『日本古典文学総復習』42『宇治拾遺物語』『古本説話集』

『宇治拾遺物語』を読む

これもまた説話集である。この説話集は『今昔物語集』と共に人口に膾炙したものだ。近代作家の芥川龍之介がこの説話集の幾つかの話から作品を書いたことも一般に知られた要因だ。例えば、一八の「利仁、暑預粥事」、二五の「鼻長き僧の事」や三八の「絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶ事」などだ。
さて、この『宇治拾遺物語』は『今昔物語集』とは違って集められている説話はそれほど多くはない。上下あわせて二百に満たない。もっとも『今昔物語集』があまりに網羅的なので、そう見えるかもしれない。また、この『宇治拾遺物語』は先行する多くの説話集と重複する説話が多い。『今昔物語集』はもちろん先に見た『古事談』等からも多くの説話をとっている。
しかし、この『宇治拾遺物語』はそうした先行する説話集の単なる焼き直しに止まってはいない。ある統一的な編集方針といった物がうかがえるし、同じ説話でもより文学的な脚色が含まれている。また、編集者の優しい眼差しといったものもうかがえる話もある。ここではそれを紹介しておこう。

(一二 児ノカイ餅スルニ空寝シタル事 巻一ノ一二)
是も今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざかひもちいせん」といひけるを、この児、心よせに聞きけり。さりとて、しいださんを待ちて、寝ざらんも、わろかりなんと思ひて、かたかたよりて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでに、し出したるさまにて、ひしめき合ひたり。
この児、定めておどろかさんずらんと待ちゐたるに、僧の「物申さぶらはん。おどろかせ給へ」といふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへんも、待ちけるかともぞ思ふとて、今一声よばれていらへんと、念じて寝たる程に、「や、なおこしたてまつりそ。幼き人は寝入給ひにけり」といふ声のしければ、あなわびしと思ひて、今一度、おこせかしと思寝に聞けば、「ひしひし」とただくひにくふ音のしければ、すべなくて、無期の後に、「えい」といらへたりければ、僧達、笑ふ事、かぎりなし。

これは教科書にもとられていて知っている人も少なからずいるかと思う。いかにも少年らしい感情が語られている。多分この「児」は高貴な出なのかもしれない。そんな少年をあったかく見守る「僧達」もいい。微笑ましい説話だ。

 (一三 田舎児、桜ノ散ヲ見泣事 巻一ノ一三)
これも今は昔、ゐ中の児の、比叡の山へのぼりたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、此児、さめざめと泣きけるを見て、僧の、やわらよりて、「など、かうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなき物にて、かく程なくうつろひ候なり。されども、さのみぞさぶらふ」となぐさめければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。我父の作りたる麦の花散りて、実のいらざらん、思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、「よよ」と泣きければ、うたてしやな。

これも児の話。これは情緒ではなく実利を考える孝行な少年の話。「僧」と「児」の「ちぐはぐさ」がまたなんとも微笑ましい。最後の「うたてしやな」という語が単に「情けないことだ」と言っているのではなく、その「ちぐはぐさ」をおかしがっているように読めて、いい。
こうした話を取っている『宇治拾遺物語』は説話集の中でも一つの完成形に近い物を持っている気がする。一種の短編物語集の趣を持っていいる。

『古本説話集』を読む

これも説話集だが、昭和に入ってから発見されたという。前に見た『宇治拾遺物語』と成立を同じくしていた物だと言われている。この説話集も話がかなり編集され完成されている話が多いように思う。ここで取り上げる「僧」と「吉祥天女」の話もこれまで見てきた説話集に散見できた物だが、ここではしっかり一つの物語のように作られている。長いが本文を電子化したので読んでもらいたい。

 (六二 和泉国国分寺住持艶寄吉祥天女事)
今は昔、和泉の国国分寺に、鐘撞き法師ありけり。鐘撞き歩きけるに、吉祥天のおはしましけるを見たてまつるだに、思ひかけたてまりて、掻き抱きたてまつり、引き抓みたてまつり、口吸ふ真似などして、月ごろ経る程に、夢に見るやう、鐘撞きに上りたるに、例の事なれば、吉祥天をまさぐりたてまつるに、うちはたらきての給やう、「わ法師の、月来我を思ひかけてかくする、いとあはれ也。我、汝が妻にならむ。その月のその日、播磨の印南野にかならず来会え。そこにてぞ会はむずる」と見て、覚めて、嬉しきこと限りなし。物仰せられつる御顔の、現のやうに面影に立ちて見えさせ給へば、「いつしか、その月日になれかし」とおぼゆ。
明け暮るるもしづ心なき程に、からうじて待ちつけて、まづかしこにきををきて、印南野に、その日になりて、いつしかいつしかとし歩くに、えもいはぬ女房の、色々の衣着て、裾取り出で来たり。見つけて、「これか」と思へど、わななかれて、ふえ寄り付かず。女房、「いとあはれに来会ひたり」とて、「今は、まづ入るべき家一つ造れ」。「あはれ、いかにしてか造り候ふべき」と申せば、「ことにもあらず。とく始めよ」とある程に、男の、ある一人出で来て、「かく野中には、いかなる人のおはしますぞ」と言へば、「この辺に住まむと思ひて来たるに、家もなし。便りもなければ、いかがせまし」と言へば、「さては事にも候はず。己が候へば、何事に候ふと仕らん」と言へば、「まづおはしまし所造り候はん」とて、「人召して参らむ」とて往ぬ。その辺の宗とある物の、党多かるなりけり。告げまはしたりければ、集りて、桁一つをのをの持て続きて来たり。何も彼も降り湧くやうに出で来れば、このかく物する者とても、かつは、をのが物ども取り持て来。又物取らせなどして、程なく家めでたく造り、えもいはすしつらひて、据ゑたてまつりつ。近く参り寄りて臥したる心地、置き所なし。仰せらるる様、「我、今は汝か妻になりにたり。我を思はば、異妻なせそ。ただ我一人のみをせよ」と仰せらるる。これは、ただあらん女の、少し思はしからんが言はんだに、従はざるべきにあらず。まして、これは言ふ限りなし。「いかにも、ただ仰せに従ひてこそ候はめ」と申せば、「いとよく言ひたり」とて、あはれとおぼしたり。
かくて、田を作れば、この一反は異人の十町に向はりぬ。よろづに乏しき物つゆなし。その郡の人、叶はぬなし。隣の郡の人も、聞きつつ、物乞ふに従ひつ取らす。又持て居る馬、牛多かり。かくしつつ、一国に満ちにたれば、国の守も、やむごとなき物にして、言ひと言ふ事の聞かぬなし。
かく楽しくて年来ある程に、事の沙汰しに上の郡に行きて、日来ある程に、追従する物、「あはうの郡の、なにがしと申す者の女のいとよきをこそ召して、御足など打たせさせ給はめ」と言ひければ、「好き心湧きたりとも、犯さばこそはあらめ」と思ひて、「よかんなり」と言ひければ、心うく装束かせて、出で来にけり。近く呼び寄せて、足もたせなどしける程に、いかがありにけむ、親しくなりにけり。思ふとならねど、日来有りける程置きたりけり。
事の沙汰果てて帰りたりけるに、御気色いと悪しげにて、「いかで、さばかり契りしことをば破るぞ」とて、むつからせ給ひて、「今は我帰りなむ。ここにえあらじ」と仰せられければ、ことわり申し、なを慕ひ申けれど、「これ、年来の物なり」とて、大きなりける桶に、白き物を二桶かき出だして賜びて、いづちともなくて失せ給ひにければ、悔い泣きしけれども甲斐なし。この桶なりける物は、この法師の年来の淫欲といふ物を、溜め置かせ給へりけるなりけり。さて後は、いとどをのやうにもこそなけれど、いと貧しからぬ物にて、いとよくて、聖にて止みにけると、人の語りし也。

