF を Google ドライブで Google ドキュメントに読み込ませる。
PDF が大部の場合は PDF を分割する必要がある。
PDF を分割するにも Google Chrome を使うといい。

3 テキストエディターでの修正

OCR でテキスト化したとしても完全ではない
テキストエディターで適宜置換機能を使い、修正をする

4 電子ブック化

テキストファイルができたならそれを「でんでんコンバーター」というサイトで電子ブック化する。
出来上がるのは EPUB ファイルなので、例えば Kindle で読む場合は Kindle プレビューアと言うソフトウェアを導入しそこで変換をする。
その際 Kindle 専用機例えば Kindle ペーパーホワイトなどで読む場合は mobi ファイルにする。
Kindle のアプリで読む場合は (iOS の場合は) azk 拡張子のファイルに出力する。
iOS の場合はmobiファイルだと横書き表示になってしまうので。

5 ファイル転送

Kindle の専用機はそれぞれの Kindle のアドレスで添付ファイルで mobi ファイルを送ればいい。
azk ファイルは添付で送ることができないので、 iPad mini などを PC に接続し直接転送する。 PC が Mac であれば簡単にできるはずだ。 Windows の場合は iTunes を使わなくてはならない。やや面倒だ。
送った後、登録してあるメインの自分のアドレスに確認メッセージがくるので、必ず確認すること。これを忘れるとDLできない。(送った別のアドレスには来ないので注意。これでハマってしまった!)

以上の過程で書籍を電子化し、色々なデバイスで持ち歩き 読むことができる。
それぞれの詳細は追って注意書きとして記しておくことにする。

2021.07.07

電子ブック化について2

電子ブック化について2

青空文庫のツールを使った電子ブック化ではなく、「でんでんコンバーター」と言うサイトがあって、これを使うとテキストファイルを電子ブック化してくれる。 この形式は一般的な EPUB 形式だが、目次や表題などを入れることができる。そしてこのファイルを Kindle プレビューアでいわゆる Kindle の mobi ファイルにする。これが一番電子ブック化については簡便な方法と思われる。
さて、この方法で作った電子ファイルもいわゆる Amazon のメールを使った転送で Kindle Paper White や iPad mini に送ってみると、Kindle Paper Whiteだと上手く縦表示できるが、 iPad mini の Kindle アプリではうまく縦表示をしてくれない。
これについては昨日問題点としてあげておいたが、どうやら解決方法がありそうだ。 iOS 用には mobi ファイルではなく、別の azk の拡張子を持つファイルに変換する必要がありそうだ。 ただこのファイルはプレビューワーで変換はできるが、メールでの転送ができないようだ。 そこで直接 iPad mini にこのファイルを送ってやる必要がある。 それにはPCにiPad mini をつなぎ、 iTunes でファイル転送をする必要があるようだ。 この辺りはやや面倒だが、仕方がないことだと言える。 早速行ってみることとする。
やってみた。しかし iTunes は必要ない。 パソコンがMacであれば、繋いだだけでファインダーを通じて、アプリを表示し、こにファイルをドラッグアンドドロップすればすむ。そして表示してみると、確かに縦書きになっていた。 しかし Kindle 上で表題が出ない。 ま、これは EPUB の作成の問題かもしれない。

OCR の問題点

ここで問題となった点について、なんとか解決したので、記しておく。

「ここまではいいのだが 、これが実際に電子ブックで読み込んだ場合、いいところで改行されていることにならない。
これは元の書籍の行の文字数で改行しているからで、本来は段落で改行していなくてはならない。ここをどうするかが大きな問題だ。 これについては研究の余地がある。」

と書いた点だ。

どこをまず改行しないかということだ。これは句点がついていないところということができる。ただ、句点がついていなくても、”」”があって改行されているところはこの限りではないということだ。それをどう正規表現で表現するかだ。もう一つ”)”もある。
つまり、”。”、”」”、”)”を文末に含まない行を指定するにはどうするか。
これは正規表現をエディタで使い、置換できればいいわけだ。

正規表現について

ここで久しぶりに正規表現の復習とあいなった。復習というのは、随分以前に(MSDOSの時代)随分必要に迫られて勉強した。しかし、ほとんど忘れていた。また、正規表現はプログラムによって若干の違いがあるので、だいぶ時間を要してしまった。結論的には単純なのだが、結構ハマった!

