『日本古典文学総復習』39『方丈記』『徒然草』

『方丈記』『徒然草』を読む

この二つのいわゆる随筆は日本古典文学の中で最も親しまれている作品だ。この新日本古典文学体系でも初回の配本になっている。高等学校の古典教材でこの作品を取らない教科書はない。従って多くの人々はこの二つの作品に触れているはずだ。ただ、この二つの作品の内容は若い高校生にとってはいかにも年寄りじみている感がないでもない。二つともいわゆる「世捨て人」の感慨を述べたものと思われているからだ。確かにこの二つの古典は日本文学の一つの主流を成す「隠者の文学」の双璧の作品として古来読まれてきた。ただ、果たしてこの二つの古典をそうしたくくりだけで済ませていいものだろうか。そんな考えから皆に親しまれてきたこの二つの作品を読み直してみた。
『方丈記』の冒頭はあまりに有名だ。

ユク河ノナガレハ、絶エズシテ、シカモモトノ水ニアラズ。澱ニ浮カブウタカタハ、カツ消エカツ結ビテ、ヒサシク留マリタルタメシナシ。世中ニアルヒトト栖ト、又カクノゴトシ。云々

ここに「無常感」を読み取ることはできる。
また、『徒然草』にもこんな言葉がある。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちも去らでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。

世は無常だからこそ「物のあはれ」があるのだと。
当時にあっては物を書く人間にはこうした「無常感」を述べるのが一種のブームだったのかもしれない。平家物語の冒頭部分を思い起こせばそこにもそんな言葉がある。貴族社会が崩壊し、混乱した世情の中で物を書く人間は崩壊した貴族の側にいたからだ。『方丈記』と『徒然草』では時代が異なるが、両者の作者はいわば貴族社会の末端にいた知識人である。『方丈記』の作者鴨長明は歌人としてまた管弦の奏者として名を馳せたかった人物だ。『徒然草』の作者も同じ神官の出で歌人でもあり、学僧として名を挙げようとした人物だ。二人とも現実に受けいられない焦りを若い頃には持っていただろう。そんな人物にとって仏教に発するこうした言葉は思わず吐きたくなるものだったにちがいない。
しかし、この二つの書はけっして「無常感」だけを述べた物ではない気がする。
『方丈記』はこの冒頭の言葉の後、当時京都に起きたいろいろな現実を叙述していく。

予、モノノ心ヲ知レリシヨリ、四十アマリノ春秋ヲ送レルアヒダニ、世ノ不思議ヲ見ル事、ヤヤタビタビニナリヌ。

として、先づは大極殿まで消失してしまった「大火」が叙述される。その後も「辻風」、「遷都」、「飢饉」、「大地震」といった自然災害や人為災害といった物を書いてゆく。もちろんこれは「無常感」の例証としての意味もあるには違いない。しかし、その叙述が極めて詳細かつ正確なのだ。いわば現代で言えば「ルポルタージュ」を思わせる。こうした叙述はかつての平安朝文学にはけっしてなかったし、その後の説話にもなかった気がする。鴨長明には事実を事実として認識する力があったし、その「無常感」とは裏腹に事実に対する「興味」というか、好奇心は旺盛であったと言える気がする。
『徒然草』の作者卜部兼好にはもっと旺盛な好奇心があったし、現実主義的な思考が見て取れる。
長いが第五十段を読んでみてほしい。

 応長の比、伊勢の国より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふことありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京白河の人、「鬼見に」とて出でまどふ。
「昨日は西園寺にまいりたりし」「今日は院へまいるべし」「只今はそこそこに」など言へど、「まさしく見たり」と言ふ人もなく、「そらごとなり」と言ふ人もなし。上下、ただ鬼の事のみ言ひやまず。
その頃、東山より安居院辺へまかり侍しに、四条より上さまの人、みな北をさして走る。「一条室町に鬼あり」とのゝしりあへり。今出河辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、さらに通りうべくもあらず、立ち込みたり。「はやく、跡なきことにはあらざめり」とて、人をやりて見するに、大方逢へる物なし。暮るゝまで立ち騒ぎて、はては闘諍起こりて、あさましきことどもありけり。
その比、をしなべて、二三日人の煩ふことの侍しをぞ、かの鬼のそら事は此しるしを示すなりけりと言ふ人も侍し。

これも京都で起きた事件のルポルタージュではないか。また以下の段も読んでほしい。(百十七段)

 友とするに悪き者、七あり。一には、高くやむごとなき人。二には、若き人。三に、病なく身強き人、四には、酒を好人。五には、猛く勇める兵。六には、空言する人。七には、欲深き人。
よき友、三あり。一には、物くるゝ友。二には医師。三には、智恵ある友。

どうですこの考え。
両書とも今での繰り返し読める古典です。

この項了

『日本古典文学総復習』38『六百番歌合』

『六百番歌合』を読む

再びここで和歌文学に戻る。和歌はすでに新古今まで読んできた。新古今はすでに中世に入ってからの勅撰集だから和歌については中世まで見てきた事になるが、ここでもう一度、中世に入るところに位置する和歌文学の有り様を見る事になる。
平安末から鎌倉へかけての時代は世の中が大きく変動した時代である。貴族的なものから武士的なものへ、都すなわち中央から地方の時代へ、もっと言うなら西日本から東日本への時代へと大きく変化した時代だ。そんな時代のうねりの文学的表現の一つを前に見た『今昔物語集』に見る事ができるが、そんな中王朝的な和歌はどう変質したのだろうか。それを端的に見る事ができるのが、この『六百番歌合』だ。

