日本古典文学総復習続編28『春雨物語・書初機嫌海』

上田秋成の2回目

はじめに

だいぶ間が空いてしまった。その間約1ヶ月あまり。実に暑い日が続いた。そればかりか孫たちが夏休みということもあって、孫たちの所へ行ったり、我が家に来ていたり、一緒にちょっとした旅に出たり、それはそれは大変な1ヶ月あまりだったわけだ。もちろん大変なだけではなく、それはそれで楽しい日々なのだけれど、落ち着いて古典文学研究とはいかなかった。

実は今回取り上げる上田秋成の『春雨物語』と『書初機嫌海』は既に読了していたのだけれど、ブログ化するのが夏休み突入に間に合わなかったわけだ。

しかし、9月に入ってやっと落ち着いた日が戻ってきた。しかも今日(9月3日)はクーラーがいらないほど涼しいこともあってやる気になった。

前置きが長くなったら早速始めよう。

『春雨物語』

『春雨物語』の梗概

この作品は『雨月物語』と違って、その成立やまとまりに難がある作品だ。それは当初出版されたわけでなく、なんと戦後(第二次世界大戦後)にまとまったものが発見されるという運命を持った作品だからだ。収録されている物語も伝本によって異なるが、この古典集成では以下の作品が収められている。

序・血かたびら・天津をとめ・海賊・二世の縁・目ひとつの神・死首のゑがほ・捨石丸・宮木が塚・歌のほまれ・樊噲、以上10作品だ。

それぞれ内容をざっと見ておこう。

「血かたびら」
奈良時代が舞台の歴史物語。藤原薬子の乱を描く。
「天津をとめ」
平安時代が舞台の物語。僧正遍昭の話。
「海賊」
紀貫之に議論をふっかける謂わば秋成の歌論・歴史論。文屋秋津という人物に仮託。
「二世の縁」
謂わば仏教批判の物語。即身仏と思われた僧が実は生き返ると粗野な男に過ぎなかったという話。
「目ひとつの神」
謂わば京の歌道批判の物語。芸道化した和歌についての批判ということになる。
「歌のほまれ」
歌論。秋成の真骨頂か。
「死首のゑがほ」
やや残酷な話。兄が妹の首を切るというのだから。しかし妹には笑顔があったという。
「捨石丸」
仇討ちの話。青の洞門の逸話にちなむ。
「宮木が塚」
遊女の悲運に散る儚い一生を描いた話。
「樊噲」
怪力の盗賊の話。本格的な物語。最後は僧となる。

『春雨物語』を貫くもの

さて、この物語群、一見バラバラな話の集合という感を否めないが、何か貫くものはあるのだろうか?その成立から言って一見バラバラなのはある意味仕方がないが、しかし一貫しているのは取りも直さず上田秋成の批評精神だといえる。物語という形は取っているが、いずれも批評だという気がする。最も物語的な形を持っている「死首のゑがほ」や「樊噲」にしても、そこに秋成の時代に対する批評が読み取れる。秋成は歴史や時代について独特な考えを持っていたようだ。またその時代の儒教や仏教についても批判的であったのは間違いない。また、「和歌」についてや「言語」についても独特な考えを持っていたようだ。

こうした形でこの物語群を整理すれば、最初の三編は秋成の歴史認識を示し、仏教批判を挟んで、次の二編で歌論を展開し、次の続く四編の物語でいわば時代批判を込めたと言えるのでないだろうか。

上田秋成はその時代において決して優遇された学者ではなかったようだ。例えば同じ国学者の本居宣長に比べてみればわかる気がする。つまり学者的に語ることが難しい立場だったからこそこうした物語にその学問的内容を込めるしか無かったのかもしれない。西鶴のように根っからの小説家でもなく宣長のように学者でもなかった上田秋成の微妙な立場がこの物語に表れていると言える気がする。

『書初機嫌海』

この古典集成にはもう一つ、この作品が収められている。極めて短いものだが、本来は物語として書かれたようだ。しかし、どうも秋成の思いで物語の枠をはみ出して、決して成功した物語とはなっていない。当初は西鶴の『世間胸算用』の向こうを張って、三都の正月の様子を物語風に描こうとしたようだが、これも成功しているとは言えない。

ま、それは後述するとして先ずはその内容を抑えておこう。

『書初機嫌海』の梗概

この書は上中下三巻でそれぞれ副題が与えられている。

  • 上「むかしににほふ築地の梅」
  • 中「富士はうへなき東の初日影」
  • 下「見せばやな難波の春たつ空」

上は京都、中は江戸、下は大阪が舞台だ。もう少し内容をこの書の小見出しで見ていこう。

上「むかしににほふ築地の梅」

太平の世の饒舌・正月風景も有為転変・門松のむかし今・食えぬ飾りは買わぬが当世・千年一日はお築地の内・竹の園生の頼みは城持・君に忠義は金の工面・後楯なき公卿の姫たち・犬も通わぬ勝手口・玉だれのかしこきあたりは、ご空腹・金に無縁が高貴のあかし

中「富士はうへなき東の初日影

神のお告げも和様唐様・所変れば品変る・裏には裏の魂胆・卓文君流は時代遅れ・花のお江戸はお膝元の賑わい・今業平は食いつめ者・あり金はたいて江戸の風呂・湯づけの味は命の親・一攫千金は昔の夢・行きつく先は品川の海・何はなくとも故郷・こけて拾ったふんどしに金・江戸は一夜の鹿島立ち・加賀屋の元手は拾い物

下「見せばやな難波の春たつ空」

京阪の歳末昔のままならず・十国十色の新春風景・瓜なすびは三、四月・新奇好みも欲がもと・欲世界にも百家争鳴・思い込んだが身の定め・うか助の頼りは飲み友達・飲み友達は豪邸の主・福の神と貧乏神の相性・天下の台所には分限者あまた・長者にもそれなりの苦労・鶴が舞う難波の初春

上田秋成の悪癖

こうした小見出しを見ただけでも、何やら否定的な内容が読み取れるのではないだろうか。京は昔の建前だけで生きている街という印象だし、景気が良いはずの江戸も昔ほどではないし、大阪も昔の様ではないと。それとどうしても秋成の批評癖が出てしまい、所々に漢学批判、仏教批判、されには国学批判まで表れて、どうにも新春の清々しい物語とは行っていない。ここらあたりは上田秋成という人のどうにもできない癖で、これが物語作家としての不味さということになるかと思う。

ただ、その批評眼や博学をもっと別な形で発揮できていれば当代一流の文人ということになるのだろうが、どうもそうさせない何かがこの人物自体にあって、そこがまた物語作家から離れられない因になっているのだと思う。

終わりに(上田秋成の晩年)

さて、この辺で筆を置くことにするが、上田秋成の晩年について、岡本かの子の優れた小説があるので紹介しておきたい。青空文庫で読めるので、ぜひ読んでもらいたい。題して「上田秋成の晩年」。零落した秋成を描いているが、ここに秋成という文学者の姿がよく捉えられていると思う。今回はここまで。

2024.09.05

この項 了

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