『日本古典文学総復習』28 『平安私家集』

『平安私家集』を読む

再び仮名文学に戻る。『平安私家集』の巻だ。
これまで歌集は万葉集を始め、古今集から新古今集までの八代集を見てきた。これらの歌集は実は多くの資料から編者が収集・編集したものだが、その資料の中心がいわゆる私家集である。平安後期まで確認されているだけでも二百近くの私家集があったという。その中からこの巻では八つの私家集を集めている。以下の八つだ。
「伊勢集」「檜垣嫗集」「一条摂政御集」「安法法師集」「実方集」「公任集」「能因集」「四条宮下野集」である。それぞれについて見ておく。

「伊勢集」について

一口に私家集といっても様々である。現代なら単に個人歌集と考えがちだが、必ずしもそんな単純ではない。初めの三つの歌集は物語的要素の強い歌集である。「伊勢物語」や「大和物語」といったいわゆる歌物語に近いものだ。
「伊勢集」はもちろん平安時代きっての女流歌人伊勢という人物の個人歌集ではあるが、冒頭の以下の文は物語的である。

寛平みかどの御時、大宮す所ときこえける御つぼねに、大和に親ある人さぶらひけり。

この部分は伊勢の半生を中宮への宮仕えに絞って物語としたことが伺える。ただ、伊勢の歌集であることには変わりなく、計五百首近い歌が収められている。こうした伊勢の歌はこれまでもこのブログで幾つか取り上げている。『古今集』には女性として最多の二十一首取られているからだ。ここでも幾つか取り上げておく。

身の憂きをいはばはしたになりぬべし思へば胸のくだけのみする

しのびて知りたりける人を、やうやう言ひののしりければ、冠かうぶりの箱に玉を入れたりければ、それに、女の結いひつけたりける
たきつせと名のながるれば玉の緒のあひ見しほどを比べつるかな

長恨歌の屏風を、亭子院のみかど描かせたまひて、その所々詠ませたまひける、みかどの御になして(二首)
もみぢ葉に色みえわかずちる物はもの思ふ秋の涙なりけり
かくばかりおつる涙のつつまれば雲のたよりに見せましものを

「檜垣嫗集」について

これはちょっと変わった私家集。檜垣嫗というのは伝説的人物。後の時代に成立した能の「檜垣」のモデルと言われる。その人物の歌物語と言って良い。それぞれの歌の詞書が長く、それぞれが一つの話と成っている。全三十首の短い歌集。二首を引いておく。

鹿の音はいくらばかりの紅ぞふりいづるごとに山の染むらむ

あきかぜの心やつらき花すすき吹きくるかたをまづそむくらむ

「一条摂政御集」について

これも歌物語的歌集。摂政太政大臣を務めた藤原伊尹(これただ)の家集ということになっている。全体は3部から構成され全194首あるが。それぞれ編者が違うらしい。第1部は自身を卑官の大蔵史生倉橋豊蔭に仮託して、多くの女性との恋愛を描く歌物語。第2部は第1部の補遺。第3部は『拾遺集』か逆に増補されたものと思われる。一首引いておく。

この翁、たえてひさしうなりにける人のもとに
ながき世につきぬ嘆きの絶えざらばなにに命をかけて忘れん

「安法法師集」について

安法法師の自撰歌集。一一四首からなる。河原院における風雅な生活記録といった趣のある歌集。歌サークル的な集まりの記録。この人物は前に紹介した『本朝文粋』にも登場する。河原院はこの安法法師の祖父にあたる源融の屋敷。一首引いておく。

いにしへは待たれし春も待たれずや花につけてもとひつべければ

「実方集」について

実方は平安中期の宮廷歌人。その私家集。三四八首あり、本格的なもの。前半は主として宮廷での社交の歌が多く、後半は私的な哀傷歌や恋の歌が多く配置されている。一首引いておく。

むべしこそかへりし空もかすみつつ花のあたりは立ち憂かりしか

「公任集」について

五六九首を納める大部な私家集。公任はこれまでも取り上げてきたように摂関時代最盛期の代表的歌人であるだけに配列が特に部立はないが勅撰集にあるような形になっている。「四条大納言家集」ともなっている。二首引いておく。

前近き桃の、はじめて花咲きたるに
嬉しくも桃の初花みつる哉又来む春も定めなき世に

中宮の御うぶ屋の五日の夜
秋の月影のどけくも見ゆるかなこや長き夜の契り成らむ

「能因集」について

能因の自撰家集。二五六首を納める。能因には歌学書『能因歌枕』があり、歌論家としても有名。二首引いておく。

虫の音も月のひかりも風の音もわが恋増すは秋にぞ有りける

東国風俗五首
月草に衣はそめよみやこ人妹をこひつついやかへるがに

「四条宮下野集」について

女房の日記的家集。宮廷の記録的な要素が強く、「枕草子」に似ている。回想記でもある。詞書が長い点にそれが伺える。

桜のさかりに、上の御局におはしまいしに、御前の泉に、散りたる花をいと多く入れさせたまへるを
行く末もはるかにや見む桜花岩間をいづる水に宿して

うぐひすを尋ぬと思へば雪消えぬ深山がくれは春ぞうれしき

この項了

『日本古典文学総復習』27 『本朝文粋 』

『本朝文粋』を読む

今度は漢詩文集。日本文学において一つのジャンルを成しているのが、漢詩文。ただ、どうもこのジャンルはあまり扱われない。しかし、古くは漢詩文は教養人の必須科目であった。日本は大陸すなわち中国の圧倒的な文化の影響下にあった。したがってエリートたちは漢文、すなわち中国語を駆使することは何より大事であったはずだ。正式な文書、記録としての日記などは全て漢文で書かれていた。すなわち公式な文書は漢文で、私的なものは仮名文でという使い分けが存在した。文学史においてこの漢文があまり扱われないのは文学が私的なものを中心に発達したからだ。そして現在も漢文は我々にとって縁遠いものとなってしまった。

ここで取り上げる『本朝文粋』はその漢詩文をいわば教科書的に集めたものだ。平安時代においても漢詩文は一部の専門家に委ねられていた形跡がある。ただ貴族たちは公式な文書を作るとき漢文を知らなければならない。そこでこうした漢詩文集を参考にした。または専門家に依頼して漢文を書かせた。そうした漢文詩文専門家の文例集ということができる。文章博士の大江氏がその代表であり、多くの文が取られている。

しかし、ここに文学史的な要素がないわけではない。仮名文学にはない特徴がある。仮名文学は私的なものだといったが、その内容は日常の些事や男女の恋愛を扱ったものが多い。近代になるまで社会的な思想的なものを扱ったものがあまりない。その仮名文学にはない要素をこの漢詩文が担っている面がある。ここで取り上げる慶滋保胤の「池亭記」もその一つだ。慶滋保胤については幸田露伴氏に「連環記」という作品があって詳しいが、当時の文章家の一人である。この「池亭記」は当時の都の様子を描写し、郊外に一宇を設けて隠棲する意義を書いている。後の「方丈記」の先駆的文章とされたものだ。その冒頭を紹介する。

尚、本文と書き下し文は以下のサイトを利用させてもらった。
本文 http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/monzui/monzui.htm
書き下し文 https://koten.sk46.com/sakuhin/honcho.html

本文

予二十餘年以來,歷見東西二京。西京人家漸稀,殆幾幽墟矣。人者有去無來,屋者有壞無造。
其無處移徙,無憚賤貧者是居。或樂幽隱亡命,當入山歸田者不去。若自蓄財貨,有心奔營者,雖一日不得住之。
往年有一東閣,華堂朱戶,竹樹泉石,誠是象外之勝地也。主人有事左轉,屋舍有火自燒,其門客之居近地者數十家,相率而去。
其後主人雖歸,而不重修。子孫雖多,而不永住。荊棘鏁門,狐狸安穴。夫如此者,天之亡西京,非人之罪明也。

書き下し文

われ二十余年以来よりこのかた、東西の二京にきやうあまねく見るに、西京にしのきやうは人家やうやくにまれらにして、ほとほと幽墟いうきよちかし。人は去ること有りてきたること無く、いへやぶるること有りてつくること無し。
其の移徙いしするにところ無く、賎貧せんひんはばかること無きひとり。あるい幽隠亡命いういんばうめいを楽しび、まさに山に入り田に帰るべき者は去らず。みづか財貨ざいくわたくはへ、奔営ほんえいに心有るがごとき者は、一日ひとひいへども住むこと得ず。
往年わうねんひとつの東閣とうかく有り。華堂朱戸くわだうしゆこ竹樹泉石ちくじゆせんせきまこと象外しやうぐわい勝地しようちなり。主人あるじこと有りて左転さてんし、屋舎やかす火有りておのづからに焼く。其の門客もんかく近地きんちに居る者数十家、相率あひゐて去りぬ。
其の後主人帰るといへども、かさねてつくろはず。子孫しそん多しと雖も、永く住まはず。荊棘けいきよくかどとざし、狐狸こりあなやすむず。かくの如きは、天の西京にしのきやうほろぼすなり、人の罪にあらざること明らかなり。