そもそも「歌合」とはどんなものだろうか。
この「〜合」という語は源氏物語等によく出てくる。「絵合」「貝合」などである。これは2種の同様なものを並べて、その優劣を競う遊びを言ったようだ。この「歌合」も同様な題材を詠った和歌を二つ並べ、その優劣を競う遊びであった。ただ、遊びといっても歌の優劣となるとその判断は難しい。当然和歌に通じた者がしなければならない。もちろん世俗的な権威ある者が判定すれば文句は出ないといった事はあったろう。しかし、和歌が専門的な歌人たちによって作られ、その優劣がいわば職業的な色彩を帯びてくるとそう簡単には言えなくなる。そこに遊びを超えたものが当然出てくる訳である。

その大規模な「歌合」の記録がこの『六百番歌合』である。
この『六百番歌合』は当時「左大将家百首歌合」と呼ばれたもので、鎌倉時代の建久4年(1193年)に藤原良経という人物によって主催され、歌題として春15・夏10・秋15・冬10・恋50の計百題が出され、歌人12名がそれに応じ、当時の和歌の大家、藤原俊成が判定を下した大規模な「歌合」である。
100題12名計1200首の歌が収められているが、歌人が6名づつ左右に分かれていて600の組み合わせとなっている。歌題も厳密で例えば恋50題にしても、すべて「初恋」から「寄商人恋」まで50題決まっている。

ではその具体例を見てみよう。冬の部から。

十三番 枯野
 左勝 女房
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
 右  隆信
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ

右方申云、「草の原」、聞きよからず。左方申云、右歌、古めかし。
判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人「草の原」難申之条、尤うたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左歌、宜、勝と申すべし。

これは判詞の「源氏見ざる歌詠みは遺恨事也」で有名になった部分。左の女房というのは後鳥羽院のことのようだが、こちらの歌を「勝ち」としている。右方は左の歌の「草の原」を墓所を連想させて良くないと言い、それに対して左方は右の歌を古めかしいと避難している。それに対し、判定者の俊成が左の歌は源氏物語に典拠があり、そこに良さがあるとしていて、この言となるという訳だ。

こうした例が実に600もあるのだから大変だ。

もう一つ例を引いておこう。これは俊成の子定家の歌。恋の部から。

廿三番 
 左持 定家朝臣
堪ふまじき明日より後の心かな馴れて悲しき思ひ添ひなば
 右  信定
逢見てはまづと思し言の葉に心の露のなを思きかな

右申云、左歌、初五字、いかにぞ聞ゆ。左申云、右歌、「心の露」おぼつかなし。
判云、左歌、「馴れて悲しき」といへる、先に、「恋のかぎりは今夜なりけり」と侍つる歌に、ことの外に相違にも侍るかな。右歌、「心の露」「猶重し」といへる、おかしくは侍を、「逢見てはまづと思し言の葉」や、少しおぼつかなく侍らん。左、「堪ふまじき」と置ける五字、いかにぞ聞え侍。猶、又、持と申べき哉。

この「左持」とあるのは、引き分けという意味のようだ。どちらにも軍配はあげられないということだろう。要するにどちらにもはっきりしない言い方があってよくないとしているようだ。

このように判断を保留する判定もあるが、一応は両者の言い分を聞いた上で判定しているところが面白い。ここには和歌を巡って歌人たちの間に主導権争いがあった事もうかがえる。一般に歌壇史上、過去の栄光を持つ六条藤家一派と、定家を中心とする御子左家一派のニューウェーブとの対決の場となったと言われている。それが具体的に何を意味するのかはわからないが、和歌をめぐるこうした対立や論争は否が応でも歌論の発達を促し、さらには言語学的な思考ももたらしていったことは間違いなさそうだ。文学に優劣をつける事は元々困難なはずだが、優劣を論じる事自体がいわば文学論の発達を促したとも言える。
また、和歌が貴族たちの日常的な道具といった意味や、日々の感傷を書き留めるといった意味から大きく逸脱して一つの体系的な学問と言ったものに変質してしまっている様を見る事ができる。しかもそれが世俗的なものと微妙に絡まって、没落していく貴族たちの最後の砦のようなものになっていった様もうかがえる気がする。ここに挙げられている600組の歌がそれぞれどう優れているか、いないかはよくわからない。またそれを判定する事にどんな意味があるのかもわからない。しかし、こうした事に心血を注いで行っていた事だけは伝わって来る。そして平安の伝統に依拠するあり方は滅び行く者の姿でしかない気がする。

この項了

『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』3

『今昔物語集』を読む3

今回は『今昔物語集』について、第3弾。いよいよ本朝世俗部について。
ここはこれまで多くの人たちが取り上げてきた部分だ。有名なのは芥川龍之介。幾つかこの部分を題材に小説を書いている。いわば文壇デビュー作の『鼻』もその一つだ。また、黒澤明の映画「羅生門」も幾つかの説話を利用している。なぜにこんなに近代の文人たちをこの部分は引き付けるのだろうか。これについては加藤周一氏がその『日本文学史序説』のなかで面白い事を言っている。

『今昔物語』の偉大さは、現にあるものを直視して描き切ったということにだけあるのではない。やがて来たるべきものさえも、見抜いていたということにある。

すなわちこの『今昔物語集』が仏教説話集という体裁をとりながら、その狙いとは裏腹に多くの民間伝承をそのまま採録し、そこに何の注釈も付けずに語る筆法によって、人間の持つ本性を描き切っているということだ。そしてそれが近代に至っても文人たちを刺激したという事だろう。

