日本古典文学総復習続編29『與謝蕪村集』

はじめに

上田秋成に続いて今回は与謝蕪村を取り上げる。蕪村は実は秋成と同時代の人物。しかも何やら交流もあったそうで、お互いに気に入っていたようだ。その辺りはまた後に触れるとして、この蕪村、実はこの総復習でも正編で既に触れている。『天明俳諧集』の項(リンク)だ。その時は天明期の俳諧集の蕪村ということで触れていた。それはとても大事なことだが、しかしここは蕪村一人だけを取り上げての復習となる。

さて、蕪村は俳句作者として(本当は俳諧師なのだが)芭蕉とともに現代でも親しまれている。例えば

209 菜の花や月は東に日は西に(番号は本書の発句集の句番号。後同)

117 春の海終日(ひめもす)のたりのたり哉(括弧内は本書のルビ、「ひねもす」ではない)

という句は人口に膾炙した句だ。

しかも近代になってからは正岡子規の「写生」句としての評価、またそれとは対蹠的な「郷愁の浪漫主義的」句としての詩人萩原朔太郎の絶賛など本格的な蕪村評価が行われてきた。

しかし今回は、改めてこの『與謝蕪村集』を通読して、自分なりの読みを示したいと思う。

収録作品

この『與謝蕪村集』には以下の作品が収録されている。以下だ。

「蕪村句集」几董篇
上巻 春の部1−224(224句) 夏の部225-457(233句)
下巻 秋の部458-674(217句) 冬の部675-868(194句)
「俳詩」
北寿老仙をいたむ
春風馬堤ノ曲
澱河ノ歌
「新花つみ」
発句137句
文章
「文章篇」
短文13篇

発句について

お気に入りの句1

803 葱(ねぶか)買て枯木の中を帰りけり

先ずはこの句。これまで知らなかったというか、見過ごしてきた句だ。如何でしょう。ネギの束を持って冬枯れの道を急ぐ。「帰りけり」というように帰宅の途についているんでしょう。その宅には何が待っているんでしょうか。何か温かいものを感じませんか。蕪村には芭蕉にはない、いわば「小市民」的な温かみがある。

10 うぐひすや家内揃ふて飯時分

という句にもそれは表れています。

448 端居して妻子を避る暑かな

590 小鳥来る音うれしさよ板びさし

231 痩脛の毛に微風あり更衣

という句なども実に微笑ましいし、日常の一コマを愛情をもって詠んでいる。多分自宅は狭い「小家」なんでしょう。そういえば蕪村の句には「小家」が多く表れる。

4 うぐひすのあちこちとするや小家がち

159 さくらより桃にしたしき小家哉

この「句集」にはない句でも以下もある。(岩波文庫版句集から)

菜の花や油乏しき小家がち

飛蟻(はあり)とぶや富士の裾野の小家より

五月雨や美豆(みづ)の寐覚の小家がち

飛蟻とぶや富士の裾野の小家より

お気に入りの句2

346 さみだれや大河を前に家二軒

次はこの句。また「家」で申し訳ないが、この句は一見「写生」句の様に見える。しかしこの「家」もやはり「小家」であり、あたかも五月雨で増水した大河にまさに飲み込まれそうにやっと立っている。この「家」にはどんな人がどんな暮らしをしているのか。そんな蕪村の同情が伺える。それは次の句でははっきり詠われている。

761 こがらしや何に世わたる家五軒

ここは「家二軒」ではなく、「家五軒」だ。これは最低の集落の単位らしい。まさに寒村の風景だ。ここにも庶民の生業に対する同情がある。

ところで蕪村は芭蕉を崇拝していたと言われている。ここで芭蕉の有名な句、

五月雨をあつめて早し最上川

を引いておこう。全くの違いがわかる。

五月雨の空吹き落とせ大井川

五月雨は滝降り埋む水嵩哉

こうした「五月雨と川」の句をみてもよくわかる。

またこがらしの句も

狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉

京に飽きてこの木枯や冬住ひ

木枯に岩吹きとがる杉間かな

木枯しや竹に隠れてしづまりぬ

木枯しや頬腫痛む人の顔

凩に匂ひやつけし返り花

など、これだけあるが、やはり関心の向かい方が全く異なっているように思う。

実は蕪村が芭蕉に親炙し、その復活を夢見たのは「発句」そのものではく、「俳諧」についてだと言える。蕪村と芭蕉では全く個性が異なる。その嗜好や思考そして置かれた時代も異なる。ここは近代の識者が間違えやすいところだ。蕪村が夢見たのは蕉風の「俳諧」の復活だった。これまで蕪村の句を多くの近代の識者と同様「俳句」として詠んできた。これを「俳諧」として読めば自ずから変わってくるはずだ。

