日本古典文学総復習続編26『好色一代男』

一代男原本

はじめに

今回は『好色一代男』を取り上げる。

これまで井原西鶴の作品を取り上げてきたが、この作品で最後である。ただ、この作品は西鶴の浮世草子の第一作だ。小生は西鶴の作品をさかさまに辿ってきたことになる。このことに別段意図はないのだが、逆さまに読んでくると、その後の作品にある特徴の萌芽がここにあるのがわかる。これは追々述べていくことにするが、まずはその梗概を記しておく。

その梗概

この作品は主人公である世之介という人物の七歳から六十歳までの五十七年間を描くと言う形を取っている。もちろん「好色」とあるように五十七年間の主人公の「性生活」が描かれているわけだが、それを全八巻に収め、年齢順に並べて書かれている。すでにこの作品で後の作品と同様、各巻に「目録」をつけている。その目録の基本は年齢だ。そしてそこにそれぞれ二つの小見出し的な文言を並べている。具体的には以下だ。(なお、文言は巻一のみ示すことにする。表記は古典集成による。以下同じ。)

巻一 
   七歳  けした所が恋のはじめ
       こしもとに心ある事
   八歳  はづかしながら文言葉
       おもひは山崎の事
   九歳  人には見せぬところ
       ぎやうずいよりぬれの事
   十歳  袖の時雨はかかるが幸
       はや念者ぐるひの事
   十一歳 たづねてきくほどちぎり
       伏見しもくまちの事
   十二歳 ぼんのうの垢かき
       兵庫風呂屋者の事
   十三歳 わかれは当座はらひ
       八坂茶屋者の事

  • 巻二 一四歳から二十歳
  • 巻三 二十一歳から二十七歳
  • 巻四 二十八歳から三十四歳
  • 巻五 三十五歳から四十一歳
  • 巻六 三十六歳から四十二歳
  • 巻七 四十九歳から五十五歳
  • 巻八 五十六歳から六十歳

この目録を見れば大体の内容が判る仕組みだ。

注(ちょっと年齢の並びがおかしいところがあるのに気付くだろうか。巻六だ。巻五からの流れでいくと巻六は四十二歳から四十八歳のはずだ。この件については古来いろいろなことが言われているようだが、実は巻五と巻六にはかなりの断点があったようだ。そこで年齢の誤記があったらしい。内容的には巻四までとそれ以降には違いがあるのだが、いわば第二部と言うべき巻五を描き始めたものの、次の巻六を書くまでになんらかの事情があったのかもしれない。ただここはこの点に深入りはできない。)

さて、大雑把に主人公世之介の人生を見ていくと、三十四歳までとその後で大きな違いが生じるのがわかる。それは三十四歳の時、父が亡くなり、その莫大な遺産が手に入ることになったからである。これは巻四の最後に描かれている。主人公世之介はそれまではいわばボンボンの放蕩息子にすぎなかった。しかし、莫大な遺産が手に入ると名実ともに「大大尽」になったのだ。その部分を本文で見てみる。

「日頃の願ひ、今なり。おもふ者を請け出し、または名だかき女郎のこらずこの時買はいでは」と、弓矢八幡百二十末社ども集めて、大大大じんとぞ申しける。

これまで決して自由にはならなかった女たちをこれで全て自由にできると意気込んでいる。これは、これまではボンボンとはいえ、決して遊女たちを自由にできていなかったとも言える。しかも高級遊郭の太夫たちは自由にできなかったことを意味する。即ち、この物語は前半は主人公世之介のいわば修行時代を描いていることになり、後半は主に高級遊女たちを相手にする絶頂期を描くと言う予告となっているのである。

そしてその後、贅の限りを尽くし、多くの高級遊女たちと交わった世之介は、あくまで性の奥義を極めんと還暦を迎えた後も仲間とともに多くの閨房用の道具・薬を持って女性しか住んでいないという「女護の嶋」に船出するところでこの物語は終わる。

実は女性の物語

さて、この「好色一代男」は世之介という飽くなき性の探求者の物語と言うふうに思えるが、実はよく読むとそうではない気がする。と言うのは巻々に多くの遊女たちが登場し、それがそれぞれ個性的なのだ。世之介は狂言回しで、実は眼目は相手の遊女たちにあったと言える気がする。主人公世之介に人間的な陰影はほとんどない気がする。しかし登場する女たちは皆個性的で生活の背景を背負っている。しかも三都だけでなく、多くの地方の遊女が登場し、そこが面白い。作者西鶴はどこから情報を得ていたのか、それとも実際に旅をしての体験かわからないが、もうこの一作目から全国規模の話になっているのだ。