さて、そんな『今昔物語集』世俗部から幾つかの話に注目してみたい。それは女性が登場する話だ。平安時代はいわば女性の時代であった。それは宮中での女房を中心とするいわゆる平安女流文学の隆盛として語られる事が多い。しかしこの物語集に登場する女性たちはまったくそれらとは違っている。なんとも力強い、生きるためのはなんでもするといったたくましい女性たちだ。

巻二十九第三
不被知人女盗人語第三

これは芥川龍之介が『偸盗』という作品で題材にした話である。女盗賊の話だ。この女盗賊美貌の持ち主で、ある時声をかけた男をその色香で虜にし、盗賊の手下にしてしまうと言う話。この女しばらくは男に豪華な食事を与え、男のいいなりに体を許す。しかししばらくするとこの女大変なサディストぶりを発揮する。男装で現れ、男を縛りムチで叩き、いたぶる。ただ、この男マゾだった。この仕打ちにむしろ快感を覚え、ますますこの女の虜になってゆく。男はこの女が盗賊の首領であった事は最後まで知らかったが、盗賊の一味としてなんとなく働かされていたのだから不思議だ。こんな女性も平安時代にいたのである。現代だったら不思議でもなんでもない、B級映画に出て来そうな話だ。作者は最後に一言。

此レ世ノ稀有ノ事ナレバ、此ク語リ伝ヘタルトヤ。

巻二十九第十六
或所女房、以盗為業被見顕語第十六

実はこの話、表題だけあった本文がない。ただ、後の『古今著聞集』という説話集に上臈女房が盗賊団の首領であったことが露見して逮捕された話が載っていて、これも同様な話だと想像できる。表題を書き下せば、「或る所の女房、盗みを以って業となし、見顕さるること」となり、つまりは「ある女官が実は盗賊の首領で、それが露見して逮捕された話」となる。『源氏物語』や『枕草子』に登場する女房のひとりが影の仕事が盗賊団の首領だなんて想像できないが、これも影の世界に対する想像は今日でも格好の話題であることには変わりない。しかし、こういう女性も平安時代に存在したと言うのは鎌倉時代への入り口を感じさせる。鎌倉時代には盗賊ではないが、男勝りに活躍する例えば巴御前といった人物も堂々と登場するからだ。

また、兄の相撲取りに負けず劣らずの怪力の持ち主の妹の話があったり、当代きってのプレイボーイの貴族の男を冷たくあしらい続ける氷のように冷たい女の話があったり、浮気な夫を変装して誘いやり込める妻の話、助平な医者をたぶらかして恥ずかしい部分の病気を治させてしまう上臈の話などいろいろ女性が活躍する話がある。実にこの『今昔物語集』はたくましい当時の女性たちの話がいっぱいある。しかもそれは身分の上下を問わず採録されていて、余計な教訓やコメントが記されていない為事実であったように思える。いつか「『今昔物語集』の女たち」といったテーマで書きたくなるほど豊かな世界だ。

もちろん女性以外にもいろいろな人物が登場し、多くの地方の話が取られている。しかし、あまりこだわっていると先に進まないのでここらにしておくが、是非こうした所からもこの『今昔物語集』を紐解いてもらいたい。ただ、原文は読みにくいので以下の作品がオススメだ。ほんの一部の話しか載っていないが、うまく編集されている。小生も大いに参考にしたので、紹介しておく。Kindle版もあって読みやすい。

『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 今昔物語集』 角川書店=編

この項了

『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』2

『今昔物語集』を読む2

今回は『今昔物語集』のうちの天竺部と震旦部および本朝部の仏法部分から話を紹介する。

天竺部は釈迦の来歴を語った部分がほとんどだ。そのうち釈迦の入滅すなわち臨終の話が興味深い。
巻第三第三十話
「仏、入涅槃給時、遇羅睺羅語第(三十)」
と題されている話だ。
羅睺羅とは「らごら」と読み、釈迦のひとり子とされている人物。この息子、釈迦が臨終の折、悲しみに耐えないからと思って別世界に行ってしまった。しかし、その世界の仏が「きっと父は臨終に際して息子であるあなたに会いたがっているはずだから戻りなさい。」と羅睺羅に諭す。その言に従って戻った羅睺羅を釈迦は「待っていたよ」と迎える。その最後の親子の別れの部分。

羅睺羅涙ニ溺レテ参リタルニ、仏羅睺羅ノ手ヲ捕ヘ給テ宣ハク、「此ノ羅睺羅は此レ我ガ子也。十方ノ仏、此レヲ哀愍シ給へ」ト契リ給テ、滅度シ給ヒヌ。此レ最後ノ言也。

なんと釈迦ともあろう人物が死に際して一人息子の身を案じ、その将来を周りに頼んでいる。親子の情愛は仏教徒にとっては捨てなければならない煩悩の一つであるはずなのにだ。筆者はこう結んでいる。

然レバ此レヲ以テ思フニ、清浄ノ身ニ在マス仏ソラ、父子ノ間ハ他ノ御弟子等ニハ異也。何況ヤ、五濁悪世ノ衆生ノ、子ノ思ヒニ迷ハムハ理也カシ。仏モ其レヲ表シ給フニコソハトナム語リ伝ヘタルトヤ。

仏すらこのようなのだから、当たり前の人たちが子を思って迷うのは当然だと。こうした話を読むと仏教がいかに人間の心情の即した宗教であるかがわかる気がする。
(本文は筆者が電子化したものである。以下同)

さて、今度は震旦部にある話。震旦部は中国に仏教が渡った経緯とその定着を語った話が多いが、後半に仏教以外の話がある。古代中国といえば孔子というイメージが強いのだが、少ないがここにも幾つか孔子の話がある。
巻第十第十話
「孔子逍遥、値栄啓期聞語第十」
と題されている話を読む。
ある時孔子が弟子たちと散歩をし、途中琴を弾いて弟子たちに聞かせ、文章を読ませていた。その時海から一人の老人がやってきて、孔子の琴を弾き終わるののを聞いて、弟子を招いて訪ねた。

