日本古典文学総復習続編26『好色一代男』

一代男原本

はじめに

今回は『好色一代男』を取り上げる。

これまで井原西鶴の作品を取り上げてきたが、この作品で最後である。ただ、この作品は西鶴の浮世草子の第一作だ。小生は西鶴の作品をさかさまに辿ってきたことになる。このことに別段意図はないのだが、逆さまに読んでくると、その後の作品にある特徴の萌芽がここにあるのがわかる。これは追々述べていくことにするが、まずはその梗概を記しておく。

その梗概

この作品は主人公である世之介という人物の七歳から六十歳までの五十七年間を描くと言う形を取っている。もちろん「好色」とあるように五十七年間の主人公の「性生活」が描かれているわけだが、それを全八巻に収め、年齢順に並べて書かれている。すでにこの作品で後の作品と同様、各巻に「目録」をつけている。その目録の基本は年齢だ。そしてそこにそれぞれ二つの小見出し的な文言を並べている。具体的には以下だ。(なお、文言は巻一のみ示すことにする。表記は古典集成による。以下同じ。)

巻一 
   七歳  けした所が恋のはじめ
       こしもとに心ある事
   八歳  はづかしながら文言葉
       おもひは山崎の事
   九歳  人には見せぬところ
       ぎやうずいよりぬれの事
   十歳  袖の時雨はかかるが幸
       はや念者ぐるひの事
   十一歳 たづねてきくほどちぎり
       伏見しもくまちの事
   十二歳 ぼんのうの垢かき
       兵庫風呂屋者の事
   十三歳 わかれは当座はらひ
       八坂茶屋者の事

  • 巻二 一四歳から二十歳
  • 巻三 二十一歳から二十七歳
  • 巻四 二十八歳から三十四歳
  • 巻五 三十五歳から四十一歳
  • 巻六 三十六歳から四十二歳
  • 巻七 四十九歳から五十五歳
  • 巻八 五十六歳から六十歳

この目録を見れば大体の内容が判る仕組みだ。

注(ちょっと年齢の並びがおかしいところがあるのに気付くだろうか。巻六だ。巻五からの流れでいくと巻六は四十二歳から四十八歳のはずだ。この件については古来いろいろなことが言われているようだが、実は巻五と巻六にはかなりの断点があったようだ。そこで年齢の誤記があったらしい。内容的には巻四までとそれ以降には違いがあるのだが、いわば第二部と言うべき巻五を描き始めたものの、次の巻六を書くまでになんらかの事情があったのかもしれない。ただここはこの点に深入りはできない。)

さて、大雑把に主人公世之介の人生を見ていくと、三十四歳までとその後で大きな違いが生じるのがわかる。それは三十四歳の時、父が亡くなり、その莫大な遺産が手に入ることになったからである。これは巻四の最後に描かれている。主人公世之介はそれまではいわばボンボンの放蕩息子にすぎなかった。しかし、莫大な遺産が手に入ると名実ともに「大大尽」になったのだ。その部分を本文で見てみる。

「日頃の願ひ、今なり。おもふ者を請け出し、または名だかき女郎のこらずこの時買はいでは」と、弓矢八幡百二十末社ども集めて、大大大じんとぞ申しける。

これまで決して自由にはならなかった女たちをこれで全て自由にできると意気込んでいる。これは、これまではボンボンとはいえ、決して遊女たちを自由にできていなかったとも言える。しかも高級遊郭の太夫たちは自由にできなかったことを意味する。即ち、この物語は前半は主人公世之介のいわば修行時代を描いていることになり、後半は主に高級遊女たちを相手にする絶頂期を描くと言う予告となっているのである。

そしてその後、贅の限りを尽くし、多くの高級遊女たちと交わった世之介は、あくまで性の奥義を極めんと還暦を迎えた後も仲間とともに多くの閨房用の道具・薬を持って女性しか住んでいないという「女護の嶋」に船出するところでこの物語は終わる。

実は女性の物語

さて、この「好色一代男」は世之介という飽くなき性の探求者の物語と言うふうに思えるが、実はよく読むとそうではない気がする。と言うのは巻々に多くの遊女たちが登場し、それがそれぞれ個性的なのだ。世之介は狂言回しで、実は眼目は相手の遊女たちにあったと言える気がする。主人公世之介に人間的な陰影はほとんどない気がする。しかし登場する女たちは皆個性的で生活の背景を背負っている。しかも三都だけでなく、多くの地方の遊女が登場し、そこが面白い。作者西鶴はどこから情報を得ていたのか、それとも実際に旅をしての体験かわからないが、もうこの一作目から全国規模の話になっているのだ。

地方の女たち

この作品に登場する地方遊里を整理してみると以下である。

  • 巻一 伏見・兵庫
  • 巻二 奈良
  • 巻三 下関・寺泊
  • 巻四 追分
  • 巻五 大津・室津・堺・宮島
  • 巻八 長崎

最後の長崎を別にすれば、ほとんどが前半、即ち主人公のいわば「性の修行時代」であることがわかる。

ここで遊女が床に入る場面を見てみる。実はこの作品、決していわゆる「春本」でないことが、このセックスシーンがあまりないことでわかるのだが、ここは数少ないそのシーンを抜き出してみる。以下だ。

今や今やと待つほどに、君様のあし音して、床近く立ちながら帯とき捨て、着物もかしこへうち捨て、はだかでぐずぐずとはひりさまに、「これもいらぬ物」と脚布ときて、そのまましがみつきて、いな所を捜つて、ひた物身もだえするこそ、まだ宵ながら笑し。(巻三・二十五歳)

これは寺泊の遊女の床入りの場面。江戸で遊女高尾に35回もふられてその後も交れなかったことを思い出し、この遊女がその高尾だったらと思うが、それじゃ面白くもないと思い返す場面だ。まさにこれが地方遊里の女の典型ということになろうか。

高級遊女の手管

これに対して、ちょっと長いが以下を読んでいただきたい。

枕近く立ちより、「それそれ、申し申し、めずらしき蜘が蜘が」と申されければ、世之介夢おどろき、「いやな事」と起きあがる所をしかとしめつけ、「女郎蜘が取りつきます」といひさま帯とかせ、我もときて、「これがわるいか」と肌まで引きよせ、うしろをさすりおろして、「今まではどの女がここらをいらひ候もしらず」と、下帯のそこまで手の行く時きゆるがごとし。今はたまり兼ねて断りなしに腹の上にのり懸れば、下より胸おさへて、「これは聊尓なさるる」といふ。「堪忍ならぬ。ゆるし給へ。」といふ。「又時節もあるべし。先づ今晩は」といふ。世之介せんかたなく、「かやうの事にて江戸にてもおろされ、無念今にあり。独りはおりられず。貴様に抱きおろされてならばおりよう」といふ。とやかくいふうちに、かんじんの物くなつきて用に立ち難し。是非なくおるるを、初音下より両の耳捕へ、「人の腹の上に今までありながら、ただはおろさぬ」と、こころよく首尾をさせける。まれなる床ぶりなり。(巻六・四十歳)

これは京都島原の初音という遊女との話。稀な床上手と言うことか。北國寺泊の遊女との違いが際立つ。

三都の高級遊女たち

さてこの作品、後半は大金持ちとなった主人公世之介がいわば金に物を言わせて高級遊女たちと交わることになるのだが、ここに登場する三人の高級遊女たちは決して金や権力だけでは靡かない女たちだ。遊郭は特殊な世界だが、もちろん「金」が物をいう。そして特殊な「しきたり」がある世界だ。そんな世界にあって、そんな世界の「しきたり」を超越した女として三人の遊女が登場する。しかも後半では遊女が個人名で登場することに注目したい。その三人とは以下だ。

まず「吉野」という遊女。(巻五・主人公三十五歳の時)

「日本一遊女の手本」と称され、小刀鍛治の弟子にもいきな計らいをする、なんでもできる万能の女として描かれる。

次に「三笠」という遊女。(巻六・主人公三十六歳の時)

いわゆる奴風(男気のある意)の太夫。しきたりを破って世之介に入れ込み、折檻されるが、それにも耐えて、思いを遂げる男勝りの女として描かれる。

そして「高橋」という遊女。(巻七・主人公四十九歳の時)

天津乙女の妹かと思えるほどの美形。権力者の客にもそっぽを向き、世之介に添う心意気ある女として描かれる。

さて、こうした強い意志を持つ女性ではないが、

遊女と普通の女と間に揺れ動いた誠実な女として描かれる「藤浪」という遊女。(巻六・主人公三十八歳の時)

「情深くて手管の名人」で実に気の利く、誰にでも優しい「夕霧」という遊女。(巻六・主人公三十七歳の時)

そして前掲の床上手な「初音」という遊女。

などなど、実にそれぞれ個性的な遊女たちだ。

このようにこの「好色一代男」は遊女たちの物語と言ってもいいほどだ。

おわりに

ここまでこの物語を読んできて、言い切れないことはたくさんある。もっとここに登場する女達を紹介したいし、その姿の描写や、遊郭内部の様子、そしてその食事、などなど、興味のつくせない物語である。それはまた後日に譲って、今回はここまでにしておく。

2024.06.26

この項 了

日本古典文学総復習続編25『好色一代女』

はじめに

今回は浮世草子の好色物、その三作目の『好色一代女』を取り上げる。

この作品は西鶴が浮世草子第一作目の『好色一代男』の成功の後、主人公の二代目を主人公にした『諸艶大鑑』を出した後の作品。無名の女主人公の主に性的な遍歴を描く作品。当時のこうした女性の生活が実に生き生きと描かれている面白い作品だ。

その梗概

この作品、一主人公の一生が描かれているわけだが、全6巻各4話合計24の話から出来上がっている。例によって各巻頭には目録がある。以下である。(表記は古典集成のまま、カッコ内はそのルビをそのままの仮名遣いで記す)

巻一

老女隠家(ろうによのかくれが)
舞曲遊興(ぶきよくのいうきよう)
国主艶妾(こくしゆのえんせふ)
淫婦美形(いんぷのびけい)

巻二

淫婦中位(いんぷのちゆうゐ)
分里数女(ぶんりのすぢよ)
世間寺大黒(せけんでらだいこく)
諸礼女祐筆(しょれいおんないうひつ)

巻三

町人腰元(ちやうにんこしもと)
妖孽寛濶女(わざはひのくわんくわつ)
調謔の哥船(たはぶれのうたぶね)
金紙の匕元結(きんがみのはねもとゆい)

巻四

身替長枕(みがはりのながまくら)    
墨絵浮気袖(すみゑのうはきそで)    
屋敷琢渋皮(やしきみがきのしぶりがわ) 
栄耀願男(ええうのねがひおとこ)    

巻五

石垣恋崩(いしがけのこひくづれ)
小歌伝受女(こうたのでんじゆをんな)
美扇恋風(びせんのれんぶう)
濡問屋硯(ぬれのとひやすずり)

巻六

暗女昼化物(あんぢよはひるのばけもの)
旅泊人許(りよはくのひとたらし)
夜発附声(やほつのつけごゑ)
皆思謂五百羅漢(みなおもはくのごひやくらかん)

しかも各話にはそれぞれ歌がついている。巻一のみ以下に記しておく

老女隠家(ろうによのかくれが)

〽️都に是沙汰の女訪ねて
昔物語を聞けば
一代の板づら
さりとは浮世洒落者
今もまだ美しき

舞曲遊興(ぶきよくのいうきよう)

