『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』2

『今昔物語集』を読む2

今回は『今昔物語集』のうちの天竺部と震旦部および本朝部の仏法部分から話を紹介する。

天竺部は釈迦の来歴を語った部分がほとんどだ。そのうち釈迦の入滅すなわち臨終の話が興味深い。
巻第三第三十話
「仏、入涅槃給時、遇羅睺羅語第(三十)」
と題されている話だ。
羅睺羅とは「らごら」と読み、釈迦のひとり子とされている人物。この息子、釈迦が臨終の折、悲しみに耐えないからと思って別世界に行ってしまった。しかし、その世界の仏が「きっと父は臨終に際して息子であるあなたに会いたがっているはずだから戻りなさい。」と羅睺羅に諭す。その言に従って戻った羅睺羅を釈迦は「待っていたよ」と迎える。その最後の親子の別れの部分。

羅睺羅涙ニ溺レテ参リタルニ、仏羅睺羅ノ手ヲ捕ヘ給テ宣ハク、「此ノ羅睺羅は此レ我ガ子也。十方ノ仏、此レヲ哀愍シ給へ」ト契リ給テ、滅度シ給ヒヌ。此レ最後ノ言也。

なんと釈迦ともあろう人物が死に際して一人息子の身を案じ、その将来を周りに頼んでいる。親子の情愛は仏教徒にとっては捨てなければならない煩悩の一つであるはずなのにだ。筆者はこう結んでいる。

然レバ此レヲ以テ思フニ、清浄ノ身ニ在マス仏ソラ、父子ノ間ハ他ノ御弟子等ニハ異也。何況ヤ、五濁悪世ノ衆生ノ、子ノ思ヒニ迷ハムハ理也カシ。仏モ其レヲ表シ給フニコソハトナム語リ伝ヘタルトヤ。

仏すらこのようなのだから、当たり前の人たちが子を思って迷うのは当然だと。こうした話を読むと仏教がいかに人間の心情の即した宗教であるかがわかる気がする。
(本文は筆者が電子化したものである。以下同)

さて、今度は震旦部にある話。震旦部は中国に仏教が渡った経緯とその定着を語った話が多いが、後半に仏教以外の話がある。古代中国といえば孔子というイメージが強いのだが、少ないがここにも幾つか孔子の話がある。
巻第十第十話
「孔子逍遥、値栄啓期聞語第十」
と題されている話を読む。
ある時孔子が弟子たちと散歩をし、途中琴を弾いて弟子たちに聞かせ、文章を読ませていた。その時海から一人の老人がやってきて、孔子の琴を弾き終わるののを聞いて、弟子を招いて訪ねた。

「此ノ琴弾キ給フ人ハ誰ゾ、国ノ王カ」ト。

弟子が違うと答えると、さらに「国ノ大臣カ」「国ノ司カ」と聞いてくる。いずれも違うと答えると、「然ラバ何人ゾ」と聞く、そこで弟子は以下のように答える。

「只、国ノ賢キ人トシテ公の庁ヲ直シ、悪キ事ヲ止メ、善キ事(欠字:「ヲ勧メ給フ」か)人也」ト。

ところがこの老人、この語を聞いて、あざ笑って言うには

「此レ、極タル嗚呼人也」ト

つまりなんて馬鹿な人だと。そう言って去ってしまった。
弟子がこの話を孔子にすると、孔子は

「其レハ、極タル賢キ人ニコソ有ナレ。速ニ可呼還シ」ト。

そういうので弟子がこの老人を呼び戻して孔子と対面する事となる。今度は孔子が老人に「君、何人ゾ」と聞く。すると老人は

「我レ、何人ニモ無シ。只、船ニ乗テ心ヲ行サムガ為ニ、罷リ行ク翁也。」

すなわち「わしは気晴らしで船に乗っているただの老人だよ」と答える。さらには孔子がやろうとしている事は愚かな事だと言う。影から逃れようとして晴れに身を置こうとするが、影はいつまでもついてくるようなもの。いっそ影の中に静かに留まれば影は自ずから離れていくものだと。

「只、可然キ所ニ居所ヲ示テ、静ニ一生ヲ被送ラレム、此レ、此ノ生ノ望也。而ルニ、其ノ事不思ズシテ、心ヲ世々ニ染メテ被騒ルゝ事、極テ墓無キ事也。」

すなわちあるがままに静かに一生を送る事こそ大事だと。そう言って孔子の答えも聞かずに船に乗って帰ってしまった。
孔子はいつまでもこの老人の船を見送り礼をし続けたという。

此ノ翁ノ名ヲバ栄啓期トナム云ヒケルト人ノ語リ伝へタルトヤ。

という語でこの話は結ばれている。
この話は後にも『宇治拾遺物語』にもほとんど同じ形で取られていて、有名であったようだ。ここに儒教的な積極性の否定を見るのは大袈裟だろうが、いかにも日本人好みの話のように思える。これが仏教説話集に取られているのもうなづける気がする。

今度は本朝すなわち日本の若き僧のお話。
巻第十七第三十三
「比叡山僧、依虚空蔵助得智語第三十三」
ちょっと長い話なので概略のみ記す。
あまり出来のよくない青年僧がある夜ある屋敷に一泊することになる。そこで女主人の美人の姿を目撃する。女好きのこの青年僧、むらむらとして夜這いをして思いを遂げようとする。が、この美人なかなかで、「もうちょっと学問してくれば思い通りになるわ」といって宥める。この青年僧、真面目にこの言葉を信じて学問に励む。ただただこの美人をものにしたい一心からだ。しかもこの美人、青年僧に具体的な目標を示す。まずは法華経を暗唱できるようになったらまた来なさいと言う。
その通り頑張り、再び訪れると今度は公然と関係したいので、もっと学問をして出世しなさいと言う。これまたこの言を信じ青年僧は三年間学問に励み、山門中で一番の学僧になる。そこで尋ねると今度は色々と質問攻めにあう。しかし、全て完璧な答えをする。この美人、やたらに仏法に詳しいのでおかしいなと思うが、いよいよ思いを遂げる時が来た。彼女も今度は拒まない。腕を回し、横になっていると彼は眠ってしまう。目がさめるとなんとそこはススキの生い茂る野原だった。
しかし、そこは実は法輪寺だった。この青年僧はお堂には入り、仏前にひれ伏しているとまた寝入ってしまい夢を見たという。その夢の中で小僧が現れて実は遊び好きのお前にどうしたら学問させるかと思い、その女好きを利用してやったのだという。この言葉を聞いて夢から覚めたというお話だ。

然レバ、彼ノ僧ノ好ム方ニ女ト成テ、学問ヲ勧メ給ヘル也。経ノ文ニ違フ事無ケレバ、貴ク悲キ也。彼ノ僧ノ正シク語リ伝ヘタルトヤ。

と結ばれている。
しかし、人間こうした欲望に基づく目標があると頑張れるものなんですね。特に若い人にとって性的な欲望は僧であっても抑えられないものだろうから、これをうまく利用するのも仏の道というわけでしょうか。なんとなくほのぼのとした話に思えます。

この項了

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