『日本古典文学総復習』50『とはずがたり』『たまきはる』

『とはずがたり』を読む

『とはずがたり』は面白い古典だ。発見されたのが昭和に入ってからという新しい?古典だというのもいわく付きだ。宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書にあったという。昭和15年に国文学者山岸徳平によって発見されたというが、一般への公開は戦後昭和25年であるという。これはその内容から戦後になってからしか一般に発表できなかったからかもしれない。

この作品は中世の女流日記という概括でいいが、その内容がいかにも退廃的で赤裸々である。後深草院に仕えた絶世の美女の女房二条と言う女性が宮中を中心とした世界で多くの男性と交わる様が告白と言う形で語られる。現代の倫理観からいったらとてつもない男性との交わり方だが、これは当時の女性が置かれた立場がいかに男性の性欲の犠牲となっていたかの証左かもしれない。それと当時の王朝がいかに退廃の極みに達していたが伺える。天皇家ばかりか仏教徒である僧侶までもである。以下こんなことが続く。

後の関白西園寺実兼、「雪の曙」という人物の求愛を受けていた「二条」が、仕えていた「後深草院」に関係を迫られ結局はその子を身ごもる。
その妊娠中、里下がりしていた時にその「雪の曙」と関係を持ち、その後も関係を持ち続けまた結局はその子を身ごもる。
その後「有明の月」という偉い僧侶に見初められ関係を持ち続ける。
今度は「大殿」と呼ばれる人物と契ることになる。しかも「後深草院」の寝ている側でだ。
この「後深草院」がおかしい。「有明の月」との関係を知っても二人の関係を取り持とうとする。
久しぶりに「有明の月」と関係を持った「二条」はここでも懐妊する。
その懐妊中に今度は「後深草院」の弟「亀山院」に手篭めにされてしまう。

いやはやとんでも無い世界だ。こうした世界は平安時代の王朝にもあったかもしれない。また、この作者も『源氏物語』を確かに意識していた。しかし、『源氏物語』にある節度というか触れない部分までもこの日記は触れていることは確かだ。これが中世という時代なのかもしれない。

だが、この作品はこうした部分のみで終わっていない。実は後半の旅の記録もその時代の特徴を表している。
尼になった二条は熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へと旅をしている。また、最後は厳島に行っている。現代であればなんということも無い旅だが、当時はとんでも無い冒険と言っていいはずのものに違い無い。なんと言っても歩いていくのだから。

さて、作者二条は幼いころ西行の旅の絵を見て旅に憧れたという記述が初めの方にある。以下だ。

 九の年にや、西行が修行の記といふ絵を見しに、かたかたに深き山を描きて、前には河の流れを描きて、花の散りかかるにゐて、ながむるとて、
 風吹ば花の白浪岩超えて渡りわづらふ山川の水
と詠みたるを描きたるを見しより、うらやましく、難行苦行はかなわすとも、我も世を捨てて、足にまかせて行つつ、花のもと、露の情けをも慕ひ紅葉の秋の散る恨みをも述べて、かかる修行の記を書き記して、亡からん後の形見にもせばやと思しを…

 

こうした伏線が後半の旅の記述となる。当時すでに西行の旅がひとつの憧れになっていたことが伺える。旅が一般化したといっていいかもしれない。江ノ島の記述を引いておく。

  二十日余りのほどに、江ノ島といふ所に着きぬ。所のさま、おもしろしとも、なかなか言の葉ぞなき。漫々たる海の上に、離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊まる。

 
その後鎌倉に入り、幾つかのの寺社や八幡宮に参詣する様が描かれる。こうした旅は何と言ってもこの時代の京都と鎌倉という二重政権時代がもたらしたものだ。次に読む『十六夜日記』は実際の重要な用事を抱えた人物の鎌倉行きだが、この作者のような旅もまた行われるようになったのである。