〽️清水の初桜に
見し幕のうちは
一節のやさしき娘 いかなる人の
ゆかりぞ 親は親は
あれを知らずや祇園町のそれ
今でも自由になるもの

国主艶妾(こくしゆのえんせふ)

〽️三十日切りの手掛け者にはあらず
  よしある人の息女も
末を頼みにやる事
  さては
仮初めに
 なるまい
  なるともなるとも
 望み次第

淫婦美形(いんぷのびけい)

〽️京の良い中を改めたる女
  島原の太夫職の風俗
善し悪しの詮議がくどい
  思はく丸裸にして語るに
思ひの外なる内証

これを読むと大体の話がわかる仕組みになっている。

一代女の職業遍歴

さて、最後は老尼となり、隠れ里「好色庵」に隠棲する一代女を、恋にやつれた若者二人が訪れるところから物語が始まる。ここから一代女が過去を語っていくという形で話が進んでいく。
そこで、一代女が生涯経験した職業?を通してこの物語を見ていく。そうすると、この物語の全体像がわかるし、それがこの物語の胆だと言っていいからだ。若干の説明をつけてみていく。

巻一

  1. (官女仕え)十一歳で恋心。
  2. (舞子)美貌と巧みな客あしらいで評判。
  3. (養女)見染められてさる家の養女となるが、その男親と交わい、離縁。
  4. (大名妾)さまざまな審査を経て国主の妾に合格。しかし殿が弱臓(性的虚弱者)で暇を出される。
  5. (島原太夫)親が連帯保証人で金につまり、身売りすることに。太夫に上り詰める。遊郭の風俗が興味深く描かれている。

巻二

  1. (天神)遊女の位、太夫の下。うぬぼれ強く、太夫から下される。
  2. (十五)「かこひ」と読む。天神のさらに下の遊女。この辺りの遊郭の描写も面白い。
  3. (端居)これもさらに下。一代女の零落ぶりを示す。年季が明けることになる。
  4. (寺大黒)「寺大黒」とは僧侶の妻をいうが、ここは三年契約の住職のお妾。若衆姿に変えたのが効果。しかし結局妊娠と偽って寺を脱出する。寺の性的無軌道ぶりが面白い。
  5. (女祐筆)「祐筆」とは本来貴人に仕えた書記のことを言うが、ここは筆指南で文の代筆をする仕事。それがもたらす男関係も描かれる。

巻三

  1. (呉服屋腰元)うぶなふりして「大文字屋」と言う呉服屋に腰元奉公することに。しかし本来の好色がたたって旦那とできてしまい、結局出奔。
  2. (大名表便)対外的な職務に従う奥女中となる。奥で開かれた悋気講(一般的には庶民の女房たちが集まって開く無尽講。夫の浮気話などを言い合い、憂さ晴らしした)で主人公の呪いから奥方が頓死。これまた出奔。
  3. (歌比丘尼)寝枕の寂しい船頭相手に船の上で歌って売春する女のこと。これもなじみが文無しになり廃業。
  4. (武家方髪結女)言葉通りの職業。さる武家の奥方の髪を結うのだが、この奥方実は髪が薄い。これを口外しない約束だったが、この奥方、一代女の髪に嫉妬して「切れ」、「削げ」と無理難題。そこで復讐。ハゲを殿にバラす。奥方里に帰り、一代女この殿を我が物に。

巻四

  1. (介添女)方々の御息女嫁入りの介添え女に雇われる。当時の豪華な結婚事情が描かれる。ただ、地味な方こそ将来があると語る。
  2. (お物師役)針仕事、裁縫女だ。しばらくは色道を離れる。
  3. (仕立女)しかし越後屋出入りの仕立て屋となり、再び色に染まる生活。出入りの仕事関係の堅物の番頭をたらし込む。ここは一代女の裸の描写があり、出色。
  4. (茶の間女) 武家で、腰元と下女の中間に位置する女中のこと。藪入りで年老いた中間に惚れられる。
  5. (中居)なんと泉州堺で中居奉公。この中居とは年寄りの夜の準備をする役。この年寄りは老婆だったが、なんと男役をやるという。なんとなんと男役の老婆との床入り。全くね。

巻五

  1. (茶屋女)色茶屋にいる女。もちろん売春目的。流石に年老いた一代女。
  2. (通女)あることから大名の囲い者となる。家を与えられた妾のこと。年老いても見染める人はいる。
  3. (伝授女)これは別名湯女のこと。銭湯で面倒見る仕事だが、ここも売春仕事。風呂屋の風俗が描かれていて面白い。
  4. (雑女)ここはよくわからないが、零落し目医者に通う女たちの姿を描く。この主人公も目を患っていたようだ。
  5. (扇畳妻)扇屋の妻となる。店の看板役を勤める。しかし悪いくせ、浮気が祟って追放される。
  6. (糸くり女)まさに糸車を使って糸を紡ぐ女のこと。西陣ですね。ただ、ここでも男は忘れていない。
  7. (隠居夜伽女)隠居相手だから楽な仕事と思いきや、この御隠居かなりの強蔵(絶倫男)で大変。流石の一代女も人に背負われて中宿(身元引請宿のこと)に帰る始末。
  8. (蓮莱女)大阪の問屋街に置かれていた女。飯炊女と言うことだが、もちろん性的サービスをし、問屋に出入りする男たちの相手をする。その生活が自堕落なのでこの名がつく。

巻六

  1. (暗物女)暗宿と呼ばれた淫売宿で売春する女のこと。その様子が詳しく描かれる。主人公は「分」と言って売春の代金を宿と分ける女として働く。落ちぶれたもの。
  2. (旅篭屋の人待女)旅籠屋にいて、旅客を引っ張り込んで仕事をする女。松坂でのこと。
  3. (紅、針売る女)桑名に至り、この商売。
  4. (遣り手)これは遊女を監督する立場。もう女として仕事ができないと言うことか。
  5. (惣嫁)ついに最下層の売春婦となる。大阪でこの名。京では辻君、江戸では夜鷹。
  6. (尼)生き恥を晒し続けてはと入水を試みるが、助けられ、諭されて尼となる。

おわりに

さて、こうして読んでくると、この主人公が実に多くの職業に就いて一生を過ごしたことになるのがわかる。しかも、女性がこの時代就ける仕事が意外に多かったことにも驚かされる。ただ、そのほとんどがセックス絡みなのはまさに「好色一代女」たる所以だから仕方がないとしてもだ。そしてこの一代女がその華奢な美貌と教養となんでもこなせる才覚によって、さまざまな職に就きながら生き通してゆく姿に感動すら覚える。全く暗いイメージはないし、「やるねえ!」と声をかけたくなる。これも西鶴の筆致に依るのだろうが、この時代に対する共感を強く感じる。

ちょっと長くなったので、この辺でおわりにしておく。

2024.06.13
この項 了

日本古典文学総復習続編24『世間胸算用』

「世間胸算用」刊本写真

初めに

今回は『世間胸算用』を取り上げる。この作品は西鶴が没する一年前に刊行されたというから、最晩年の作品ということになる。前回取り上げた『日本永代蔵』と同様、町人物と呼ばれる町人たちの経済生活を活写した作品だ。内容は以下に示すが、『日本永代蔵』が主に町人でも成功者である上流町人を描いていたのに対して、この作品は町人でも中流以下の、しかもいわば失敗者を描いているところに特徴がある。

その梗概

『日本永代蔵』同様、まずは目録が示されているので、そこから見ておこう。(表記は本書のとおり。ただし一部漢字ひらがなに)

巻一

一 問屋の寛闊女
はやりの小袖は千草桃品染
大晦日の振手形如件
二 長刀はむかしの鞘
牢人細工の鯛つり
大晦日の小質屋は泪
三 伊勢海老は春のもみじ
状の書賃一通一銭
大晦日に隠居の才覚
四 芸鼠の文づかひ
居風呂の中の長物語
大晦日に煤はきの宿

巻二

一 銀一匁の講中
◯長町に続く嫁入荷物
◯大晦日の祝儀紙子一疋
二 訛言も只はきかぬ宿
◯何の沙汰なき取上婆
◯大晦日の投節も唄ひ所
三 尤も始末の異見
宵寝の久三がはたらき
大晦日の山椒の粉うり
四 門柱も皆かりの世
朱雀の鳥おどし
大晦日の喧嘩屋殿

巻三

一 都の顔見芝居
◯それそれの仕出し羽織
◯大晦日の編笠はかづき物
二 餅ばなは年の内の詠め
◯掛取上手の五郎左衛門
◯大晦日に無用の仕形舞
三 小判は寝姿の夢
無間の鐘つくづくと物案じ
大つごもりの人置のかか
四 神さへお目ちがひ
堺は内証のよい所
大晦日の因果物がたり

巻四

一 闇の夜の悪口
世にある人の衣くばり
地車に引く隠居銀
二 奈良の庭竈
万事正月払ぞよし
山路を越ゆる数の子
三 亭主の入替り
下り舟の乗合噺
分別してひとり機嫌
四 長崎の柱餅
礼扇子は明くる事なし
小見せものはしれた孔雀

巻五

一 つまりての夜市
文反古は恥の中々
いにしへに替る人の風俗
二 才覚の軸すだれ
親の目にはかしこし
江戸廻しの油樽
三 平太郎殿
かしましのお祖母を返せ
一夜にさまざまの世の噂
四 長久の江戸棚
きれめの時があきなひ
春の色めく家並の松

これを見れば大体の内容がわかる仕組みになっているのは『日本永代蔵』と同じ。ただ、この書はちょっと少なく、全5巻各4話ということで、20のエピソードが語られている。各巻とも「大晦日は一日千金」という副題があるように、大晦日の町人たちの借金取りとのてんやわんやが語られている。先に言った通りここに登場する町人は『日本永代蔵』に登場する町人たちと違ってやや下流の人たちである。しかも失敗者たちである。ただ中心はもっと下流の長屋住まいの人々ではない。というのは大晦日に決済するということはいわゆる「掛け買い」ができる人たちだからである。長屋住まいの人達も登場するにはするが、そうした人たちは借金取りには追われない。「掛け買い」ができないからだ。しかし、正月を何もなしに迎えなければならいという人、質種が何もなくて困り果てている人として登場する。こうした人々もまた人生の失敗者たちなのだ。つまりこの『世間胸算用』は人生の失敗者たちの大晦日のエピソード集ということになろうかと思う。

エピソードの諸相

さて、もう少し内容を見ていくことにしよう。この書の20篇のエピソードは決して統一的にならべらていない。ほんとに色々バラバラなのだ。ただ、大晦日の「金」をめぐる話ということで統一されている。そしてここに登場する人物たちは皆人生の失敗者である。序で西鶴は言う。

元日より
胸算用油断なく、
一日千金の大晦日をしるべし。

と。しかしここに登場する人物たちは皆「胸算用」に失敗している。『日本永代蔵』で「始末」を説いた西鶴がここにもいる。しかし,西鶴の筆致は決してこうした失敗者に非難がましい目を向けてはいない。むしろ面白がっているようだ。ではいくつかのエピソードを紹介しよう。

