日本近代文学総復習明治文学編12『大井憲太郎・植木枝盛・馬場辰猪・小野梓集』を読む

はじめに

今回は表題の人物たちの選集。ここに挙がっている人物たちはご存知の向きもあるかとは思うが、現代では巷間あまり顧みられなくなってしまった人物たちといえる。文学者でもなく、思想家には違いないが、どちらかと云うと政治活動家であるから、歴史好きで、明治時代の歴史に興味がない限り知られていないと言える。しかし、この人物たちは実は今でも問題にし得る人物たちなのである。それはおいおい見て行くことにするが、ここに上がっている人物たちはいずれも明治時代において日本の「民主主義」のために戦った人物たちなのだ。所謂明治時代の「自由民権運動」に携わった人物たちだ。日本の「民主主義」は様々な経緯を経て、ようやく80年前の第二次世界大戦の敗戦を以って曲がりなりにも実現し、現在に至るが、その萌芽がこの人物たちの活動や著作に見ることができると言える。それを顧みるのは決して無駄ではないはずだ。

では、まずはこの人物たちの全体像を見て、その後それぞれの人と考え方を収録作品を紹介しながら見て行くことにする。

四人の全体像

先ずはここで四人それぞれの出生と自己形成期について並べてみる。

大井憲太郎
天保14年8月10日(1843年9月3日)豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として生まれる。文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕し、明治維新後は、明治2年(1869年)より箕作麟祥(福沢諭吉の明六社の同人)にフランス学を学ぶ。その後、大学南校に入学。
植木枝盛
安政4年1月20日(1857年2月14日)土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県土佐郡石井村、旭村を経て高知市中須賀町)に生まれる。明治8年(1875年)、19歳で上京し慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い、明六社に参加し、福澤諭吉に師事して学ぶ。
馬場辰猪
嘉永3年5月15日(1850年6月24日)土佐藩士・馬場来八(小姓組格、のち馬廻役)の二男として土佐国高知城下中島町に生まれる。江戸留学の藩命を受けて慶応2年(1866年)、鉄砲洲にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)で政治史、経済学を学ぶ。その後、長崎に赴いて長崎英語伝習所にてオランダ人宣教師グイド・フルベッキに英語を習う。明治3年7月12日(1870年8月8日)、土佐藩の留学生として英国に留学し、海軍や法学について学ぶ。
小野梓
嘉永5年2月20日(1852年3月10日)土佐国幡多郡宿毛に軽格武士の小野節吉・助野の次男として生まれる。1869年(明治2年)東京に出て昌平学校で学ぶ。1873年(明治6年)-1874年(明治7年)英国に留学。

こう見てみると、大井憲太郎のみが、やや年長で、しかも武士の出ではないが、他の三人はいずれも土佐藩の出身であることが注目される。土佐といえば板垣退助の出た藩であり、自由党を産んだ地だ。ここから自由民権運動の中心的な活動家が出たとしても不思議ではない。もう一つこの四人に特徴的なことはいずれも福沢諭吉の影響を受けているということだ。

さらにはこの人物たちは若き日に首都東京に遊学し、明治政府がその形を整えていく過程を具に見ているということだ。政府も不平等条約の改正に取り組み、国会の開設、憲法の発布も予定していた。

そんな中、基本的にこの四人は反政府の立場をとり続けた人物たちであった。しかし、それぞれは決して同じ考えでもなかったし、同じ行動をしたわけでもなかった。

この後はそれぞれの著作を通してその考え方を見ていきたいと思う。

それぞれの思想と活動

大井憲太郎

彼の著作は以下が収録されている。

“民撰議院論爭”/佛國政典(抄)/佛國商工法鑑(抄)/時事要論/自由略論/吾人の希望/書簡集

何といっても大井が言論界に頭角を現したのは最初の“民撰議院論爭”にまとめられている諸論文である。これは新聞への投書なのだが、当時新聞はこうした投書を載せて、しかも紙上で論争を行っていた。当時政府は国会を開設する旨を発表していた。それに対しての意見が色々と出されていた。この中で大井は基本的に普通選挙制に基づく国会開設を主張。しかもはっきり三権分立の考え方を述べ、加藤弘之の「尚早論」にもはっきり反駁している。

