『日本古典文学総復習』48『五山文学集』

『五山文学集』を読む

日本古典文学史において、いわば忘れ去られた存在に漢詩文がある。この大系でもようやくここに漢詩集が現れる。この巻に収められているのは鎌倉から室町にかけて作られた禅宗の僧による漢詩だ。禅宗はこの時期の国家的な仏教の宗派である。庶民的な浄土宗に対して武家権力によって保護された仏教宗派である臨済宗の寺院は鎌倉五山および京都五山として時の武家権力によって保護され、ランク付けされた。その寺院の僧たちが漢詩を残している。それを「五山文学」という。
さて、漢詩は日本文学においてどのようは位置を占めていたのだろうか。漢詩はもとより中国の詩である。中国においても科挙の試験の一科目になるなど、エリートにとっての必須の教養であった。中国から圧倒的な影響を受けていた古代日本に於いても権力者やその周辺にいる知識人にとってもそうした意味を持っていたはずだ。しかし、文学的表現は依然として和歌がその中心を担っていた為に漢詩はむしろ知識人にとって個人的なものに偏った形で存在していた。後の時代の江戸幕末期に於いても成島柳北といった知識人も漢詩を多く残しているが、むしろここに個人的な感慨を込めていたように思える。近代に於いても夏目漱石が漢詩を多く残しているが、小説に行き詰まった時に精神の安定のために漢詩の作成に勤しんだようだ。
つまり漢詩はその本国と違って日本に於いては文学史の表舞台には登らず、文学表現者たちの個人的な表現にとどまっていたと言える。
以下絶海中津と義堂周信の幾つかの漢詩を紹介しておく。

絶海中津

元章の日本に帰るを送る

天は版図を照らして気象雄なり、
九畿処として皇華ならざるは無し。
雲は連なる 比叡三千の院、
夜は静かなり 将軍十万の家。
(えうでう)は春に沙苑の草に嘶き、
綿蛮として朝に上林の花に囀る。
法幢若し亀山の下に到らば、
応に神竜有つて木叉を護るべし。

送元章帰日本
天照版図雄気象、
九畿無処不皇華。
雲連比叡三千院、
夜静将軍十万家。
(えうでう)春嘶沙苑草、
綿蛮朝囀上林花。
法幢若到亀山下、
応有神竜護木叉。

題画

千里の雄姿、
未だ嘗て覊を受けず。
世に伯楽無し、
識る者は誰なりや。

題画
千里雄姿、
未嘗受覊。
世無伯楽、
識者為誰。

行人至る

渓辺も古木 残暉を弄ぶ、
千里の行人初めて到る時。
自ら説く 三年征役の恨み、
誰か能く双鬢糸と成らざる。

行人至
渓辺古木弄残暉、
千里行人初到時。
自説三年征役恨、
誰能双鬢不成糸。

春夢

蝶は南華に入つて曾栩々、
相逢うて語らんと欲し意綢繆。
一たび宋玉の賦成りてより後、
暮雨朝雲 総て是愁ひ。

春夢
蝶入南華曾栩々、
相逢欲語意綢繆。
一従宋玉賦成後、
暮雨朝雲総是愁。

義堂周信

鴉の浴するを看るに因りて戯れに作る

爾老鴉の頻りに池に浴するを看る、
鵠の白きに同じからんと要するも也た為り難し。
如かず 旧に仍つて黔して黒きに、
群禽をして特地に疑はしむることを免れん。

因看鴉浴戯作
看爾老鴉頻浴池、
要同鵠白也難為。
不如仍旧黔而黒、
免使群禽特地疑。

庭前の桜花未だ開かず、戯れに友人に答ふ

幽花は雨の頻りに催すことを受けず、
羞を含んで白昼に開くことを怕るべし。
伝語す 春を尋ねて園を買ふ者に、
更に燭を点じて夜深けて来たるべし。

庭前桜花未開、戯答友人
幽花不受雨頻催、
可怕含羞白昼開。
伝語尋春買園者、
更須点燭夜深来。

この項了

2017.07.14

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