(巻第十二、記、池亭記)

この冒頭部分を読んだだけでも仮名文学にはない当時の都の様子が描かれているのがわかる。源氏物語にも一部庶民的な生活の一コマが描かれているところはあるが、その見方が異なる。いわば社会的関心が伺える。しかし、結局は隠棲こそ生き方として選ぶべきものだとする結論はやはり時代的な限界と言えるかもしれない。いやむしろ隠棲を望む知識人のあり方はこの後の日本の思想家たちの一つのパターンだとも言える。この慶滋保胤の「池亭記」は、そういう意味で後の「方丈記」や江戸時代の芭蕉の先駆的なあり方と言えるかもしれない。

なお、この本朝文粋はその他いろいろと面白い話もあり、漢文という敷居さえ乗り越えられれば現在でも読むべき古典であることに変わりはない。

『日本古典文学総復習』26 『堤中納言物語 』『とりかへばや物語』

今度は平安後期の物語2編。『堤中納言物語』と『とりかへばや物語』だ。

『堤中納言物語』を読む

「虫めづる姫君」で有名な平安後期に成立したと思われる短編物語集。10編の短編物語と断片がある。いずれもごく短い話だが、それぞれに興味深い。以下簡単にその梗概を記す。

「花桜折る少将」
美貌の貴公子「花桜折る少将」が美女を手に入れようとするが、手なずけたはずの手下にどんでん返しをくらい美女の祖母の老尼を盗み出してしまうという落語的な話。
「このついで」
薫物の香りの中、リレー方式で語られる恋愛のオムニバス形式の話。歌物語的、日記文学的、作り物語的な世界が語られる。次第に暗い話になっていく。しかし結末はほっとする。
「虫めづる姫君」
美しく気高いが、化粧せず、眉を抜かず、歯を染めず、平仮名を書かず、毛虫を愛する風変わりな姫君の話。当時の姫君のは珍しい理屈っぽい性格のこの姫、なかなか面白い。しかし性格異常ともとれるところもあり、世紀末的な要素も伺える話。
「ほどほどの懸想」
これもオムニバス形式の話。屈託のない少年と少女の恋。若侍と女房との遊戯的な恋。貴族の物憂い恋。こういった恋の様相が描かれる。
「逢坂越えぬ権中納言」
諸事にわたって完璧な貴公子である中納言が、恋する女宮の側まで参上するが、遠慮のためについに契ることは出来ずに終わる。
「貝合わせ」
少女たちが貝合わせの準備をしているところに、通りがかった蔵人少将。母のないひとりの姫君に同情した彼は、観音様になりすまし、姫君の勝利を祈る。会話の連発があり話芸の要素がある話。
「思はぬ方にとまりする少将」
「少将」と「権少将」、まぎらわしい名前の男性二人。少将は姉、権少将は妹と付き合っていたが、使いの者がまちがえて、それぞれ逆の相手と一夜を共にしてしまうという四角関係が語られる。「とりかへばや物語」に共通する話。
「はなだの女御」
二十人の女房たちがそれぞれの主人を草木にたとえて和歌を詠む様子を男が隠れて窺うという話。謂わば週刊誌的な女性評判記といった趣。羅列的で話としはどうか。
「はいずみ」
男が妻と浮気相手の選択を迫られるが。男はあくまで気弱な悪者。元の妻はあくまで可憐で気の毒な美女という設定。結局元の妻の歌にほだされて、元の鞘に納まるというお話。
「よしなしごと」
少々厚かましい僧が他人から品物を借りるために、「これから山寺にこもります。つきましては身の周りのものをお借りしたいのですが‥‥」という手紙を書くという書簡体の話。漢文表記のものづくし。
断章「冬ごもる」
書き出しのみ残る。

この物語群は当時「物語合わせ」が行われていて、その記録であると思われる。平安時代には「何々合わせ」という遊びが流行ったようだ。「歌合」はその代表。それぞれが歌を出し合い、その優劣を競う遊び。これがやがて批評や歌論に発展したという。源氏物語にも「絵合」が描かれている。ここは「物語」を出し合ってその優劣を競ったその話の記録だったと。したがっていずれも短く話言葉的になっている。内容もキワモノ的になっているのもそのせいかもしれない。ただ、ここに平安貴族文化の爛熟と退廃を見ることもできる。しかし、面白いことは間違いない。

『とりかへばや物語』を読む

この物語は評価二分している。題材が奇妙なために特に戦前は底評価、戦後はその奇妙さゆえに評価されている。その設定は題名にあるように男女が入れ替わって成長するというものだ。最近でもこうした設定は幾つかあって、話題となったアニメ映画「君の名は」もその設定だ。

権大納言件大将の二人の子は腹違いながら瓜二つの美貌の持ち主。ただ、男子は内気で、女子は活動的。父は二人を男女をとりかえたらいいのにと思い、それぞれを男女入れ替えて育てる。成人後もそれぞれ逆の性で立派に育ち、社会的にもそれなりの出世を遂げる。そんな中好色の宮の宰相という人物が登場し物語が展開する。しかし、結局は男に入れ替わった子も女であることがばれ妊娠、女に入れ替わった子も男姿に戻ることになる。色々と紆余曲折の末二人は元の性に戻ってそれぞれに出世することになる。ただ、そうした過程で我が子と呼べない子があったり、行方不明ということにしなくてはならないことがあったりする不幸も描かれる。

簡単にまとめてしまえばこうなるが、この物語は人物を捉えるのが実にややこしい。中宮・国母となった女子は以下の名前で登場する。姫君・若君・大夫の君・侍従・三位中将・権大納言左衛門督・右大将・尚侍・宇治の橋姫・女御。関白左大臣になった男子も若君・姫君・尚侍・右大将・内大臣と呼ばれる。当時は立場で名を表し、現在みたいに姓名で表す習慣がないから仕方がないが実に分かりにくい。しかも途中で男女が入れ替わっているから尚更だ。ただ、物語自体はそんなに複雑とは言えない。それに言うほどに面白いとも思えない。設定は珍奇なのだが、男女の入れ替わりも結局は元の鞘に収まってしまい、そのこと自体が持っている問題性みたいなものはほとんどないからだ。

この物語の評価が二分している点も両者とも的を外しているように思える。現在、両性具有といった特別の性やジェンダーといったことが話題になる。ゲイやレズビアンといったことも一般化しつつある。これは男性性や女性性といったことが多分に生物学的な特性より社会文化的な面が大きくなっている点に根拠があるような気がする。男性的な女性や女性的な男性はいつの時代でもあったし、平安時代の貴族の男性は今から見ると多分に女性的だ。こうした男性的とか女性的とかいう概念はほとんど社会文化的なものなのだ。しかし、この『とりかえばや物語』はこうした点に踏み込んだ物語とは言えない気がする。したがって、こうした点からの非難も評価も当たらない気がする。

この項了

『日本古典文学総復習』25『枕草子』

紫式部日記について

前の巻にあったが、紫式部日記をここで枕草子とともに取り上げる。まずは有名な枕草子の作者清少納言についての紫式部の辛口評価。紫式部日記にある。
本文

 清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

現代語訳

  清少納言という人ほどいつも得意顔で偉そうにしていた人はいません。あれほど賢いふりをして、漢文をいろいろと書いているが、その程度も、よく見れば、まだとても未熟な点が多くあります。このように、他人とは違うよという風をするのが好きな人は、かえってかならず見劣りがし、先行きは悪くなっていくことばかりです。したがって、思わせぶりの振る舞いが身についてしまった人は、ひどく無風流でつまらい時でも、しみじみと情趣にひたったり、また興趣深いことを見過ごすまいとしているうちに、自然とその折に適切ではない軽薄な振る舞いになるものなのです。そのように中身のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうして良いことがありましょうか。

かなり手厳しい批評と言える。この後取り上げる枕草子の清少納言は確かにこの紫式部の言うように晩年は不遇であったようだ。それが賢い振りをするところが原因であったかどうかはわからないが、男勝りで知識を振り回す女性は不幸になると断言している。もちろん自分とは違うと言っている。では紫式部自身はどうなのか。以下を読んでみる。
本文