身分の低い僧が吉祥天女像に懸想して自慰行為をするという話の発端はこれまでの説話にも多く語られている。グラビヤや、まして動画などなかった時代、美しくふくよかな吉祥天女像は僧とはいえ若い男の性欲を刺激したに違いない。ただ、その吉祥天女像が反応する。吉祥天女は男の気持ちを汲み、「いとあはれ也。我、汝が妻にならむ」と言ってくれる。そして霊験あらたかにこの男の妻となっただけでなく、この男を出世させる。ただ、この天女多くの妻と同様嫉妬深かった。他の女を近づけるなと約束させる。しかし、男はある人の紹介で女と関係してしまう。よくある話だ。それを天女は知る。当然超能力者だからだ。その結末。なんと天女は「これ、年来の物なり」といって、「この法師の年来の淫欲といふ物」すなわち精液を、二桶置いて出て行ってしまう。いやはやなんとも言い難い結末だ。ただ、この僧そんなには不幸にはならなかったとしてこの話は終わっている。
そこに教訓めいた文言はない。よくまとまった話である。ここに説話が一つの短編物語に仕立てられる様を見る事ができる。
こうした説話集は読んでいて面白い物だ。『源氏物語』などは王朝の宮廷で語られ聞かれ読まれた。そしてこうした説話は中世以降やや広がった知識層に好まれ読まれ語られ聞かれたに違いない。それが江戸時代にもっと一般化する小説的な物へと発展する、そう思える。

この項了

『日本古典文学総復習』41『古事談』『続古事談』

『古事談』を読む

今回はこの新日本古典文学体系で最後の配本となった『古事談』を取り上げる。これもまた説話集という事になるだろうか。それにしても大部なものである。もっとも続編も収められてはいるが、九百ページを超えるこの書は到底読了はできないがその概要を記しておく。

この『古事談』は、鎌倉初期の説話集ということになっている。源顕兼という人物の編集による。奈良時代から平安中期に至るまでの実に462の説話を収める。王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6巻からなっていて、巻ごとに年代順で配列されている。文体は漢文が多いが、仮名交じり文もある。これは基にした資料を抜き書きするという方針によるものと思われる。したがって説話集と言うよりは一種の資料集といった趣となっている。という事は先行する文献からの引用が多いが、ほとんどが内容によらず客観的に収集する方針らしく、天皇を始めとする貴人に関してもその方針が変わらない。そういう意味でも一級の資料となっている。いわゆる正史とは違った人間性あふれる王朝史を見る事ができる。これまで見てきた仏教説話集とは違うわけである。

ではその一例を示しておく。

  (一 – 一七、一七)
 花山院御即位の日、馬内侍褰帳の命婦と為りて進み参る間、天皇高御座の内に引き入れしめ給ひて、忽ち以て配偶す、と云々。

ここで言う「配偶」とは「性交」のことだが、花山天皇が即位の時、馬内侍(当然女性)を御簾の内にいきなり引き込んで「やって」しまったという話。なんてことでしょう。

次はあの『枕草子』の作者、清少納言の晩年の話。

  (二 – 五五、一五四(庫一五五)
 清少納言、零落の後、若殿上人あまた同車して彼の宅の前を渡る間、宅の躰破壊したるをみて、「少納言は無下にこそ成りにけれ」と、車中に云ふを聞きて、本自桟敷に立ちたりけるが、簾を掻き揚げて、鬼の如くなる形の女法師、顔を指し出だす、と云々。「駿馬の骨をば買はずやありし」と云々。

清少納言の零落譚はこの他にも色々とあったようだ。

大部の書だけにこれだけでは物足りないが、ここらへんにしておくしかない。ただ、資料集として座右に置いておくべき書だ。

この項了

『日本古典文学総復習』40『宝物集』『閑居の友』『比良山古人霊託』

再び説話集。
平安時代が終わりにさしかからると時代は混乱の時代に突入する。この混乱はそれまでの貴族文化の担い手たちに大きな変化を余儀なくさせる事となる。すでにこれは『今昔物語集』に見てきた。また和歌の世界にも大きな変化をもたらしてきた。先に見た『方丈記』や『徒然草』もその表れだ。では仏教はどう変質したのか?ここで取り上げる『宝物集』『閑居の友』はこの時期の仏教説話集である。古典としてあまり馴染みのないこれらの作品はどのような内容を持っているのだろうか。その概要を見て行きたい。

『宝物集』を読む

『宝物集』は仏教説話集という事になっているが、これまで見た説話集とは趣を事にしている。断片的な説話を収集したというより、一つの物語の構成を取っている。
鬼界が島から京へ一人の男が戻って来る。そして釈迦堂に参詣する。
日中の釈迦堂。寺僧が本尊前で大勢の参詣者を相手に釈迦像渡来の由来を語る。
深夜の釈迦堂。数名の参詣者が「宝物」とは何かを論じあう。また法師が仏道とは何かを語る。
このような構成になっている。
内容は要するに物質的なものより精神的なものが何よりの「宝物」であり、現世的な苦悩から脱して仏道に精進して仏となるまでの道を歩むことこそ大事だするところにある。
ただ、こうした論を様々な傍証をもって説いているところにこの作品の特徴がある。多くの和歌が引用されていることが注目される。例えば以下だ。