『たまきはる』

「たまきはる」とは「命」にかかる枕詞。冒頭の和歌から取られる。作者は藤原俊成の娘健御前と言われる人物。これも日記という概括だが、むしろ「枕草子」的な書物と言える。基本老後の回想記で平家時代の王朝の生活を後の時代の宮中の女房たちに伝えるといった内容となっている。当時の服飾等が詳細に描かれているところに読みどころがある。この大系本では巻末に「服飾関係語要覧」が付され、その道の研究者には興味深いかもしれない。

この巻で丁度50冊目に達した。当初の予定より約一ヶ月遅れているが、読書の秋を期待しなんとか目標に達したい。しかし、この後は難敵?もあるのでどうかなと言ったところだ。

この項了

2017.07.20

『日本古典文学総復習』49『竹林抄』

『竹林抄』を読む

中世に入って和歌文学に大きな変動が起きる。それは連歌がその中心となる変動だ。和歌文学は古今集以来短歌を中心に発展してきた。しかし、その発展はあまりに技巧的にまた理論的になっていった結果、その文学的生命を失っていった。そこに元々ある連歌が格式を整えてその中心を担うようになった。連歌はもともと短歌形式の上の句と下の句を別々の人物が詠むものとして単独では成立していた。しかしここでいう「連歌」はその形式を百首連ねて一つの世界を形作る鎖連歌だ。多くの連歌師があらわれ、いろいろな場で行われるようになる。したがってこの連歌は個人的な表現というより集団の表現ということになる。
なぜこうした連歌が流行したのか。これには様々な背景があるだろうが、やはり文化が貴族的なものから武士的なものへ、都中心から地方へ拡散したことが大きいと思える。ただ、始め「連歌」は堂上連歌と言われた貴族的なもので用語も和歌的なものに限られたいた。しかし、時代が室町に入ると俳諧連歌というものが現れ、一挙に庶民化していく。そしてこれが芭蕉の俳諧を生むのである。こうしたことからもこの連歌には和歌にない「とっつきやすさ」があったと思われる。
さて、この『竹林抄』はその連歌において最初の大宗匠といえる宗祗が七人の連歌師の付けあいの例を集めた書物だ。多分連歌のお手本といったものだったのだろう。七人の付けあいの例を若干の注釈を付けて紹介する。