お気に入りの句3

ここからは多言を要さない。句だけ列挙しておく。

57 さしぬきを足でぬぐ夜や朧月

70 春雨や小磯の小貝ぬるゝほど

76 柴漬(ふしづけ)の沈みもやらで春の雨

116 遅き日のつもりて遠きむかしかな

194 さくら狩美人の腹や減却す

290 絶頂の城たのもしき若葉かな

327 愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら

332 夕風や水青鷺の脛をうつ

476 いな妻や八丈かけてきくた摺

529 月天心貧しき町を通りけり

732 飛騨山の質屋とざしぬ夜半の冬

742 蕭条として石に日の入枯野かな

805 易水になぶか流るゝ寒さかな

そして最後の句

868 芭蕉去(さり)てそのゝちいまだ年くれず

俳詩について

「北寿老仙をいたむ」「春風馬堤ノ曲」「澱河ノ歌」の三作品がある。「俳詩」とは、誰だか研究者がつけた蕪村独特の表現に対する命名だ。それだけ独特の表現ということになるのだが、当時「詩」といえば漢詩を意味し、「俳」は俳諧を意味していたから、漢詩と俳諧が混じり合った表現ということになる。

「北寿老仙をいたむ」

蕪村の良き理解者であった、年長の俳友の死を悼む挽歌である。漢詩的表現の読み下し文を8連連ねた詩になっている。例えばこんな表現だ。

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ

をかのべ何ぞかくかなしき

まさに新体詩の先駆けと言える。

「春風馬堤ノ曲」

漢文の序を持つ、一つのテーマの合計18の発句・短文・漢詩とで構成されている。一部を紹介する。

5 一軒の茶見世の柳老にけり

6 茶店の老婆子儂を見て慇懃に

  無恙を賀し且儂が春衣を美ム

7 店中有二客 能解江南語

  酒銭擲三緡 迎我譲榻去

といった具合だ。序文によれば「蕪村が故郷の毛馬の堤で見た薮入りの娘を主人公にして、彼女が大阪から毛馬に帰る途中の情景をつなげ俳詩にしている」ということになる。「と同時に蕪村のやるかたない旧懐の実情をも表している。」ということになる。この詩にも蕪村の優しさが表れている。

「澱河ノ歌」

五言絶句二首と漢詩書き下し文一首の合計三首の短いもの。淀川と宇治川を喩えに恋情と郷愁を歌ったもの。

この「俳詩」には蕪村の挑戦的な表現者の意欲が窺える。

「新花つみ」について

蕪村の遠い師にあたる其角に『華摘』という亡母追善のための一夏百句の冊子があるそうだ。それに倣って一夏千句のやはり亡母追善を意図したが、途中家庭の事情により中断したという。しかし137の発句とそれなりの長さを持つ一連の文章によって構成されている。

ここで注目するのはその文章である。実に面白いのだ。狸や狐が現れる一種の怪異談が多いのだが、それが実に滑稽で面白い。各地の人物のエピソードも今風に言えば「愛」のある文章だ。芭蕉の俳文とは全くテーストが異なる。怪異談といえば同時代の上田秋成を思い浮かべるが、秋成とも全くテーストが異なる。秋成とは交流があったらしいが、秋成にある「性、狷介」というところは全く蕪村にはない気がする。どんな体つきだったかはわからないが、芭蕉や秋成は痩せぎすのイメージだが、蕪村は丸いイメージだ。ここの文章を読むとそれがわかる。

文章篇について

ここには13篇の短文を納める。これまで触れなかったが、蕪村は周知のように画家であったが、その画讃の短文が3篇ある。他には小冊子の序文が7篇、独立した短文が3篇という構成だ。

最後の「歳末ノ弁」は、蕪村最晩年の作と言われていて、

蕉翁去りて蕉翁なし。とし又去るや又来たるや。

との文言がある。最後まで芭蕉を慕った生涯であったことがここでも窺える。

さて、蕪村の文章にはそれほど見るべきものはないと言われているようだが、上田秋成は評価していたようだ。この書の最後の頭注にある秋成の文章を引用する。

うちよめて唯から歌を女文字してかいつけたるさましたるは、むかし蕉窓にゐぐゞまりて杜律をうまく読、笠着てわらぢはきながら、山家を懐にしたる人一すぢの教なるべし

と言っている。蕪村の「はいかい文」は「洒落」でその発句の「麗藻」と相似ないとして評価している。秋成とは全く個性が違っていただけに、却って蕪村の丸い?性格を慕っていたのかもしれない。

おわりに

蕪村は稀有な個性であったような気がするが、今後その「俳諧」についてもっと読み込んでみたい思いを残しつつ、ここらで擱筆する。ちょっと長くなったので。

2024.09.19
この項 了

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