日本古典文学総復習続編27『雨月物語・癇癖談』

雨月物語飯本

はじめに

今回は上田秋成を取り上げる。

上田秋成はこれまで取り上げきた西鶴の約100年後に現れた江戸時代中期の代表的散文家だ。西鶴同様、小説家と言ってもいいのだが、この上田秋成には国学者としての業績にも並々ならぬものがあるのでそういうのが適切かもしれない。また今でいう批評家的な側面も強く持った作家ということもあるからだ。

さて、西鶴・秋成両者とも大阪の町人の出であり、共通点もないことはないが、その気質、作品のテーストにはかなりの差がある。西鶴がリアリストなら、秋成はロマンチストだという向きもあるが、決してそんな単純な区分けにならない奥深さがこの秋成にはある気がする。西鶴の小説には現実をいわば客観的に活写する「明るさ」があるが、秋成の小説には人間の内奥にあるドロドロしたものを描こうとする「暗さ」がある、と言ったらいいかもしれない。

では、先ずはその辺りをその代表作『雨月物語』で見ていくことにしよう。

『雨月物語』の梗概

『雨月物語』は全五巻九話の短編小説集だ。以下の物語がある。

  • 巻之一「白峯」「菊花の約」
  • 巻之二「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」
  • 巻之三「仏法僧」「吉備津の釜」
  • 巻之四「蛇性の婬」
  • 巻之五「青頭巾」「貧福論」

それぞれの内容を簡潔に記せば以下のようになる。

「白峯」
崇徳院の亡霊と西行の論戦
「菊花の約」
男同士の義理の物語
「浅茅が宿」
夫婦の、義理堅い女の物語
「夢応の鯉魚」
鯉になった僧の話
「仏法僧」
秀次の亡霊と俳諧した話
「吉備津の釜」
これも夫婦の話だが、嫉妬に狂う女の話
「蛇性の婬」
ある男にしつこく恋慕する蛇の化身の女の話
「青頭巾」
少年愛に狂う僧の話
「貧福論」
金の亡者が金の亡霊にあう話

ざっとこんな話だが、これらの物語は長短も含めて何の関連性もないように見えるそれぞれ独立した物語だ。ただ共通項は「怪異譚」であるということ。全て何らかの亡霊の物語なのだ。

怪異譚の諸相

そもそも怪異譚とは、何だろうか。

日本の古典文学には、源氏物語の「物の怪」に代表されるように、「怪異譚」が多くあり、日本文学の中心的テーマだと言ってもいいくらいだ。現代の人間と違って、昔の人間たちには「怪異」を信じる特質があったためだと思われるが、それを信じる現実的な要素も多々あったと思われる。またこの「怪異」が人間の本質的な部分を表象するとも考えられていたからかもしれない。

ではどんな時に怪異が現れるのだろうか。それは「人間の強い執着心」によるものだと考えられる。それが死後や、あるいは生前に別な形で出現すると信じられていたからに他ならないと言える。それが亡霊である。そしてその亡霊は決してマイナスイメージばかりとは限らないし、しかも死霊ばかりでなく生き霊としても現れるし、動物の形になって現れることもある。この『雨月物語』はまさにそうした「人間の強い執着心」が産んだ亡霊たちの物語なのである。

この書の浅野三平氏の解説に従えば、「人間の執着心」を中心にこの物語群を以下のように整理できるようだ。(若干私見も交えておく)

信義(義理立て)への執着
「菊花の約」武士の男同士の信義・義理立ての世界
「浅茅が宿」夫婦の特に女の義理立ての世界
愛欲への執着
「吉備津の釜」嫉妬に狂う女の世界
「蛇性の婬」愛欲に狂う女の世界
「青頭巾」美少年の肉を食らう僧の世界
復讐(権力意志からの)への執着
「白峯」崇徳院と西行の話
「仏法僧」暴虐で伝説的な秀次の亡霊の話
芸術(もしくは動物)への執着
「夢応の鯉魚」魚を助ける功徳により魚となる話
金銭(もしくは商売)への執着
「貧福論」金銭に異常な執着が金の亡霊となって現れる話