 いつかは消えん雪の古道
荒小田に去年の蓬の萌え侘て   心 敬

 
冬から春への季移り。「荒小田の去年の古跡の古蓬今は春べとひこばえにけり」(新古今和歌集)を踏まえた付け。

  信楽や夏山向ふ谷深み 
杣木流るる瀬々の五月雨     能 阿

 
「信楽」は歌枕。「都だに雪降りぬれば信楽の真木の杣山跡絶えぬらむ」(金葉和歌集)を踏まえた付け。

  深き夜に乱るる蛍飛消えて
月をあらはす草むらの露     賢 盛

 
「蛍」の明かりは「情念」の明かりだが、「月」の光は「悟り」の光。情景の転換の付け。

  散らし置くあだ言の葉に名や立たん
嵐の山の木々の冬枯れ      行 助

 
「名や立たん」を受けて有名な「嵐山」の冬の情景にたとえる付け。

  後と契るをいかが憑まん
逢ふ夜だにつゐに心のとけもせで 専 順

 
「後でとする」約束どころか、実際に逢っている夜でさえ、うまくはいかないのだ、と付ける。

  古郷は野に吹く風のやどりにて
旅寝の夢はやすく覚めけり    宗 砌

 
「古郷」を遠く離れた「旅寝の夢」は「古郷」を思う夢だと付ける。

  消えやらぬ頭の雪のます鏡
水に向へば我ぞうたかた     智 蘊

 
「消えやらぬ」に「うたかた」が、「鏡」に「水」が付く。自分の姿を省みる。

この項了

2017.07.15

『日本古典文学総復習』48『五山文学集』

『五山文学集』を読む

日本古典文学史において、いわば忘れ去られた存在に漢詩文がある。この大系でもようやくここに漢詩集が現れる。この巻に収められているのは鎌倉から室町にかけて作られた禅宗の僧による漢詩だ。禅宗はこの時期の国家的な仏教の宗派である。庶民的な浄土宗に対して武家権力によって保護された仏教宗派である臨済宗の寺院は鎌倉五山および京都五山として時の武家権力によって保護され、ランク付けされた。その寺院の僧たちが漢詩を残している。それを「五山文学」という。
さて、漢詩は日本文学においてどのようは位置を占めていたのだろうか。漢詩はもとより中国の詩である。中国においても科挙の試験の一科目になるなど、エリートにとっての必須の教養であった。中国から圧倒的な影響を受けていた古代日本に於いても権力者やその周辺にいる知識人にとってもそうした意味を持っていたはずだ。しかし、文学的表現は依然として和歌がその中心を担っていた為に漢詩はむしろ知識人にとって個人的なものに偏った形で存在していた。後の時代の江戸幕末期に於いても成島柳北といった知識人も漢詩を多く残しているが、むしろここに個人的な感慨を込めていたように思える。近代に於いても夏目漱石が漢詩を多く残しているが、小説に行き詰まった時に精神の安定のために漢詩の作成に勤しんだようだ。
つまり漢詩はその本国と違って日本に於いては文学史の表舞台には登らず、文学表現者たちの個人的な表現にとどまっていたと言える。
以下絶海中津と義堂周信の幾つかの漢詩を紹介しておく。

絶海中津

元章の日本に帰るを送る

天は版図を照らして気象雄なり、
九畿処として皇華ならざるは無し。
雲は連なる 比叡三千の院、
夜は静かなり 将軍十万の家。
(えうでう)は春に沙苑の草に嘶き、
綿蛮として朝に上林の花に囀る。
法幢若し亀山の下に到らば、
応に神竜有つて木叉を護るべし。

送元章帰日本
天照版図雄気象、
九畿無処不皇華。
雲連比叡三千院、
夜静将軍十万家。
(えうでう)春嘶沙苑草、
綿蛮朝囀上林花。
法幢若到亀山下、
応有神竜護木叉。

題画

千里の雄姿、
未だ嘗て覊を受けず。
世に伯楽無し、
識る者は誰なりや。

題画
千里雄姿、
未嘗受覊。
世無伯楽、
識者為誰。

行人至る

渓辺も古木 残暉を弄ぶ、
千里の行人初めて到る時。
自ら説く 三年征役の恨み、
誰か能く双鬢糸と成らざる。

行人至
渓辺古木弄残暉、
千里行人初到時。
自説三年征役恨、
誰能双鬢不成糸。

春夢

蝶は南華に入つて曾栩々、
相逢うて語らんと欲し意綢繆。
一たび宋玉の賦成りてより後、
暮雨朝雲 総て是愁ひ。

春夢
蝶入南華曾栩々、
相逢欲語意綢繆。
一従宋玉賦成後、
暮雨朝雲総是愁。

義堂周信

鴉の浴するを看るに因りて戯れに作る

爾老鴉の頻りに池に浴するを看る、
鵠の白きに同じからんと要するも也た為り難し。
如かず 旧に仍つて黔して黒きに、
群禽をして特地に疑はしむることを免れん。

因看鴉浴戯作
看爾老鴉頻浴池、
要同鵠白也難為。
不如仍旧黔而黒、
免使群禽特地疑。

庭前の桜花未だ開かず、戯れに友人に答ふ

幽花は雨の頻りに催すことを受けず、
羞を含んで白昼に開くことを怕るべし。
伝語す 春を尋ねて園を買ふ者に、
更に燭を点じて夜深けて来たるべし。

庭前桜花未開、戯答友人
幽花不受雨頻催、
可怕含羞白昼開。
伝語尋春買園者、
更須点燭夜深来。

この項了

2017.07.14

『日本古典文学総復習』47『中世和歌集室町編』

和歌は室町時代に入ると連歌にその短詩形文学の中心を譲る。しかし、この時代においても和歌は綿々と作られていく。ただ、その内容は形式的になっていき本来の文学的な生命は失われていったように思える。それがかえって和歌に対する反省を促して多くの優れた歌論書が現れたのもこの時代であった。ここに登場する歌人たちはあるいは連歌にその中心を据えたり、歌論にその心血を注いだ人物たちだ。