貧乏夫婦の話

まずは夫婦で登場する話だ。夫婦で登場する話はいくつかあるが、ここでは巻一の二「長刀はむかしの鞘」と巻三の三「小判は寝姿の夢」を取り上げたい。

「長刀はむかしの鞘」

この話は貧乏長屋に暮らす浪人夫婦の話。女房はかつてはそれなりの身分の武士の娘。夫は浪人の身で「牢人細工の鯛つり」とあるように玩具を作って売って生業にしていた。しかしその商売もうまく行かず大晦日に質屋に入れるものとてほとんど尽きていた。そこで最後に長刀の鞘を女房に質屋に持って行かせる。ところが質屋はその長刀の鞘を一瞥しただけ「何の役にも立たないもの」と言って放ってよこす。さて、ここからが面白い。女房がたちまち顔色を変え、口舌を打つのだ。この薙刀の鞘についての来歴を滔々と述べ、「役に立たぬものとは。先祖の恥。女にこそ生れたれ、命はをしまぬ。」とまで言って、質屋の亭主に取り付いて泣き出してしまう。これには質屋の亭主も困惑し、なんとか宥めるが、この女房の喚きは収まらず、ついには近所の野次馬が現れて、仲裁に入る始末。しかもこの仲裁が、「この女房の夫は「ゆすり」だから、来ないうちに収めた方がいい」というもの。そこで仕方なく質屋は「銭三百と黒米三升」を出したという。しかも唐臼まで貸して帰したと言っている。

さて、筆者西鶴はこの件について、「貧すれば鈍するのは嫌だね」と言う意味のことを言っている。また「大晦日の小質屋は泪」とあるように質屋には同情している(ここには他にも質屋しか頼れない最下層の町人の様子が描かれている)。しかし、この話の描写には決して非難がましいところはなく、むしろ生き生きと面白く描いている印象だ。

「小判は寝姿の夢」

これは夫婦の愛情あふれる話。かつて江戸にて小判の山を見た亭主はそれが忘れられずに、働きもせずに大金持ちになることを夢見てついに悪事を思いつく。この亭主には赤子と女房がいて、大晦日の晩、餓え寸前の状態だった。その女房、何とか悪事を思いとどませるために乳母奉公に出てとりあえずの金銭を得る。しかし、その奉公先の主人が色好みで、しかも亡くなった先妻にこの女房が似ているという話を聞いたこの亭主、もう立ってもいられず、この女房を取り返しに行ったという話。

この男、聞きもあへず、「最前の銀は、そのままあり。それを聞いてからは、たとへ命がはて次第」と、かけ出し行きて、女房取り返して、泪で、年を取りける。

と、この話を西鶴は結んでいる。何のコメントもないのが、この話を他の話とは際立って異色な感じを持たせていると言えるのかもしれない。「金」が全ての世の中だが、こうした「愛情」が「金」を上回って描かれているのは珍しいと言えるからだ。

世間から逃れた人々の話

さて、今度は、たまたまあるところに居合わせた人々が語る大晦日の話を取り上げたい。
巻四の三「亭主の入替り」と巻五の三「平太郎殿」だ。

「亭主の入替り」

これは副題に「下り舟の乗合噺」とあるように、京から大阪に下る船に大晦日に乗り合わせた人々の話。こう言う話の仕立ては西鶴得意のところか。いつもの下り船は賑やかだが、この日の船の乗客は一人を除いて何やら寂しそうだ。というのもこの日にうちに居られずに船にいるからか、皆悩み多き人々のようだ。ある男は叔母をたづねて無心をしたが叶わず、年の越しようがないと嘆き、ある男は弟を役者にして金を得ようとしたが叶わず、旅費を損して帰るといい、またある男は持ち伝えた日蓮上人自筆の曼荼羅を売りに行ったがうまく行かず、家に帰れば借金取りがいるので帰りたくはないといい、ある男は米の取引がうまく行かずに帰るという。

ただ一人だけ「分別してひとり機嫌」とあるように機嫌のいい男がいた。実はこの男、互いに親しい男同士入れ替わって留守をして、借金取りが来る時、凶暴な借金取りの風を装い、内儀を脅す芝居をするという。こうすると他の借金取りも帰っていくという工夫を話す。「これを、大つごもりの入れかはり男とて、近年の仕出なり。」と得意満面であったという話。

一つの船に乗り合わせた男たちのけっして幸福とはいえない人生のさまざまが語られている。ここでも西鶴はどうこう批評はしていない。

「平太郎殿」

平太郎殿とは親鸞の関東での弟子で、この人のことを語るのが真宗の寺では節分の夜の恒例になっていて、この日ばかりは老若男女ともに参詣が多いという。しかし、ある年、大晦日と節分が重なって、ある寺では、なんと参詣する人が三人しかいなかった。そこで住職が今夜は三人に法話をしても灯明の油代にもならないなどという。だから帰りなさいと。しかし、三人は帰らずにそれぞれの身の上話をするという嗜好だ。

副題の「かしましのお祖母を返せ」というのは、倅が借金取りから逃れるために仕組んだ作り事。このばばを寺に行かせ、ばばがいないと騒ぎ立て、近所の人に頼んで太鼓・鉦を叩いて「お祖母を返せ」と、一晩中町中を練り歩いて過ごそうというもの。こうすれば、借金取りから逃れられるというのだ。

もう一人の男は、入婿して将来をうまくやろうと考えたが、結局女房に愛想を尽かされて追い出され泊まるところ無くこの寺に来たという話。

またもう一人の男は年を越す才覚がなく、この平太郎殿の讃談参りにくれば、人が多く、その草履・雪駄を盗んで酒の代にしようと思ったという。が、どこ寺にも人がいず当てが外れたという。

そしてこんな話を聞いているうちに、何と次から次に人が寺に現れて、やれ子が生まれただの、誰かが死んだので葬礼してくれだの、小袖を盗まれただの、井戸が潰れたので水をくれだの、勘当された息子を預かってくれだのと大変。最後に「うき世に住むから、師走坊主も隙のない事ぞかし」と、この話を結んでいる。これが副題「一夜にさまざまの世の噂」ということだろう。

その他の話

さて、ここには4話のみあげたが、その他の話にも面白いものが多くある。しかし全て紹介するわけにも行かないのでこの辺にしておくが、いずれも大晦日の借金取りとのエピソードだ。借金取りから逃れるのに、よくもこんな方法を考えたものだと言った話は前に紹介したものばかりではない。西鶴の取材力に驚かされる。(多分創作ではないと思われるので)

そして最後に触れたいのは舞台についてである。特に堺と長崎は別格に扱われているように思う。また、奈良も登場するが、これも京・大阪にはないのんびりした様子が伺える。西鶴は果たして長崎を訪れたことがあったかどうか定かではないが、西鶴にとっても特別なところだったようだ。そしてもう一つが江戸だ。この書の最後は江戸を舞台にしている。京・大阪にない贅沢なところを取り上げている。これまでこの書は失敗者を並べていて、ともするとマイナスな印象を拭えないが、最後は剛毅な江戸の町人を描くことによって、明るくまとめているのも西鶴らしいと言えるのかもしれない。

終わりに

こう読んでくると、西鶴は本当に稀有な作家であることがよくわかる。これは単にこの時代のというにとどまらず、日本文学史上稀な作家であることは間違いないように思われる。この「金」、すなわち「金銭」というものは我々人間の生活にとって近世以降欠かせない重要なものである。しかしこれを正面から取り上げた文学はほとんどないと言っていい。しかもそれを文学までに昇華した例は皆無と言っていいかもしれない。西鶴はこの『世間胸算用』で金銭をめぐってあくせくする人間たちを描きながら、けっしてそれを当時のイデオロギーである儒教的な道徳観や仏教的な教訓で包もうとしなかったのが、何より新しかったように思う。事実として、時には愛情さえ持ってこの時代に台頭した町人を描いたこの西鶴の町人物は日本文学史上の金字塔とさえいえそうだ。

井原西鶴は初め芭蕉と同じように俳諧師として出発した。そしてのちに好色物、武家物の浮世草子を経て、この町人物に至ったという。ここに文学者西鶴のどんな変遷があったのか、興味深いところだが、次は逆を辿って、好色ものの二作品、『好色一代男』と『好色一代女』を見ることにする。
今回はここまで。

2024.05.24
この項 了

日本古典文学総復習続編23『日本永代蔵』

はじめに

芭蕉に続いて井原西鶴を取り上げる。この古典集成には『好色一代男』『好色一代女』『日本永代蔵』『世間胸算用』の四つの作品が収められている。実はこの古典文学総復習の正編(新日本古典文学大系)で、すでに西鶴は取り上げている。それは『日本古典文学総復習』76『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』77『武道伝来記・西鶴置土産・万の文反古・西鶴名残の友』である。ただ、ここで取り上げる作品の方がいわば代表的な作品と言える。小生もここで取り上げる作品はすでに一応目を通してきたが、ここでもう一度しっかり読んでおきたい。発表順とは異なるが、まずは「町人物」と呼ばれる『日本永代蔵』『世間胸算用』のうち『日本永代蔵』から取り上げたいと思う。

『日本永代蔵』の一般的な理解

この作品は一般的にどう紹介されているかを見ておきたい。Googleによる検索でいわばAIを使った紹介だ。以下である。

『日本永代蔵』は、井原西鶴作の浮世草子で、貞享5年(1688年)に刊行されました。町人物の代表作のひとつで、諸都市の町人の成功や失敗談が書かれた短編小説集です。
経済を中心とする町人生活を真正面からとり上げ、勤勉・節約・才知によって財産を作り、あるいは、失敗談、教訓談を織り交ぜて町人の処世法を教えます。鋭い観察とリアルな筆力とがあいまって、金と慾に生きる町人像と徳川封建社会の姿を鮮やかに描き出しています。
『日本永代蔵』は、現在の中之島界隈を舞台に描かれています。中之島を挟んで流れる堂島川と土佐堀川には諸国の蔵屋敷が並び、北浜界隈には豪商の屋敷が軒を連ね、陸は人馬が絶えず、川には無数の荷船が浮かぶ様子が描かれています。

ま、概ね間違ってはいない。しかし最後の部分は誤解を生むだろう。上段に有るように舞台は「諸都市」だからだ。もう一つは「町人の処世法を教えます」と言う部分だ。表面的には確かにそうかもしれないし、そう言う部分もあることはある。また、本を売るために今でいう「ハウツウ本」のような体裁を取る必要があったのかもしれないから、副題に「大福新長者教」とあるのもそう言える根拠となっているのかもしれない。しかしよくこの書を読めば、決してそうとばかりは言えないことがわかると思う。

『日本永代蔵』の梗概

では、その内容を見ていこう。この書は全部で6巻あり、その冒頭に一々「目録」がついていて、(「目次」のような物なのだが、)簡潔にその内容がわかるようになっている。以下である。(表記は全て「古典集成」本による。以下同)

巻一

初午は乗て来る仕合せ
江戸に隠れなき俄分限
泉州水間寺利生の銭
二代目に破る扇の風
京に隠れなき始末男
壱歩拾うて家乱す悴子
浪風静に神通丸
和泉に隠れなき商人
北浜に箒の神を祭る女
昔は掛算今は当座銀
江戸に隠れなき出見世
一寸四方も商売の種
世は欲の入札に仕合
南都に隠れなき松屋が跡式
後家は女の鑑となる者

巻二

世界の借屋大将
京に隠れなき工夫者
餅搗も沙汰なしの宿
怪我の冬神鳴
大津に隠れなき醤油屋
何をしても世を渡るこの浦
才覚を笠に着大黒
江戸に隠れなき小倉持
身過ぎの道急ぐ犬の黒焼
天狗は家名の風車
紀伊国に隠れなき鯨えびす
横手節の小歌の出所
舟人馬方鐙屋の庭
坂田に隠れなき亭主振り
明くれば春なり長持の蓋