  よろづのこと、人によりてことごとなり。誇りかにきらきらしく心地よげに見ゆる人あり。よろづつれづれなる人のまぎるることなきままに、古き反古ひきさがし、行なひがちに口ひひらかし、数珠の音高きなど、いと心づきなく見ゆるわざなりと思ひたまへて、心にまかせつべきことをさへ、ただわが使ふ人の目に憚り、心につつむ。まして人の中にまじりては、言はまほしきこともはべれど、いでやと思ほえ、心得まじき人には、言ひて益なかるべし。ものもどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければもの言ふことももの憂くはべり。ことにいとしも、もののかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすなめり。

現代語訳

  人にまつわる全てのことは人によってそれぞれです。誇らかに輝いていて心地よさそうに見える人がいます。一方、何事につけ所在なく寂しそうな人もいます。そうした人が気持ちの紛れることのないままに、古い書き物を探し出して読んだり、勤行ということで口にお経を唱えたり、数珠の音を高く繰ったりなどするのは、傍目にとても気に食わなく見える行為であると思えます。したがって、思いどおりにしてよいようなことまで、ひたすら自分が使用する侍女の目さえ憚って、心の内におさめています。まして他人の中にまじっては、言いたいこともありますが、さあどうかしらと思われ、理解できない人には、言っても無益なことでしょう。(したがって何も言わないことになります。)人の非難をし、自分こそはと思っている人の前では、煩わしいので何を言うのも億劫です。特にとてもそこまで何もかもできる人というのはめったにいませんから。それはただ、自分の心中に立てた基準をもとにして人を否定したりするもののようですから。

これは紫式部の一種の処世術なのかもしれない。宮中という特殊な社会にあって、女房という立場はなかなか難しい立場だったのかもしれない。この紫式部日記は紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えた時期の記録である。前半にはその宮中の華やかな様子が記録されている。ただ、それが後半になると先に見たように他の女房たちの人物評や人生観を語る部分が多くなっていく。また、仏道への傾斜も見られるようになっていく。この源氏物語の作者紫式部は当代きっての物語作者というばかりでなく、当代きっての批評家でもあったと言える。なかなか見事な人物評や人生観を読むことができる。

枕草子について

まずその跋文を見てみると
本文

 この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとする、とおもひて、つれづれなる里居のほどに、書きあつめたるを、あいなう、人のためにびんなきいひ過しもしつべき所々もあれば、よう隠しをきたりと思しを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
宮の御前に、内の大臣の奉りたまへりけるを、「これになにを書かまし、上の御前には、史記といふ文をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそははべらめ。」と申ししかば、「さば、得てよ。」とてたまはせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、つきせずおほかる紙を書きつくさむとせしに、いと物おぼえぬ事ぞおほかるや。

現代語訳

 このノートは私の目に映り心に思ったことを、まさか他人が読むようなことはあるまいと思って、退屈で心さびしい私宅生活の間に書き集めたものだが、あいにく、他人にとって具合の悪い言い過ぎもしてしまいそうな所もあるので、うまく隠しておいたと思ったのに、意外にも世間にもれ出て伝わってしまったことだ。
中宮さまに内大臣さまが献上なさったノートを、中宮さまが「これに何を書こうかしら。天皇さまは史記という書物をお書き写しなさったのよ。」などとおっしゃったので、私が「枕草子(当時の一般名詞であったという)を書いたらよろしゅうございましょう。」と申し上げたところ、「では、そなたにあげよう。」とおっしゃって、私にくださったので、それに、つまらないことを、あれやこれやと、限りなくたくさんある紙を全部使って書こうとしたために、たいそうわけのわからぬことが多いことになってしまった。

ここに枕草子の成立が書かれている。ただ、ちょっとわかりにくい。筆者が里下りしている時に書き集めたと言いながら、宮中で中宮から紙を頂いた時に書こうとしたと言っている点だ。こういう跋文は筆者なりの韜晦があって文面通り取れないところがある。しかし、ともあれ筆者が宮中で女房として働いていた時に見聞したり、かき集めたものを宮中生活から退いた後にまとめた物だとは言えそうだ。したがって、この書はきちんとした構成を持たず、いくつかの要素が混じった物となっている。その中で宮中での中宮定子に仕えた時の記録が約3分1を占めている。これが日記的章段と言われる部分だ。この枕草子は普通随筆の嚆矢と言われる。しかし、日記文学の中に入れていいと思える。
ただ、日記的といっても回想である。そしてその内容は、仕えた中関白家およびその娘で一条天皇の中宮定子への絶賛である。実はこの中関白家は後に政争にやぶれ没落している。この作者が里下がりしたのもそれと関係しているはずだ。しかし、作者はあくまで過去の栄光を生き生きとした筆致で描いている。ここに作者清少納言の性格が伺える。紫式部が酷評したこの作者はマイナス面をほとんど書かない。紫式部が人間の裏面やマイナス面を冷静に捉えるのとは違っている。したがってこの書の印象はきわめて明るいドライなものだ。どちらを好むかは人それぞれだろうが、そうした面がこの書を読みやすい物にしている。
さて、この書には日記的章段とは別に類聚的章段と言われる部分も多くの部分をなしている。これは一種の辞書的要素を持つ部分である。
一般名詞をあげて、その説明を付ける章段。
形容詞や形容動詞をあげて、その意味に当てはまる物を具体的に示す章段である。
例えば

 原は
竹原。甕の原。朝の原。その原。萩原。粟津原。奈志原。うなゐごが原。安倍の原。篠原。

 市は
辰の市。椿市は、大和に數多ある中に、長谷寺にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、觀音の御縁あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。餝摩の市。飛鳥の市。

といった類のものだ。これは覚書というより仕えた定子のための教科書だったのではないかと小生は考えている。仕えた定子は日記的章段ではかなりの人格者として描かれているが、実際は十数歳の少女である。つまり作者は家庭教師的な役割を持っていいて、謂わば宮中での古典常識を教えていて、この書がそのノートであったと。
以下のものづくしと言われる部分も同じだ。
例えば

 あてなるもの
薄色に白重の汗袗。かりのこ。削氷のあまづらに入りて、新しき鋺に入りたる。水晶の珠數。藤の花。梅の花に雪のふりたる。いみじう美しき兒の覆盆子くひたる。

ただ、こうした段にも筆者の独自な観察眼があり、ある語についてはその説明が微に入り細にわたっていて、具体例も多く引かれ読み物としても面白いものとなっている。
枕草子は誰もが知っている古典。しかもすっきり読める古典。現代語訳には橋本治氏の「桃尻語訳枕草子」というのがあり、面白く読めるので是非ご一読を。

この項了

『日本古典文学総復習』24『土佐日記』『蜻蛉日記』『紫式部日記』『更級日記 』

源氏物語の後は平安女流日記が控えている。ただし土佐日記は男の手になるが。そしてこれも日記の範疇に入れていい枕草子だ。この2巻を読むことにする。

さて、日記が文学の範疇に入るのは日本においてだけだろうか。ドナルドキーン氏は「百代の過客」という著書の中で日本文学における日記の重要性に注目している。この書は氏が太平洋戦争中に米軍の調査機関で若い将校たちの日記を具に読んだことをきっかけに、日本文学を研究する際にその日記の重要性に着目した点が語られている。しかし、日記はそもそも個人的な記録であって、他人に読ませることを前提にしていないはずだ。これから問題にする古典的な日記ももともとはそうであったかもしれない。それを文学として読むということはどういうことだろうか。もちろん日記の体裁をとった文学は存在する。近代では例えば谷崎潤一郎の「鍵」という作品がそうだ。ただ、直接に読まれることを前提にしていなくても、書き残すという行為の中にすでに文学的契機があるとは言える。また、日記が当然筆者の身の回りに起こる様々な事象をどう感じどう考えたかの記録という意味でも文学的要素もある。そして、何より日本の文学がその日常茶飯のこまごまとしたところを微細に表現するところに眼目があったことも、日記が文学として成立する所以かもしれない。近代の日本的な自然主義小説もその伝統の継承といえるし、日記と言っていいかもしれないからだ。また、昨今のブログ流行りもその傾向のなせる技かもしれない。つまり伝統的に日本の文学が日常の瑣事を題材にする点が逆に日記を文学たらしめる要因と言えるかもしれない。

土佐日記について

この日記は日記文学の嚆矢と言える作品だ。本来日記は貴族にとってまさに記録であって、漢文で書くことが基本であった。しかも内容は公的なものを中心とすべきものとされていた。当然男性が書くべきものであった。しかし下級とはいえ貴族で男性である紀貫之が「かな」でこの日記を書いている。有名な出だしである。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむ、とて、するなり。

そして末尾

とまれかうまれ、疾く破りてむ。

とある。
これはこの日記が正式なものでなく、仮名で書いた個人的な記録であると宣言しているのだ。内容的にも土佐からから京都に帰るまでのところどころでの個人的な感想が中心で、特段の記録的要素はない。しかし、仮名で書かれた個人的な感情の記録というこの日記の性格が、まさに後の女流日記の先駆けとなったのである。また、土佐から京都への道中を中心に語られている点から紀行文の嚆矢とも言える。分量も短い期間の日記であるから少ないものとなっている。