『兼好法師集』

ご存知『徒然草』の作者吉田兼好の自選歌集草稿。『風雅和歌集』のためと言われている。

空にのみさそふあらしにもみぢ葉のふりもかくさぬ山の下道

かはりゆく心はかねて知られしを恨みしゆへと思ひけるかな

『慶運百首』

二条派歌人の慶運の自選歌集。

夏山の風こそにほへ蝉の羽のうすはな桜けふや咲らん

『後普光園院殿御百首』

二条良基の自選百首詠。二条良基は『莬玖波集』の編者、すなわち連歌の大成者として知られた人物。ここは短歌のみ。

つらさのみ絶えぬ契りも惜しからで心の限り恨みつるかな

『頓阿法師詠』

二条派の歌人の詠歌集。歌論書『井蛙抄』で知られる。

花の香のさそふ山路をわけゆけば八重立つ雲に春風ぞ吹

『永享五年正徹詠草』

歌僧正徹の詠歌集。正徹も歌論家で『正徹物語』で知られる。

つらきえをつつむ涙の玉柏夏としもなき袖ぞくちゆく

『宝徳二年十一月仙洞歌合』

禁裏公家社会の人々による歌合。

五十二番
左 持 勝
いかにして逢ひ見ることを寝るがうちの夢かと計忍びはてまし

忍びわびぬ命にむかふ我中の夢の契りは又も結ばで

『寛正百首』

心敬が参籠中に詠進した歌集。心敬も『ささめごと』でしられる歌論家。連歌もよくする。

今朝はまだこまかによする汀のみ氷てのこる池のさざなみ

『内裏着到百首』

内裏着到とは毎日内裏に参内した時に提出する和歌のこと。それを集めたものとなる。

下消の雪のしづくの氷にも春きてさむき松の色かな

『再昌草』

三条西実隆の日次詠草集。ここは七十歳の一年の日々の歌を集める。

朽ちぬ名を世に残さなん祈こし我も老木の松の言の葉

『玄旨百首』

武人細川幽斎の百首。

恋死なん身の思ひ出に草の原とはんと契る一言もがな

この項了

2017.07.10

『日本古典文学総復習』46『中世和歌集鎌倉編』

再び和歌文学に戻る。万葉以来文学の中心だった和歌は『新古今和歌集』でいわば行き着く処まで行き着いた感があるが、その『新古今和歌集』前後の私家集を集めたのがこの巻だ。9種の私家集。私家歌合が収められている。和歌がどんな運命を辿ったかは文学史が教える処だが、この後中心を連歌に譲ってゆく。その後にはやがて俳諧へと短詩系文学史の中心を譲ってゆくわけだが、ここに収められた歌人たちの歌はその最後を飾るにふさわしいものなのだろう。今回は虚心に歌集を紐解く形で読んで行くことにする。ふと心にとまった歌を各1、2書き写すことにする。