「此ノ琴弾キ給フ人ハ誰ゾ、国ノ王カ」ト。

弟子が違うと答えると、さらに「国ノ大臣カ」「国ノ司カ」と聞いてくる。いずれも違うと答えると、「然ラバ何人ゾ」と聞く、そこで弟子は以下のように答える。

「只、国ノ賢キ人トシテ公の庁ヲ直シ、悪キ事ヲ止メ、善キ事(欠字:「ヲ勧メ給フ」か)人也」ト。

ところがこの老人、この語を聞いて、あざ笑って言うには

「此レ、極タル嗚呼人也」ト

つまりなんて馬鹿な人だと。そう言って去ってしまった。
弟子がこの話を孔子にすると、孔子は

「其レハ、極タル賢キ人ニコソ有ナレ。速ニ可呼還シ」ト。

そういうので弟子がこの老人を呼び戻して孔子と対面する事となる。今度は孔子が老人に「君、何人ゾ」と聞く。すると老人は

「我レ、何人ニモ無シ。只、船ニ乗テ心ヲ行サムガ為ニ、罷リ行ク翁也。」

すなわち「わしは気晴らしで船に乗っているただの老人だよ」と答える。さらには孔子がやろうとしている事は愚かな事だと言う。影から逃れようとして晴れに身を置こうとするが、影はいつまでもついてくるようなもの。いっそ影の中に静かに留まれば影は自ずから離れていくものだと。

「只、可然キ所ニ居所ヲ示テ、静ニ一生ヲ被送ラレム、此レ、此ノ生ノ望也。而ルニ、其ノ事不思ズシテ、心ヲ世々ニ染メテ被騒ルゝ事、極テ墓無キ事也。」

すなわちあるがままに静かに一生を送る事こそ大事だと。そう言って孔子の答えも聞かずに船に乗って帰ってしまった。
孔子はいつまでもこの老人の船を見送り礼をし続けたという。

此ノ翁ノ名ヲバ栄啓期トナム云ヒケルト人ノ語リ伝へタルトヤ。

という語でこの話は結ばれている。
この話は後にも『宇治拾遺物語』にもほとんど同じ形で取られていて、有名であったようだ。ここに儒教的な積極性の否定を見るのは大袈裟だろうが、いかにも日本人好みの話のように思える。これが仏教説話集に取られているのもうなづける気がする。

今度は本朝すなわち日本の若き僧のお話。
巻第十七第三十三
「比叡山僧、依虚空蔵助得智語第三十三」
ちょっと長い話なので概略のみ記す。
あまり出来のよくない青年僧がある夜ある屋敷に一泊することになる。そこで女主人の美人の姿を目撃する。女好きのこの青年僧、むらむらとして夜這いをして思いを遂げようとする。が、この美人なかなかで、「もうちょっと学問してくれば思い通りになるわ」といって宥める。この青年僧、真面目にこの言葉を信じて学問に励む。ただただこの美人をものにしたい一心からだ。しかもこの美人、青年僧に具体的な目標を示す。まずは法華経を暗唱できるようになったらまた来なさいと言う。
その通り頑張り、再び訪れると今度は公然と関係したいので、もっと学問をして出世しなさいと言う。これまたこの言を信じ青年僧は三年間学問に励み、山門中で一番の学僧になる。そこで尋ねると今度は色々と質問攻めにあう。しかし、全て完璧な答えをする。この美人、やたらに仏法に詳しいのでおかしいなと思うが、いよいよ思いを遂げる時が来た。彼女も今度は拒まない。腕を回し、横になっていると彼は眠ってしまう。目がさめるとなんとそこはススキの生い茂る野原だった。
しかし、そこは実は法輪寺だった。この青年僧はお堂には入り、仏前にひれ伏しているとまた寝入ってしまい夢を見たという。その夢の中で小僧が現れて実は遊び好きのお前にどうしたら学問させるかと思い、その女好きを利用してやったのだという。この言葉を聞いて夢から覚めたというお話だ。

然レバ、彼ノ僧ノ好ム方ニ女ト成テ、学問ヲ勧メ給ヘル也。経ノ文ニ違フ事無ケレバ、貴ク悲キ也。彼ノ僧ノ正シク語リ伝ヘタルトヤ。

と結ばれている。
しかし、人間こうした欲望に基づく目標があると頑張れるものなんですね。特に若い人にとって性的な欲望は僧であっても抑えられないものだろうから、これをうまく利用するのも仏の道というわけでしょうか。なんとなくほのぼのとした話に思えます。

この項了

『日本古典文学総復習』33〜37『今昔物語集』1

『今昔物語集』を読む1

『今昔物語集』は源氏物語ほどではないが、それなりに人口に膾炙した古典と言える。ただ、それは後半の日本の説話についてだ。近代の作家、特に芥川龍之介の作品、およびそれに基づいた黒澤明の映画作品の題材になったところから有名になった。しかし、この『今昔物語集』はかなり大部の作品だ。この古典大系でも『源氏物語』『続日本紀』と同じ五巻構成になっている。先ずはその構成を以下に示す。数字は話の数だ。

『今昔物語集』一

天竺部
仏教の本家インドの仏教説話が収まっている。
巻第一 天竺(釈迦降誕と神話化された生涯)38
巻第二 天竺(釈迦を説いた説法)41
巻第三 天竺(釈迦の衆生教化と入滅)35
巻第四 天竺付仏後(釈迦入滅後の仏弟子の活動)41
巻第五 天竺付仏前(釈迦の本生譚・過去世に関わる説話)32

