五島列島の教会を訪ね歩いて

頭ヶ島天主堂

私はキリスト教徒ではない。宗教とは無縁の人間だ。「無縁」というのは正しくないかもしれない。正月には地元の神社に初詣に行き、父母の葬儀は仏教で行った。確か結婚式はキリスト教式だった。ようするに宗教に対して「いい加減な」人間なのだ。たぶん多くの日本人がそうなのかもしれない。

今回五島列島の教会を訪ね歩いて、改めてなぜこれほどまでにここに教会が多く存在し、しかも生きた形で存在しているのか考えさせられた。

五島列島に多く存在する教会はまさに生きた教会だ。けっして歴史的建造物ではない。訪ねてみるとそれがよくわかる。掃除当番表があり、それぞれの席には自分の物の聖書と賛美歌集が置かれ、布団まで個人用に置かれてある。どこも掃除が行き届き、いつでもミサが行われる用意がある。この島ではキリスト教が今も住民の生活の一部をなしていることがよく分かる。しかもキリスト教は江戸期に禁教であったのに、である。

なぜ、五島列島ではこれほどまでにキリスト教が根付いているのだろうか。ここからは単に私の想像に過ぎないが、そのプロセスを考えてみた。

まずこの島の地理的条件だ。五島列島は九州の西に位置する。古くは遣唐使が立ち寄ったことでも知れるように大陸へ渡る際の停泊地だったようだ。つまりは大陸に近いという条件だ。日本にキリスト教が伝来した地は南方の種子島と言われているが、この島も早くから布教が行われた可能性がある。また、大陸との交易も盛んだった可能性もある。そして離島であるということだ。

次に、この島を治めていた領主が息子の治療の為にキリスト教を受け入れ、キリシタン大名だったことも大きな要素だ。

しかし、江戸時代に入るとキリスト教は禁教となる。信長の時代は反仏教の立場からキリスト教はむしろ奨励された向きがある。しかし安定した江戸時代に入ると完全にキリスト教は禁教となり、弾圧と排除の歴史が始まる。これについては多くの文献がその苛烈さを語っている。

ただ、私はキリスト教の排除が宗教的な対立から生まれたものとは思っていない。イスラム教とキリスト教の対立のような仏教徒との対立があったわけではないと。徳川幕府の禁教はもっと経済的な政治的な理由によって行われたと考える。幕府の鎖国政策も同様だと考えている。イデオロギーとして鎖国をしたわけではない。むしろ海外からの権益を独占する為に行ったものだと。またキリスト教の浸透がキリシタン大名を多く生み、それが海外とも交易で多額の利益を得て勢力を増すことを恐れたのが禁教の主な要因だったと思われる。

こうした要因からキリスト教徒への弾圧も苛烈を極めたものであったが、隠れキリシタンとして一般の信徒が生きる道がわずかであったとしてもあったような気がする。九州本土から多くの一般のキリシタンが五島の辺鄙な漁村に逃れ、自給自足の生活をしながら信仰を守っていった様子が想像出来る。

何と言っても五島列島は離島である。現在でもフェリーで3時間、ジェエトホイルでも1時間半かかるのだ。当時にあっては航海は死ぬか生きるかであったろう。信仰の為に命を賭して島に渡った人々が、わずかな土地に植物を栽培し、何と言っても豊かな海の資源を得ることができれば信仰を糧にして生きることはできたように思う。

また、五島列島のキリスト教信仰はマリヤ信仰を中心としていたことも現地に行って知った。あらゆるところにマリヤ像があり、ルルドと呼ばれる洞窟が作られていた。このマリヤ信仰は仏教の観音信仰に擬せられる。日本仏教においても観音信仰は根強いものだ。各地に観音像があるが、マリヤ観音像というのもある。いわば観音信仰に擬することでキリスト教信仰を潜伏させたものと思わせる。「潜伏キリシタン」という言い方を現地で知ったが、こうした「潜伏キリシタン」が江戸期の長い禁教の時代を子孫に継いで行ったのだろう。変な言い方かもしれないが、禁教があったからこそと言える気もする。

明治に入って禁教が溶けると、潜伏していたキリシタンは一挙に表に現れる。それが教会建築ラッシュを生む。これまで先祖たちが守ってきた信仰が大手を振って行われる。その場が集落ごとに必ずあると言っていい教会なのだ。信徒たちはけっして裕福ではないにちがいない。しかしこの解放が身を削って資金を拠出する原動力になったと。