『山家心中集』

西行晩年の最も小規模な自選詩華選

谷の底にひとりぞ松もたてりけるわれのみともはなきかと思えば

ここをまたわれすみうくてうかれなば松はひとりにならむとすらん

『南海漁父北山樵客百番歌合』

良経と慈円の私的な歌合

七十六番 山家
左 勝
をのれだにたえず音せよ松のかぜ花ももみぢも見ればひととき

なさけありて花のゆかりにとふ人は風にぞかかる春の山里

『定家卿百番歌合』

定家自ら自詠二百首を選歌し、百番の歌合に仕立てた書

八十五番
左 勝
忘るなよやどるたもとは変るともかたみにしぼる袖の月かげ

わかれても心へだつな旅衣幾えかさなる山路なりとも

『家隆卿百番歌合』

家隆自ら自詠二百首を選歌し、百番の歌合に仕立てた書

五十五番
左 勝
いたづらに人はしらでや暮すらんけふより我をおもひそむとも

しらすべき煙も雲にうづもれぬ浅間の嶽の夕暮の空

『遠島御百首』

承久の乱によって隠岐に配流された後鳥羽法皇が在島初期に詠出した百首

今日とてや大宮人のかへつらん昔語の夏衣かな

我こそは新島守よ隠岐の海のあらき浪風心して吹け

『明恵上人歌集』

三部からなる明恵上人の歌集。自選部分と高信という人物が編集した部分からなる

空イロノカミニエガキテ見ユルカナキリニマギルル松ノケシキハ

思アマリカクコトノ葉イロニイデバ空ノシグレヲ涙トハ見ヨ

『文応三百首』

後嵯峨天皇第二皇子宗尊親王の歌集

ときはなる松にも同じ春風のいかに吹けばかはなの散るらん

『中院詠草』

定家の子息為家の家集

むかしとてかたるばかりの友もなしみのの小山の松のふる木は

『金玉歌合』

伏見院と京極為兼の歌合。右が為兼、左が伏見院。

三六番

待わぶるその久しさの程よりはまだよひすぎぬ月ぞうれしき

とはれんも今はよしやの明がたもまたれずはなき月のよすがら

『永福門院百番御自歌合』

永福門院の詠作二百首を百番の歌合とした書

八十二番

契けりまちけり哀其時のことの葉残る水茎のあと

うかりしも哀なりしもあらぬ世の今になりてはみなぞ恋しき

この項了

2017.07.04

『日本古典文学総復習』44 45『平家物語』上下

『平家物語』を読む

『平家物語』といえば、何と言っても以下の冒頭部分を思い出す人がほとんどだろう。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

ここにはいわゆる「無常観」が述べられているわけだが、具体的には栄華を極めた平家一門の滅亡を語るこの物語の要約となっている。

 間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人の有様伝へ承るこそ心も詞も及ばれね

として、まずは清盛に焦点を当てる。この体系本の上巻はこの清盛の横暴ぶりとそれの対する反発が各地で醸成されていく様が描かれ、清盛の死を描く巻6までが収められている。
そのような前半の中で重要な人物として重盛という人物がいる。清盛の嫡子だが、父清盛とは全く違う人物として描かれている。かつて温情から源氏の嫡流の死罪を許すよう直言したのも重盛だ。この重盛の造形はこの作者にとって一種の理想像だったかもしれない。ただ、この理想像は旧時代の貴族的文化の枠内にあったと思われる。平家は武士団だが、覇権を握った後では殆ど平安朝の藤原氏と同じことをやっている。そのやり方はより強烈だが、その文化的背景は変わらない。清盛という人物像は滅亡期の平安貴族にある軟弱性はないが、やはりその枠内にいる。その嫡子重盛もまた全く父とは違う造形だがその枠内にいる人物だ。この重盛も病に侵され、治療を拒否して死んでゆく。あたかも平安貴族文化が死んでいくように。

さて、『平家物語』の真骨頂は後半にある。その中で私は「義仲最期」という部分が好きだ。ここに登場する義仲は源氏としていち早く蜂起し、京都を制圧した人物だ。ただ、その粗暴な振る舞いから同じ源氏の頼朝に滅ぼされてしまう。ただ、この人物と家来達には平家にはない新しい人物像があるように思う。また、この部分の描き方に『平家物語』が開いた新しい表現の様が見て取れるように思える。ともかく本文を読んでもらいたい。できれば声に出して。
唯、引用が長きにわたるのでここでは部分的に紹介する。
まずこの段で登場するのが「巴」という女性だ。この女性以下のように描かれる。

中にも巴は、いろしろく髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたきつよ弓・精兵、馬の上、かちだち、うち物もツては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵也。究竟のあら馬のり、悪所落し、いくさと言えばさねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々の高名、肩を並ぶるものなし。されば今度もおほくのものども落ちゆき討たれける中に、七騎が内まで巴は討たれざりけり。