蜻蛉日記について

この日記はこの時代の女流日記文学の一つの到達点を示している。内容は兼家という上流貴族を夫に持つ夫人の感情の記録である。大きく上中下3巻にわかれ、天暦八年から天延二年、西暦954年から974年の21年間の日記である。私がこの日記に触れたのは大学時代であったが、若い男性には読むに耐えないものだったという記憶がある。すなわち当時の婚姻形態が成せる技だが、夫を来るのをただ待つだけしかできない妻のもんもんとした感情が綴られているだけに、読んで決して面白い作品とは言い難かったからだ。しかし、よく考えるとこの日記には当時の貴族の妻の置かれた状況とそこでの綿々たる感情が記録され、そればかりかそうした自己の感情を冷静に見る自己も表現されていて、文学的に価値のある作品と言えそうだ。
その一部を紹介する
本文(大系本を筆者が電子化・一部変更あり)

 心のどかに暮らす日、はかなきこといひいひのはてに、われも人もあしういひなりて、うち怨じて出づるになりぬ。端の方にあゆみ出でて、おさなき人をよび出でて、「われはいまは来じとす」などいひをきて出でにけるすなはち、はひ入りて、をどろをどろしう泣く。「こはなぞ、こはなぞ」といへど、いらへもせで、論なうさやうにぞあらんとをしはからるれど、人の聞かむもうたてものぐるをしければ、問ひさして、とかうこしらへてあるに、五六日ばかりになりぬるに、音もせず。例ならぬほどになりぬれば、あなものぐるをし、たはぶれ言とこそ我はおもひしか、はかなき仲なればかくてやむやうもありなんかしと思へば、心ぼそうてながむるほどに、出でし日つかひし 泔坯の水は、さながらありけり。うへに塵ゐてあり。かくまでとあさましう、
たえぬるかかげだにあらばとふべきをかたみのみづはみくさゐにけり
など思ひし日しも、見えたり。例のごとにてやみにけり。かやうに胸つぶらはしきをりのみあるが、世に心ゆるびなきなん、わびしかりける。

現代語訳(筆者がいくつかの現代語訳を参照して作成)

 のんびりとした気分で過ごしていたある日、ちょっとしたことで夫と言い合いになり、しまいには私も夫もひどいことを言あってしまい、夫が怒って出て行くことになってしまった。そんな時夫が縁先に出て、息子を呼びだして、「わたしはもう来ないことにするよ」などと言い残して出て行くとすぐに、その子が私のところに入って来て、大声をあげて泣く。
「いったいどうしたの、どうしたの」と尋ねても、息子は返事もしないので、きっとあの人がひどいことを言ったのだろうと察しがつくが、侍女たちに聞かれるのもみっともないから、尋ねるのはやめて、いろいろとなだめるしかなかった。
それから五、六日ばかり過ぎても、夫からはなんの連絡もない。これまでなかったように長い間来ないので、ああ、どうかしてる、冗談だとばかりわたしは思っていたのに、でもわたしたちは頼りない仲だから、このまま終わってしまうこともあるかもしれないと思ったりして、心細くなって物思いに沈んでいた。
そんな日にふと見るとあの人が出て行った日に使った泔坏(ゆするつき)の水(髪をすくために用いた水)が、そのままある。水面に塵が浮いている。こんなになるまでとあきれて、
絶えぬるか 影だにあらば 問ふべきを かたみの水は 水草(みくさ)ゐにけり 
(二人の仲は終わってしまったのだろうか 影でも映っていたら尋ねることもできるのに 形見の水には水草が映えて影を見ることもできない)  
などと思っていた。
ところが、そんなことを思っていたちょうどその日に、夫がやってきた。しかしいつものようにこの件はうやむやで終わってしまった。このようにはらはらする不安な時ばかりで、少しも心の休まる時がないのが辛くてならない。

ここには現在でもありうる夫婦の姿がある。不在がちな夫、ただ待つしかない妻、たまに二人で過ごしてもすれ違う二人、ただ息子だけが頼り、といった夫婦だ。この日記には後半旅にいった記述が多くある。また、息子の記述も多い。これなど冷え切った夫婦の典型的な姿と言えるかもしれない。ただ、現代と違うのはその婚姻形態だ。夫は多くの妻を持っても構わない。しかし妻は実家で息子を育てながら夫が通ってくるのを待つしかない。そうした状況での妻の感情生活が具に描かれているところにこの日記の価値があると言える。

更級日記について

大系本は蜻蛉日記のあと紫式部日記が置かれている。しかし、紫式部日記は枕草子と共に読むことにして、ここは更級日記を取り上げる。
この日記は蜻蛉日記と違って長い期間が書かれている。日記と言うよりは一代記という体裁をとっている。下級貴族の娘が父の任地で少女時代を過ごし、都に戻って宮仕えをし、結婚・出産・子育てを経験して晩年に至る一生が回想されている。
また、この書名は巻末近くにある以下の歌

月もいでてやみにくれたる姨捨になにとて今宵たづねきつらむ

が、古今集の読人しらずの以下の歌

わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て

によっていること、すでに姥捨伝説も流布していて夫の任地である信濃の歌枕であることにもよっている。
この日記の作者の一生は蜻蛉日記の作者とは違った意味でやはり現代の主婦の一生に似通っている。文学少女が都にあごがれ、念願叶って都会生活をし、やがて結婚をし、子供を持ち、子育てに夢中になり、やがて子供に捨てられるしかない、という一生は今でもどこにでもある。
ただ、この日記は蜻蛉日記にある暗さがない。そういう意味では読みやすいが、蜻蛉日記にある深い自照がないだけに文学的には蜻蛉日記を超えるものものではないが。

この項了

『日本古典文学総復習』22・23『源氏物語』4・5

『源氏物語』を読む4

この物語、第2部(第3部というか)、源氏が死んだ以後の物語は大分様相が違う。舞台も都から離れた宇治を中心に展開する点も華やかさから程遠いものとなっている。
主人公の源氏の遺児薫大将と言う人物も初めから影を持った人物だ。この人物、源氏の子という事だが、実は源氏が晩年迎えた女三宮が柏木という若い男との間違いから生まれた子である。謂わば罪の子という設定になっている。そして物語はこの薫と匂宮と言う人物を巡って展開する。匂宮は源氏が遠流の地で出会った明石と言う女性の孫である。この二人の男は極めて対照的な人物として設定されている。もともと「薫」と言う言葉と「匂」と言う言葉は対照的な言葉だ。「薫」という語は内に秘めた美しさを言う語であり、「匂」という語は外に発散する美しさを言う語だ。薫大将は内向的な謂わばはっきりしない男として設定され、それに対して匂宮は社交的で積極的なプレイボーイとして設定されている。この二人が三角関係を展開する。その中で浮舟と言う女性を巡る関係がこの部分の物語の中心となる。この三角関係はこれまでの物語にある三角関係と様相を異にする。性格の違う二人の男の間で引き裂かれる女性が中心となっているからだ。浮舟は誠実でおとなしい薫との関係を大事に思うが、積極的で男性的な魅力の溢れる匂宮にどうしても惹かれてしまう。この三角関係は一人の女性の中での分裂という形で現れる。やがてこの浮舟は入水自殺を試みることとなる。結局は助けられ出家することになるのだが、ここでも成就しない恋愛が描かれている訳である。
以下は浮舟が死を決意して文を焼く場面である。

本文「浮舟」から

君は、げにただいま、いとあしくなりぬべき身なめりとおぼすに、宮よりはいかにいかにと苔の乱るるわりなさおのたまふ、いとわづらはしくてなむ。とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてある事は出で来なん、我身ひとつの亡くなりなむのみこそめやすからめ、むかしはけさうずる人のありさまのいづれとなきに思わづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ、ながらへばかならずうき事見えぬべき身の、亡くならむは何かおしかるべき、親もしばしこそ嘆きまどひ給はめ、あまたの子どもあつひに、おのづから忘れ草摘みてん、ありながらもてそこなひ、人笑へなるさまにてさすらへむは、まさる物思ひなるべし、など思ひなる。子めきおほどかにたをたをと見ゆれど、け高う世のありさまをも知る方少なくて生ほし立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。
 むつかしき反故などやりて、おどろおどろしくひとたびにもしたためず、灯台の火に焼き、水に投げ入れさせなど、やうやう失ふ。心知らぬ御達は、物へ渡り給ふべければ、つれづれなる月日を経てはかなくし集め給つる手習などをやり給なめりと思ふ。侍従などぞ見つくる時に、「などかくはせさせ給。あはれなる御中に心とどめて書きかはし給へる文は、人にこそ見せさせたまはざらめ、物の底に置かせ給て御覧ずるなん、ほどほどにつけてはいとあはれに侍る。さばかりめでたき御紙づかひ、かたじけなき御言の葉を尽くさせたまへるを、かくのみやらせ給、なさけけなきこと」と言ふ。「何か。むつかしく。長かるまじき身にこそあめれ。落ちとどまりて、人の御ためもいとほしからむ。さかしらにこれを取りおきけるよ、など漏り聞きたまはむこそはづかしけれ」
などの給。心ぼそきことを思ひもてゆくには、又え思ひ立つまじきわざなりけり。親をおきて亡くなる人は、いと罪深かなる物をなど、さすがに、ほの聞きたることをも思。