中通島の東端にある立派な石造りの頭ヶ島天主堂もそうした教会の一つだ。しかし、地元の人が今は信者の住人は11人しかいず、皆高齢だと言っていた。ここにも少子高齢化の波は否応なく訪れている。地元はこの島を世界遺産に登録しようとしている。これも経済効果を生みたいが故であろう。しかし、私はそうした行為はあまり好きではない。信仰と信徒がいなければ、単なる歴史的建物に成り下がるからだ。

若い人たちがこの豊かな島で人生を選択してくれることを望むだけだ。 具体的に訪れた教会は以下のページをご覧あれ。

五島列島教会旅

五島列島教会旅

高井旅教会

ひょんなことから五島列島に行くことになった。まずは長崎に飛んで軍艦島を見学する予定だったが、あいにく海が荒れていて上陸できないということで長崎の街を歩いた。実に暑かった。見所は大浦天主堂。その後五島に渡ってももっぱら教会見学の旅になった。もちろん五島は海が素晴らしい。海を見ながら時には車を降りて砂浜を歩き、集落ごとにあると言っていい教会を訪ねて行った。福江島から上五島、そして佐世保に渡って平戸へ、いずれも多くの教会が存在する。全て訪ねるのは無理だったが、写真に収めた教会全てをここに紹介する。写真をクリックしてくれれば説明も読めるはずだ。長崎のキリシタンについては思うところもあったが、これはまた別の機会に書くことにする。

『日本古典文学総復習』53『中華若木詩抄』『湯山聯句鈔』

ここのところこの日本古典文学総復習も50巻を超えて滞ってしまった。これは夏ということもあって出かける機会が多いことと、何しろ暑いということも原因している。しかし、扱う書物が難解なことも大きな原因だ。今回も初めて聞く書名の文献だ。五山文学の資料といっていいものだが、扱われているのが漢詩というのも馴染みが薄い。漢詩はかつては知識人にとって必須の教養だった。明治の文学者まではまだ生きていたはずだ。そういう意味では日本文学史にあって一つの重要なジャンルをなしていたはずだ。しかし現在は忘れ去られてしまった。なんとかその概略だけでもここに示しておこうと思う。

『中華若木詩抄』について

「抄物」と言われる書物の一つで、如月寿印という人物が編纂したと言われる。17世紀の中頃に成立したらしい。唐や宋の詩人と日本の禅僧の手になる漢詩二百数十編に注釈を加えたものだ。「抄物」とは各種の作品を注釈し解説した書物をいうが、この「中華若木詩抄」は禅僧の手になっていて、当時禅僧にとって漢詩がいかに重要な教養であったが伺える。禅僧は当時の知識人の代表的存在だから漢詩が知識人の文学であったことは間違いない。和歌が連歌へ俳諧へと庶民化する傾向にあったのと対照的である。これが後に漢詩が文学史の表舞台から降りていく原因にもなったと思われる。ただ、その文章はかなり口語的に思われる。具体的に一つだけ原文を紹介しておこう。(ただし影印・クリックして拡大してください)

『湯山聯句鈔』について

この書は『中華若木詩抄』と同じく室町時代末期の明応九年(一五〇〇)五月五日より同二十三日にかけて、禅僧である寿春妙永と景徐周麟が湯山(有馬温泉)に出かけた折に興行・応酬した千句の聯句(湯山聯句)に対して、一韓智 が註釈・解説を施して、永正元年(一五〇四)八月二十日に成立したものだ。
この聯句というのが面白い。もちろん連歌の連句とは違うが、その影響が伺える。「一座の聯衆が、現前の景や共通に理解の可能な心情を素材として、先行の諸文芸よりもっとも密接に関連した典拠を用いて表現し、二句一聯によって最小単位のまとまりある世界を共同で築き上げようとした文芸である」と定義されているようで、本来的に連歌の連句と共通する。連歌の連句は長句(五七五)と短句(七七)とを交互に連ねていくものだ。それに対し、この聯句は原則として五言の漢句を連ねる形である。
また舞台が有馬温泉というのも面白い。

垢を洗い、病を治さうとてかと云に、いや、元来法身は清浄なれば、洗ふべきの垢もないぞ。治すべき病もないぞ。さるほどに、今湯に入るは、この無垢を随分至極と思ひ、無病を至極と思ふ、この心を洗ひ去けんとてあるぞ

すなわち「元来、法身は清浄なのだから、洗いおとすべき垢や治すべき病はない。無垢や無病を当たり前だと思う心こそ垢がついて病んでいるのだ」
と一韓は述べている。

ここでも具体的に一つだけ原文を紹介しておこう。(ただし影印・クリックして拡大してください)