先ずはやりたいこと。
「文末が、句点(”。”)、閉じかっこ(”」”)と(”)”)以外で終わっている文末の改行をさせない(改行キーを削除する)こと」だ。

先ずは「以外」の表現は[^文字]で表せる。しかも並べることができるので、
[^。」)]
となる。文末は$なので、
[^。」)]$
これで「句点(”。”)、閉じかっこ(”」”)、(”)”)以外で終わっている文末の文字」
となる。
そして、この文字は置換後も使うのでかっこで囲んで、それに改行キーを付け加え
([^。」)]$)\n
とする。これで検索し、置換後は
$1
とする。
ここが色々と違っているところで、macのmiエディタでは通じた。すなわち最初の()で囲まれた文字を指すのが$1ということになるからだ。そしてそこに改行キーをつけていないので、改行されないというわけだ。

このテキスト、3000行あるのでこうした一括処理がじつに役に立つ。

ただ、気をつけなくてはいけないのはこれを実行する前に見出し部分はタグをつけておくことだ。見出し文字とかだ。

今回はここまで。
2021.07.07

書籍の電子化を行って問題になったところを洗い出す

まずはスキャンについて

アプリの Adobe Scan の問題点

設定で
「テキスト認識を実行」と
「スキャン後に毎回境界線を調整する」
この二つをオフにしておくこと。
スキャン画面で
文章を選びオートスキャンをオンにしておくこと。

この設定でスキャン台に iPad おけば後は本のページをめくるだけでスキャンはできていく。
しかしどういうわけだか数ページやるとスキャンが止まってしまう。
これはアプリの問題で再起動すれば問題なくできるのでよしとする。

PDF の作成も時間がかかったが問題なくできた。
ここには容量の制限はなさそうだ。

作成したスキャン機械の問題点

本を置く台について

やはり本の背の真ん中の部分を凹ませて置くための工夫が必要そうだ。
もう一つはページをめくった時に抑える方法を考えるべきだ。
ここは透明のアクリル板等をうまく使えばいいかもしれない。
透明の定規でもいいだろう。

追記

ここは次に関連して、本文外の下のページ数字と上の表題文字をスキャンしないほうがいいので、窓枠のようなものを作って,押さえていくというのがいいかもしれない。

OCR について

Google のドキュメントを使って OCR を実行しようとしたが、容量が大きくてうまくいかなかった。
結局 PDF を分割して OCR を実行しなければならなくなった。
PDF の分割は実は Google の Chrome で実行できることが分かった。
これはヒットだ。
ここにそのやり方を書いておくと以下のようになる。

  1. まず Chrome で PDF を読み込む
  2. 次に PDF を印刷するという形をとる
  3. その際「送信先」を PDF とし、
  4. 「ページ」をカスタムとし、ページ数を指定する(例えば1ー10といった具合だ)
  5. するとファイルの保存ができるのでファイル名を付けて保存をしておく。

これが Chrome を使った PDF の分割のやりかただ。
さてどのぐらいの容量だと OCR が実行できるか、ネットによると2メガぐらいだという話であった。実はこのファイル32メガぐらいあったので、かなり分割しなければならないと考えたが、実際には8分割、ページ数で言うと10ページずつでやることができた。

こうして OCR を実行しそれをテキストファイルに繋いで行った。

OCR の問題点

よく日本語に直してくれているのだが、ポイントは改行についてだ。
Google ドキュメントの OCR では、行を改める場合がまちまちだ。本の通りに改行していたり、半角スペースを入れて改行していなかったりだ。ただ、この半角スペースが明らかに改行を表していることは確かなので、 テキストエディターに読み込んだ後その半角スペースを改行キーに置換すればうまくいくことになる。(実際の本と同じ体裁になる)
ここまではいいのだが 、これが実際に電子ブックで読み込んだ場合、いいところで改行されていることにならない。
これは元の書籍の行の文字数で改行しているからで、本来は段落で改行していなくてはならない。ここをどうするかが大きな問題だ。 これについては研究の余地がある。

電子ブック化について

これはやや苦労をしたが、結局は青空文庫のツールを使うことになった。
実は当初マックでやっていたので、 Pages を使って電子ブック形式にすると言うことを考えた。 しかしどういうわけだかうまくいかなかった。これについてもよく考えなければいけないが、一応電子ブック形式になるのだが、実際にアプリで読んでみるとうまく表示されないということになってしまった。 これについては文字コードの問題とか色々ありそうな気がするこれも研究の余地がある。