 第六に、愛別離苦と申は、わかれをおしむを申侍るなり。これもあさきよりふかく申すべきなり。云々

 
として

   凡河内躬恒
 けふのみと春をおもはぬ時だにも立ことやすき花のかげかは

 
という歌以下五首の和歌を引用し、さらに夏を惜しむ歌五首を引用、さらには秋のわかれとして同様に歌五首を引用と和歌の引用が続き、この章だけでも実に百首以上の歌が引用されている。
和歌はこれまでの王朝文化の中心的な存在だ、その多くを引用し、それを仏教的な教義に結び付けているところに特徴がある。この「愛別離苦」は人間にとって最も感情を吐露しやすいテーマだから、古来多くの歌に詠まれてきたのは当然だ。しかしそれは本来仏教では「四苦八苦」の一つとして越えなければならないものだ。それを超えるのが仏の道に精進することだとするのである。
この『宝物集』はこうした意味でも未だ王朝文化の枠内にとどまったもののようだ。

『閑居の友』を読む

『閑居の友』は、慶政という人物の作とされる仮名文で書かれた鎌倉初期の仏教説話集である。2巻32話からなっている。各地の無名の人や、女性を主人公にとった説話が多く、その人物たちが発心、すなわち仏の道に入ることを紹介している。後の『発心集』の先駆的な作品だ。当時既成の仏教は世俗的な権力闘争に明け暮れ、本来の人々の救済という意味を失い、人々は浄土宗的な新興仏教に惹かれ始めた時代だ。そんな中この慶政という人物は既成仏教の中にあって真の救済装置としての仏教を問い直したかったのかもしれない。『閑居の友』という題名とは裏腹にそこに集められた説話の内容は厳しいものとなっている。その一端を以下の話に見ることができる。ちょと長いが引用する。

 下巻 九 宮腹の女房の、不浄の姿を見する事
 昔、某の僧都とて、尊き人、ある宮腹の女房に、心ざしを移す事ありけり。思ひかねてや侍りけん、うち口説き、心の底を表はしければ、この女、とばかりためらひて、「なじかは、さまでに煩ひ給ふべき。里にまかり出でたらんに、必ず案内し侍らむ」といひけり。この人、ただおほかたの情かとは思へども、さすがまた、昔には似ずなん思ひ居りける。
 かかるに、いくほどもあらで、「このほどまかり出でたる事侍。今宵はこれに侍べし」といひたり。さるべきやうに、出で立ちて行きぬ。この人出で会ひて、「仰せの揺るぎなく重ければ、まかり出でて侍。ただし、この身のありさま、臭く穢らはしき事、譬へていはんかたなし。頭の中には脳髄間なく湛へたり。膚の中に、肉・骨を纏へり。すべて、血流れ、膿汁垂りて、一も近付くべき事なし。しかあるを、さまざまの外の匂ひを傭ひて、いささかその身を飾りて侍れば、何となく心にくきさまに侍るにこそありけれ。そのまことのありさまを見給はば、定めてけうとく、恐ろしくこそおぼしなり給はめ。このよしをも細かに口説き申さむとて、『里へ』とは申し侍りしなり」とて、「人やある。火を灯して参れ」といひければ、切灯台に火いと明く灯して来たり。
 さて、引き物を上げつつ、「かくなん侍るを、いかでか御覧じ忍び給ふべき」とて出でたりけり。髪はそそけ上がりて、鬼などのやうにて、あてやかなりし顔も、青く、黄に変はりて、足などもその色ともなく、いぶせき汚くて、血ところどころ付きたる衣のあり香、まことに臭く、耐へがたきさまにて、さし出でてさめざめと泣きて、「日ごとに繕ひ侍るわざを止めて、ただ我が身の成り行くにまかせて侍れば、姿も着る物もかくなん侍るにはあらずや。そこは、仏道近き御身なれば、偽りの色を見せ奉らむも、かたがた畏れも侍りぬべければ、かやうにうちとけ侍りぬるなり」と、かき口説きいひけり。
 この人、つゆ物いふことなし。さめざめと泣きて、「いみじき友に逢ひ奉りて、心をなん改め侍りぬる」とて、車に急ぎ乗りて、返りにけりとなん。
 まことにいみじく賢く侍りける女の心なりけり。今の世にも、さほどおどろおどろしきまでこそなけれども、捨つとなれば、人の身はあらぬ物になり侍るにこそ。かの水の面に影を見て、身をいたづらになし果てけん、さこそは廃れけん顔立ては悲しく侍りけめ。小野小町がことを書き記せるものを見れば、姿も着る物も、目を恥ぢしめ侍るぞかし。まして、いたう顔も良からぬ人の、成り行くにまかせて侍らんは、などてかはこの女房の偽りの姿に異なるべき。いはんや、息止まり、身冷えて、夜を重ね、日を送らん時をや、いかにいはんや、膚ひはれ、膿汁流れて、筋とけ、肉とくる時をや。まことに、心を静めてのどかに思ふべし。

 
要約すれば、僧都が女房に惚れ密会する事になったが、女房はひどく醜い状態を僧都に見せ、改心させるという話。それにしてもこの女房、どうやってそれほどの醜さを演出したのかわからないが、作者は「まことにいみじく賢く侍りける女の心なりけり」とこの女を評価する。この女房だけではない、どんな人間もひと皮剥けば、みな醜いものなのだ。まして肉体が滅んでしまえばなおさらだと言っている。生を醜いものだとする考え方は現在ではあまり受け入れられないだろう。しかしこの時代には日常的に目にすることがあったのかもしれない。それほど荒れていた時代だからこそ仏教がそして浄土が望まれたのは確かかもしれない。

もう一つこの巻には作品がある。『比良山古人霊託』という小冊子だ。
『閑居の友』の作者慶政が法性寺という寺にいる間、二十一歳の女房に霊が憑いた。この霊が比良山の大天狗と告げ、鎌足以前の摂関家の祖と称する。その天狗との問答の記録がこの書である。この大天狗は反仏教的なものを象徴しているのだろう。もっと言えば土俗的なものの象徴とも言える。つまりは土俗的なものと仏教的な考え方の問答という事になる。しかもこの天狗の世界について詳細な叙述がある。こうした文書は当時の社会のあり方を知る上でも貴重なものと言えるし、当時の仏教が抱えていた問題を知る事もできる。