この項了
2017.08.09

『日本古典文学総復習』52『庭訓往来』『句双紙』

『庭訓往来』を読む

『庭訓往来』という書名は以前から知ってはいた。しかし、その中身は全く知らなかった。多分辞書のようなものだぐらいの知識しかなかった。今回初めてその書を紐解いてみた。果たしこの書はなんと名付けたらいいのだろう。文学作品とは到底言えそうにない。まずはその一部を紹介する。画像も載せておく。

面拝の後、中絶良久く、遺恨山の如し、何れの時か
 意霧を散ぜん哉、併ら胡越を隔つるに似たり、猶以て千悔々々、
 抑、醍醐雲林院の花、濃香芬々して匂已に
 盛ん也、嵯峨吉野の山桜、開落条を交ふ、黙
 止難きは此の節也、争でか徒然として、光陰を送らん哉、花の
 下の好士、諸家の狂仁雲の如く霞に似たり、遠所の
 花は、乗物僮僕、合期し難し、先づ近隣の名
 花、歩行の儀を以て思ひ立つ事に候、左道の様為りと
 雖も、異体の形を以て明後日御同心候はば、本望
 也、連歌の宗匠、和歌の達者、一両輩
 御誘引有る可し、其の次を以て、詩聯句の詠同じく所望に候、
 破籠小竹筒等は、是自随身す可し、硯懐紙
 等は、懐中せらる可き歟、如何、心底の趣紙上に
 尽し難し、併ら参会の次を期す、不具恐々謹言
 二月廿三日   弾正忠三善
 (謹上) 大監物殿

 是自申さしめんと欲し候の処に、遮つて恩問に預り候、
 御同心の至り、多生の嘉会也、抑花の底の
 会の事、花鳥風月は好士の学ぶ所、詩歌管弦は、嘉齢延年の方也、御勧進の
 体、本懐に相叶ひ候者を哉、後園庭前の花、
 深山叢樹の桜、誠に以て、開敷の最中也、若し今
 明の際に、暴風霖雨有らば、無念の事也、同じく
 は、片事も急ぎ度存ぜしめ候所也、倭歌は、
 人丸赤人の古風を仰ぐと雖も、未だ長歌、短歌、旋
 頭、混本、折句、沓冠の風情究ず、(連歌は、無情寂忍の旧徹を学ぶと
 雖も、未だ)輪廻、傍題、打越、落題の体を(弁ず)、詩聯句は、菅家
 江家の旧流を汲乍ら、更に序、表、賦、題、傍絶、韻
 声の質を忘る、頗る猿猴の人に似たるが如く、蛍火の
 燈を猜むに同じ、然ども、人数の一分に召加へられば、殆ど後日
 の恥辱を招く可し、執筆、発句、賦物以下、才学未練の間、当座に定めて赤面に及ぶべき歟、聊用意
 有る可き由の事、承り候ひ訖ぬ、形の如く稽古を致す可し、
 公私の怱忙として、毛挙に遑あらず、恐々謹言 
   二月廿三日     監物丞源 
 謹上 弾正忠殿(御返事)

(以上の本文は大系本の表記を筆者が電子化したものだが、改行がおかしいのはこの大系本が写本の通りに改行しているためだ。写本の一部を画像で示しておく。)

こうした往復書簡が一年間続く形で記されている。「往来」とは往復ということで、ここでは往復書簡のことを言う。「庭訓」とは字のごとく庭の教えという意味でおもに幼児教育を言う言葉だ。従ってこの書は初学者のために書かれた往復書簡の形をとった教科書ということになる。その内容は月々によって異なり、そこに常識的な知識が並べられていると言うわけだ。また、お家流と言われる書の見本としての役割もあったようだ。そしてこの書が後々も活用されることになる。もっと辞書的にこの書に現れる語や事柄を図入りで示す本が江戸時代になって現れる。これがこの『庭訓往来』という書名を有名にしたのだと思われる。
ところで、この書を紐解いてみて日本の中世において教育がやや一般化した跡が見られることに注目した。もちろん近代的な学校と言えるものはいまだ存在しないが、一部の貴族のみに限られていた教育が武士へまた寺院をつうじて庶民へと広がる契機をこの書等に感じることができる。江戸時代になればそれが一挙に広がっていくのもうなずける気がする。