結局は青空文庫のツールを使ってテキストを青空文庫形式にし、それをアップロードして Kindle で読むという形にした。
しかしここでも問題が起きた。
Kindle 専用機では( Kindle ペーパーホワイトだが)うまく縦表示で読むことができたが、アプリの Kindle ではどういうわけだか縦表示にならなかった。 これは一体どういうことなのかこれも研究の余地がありそうだ。

最終的な問題点

テキスト化するときに段落をどう扱うかということこれが結構大きな問題だ。
ここをうまく一括処理できればいいのだが、結構難しい問題だと言える。

もう一つは表紙や目次をどう作るかだ。
ここはpagesの作成の仕方を学ぶか、それとも青空文庫形式を学ぶか、どうするかだ。
両方を試していくしかないかもしれん。

今回はここまで。
2021.07.05

iPad miniで書籍のデジタル化

解体したくない書籍のデジタル化

書籍のデジタル化についてはかつても書いたことがあった。それは古い新書や文庫を解体して、ScanSnapというスキャナーで高速に読み込んでPDF化するという話だ。しかし解体したくない書籍も多くある。これには専用のスキャナーが必要だ。だがこれは高価であるし、プリンタについているスキャナーで取り込むにはページめくりとスキャンがのパソコン操作が大変だ。

書籍スキャナーの制作

そこでiPadminiを使ってスキャンする台を作ってみた。しかもAdobeのAdobe Scanというアプリを使うと自動シャッターが使えるのだ。
自動シャッターなので、本を下に置いて、めくって行くことができる。
いわば書籍スキャナーだ。といっても箱なのだが、意外に作るのに苦労してしまった。大事なのはiPadminiのカメラの位置と書籍の大きさに応じた高さの設計だ。できれば高さを調整したいところだが、ここは一番多い書籍の大きさに合わせておいた。また、iPadを置くのでそれなりに重さに耐えなくてはならないが、手前は空いていないとページをめくることができないので、木材でと考えたが、たまたまあった厚さ5ミリのMDF板(ボール紙の超硬いもの)を使った。

GoogleのOCR機能

さて、Adobe Scanというアプリ、とても優れているのだが、そのOCR機能がイマイチだ。スキャン後はPDFのままならそれでもいいのだが、やはりテキスト化して、Kindleでも文字の拡大等できるようにしたいので、OCRがうまくないといけない。そこでグーグルさんの登場となる。GoogleのOCR機能がとても優れているのだ。これは実際にAdobe ScanのOCR機能とGoogleのOCR機能を同じ書籍を使ってやってみた結果、Adobe ScanのOCR機能では多くのエラーがあったが、なんとGoogleのOCR機能では全くエラーがなかった。しかもルビについては別にそのページの冒頭にまとめて示すというやり方で、本文のテキストに狂いを生じないようにしている。このGoogleのOCR機能についてはあまり知られていないようだが、以前にも紹介したが、ちょとやり方が複雑だが、慣れればうまくできる。しかもPDF化しないでも画像のままで文字認識してくれる。
ためしにやってみるといい。そのやり方は以前にも書いたが、以下だ。(もちろんGoogleのアカウントは必要です。)

GoogleのOCR機能の使い方

  1. 画像(書類など文字列を写したもの)かPDFを用意する。(同じPCのどこかにあればいい)
  2. Chromeを開いて、アプリからGoogleDriveを開く。
  3. マイドライブの右の矢印をクリックする。(もしくは左メニューのマイドライブの文字の上で右クリックする)
  4. 出てきたメニューから「ファイルをアップロード」をクリックする。
  5. フォルダメニューから画像(書類など文字列を写したもの)かPDFを選んで、「開く」ボタンをクリックする。
  6. アップロードされたファイルの上で右クリックする。
  7. 出てきたメニューから「アプリで開く」から「Google ドキュメント」を選ぶ。

以上で、しばらくするとテキストに変換された文字列が現れるので、これを全選択してコピーし、他のテキストエディターなり、ワープロソフトに貼り付ける等で利用できるというわけだ。

やってみなはれ!ちなみにほとんどの言語に対応しているというからすごい!