『今昔物語集』二

震旦部
中国に渡った仏教の説話が収まっているが、中国独自の話もあり、孔子、荘子も登場する。
巻第六 震旦付仏法(中国への仏教渡来、流布史)48
巻第七 震旦付仏法(大般若経、法華経の功徳、霊験譚)48
巻第八 欠巻
巻第九 震旦付孝養(孝子譚)46
巻第十 震旦付国史(中国の史書、小説に見られる奇異譚)40

『今昔物語集』三

本朝部
ここからは本朝すなわち日本に渡った仏教説話が収まる。
巻第十一 本朝付仏法(日本への仏教渡来、流布史)38
巻第十二 本朝付仏法(法会の縁起と功徳)40
巻第十三 本朝付仏法(法華経読誦の功徳)44
巻第十四 本朝付仏法(法華経の霊験譚)45
巻第十五 本朝付仏法(僧侶の往生譚)54
巻第十六 本朝付仏法(観世音菩薩の霊験譚)40

『今昔物語集』四

前巻からの続きと本朝世俗部が収まる。
巻第十七 本朝付仏法(地蔵菩薩の霊験譚)50
巻第十八 欠巻
巻第十九 本朝付仏法(俗人の出家往生、奇異譚)44
巻第二十 本朝付仏法(天狗、冥界の往還、因果応報)46
(ここから本朝世俗部)
巻第二十一 欠巻
巻第二十二 本朝(藤原氏の列伝)8
巻第二十三 本朝(強力譚)26
巻第二十四 本朝付世俗(芸能譚)57
巻第二十五 本朝付世俗(合戦、武勇譚)14

『今昔物語集』五

前巻からの続きの本朝世俗部が収まる。ここが一番面白いところか。
巻第二十六 本朝付宿報(宿報譚)24
巻第二十七 本朝付霊鬼(変化、怪異譚)45
巻第二十八 本朝付世俗(滑稽譚)44
巻第二十九 本朝付悪行(盗賊譚、動物譚)40
巻第三十 本朝付雑事(歌物語、恋愛譚)14
巻第三十一 本朝付雑事(奇異、怪異譚の追加拾遺)37

こうみると、いかにこの『今昔物語集』が仏教的な話を集めた書であるかがわかる。(人口に膾炙したのは最後の「本朝世俗部」の部分のみだと言っていい。)つまりこの『今昔物語集』は、仏教が天竺すなわちインドで発生し、震旦すなわち中国に渡り、本朝すなわち日本に渡ってきて定着したプロセスを跡付ける形で書かれているのだ。
では、一体誰が何のために誰に向かってこの書を編纂したのだろうか?
編者については不明なので、なんとも言えないがやはり仏教徒には違いないだろう。何のためにということだが、この書以前にもこれまで見てきた『日本霊異記』や『三宝絵』などの多くの仏教説話があり、布教を行う資料としてそれらを集大成したいという意思からとしか考えられない。では誰のためにということだが、こうした変体漢文の書を読める層は限られているからやはり寺院の僧たちに向かってということになると思う。(もちろん僧だけでなく、当時の知識層も含まれるだろうが。)
ただ、そうした仏教的な布教の道具という意図に反してその内容と筆致が極めて特徴的である。つまり、すべての話が仏教の霊験や「ご利益」に結びつけられているとは限らず、その筆致も極めて客観的である点だ。これは日本の説話を集める中で元々は仏教とはそれほど関係のない話が当然混ざってきたことによるのだろう。この書の筆者の客観的な姿勢が、それをそのまま伝える形になったとも言える。特に「本朝世俗部」の部分にそれが見られ、ここが日本の土着的な思想を伝えることになっている。
つまり、この『今昔物語集』はあくまで仏教説話集だが、そこに日本的なというか土着的な思想も読み取れる書と成っていると言うことだと思う。
この後、実際の幾つかの説話を見ていくことにする。

この項了

木馬の完成

だいぶたってしまったが、木工の師匠から孫のために贈ってくれた木馬。ほとんどできている状態でいただいた。ごらんの通り何種類もの名木が使われている。やっと完成したのでその報告。