与謝野晶子氏の訳文

浮舟はこうして寂しい運命のきわまっていくことを感じている時、宮から決心ができたはずであるとお言いになり、「君に逢はんその日はいつぞ松の木の苔こけの乱れてものをこそ思へ」というようなことばかり書いておいでになった。どちらへ行っても残る一人に障りのないことは望めない、自分の命だけを捨てるのが穏やかな解決法であろう、昔は恋を寄せてくる二人の男の優劣のなさに思い迷っただけでも身を投げた人もあったのである、生きておれば必ず情けないことにあわねばならぬ自分の命などは惜しくもない、母もしばらくは歎くであろうが、おおぜいの子の世話をすることで自然に自分の死のことは忘れてしまうであろう、生きていて身をあやまり、嘲笑を浴びる人になってしまうのは、母のためには自分の死んだよりも苦しいことに違いないと浮舟は死のほうへ心をきめていった。子供らしくおおようで、なよなよと柔らかな姫君と見えるが、人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。あとで人の迷惑になりそうな反古類を破って、一度には処分せずある物は焼き、また水へ投げ入れさせなどしておいおいに皆なくしていった。秘密の片端も知らぬ女房などは、ほかへ移転をされるのであるから、つれづれな日送りをしておいでになる間にたまった手習いの紙などを破ってしまうのであろうと思っていた。侍従などの見つける時には、
「なぜそんなことをなさいますか。思い合った中でお取りかわしになったお手紙は、人にはお見せになるものではありませんでも、箱の底へでもしまってお置きになりまして、時々出して御覧になりますのが、どの女性にも共通した楽しいことになっておりますよ。この上もないお紙をお使いになりまして、美しい御文章でおしたためになったものを、そんなに皆お破りになりますのは情けないことではございませんか」
 こんなふうに言ってとめる。
「いいのよ。私にはもう長い命はないようだからね。あとへ残ってはお書きになった方の迷惑にもなって気の毒よ。悪い趣味だ、愛人の手紙などをしまっておくなどとまたお思いになる方があっても恥ずかしいしね」
 などと浮舟は言うのであった。死というものの心細い本質を思ってはまだ自殺の決行はできないらしいのももっともである。親よりも先に死んで行く人は罪が深くなるそうであるがなどとさすがに仏教の教理も聞いていて思いもするのである。

ここで注目されるのが

け高う世のありさまをも知る方少なくて生ほし立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。

という部分だ。与謝野晶子氏はこう翻訳している。

人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。

これは作者の意見である。源氏物語には時々こんな作者の感想とも思える言葉がさし挟まれる。浮舟と言う女性についての批評である。学識がないから死を思うと言っている。しかし、与謝野晶子氏の訳とは違って、「世の中」を男女関係として読めば、この浮舟が都育ちではなく、男女関係の経験値がないからだと受け止める事ができる。
また、浮舟が

むかしはけさうずる人のありさまのいづれとなきに思わづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ、

と言っている部分がある。これは万葉集以来語られ、その後もいろいろな話に取り上げられた生田川の伝説が下敷きになっている。
ここで注目されるのは「だにこそ」という語だ。つまり浮舟は二人の言い寄る男の優劣がつけにくいからこそ死を選ぶとは言っていない。では何故か?それは二人の男の間で自分自身が分裂してしまっているからで、それを自覚しているからに違いないからだろう。この浮舟はこれまでのこの物語に登場する多くの女性たちの誰とも似ていない。
この後浮舟は何かに憑かれたように増水した宇治川に身を投じる。この何かに憑かれたようにという部分が重要だ。自分の「物の怪」が自分自身に憑いてしまった結果なのかもしれない。結局は横川の僧都に救われ、出家する事になるのだが、宇治十帖の主人公薫大将の恋はここでも成就しないことでこの物語は終局を迎える事になる。

『源氏物語』に改めて取り組んでみて、この物語にはいかに多くの要素があり、語るべきことが多くある事が改めてわかった。
作者紫式部という人物についても改めて興味を持った。これらについてはいずれまた機会があれば語りたい。

この項了

『日本古典文学総復習』21『源氏物語』3

『源氏物語』を読む3

この物語は一般に、非の打ち所がない主人公光源氏が多くの美しい女性たちと繰り広げる恋愛絵巻として見られていると思う。
しかし、前回見たようにその骨格には成就しない男女の三角関係が描かれている。義母との関係は義母・父・義母と関係した自分との三角関係だし、妻と若い男との関係は自分と妻と若い男の三角関係だ。
もちろん当時の婚姻形態は一夫多妻制だから、一人の男が複数の妻を持つことは許される。しかしそこでも妻の側からは常に三角関係が生じているといってもいい。つまり一人の男を巡って他の妻との三角関係が常に生じているということだ。この三角関係がこの物語の中心的なテーマなのである。
したがって源氏の死後を描く第2部の宇治十帖も源氏の息子である薫(実は柏木の息子)と孫にあたる匂宮(源氏と明石との間にできた姫君の子)の二人の男と何人かの女性との三角関係が描かれる。

さて、この部分は後に見ることにして、今回は女性の側からのこの関係を見ておきたい。

先に行ったように当時の女性は夫に別の妻があっても社会通念上は我慢しなければならない。人間として嫉妬の感情はあってもそれを表現することは基本的に許されてはいない。そうした中でこうした感情を謂わば爆発させた女性として六条御息所という女性が登場している。この人物はこの物語の中で重要な役割を担っていると言える。

この女性は大臣の娘であり、御息所と呼ばれているように死んだ皇太子の妻であった。しかも単にそうした身分の高さはばかりでなく、美しく気品があり教養・知性に優れていてプライドの高い女性であった。いつからか源氏はこの女性のもとに通うようになり(ここは描かれていないが)、関係を深めるが、やがて彼女を持てあますようになり、逢瀬も間遠になってしまう。年齢も上であり、そのプライドの高さも鼻についたのかもしれない。しかし、一方彼女の方はそうなればなるほど源氏にのめりこんでいく。そうしてその思いが「物の怪」として源氏の正妻である葵の上や紫の上に襲いかかる。
さきにこの女性を「こうした感情(嫉妬心)を謂わば爆発させた女性」と書いたが、この「爆発」は決して直接的には現れない。思いの強さが「物の怪」としてしか現れないところにこの時代の貴族の女性が置かれた立場を最も強烈に表現していると言える。
ちょっと長くなるが、御息所の物の怪の場面を引用する。

本文「葵」から

 大殿には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひ給。この御いきずたま、故父おとどの御霊など言ふものありと聞き給ふにつけて、おぼしつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに、人をあしかれなど思ふ心もなけれど、物思ひにあくがるなるたましゐは、さもやあらむとおぼし知らるることもあり。
 年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなき事のおりに、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後、一ふしにおぼし浮かれにし心静まりがたうおぼさるるけにや、すこしうちまどろみ給ふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてある所に行きて、とかくひきまさぐり、うつつにも似ず、猛くいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見え給事たび重なりにけり。
 あな、心うや、げに身を捨ててや往にけむ、とうつし心ならずおぼえ給おりおりもあれば、さならぬ事だに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれはいとよう言ひなしつべきたよりなりとおぼすに、いと名立たしう、ひたすら世に亡くなりて後にうらみ残すは世の常のこと也、それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつの我身ながら、さるうとましきことを言ひつけらるる、宿世のうきこと、すべてつれなき人にいかで心もかけきこえじ、とおぼし返せど、思ふも物をなり。