巻三

煎じやう常とはかはる問薬
江戸に隠れなき箸削り
小松栄えて材木屋
国に移して風呂釜の大臣
豊後隠れなき真似の長者
程なく剥げる金箔の三の字
世は抜取の観音の眼
伏見に隠れなき後生嫌ひ
質種は菊屋が花盛り
高野山借銭塚の施主
大坂に隠れなき律義屋
三世相より現るる猫
紙子身代の破れ時
駿河に隠れなき花菱の紋
無間の鐘を聞は突き損ひ

巻四

祈る印の神の折敷
京に隠れなき桔梗染屋
藁人形の夢物語
心を畳み込む古筆屏風
筑前に隠れなき舟持
蜘の糸のかかる例も
仕合の種を蒔銭
江戸に隠れなき千枚分銅
備はりし人の身の程
茶の十徳も一度に皆
越前に隠れなき市立
身は燃え杭の小釜の下
伊勢海老の高買
堺に隠れなき樋の口過ぎ
能は桟敷から見てこそ

巻五

廻り遠きは時計細工
長崎に隠れなき思案者
火を喰ふ鳥も身を知りぬ
世渡りは淀鯉の働き
山崎に打出の小槌
水車は仕合せを待やら
大豆一粒の光り堂
大和に隠れなき木綿屋
借銭の書置き珍し
朝の塩籠夕べの油桶
常陸に隠れなき黄金分限
人はそれぞれの願ひに叶ふ
三匁五分曙のかね
作州に隠れなき悋気嫁
蔵合といふは九つの蔵持

巻六

銀のなる木は門口の柊
越前に隠れなき年越屋
見立てて養子か利発
武州に隠れなき一文よりの
    銭屋
買置きは世の心やすい時
泉州に隠れなき小刀屋の
    薬代
身代固まる淀河の漆
山城に隠れなき与三右が
    水車
知恵を量る八十八の升掻
今の都に隠れなき
    三夫婦を祝ふ

どうであろうか。これを読んだだけで大体の内容がわかるのは当時の町人、しかもかなり知識層の町人だと思える。従ってここで若干の注が必要だろう。

まずそのほとんどが「どこそこに隠れなき」とういう言葉を使っているのでいずれもそれぞれの土地で有名な人物または事物だということだ。そしてこの書が先にも指摘したように「大福新長者教」とあるように全国の有名な金持ちたちの話なのだ。その全国も北は越前、南は豊後と範囲は広い。ただ意外と言っていいかどうか、同一場所では「江戸」が5話で一番多い。「京」は3話、「大阪」は1話と意外に少ない。さて、西鶴は関西人である。大阪の町人の子として生まれ、育ったことは夙に有名である。だから意外と思えるのだが、実は西鶴は全国の話を書きたかった。そして当時新興地域だった「江戸」に最も関心があったと言える。大阪にはすでに語るまでもない大町人がいたに違いない。しかし、関心は今でいう「ベンチャー」?にあったのだと思える。さて、ここで疑問なのは西鶴がここで紹介しているエピソードや人物の話をどう取材したのかということだ。ここの6巻各5話計30話は作り物ではないはずだ。各地で有名な話だとすれば、その取材力にまず驚かされる。そして西鶴がどのようなスタンスでこうした話を紹介しているかだ。

西鶴のスタンス

さて、この30話は全て金持ちの話なのだが、いずれも最初から金持ちだった人はいないということだ。確かに親からの相続は大事である。これは西鶴も認めているし、はっきりそう書いている。しかし、その財産を作った親もやはり始めから金持ちだったわけではない。これはこの時代がいかに町人の勃興した時代であったかを窺わせる点だ。江戸時代というと身分制の強い時代というイメージだが、この書を読んでいると全くそんなイメージがない。むしろ下層にいた人物がその才覚・勤勉・幸運によって上昇していくさまが印象深い。米蔵に通って、こぼれ米を拾うことを皮切りに金持ちになった年老いた女性。江戸で大工の後をついて捨てられた木端を拾い集め、箸を作って財を成し、やがては材木屋にまでなった男。豆まきの大豆を拾い集め、それを蒔いて増やし、それをさらに田畑の溝に蒔いて大収穫し、やがて大百姓になった男。こうした話の人物はいずれも初めは下層にいた人物たちだ。この大豆の話の男は特に面白い。この男、大百姓になった後も実にいろんなことにチャレンジし、多くの農機具を発明開発したという。そして財産をなしたわけだが、それはその才覚ばかりではなく、その「始末」の良さによっていると西鶴は書いている。この「始末」という言葉はこの書にたびたび登場するが、これは倹約・質素を旨とする生活スタイルと言っていいものだ。この「始末」によって財を成した人の話は他にも登場するが、この男は徹底していて遺言でそれを子息にも強要した。しかし、子息はそれを守らなかった。遊びに手を出し、あっという間にその財を失ってしまう。こうした二代目が財を失う話は今でもよく聞くが、何も二代目だけでなく、財を成した本人も遊びであっという間に財を失う話もある。財を得るには多くの努力と才能とが必要だが、それを維持するにはこの始末が必要で、ちょっとした油断から財を失うこともあると西鶴は指摘する。

こうした金持ちに必要なものを整理して語っている話がある。これは貧乏を抜け出すための方法という形で語られている。貧病の妙薬「長者丸」の処方と禁忌という話だ。朝起五両、家職二十両、夜詰八両、始末十両、達者七両、これを調合して毎日飲めば必ず金持ちになるという。(ここでいう「両」は薬剤の場合は4匁をいうらしい)。ただし、「毒断」と言って薬の効用を阻害する食物として様々なことを挙げている。主に美食、女遊び、芸事、子供の贅沢などだ。「家職」は仕事そのものだから二十両と多いのは当たり前だが、ここでも次いで「始末」を十両としている点に注目したい。「毒断」も即ち「始末」の範疇だ。とすれば西鶴が一番強調したかった点は「始末」ということになろうかと思う。

しかし、この「長者丸」の処方には入っていなかったが、成功者の話の多くにはその「才覚」が関わっていることも注目していいと思う。先程の百姓の話もそうだが、この書に登場する成功者には他とは異なる「才覚」がある。他にはない「アイディア」が必ず成功のきっかけになっている。三井の商売の仕方はそれがはっきり表れているし、いわば逆転の発想の貧乏神を祀って成功した男にしても、誰もが考えないような発想で商売を成功させている。ただ「始末」だけでは成功はなかったはずである。いわば「始末」は成功後にこそ必要なものとしているのかもしれない。成功後、没落してしまった話もいくつかあるが、それはその「始末」に失敗した例ということになるのだろう。

ただ、西鶴は決してそうしたことを教訓じみた筆致で書いてはいないことも強調しておきたい。ただ、実際にあった話として書いている。しかも仏教的な教訓や儒教的な道徳を説くというスタンスがまるでないこともこの時代において特筆に値すると思う。これこそ町人的リアリズムと言えるのかもしれない。お金を全面的に取り上げたこと自体も新しかったし、まさに町人的スタンスだと言える。

おわりに

さて、西鶴はこの書の終わりに、次第に豊かになる庶民生活について語り、京・大阪・江戸の繁栄ぶりを語っている。まさに元禄期の江戸時代は繁栄の時代だったのかもしれない。そこを生きた西鶴が町人という視点でその繁栄を支えた町人を描いたのがこの『日本永代蔵』であった。

2024.05.01
この項、了

win11PC上の音楽ファイルをiPhoneに

娘からPC上の音楽ファイルをiPhoneにもってこられないかという依頼を受けた。

パソコンはwin11だ。

iTunesでやろうとしたがはまくいかない。WIN11の場合は

Windows用の「Apple Music アプリ」、「Apple TV アプリ」、「Apple デバイスアプリ」を使うことになったようだ。

インストールはhttps://support.apple.com/ja-jp/118290からいける。

必ず三つインストールする。

まず音楽ファイルの管理をApple Music アプリで行う。

ここに音楽ファイルや音楽フォルダを追加する。

左メニューの上部にある…メニューをクリック
現れるメニューからライブラリィを選択するとできる。

なお、ここではCDからの取り込みはできない。Windowsメディアプレイヤーを使おう。
それをApple Music アプリに取り込めばいい。

PC上の音楽ファイル移動はApple デバイスアプリで行う。

Apple デバイスアプリを起動し、iPhoneをUSBケーブルでつなぐ。

左メニューからミュージックを選択
右メニューの一番上をチェック
同期の欄の下を選択
オプションの欄は選択しない
その下でアーティスト・アルバム等を選択
さらに下の移動させたい物を選択
そのうえで右下の適用をクリック
その際バックアップを停止すること。

ただ、注意しないといけないのは「同期」という点であり
一台のPCとしか同期ができないという点だ。

ただ単に音楽ファイルを移動するだけなのに実に面倒だ。
写真は簡単にできるのに音楽ファイルができないのは著作権の観点からだろうか。

単純なファイル操作でやるには専用の有料ソフトが必要なようだ。

やれやれ。
2024.04.08

日本古典文学総復習続編22『芭蕉文集』

はじめに

今回は『芭蕉文集』である。

この書には芭蕉37歳から逝去直前までの文章69篇が年代順に並べられて収められている。中身は数行の短い文書や書簡、「おくのほそ道」を代表する紀行文など、さまざまである。
それをここでは便宜上4種に区分けして読んで行きたいと思う。以下である。

  • その一 断簡・短文 30篇
  • その二 紀行文等 7篇 (厳密には紀行文ではないが「幻住庵の記」などを含む)
  • その三 書簡 28篇
  • その四 遺書 4篇

そしてそれぞれについて小生なりの読みを語りたいと思うのだが、その全てを紹介するわけにもいかないのでこの分類から幾つかを選んで語りたいと思う。

その一 断簡・短文

この類は素晴らしいものが多いのだが、ここでは以下の2篇を取り上げてみたい。参考に本文も示しておく。(番号は本書の番号)

「雪丸げ」と題された 四十三歳の作

 曾良何某は、このあたりに近く、仮に居をしめて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。我くひ物いとなむ時は、柴折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来たりて軒をたたく。性隠閑を好む人にて、交り金を断つ。ある夜、雪を訪はれて、
               ばせを
きみ火をたけよき物見せん雪丸げ

ここでいう曾良何某は「奥の細道」の旅に同行した河合曽良のことである。芭蕉に入門まもない頃の俳文。この頃芭蕉は深川の芭蕉庵に暮らしていた。いわばわび住まいだが、その生活ぶりが窺われる。曽良はよっぽど芭蕉に心酔していたのだろう、なにくれと芭蕉の面倒をみていたようだ。芭蕉もすっかり信頼し、共にいることに喜びを感じていたようだ。それが句によく表れている。「雪まるげ」とは今で言う「雪だるま」だろうか。子供のような気分が窺えて、楽しい句だ。

「秋の朝寝」と題された 五十一歳の作

 あるじは、夜あそぶことを好みて、朝寝せらるる人なり。宵寝はいやしく、朝起きはせはし。
おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり  翁

これは芭蕉最晩年の俳文。大阪での半歌仙興行の翌朝の吟。その半歌仙の発句と脇は以下。

秋の夜を打ち崩したる咄かな 翁
月待つほどは蒲団身に巻く 車庸

その脇(俳諧の二句目。亭主が詠むことになっている。ちなみに発句は客が詠む、ここは芭蕉)を詠んだ車庸が「朝寝」をしている亭主だ。その朝寝坊している亭主ぶりに客芭蕉はなんとも心楽しいと言っている。晩年も変わらず心優しい芭蕉である。