『句双紙』について

この書は全くの語彙集だ。しかも説明も何もない。ただ、一字・二字・三字・四言・五言・六言・七言・八言・五言対・六言対・七言長句という分類で語をただ並べたものである。これは禅宗の僧侶が知っているべき語を収集したもので教科書なのである。

付録に「実語教童子教諺解」という書もある。

この項了

2017.07.27

『日本古典文学総復習』51『中世日記紀行集』

『中世日記紀行集』を読む

高倉院厳島御幸記・高倉院升遐記・海道記・東関紀行・うたたね・十六夜日記・中務内侍日記・竹むきが記・都のつと・小島のくちずさみ・藤河の記・筑紫道記・北国紀行・宗祇終焉記・佐野のわたり

以上15編を収める。

中世になって紀行文が多く作られる。それは前回も書いた通り京都と鎌倉の二重政権の一つの表れだと言える。具体的に京都から鎌倉へ行く必要が生じたからだ。その過程を文章に残しておくことは容易に想像できる。ただ、これまでも貴族の地方への任官ということはあった。その記録としては『土佐日記』がある。しかし、平安時代の地方行きとこの時代の地方行きは自ずから性格が変わっていった。平安時代の地方は京都から見れば未開の地である。一時的に行くことはあってもさして重要な意味を持ってはいなかった。しかし中世に入ると地方は一つの別な世界を形作り、無視でき無い存在になっていった。そこに行く紀行文も自ずから性格が変わっていったはずだ。いわば地方の時代の始まりであり、地方を別な目で見る紀行文の始まりであった。
ここでは鎌倉行きを詳細に記録した「海道記」、「東関紀行」、「十六夜日記」、それに後代の「奥の細道」に繋がる連歌師宗祗の「筑紫道記」「宗祇終焉記」を取り上げてみたい。

「海道記」

相模河ヲ亘ヌレバ、懐嶋ニ入テ砥上ノ原ニ出ヅ。南ノ浦見遣レバ、波ノ綾織ハヘテ白キ色ヲ濯フ。北ノ原ヲ望バ、草ノ緑染ナシテ浅黄ヲサラセリ。中ニ八松ト云所アリ。八千歳ノ陰ニ立寄テ、十八公ノ栄ヲ感ズ。
 八松ノ千世フル陰ニ思ナレテトガミガ原ニ色モカハラズ

「東関紀行」

かくしつつ明し暮すほどに、つれづれも慰やとて、和賀江の築島、三浦のみさきなどいふ浦々を行て見れば、海上の眺望哀を催して、来し方に名高く面白き所々にもをとらずおぼゆる也。
 さびしさは過こしかたの浦々もひとつながめの沖のつり舟
 玉よする三浦がさきの波まより出たる月の影のさやけき

「十六夜日記」

二十九日、酒匂を出でて、浜路をはるばると行く。明はなるる海の上、いと細き月出たり。
 浦路行く心細さを浪間より出でて知らする有明の月
渚に寄せ返る浪の上に霧立ちて、あまた有つる釣舟見えずなりぬ。
 蜑小舟漕ぎ行方を見せじとや浪に立添ふ浦の朝霧
都遠く隔たり果てぬるも猶夢の心地して、
 立離れよもうき波はかけもせじ昔の人の同じ世ならば

それぞれに特徴が伺える。まずその文体だが、「海道記」は漢文訓読体、「東関紀行」は和漢混交文、「十六夜日記」は和文、といった違いだ。いずれも場所は現在の神奈川県、鎌倉に入る直前の場所の記述だが、「海道記」に紀行文としての面目がある。名も知れ無い場所で風景を発見している。「東関紀行」にもそう言える所はあるが、「十六夜日記」はそうした面が希薄だ。もともと「十六夜日記」の作者の旅の目的がそうした所にはないのが原因だろうが、風景描写という点では「海道記」が勝っているように思う。これまで風景は歌枕といった類型的にものにとどまっていた。自分の目で見て自分の感慨に照らして風景を描写する本格的な風景の発見は近代を待たないと実現しないが、その端緒がここにある気がする。では宗祗の紀行文はどうだろう。

「筑紫道記」

これは宗祗が晩年山口から九州にわった紀行文だが、関心は寺社仏閣にあっていわば名所めぐり的なものだ。たとえば、

松原遠く連なりて、箱崎にもいかで劣り侍らむなど見ゆるは比なけれど、名所ならねば、強ゐて心とまらず。

という文言があるように名所すなわち歌枕に関心があって風景をそのもとして見る記述はない。宗祗は連歌師であり、連歌は過去の歌を踏まえることにその眼目の一つがあったから、関心はそういう所に行くのは当然かもしれない。
「宗祇終焉記」は弟子の宗長が宗祗を伴って越後から駿河に帰る旅の記述。途中宗祗は死去してしまう。この文はその道中を記したものだが、連歌師たちの旅であるから当然連歌の発句が多く紹介されている。紀行文としては見るべきものはないが、連歌師たちがいかに地方に赴いたかがわかるものだ。これが後の俳諧連歌師芭蕉に連なっていく。これも地方の時代の象徴かもしれない。