仮組の状態。

分解したパーツ。ここまで加工するのはほんと大変。師匠だからなってことないか。小生は滑らかに削ったりしただけ。

胴体部分などを接着して、もう一度締めて一晩置き、また解体して削って整え、再び組み立てる。

持ち手と鐙をつける。これはネジで締める形。


鞍の部分は柔らかいヒバを使っている。ここも滑らかにする。

脚の部分等をしっかりボルト締めして、ダボを埋めて一応完成。

最後にオイルがけして完成。

ほんと師匠ありがとうございました。

『日本古典文学総復習』32 『江談抄』『中外抄』『富家語』

『江談抄』を読む

ここでもまた漢文が登場する。
『江談抄』は、院政期の説話集とされている変体漢文の書だ。しかしこれは大江匡房という人物が語った話を記録した聞書集で、その内容も漢詩文・公事・音楽など多方面にわたっていて雑然としたものであったらしい。ただ後に多少の改編・加筆があり、説話集としての体裁が整えられたようだ。この大系本は後の本が採用されていて内容によって六部に分けられている。以下だ。
第一 「公の事」「摂関家の事」「仏神の事」 全四十九話
第二 「雑事」 全四十七話
第三 「雑事」 全七十七話
第四 副題なし 全百二十五話
第五 「詩の事」 全七十四話
第六 「長句の事」 全七十三話
こう書くと随分と大部の書のように見えるが、いずれの話も短く、原文はこの大系本で76ページしかない。
さて、談話の主、大江匡房は平安末期の漢学者である。当時の漢学者は貴族社会のおいて独特な位置を占めていたと思われる。漢文が国家にとってのいわば公用語であったため、それに通じている漢学者は国家にとって極めて重要な人物であったはずだ。しかし、その社会的地位すなわち貴族としての官位はそれほど高くはなかった。しかも、『源氏物語』にやや滑稽な人物として描かれている(源氏の子息夕霧のお受験シーンに出てくる)ように、浮世ばなれした学者といったイメージで見られていたようだ。それともう一つ、漢文に通じたものがやや反体制的な要素を持った人物のように見られていたように思われる点だ。古くは管原道真がそうであるが、この書に登場する小野篁などにそのイメージがある。(談話者の大江匡房はけっしてそうではなかったようだが。)
ここで小野篁が登場する談話を紹介しよう。
小野篁は遣唐使の福使に任じられたが大使と争い、職を辞して遣唐使を風刺したために左遷された人物だ。また、和漢の詩文に通じた人物としても知られ、白居易の詩文の最初の受容者の一人と言われる当代きっての漢学者である。しかも多くの伝説を持つ人物で、地獄の閻魔大王の補佐役でもあったとされるいわくつきの人物だ。この人物、この書で度々登場する。以下、第一の3、第三の38・39、第四の5・18・24に登場している。ここでは有名な第三の38・39を読んでみる事にする。
本文

(三八)野篁并高藤卿遇百鬼夜行事
 又云、野篁并高藤卿中納言中将之時、於朱雀門前遇百鬼夜行之時、高藤下自車。夜行鬼神等見高藤称尊勝陀羅尼云々。高藤不知、其衣中乳母籠尊勝陀羅尼之故云々。野篁其時奉為高藤致芳意令遇鬼神云々。

書き下し文

(三八)野篁ならびに高藤卿、百鬼夜行に遇ふ事
 また云はく、「野篁ならびに高藤卿、中納言中将の時、朱雀門の前において百鬼夜行に遇へる時、高藤車より下る。夜行の鬼神ら高藤を見て、「尊勝陀羅尼」と称へりと云々。高藤知らざるも、その衣の中に乳母の尊勝陀羅尼を籠めたる故なりと云々。野篁、その時、高藤の奉為に芳意を致し、鬼神に遇はしむ」と云々。

本文

(三九)野篁為閻魔庁第二冥官事
 其後経五六ヶ日、篁参結政剋限、於陽明門前為高藤卿被切車簾鞦等云々。干時篁左中弁也。即篁参高藤父冬嗣亭、令申子細之間、高藤俄以頓滅云々。篁即以高藤手引発。仍蘇生。高藤下庭拝篁云、不覚俄到閻魔庁。此弁被坐第二冥官云々。仍拝之也云々。

書き下し文

(三九)野篁は閻魔庁の第二の冥官為る事
 「その後五、六ヶ日を経て、篁、結政に参る剋限に、陽明門の前において、高藤卿のために車の簾・鞦などを切らるると云々。時に、篁は左中弁なり。すなはち篁、高藤の父の冬嗣の亭に参りて、子細を申さしむる間、高藤にはかにもつて頓滅すと云々。篁すなはち高藤の手をもつて引き発す。よりて蘇生す。高藤庭に下りて篁を拝して云はく、「覚えずしてにはかに閻魔庁に到る。この弁、第二の冥官に坐せらると云々。よりて拝するなり」と云々。

この二つは一続きの話だが、篁が百鬼夜行に遭遇した事、その時一緒だった高藤卿が数日後頓死したが、蘇ったという話。そして高藤卿が蘇ったのは閻魔庁で篁に救われた為だったという話だ。この話は後に多くの説話集に取られ有名になった。現在でも篁の人気は高い。ちなみにウェブサイトで検索してしてみれば多くのサイトにヒットする。
又、この話以外にも謎解き話の類が幾つかある。嵯峨天皇とのやりとりは有名だ。漢字の読み方の謎解きだ。
それにしても説話集は面白い。

『中外抄』『富家語』を読む

『中外抄』は、同様院政期の聞書集である。話の冒頭に日時と場所が克明に記されているので日記に分類されることもあるようだ。藤原忠実の言談の筆録である。全2巻の小冊子だ。保延3年(1137年)から久安4年(1148年)閏6月までの記事が上巻、同年7月から久寿元年(1154年)までの記事が下巻を成している。原文は漢文というより漢字片仮名平仮名の仮名交じり文で記される。
『富家語』も『中外抄』と同様、藤原忠実の言談の筆録である。ただ、記録者が異なっている。これも小冊子で時代が明記され、細かな話が記録されている。文体も『中外抄』と同様だ。しかし、『中外抄』と異なり、談話の時期は明記されていない。内容は概して保元の乱に連座して船岡山山麓の知足院に幽閉されていた忠実晩年の言談とされている。
いずれも説話集というより、有職故実・公事を中心とする題材の記録である。ただ、こうした記録が後世の説話集に材料を提供したため、説話に分類されることもあるようだ。
ここで注目していいのはその文体、というよりその表記についてだ。平安時代になって和文が和歌や女房日記を中心に発展してきた。一方漢文は貴族の男性が使う公式な文章であった。しかし、その漢文が日本語化つまり和文的になっていったプロセスを示しているように思われる。やがてこれが中世に至って和漢混淆文へと発展し、現代の文章へと展開していく。その姿をこの院政期の説話集に見る事が出来る。
次は説話文学の達成点『今昔物語集』全5巻が待っている。