その二 紀行文等

その梗概

紀行文としてはいわば滞在記も含めると以下の文がある。(番号は本書の番号)まずはその梗概を示しておく。

  • 七 野ざらし紀行 四十一歳〜四十二歳・四十四歳完成
  • 一五 鹿島詣 四十四歳
  • 一六 笈の小文 四十四歳〜四十五歳・没後門人編成
  • 二三 おくのほそ道 四十六歳・五十一歳完成
  • 一九 更科紀行 四十五歳
  • 二八 幻住庵の記 四十七歳
  • 三五 嵯峨日記 四十八歳

「野ざらし紀行」は貞享元年8月、門人苗村千里を伴って深川の芭蕉庵を出立、東海道を上って伊勢・伊賀・大和を経て、以後は単独で吉野、9月下旬に美濃大垣、桑名・熱田・名古屋から伊賀上野に帰郷して越年、春の大和路をたどって京都へ出て、近江路から江戸への帰路のおよそ8ヶ月の紀行を題材とする作品。

「鹿島詣」は貞享4年8月、鹿島神宮に参詣し、芭蕉参禅の師といわれる仏頂和尚を訪ねて1泊し、雨間の月見をした短い旅の記録。

「笈の小文」は貞享4年10月に江戸を出発し、尾張、伊賀、伊勢、吉野、奈良、大坂、須磨、明石などを巡った7か月の旅の間に記録した断簡を弟子の乙訓が死後まとめたもの。

「おくのほそ道」は最もまとまった紀行文。後述。

「更科紀行」は貞享5年8月に門人越人を伴い岐阜を出発し、木曾街道を経て夜に更科に到着し、姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へ帰るまでの紀行文。

「幻住庵の記」は、紀行文とはいえないが、一種の滞在記。「おくのほそ道」の旅を終えた翌年の4月~7月(陽暦の5月~9月)までの4か月を滋賀県大津にある国分山の幻住庵に暮らした。その時の記録。

「嵯峨日記」は、これも紀行文とは言えないが、元禄4年4月18日から5月4日まで、京都嵯峨の落柿舎に滞在した時の日記。芭蕉の滞在生活や、門下生との交流が記されいる。

「おくのほそ道」について

さて、これらの紀行文のうち最もまとまったものであり、古来人口に膾炙した作品はなんと言っても「おくのほそ道」である。ここで私なりの読みを語りたいと思う。

どうもこの作品が芭蕉を漂白の俳人というイメージを作り上げたように思う。確かに芭蕉は漂白の孤独な詩人を気取ってみたかったに違いない。しかし実態は必ずしもそうではないと思うのだ。また、この作品は現代的な意味でいう紀行文的なものでは決してないように思える。例えば有名な以下の句。

 荒海や佐渡によこたふ天の川

この句を単独で読むと、いかにも男性的な日本海の風景が思い浮かぶし、それを眼前にしている孤独な芭蕉の姿が思い浮かぶ。しかし、この句の前に以下の叙述がある。

 (前略)この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず

この「荒海や」の句の前にある「文月や」の句は七夕のことを言っている。一日前だけれどもすでになんとなく「常の夜」とは違うと。織姫と牽牛を隔てた「天の川」、それが荒海の向こうにある佐渡との間に横たわっていると。つまり「佐渡」は実景として見えているのではなく、悲痛な島流しの歴史を持つ島として見えている。この句は頭注で編者の言う

 実景の忠実な描写ではなく、旅懐と史的懐古とによる心象風景として構成した吟

なのだろう。この部分の地の文にはこの地の情景描写はひとつもない。

このことはある意味この作品の特徴とも言えそうだ。つまり紀行文というと実景の描写を期待するが、実景の描写が意外に少ないように思われる。あったとしてもそこに芭蕉ならではの特徴がある。以下は少ない実景描写の代表的な部分である。古来芭蕉の名文の誉が高い部分だ。

 そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、 浙江の潮をたたふ。島々の数を尽して、欹ものは天をゆびさし、伏すものは波にはらばふ。或は二重にかさなり三重にたたみて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯たるがごとし。そのけしき窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祗のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、ことばを尽さむ。
 雄島が磯は地つヾきて海に出たる島なり。雲居禅師の別室の跡、坐禅石などあり。はた、松の木かげに世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵しづかに住なし、いかなる人とは知るられずながら、まづなつかしく立ち寄ほどに、月、海にうつりて、昼のながめまた改む。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
 
松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

 予は口をとぢて眠らんとして寝ねられず。旧庵をわかるる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きて、今宵の友とす。且つ、杉風・濁子が発句あり。

どうであろうか?芭蕉はこの松島の絶景を描写するに漢詩文を援用している。もちろん芭蕉は実際の漢詩文に登場する景色を見たことはない。あくまで文章の上で知っているに過ぎない。「洞庭・西湖」「浙江」を登場させ、杜甫や蘇東坡の詩(「児孫愛す」・「美人の顔を粧ふ」)を援用しているのだ。これが芭蕉の情景描写の特徴と言える。他の所の情景描写でも歴史的な故事や歌枕などを紹介するに過ぎないように思える箇所が多い。しかもこの絶景を目の前のして「口をとぢて」と言って句作をしていない。句は同行者曾良のものだ。この作品は、芭蕉が色々な場所を訪れ、その景色に感動し、句作をしていく記録では、けっしてないということだ。芭蕉のこの作品を近代的な「写生」といった概念で読むこと自体が無理なのかもしれない。

では、この旅はどんな旅だったのか。この作品は実は実際の旅から数年経ってからまとめられたと言われている。つまりは実際の旅の記録そのままではない。それでもこの作品からも窺えるのが、まずはとてつもなく長い旅だったことだ。そして一つところにかなり長居をしている旅だと言えることだ。この旅は4月から9月まで約半年にわたっている。しかも例えば4月には那須の黒羽に13泊もしているし、5月には出羽尾花沢に10泊、6月羽黒山に7泊・酒田9泊、7月金沢9泊、山中温泉に8月にかけて8泊、そして9月にかけて最後の地美濃大垣には14泊もしている。そしてその各地で俳諧を興行しているのだ。実はその各地には芭蕉に心酔する門人たちがいたわけだ。この頃の芭蕉はすでに全国に多くの門人というか、俳諧でいう連衆を抱えていたのだ。しかもその門人たちは各地の有力者たちである。当時、一老人芭蕉が一人の同行者を連れただけでこれだけの旅をできたのはこうした背景があったからだと言える。こういうと文学作品に対して現実的な要素を指摘しすぎると面白くはないかもしれない。しかし芭蕉がいかに自分の俳諧の道を苦労して切り開いたかの記録として読めば、けっしてうがった味方ということにはならないと思う。

その三 書簡

書簡は28篇収められている。実兄に宛てた一通以外は全て門人に宛てた書簡である。これらの書簡には、芭蕉が新しい俳諧の形を切り開き、それをいわば全国展開することにいかに執心していたかが窺えて、興味深い。以下二つの書簡を取り上げる。

  • 三二 立花牧童(彦三郎)宛書簡 四十七歳
  • 五五 杉山杉風(市兵衛)宛書簡 五十一歳

立花牧童(彦三郎)宛書簡

立花牧童という人は加賀金沢の人で、奥羽行脚の旅の途中で芭蕉の門に入った人物。後に兄の北枝とともに加賀蕉門の中心的存在となる。この書簡は、牧童の消息を聞き、書簡ももらったから、その返事だという体裁で、しかも金沢に大火事があったとのことで、そのお見舞いという内容だ。しかし、注目すべきは以下の文言だ。

(前略)いよいよ御はげみなさるべく候。世間ともに古び候により、少々愚案工夫これ有り候て、心を尽し申し候。その段ほぼ乙州も心得申し候あひだ、御話なさるべく候。

火事があったが句会も行われているようなので、ぜひ励んで欲しいといい、最近俳諧が停滞しているが、そのことに対して自分には或考えがあるので、そのことをよく知っている弟子の乙州によく聞いてくれと言っている点だ。この「愚案工夫」というのが、所謂「軽み」と称される蕉門の新しい俳諧の形で、これを全国へ広げたい芭蕉の意欲がこの書簡に感じられる。

杉山杉風(市兵衛)宛書簡

杉山杉風は江戸の門人。芭蕉庵を提供した人物でもある。この書簡は芭蕉が膳所の無名庵に滞在している頃、『別座鋪』という江戸で刊行された選集についての様々な点について杉風に諭しているものだ。『別座鋪』という選集は子珊という人物が杉風と桃隣という人物(芭蕉の縁者と言われている)の協力によって刊行されたもので、芭蕉の晩年の傾向、すなわち「軽み」を示す選集として、また停滞した俳諧を打開するものとして、大いに評判になった。しかし一方ではこれを良しとしない向き(嵐雪や其角)もあったので、蕉門分裂の引き金にもなったという。また、その『別座鋪』刊行に際しても、版下を杉風に見せなかったとか、同じ江戸蕉門の野坡や利牛の作品を載せていないとか色々手違いがあったようで、それについて師匠芭蕉は杉風になんやかやと取りなしている。ここで芭蕉は門人の誰それを非難するようなことは一切言っていない。むしろ「この新傾向をしっかりやりなさい」といい、この新傾向を非難する向きには「相手にするな」と言っている。

 まづ「軽み」と「興」ともつぱらに御励み、人人にも御申しなさるべく候。

と結んでいる。いかに芭蕉が蕉門の新傾向の普及と定着に心血を捧げていたがわかる書簡だ。

その四 遺書

遺書と思われるのは実兄に宛てた書簡と門人支考に口述を筆記させたもの3通がある。ただ、兄に宛てた遺書は極めて簡潔なもので、「ここに至って(死を覚悟していること)何もいうことはない。皆さんよろしく」としか言っていない。いかにも芭蕉らしいと言っていい。

支考が口述を筆記したものの1通目は遺品の所在や移譲について触れ、作品の誤伝訂正の依頼だ。

2通目は江戸深川の芭蕉庵ゆかりの人々への訣別が内容だが、特に桃隣に対する心配が際立っている。桃隣は芭蕉の親類筋というが、当時の営利的な点取俳諧を志向しているらしく、それを心配し、杉風らに指導するよう頼んでいる。それに支考の深切に対する謝辞だ。

3通目は遠隔地にいる古参の門人たちに対する訣別。この中で「いよいよ俳諧御つとめて候て、」という言葉が繰り返されている。最後に其角・嵐雪に対する言葉も忘れていない。最後まで芭蕉は自分が人生を賭けて唱導し、広げてきた蕉風俳諧というものに固執していたのがよくわかる。
この3通目は元禄7年10月10日に書かれたという。その翌々日12日に芭蕉はその俳諧一条に生きた生涯を閉じた。

終わりに

こうしてこの書に収めらた芭蕉が書き残した文書を読んでいくと、いかに芭蕉が俳諧の新しいあり方を求めて奮闘していたがよくわかる。ただ、その俳諧は今やほとんど失われてしまったのが残念でならない。芭蕉を近代的な解釈から解放して、芭蕉が求め、実現してきた世界を甦らせることができたらどんなにか素晴らしいかと思う。それにはもっと芭蕉やその連衆たちの俳諧を読まなければならい。今回はここまでとする。