この中で「愛欲への執着」が一番真実味を持って迫ってくるものがある。物語としても巻之四に一作のみの「蛇性の婬」は読んでいてゾッとするような恐怖を感じる。主人公の次男坊に言いようのないほどの愛欲を捧げる美女は結局「蛇」の化身なのだが、その美女に惑わされ続ける男の心情は痛いほどわかる気がするし、ひょっとするとこの主人公は作者そのものではないかと思われてくるほどだ。

そしてもう一つ印象深いのは「白峯」だ。これは西行が崇徳院に語る語り口が凄まじいことだ。作者の知識の深さと歴史観などがうかがえて興味深い。

村上春樹の『雨月物語』

さて、ここで村上春樹を登場させたい。村上春樹については今更小生がどうのこうのいう必要はないが、何とこの上田秋成に関する論文を渉猟していたときに村上春樹に関するある論文に出会ったのだ。それは広島大学の林靖という人の「村上春樹『海辺のカフカ』における『雨月物語』の受容」という論文だ。『海辺のカフカ』にこの『雨月物語』の引用が多数登場するという。実はかなり以前小生もこの『海辺のカフカ』を読んでいるし、かなり気に入った作品だったはずだが、この件は全く気づいていなかった(あるいはすっかり失念していたのかもしれない)。また、内田樹氏もこの点(村上春樹と上田秋成)を指摘していて、さらに江藤淳やフィッツジェラルド、チャンドラーへと発展させて論じているのを発見した(大阪の図書館司書に向けた講演の筆記で)。

これらは、人間の心の深部に潜む漠然としたものをいかに描くかが文学の中心的なテーマだとすれば、まさにその嚆矢が上田秋成だったということかもしれない。この点についてはここでは深入りできないが、この『雨月物語』がさらに何百年か経て、現代の代表的な作家に影響していることが嬉しい気がする。

『癇癖談』について

もう一つこの書には『癇癖談』という作品が収められている。

「くせものがたり」と読むとのことだが、『伊勢物語』を踏まえた作りになっているのは「むかしをとこありけり」で始まっている章段が多いことでもわかる。また、当時『伊勢物語』をもじった「仁勢物語」があったように、一種の流行りだったようなので、それに乗ったということもあったのかもしれない。しかし中身は『伊勢物語』とはかけ離れた内容だ。むしろ『徒然草』のような批評文的随筆と言っていい。ただ本人があくまで物語だと言っているので、これも小説ということになっているにすぎない。

さて、「癇癖」とは何か。「くせ」と読ませてはいるが、実は「感情が強すぎて、興奮したり、腹を立てたりしやすい性質」をいう言葉だ。怒りっぽい性格と言っていい言葉だ。実は秋成が自分がこれだと言っているようなものだ。ここにはさまざまな人間の気質が描かれているわけだが、むしろ秋成自身の、自分の鬱憤を晴らすかのような言辞がみられる。

『癇癖談』の具体的内容

序があって上下二巻の構成だ。この書では特に章立てはしていないが、頭注にある要約文(?)を抜き出してみる。これを見れば大体の内容はわかるはずだ。

『癇癖談』上
はじめに(序章)
背伸びする人々
流行のはかなさ
すべてこの世は金次第
遊女の見た当世風
女にもてるのも金
学者貧乏
猫も杓子も茶道の世の中
時勢にあうあわぬは運次第
えせ医者とえせ法師
美人局に会った男
音楽好きのなれのはて
浮気な夫の留守まもる女の道楽
風流女の流転の生
物知りの知ったかぶり
『癇癖談』下
力のない者は無理するな
博奕うちなみに見られた俳諧師
若者に通じぬ昔ばなし
男女の仲は狐と狸
嘘つき女と利口男
貧民街の夕暮
遊女の将来は心がけ次第
芸人の末路も心がけ次第
世を捨てた隠者の心境

こうした文言からも秋成が何を相手取ってものを言っているかがわかる。要するに現実に目にするもの耳にするものが嫌でたまらいのだ。そしてそれを批判する自分すらも嫌でしょうがないと言った姿が窺える。教養人ぶりたい気持ちがどうしてもあらわれてしまっているが、それを韜晦する姿も隠さず描いているところが、今どこぞにいる他人を責めることで自分をアピールするといった政治家候補や似非知識人とは全く違うと言える。

おわりに

今回はここまでで一旦終了する。この後もう一冊上田秋成を読むことになるが、もっとこの江戸の文学者に迫れればと思う。

2024.07.12

この項、了。

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