この項了

『日本古典文学総復習』31 『三宝絵』『注好選』

『三宝絵』を読む

元は三宝絵詞といい、成立当時は絵を伴っていたらしい。これも仏教説話集の一つだ。平安中期に成立し、尊子内親王のために学者源為憲が撰進したと言われる。いわば内親王のための仏道の入門書である。
そもそも三宝とは仏・法・僧を指し、本書はその功徳について述べたもので上中下3巻構成で、それぞれ「昔」「中頃」「今」の時代に対応する形をとっている。
上巻は仏の誕生、出家、降魔、成道の事を述べ、神通力、慈悲心、功徳を述べる。巻末にあるように

「仏ノ勝レ給ヘル事ヲ顕ス」

巻である。
中巻は

「コノ巻ハ先ハジメニ其趣ヲノベテ、次ニ十八人ガ事ヲ注セリ。」

とあり、仏教伝来史が語られ、聖徳太子以下仏道に帰依した我が国の人物たちの話を列挙する。
下巻は

「此巻ニハ、正月ヨリハジメテ十二月マデ、月ゴトニシケル所々ノワザヲシルセル也」

として一年間にすべき仏事について、その来歴・作法述べている。
また、中巻にある高僧伝などの説話の多くは前に見た『日本霊異記』からの引用とされている。
この書は当時のいわば仏教の入門書的なものだと思われる。これが内親王のために書かれたということは仏教がいかに天皇家に食い込んでいたがわかる。この書を贈られた尊子内親王は3歳で斎院となりその後15歳の時円融天皇の女御となった人物。しかし内裏が火災にあったり後ろ盾が失脚したりと災難が続き、後に密かに落飾したという女性だ。こうしたいわば不運な女性にとって仏教が救いであったことは間違いない。源氏物語等にも仏教がいかに平安時代の貴族達に受け入れられていったが伺えるが、この書はそうした貴族達に読まれたものなのだろう。ここで神道と仏教の関係を思わずにはいられないが、現生の苦悩からの救いという意味では神道より仏教が力があると思われていたのだろう。

『注好選』を読む

童蒙教訓的な説話集である。3巻からなり、上巻は「俗家に付す」とあり、中巻は「法家に付して仏の因位を明らかにす」とあり、下巻は「禽獣に付して仏法を明らかにす」とある。中身は上巻に中国の説話,中巻にインドの仏教説話,下巻には主に動物を素材とする説話を収めている。
童蒙教訓的なということの他に初学者に向けたテキスト的な意味合いもあったようだ。従って漢文も『日本霊異記』に比べると易しいものだ。また、この書も『今昔物語集』の種本に成っているようだ。
ここでも一例を引いておく。比較的簡易な内容と文章なので解説は省く。
本文

田祖返直第九十七
往有三人。同父一腹兄弟也。田祖田達田音云。即其祖家前栽。四季開花荊三茎在一花白一花赤一花紫。自往代相伝為財随色付香千万有喜剰。人々雖欣未有他所。即父母亡後此三人身極貧。相語云売吾家移住他国。時隣国人買三荊。已売之得値。其明旦三荊花落枯也。三人見之歎。未見如此之事。呪曰吾三荊為惜別枯也。吾等可留。復返栄耶。即返値。随明日如故盛也。故不去。是以契曰三荊也。

書き下し文

田祖は直を返す第九十七
往、三人有りき。同父の一腹の兄弟なり。田祖・田達・田音と云ふ。即ち其の祖の家に前栽あり。四季に花を開く荊三茎在りて、一花は白、一花は赤、一花は紫なり。往代より相伝へて財と為して、色に随ひ香に付きて、千万の喜び剰り有り。人々欣ふと雖も未だ他所に有らず。即ち父母亡せて後に、此の三人極めて貧し。相語らひて云はく、「吾が家を売りて他国に移住せむ」と。時に隣国の人、三荊を買ふ。已に此れを売りて値を得つ。其の明旦に三荊花落ち葉枯れたり。三人これを見て、歎ず。未だ此の如き事をば見ず、と。呪して曰はく、「吾が三茎、別れを惜しむが為に枯れたり。我等留まるべし。復返りて栄かむや」と。即ち値を返す。明くる日に随ひて故の如く盛りなり。故に去らず。是を以て契をば三荊と曰ふなり。

この項了

『日本古典文学総復習』30 『日本霊異記』

『日本霊異記』を読む

再び和歌文学から離れ、変体漢文でかかれた説話集が現れる。この『日本霊異記』は説話集としては最も古いものと言っていい。正式書名は『日本国現報善悪霊異記』である。
内容は仏教説話なので、題名にあるように仏教的な霊異すなわち仏教的な超常現象を語り、仏教の有用性を説くといったものだ。
全3巻の構成になっている。上巻は雷神と天皇と仏教が絡み合う話が中心で聖徳太子の説話もあり、日本仏教の黎明期の様々な出来事が展開される。中巻は聖武天皇の時代の多くの霊異と霊験談が語られる。いわゆる「因果応報」説話である。しかしそうした仏教的な教義を説くというより、その霊異談に面白さがある。下巻は中巻と同様な説話が展開されるが、末尾近くに独特な「表相説話」と呼ばれる説話が現れる。この「表相」という語はものごとの前兆の意味として用いている。(多田一臣氏によるとそういう意味で用いられているのは『日本霊異記』のみであり、『日本霊異記』独自の用語と考えられるとされている)これまでの「あやしき表(しるし)を示(あらわ)す」説話とは趣を異にしているとされる。
いったいこの書は誰に向かって書かれたのだろうか?著者が奈良の薬師寺の僧景戒という人物であるところから考えると、寺院内の僧たちのために書かれたのだろうか。この書が変体漢文で書かれているのもその証左になるかもしれない。当時変体漢文を読める層は多くはなかったはずだ。また仏教を広めるための道具として説話という側面もあるように思える。
ただ、現代においてのこの書の意味はその説話の面白さばかりでなく、古代においての仏教の受容の様相や土着的な思想との融合がどのようにして行われたかを考える上で重要だというところにある。また、それは天皇と仏教との関係がどのように作られて行ったかを考える上でも参考にもなると思える。
しかしここでは話として面白い一話だけを紹介しておこう。これは後に『今昔物語集』にも取られた話である。
本文