2024.03.22 この項了

日本古典文学総復習続編21『芭蕉句集』

はじめに

今回は芭蕉です。この総復習続編もようやく江戸時代に入った。

実は前回の新日本古典文学大系を使った総復習でも芭蕉は取り上げている。以下である『日本古典文学総復習』69『初期俳諧集』70『芭蕉七部集』。これは芭蕉の真骨頂である俳諧作品だ。ただ今回は『芭蕉句集』と『芭蕉文集』と言う括りだ。この古典集成の『芭蕉句集』と言う表題にはかなりの工夫が感じられる。本来は「芭蕉発句集」としなければならないところのはずだ。しかし、芭蕉は俳句作者と言う形で現代の世間では通っている。そうならば「芭蕉俳句集」としたいところだが、これは正確ではないのだ。芭蕉は現代で言う俳句作者ではないからだ。ただ発句と言うのでは通りが悪い。そこでこうしたのだう。

私は何にこだわっているのだろうか。芭蕉は近代になって創造された俳句の作者ではないのだし、芭蕉を読むということは、あくまで「俳諧連歌」の中で読むべきだと言いたいからだ。(「俳諧連歌」については別項参照日本古典文学総復習続編14『連歌集』。また別稿も読んで下さい名著『芭蕉の恋句』を読む 芭蕉の俳諧について。)

さて前置きが長くなったが本書の内容を見ていこう。本書には 芭蕉の発句980句がほぼ年代順に並べられている。芭蕉の発句が一体どれくらいあるかは実は定かではない。同じ編者の 別の書籍でも981句が載っていて、20句ばかりの句の相違がある。つまり本によって句数は様々なのだ。また表記もさまざまだ。しかもここはあくまで「発句」に限っている。俳諧では発句はほんの一部で、平句と呼ばれるものや、七七の付句も芭蕉は多く作っている。またここにも優れたものも多いのだ。それも興味深いのだが、ただここはそういった事は別にして、与えられた980句をざっくり読むことにした。

お気に入りの句

ざっと読んでいて、「あ、この句がいいな」、「あ、何かで読んで印象に残っているな」、なんて思った句に付箋をつけて行った。全部で38句に上った。 ここに全てを記しておく。(区の前の番号は本書の句番号)

28 花に明かぬなげきやこちの歌袋
96 あやめ生ひけり軒の鰯のされかうべ
109 見渡せば詠むれば見れば須磨の秋
126 櫓声波を打つて腸氷る夜や涙
152 梅柳さぞ若衆哉女かな
156 朝顔に我は飯食ふ男哉
187 海苔汁の手際見せけり浅黄椀
192 霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き
232 春なれや名もなき山の薄霞
260 目出度き人の数にも入らん年の暮
281 酒飲めばとど寝られぬ夜の雪
309 朝顔は下手の書くさへあはれなり
334 まづ祝へ梅をこころの冬籠り
339 いざさらば雪見にころぶ所まで
361 手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
383 酒飲みに語らんかかる滝の花
410 蛸壺やはかなき夢を夏の月
454 身にしみて大根からし秋の風
506 世の人の見つけぬ花や軒の栗
531 月か花か問へど四睡の鼾哉
543 一家に遊女も寝たり萩と月
546 あかあかと日はつれなくも秋の風
555 湯の名残り幾度見るや霧のもと
612 この種と思ひこなさじ唐辛子
649 月見する座に美しき顔もなし
653 草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
688 呑みあけて花生にせん二升樽
724 折々は酢になる菊の肴かな
754 鴬や餅に糞する縁の先
762 鎌倉を生きて出でけん初鰹
771 青くてもあるべきものを唐辛子
774 行く秋のなほ頼もしや青蜜柑
802 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん
831 振売りの雁あはれなり恵美須講
841 梅が香にのつと日の出る山路哉
873 清滝の水汲ませてやところてん
889 ひやひやと壁をふまへて昼寝哉
904 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな

特に語っておきたい句その一

朝顔に我は飯食ふ男哉
朝顔は下手の書くさへあはれなり
青くてもあるべきものを唐辛子
月見する座に美しき顔もなし

こうした句を読むと芭蕉と言う人の為人がうかがえる。実はここに挙げた句はすべて弟子と言うか、連衆と言う俳諧グループの相手に対する挨拶の句なのである。どういうことかと言うと俳諧連歌と言うのは「座の文学」だと言うこと、つまり相手がいると言うことだ。現代の芭蕉のイメージは「奥の細道」の作者というところから、どうも個人的な旅をする俳句作者と言うイメージが強すぎるように思う。したがって、こういう句が芭蕉の作とすると意外に思われる人もいるのではないだろうか。実はこうした句がまずは芭蕉の真骨頂なのだ。

初めの朝顔の句は「私は至って普通の男ですよ」と言っている。「そんなにカッコつけなくたって良いじゃない」とシティボーイの弟子其角に言っている。

次の朝顔の句は弟子から画讃を頼まれて作った句。なんともひどい言いぶりだが、親しい弟子に対してだから言えた。

唐辛子の句は小生が一番お気に入りの句。「なんで赤くなっちゃったの」という二の句が次げそうな句。これも若い弟子に対する句。愛情あふれていると思いませんか。

月見の句も面白い。「月は綺麗で清々しいが、それにしても不細工な野郎ばかりそろったものだ」と連衆に向かって言っている。

まさにこれが俳諧なのだ。

特に語っておきたい句その二

月か花か問へど四睡の鼾哉
手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
ひやひやと壁をふまへて昼寝哉
鴬や餅に糞する縁の先
振売りの雁あはれなり恵美須講

これ等はまさに俳諧。俳諧という言葉はユーモアといった意味もあるが、卑俗といった意味合いもある。和歌や堂上連歌では決して使われない俗語を大胆に使っている。しかし決して句として卑俗になっていない。

「四睡」とは四人の賢者が居眠りしている絵。その讃として詠まれた。

「手鼻かむ音」とは山里の卑俗な風景。「それさへ」梅の盛りの美しい風景の添え物だと思えると。

昼寝の句、素足を壁につけて寝ると夏は気持ちがいいと。

「鶯」「雁」いずれも和歌や連歌の代表的な景物。それが糞をするは、食べるために売られているは、これこそ俳諧である。

「鶯」の句は多分正月を過ぎた頃にカビの生えた餅を干していて、そこに鶯が来て糞をしたという、春先のほのぼのとした感がある。こんな情景、人に言いたくなる。

「雁」の句はこの雁を食用としたところに俳諧があるが、それでも何か寂しい振売りの人物を彷彿とさせる。こうした句にも芭蕉の人間味が感じられる。

特に語っておきたい句その三

霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き
いざさらば雪見にころぶ所まで
世の人の見つけぬ花や軒の栗
あかあかと日はつれなくも秋の風
鎌倉を生きて出でけん初鰹

これ等の句は小生が見たことのある句碑に刻まれた句だ。ここにあげた句で他にも句碑になっている句はあるかも知れないが、実際に見た記憶のある句を挙げてみた。

富士の句碑は箱根新道の三島に向かう途中にあった。この句についてはかつて書いたことがある。芭蕉は捻くれ者だという趣旨であった。

雪見の句碑は向島の桜もちで有名な長命寺にある。この寺には小生が好きで一時研究していた成島柳北の碑があって尋ねたことがあった。この句「いざ行かん」「いざ出でん」という語から三つ言い換えている。雪が降ってきて何故か子どものように弾んだ気持ちが伝わってくる句だ。何故この句碑が長命寺にあるのかはわからない。

軒の栗の句碑は我が町戸塚の清源院にある。どうしてこの句の碑がここにあるかは定かではない。しかしこの寺にゆかりのある幕末の戸塚宿に住む俳人味岡露繡という人が芭蕉に親炙していて建てたという。福島の須賀川にある可伸という僧侶の庵で開かれた座での発句だけに本来はここにあるはずだが、この戸塚の俳人がよほど気に入っていたのだろう。この句碑の裏面にはその露繡の句「罌粟(けし)のはな 風も吹かぬに散りにけり」が刻まれている。小生も一句「どくだみの花も咲くらん明月院」お粗末。

戸塚清源院の句碑

あかあかとの句碑は確かどこかの高速道路のサービスエリアにあった。この句は金沢に入る前に金沢源意庵の納涼句会での発句だという。これはちょっと思い出せない。

鎌倉の句碑はこれも我が町戸塚の富塚八幡という神社の境内にある。戸塚宿は東海道にある宿場で日本橋から丁度10里の場所だ。そして鎌倉や江ノ島に折れていく起点でもある。初鰹は江戸っ子にとって大事な魚、鎌倉で水揚げされて江戸まで運ばれたのだろう。富塚八幡は東海道の途中にある。

戸塚富塚八幡の句碑

さて、こうして芭蕉の句碑は数多く建てられている。江戸時代から芭蕉を顕彰する機運が高まったのだろう。そしてもう一つは芭蕉が旅の俳人というイメージが作られたためということもあったはずだ。近代の歌人若山牧水の歌碑が全国に多いのと同じである。しかし芭蕉が旅の俳人と言っても、これ等の句が土地土地にいる俳諧の座で詠まれたものであることは忘れてはならない。

終わりに

芭蕉は本当に好きで色々と読んできたので、語り尽くせない感が強いが、キリが無いのでこの辺りで筆を置くことにする。これを機会にぜひ芭蕉の句を虚心坦懐、読んでもらえればと思う。

2024.03.06

この項了

名著『芭蕉の恋句』を読む 芭蕉の俳諧について

東明雅氏の著書に『芭蕉の恋句』というのがある。岩波新書の一冊で、初版はもうだいぶ以前に出たものだが、ハードカバーで再販されている。中身は読んでもらえばわかるのだが、芭蕉の句をあくまでも俳諧の一部として読むというコンセプトで書かれていて、しかも「恋の句」を取り上げることによって、それを見事に実現した名著だ。小生はこの書から少なからず教示を得たわけだが、ここに自分なりにこの書で紹介されいる俳諧の付け合いをたどってみることによって、芭蕉の句を俳諧の文脈でもう一度読み直してみたいと考えている。

さて、前置きはこのぐらいにして、早速この書の後半で紹介されている以下の付け合いを読んでみたい。

    黒木ほすべき谷かげの小屋      北鯤
   たがよめと身をやまかせむ物おもひ   芭蕉
    あら野の百合に泪かけつゝ      嵐蘭

北鯤の前句は人里離れた谷かげの一軒家を詠んだ句だ。著者によれば、黒木は「京の八瀬・大原あたりで作られ、大原女が頭にのせて京都の市中を売り歩いた」「竈で蒸し黒くふすべ薪とした木」だそうだ。そんな黒木をほす一軒家を詠んだ句に、芭蕉はその家の一人娘を想像する。そしてその娘が、自分が誰の嫁になるかと思い悩んでいるというのだ。前句にあるなんとなくさびしい風景とそこに住む娘のさびしい心持を著者は読み取っている。だが、それは次の句によって明らかになることだ。芭蕉の句を単独の句として読めば、けっして優れた句ということにはならないだろうし、この物思いもひょっとすると期待感を含むものとも取れないことはない。しかし、芭蕉の句に付けられた嵐蘭の句が荒野に咲く清楚な一輪の百合を詠み、そこに泪を添えたことによって俄然こうした著者の解釈を妥当なものする。これが連句=俳諧の妙味なのだと思う。別な言い方をすれば、芭蕉の句はその後の嵐蘭の付け句を引き出すところに優れた点があるとも言える。ただ、この付け合いはその前があるし、その後の展開もある。東氏はその点については触れていない。そこで、その前を見てみることにする。

「黒き」の句の前句はソ良の

   山風にきびしく落る栗のいが

という句だ。この句を見ると、北鯤「黒木」の句は場所をさらに特定したのみの句ということになる。ただ、「きびしく」という言葉からも、この谷陰の小屋が一軒ぽつんと建っている粗末な屋根しかない小屋であり、おそらくこの小屋に住むのは、腰の曲がった老人だろうと想像できる。しかし、そんな想像を超えて、芭蕉はいずれ誰かの嫁となる多感な若い娘の悩みを引き出している。「恋」の句である。こんなところが面白い。そして嵐蘭のいい「恋」の句を引き出しているわけだ。この嵐蘭の句は、「山家集」にある、