地方の女たち

この作品に登場する地方遊里を整理してみると以下である。

  • 巻一 伏見・兵庫
  • 巻二 奈良
  • 巻三 下関・寺泊
  • 巻四 追分
  • 巻五 大津・室津・堺・宮島
  • 巻八 長崎

最後の長崎を別にすれば、ほとんどが前半、即ち主人公のいわば「性の修行時代」であることがわかる。

ここで遊女が床に入る場面を見てみる。実はこの作品、決していわゆる「春本」でないことが、このセックスシーンがあまりないことでわかるのだが、ここは数少ないそのシーンを抜き出してみる。以下だ。

今や今やと待つほどに、君様のあし音して、床近く立ちながら帯とき捨て、着物もかしこへうち捨て、はだかでぐずぐずとはひりさまに、「これもいらぬ物」と脚布ときて、そのまましがみつきて、いな所を捜つて、ひた物身もだえするこそ、まだ宵ながら笑し。(巻三・二十五歳)

これは寺泊の遊女の床入りの場面。江戸で遊女高尾に35回もふられてその後も交れなかったことを思い出し、この遊女がその高尾だったらと思うが、それじゃ面白くもないと思い返す場面だ。まさにこれが地方遊里の女の典型ということになろうか。

高級遊女の手管

これに対して、ちょっと長いが以下を読んでいただきたい。

枕近く立ちより、「それそれ、申し申し、めずらしき蜘が蜘が」と申されければ、世之介夢おどろき、「いやな事」と起きあがる所をしかとしめつけ、「女郎蜘が取りつきます」といひさま帯とかせ、我もときて、「これがわるいか」と肌まで引きよせ、うしろをさすりおろして、「今まではどの女がここらをいらひ候もしらず」と、下帯のそこまで手の行く時きゆるがごとし。今はたまり兼ねて断りなしに腹の上にのり懸れば、下より胸おさへて、「これは聊尓なさるる」といふ。「堪忍ならぬ。ゆるし給へ。」といふ。「又時節もあるべし。先づ今晩は」といふ。世之介せんかたなく、「かやうの事にて江戸にてもおろされ、無念今にあり。独りはおりられず。貴様に抱きおろされてならばおりよう」といふ。とやかくいふうちに、かんじんの物くなつきて用に立ち難し。是非なくおるるを、初音下より両の耳捕へ、「人の腹の上に今までありながら、ただはおろさぬ」と、こころよく首尾をさせける。まれなる床ぶりなり。(巻六・四十歳)

これは京都島原の初音という遊女との話。稀な床上手と言うことか。北國寺泊の遊女との違いが際立つ。

三都の高級遊女たち

さてこの作品、後半は大金持ちとなった主人公世之介がいわば金に物を言わせて高級遊女たちと交わることになるのだが、ここに登場する三人の高級遊女たちは決して金や権力だけでは靡かない女たちだ。遊郭は特殊な世界だが、もちろん「金」が物をいう。そして特殊な「しきたり」がある世界だ。そんな世界にあって、そんな世界の「しきたり」を超越した女として三人の遊女が登場する。しかも後半では遊女が個人名で登場することに注目したい。その三人とは以下だ。

まず「吉野」という遊女。(巻五・主人公三十五歳の時)

「日本一遊女の手本」と称され、小刀鍛治の弟子にもいきな計らいをする、なんでもできる万能の女として描かれる。

次に「三笠」という遊女。(巻六・主人公三十六歳の時)

いわゆる奴風(男気のある意)の太夫。しきたりを破って世之介に入れ込み、折檻されるが、それにも耐えて、思いを遂げる男勝りの女として描かれる。

そして「高橋」という遊女。(巻七・主人公四十九歳の時)

天津乙女の妹かと思えるほどの美形。権力者の客にもそっぽを向き、世之介に添う心意気ある女として描かれる。

さて、こうした強い意志を持つ女性ではないが、

遊女と普通の女と間に揺れ動いた誠実な女として描かれる「藤浪」という遊女。(巻六・主人公三十八歳の時)

「情深くて手管の名人」で実に気の利く、誰にでも優しい「夕霧」という遊女。(巻六・主人公三十七歳の時)

そして前掲の床上手な「初音」という遊女。

などなど、実にそれぞれ個性的な遊女たちだ。

このようにこの「好色一代男」は遊女たちの物語と言ってもいいほどだ。

おわりに

ここまでこの物語を読んできて、言い切れないことはたくさんある。もっとここに登場する女達を紹介したいし、その姿の描写や、遊郭内部の様子、そしてその食事、などなど、興味のつくせない物語である。それはまた後日に譲って、今回はここまでにしておく。

2024.06.26

この項 了

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