この項了

『日本古典文学総復習』39『方丈記』『徒然草』

『方丈記』『徒然草』を読む

この二つのいわゆる随筆は日本古典文学の中で最も親しまれている作品だ。この新日本古典文学体系でも初回の配本になっている。高等学校の古典教材でこの作品を取らない教科書はない。従って多くの人々はこの二つの作品に触れているはずだ。ただ、この二つの作品の内容は若い高校生にとってはいかにも年寄りじみている感がないでもない。二つともいわゆる「世捨て人」の感慨を述べたものと思われているからだ。確かにこの二つの古典は日本文学の一つの主流を成す「隠者の文学」の双璧の作品として古来読まれてきた。ただ、果たしてこの二つの古典をそうしたくくりだけで済ませていいものだろうか。そんな考えから皆に親しまれてきたこの二つの作品を読み直してみた。
『方丈記』の冒頭はあまりに有名だ。

ユク河ノナガレハ、絶エズシテ、シカモモトノ水ニアラズ。澱ニ浮カブウタカタハ、カツ消エカツ結ビテ、ヒサシク留マリタルタメシナシ。世中ニアルヒトト栖ト、又カクノゴトシ。云々

ここに「無常感」を読み取ることはできる。
また、『徒然草』にもこんな言葉がある。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちも去らでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。

世は無常だからこそ「物のあはれ」があるのだと。
当時にあっては物を書く人間にはこうした「無常感」を述べるのが一種のブームだったのかもしれない。平家物語の冒頭部分を思い起こせばそこにもそんな言葉がある。貴族社会が崩壊し、混乱した世情の中で物を書く人間は崩壊した貴族の側にいたからだ。『方丈記』と『徒然草』では時代が異なるが、両者の作者はいわば貴族社会の末端にいた知識人である。『方丈記』の作者鴨長明は歌人としてまた管弦の奏者として名を馳せたかった人物だ。『徒然草』の作者も同じ神官の出で歌人でもあり、学僧として名を挙げようとした人物だ。二人とも現実に受けいられない焦りを若い頃には持っていただろう。そんな人物にとって仏教に発するこうした言葉は思わず吐きたくなるものだったにちがいない。
しかし、この二つの書はけっして「無常感」だけを述べた物ではない気がする。
『方丈記』はこの冒頭の言葉の後、当時京都に起きたいろいろな現実を叙述していく。

予、モノノ心ヲ知レリシヨリ、四十アマリノ春秋ヲ送レルアヒダニ、世ノ不思議ヲ見ル事、ヤヤタビタビニナリヌ。

として、先づは大極殿まで消失してしまった「大火」が叙述される。その後も「辻風」、「遷都」、「飢饉」、「大地震」といった自然災害や人為災害といった物を書いてゆく。もちろんこれは「無常感」の例証としての意味もあるには違いない。しかし、その叙述が極めて詳細かつ正確なのだ。いわば現代で言えば「ルポルタージュ」を思わせる。こうした叙述はかつての平安朝文学にはけっしてなかったし、その後の説話にもなかった気がする。鴨長明には事実を事実として認識する力があったし、その「無常感」とは裏腹に事実に対する「興味」というか、好奇心は旺盛であったと言える気がする。
『徒然草』の作者卜部兼好にはもっと旺盛な好奇心があったし、現実主義的な思考が見て取れる。
長いが第五十段を読んでみてほしい。

 応長の比、伊勢の国より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふことありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京白河の人、「鬼見に」とて出でまどふ。
「昨日は西園寺にまいりたりし」「今日は院へまいるべし」「只今はそこそこに」など言へど、「まさしく見たり」と言ふ人もなく、「そらごとなり」と言ふ人もなし。上下、ただ鬼の事のみ言ひやまず。
その頃、東山より安居院辺へまかり侍しに、四条より上さまの人、みな北をさして走る。「一条室町に鬼あり」とのゝしりあへり。今出河辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、さらに通りうべくもあらず、立ち込みたり。「はやく、跡なきことにはあらざめり」とて、人をやりて見するに、大方逢へる物なし。暮るゝまで立ち騒ぎて、はては闘諍起こりて、あさましきことどもありけり。
その比、をしなべて、二三日人の煩ふことの侍しをぞ、かの鬼のそら事は此しるしを示すなりけりと言ふ人も侍し。

これも京都で起きた事件のルポルタージュではないか。また以下の段も読んでほしい。(百十七段)

 友とするに悪き者、七あり。一には、高くやむごとなき人。二には、若き人。三に、病なく身強き人、四には、酒を好人。五には、猛く勇める兵。六には、空言する人。七には、欲深き人。
よき友、三あり。一には、物くるゝ友。二には医師。三には、智恵ある友。

どうですこの考え。
両書とも今での繰り返し読める古典です。

この項了

『日本古典文学総復習』38『六百番歌合』

『六百番歌合』を読む

再びここで和歌文学に戻る。和歌はすでに新古今まで読んできた。新古今はすでに中世に入ってからの勅撰集だから和歌については中世まで見てきた事になるが、ここでもう一度、中世に入るところに位置する和歌文学の有り様を見る事になる。
平安末から鎌倉へかけての時代は世の中が大きく変動した時代である。貴族的なものから武士的なものへ、都すなわち中央から地方の時代へ、もっと言うなら西日本から東日本への時代へと大きく変化した時代だ。そんな時代のうねりの文学的表現の一つを前に見た『今昔物語集』に見る事ができるが、そんな中王朝的な和歌はどう変質したのだろうか。それを端的に見る事ができるのが、この『六百番歌合』だ。

そもそも「歌合」とはどんなものだろうか。
この「〜合」という語は源氏物語等によく出てくる。「絵合」「貝合」などである。これは2種の同様なものを並べて、その優劣を競う遊びを言ったようだ。この「歌合」も同様な題材を詠った和歌を二つ並べ、その優劣を競う遊びであった。ただ、遊びといっても歌の優劣となるとその判断は難しい。当然和歌に通じた者がしなければならない。もちろん世俗的な権威ある者が判定すれば文句は出ないといった事はあったろう。しかし、和歌が専門的な歌人たちによって作られ、その優劣がいわば職業的な色彩を帯びてくるとそう簡単には言えなくなる。そこに遊びを超えたものが当然出てくる訳である。

その大規模な「歌合」の記録がこの『六百番歌合』である。
この『六百番歌合』は当時「左大将家百首歌合」と呼ばれたもので、鎌倉時代の建久4年(1193年)に藤原良経という人物によって主催され、歌題として春15・夏10・秋15・冬10・恋50の計百題が出され、歌人12名がそれに応じ、当時の和歌の大家、藤原俊成が判定を下した大規模な「歌合」である。
100題12名計1200首の歌が収められているが、歌人が6名づつ左右に分かれていて600の組み合わせとなっている。歌題も厳密で例えば恋50題にしても、すべて「初恋」から「寄商人恋」まで50題決まっている。

ではその具体例を見てみよう。冬の部から。

十三番 枯野
 左勝 女房
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
 右  隆信
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ

右方申云、「草の原」、聞きよからず。左方申云、右歌、古めかし。
判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人「草の原」難申之条、尤うたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左歌、宜、勝と申すべし。

これは判詞の「源氏見ざる歌詠みは遺恨事也」で有名になった部分。左の女房というのは後鳥羽院のことのようだが、こちらの歌を「勝ち」としている。右方は左の歌の「草の原」を墓所を連想させて良くないと言い、それに対して左方は右の歌を古めかしいと避難している。それに対し、判定者の俊成が左の歌は源氏物語に典拠があり、そこに良さがあるとしていて、この言となるという訳だ。

こうした例が実に600もあるのだから大変だ。

もう一つ例を引いておこう。これは俊成の子定家の歌。恋の部から。

廿三番 
 左持 定家朝臣
堪ふまじき明日より後の心かな馴れて悲しき思ひ添ひなば
 右  信定
逢見てはまづと思し言の葉に心の露のなを思きかな

右申云、左歌、初五字、いかにぞ聞ゆ。左申云、右歌、「心の露」おぼつかなし。
判云、左歌、「馴れて悲しき」といへる、先に、「恋のかぎりは今夜なりけり」と侍つる歌に、ことの外に相違にも侍るかな。右歌、「心の露」「猶重し」といへる、おかしくは侍を、「逢見てはまづと思し言の葉」や、少しおぼつかなく侍らん。左、「堪ふまじき」と置ける五字、いかにぞ聞え侍。猶、又、持と申べき哉。

この「左持」とあるのは、引き分けという意味のようだ。どちらにも軍配はあげられないということだろう。要するにどちらにもはっきりしない言い方があってよくないとしているようだ。

このように判断を保留する判定もあるが、一応は両者の言い分を聞いた上で判定しているところが面白い。ここには和歌を巡って歌人たちの間に主導権争いがあった事もうかがえる。一般に歌壇史上、過去の栄光を持つ六条藤家一派と、定家を中心とする御子左家一派のニューウェーブとの対決の場となったと言われている。それが具体的に何を意味するのかはわからないが、和歌をめぐるこうした対立や論争は否が応でも歌論の発達を促し、さらには言語学的な思考ももたらしていったことは間違いなさそうだ。文学に優劣をつける事は元々困難なはずだが、優劣を論じる事自体がいわば文学論の発達を促したとも言える。
また、和歌が貴族たちの日常的な道具といった意味や、日々の感傷を書き留めるといった意味から大きく逸脱して一つの体系的な学問と言ったものに変質してしまっている様を見る事ができる。しかもそれが世俗的なものと微妙に絡まって、没落していく貴族たちの最後の砦のようなものになっていった様もうかがえる気がする。ここに挙げられている600組の歌がそれぞれどう優れているか、いないかはよくわからない。またそれを判定する事にどんな意味があるのかもわからない。しかし、こうした事に心血を注いで行っていた事だけは伝わって来る。そして平安の伝統に依拠するあり方は滅び行く者の姿でしかない気がする。

この項了

『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』3

『今昔物語集』を読む3

今回は『今昔物語集』について、第3弾。いよいよ本朝世俗部について。
ここはこれまで多くの人たちが取り上げてきた部分だ。有名なのは芥川龍之介。幾つかこの部分を題材に小説を書いている。いわば文壇デビュー作の『鼻』もその一つだ。また、黒澤明の映画「羅生門」も幾つかの説話を利用している。なぜにこんなに近代の文人たちをこの部分は引き付けるのだろうか。これについては加藤周一氏がその『日本文学史序説』のなかで面白い事を言っている。

『今昔物語』の偉大さは、現にあるものを直視して描き切ったということにだけあるのではない。やがて来たるべきものさえも、見抜いていたということにある。

すなわちこの『今昔物語集』が仏教説話集という体裁をとりながら、その狙いとは裏腹に多くの民間伝承をそのまま採録し、そこに何の注釈も付けずに語る筆法によって、人間の持つ本性を描き切っているということだ。そしてそれが近代に至っても文人たちを刺激したという事だろう。

さて、そんな『今昔物語集』世俗部から幾つかの話に注目してみたい。それは女性が登場する話だ。平安時代はいわば女性の時代であった。それは宮中での女房を中心とするいわゆる平安女流文学の隆盛として語られる事が多い。しかしこの物語集に登場する女性たちはまったくそれらとは違っている。なんとも力強い、生きるためのはなんでもするといったたくましい女性たちだ。

巻二十九第三
不被知人女盗人語第三

これは芥川龍之介が『偸盗』という作品で題材にした話である。女盗賊の話だ。この女盗賊美貌の持ち主で、ある時声をかけた男をその色香で虜にし、盗賊の手下にしてしまうと言う話。この女しばらくは男に豪華な食事を与え、男のいいなりに体を許す。しかししばらくするとこの女大変なサディストぶりを発揮する。男装で現れ、男を縛りムチで叩き、いたぶる。ただ、この男マゾだった。この仕打ちにむしろ快感を覚え、ますますこの女の虜になってゆく。男はこの女が盗賊の首領であった事は最後まで知らかったが、盗賊の一味としてなんとなく働かされていたのだから不思議だ。こんな女性も平安時代にいたのである。現代だったら不思議でもなんでもない、B級映画に出て来そうな話だ。作者は最後に一言。

此レ世ノ稀有ノ事ナレバ、此ク語リ伝ヘタルトヤ。

巻二十九第十六
或所女房、以盗為業被見顕語第十六

実はこの話、表題だけあった本文がない。ただ、後の『古今著聞集』という説話集に上臈女房が盗賊団の首領であったことが露見して逮捕された話が載っていて、これも同様な話だと想像できる。表題を書き下せば、「或る所の女房、盗みを以って業となし、見顕さるること」となり、つまりは「ある女官が実は盗賊の首領で、それが露見して逮捕された話」となる。『源氏物語』や『枕草子』に登場する女房のひとりが影の仕事が盗賊団の首領だなんて想像できないが、これも影の世界に対する想像は今日でも格好の話題であることには変わりない。しかし、こういう女性も平安時代に存在したと言うのは鎌倉時代への入り口を感じさせる。鎌倉時代には盗賊ではないが、男勝りに活躍する例えば巴御前といった人物も堂々と登場するからだ。

また、兄の相撲取りに負けず劣らずの怪力の持ち主の妹の話があったり、当代きってのプレイボーイの貴族の男を冷たくあしらい続ける氷のように冷たい女の話があったり、浮気な夫を変装して誘いやり込める妻の話、助平な医者をたぶらかして恥ずかしい部分の病気を治させてしまう上臈の話などいろいろ女性が活躍する話がある。実にこの『今昔物語集』はたくましい当時の女性たちの話がいっぱいある。しかもそれは身分の上下を問わず採録されていて、余計な教訓やコメントが記されていない為事実であったように思える。いつか「『今昔物語集』の女たち」といったテーマで書きたくなるほど豊かな世界だ。