生愛欲恋吉祥天女像感応示奇表縁第十三
 和泉国泉郡、血渟上山寺、有吉祥天女(土へんに聶)像、聖武天皇御世、信濃国優婆塞、来住於其山寺、睇之天女像、而生愛欲、繋心恋之、毎六時願、々如天女容好女賜我、優婆塞夢見、婚天女像、明日瞻之、彼像裙腰、不浄染汚、行者視之、而慚愧言、我願似女、何忝天女専自交之、媿不語他人、弟子偸聞之、後其弟子、於師無礼、故嘖擯去、所擯出里、訕師程事、里人聞之、往問虚実、並瞻彼像、淫精染穢、優婆塞不得隠事、而具陳語、諒委、深信之者、無感不応也、是奇異之事矣、如涅槃経云、多婬之人、画女生欲者、其斯謂之矣、

書き下し文

愛欲を生し吉祥天女の像に恋ひて感応して奇しき表を示す縁第十三
 和泉国泉郡の血渟上山寺に、吉祥天女の(土へんに聶)像有す。聖武天皇の御世に、信濃国の優婆塞来りて其の山寺に住む。天女の像に睇ちて愛欲を生し、心を繋けて恋ひ、六時ごとに願ふ。「願はくは天女の如き容好き女を我に賜へ」とねがふ。優婆塞夢に見て、天女の像に婚ふ。明日に瞻れば、彼の像の裙の腰に不浄染み汚れたり。行者視て慚愧ぢて言さく、「我似たる女を願ふ。何すれぞ忝く天女専自づから交りたまふ」とまうす。媿ぢて他人に語らざれども弟子偸に聞く。後に其の弟子師に礼無し。故に嘖め擯ひ去らる。里を擯出され、師を訕り事を程す。里人聞き、往きて虚実を問ひ、並に彼の像を瞻れば淫精染み穢れたり。優婆塞事を隠すこと得ずして、具に陳べ語る。諒に委る、深く信はば感きて応へずといふこと無し、と。是れ奇異しき事なり。涅槃経に云ふ如し「多婬の人は画ける女にすら欲を生す」とのたまふは、其れ斯れを謂ふなり。

いやいや本文を電子化するのに時間がかかりました。それはともかくこの話どうです。実はこの話すでに以前『今昔物語集』で読んだことがあったんですが、大分違っています。このあたりも面白い題材ですが、ここでは多淫を戒めるというより、吉祥天女が感じてくれたと言う所が面白い所です。

この項了

『日本古典文学総復習』29 『袋草紙』

『袋草紙』を読む

袋草紙は、平安時代後期に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した和歌百科全書というべき歌学書である。上下2巻からなる。内容は、和歌全般にわたっており、勅撰和歌集や歌物語についての考証、歌人に関する伝承などが述べられており、さらに歌会や歌合の作法等に及んでいる。古くから和歌や歌人に関する重要な資料となっているようで多くの文献に見ることができる。
この大系本では、はじめに書き下し文を収めているが、原文は日本語化した漢文形式である。以下一例を見ていただこう。

本文

小野小町、
アキカセノウチフクコトニアナメアナメヲノトハイハンススキ生タリ
人夢ニ、野途ニ目ヨリ薄生タル人有。称小野。此歌詠。夢覚テ尋見テ、有一髑髏。目ヨリ薄生タリ。其髑髏取テ閑所ニ置之云々。知小野屍云々。

書き下し文

小野小町
秋風のうちふくごとにあなめあなめ小野とはいはじすすき生ひたり
人の夢に、野の途に目より薄生ひたる人有り。小野と称し、この歌を詠ず。夢覚めて尋ね見るに、一の髑髏有り。目より薄生ひたり。その髑髏を取りて閑所にこれを置きぬと云々。小野の屍と知りぬと云々。

これは上巻の末尾にある「亡者の歌」として挙げている始めの部分だ。こうした歌についても触れている所が面白いのだが、内容的にも亡者となった小野小町が詠んだ歌を紹介するなど、今昔物語集にあるようなものとなっているのが注目される。
また、この部分だけでなく本文が変体漢文だということに注目したい。これはどうみても正式な漢文ではない。しかも和文でもない。こうした文章形式が平安後期に一般化していたのだろうか。これがもっと時代を下ると和漢混淆文として成立することになるが、その走りかもしれない。
さらには、この文章が平安末期に書かれたのには理由があるような気がする。つまり和歌全盛時代が終わった時代に書かれているという点だ。和歌が実際の命を失った時代に和歌についてもう一度見直すというか、ここでその全てを書き留めておこうという意欲が感じられる。下巻にある歌合や歌会の作法についての詳しい叙述はそれらが実際にはスムーズに行われなくなってきた証拠かもしれないからだ。この著作はある人によれば和歌の「百科全書」だというのも頷ける。
ただこうした内容ばかりでなく、勅撰集成立の事情や後撰集についての批評など批評意識も見られ歌論的な部分もあるのも和歌史の一級資料でもある。

この項了