これは「佛國政典(抄)」・「佛國商工法鑑(抄)」という著作があるように大井がフランス学を学んだ結果であるとも言える。

また、「時事要論」・「自由略論」には経済学的対策も述べられていて土地の国有化などやや社会主義的な論も窺える。当時の大井の基本的な思想を伺うことができる。

「吾人の希望」は大井が還暦に達した時の再出発の弁だという。ここにあげた四人のうち唯一還暦以上に生きたのは大井だけである。

「書簡」は大井の苦学時代を見るに適したもの。大井が決して裕福でもなく、出自が良かったわけでもないが、苦学して知的指導者になった過程も伺うことができるもののようだ。

さて、大井憲太郎はこうした著作はともかく、その政治活動についてみることこそ大事なような気がする。これはこれらの著作からははっきり窺い知ることはできないが、当時各地で頻発した反政府運動の事件、またそれによって逮捕監禁された大阪事件などの関わり、自由党での活動などについて見るべきだと思う。ここはこの任ではないが、何よりも大井憲太郎は著作家というより政治活動家だったからだ。

植木枝盛

彼の著作は以下が収録されている。

民權自由論/民權自由論二編甲號/赤穗四十七士論/貧富の懸隔する所以を論ず/無上政法論/無上政法論ヲ補周ス/憲法草案/民權數ヘ歌/尊人説/愚夫愚婦ノ説

「民權自由論」「民權自由論二編甲號」は植木の基本的な考え方を述べたもの。要するに近代の欧米の民主主義の原理をわかりやすい口語で述べている。二篇は欧米の憲法の条文を紹介するなどやや専門的。しかし植木のこの著作は明六社の福沢らが始めたスタイルが踏襲されていて、その影響が窺える。

「赤穗四十七士論」は別段赤穂浪士を論じたわけではない。要するに「抵抗権」の主張となっている。ここは福沢の国法遵守論を反駁する形になっている。

「貧富の懸隔する所以を論ず」は植木が社会の底辺にある人々への関心も持っていたことを示す一文。

「無上政法論」「無上政法論ヲ補周ス」は平和主義の志向を示すもの。現在の憲法にある平和主義を彷彿とさせるという。

「憲法草案」は植木の名を現在まで残した著作。それは現在の憲法と基本的な変わらない考え方があるからだ。多くの憲法草案が作られたが、その中で最も主権在民と基本的人権保障が貫かれているもの。現在に憲法モデルとも言われる。

「民權數ヘ歌」植木の民権思想を大衆に知らしめるために作った俗謡。ここにも口語体で思想を述べる姿勢が窺える。

「尊人説」は植木の人生観を示したもの。ここには植木の屈折のない、啓蒙時代の思想家たちにある楽天なものが感じられるという。

「愚夫愚婦ノ説」これも植木の人生観をしめす一文。極めて短いもので新発見の資料だという。

馬場辰猪

彼の著作は以下が収録されている。

本論/讀加藤弘之君人權新説/本邦女子ノ有様/平均力ノ説/物ハ見る所に依て異なる/親化分離の二力/外交論/國會開設後ノ宰相ハ如何ナル人ヲ要スルカ/政黨ノ恐ル可キモノハ何ゾ/内亂ノ害ハ革命家ノ過ニアラズ/論組織内閣之至難/信用ノ説/思想ノ不滅ヲ論ズ/思想ノ説/討論 決闘論/議院ハ必ズシモ二局ヲ要セズ/討論 患者ガ決心ヲ求ムル時ハ醫師立會ノ上之ニ應ズベシトノ明文ヲ法律ニ掲グルノ可否/國會ニ於テ質問ヲ受クルトキ説明ヲ拒ムノ權ヲ宰相ニ與フルノ可否/討論題 婚姻ノ契約ニ年限ヲ定ムルノ可否/『日本語文典』序文/日本の政治状態/馬場辰猪自叙傳

馬場辰猪については、これまでほとんど知らなかった人物だ。馬場孤蝶は樋口一葉と絡みで多少は知っていた。そのかなり年が離れた兄であることを知ったのも今回初めてだった。しかしこの人物はここでの四人の中でも実にユニークな人物で深掘りしたくなる人物だ。

ここに掲がっている文章はいずれも短文で、編集者が馬場の思考や思想がわかるものとして掲載したものである。馬場辰猪は早くから福沢諭吉の影響を受け、それを最も過激な形で受け継いだ人物と言える。基本的にはイギリス留学をした影響もあって、イギリス流の民権思想家といえるが、イギリス的な穏健さはほとんど見られない。これは馬場の個性によるといえるが、その活動もまたいわば過激であったように思う。