この項了

2017.07.23

『日本古典文学総復習』50『とはずがたり』『たまきはる』

『とはずがたり』を読む

『とはずがたり』は面白い古典だ。発見されたのが昭和に入ってからという新しい?古典だというのもいわく付きだ。宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書にあったという。昭和15年に国文学者山岸徳平によって発見されたというが、一般への公開は戦後昭和25年であるという。これはその内容から戦後になってからしか一般に発表できなかったからかもしれない。

この作品は中世の女流日記という概括でいいが、その内容がいかにも退廃的で赤裸々である。後深草院に仕えた絶世の美女の女房二条と言う女性が宮中を中心とした世界で多くの男性と交わる様が告白と言う形で語られる。現代の倫理観からいったらとてつもない男性との交わり方だが、これは当時の女性が置かれた立場がいかに男性の性欲の犠牲となっていたかの証左かもしれない。それと当時の王朝がいかに退廃の極みに達していたが伺える。天皇家ばかりか仏教徒である僧侶までもである。以下こんなことが続く。

後の関白西園寺実兼、「雪の曙」という人物の求愛を受けていた「二条」が、仕えていた「後深草院」に関係を迫られ結局はその子を身ごもる。
その妊娠中、里下がりしていた時にその「雪の曙」と関係を持ち、その後も関係を持ち続けまた結局はその子を身ごもる。
その後「有明の月」という偉い僧侶に見初められ関係を持ち続ける。
今度は「大殿」と呼ばれる人物と契ることになる。しかも「後深草院」の寝ている側でだ。
この「後深草院」がおかしい。「有明の月」との関係を知っても二人の関係を取り持とうとする。
久しぶりに「有明の月」と関係を持った「二条」はここでも懐妊する。
その懐妊中に今度は「後深草院」の弟「亀山院」に手篭めにされてしまう。

いやはやとんでも無い世界だ。こうした世界は平安時代の王朝にもあったかもしれない。また、この作者も『源氏物語』を確かに意識していた。しかし、『源氏物語』にある節度というか触れない部分までもこの日記は触れていることは確かだ。これが中世という時代なのかもしれない。

だが、この作品はこうした部分のみで終わっていない。実は後半の旅の記録もその時代の特徴を表している。
尼になった二条は熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へと旅をしている。また、最後は厳島に行っている。現代であればなんということも無い旅だが、当時はとんでも無い冒険と言っていいはずのものに違い無い。なんと言っても歩いていくのだから。

さて、作者二条は幼いころ西行の旅の絵を見て旅に憧れたという記述が初めの方にある。以下だ。

 九の年にや、西行が修行の記といふ絵を見しに、かたかたに深き山を描きて、前には河の流れを描きて、花の散りかかるにゐて、ながむるとて、
 風吹ば花の白浪岩超えて渡りわづらふ山川の水
と詠みたるを描きたるを見しより、うらやましく、難行苦行はかなわすとも、我も世を捨てて、足にまかせて行つつ、花のもと、露の情けをも慕ひ紅葉の秋の散る恨みをも述べて、かかる修行の記を書き記して、亡からん後の形見にもせばやと思しを…

 

こうした伏線が後半の旅の記述となる。当時すでに西行の旅がひとつの憧れになっていたことが伺える。旅が一般化したといっていいかもしれない。江ノ島の記述を引いておく。

  二十日余りのほどに、江ノ島といふ所に着きぬ。所のさま、おもしろしとも、なかなか言の葉ぞなき。漫々たる海の上に、離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊まる。

 
その後鎌倉に入り、幾つかのの寺社や八幡宮に参詣する様が描かれる。こうした旅は何と言ってもこの時代の京都と鎌倉という二重政権時代がもたらしたものだ。次に読む『十六夜日記』は実際の重要な用事を抱えた人物の鎌倉行きだが、この作者のような旅もまた行われるようになったのである。