 
与謝野晶子氏の訳文

葵の君の容体はますます悪い。六条の御息所の生霊であるとも、その父である故人の大臣の亡霊が憑ついているとも言われる噂うわさの聞こえて来た時、御息所は自分自身の薄命を歎くほかに人を咀う心などはないが、物思いがつのればからだから離れることのあるという魂はあるいはそんな恨みを告げに源氏の夫人の病床へ出没するかもしれないと、こんなふうに悟られることもあるのであった。
 物思いの連続といってよい自分の生涯の中に、いまだ今度ほど苦しく思ったことはなかった。御禊の日の屈辱感から燃え立った恨みは自分でももう抑制のできない火になってしまったと思っている御息所は、ちょっとでも眠ると見る夢は、姫君らしい人が美しい姿ですわっている所へ行って、その人の前では乱暴な自分になって、武者ぶりついたり撲ったり、現実の自分がなしうることでない荒々しい力が添う、こんな夢で、幾度となく同じ筋を見る、情けないことである、魂がからだを離れて行ったのであろうかと思われる。失神状態に御息所がなっている時もあった。
 ないことも悪くいうのが世間である、ましてこの際の自分は彼らの慢罵欲を満足させるのによい人物であろうと思うと、御息所は名誉の傷つけられることが苦しくてならないのである。死んだあとにこの世の人へ恨みの残った霊魂が現われるのはありふれた事実であるが、それさえも罪の深さの思われる悲しむべきことであるのに、生きている自分がそうした悪名を負うというのも、皆源氏の君と恋する心がもたらした罪である、その人への愛を今自分は根柢から捨てねばならぬと御息所は考えた。努めてそうしようとしても実現性のないむずかしいことに違いない。

ここで御息所は自分の感情が深層で爆発している事を自覚している。この点に注目すべきだろう。こう描いた作者紫式部にも当然注目すべきだ。「物の怪」は自分でもどうにもできない深層の感情が対象に向かって現れる現象だということが出来る。六条御息所が見た夢はそのまま葵の上に現れてしまう。この「物の怪」によって葵の上は子を産んだ後死んでしまう。現代においてこの事を信じる者はほとんどいないだろう。しかし強い思いが他者に何かをもたらしてしまうということならありそうな事だと我々も考える事ができる。自分でも制御できない感情が謂わば三角関係にある対象に何かをもたらすということを作者は執拗に描いているように思う。この「物の怪」は紫の上にも現れる。また、夕顔もまた「物の怪」に襲われて死んでしまう。
この物語における「物の怪」は一つの大きな役割を持っている。そしてそれは男女の三角関係において、女の側から女に現れるのだ。当時の閉鎖的な貴族階級の婚姻制度のもとで作者紫式部は何をこの「物の怪」に託したのか、考えさせられるところである。

この項了

『日本古典文学総復習』20『源氏物語』2

『源氏物語』を読む2

今回は原文と与謝野晶子氏の訳文を引いて『源氏物語』で重要な部分を見てみる。
まず、源氏が義母である藤壺の宮と密会する場面である。
本文「若紫」から(本文は大系の本文を筆者が電子化したもの。以下同)

 藤壺の宮、なやみ給ふことありて、まかで給へり。上の、おぼつかながり嘆ききこえたまふ御けしきも、いといとおしう見たてまつりながら、かかるおりだにと、心もあくがれまどひて、いづくにもいづくにも、参うで給はず、内にても里にても、昼はつれづれとながめくらして、暮るれば、王命婦を責め歩き給。
いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへうつつとはおぼえぬぞ、わびしきや。
 宮も、あさましかりしをおぼし出づるだに世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむ、と深うおぼしたるに、いとうくて、いみじき御けしきなるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず心ふかうはづかしげなる御もてなしなどのなほ人に似させ給はぬを、などかなのめなることだにうちまじり給はざりけむ、とつらうさへぞおぼさるる。
何事をかは聞こえつくし給はむ、くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましう中々なり。
 見ても又逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな
とむせかへり給ふさまもさすがにいみじければ、
 世語りに人や伝へむたぐひなくうき身を覚めぬ夢になしても
おぼし乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の君ぞ御なをしなどはかき集め持て来たる。
 殿におはして、泣き寝に臥し暮らし給ひつ。御文なども例の御覧じ入れぬよしのみあれば、常のことながらも、つらういみじうおぼしほれて、
内へもまひらで二三日籠もりおはすれば、又いかなるにかと御心動かせ給ふべかめるも、おそろしうのみおぼえ給ふ。

例によって難渋な文。主語が明記されていないから誰の行為かがわかりにくい。これは当時の敬語の使用法に我々が習熟していないためと言えるが、
もともとこの物語が極めて狭い世界で流通していた事も関係すると言える。主語をいちいち示さなくても読者にはわかるからだ。

与謝野晶子氏の訳文(「青空文庫」から。以下同)

 藤壺の宮が少しお病気におなりになって宮中から自邸へ退出して来ておいでになった。帝が日々恋しく思召す御様子に源氏は同情しながらも、
稀にしかないお実家住まいの機会をとらえないではまたいつ恋しいお顔が見られるかと夢中になって、それ以来どの恋人の所へも行かず宮中の宿直所ででも、二条の院ででも、昼間は終日物思いに暮らして、王命婦に手引きを迫ることのほかは何もしなかった。王命婦がどんな方法をとったのか与えられた無理なわずかな逢瀬の中にいる時も、幸福が現実の幸福とは思えないで夢としか思われないのが、源氏はみずから残念であった。
宮も過去のある夜の思いがけぬ過失の罪悪感が一生忘れられないもののように思っておいでになって、せめてこの上の罪は重ねまいと深く思召したのであるのに、またもこうしたことを他動的に繰り返すことになったのを悲しくお思いになって、恨めしいふうでおありになりながら、柔らかな魅力があって、しかも打ち解けておいでにならない最高の貴女の態度が美しく思われる源氏は、やはりだれよりもすぐれた女性である、なぜ一所でも欠点を持っておいでにならないのであろう、それであれば自分の心はこうして死ぬほどにまで惹ひかれないで楽であろうと思うと源氏はこの人の存在を自分に知らせた運命さえも恨めしく思われるのである。源氏の恋の万分の一も告げる時間のあるわけはない。永久の夜が欲ほしいほどであるのに、逢わない時よりも恨めしい別れの時が至った。
 見てもまた逢夜稀なる夢の中うちにやがてまぎるるわが身ともがな
涙にむせ返って言う源氏の様子を見ると、さすがに宮も悲しくて、
 世語りに人やつたへん類なく憂き身をさめぬ夢になしても
とお言いになった。
宮が煩悶しておいでになるのも道理なことで、恋にくらんだ源氏の目にももったいなく思われた。源氏の上着などは王命婦がかき集めて寝室の外へ持ってきた。
源氏は二条の院へ帰って泣き寝に一日を暮らした。手紙を出しても、例のとおり御覧にならぬという王命婦の返事以外には得られないのが非常に恨めしくて、源氏は御所へも出ず二、三日引きこもっていた。これをまた病気のように解釈あそばして帝がお案じになるに違いないと思うともったいなく空恐ろしい気ばかりがされるのであった。

さて、これは前半の山場。若い源氏が父の後添えである藤壺の宮が里下がりをしていた時に侍女を手引きに逢う場面だ。源氏は幼い時からこの藤壺の宮に親しんできた。それはこの藤壺の宮が亡き母に生き写しだったからだ。この亡き源氏の母は帝が寵愛の限りを尽くした女性だ。身分が低く、帝の寵愛を受ければ受けるほど周りの他の妻たちからからいじめにあった。そのせいか若くしてこの世を去ってしまう。したがって息子の源氏にはこの母の記憶がない。だからこそ余計に母に似た年齢のあまり違わない義母への思慕が募っていった。それがやがて恋情となり、ついに禁を犯してしまう。この場面以前にもすでに二人は逢瀬をしていた事が「宮も、あさましかりしを」という表現でわかる。与謝野晶子はこれを正確に「宮も過去のある夜の思いがけぬ過失の罪悪感」と翻訳しているように暗に過去の間違いをここで示している。

さて、今度は後半の主要な場面。源氏が新たに迎えた妻、女三宮が柏木に強引に襲われる場面だ。
本文「若菜下」から

宮は、何心もなく大殿籠もりにけるを、近くおとこのけはひのすれば、院のおはする、とおぼしたるに、うちかしこまりたるけしき見せて、床の下に抱きおろしたてまつるに、ものにをそはるるかと、せめて見上げ給へれば、あらぬ人なりけり。あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつけくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけてまいるもなし。わななき給ふさま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえ給はぬけしき、いとあはれにらうたげ也。
「数ならねど、いとかうしもおぼしめさるべき身とは思給へられずなむ。むかしよりおほけなき心の侍しを、ひたぶるに籠めてやみ侍なましかば、心のうちに朽たして過ぎぬべかりけるを、中々漏らしきこえさせて、院にも聞こしめされにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼みをかけそめ侍て、身の数ならぬ一際に、人より深き心ざしをむなしくなし侍ぬることと、動かし侍にし心なむ、よろづいまはかひなきこと、と思給へ返せど、いかばかりしみ侍にけるにか、年月に添へて、くちおしくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、色々に深く思給へまさるにせきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつは、いと思ひやりなくはづかしければ、罪をもき心もさらに侍るまじ」
と言ひもてゆくに、この人なりけり、とおぼすに、いとめざましくおそろしくて、つゆいらへもし給はず。
「いとことわりなれど、世にためしなきことにも侍らぬを、めづらかになさけなき御心ばへならば、いと心うくて、中々ひたふるなる心もこそつき侍れ、あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」とよろづに聞こえ給。