つまり美人でありながら、一人の立派な強者だったと言うわけだ。こんな女性はこれまでの古典文学には存在しなかった。その戦いぶりは次のように描かれる。

「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん」とてひかたるところに、武蔵国に聞えたる大ぢから、恩田の八郎師重、三十騎ばかりで出できたり。巴その中へかけ入、恩田の八郎におし並べてむずととってひき落し、わがのったる鞍の前輪にをしつけて、ちっともはたかさず、頸ねぢきってすてってんげり。

なんと「首捩ぢ切つて捨ててけり」というのだ。
もう一人義仲の乳母子今井四郎兼平という人物。この人物は家来とはいえ義仲にとって実際の兄弟以上の存在。敗戦濃厚な義仲は自害すべきところをこの兼平逢いたさに逃げ延びる。

木曾殿、今井が手をとつての給ひけるは、「義仲、六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくゑの恋しさに、おほくの敵の中をかけ割って、これまではのがれたるなり」。今井四郎、「御諚まことにかたじけなう候。兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれ共、御ゆくゑの御おつかなさに、これまでまいって候」とぞ申ける。木曾殿、「契はいまだくちせざりけり。義仲が勢は、敵にをしへだてられ、山林にはせ散つてこの辺にもあるらん控へたるぞ。汝が巻かせて持たせたる旗あげさせよ」とのたまへば、今井が旗をさしあげたり。

ということで、再会した二人は最期の戦いをすることになる。しかし、主従二人となってしまう。その今井四郎は義仲に自害を勧め、最期の戦いをする。

今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入、あぶみふンばり立ちあがり、大音声をあげてなのりけるは、「日来は音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。木曾殿御めのと子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平討ツて見参にいれよ。とて射残したる八すぢの矢を、さしつめ引つめさんざんに射る。死生は知らず、やにわにかたき八騎射落す。其後打物抜いて、あれにはせあひ、これに馳あひきってまはるに、面をあはするものぞなき。分どりあまたしたりけり。只、「射とれや」とて、中にとりこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければうらかかず、あき間を射ねば手も負はず。

といった具合だ。しかし義仲は結局は自害できず、泥田に馬の脚を取られ、落馬したところを撃たれてしまう。

木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけたまふが、正月二十一日、入相ばかりの事なるに、うす氷ははつたりけり、ふか田ありとも知らずして、馬をざっとうち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。あをれどもあをれども、うてどもうてどもはたらかず。今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふぎたまへるうち甲を、三浦石田の次郎為久、追つかかって、よっぴいてひやうふつと射る。いた手なれば、まっこうを馬のかしらにあてて、うつぶしたまへる処に、石田が郎等二人落あふて、ついに木曾殿の頸をばとってんげり。

「この日比日本国に鬼神と聞えさせ給へる木曾殿」にしては無残な最期である。「今井が行方のおぼつかなさに」振り仰いだところを襲われてしまう。なんとも人間的ではないか。あの暴れん坊の将軍も最期に弱気を見せてしまう一人の男であった。そして、これを知った兼平は自害する。その死に様がすごい。

「いまはたれをかばはむとてか、いくさをもすべき。これ見たまへ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落、つらぬかつてぞ失せにける。

この話に登場する人物たちはこれまでの古典文学にはなかった人物たちであり、その躍動的な表現もこれまでの古典文学になかったものに思われる。ここには都人にはない新しい人物像があり、それを筆者は見事に表現している。戦いの様もそうだが、例えば以下のような武士の姿の描写は実際に武者達に触れて獲得したものと思われる。

木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧着て、鍬形うつたる甲の緒しめ、いかものづくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさに射て少々残つたるをかしらだかに負ひなし、しげどうの弓持って、聞ゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましひに、金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。

『平家物語』の筆者が多くの武者達に触れ、また語る者が次代の武者達から得た情報からも、こうした人物造形や描写を獲得していったと思われる。そうした意味でも中世に於いて画期をなす作品であることに間違いはない。

(なお、引用の本文は大系を筆者が電子化したものである。平家物語は異本が多いので断わっておく。)