『たまきはる』

「たまきはる」とは「命」にかかる枕詞。冒頭の和歌から取られる。作者は藤原俊成の娘健御前と言われる人物。これも日記という概括だが、むしろ「枕草子」的な書物と言える。基本老後の回想記で平家時代の王朝の生活を後の時代の宮中の女房たちに伝えるといった内容となっている。当時の服飾等が詳細に描かれているところに読みどころがある。この大系本では巻末に「服飾関係語要覧」が付され、その道の研究者には興味深いかもしれない。

この巻で丁度50冊目に達した。当初の予定より約一ヶ月遅れているが、読書の秋を期待しなんとか目標に達したい。しかし、この後は難敵?もあるのでどうかなと言ったところだ。

この項了

2017.07.20

『日本古典文学総復習』49『竹林抄』

『竹林抄』を読む

中世に入って和歌文学に大きな変動が起きる。それは連歌がその中心となる変動だ。和歌文学は古今集以来短歌を中心に発展してきた。しかし、その発展はあまりに技巧的にまた理論的になっていった結果、その文学的生命を失っていった。そこに元々ある連歌が格式を整えてその中心を担うようになった。連歌はもともと短歌形式の上の句と下の句を別々の人物が詠むものとして単独では成立していた。しかしここでいう「連歌」はその形式を百首連ねて一つの世界を形作る鎖連歌だ。多くの連歌師があらわれ、いろいろな場で行われるようになる。したがってこの連歌は個人的な表現というより集団の表現ということになる。
なぜこうした連歌が流行したのか。これには様々な背景があるだろうが、やはり文化が貴族的なものから武士的なものへ、都中心から地方へ拡散したことが大きいと思える。ただ、始め「連歌」は堂上連歌と言われた貴族的なもので用語も和歌的なものに限られたいた。しかし、時代が室町に入ると俳諧連歌というものが現れ、一挙に庶民化していく。そしてこれが芭蕉の俳諧を生むのである。こうしたことからもこの連歌には和歌にない「とっつきやすさ」があったと思われる。
さて、この『竹林抄』はその連歌において最初の大宗匠といえる宗祗が七人の連歌師の付けあいの例を集めた書物だ。多分連歌のお手本といったものだったのだろう。七人の付けあいの例を若干の注釈を付けて紹介する。