 雲雀たつ荒野に生ふる姫百合の何につくともなき心かな

という歌を踏まえているらしい。この歌は前書きに「心性定まらずというふことを題にて・・・」とあるように、何にも頼れない不安な心を詠んでいる歌だが、芭蕉が引き出した若い娘をうまく言い当てている。こんなところも連句=俳諧ならではといえるのではとおもう。

さて、その後の展開はどうなったのだろうか。嵐蘭の句の付け句は嵐竹という人物の

   狼の番して明る夏の月

という句だ。「狼」は「墓原」から創造される語だそうだが、「あら野」を「墓原」とみて、月を出している。ここで一気に「恋」の気分は消え去って、「泪」を恋の泪ではなく、死者を悼む涙に転じている。こうしたところも連句=俳諧ならではで、一つの情緒にこだわってはいけないのだ。そして、塔山の次の句

    水のいはやに佛きざみて

という句への展開していく。あまりうまい鑑賞とはいかなかったようだが、この一連の付け合いで芭蕉が行っていたことの一端がわかっていただければと思う。

元禄二年の歌仙「かげろふの」の後半の付け合い。

   山風にきびしく落る栗のいが      ソ良
    黒木ほすべき谷かげの小屋      北鯤
   たがよめと身をやまかせむ物おもひ   芭蕉
    あら野の百合に泪かけつゝ      嵐蘭
   狼の番して明る夏の月         嵐竹
    水のいはやに佛きざみて       塔山

この稿未了

日本古典文学総復習続編20『歎異抄・三帖和讃』

はじめに

今回は親鸞の言説。これを文学と言えるかどうかだが、現在でも評価の高い僧侶であり、その言説といえるから、ここに収められているのはそれなりの根拠があるのだろう。小生も、年少の頃より私淑してきた思想家がこの親鸞を高く評価し、論じてきたという経緯から、少なからず関心を持ってきた。
ただ、それが災いしてこの親鸞の言説を素直に読めないかもしれないが、なるべく本書に沿って読んでいきたいと考える。

本書の内容

『歎異抄』『三帖和讃』『末燈鈔』の3作品?だ(先ほどから親鸞の言説という言い方をしてきたのは『三帖和讃』以外は後の人が親鸞の言説や書簡を記録編集したものだからだ)。それぞれの内容を見ていく。

『歎異抄』

序言があって、第一から第一八までの親鸞の言説があり、後記があるという体裁を持っている。
序言では著者の唯円という人物の嘆きが語られる。故人となった親鸞の教えが乱れて伝えられていると嘆き、それを自分が聞いたところを記して、正したいと言う。

故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留むるところ、いささか、これを注す。ひとへに、同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々

と言っている。

さて、中身については頭注にある編者(この本の)の文言を借りて記しておく。以下だ。

  • 序   唯円の嘆き
  • 第一  絶対他力の信心
  • 第二  出合いによる得信
  • 第三  悪人を自覚する心
  • 第四  恩愛を超えた慈悲
  • 第五  恩愛を超えた念仏
  • 第六  自然の道理としての念仏
  • 第七  何ものにも妨げられない念仏の道
  • 第八  賢者精進の修行とは無縁な念仏
  • 第九  煩悩を生きる人間を摂め取る仏
  • 第十  人間の思惟を超えた他力の大悲
  • 中序  聖人の仰せにあらざる異議
  • 第十一 誓願の功徳と名号との関係
  • 第十二 学問と信仰をめぐる問題
  • 第十三 他力をたのむ悪人
  • 第十四 摂取不捨の利益にあずかる念仏
  • 第十五 他力のさとり
  • 第十六 廻心ということ
  • 第十七 辺地より真実報土へ
  • 第十八 寺院・道場経営者の論理
  • 後記  歎異の心

さて、こうして様々な形で論じている親鸞の根本的な思想は何かというと、それは「絶対他力」という事になろうかと思う。「他力本願」という言葉は現在でも使われ、決していい意味ではないように思うが、親鸞の言う「他力本願」とは、全ては阿弥陀仏の計らいによって決まるということのようだ。

人々はいつの時代も現世が辛いから宗教に救いを求める。そして来世が素晴らしい世界であることを望む。それがここ日本では平安から「浄土」と呼ばれ、「極楽往生」することをあらゆる仏教が唱える。ドイツの思想家カールマルクスは「宗教はアヘンだ」と言ったというが、「だから宗教は悪だ」と言ったのではないはずだ。人間の弱さ・痛みがアヘンを求めるように宗教に救いを求めてしまう。問題なのは「なぜ人間は救いを求めなくてはならないのか、(なぜ解放されていないのか)」なのだと言っているはずだ。未だ人間は解放されてはいずに、従って宗教は今も存在する。ましてや親鸞が生きた時代は現代以上に生きにくい時代で、相次ぐ戦乱や天災によって飢えや病気で多くの人々が死を迎えなくてはならない世だったはずだ。

そんな中登場したのが法然の浄土宗であった。これは特別な修行をせずともただひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できるという趣旨の宗派で、多くの人々に向かい入れられた。そしてそれをもっと徹底させたのが親鸞だった。多くの普通の人々「衆生」はもともと阿弥陀仏によって救われることになっているのだという。念仏を一心に唱えることも必要はないとまで言っている。ましてや修行などいらないと。ここまでくるとほとんど宗教の否定のように思えてくるが、ここに親鸞という人物のラジカルさがうかがえる。そして親鸞の徹底した自己省察と深い自己否定とが伺える。そこからくる人間観、これが「絶対他力」というこだと思う。

第十三にこんなエピソードがある。

親鸞が唯円に「私の言うことがきけるか」と言い、唯円が「なんでも聖人様の言う通りにします」と答える。すると親鸞は「だったら人を千人殺せ。そうすれば往生は決定する。」と言う。それに対して唯円は「私にはそんな器量はありません。人一人も殺すことなどできません」と言う。そこで親鸞は次のように言ったと言うのだ。

これにて知るべし。何事もこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし

つまり、親鸞はこう言っている。「何事も心の思うままになるのなら往生のために千人殺せるはずだ。しかしそうはいかないのだ。きっかけ(業縁)がなければ一人も殺せないし、殺したくないと思っていても百人・千人を殺してしまうこともあるのだ」と。

これが親鸞のいう「絶対他力」ということなのだろう。人間がいかに相対的な存在であるかということだ。そういう相対的な存在であるが故に阿弥陀仏が初めから救ってくれるのだと。これが「他力本願」だと。親鸞がこうした境地に至るには、長い比叡山での修行(自力)と徹底的な自己省察と、流罪になって見てきた地獄にも似た「衆生」の現実に対する認識があったといえる。

さて、もう一つ有名な「悪人正機」の一説を見ておこう。第三にある。

善人なほもつて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや。
しかるを、世の人つねに言はく、『悪人なほ往生す。いかにいわんや、善人をや』。この条、一旦、そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人はひとえに他力をたのむこころ欠けたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがへして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰せ候ひき。

ここでも「他力本願」とは何かを言っている。それは「弥陀の本願」であり、煩悩具足のわれら、すなわち悪人を救うためなのだと。つまり相対的に生きるしかない(他力で生きるしかない)「衆生」を救うのが「弥陀の本願」であり、すなわちそれが「他力本願」だと言っている。
こういう親鸞の思想はどこぞの宗教のように決して寄付を求めないだろうし、修行を求めない。もはや反宗教と言っても良いかもしれない。だが、親鸞の死後、この教えが全国的に広まり、大宗教になってしまう。現在の本願寺の有り様を見ると不思議な気がする。

『三帖和讃』

さて、先を急ごう。今度は「和讃」だ。

まずは「和讃」とは何かを確認しておこう。辞書によれば「仏教歌謡の一種で,仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をほめたたえる讃歌。梵語による梵讃,漢語による漢讃に対して,日本語で詠われるためこの名がある。」という。また「鎌倉時代以後和讃の主流となった4句1首形式は,今様の影響下に成立したものといわれ,和讃作者として高く評価されている親鸞の和讃も,すべてこの4句1首形式で,七五調によっている。親鸞の代表作は,浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃のいわゆる《三帖和讃》で,親鸞自身の豊かな宗教感動を軸として,抒情に流されることなく,理智的な構成美と高い格調を持っている。」(改訂新版 世界大百科事典による)

辞書に言う通り、浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃が収められている。
浄土和讃116首・浄土高僧和讃117首・正像末法和讃92首だ。

「浄土和讃」は以下に分類されている。
讃阿弥陀仏偈和讃・浄土和讃・諸経意弥陀仏和讃・現世の利益和讃・大勢至菩薩和讃だ。
いずれも浄土真宗の教えを歌の形にしたものと理解すれば良いと思う。信者が後の時代に唱えるべきものという。
「浄土高僧和讃」は七人の浄土の高僧を弥陀他力の法の尊さをほめ讃たものという。
「正像末法和讃」は以下に分類されるが、これが一番文学的価値が高いように思われる。
すなわち正像末法和讃・愚禿述壊・愚禿悲嘆述壊だ。これらは親鸞の最晩年に作られてというもので、親鸞そのものがよく表されているように思う。ここにも徹底した自己省察が伺える。決して悟りを開いた高僧のイメージはない。あくまで自己を愚かな凡夫とする思想家親鸞のイメージである。一つだけ引いておこう。

悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆゑに
  虚仮の行とぞ名づけたる

身にそなわっている悪性をとどめることは、全く不可能にひとしく、煩悩の心は毒蛇やさそりのように恐ろしい。たとえ善行を修めたとしても、そこには煩悩の毒がまじっているので、虚仮の行と名づけ、真実の業とはいわない。(編者口訳)

晩年になってもこうした自己省察を怠らず、自分を凡夫といい、「愚禿」と規定する姿は、後の大宗派の創始者というより、一人の孤独な思想家の姿である。

『末燈鈔』

さて、最後に『末燈鈔』を見ていこう。

この書は親鸞の書簡集。親鸞最晩年のものだ。親鸞は京都にあって、東国の門徒たちの論争に終止符を打つべく、精力的に消息を送っていたようだ。それを後に編集したもの。

では、実際にその内容を例によって本書に沿ってその要約を見ていく。

  • 第一書簡 真実信心の人は来迎往生をまたず。
  • 第二書簡 自力の念仏と他力の本願念仏の違い
  • 第三書簡 真実信心の人は如来とひとし
  • 第四書簡 信心よろこぶ人は、諸々の如来にひとし
  • 第五書簡 しからむるということば
  • 第六書簡 往生は如来の御はからい
  • 第七書簡 信心の人をば諸仏に等しと申すなり
  • 第八書簡 浄土の教えは、人の思惟を超えた真実である
  • 第九書簡 他力は、人智の及ばない不思議である
  • 第十書簡 他力にはとかくのはからいがあってはならない
  • 第十一書簡 弥陀の誓願によってさし向けられた信心と名号
  • 第十二書簡 名号となうとも本願を信じない者は辺地に往生す
  • 第十三書簡 信心が定まるのは、如来の摂取にあずかる時である
  • (慶信の上書)信心よろこぶ人は如来にひとしい
  • 第十四書簡 阿弥陀仏は智慧の光にてまします
  • (蓮位の添状)この手紙の趣旨に間違いはありません
  • 第十五書簡 自力の心で、わが身を如来とひとしいと思ってはならない
  • 第十六書簡 悪くるしからずということは、とんでもない考えです
  • 第十七書簡 他力のなかにまた他力と申すことは聞き候はず
  • 第十八書簡 信心をえたる人は、臨終を期し、来迎を待つ必要がない
  • 第十九書簡 誓願があるからといって、わざと悪を好んではいけない
  • 第二十書簡 薬あればとて、毒を好むべからず
  • 第二一書簡 念仏往生の願をひたすら信じることを一向専修という
  • 第二二書簡 弥陀の本願は行にあらず善にあらず