もちろん女性以外にもいろいろな人物が登場し、多くの地方の話が取られている。しかし、あまりこだわっていると先に進まないのでここらにしておくが、是非こうした所からもこの『今昔物語集』を紐解いてもらいたい。ただ、原文は読みにくいので以下の作品がオススメだ。ほんの一部の話しか載っていないが、うまく編集されている。小生も大いに参考にしたので、紹介しておく。Kindle版もあって読みやすい。

『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 今昔物語集』 角川書店=編

この項了

『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』2

『今昔物語集』を読む2

今回は『今昔物語集』のうちの天竺部と震旦部および本朝部の仏法部分から話を紹介する。

天竺部は釈迦の来歴を語った部分がほとんどだ。そのうち釈迦の入滅すなわち臨終の話が興味深い。
巻第三第三十話
「仏、入涅槃給時、遇羅睺羅語第(三十)」
と題されている話だ。
羅睺羅とは「らごら」と読み、釈迦のひとり子とされている人物。この息子、釈迦が臨終の折、悲しみに耐えないからと思って別世界に行ってしまった。しかし、その世界の仏が「きっと父は臨終に際して息子であるあなたに会いたがっているはずだから戻りなさい。」と羅睺羅に諭す。その言に従って戻った羅睺羅を釈迦は「待っていたよ」と迎える。その最後の親子の別れの部分。

羅睺羅涙ニ溺レテ参リタルニ、仏羅睺羅ノ手ヲ捕ヘ給テ宣ハク、「此ノ羅睺羅は此レ我ガ子也。十方ノ仏、此レヲ哀愍シ給へ」ト契リ給テ、滅度シ給ヒヌ。此レ最後ノ言也。

なんと釈迦ともあろう人物が死に際して一人息子の身を案じ、その将来を周りに頼んでいる。親子の情愛は仏教徒にとっては捨てなければならない煩悩の一つであるはずなのにだ。筆者はこう結んでいる。

然レバ此レヲ以テ思フニ、清浄ノ身ニ在マス仏ソラ、父子ノ間ハ他ノ御弟子等ニハ異也。何況ヤ、五濁悪世ノ衆生ノ、子ノ思ヒニ迷ハムハ理也カシ。仏モ其レヲ表シ給フニコソハトナム語リ伝ヘタルトヤ。

仏すらこのようなのだから、当たり前の人たちが子を思って迷うのは当然だと。こうした話を読むと仏教がいかに人間の心情の即した宗教であるかがわかる気がする。
(本文は筆者が電子化したものである。以下同)

さて、今度は震旦部にある話。震旦部は中国に仏教が渡った経緯とその定着を語った話が多いが、後半に仏教以外の話がある。古代中国といえば孔子というイメージが強いのだが、少ないがここにも幾つか孔子の話がある。
巻第十第十話
「孔子逍遥、値栄啓期聞語第十」
と題されている話を読む。
ある時孔子が弟子たちと散歩をし、途中琴を弾いて弟子たちに聞かせ、文章を読ませていた。その時海から一人の老人がやってきて、孔子の琴を弾き終わるののを聞いて、弟子を招いて訪ねた。

「此ノ琴弾キ給フ人ハ誰ゾ、国ノ王カ」ト。

弟子が違うと答えると、さらに「国ノ大臣カ」「国ノ司カ」と聞いてくる。いずれも違うと答えると、「然ラバ何人ゾ」と聞く、そこで弟子は以下のように答える。

「只、国ノ賢キ人トシテ公の庁ヲ直シ、悪キ事ヲ止メ、善キ事(欠字:「ヲ勧メ給フ」か)人也」ト。

ところがこの老人、この語を聞いて、あざ笑って言うには

「此レ、極タル嗚呼人也」ト

つまりなんて馬鹿な人だと。そう言って去ってしまった。
弟子がこの話を孔子にすると、孔子は

「其レハ、極タル賢キ人ニコソ有ナレ。速ニ可呼還シ」ト。

そういうので弟子がこの老人を呼び戻して孔子と対面する事となる。今度は孔子が老人に「君、何人ゾ」と聞く。すると老人は

「我レ、何人ニモ無シ。只、船ニ乗テ心ヲ行サムガ為ニ、罷リ行ク翁也。」

すなわち「わしは気晴らしで船に乗っているただの老人だよ」と答える。さらには孔子がやろうとしている事は愚かな事だと言う。影から逃れようとして晴れに身を置こうとするが、影はいつまでもついてくるようなもの。いっそ影の中に静かに留まれば影は自ずから離れていくものだと。

「只、可然キ所ニ居所ヲ示テ、静ニ一生ヲ被送ラレム、此レ、此ノ生ノ望也。而ルニ、其ノ事不思ズシテ、心ヲ世々ニ染メテ被騒ルゝ事、極テ墓無キ事也。」

すなわちあるがままに静かに一生を送る事こそ大事だと。そう言って孔子の答えも聞かずに船に乗って帰ってしまった。
孔子はいつまでもこの老人の船を見送り礼をし続けたという。

此ノ翁ノ名ヲバ栄啓期トナム云ヒケルト人ノ語リ伝へタルトヤ。

という語でこの話は結ばれている。
この話は後にも『宇治拾遺物語』にもほとんど同じ形で取られていて、有名であったようだ。ここに儒教的な積極性の否定を見るのは大袈裟だろうが、いかにも日本人好みの話のように思える。これが仏教説話集に取られているのもうなづける気がする。

今度は本朝すなわち日本の若き僧のお話。
巻第十七第三十三
「比叡山僧、依虚空蔵助得智語第三十三」
ちょっと長い話なので概略のみ記す。
あまり出来のよくない青年僧がある夜ある屋敷に一泊することになる。そこで女主人の美人の姿を目撃する。女好きのこの青年僧、むらむらとして夜這いをして思いを遂げようとする。が、この美人なかなかで、「もうちょっと学問してくれば思い通りになるわ」といって宥める。この青年僧、真面目にこの言葉を信じて学問に励む。ただただこの美人をものにしたい一心からだ。しかもこの美人、青年僧に具体的な目標を示す。まずは法華経を暗唱できるようになったらまた来なさいと言う。
その通り頑張り、再び訪れると今度は公然と関係したいので、もっと学問をして出世しなさいと言う。これまたこの言を信じ青年僧は三年間学問に励み、山門中で一番の学僧になる。そこで尋ねると今度は色々と質問攻めにあう。しかし、全て完璧な答えをする。この美人、やたらに仏法に詳しいのでおかしいなと思うが、いよいよ思いを遂げる時が来た。彼女も今度は拒まない。腕を回し、横になっていると彼は眠ってしまう。目がさめるとなんとそこはススキの生い茂る野原だった。
しかし、そこは実は法輪寺だった。この青年僧はお堂には入り、仏前にひれ伏しているとまた寝入ってしまい夢を見たという。その夢の中で小僧が現れて実は遊び好きのお前にどうしたら学問させるかと思い、その女好きを利用してやったのだという。この言葉を聞いて夢から覚めたというお話だ。