この項了

『日本古典文学総復習』43

『保元物語』他二編を読む

中世に入って軍記物語というジャンルの一連の作品がある。『平家物語』はいわばその頂点の作品だが、それに先行する幾つかの作品がある。ここで取り上げる三つの作品がそうだ。これらの作品は鎌倉時代が成立し、政権が源氏から北条氏へと移った時代に書かれたと思われる。鎌倉時代はそれまでの京都を中心とする貴族の世界が、関東といういわば未開な地域の武士を中心とした世界に移っていた時代だ。そのプロセスをざっと見ると以下のようになる。

  1. はじめは天皇と上皇の対立があり、そこに武士団がそれぞれについて戦うという様相を示していた。
  2. 一旦は上皇側が覇権をとる。
  3. しかし、実際の戦いで必要不可欠であった武士団にその実権が握られ、その中で平家が覇権をとる。
  4. 一方覇権を取った平家によって追放された源氏が巻き返しを図る。
  5. やがて源氏が関東の武士団を中心に新たな政権を成立させる。
  6. ただ、源氏の血統は途絶え、関東武士団そのものが政権を運営することとなる。
  7. その中で京都側からの上皇を中心とした反乱が生じる。
  8. しかし、鎌倉幕府体制はその反乱を納めてしばらく安定する。

ざっとこういうプロセスがあり、その記録がここで取り上げる三つの軍記物語である。

『保元物語』は1、2のプロセスを、『平治物語』は3、4、5のプロセスを、『承久記』は6以降のプロセスを語っている物語だと言える。
もう少し具体的に見てみると

『保元物語』は「後白河院御即位ノ事」という記事から始まり、「為朝鬼島ニ渡ル事 并ビニ 最後ノ事」で終わる。
『平治物語』は「信頼・信西不快の事」という記事から始まり、「頼朝義兵を挙げらるる事 并びに 平家退治の事」で終わっている。
『承久記』はこうした章立てはなく、大きく古い時代から説き起こし、北条義時についてからはじめ、京都側の敗北までで終わっている。

ただ、これらの物語はあくまで物語であって正式な歴史書ではない。そして、『承久記』以外はそれまでの説話集の体裁をとっている。
すなわち「何々の事」と題された幾つかのエピソードを連ねて一つの物語としている。これはこの軍記物語がそれまでの説話集と同様、実際に流布していた幾つかのエピソードの内武士と内乱に関わる部分を集めることによって成立したことを思わせる。読者は武士団であったのだろう。読者というより聞き手と言って良いかもしれない。『平家物語』が琵琶法師によって流布したようにだ。そういう意味で言うと『承久記』がやや完成した作者による統一的な世界を持っていると言えるかもしれない。

さて、この三つの物語にはどんな特徴があるのだろうか?それを知るには以下の『保元物語』の末尾の一文を読むのがいい。

  源はタエハテニキト思シニ千世ノ為共今日見ツル哉
 昔ノ頼光ハ四天王ヲ仕テ、朝ノ御守ト成リ奉ル。近来ノ八幡太郎ハ、奥州ヘ二度下向シテ、貞任、宗任ヲ責メ落シ、武衡、家衡ヲシタガエテ御守ト成奉ル今ノ為朝ハ、十三ニテ筑紫ヘ下タルニ、三ケ年ニ鎮西ヲ随ヘテ、我ト惣追補使ニ成テ、六年治テ、十八歳ニテ都ヘ上リ、官軍ヲ射テカヰナヲ抜レ、伊豆ノ大島ヘ被流テ、カカルイカメシキ事共シタリ。二十八ニテ、終ニ人手ニ懸ジトテ、自害シケル。為朝ガ上コス源氏ゾナカリケル。保元ノ乱ニコソ、親ノ頸ヲ切ケル子も有ケレ、伯父ガ頸切ル甥モアレ、兄ヲ流ス弟モアレ、思ニ身ヲ投ル女性モアレ、是コソ日本ノ不思議也シ事共ナリ。