ここで第一六書簡を見ておこう。

これは親鸞の教えが最も誤解を生むところについて答えているからだ。それは「造悪無碍」の考え方に対する批判ということになる。先にも見たように親鸞は現世の善悪について相対視しているので、悪は思うままに振る舞っても構わないという誤解を生んできた。実際それを吹聴する者が多く関東に現れ、それが弾圧の口実となったようだ。また、第十九書簡にあるようにわざと悪をなすものが往生を約束されているからと多く現れたという。これらは親鸞の考え方が最も陥りやすい誤解であり、それがこの宗派を拡大させた要素でもあり、またそれゆえに弾圧の口実を与えた要素であった。そこをどう門徒たちに説明するか、親鸞は苦労したのではないか。「経典や祖師がたの書かれたものを少しも知らず、 如来のお言葉も知らない人々に対して、 悪は往生のさまたげにならないなどと決していってはなりません。 謹んで申しあげます。」と言っている。これは「他力本願」の誤解によるのだと。「他力本願」の趣旨をしっかり理解しろと。言ってみれば、進んで悪をなすのは「自力」であり、「他力」すなわち否応なく悪を犯してしまうのとは全く異なると。

ただ、これらの書簡は門徒たちとのやりとりだけに細部は理解不能なところが多い。しかし親鸞は最晩年でも自己省察をやめることはなかったことだけは窺える。

終わりに

こう読んできて、親鸞は特異な僧侶であることは間違いないと思える。いわば反宗教的とも言っていい感じがしないでもない。しかしやはり仏教の中に存在していることは間違いないのだろう。仏教については知るところがほとんどないので、これ以上何かを論じることはできないが、そんな親鸞の宗派がこの後大宗派に発展するメカニズムが不思議でならない。それは弾圧された原始キリスト教がその後大教会をもつ世界宗教になったこととも関連があるのだろうか。

今回はここまで。

2024.02.22 この項了

日本古典文学総復習続編19『説経集』

はじめに

今回は『説経集』である。

こう言われてピンとくる人は少ないと思う。日本古典文学の中でもいわば忘れられた存在だ。

この「説経」、元は「説教」とも書いたらしいが、現在ではこの「説教」と「説経」ではニュアンスが異なる。現在「説教」は「先生に説教された」という風に使い、いわば人の道・道徳的なことを「教え、諭される」こと、という意味である。だが一方の「説経」は一般的にはあまり使われず、わずかに寺院に於いての僧侶の講和という形で使われるように思う。つまりは「お経」を「説く」という意味である。

したがって、この『説経集』はそうした仏教的な話を集めたものというふうに考えられるかもしれない。

しかし、それもやや違う。では「説経節」というのをご存じだらうか。実はこの『説経集』は「説経節」のいくつかの作品?を集めたものなのである。そしてこの「説経節」は仏教的な要素はもちろん含んでいるが、むしろ、ある傾向の物語を語る「芸能」であったのだ。

「歌舞伎」や「文楽」(人形浄瑠璃)はご存知の方も多いだろう。実はこの「説経節」もそうした芸能の一つだった。この書ではもちろん文字で書かれた物語が示されている。しかし、元は「説経節」はその名のように「語り」であった。この書はそれを文字化したもの(「正本」と言う)で、元はいわば「口唱文芸」であった。

口絵を見ていただきたい。これは北野天満宮の門前で「説経節」が行われている様子である。語り手が「ささら」を持ち(これが一種の楽器、後、浄瑠璃となると三味線に変わる)、大きな傘をさして(これが一種の目印)物語を語っている。これが「説経節」である。そして、その語り手は多く下層の僧侶であったようである。そして聴衆もまた下層の人々であったようだ。

つまりこの『説経集』、下層で漂白の僧侶たちが語り歩いた芸能たる「説経節」の代表的な「話」を集めたものということになる。

それぞれの梗概

ではそれはどんな傾向を持った話なのだろうか。この書では六篇の話が収められているが、まずはそれぞれの「話」の概要を見ていくことにする。

『かるかや』

「かるかや」とは「刈萱道心」という名の高野山の僧侶のこと。この僧侶、元は武将であったが、思うところあって妻子を捨てて出家した人物。この人物には子があってその名を石童丸と言った。その子は父の顔を知らずに育ったが、父会いたさに高野山に登る。いろいろ経緯があって結局は高野山で父の弟子となる。しかし父はそれと知りながらあくまで石童丸を子として認めない。しかも石童丸は最後までその「刈萱道心」が父だと知らずにいる。父は「棄恩入無為の誓い」(恩愛の情を捨て、世俗の執着を断ち切って、悟りの道にはいること。)を守り通したという話。しかしこの話はそれだけではなく、この父子が菩薩の化身で、常行念仏の偉大な尊者であるという点だ。そしてこの父子が刻んだというみ親子地蔵尊が信濃の善光寺本尊として祀られ、いまなお多くの人の信仰を集めているという点が「説経」たる所以である。

『さんせう太夫』

これは森鴎外の小説『山椒太夫』でよく知られていると思う。もちろんそれとは趣を事にするが話の大方は同じである。

讒言によって父が流罪となったその母子姉弟の苦難に満ちた物語。京に上る途中人買いに騙され母と 乳母は蝦夷に、姉弟は丹後国由良の山椒太夫のもとへ売られ、そこで酷い仕打ちを受ける。しかしなんとか弟のつし王は姉の手助けと犠牲で逃れことができ、その後、国分寺の僧や金焼地蔵の霊験、聖徳太子の計らい、梅津院の援助などによって奥州五十四郡の主に返り咲くことができる。しかし、つし王は元の領地よりも丹後国守を望み、そこで山椒太夫に対する復讐を遂げる。また、盲目となった母と再会し、金焼地蔵によってその眼を開眼させることができたというお話。これも初めに「金焼地蔵の御本地」とある点が注目される。

『しんとく丸』

河内国高安の長者が清水観音に願をかけ授かった子の話。この子「しんとく丸」、容姿よし、頭脳明晰であった。ということで四天王寺の稚児舞楽に選ばれて舞うこととなり、そこで隣村の蔭山長者の娘・乙姫に見染められ一緒になることを願うようになる。しかしこれが災いの端緒となった。継母が自分の子を世継ぎにしたいがために「しんとく丸」を虐待し、ついに失明までさせられてしまう。その後癩病にも侵され、ついに家から追い出されてしまう。その後何とか四天王寺で乞食となりはてて暮らすこととなる。しかし、乙姫が「しんとく丸」を見つけ出し、二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、病気が快癒して、その後乙姫のところで幸せに暮らしたという。一方継母は家が没落、物乞いとなった。というお話。

『をぐり』

「説経節」の代表的な話。後、歌舞伎等でも演じられ続けている。

話は一種の「貴種流離譚」。大納言兼家の嫡子小栗判官が故あって常陸の国に流され、そこで美貌の娘である照手姫を知り、無理矢理婿入りをする。しかしそれに怒った照手姫の兄郡代横山は小栗たちを毒殺し、照手姫を相模川に流してしまう。照手姫は一旦は救われるが、人買いに売り飛ばされ、美濃国でこき使われることとなる。一方死んだはずの小栗は、閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。遊行上人は餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せ、「この車を引くものは供養になるべし」として、多くの人々に車を引かせて、照手姫のいる美濃国を通り、熊野に至らしめる。照手姫はその餓鬼阿弥が小栗であることも知らずに車を引いていた。そして熊野到着後、湯の峰温泉で49日の湯治の末、小栗は復活する。復活後元の地位を回復し、照手姫とも再会し、横山を滅ぼこととなるというお話。死後は美濃墨俣の正八幡に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた、という。

『あいごの若』

これも一種の「貴種流離譚」と言えるが、結末が酷い。これまでの話はいわばハッピーエンドだったが、これは登場人物ほとんど全てが死んでしまうという結末。主人公の「あいごの若」が15歳で投身自殺してしまうのだが、それを追って百八人もの人物が投身自殺するという惨たらしい結末だ。

さて、この「あいごの若」という人物、左大臣の子だが、やっとの思いで神仏に祈願して生まれた人物。ただ、母が神仏によって死んでしまうという運命にあり、しかも父の後添えに惚れられて、その後添えの策略で父にも疎まれ、叔父を訪ねて比叡山に行くが、盗賊と間違われて結局は投身自殺するというお話。大筋で言うとこうなるが、この話には途中、この「あいごの若」を助ける人々も登場し、これがいわゆる地下の者たちで、職人や農民なのだ。これが「説経節」たる所以といえる。またこの人物は山王権現に結び付けられている。

『まつら長者』

これまた、神仏に祈願して生まれた子の話。ここは娘で「さよ姫」と言った。しかし、この父はしばらくしてなくなってしまう。すると母子二人では家運は傾き、父の供養もできない身の上となる。そこで「さよ姫」は自ら身を売って父の供養をする事になる。ただ、その身売り先がなんと大蛇の生け贄だった。池中に構えられた贄棚に上った姫は一心に法華経を読誦する。すると大蛇は改悛し、その甲斐あってさよ姫は奈良に帰され、松浦長者として栄えたと言うお話。後に竹生島の弁財天として現れたと言う。

共通する要素

こう読でくると、いずれも話のパターンは同じようだ。まず主人公は本来は貴種とういか、社会的立場の上位にいる人物だということ。そしてその主人公があるきっかけで酷い仕打ちを受け、真っ逆さまに社会の下層に落ちぶれてしまう(もしくはむなしくなってしまう)こと。だが、最後は元の位置に戻るか、神か仏として祀られるというパターンだ。これは「説経」が神仏の「本地」を語るという形になっているからだ。ほとんどの話の冒頭に以下ような言葉がある。

ただ今、説きたて広め申し候本地は、国を申さば信濃の国、善光寺如来堂の弓手のわきに、親子地蔵菩薩といははれておはします御本地を…(『かるかや』冒頭)

ただ今語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼地蔵の御本地を、…(『さんせう太夫』冒頭)

ただ今語り申す御本地、国を申さば近江の国、竹生島の弁財天の由来を…(『まつら長者』冒頭)

では「本地」とは何か。本来、神として現れた(これを「垂迹」という)本の仏をいう言葉だ。この「説経」においては話の主人公が垂迹した人物という事になり、本来は仏であったということを語っているという事になる。

こうした話に共通する、主人公たちの艱難辛苦に満ちた生涯が実は多くの下層民の実際の生活実態であり、それゆえに下層民の聴衆がこうした話に同調し、それが実は神仏であったという事で安心をもたらしていたと言えるのかもしれない。

最後に

こうした「説経」はもはやほとんど存在しない。わずかに浄瑠璃や歌舞伎の中にその片鱗を残しているのみだ。だが、実は我々日本人の中に未だに、こうした物語のパターンに心が揺るぐものが残っているような気がする。そういう意味でもっと研究していい分野だと思う。

2024.01.24
この項了