馬場は基本的に自由党結成に関わった人物だから、自由党員で板垣退助と初めはともにあったが、板垣が政府の懐柔策に乗って洋行したことに強く反駁し、板垣の帰国後脱党している。その後アメリカに渡って活動しているが、その活動も日本から持っていった甲冑を身につけて英語で日本の政治状況を演説するといった気を衒ったものであったという。しかしこのアメリカでの活動もうまくはいかず、やがて病に倒れ、39歳の若さで客死してしまう。ただ、この馬場のアメリカでの活動はその後当時の有為の若者たちに刺激を与えたようで、多くの若い民権家たちが海を渡ってアメリカで活動している。その中に後に大逆事件で処刑される幸徳秋水もあったという。

そうした政治活動家の側面もそうだが、私が注目するのは『日本語文典』という著作である。ここにはその序文しか掲載されてはいないが、この英語で書かれたいわば日本語についての著作は極端な欧化主義の権化・森有礼の日本言語の英語化に真っ向から反対するものであった。馬場は森よりも英語に堪能であったはずだが、この反対はやはりその民権思想からであった。これについてはここで深入りできないが、こうした面を含めて馬場辰猪は魅力的な人物であった。

小野梓

彼の著作は以下が収録されている。

救民論/論通常之教養/權理之賊/國民盍思之/論通法之定置/勤學之二急/唯有日本/立法官ノ一大忽畧/利學入門/民間百弊の一/強迫教育/云何是政府之本務/論國教定置之弊/誰言國會之開説尚早乎/今政十宣/呈大隈参議再論施治之方嚮書/何以結党/立憲国民の当に具有すべき性質/告我党人/通俗自由の理/教育論/愛々草紙

この四人の中でこの人物は最も穏健な思想の持ち主と言える。自由党の党員ではなく、後の立憲改進党に深く関わった人物である。また、早稲田大学の創立に関わった人物としても有名である。したがって政治的には大隈重信に近かったことからもこれまでの四人とは異なっている。

しかし若い頃はイギリスに留学し、前の馬場辰猪とも交流している。また、その頃から「共存雑誌」を主宰し多くの論文を発表しているが、いずれも哲学的な内容となっている。この時期の著作は「論通常之教養」「權理之賊」「國民盍思之」「論通法之定置」「勤學之二急」「唯有日本」「立法官ノ一大忽畧」「利學入門」「民間百弊の一」「強迫教育」である。

そして大隈重信が下野した明治14年の政変時の彼の政治思想を示しているのが、「云何是政府之本務」「論國教定置之弊」「誰言國會之開説尚早乎」「今政十宣」「呈大隈参議再論施治之方嚮書」「何以結党」「立憲国民の当に具有すべき性質」「告我党人」の著作である。いずれも立憲改進党の考え方を示しているものだ。

また「通俗自由の理」「教育論」は晩年の小野の思想を知るに適した作品。基本的にはブルジュア的な自由主義の表明と言える。

最後の「愛々草紙」は一種の政治小説で自伝的要素もあるようだが、第三齣の冒頭で終わっている未完の作品。この作品を描き始めた年に吐血し、翌年三四歳の短い生涯を終えた。

このように小野梓は政治活動家というより学者・教育者タイプであったように思われる。

おわりに

さて、ざっとここに登場した四人の民権活動家を見てきたわけだが、いずれもそれぞれの立場で日本の近代の行方を真剣に考えていたことがわかった。もちろんこの世代に続く若者たちもまた真剣に考えていくことになるのだが、どうも歴史は悪い方向に進んでいってしまった感がある。それを後世の我々は知っているのだが、どうしてそうなってしまったかということは今も考えなくてはならない課題である。そしてその課題は今後の日本や世界が悪くならないようにする課題でもある。その課題のためにも当時の若者たちの苦闘の歴史を知らなければならないと改めて思った。

参考文献

  • 『大井憲太郎』平野義太郎 吉川弘文館 1988.5
  • 『植木枝盛研究』家永三郎 岩波書店 1960.8
  • 『革命思想の先駆者 植木枝盛の人と思想』家永三郎 岩波書店 1955.12
  • 『遠い波涛 土佐自由民権家馬場辰猪アメリカに死す』永国淳哉 青英舎 1984.10
  • 『小野梓と自由民権』勝田政治 有志舎 2010.6

2026.3.3

この項 了

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