然レバ、彼ノ僧ノ好ム方ニ女ト成テ、学問ヲ勧メ給ヘル也。経ノ文ニ違フ事無ケレバ、貴ク悲キ也。彼ノ僧ノ正シク語リ伝ヘタルトヤ。

と結ばれている。
しかし、人間こうした欲望に基づく目標があると頑張れるものなんですね。特に若い人にとって性的な欲望は僧であっても抑えられないものだろうから、これをうまく利用するのも仏の道というわけでしょうか。なんとなくほのぼのとした話に思えます。

この項了

『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』1

『今昔物語集』を読む1

『今昔物語集』は源氏物語ほどではないが、それなりに人口に膾炙した古典と言える。ただ、それは後半の日本の説話についてだ。近代の作家、特に芥川龍之介の作品、およびそれに基づいた黒澤明の映画作品の題材になったところから有名になった。しかし、この『今昔物語集』はかなり大部の作品だ。この古典大系でも『源氏物語』『続日本紀』と同じ五巻構成になっている。先ずはその構成を以下に示す。数字は話の数だ。

『今昔物語集』一

天竺部
仏教の本家インドの仏教説話が収まっている。
巻第一 天竺(釈迦降誕と神話化された生涯)38
巻第二 天竺(釈迦を説いた説法)41
巻第三 天竺(釈迦の衆生教化と入滅)35
巻第四 天竺付仏後(釈迦入滅後の仏弟子の活動)41
巻第五 天竺付仏前(釈迦の本生譚・過去世に関わる説話)32

『今昔物語集』二

震旦部
中国に渡った仏教の説話が収まっているが、中国独自の話もあり、孔子、荘子も登場する。
巻第六 震旦付仏法(中国への仏教渡来、流布史)48
巻第七 震旦付仏法(大般若経、法華経の功徳、霊験譚)48
巻第八 欠巻
巻第九 震旦付孝養(孝子譚)46
巻第十 震旦付国史(中国の史書、小説に見られる奇異譚)40

『今昔物語集』三

本朝部
ここからは本朝すなわち日本に渡った仏教説話が収まる。
巻第十一 本朝付仏法(日本への仏教渡来、流布史)38
巻第十二 本朝付仏法(法会の縁起と功徳)40
巻第十三 本朝付仏法(法華経読誦の功徳)44
巻第十四 本朝付仏法(法華経の霊験譚)45
巻第十五 本朝付仏法(僧侶の往生譚)54
巻第十六 本朝付仏法(観世音菩薩の霊験譚)40

『今昔物語集』四

前巻からの続きと本朝世俗部が収まる。
巻第十七 本朝付仏法(地蔵菩薩の霊験譚)50
巻第十八 欠巻
巻第十九 本朝付仏法(俗人の出家往生、奇異譚)44
巻第二十 本朝付仏法(天狗、冥界の往還、因果応報)46
(ここから本朝世俗部)
巻第二十一 欠巻
巻第二十二 本朝(藤原氏の列伝)8
巻第二十三 本朝(強力譚)26
巻第二十四 本朝付世俗(芸能譚)57
巻第二十五 本朝付世俗(合戦、武勇譚)14

『今昔物語集』五

前巻からの続きの本朝世俗部が収まる。ここが一番面白いところか。
巻第二十六 本朝付宿報(宿報譚)24
巻第二十七 本朝付霊鬼(変化、怪異譚)45
巻第二十八 本朝付世俗(滑稽譚)44
巻第二十九 本朝付悪行(盗賊譚、動物譚)40
巻第三十 本朝付雑事(歌物語、恋愛譚)14
巻第三十一 本朝付雑事(奇異、怪異譚の追加拾遺)37

こうみると、いかにこの『今昔物語集』が仏教的な話を集めた書であるかがわかる。(人口に膾炙したのは最後の「本朝世俗部」の部分のみだと言っていい。)つまりこの『今昔物語集』は、仏教が天竺すなわちインドで発生し、震旦すなわち中国に渡り、本朝すなわち日本に渡ってきて定着したプロセスを跡付ける形で書かれているのだ。
では、一体誰が何のために誰に向かってこの書を編纂したのだろうか?
編者については不明なので、なんとも言えないがやはり仏教徒には違いないだろう。何のためにということだが、この書以前にもこれまで見てきた『日本霊異記』や『三宝絵』などの多くの仏教説話があり、布教を行う資料としてそれらを集大成したいという意思からとしか考えられない。では誰のためにということだが、こうした変体漢文の書を読める層は限られているからやはり寺院の僧たちに向かってということになると思う。(もちろん僧だけでなく、当時の知識層も含まれるだろうが。)
ただ、そうした仏教的な布教の道具という意図に反してその内容と筆致が極めて特徴的である。つまり、すべての話が仏教の霊験や「ご利益」に結びつけられているとは限らず、その筆致も極めて客観的である点だ。これは日本の説話を集める中で元々は仏教とはそれほど関係のない話が当然混ざってきたことによるのだろう。この書の筆者の客観的な姿勢が、それをそのまま伝える形になったとも言える。特に「本朝世俗部」の部分にそれが見られ、ここが日本の土着的な思想を伝えることになっている。
つまり、この『今昔物語集』はあくまで仏教説話集だが、そこに日本的なというか土着的な思想も読み取れる書と成っていると言うことだと思う。
この後、実際の幾つかの説話を見ていくことにする。

この項了

木馬の完成

だいぶたってしまったが、木工の師匠から孫のために贈ってくれた木馬。ほとんどできている状態でいただいた。ごらんの通り何種類もの名木が使われている。やっと完成したのでその報告。