 いつかは消えん雪の古道
荒小田に去年の蓬の萌え侘て   心 敬

 
冬から春への季移り。「荒小田の去年の古跡の古蓬今は春べとひこばえにけり」(新古今和歌集)を踏まえた付け。

  信楽や夏山向ふ谷深み 
杣木流るる瀬々の五月雨     能 阿

 
「信楽」は歌枕。「都だに雪降りぬれば信楽の真木の杣山跡絶えぬらむ」(金葉和歌集)を踏まえた付け。

  深き夜に乱るる蛍飛消えて
月をあらはす草むらの露     賢 盛

 
「蛍」の明かりは「情念」の明かりだが、「月」の光は「悟り」の光。情景の転換の付け。

  散らし置くあだ言の葉に名や立たん
嵐の山の木々の冬枯れ      行 助

 
「名や立たん」を受けて有名な「嵐山」の冬の情景にたとえる付け。

  後と契るをいかが憑まん
逢ふ夜だにつゐに心のとけもせで 専 順

 
「後でとする」約束どころか、実際に逢っている夜でさえ、うまくはいかないのだ、と付ける。

  古郷は野に吹く風のやどりにて
旅寝の夢はやすく覚めけり    宗 砌

 
「古郷」を遠く離れた「旅寝の夢」は「古郷」を思う夢だと付ける。

  消えやらぬ頭の雪のます鏡
水に向へば我ぞうたかた     智 蘊

 
「消えやらぬ」に「うたかた」が、「鏡」に「水」が付く。自分の姿を省みる。

この項了

2017.07.15

『日本古典文学総復習』48『五山文学集』

『五山文学集』を読む

日本古典文学史において、いわば忘れ去られた存在に漢詩文がある。この大系でもようやくここに漢詩集が現れる。この巻に収められているのは鎌倉から室町にかけて作られた禅宗の僧による漢詩だ。禅宗はこの時期の国家的な仏教の宗派である。庶民的な浄土宗に対して武家権力によって保護された仏教宗派である臨済宗の寺院は鎌倉五山および京都五山として時の武家権力によって保護され、ランク付けされた。その寺院の僧たちが漢詩を残している。それを「五山文学」という。
さて、漢詩は日本文学においてどのようは位置を占めていたのだろうか。漢詩はもとより中国の詩である。中国においても科挙の試験の一科目になるなど、エリートにとっての必須の教養であった。中国から圧倒的な影響を受けていた古代日本に於いても権力者やその周辺にいる知識人にとってもそうした意味を持っていたはずだ。しかし、文学的表現は依然として和歌がその中心を担っていた為に漢詩はむしろ知識人にとって個人的なものに偏った形で存在していた。後の時代の江戸幕末期に於いても成島柳北といった知識人も漢詩を多く残しているが、むしろここに個人的な感慨を込めていたように思える。近代に於いても夏目漱石が漢詩を多く残しているが、小説に行き詰まった時に精神の安定のために漢詩の作成に勤しんだようだ。
つまり漢詩はその本国と違って日本に於いては文学史の表舞台には登らず、文学表現者たちの個人的な表現にとどまっていたと言える。
以下絶海中津と義堂周信の幾つかの漢詩を紹介しておく。

絶海中津

元章の日本に帰るを送る

天は版図を照らして気象雄なり、
九畿処として皇華ならざるは無し。
雲は連なる 比叡三千の院、
夜は静かなり 将軍十万の家。
(えうでう)は春に沙苑の草に嘶き、
綿蛮として朝に上林の花に囀る。
法幢若し亀山の下に到らば、
応に神竜有つて木叉を護るべし。

送元章帰日本
天照版図雄気象、
九畿無処不皇華。
雲連比叡三千院、
夜静将軍十万家。
(えうでう)春嘶沙苑草、
綿蛮朝囀上林花。
法幢若到亀山下、
応有神竜護木叉。

題画

千里の雄姿、
未だ嘗て覊を受けず。
世に伯楽無し、
識る者は誰なりや。

題画
千里雄姿、
未嘗受覊。
世無伯楽、
識者為誰。

行人至る

渓辺も古木 残暉を弄ぶ、
千里の行人初めて到る時。
自ら説く 三年征役の恨み、
誰か能く双鬢糸と成らざる。

行人至
渓辺古木弄残暉、
千里行人初到時。
自説三年征役恨、
誰能双鬢不成糸。

春夢

蝶は南華に入つて曾栩々、
相逢うて語らんと欲し意綢繆。
一たび宋玉の賦成りてより後、
暮雨朝雲 総て是愁ひ。

春夢
蝶入南華曾栩々、
相逢欲語意綢繆。
一従宋玉賦成後、
暮雨朝雲総是愁。

義堂周信

鴉の浴するを看るに因りて戯れに作る

爾老鴉の頻りに池に浴するを看る、
鵠の白きに同じからんと要するも也た為り難し。
如かず 旧に仍つて黔して黒きに、
群禽をして特地に疑はしむることを免れん。

因看鴉浴戯作
看爾老鴉頻浴池、
要同鵠白也難為。
不如仍旧黔而黒、
免使群禽特地疑。

庭前の桜花未だ開かず、戯れに友人に答ふ

幽花は雨の頻りに催すことを受けず、
羞を含んで白昼に開くことを怕るべし。
伝語す 春を尋ねて園を買ふ者に、
更に燭を点じて夜深けて来たるべし。

庭前桜花未開、戯答友人
幽花不受雨頻催、
可怕含羞白昼開。
伝語尋春買園者、
更須点燭夜深来。

この項了

2017.07.14

『日本古典文学総復習』47『中世和歌集室町編』

和歌は室町時代に入ると連歌にその短詩形文学の中心を譲る。しかし、この時代においても和歌は綿々と作られていく。ただ、その内容は形式的になっていき本来の文学的な生命は失われていったように思える。それがかえって和歌に対する反省を促して多くの優れた歌論書が現れたのもこの時代であった。ここに登場する歌人たちはあるいは連歌にその中心を据えたり、歌論にその心血を注いだ人物たちだ。