与謝野晶子氏の訳文

宮は何心もなく寝ておいでになったのであるが、男が近づいて来た気配をお感じになって、院がおいでになったのかとお思いになると、その男はかしこまった様子を見せて、帳台の床の上から宮を下へ抱きおろそうとしたから、夢の中でものに襲われているのかとお思いになって、しいてその者を見ようとあそばすと、それは男であるが院とは違った男であった。これまで聞いたこともおありにならぬような話を、その男はくどくどと語った。宮は気味悪くお思いになって、女房をお呼びになったが、
お居間にはだれもいなかったからお声を聞きつけて寄って来る者もない。宮はお慄い出しになって、水のような冷たい汗もお身体からだに流しておいでになる。失心したようなこの姿が非常に御可憐かれんであった。
「私はつまらぬ者ですが、それほどお憎まれするのが至当だとは思われません。昔からもったいない恋を私はいだいておりましたが、結局そのままにしておけば闇やみの中で始末もできたのですが、あなた様をお望み申すことを発言いたしましたために、院のお耳にはいり、その際はもってのほかのこととも院は仰せられませんでした。それも私の地位の低さにあなた様を他へお渡しする結果になりました時、私の心に受けました打撃はどんなに大きかったでしょう。もうただ今になってはかいのないことを知っておりまして、こうした行動に出ますことは慎んでいたのですが、どれほどこの失恋の悲しみは私の心に深く食い入っていたのか、年月がたてばたつほど口惜くちおしく恨めしい思いがつのっていくばかりで、恐ろしいことも考えるようになりました。またあなた様を思う心もそれとともに深くなるばかりでございました。私はもう感情を抑制することができなくなりまして、こんな恥ずかしい姿であるまじい所へもまいりましたが、一方では非常に思いやりのないことを自責しているのですから、これ以上の無礼はいたしません」
 こんな言葉をお聞きになることによって、宮は衛門督であることをお悟りになった。非常に不愉快にお感じにもなったし、怖しくもまた思召されもして少しのお返辞もあそばさない。
「あなた様がこうした冷ややかなお扱いをなさいますのはごもっともですが、しかしこんなことは世間に例のないことではないのでございますよ。あまりに御同情の欠けたふうをお見せになれば、私は情けなさに取り乱してどんなことをするかもしれません。かわいそうだとだけ言ってください。そのお言葉を聞いて私は立ち去ります」とも、手を変え品を変え宮のお心を動かそうとして説く衛門督であった。

これは源氏が栄華を極め、六条院という広大な邸宅で豪華な生活をしていた時の話。
その六条院に迎えた新しい若い妻、女三宮という女性にかつての友人の息子である柏木という若い男が、謂わば押し入って想いを遂げようとする場面だ。実は夫である源氏はこの柏木が自分の若い妻に懸想している事を知っている。それは柏木の「院にも聞こしめされにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりける」という言に伺える。訳では「院のお耳にはいり、その際はもってのほかのこととも院は仰せられませんでした。」とある部分だ。「院」とは源氏のこと。源氏は女三宮にそれほどの愛情を持っていないようにみえる。しかし、この柏木の行為が後に思わぬ運命のあやとなってしまう。すなわち女三宮はこの柏木の子を身ごもり、その子がこの物語の第二部の主人公薫大将となるからだ。やがて二人は罪の恐ろしさにおののき、出家を遂げることになる。この事件は源氏にとってかつて自分が若い時に犯した罪の復讐のように感じられたのかもしれない。

さて、ここで重要なのは、源氏と藤壺の密会と女三宮と柏木の密会の大きな違いである。両者とも夫ある身の女性と若い男性との密会だし、女の側に両者とも男を受け入れる意思はない。これは当時の婚姻形態が成せる技かもしれない。しかし、柏木の行為はほとんど強姦とも思えるが、源氏の行為は多少なりとも藤壺にも受け入れる余地があるように描かれているように思える。これは身分的な違いということもあろうし、物語的にも主人公と脇役といった違いもあろう。ただ、源氏の行為は亡き母の面影を持つ義母と関係を持ってしまうと言うところに重要性がある。これは源氏が後に多くの女性たちと関係を持つことと全く趣を異にしている。ましてや柏木と女三宮との関係とも次元が違うように思う。ここにはこの物語の肝が隠されている。帝の妻を犯すこと、自分の義母とはいえ実母の面影を持つ女性と関係を持つこと、これは当時にあっても重大な禁忌であるはずだ。作者紫式部はどんな思惑からこんな話にしたのか、解かねばならない課題である。

今回はここまでとする。次は重要な他の女性たちとの話を見て行きたい。

この項了

『日本古典文学総復習』19『源氏物語』1

『源氏物語』を読む1

また大部の作品が現れる。『源氏物語』だ。5巻構成。しかし前の『續日本紀』とは違ってこれまで相当つまみ食いはしてある。しかも与謝野晶子氏による現代語訳をKindleで読んでいる。こうなれば何事か書けそうだが、書くべきことが多すぎて何から書いて良いものやら迷っている。

さて、この作品は知らない人はいないほど有名だが、通読した人はそれほど多くないと思う。かくいう小生も実は原文では到底通読できていない。かなりつまみ食いはしているつもりだったが、今振り返るとそう多くの部分ではないことを改めて知った。この難渋な原文を読破するのは並大抵ではない。そこで現代語訳を通読してほしい。現代語訳では与謝野晶子氏のものが一押しだ。文法的に間違いが多いとかなんとか言われているらしいが、この物語を自分のものにして全文を現代語訳しているからすごい。
無料で読めるから是非読んでほしい。
そこでまずこの物語がどんな内容をもっているかその梗概を紹介するところから復習を始めたい。