仮組の状態。

分解したパーツ。ここまで加工するのはほんと大変。師匠だからなってことないか。小生は滑らかに削ったりしただけ。

胴体部分などを接着して、もう一度締めて一晩置き、また解体して削って整え、再び組み立てる。

持ち手と鐙をつける。これはネジで締める形。


鞍の部分は柔らかいヒバを使っている。ここも滑らかにする。

脚の部分等をしっかりボルト締めして、ダボを埋めて一応完成。

最後にオイルがけして完成。

ほんと師匠ありがとうございました。

『日本古典文学総復習』32 『江談抄』『中外抄』『富家語』

『江談抄』を読む

ここでもまた漢文が登場する。
『江談抄』は、院政期の説話集とされている変体漢文の書だ。しかしこれは大江匡房という人物が語った話を記録した聞書集で、その内容も漢詩文・公事・音楽など多方面にわたっていて雑然としたものであったらしい。ただ後に多少の改編・加筆があり、説話集としての体裁が整えられたようだ。この大系本は後の本が採用されていて内容によって六部に分けられている。以下だ。
第一 「公の事」「摂関家の事」「仏神の事」 全四十九話
第二 「雑事」 全四十七話
第三 「雑事」 全七十七話
第四 副題なし 全百二十五話
第五 「詩の事」 全七十四話
第六 「長句の事」 全七十三話
こう書くと随分と大部の書のように見えるが、いずれの話も短く、原文はこの大系本で76ページしかない。
さて、談話の主、大江匡房は平安末期の漢学者である。当時の漢学者は貴族社会のおいて独特な位置を占めていたと思われる。漢文が国家にとってのいわば公用語であったため、それに通じている漢学者は国家にとって極めて重要な人物であったはずだ。しかし、その社会的地位すなわち貴族としての官位はそれほど高くはなかった。しかも、『源氏物語』にやや滑稽な人物として描かれている(源氏の子息夕霧のお受験シーンに出てくる)ように、浮世ばなれした学者といったイメージで見られていたようだ。それともう一つ、漢文に通じたものがやや反体制的な要素を持った人物のように見られていたように思われる点だ。古くは管原道真がそうであるが、この書に登場する小野篁などにそのイメージがある。(談話者の大江匡房はけっしてそうではなかったようだが。)
ここで小野篁が登場する談話を紹介しよう。
小野篁は遣唐使の福使に任じられたが大使と争い、職を辞して遣唐使を風刺したために左遷された人物だ。また、和漢の詩文に通じた人物としても知られ、白居易の詩文の最初の受容者の一人と言われる当代きっての漢学者である。しかも多くの伝説を持つ人物で、地獄の閻魔大王の補佐役でもあったとされるいわくつきの人物だ。この人物、この書で度々登場する。以下、第一の3、第三の38・39、第四の5・18・24に登場している。ここでは有名な第三の38・39を読んでみる事にする。
本文

(三八)野篁并高藤卿遇百鬼夜行事
 又云、野篁并高藤卿中納言中将之時、於朱雀門前遇百鬼夜行之時、高藤下自車。夜行鬼神等見高藤称尊勝陀羅尼云々。高藤不知、其衣中乳母籠尊勝陀羅尼之故云々。野篁其時奉為高藤致芳意令遇鬼神云々。

書き下し文

(三八)野篁ならびに高藤卿、百鬼夜行に遇ふ事
 また云はく、「野篁ならびに高藤卿、中納言中将の時、朱雀門の前において百鬼夜行に遇へる時、高藤車より下る。夜行の鬼神ら高藤を見て、「尊勝陀羅尼」と称へりと云々。高藤知らざるも、その衣の中に乳母の尊勝陀羅尼を籠めたる故なりと云々。野篁、その時、高藤の奉為に芳意を致し、鬼神に遇はしむ」と云々。

本文

(三九)野篁為閻魔庁第二冥官事
 其後経五六ヶ日、篁参結政剋限、於陽明門前為高藤卿被切車簾鞦等云々。干時篁左中弁也。即篁参高藤父冬嗣亭、令申子細之間、高藤俄以頓滅云々。篁即以高藤手引発。仍蘇生。高藤下庭拝篁云、不覚俄到閻魔庁。此弁被坐第二冥官云々。仍拝之也云々。

書き下し文

(三九)野篁は閻魔庁の第二の冥官為る事
 「その後五、六ヶ日を経て、篁、結政に参る剋限に、陽明門の前において、高藤卿のために車の簾・鞦などを切らるると云々。時に、篁は左中弁なり。すなはち篁、高藤の父の冬嗣の亭に参りて、子細を申さしむる間、高藤にはかにもつて頓滅すと云々。篁すなはち高藤の手をもつて引き発す。よりて蘇生す。高藤庭に下りて篁を拝して云はく、「覚えずしてにはかに閻魔庁に到る。この弁、第二の冥官に坐せらると云々。よりて拝するなり」と云々。

この二つは一続きの話だが、篁が百鬼夜行に遭遇した事、その時一緒だった高藤卿が数日後頓死したが、蘇ったという話。そして高藤卿が蘇ったのは閻魔庁で篁に救われた為だったという話だ。この話は後に多くの説話集に取られ有名になった。現在でも篁の人気は高い。ちなみにウェブサイトで検索してしてみれば多くのサイトにヒットする。
又、この話以外にも謎解き話の類が幾つかある。嵯峨天皇とのやりとりは有名だ。漢字の読み方の謎解きだ。
それにしても説話集は面白い。

『中外抄』『富家語』を読む

『中外抄』は、同様院政期の聞書集である。話の冒頭に日時と場所が克明に記されているので日記に分類されることもあるようだ。藤原忠実の言談の筆録である。全2巻の小冊子だ。保延3年(1137年)から久安4年(1148年)閏6月までの記事が上巻、同年7月から久寿元年(1154年)までの記事が下巻を成している。原文は漢文というより漢字片仮名平仮名の仮名交じり文で記される。
『富家語』も『中外抄』と同様、藤原忠実の言談の筆録である。ただ、記録者が異なっている。これも小冊子で時代が明記され、細かな話が記録されている。文体も『中外抄』と同様だ。しかし、『中外抄』と異なり、談話の時期は明記されていない。内容は概して保元の乱に連座して船岡山山麓の知足院に幽閉されていた忠実晩年の言談とされている。
いずれも説話集というより、有職故実・公事を中心とする題材の記録である。ただ、こうした記録が後世の説話集に材料を提供したため、説話に分類されることもあるようだ。
ここで注目していいのはその文体、というよりその表記についてだ。平安時代になって和文が和歌や女房日記を中心に発展してきた。一方漢文は貴族の男性が使う公式な文章であった。しかし、その漢文が日本語化つまり和文的になっていったプロセスを示しているように思われる。やがてこれが中世に至って和漢混淆文へと発展し、現代の文章へと展開していく。その姿をこの院政期の説話集に見る事が出来る。
次は説話文学の達成点『今昔物語集』全5巻が待っている。

この項了