『兼好法師集』

ご存知『徒然草』の作者吉田兼好の自選歌集草稿。『風雅和歌集』のためと言われている。

空にのみさそふあらしにもみぢ葉のふりもかくさぬ山の下道

かはりゆく心はかねて知られしを恨みしゆへと思ひけるかな

『慶運百首』

二条派歌人の慶運の自選歌集。

夏山の風こそにほへ蝉の羽のうすはな桜けふや咲らん

『後普光園院殿御百首』

二条良基の自選百首詠。二条良基は『莬玖波集』の編者、すなわち連歌の大成者として知られた人物。ここは短歌のみ。

つらさのみ絶えぬ契りも惜しからで心の限り恨みつるかな

『頓阿法師詠』

二条派の歌人の詠歌集。歌論書『井蛙抄』で知られる。

花の香のさそふ山路をわけゆけば八重立つ雲に春風ぞ吹

『永享五年正徹詠草』

歌僧正徹の詠歌集。正徹も歌論家で『正徹物語』で知られる。

つらきえをつつむ涙の玉柏夏としもなき袖ぞくちゆく

『宝徳二年十一月仙洞歌合』

禁裏公家社会の人々による歌合。

五十二番
左 持 勝
いかにして逢ひ見ることを寝るがうちの夢かと計忍びはてまし

忍びわびぬ命にむかふ我中の夢の契りは又も結ばで

『寛正百首』

心敬が参籠中に詠進した歌集。心敬も『ささめごと』でしられる歌論家。連歌もよくする。

今朝はまだこまかによする汀のみ氷てのこる池のさざなみ

『内裏着到百首』

内裏着到とは毎日内裏に参内した時に提出する和歌のこと。それを集めたものとなる。

下消の雪のしづくの氷にも春きてさむき松の色かな

『再昌草』

三条西実隆の日次詠草集。ここは七十歳の一年の日々の歌を集める。

朽ちぬ名を世に残さなん祈こし我も老木の松の言の葉

『玄旨百首』

武人細川幽斎の百首。

恋死なん身の思ひ出に草の原とはんと契る一言もがな

この項了

2017.07.10

『日本古典文学総復習』46『中世和歌集鎌倉編』

再び和歌文学に戻る。万葉以来文学の中心だった和歌は『新古今和歌集』でいわば行き着く処まで行き着いた感があるが、その『新古今和歌集』前後の私家集を集めたのがこの巻だ。9種の私家集。私家歌合が収められている。和歌がどんな運命を辿ったかは文学史が教える処だが、この後中心を連歌に譲ってゆく。その後にはやがて俳諧へと短詩系文学史の中心を譲ってゆくわけだが、ここに収められた歌人たちの歌はその最後を飾るにふさわしいものなのだろう。今回は虚心に歌集を紐解く形で読んで行くことにする。ふと心にとまった歌を各1、2書き写すことにする。

『山家心中集』

西行晩年の最も小規模な自選詩華選

谷の底にひとりぞ松もたてりけるわれのみともはなきかと思えば

ここをまたわれすみうくてうかれなば松はひとりにならむとすらん

『南海漁父北山樵客百番歌合』

良経と慈円の私的な歌合

七十六番 山家
左 勝
をのれだにたえず音せよ松のかぜ花ももみぢも見ればひととき

なさけありて花のゆかりにとふ人は風にぞかかる春の山里

『定家卿百番歌合』

定家自ら自詠二百首を選歌し、百番の歌合に仕立てた書

八十五番
左 勝
忘るなよやどるたもとは変るともかたみにしぼる袖の月かげ

わかれても心へだつな旅衣幾えかさなる山路なりとも

『家隆卿百番歌合』

家隆自ら自詠二百首を選歌し、百番の歌合に仕立てた書

五十五番
左 勝
いたづらに人はしらでや暮すらんけふより我をおもひそむとも

しらすべき煙も雲にうづもれぬ浅間の嶽の夕暮の空

『遠島御百首』

承久の乱によって隠岐に配流された後鳥羽法皇が在島初期に詠出した百首

今日とてや大宮人のかへつらん昔語の夏衣かな

我こそは新島守よ隠岐の海のあらき浪風心して吹け

『明恵上人歌集』

三部からなる明恵上人の歌集。自選部分と高信という人物が編集した部分からなる

空イロノカミニエガキテ見ユルカナキリニマギルル松ノケシキハ

思アマリカクコトノ葉イロニイデバ空ノシグレヲ涙トハ見ヨ

『文応三百首』

後嵯峨天皇第二皇子宗尊親王の歌集

ときはなる松にも同じ春風のいかに吹けばかはなの散るらん

『中院詠草』

定家の子息為家の家集

むかしとてかたるばかりの友もなしみのの小山の松のふる木は

『金玉歌合』

伏見院と京極為兼の歌合。右が為兼、左が伏見院。

三六番

待わぶるその久しさの程よりはまだよひすぎぬ月ぞうれしき

とはれんも今はよしやの明がたもまたれずはなき月のよすがら

『永福門院百番御自歌合』

永福門院の詠作二百首を百番の歌合とした書

八十二番

契けりまちけり哀其時のことの葉残る水茎のあと

うかりしも哀なりしもあらぬ世の今になりてはみなぞ恋しき

この項了

2017.07.04