『源氏物語』はこの大系では5巻に収められているが、54巻構成となっている。五四帖という。まずはその構成とあらすじを紹介しておく。実はネット上に各帖を一行でまとめたものを発見した。それを使わせてもらう。吉田裕子氏によるものだ。素晴らしい仕事だ。
nfinity0105.hatenablog.com/entry/2015/10/11/105631
大系一
桐壺 光源氏の誕生。母・桐壺更衣は帝のの他のきさき達からの嫉妬で病死。
帚木 光源氏17歳。ライバル頭中将らと恋愛談義。中流の人妻・空蝉との恋。
空蝉 空蝉宅に忍び込む光源氏だが、逃げられ、継娘・軒端荻を抱いて帰る。
夕顔 頭中将の元妻・夕顔と恋人になるが、夕顔は物の怪に襲われて急死。
若紫 初恋の人である義母・藤壺を妊娠させる。藤壺の姪・若紫を引き取る。
末摘花 頭中将と張り合いながら常陸宮の姫君を手に入れるが、不美人だった。
紅葉賀 父・桐壺帝と藤壺の子が誕生するが、実は光源氏との子である。
花宴 夜中、宮中で朧月夜と恋に落ちる。彼女が皇太子妃になる計画が破談。
葵 正妻葵上が男児出産。恋人の六条御息所の生霊で葵上急死。紫が妻に。
賢木 父・桐壺院が死に、藤壺は出家。朱雀帝の愛する朧月夜との関係が露見。
花散里 昔の恋人・花散里に会う。恋愛感情は最早ないが、話すと落ち着く存在。
大系二
須磨 朧月夜の件などで罰を受けそうになった光源氏は、自ら須磨に謹慎する。
明石 須磨から明石へ移動。滞在した家の娘・明石の君は光源氏の子を妊娠。
澪標 光源氏帰京。藤壺との子が冷泉帝として即位。明石の君が娘を出産。
蓬生 末摘花の家を偶然通りかかる。健気に自分を待ち続けた彼女に感動。
関屋 逢坂の関でたまたま空蝉と再会し、文を交換。夫の死後、空蝉は出家。
絵合 養女としていた六条御息所の娘が、頭中将娘と中宮の座を競い、勝利。
松風 明石の君が上京。三歳の娘を引き取って、正妻格の紫の上に育てさせる。
薄雲 藤壺が亡くなり、悲しむ光源氏。冷泉帝は自分の出生の秘密を知る。
朝顔 朝顔の宮に求婚。高貴な姫君なので、紫の上は自らの立場を不安視。
少女 長男夕霧と幼馴染み雲居雁の恋を、頭中将が引き裂く。六条院造営。
玉鬘 夕顔と頭中将の娘で、母の死後孤児となっていた玉鬘が光源氏養女に。
初音 六条院の華やかな正月。二条院には空蝉・末摘花を引き取っている。
胡蝶 玉鬘は多くの貴公子から恋文をもらう。光源氏も実は心惹かれている。
螢 異母弟・螢兵部卿宮に対し、蛍の光で玉鬘の姿を見させる演出をする。
大系三
常夏 和琴を習い始める玉鬘。一方、頭中将の娘、近江・雲居雁はだらしない。
篝火 玉鬘は親切な教育に感謝しているが、添い寝してくる光源氏には困惑。
野分 台風で壊れた六条院を見舞った夕霧は、義母・紫の上に一目惚れする。
行幸 玉鬘の境遇が実父・頭中将に知らされる。裳着の儀。冷泉帝の尚侍に。
藤袴 玉鬘の素性や出仕のことが知れて、玉鬘に求婚していた男達は戸惑う。
真木柱 強引に玉鬘を奪っていった髭黒。本妻が嫉妬に狂い、実家に帰る。
梅枝 明石の姫君が成長し、盛大な裳着の儀が開催される。
藤裏葉 夕霧たちの結婚が認められる。皇太子妃となる明石の姫君は実母と再会。
若菜上 女三の宮が光源氏に降嫁し、紫の上は動揺。柏木が女三の宮を垣間見る。
若菜下 紫の上が病み、光源氏は看病の日々。柏木が女三の宮を妊娠させる。
大系四
柏木 女三の宮は柏木の子である薫を産み、出家してしまう。柏木も衰弱死。
横笛 夕霧は、亡き柏木の妻・落葉宮から遺品の笛を預かり、光源氏に渡す。
鈴虫 出家した女三の宮の面倒も見る光源氏。冷泉院と対面し、感慨に浸る。
夕霧 夕霧は、落葉宮に惹かれていく。雲居雁は嫉妬で実家に帰ってしまう。
御法 紫の上の病は悪化。出家を希望するが、叶わないままに亡くなる。
幻 紫の上の死に悲嘆に暮れる光源氏。彼女の手紙も燃やし、出家を決意。
(この後に「雲隠」。光源氏の死を暗示する巻名だけが伝えられ、本文が存在しない。)
匂宮 光源氏の死から時が経ち、子孫の時代へ。若き薫と匂宮が活躍する。
紅梅 頭中将の息子・紅梅大納言は、夕霧と張り合い、長女を皇太子妃に。
竹河 子だくさんな玉鬘。髭黒の死後、後見を欠いた息子・娘は苦労の日々。
橋姫 薫は仏道の縁で宇治の八の宮と知り合う。娘を垣間見て大君に惹かれる。
椎本 八の宮は「軽々しい結婚はするな」と遺言して死。姉妹を世話する薫。
総角 大君に迫り拒絶された薫。妹の中の君を匂宮に紹介する。大君は死ぬ。
大系五
早蕨 宇治だと遠くてなかなか会えないので、匂宮は中の君を京都に迎える。
宿木 薫が中の君に求愛するが、途中で断念。中の君は匂宮の子を産む。
東屋 中の君は薫に、異母妹の浮舟を紹介。薫は浮舟を宇治の隠し妻とする。
浮舟 匂宮も浮舟に通う。2人の板挟みに悩んだ浮舟は、入水自殺を図る。
蜻蛉 行方不明の浮舟の葬儀を行う。落ち込む2人だが、またすぐ恋に走る。
手習 浮舟は横川の僧都に助けられていた。男女の仲の煩わしさに出家をする。
夢浮橋 浮舟が尼になったことを知った薫は文を送るが、返事はなかった。

以上だが、これは大系の編集上の巻分けなので内容的な構成とはなっていない。この物語は大きく2部に分かれる。すなわち主人公の光源氏が生まれてから死すまでと息子の薫を主人公とする部分だ。も少し詳しく言うとその第一部は光源氏の生い立ちと女性遍歴を記し、須磨に流されたところから都への復帰を記し、晩年の栄華を記した第一部の前半と「若菜上」から始まる光源氏の死へと至る後半部分に分かれる。(またそこに「玉鬘」十帖といわれるちょっと異質な物語がある。)

すなわち前半は須磨への蟄居はあったものの全般に華やか世界が描かれ、後半は沈んだ世界へと移行する。そして死後の息子たちの世界ははじめから華やかな色彩を失っている世界が描かれ「夢浮橋」という題の巻でその世界が閉じられる。

そしてこの物語に流れる一本のすじは光源氏が若い時に犯した罪である。すなわち自分の父の若い後妻である藤壺との密通であり、それが後に自分が迎えた若い女三宮の不義密通によって謂わば復讐される。源氏の死後の息子の世界が暗いのはその息子薫が実は女三宮の不義密通で生まれた子だからである。この物語の基本的な枠組みはここにあると言える。

今回はここまでにしておこう。次回はこの観点からこの物語を本文を紹介しながら読んでみたい。

この項了

『日本古典文学総復習』18『落窪物語』『住吉物語』

『落窪物語』『住吉物語』を読む

この二つの物語は日本版シンデレラストーリーの古典だ。継母に預けられいじめられた美しい姫君が理想的男性に見出され幸せになると言うお話だ。

『落窪物語』は具体的にはこんな展開だ。

高貴な身分の姫君が母を亡くしたために、継母に預けられる。当時は母系性社会だから娘は母親の元で暮らすことになるのだが、その母がいないため継母の家で暮らすこととなった。その継母が典型的な意地悪女となっている。姫はこの継母にいいようにこき使われ、しまいにはとんでもない部屋に監禁される。しかし、その美貌に惚れ通い始めた男性が登場。右近の少将道頼という。これがまさに理想的な男性。しかも当時の男性像というより、現代の理想的な男性像だ。その後も姫君は継母のいじめに遭うが、この男性がそこから姫君を救い出す。ただそれだけでなく、継母への復讐までやってのける。そしてそのかいあってか、二人は社会的にも出世し、幸福になるというわけ。

また、こうした話が様々な事件、そこに登場する様々な人々によって彩られる。特に姫君を助ける侍女「あこぎ」という人物はこの物語で重要な役割を果たす。姫君は謂わば人形のような存在だが、この侍女は生き生きと描かれる。こうしたところがこの物語を奥深いものにしている。

それに対し『住吉物語』は分量から言っても『落窪物語』に比較にならないほど短いものだ。内容的には似ているが、『落窪物語』にある救出劇や復讐劇はない。また、奥行きも貧弱だ。しかしこの物語は後の時代によく読まれたようだ。異本が多く存在するし、絵巻物にもなっている。また、初瀬にこもって夢のお告げによって幸せになるきっかけをつかむといって点も違っている。また、かなりの後に書き換えられた形跡があるようだ。

しかし、継子いじめの話は洋の東西を問わず色々って、それだけ人々の興味を引く話であったことは間違いない。ただ、現在はあまり聞かない気がする。「いじめ」や「虐待」の話は多く聞くが、現代では実母や実父、あるいは継父が関わっていることが多いような気がする。これは当時の婚姻形態と現在のそれとの違いが要因としてあるが、その実態は昔の方が穏当であった気がする。この物語での「いじめ」や「虐待」は現在のそれに比べればそれほどでもない。現代がむしろ暴力性を増しているといえる。これは家族のあり方の違いもあるのかもしれない。現代の家族は極めて孤立しているから暴力性を増すのかもしれないからだ。またこの物語には、登場人物が貴族階級という点もあるが、「いじめ」られる人物には協力者が必ずいるということも注目される。それがこの話をそれほど暗くしていない。侍女の活躍などがそれだ。

さて、この二つの物語は平安時代に成立したと思われるが、『源氏物語』にも影響を与えたらしい。特に『落窪物語』は物語の筋が語られるだけでなく、具体的な事実描写が多く、会話文も多く、こうした謂わば本格的な小説ともいえる物語がその時期に成立していたことは驚きに価する。

ネット上に面白いサイトがあった。『落窪物語』に登場する侍女「あこぎ」という人物に着目してこの物語をわかりやすく紹介している。
以下だ。ぜひ読んでもらいたい。
http://ncode.syosetu.com/n8281bb/ 「あこぎ」という名脇役 ~落窪物語感想文~

なお、現代語訳で読むには
落窪物語〈上下〉 (角川ソフィア文庫) 文庫 – 2004/2 室城 秀之 (翻訳)
がある。
また、漫画版は
落窪物語―マンガ日本の古典 (2) 中公文庫 文庫 – 1999/6 花村 えい子 (著)
があり、わかりやすいかもしれない。
また、謂わば翻案だが、田辺聖子氏の
おちくぼ姫 (角川文庫) 文庫 – 1990/5/25
がいいだろう。
ぜひ読んでもらいたい物語だから紹介した。

この項了