ここで語られている源為朝は敗者の側にいる人物だ。それを讃えている。これは完全に源氏の側からの言だと言わざるを得ない。この物語が源氏が覇権を取った後に流布したから当然かもしれないが、敗者に注目する姿勢は後の軍記物語の達成点『平家物語』にも受け継がれる特徴だと言える。

この項了

『日本古典文学総復習』42『宇治拾遺物語』『古本説話集』

『宇治拾遺物語』を読む

これもまた説話集である。この説話集は『今昔物語集』と共に人口に膾炙したものだ。近代作家の芥川龍之介がこの説話集の幾つかの話から作品を書いたことも一般に知られた要因だ。例えば、一八の「利仁、暑預粥事」、二五の「鼻長き僧の事」や三八の「絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶ事」などだ。
さて、この『宇治拾遺物語』は『今昔物語集』とは違って集められている説話はそれほど多くはない。上下あわせて二百に満たない。もっとも『今昔物語集』があまりに網羅的なので、そう見えるかもしれない。また、この『宇治拾遺物語』は先行する多くの説話集と重複する説話が多い。『今昔物語集』はもちろん先に見た『古事談』等からも多くの説話をとっている。
しかし、この『宇治拾遺物語』はそうした先行する説話集の単なる焼き直しに止まってはいない。ある統一的な編集方針といった物がうかがえるし、同じ説話でもより文学的な脚色が含まれている。また、編集者の優しい眼差しといったものもうかがえる話もある。ここではそれを紹介しておこう。

(一二 児ノカイ餅スルニ空寝シタル事 巻一ノ一二)
是も今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざかひもちいせん」といひけるを、この児、心よせに聞きけり。さりとて、しいださんを待ちて、寝ざらんも、わろかりなんと思ひて、かたかたよりて、寝たるよしにて、出で来るを待ちけるに、すでに、し出したるさまにて、ひしめき合ひたり。
この児、定めておどろかさんずらんと待ちゐたるに、僧の「物申さぶらはん。おどろかせ給へ」といふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへんも、待ちけるかともぞ思ふとて、今一声よばれていらへんと、念じて寝たる程に、「や、なおこしたてまつりそ。幼き人は寝入給ひにけり」といふ声のしければ、あなわびしと思ひて、今一度、おこせかしと思寝に聞けば、「ひしひし」とただくひにくふ音のしければ、すべなくて、無期の後に、「えい」といらへたりければ、僧達、笑ふ事、かぎりなし。

これは教科書にもとられていて知っている人も少なからずいるかと思う。いかにも少年らしい感情が語られている。多分この「児」は高貴な出なのかもしれない。そんな少年をあったかく見守る「僧達」もいい。微笑ましい説話だ。

 (一三 田舎児、桜ノ散ヲ見泣事 巻一ノ一三)
これも今は昔、ゐ中の児の、比叡の山へのぼりたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、此児、さめざめと泣きけるを見て、僧の、やわらよりて、「など、かうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなき物にて、かく程なくうつろひ候なり。されども、さのみぞさぶらふ」となぐさめければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。我父の作りたる麦の花散りて、実のいらざらん、思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、「よよ」と泣きければ、うたてしやな。

これも児の話。これは情緒ではなく実利を考える孝行な少年の話。「僧」と「児」の「ちぐはぐさ」がまたなんとも微笑ましい。最後の「うたてしやな」という語が単に「情けないことだ」と言っているのではなく、その「ちぐはぐさ」をおかしがっているように読めて、いい。
こうした話を取っている『宇治拾遺物語』は説話集の中でも一つの完成形に近い物を持っている気がする。一種の短編物語集の趣を持っていいる。

『古本説話集』を読む

これも説話集だが、昭和に入ってから発見されたという。前に見た『宇治拾遺物語』と成立を同じくしていた物だと言われている。この説話集も話がかなり編集され完成されている話が多いように思う。ここで取り上げる「僧」と「吉祥天女」の話もこれまで見てきた説話集に散見できた物だが、ここではしっかり一つの物語のように作られている。長いが本文を電子化したので読んでもらいたい。

 (六二 和泉国国分寺住持艶寄吉祥天女事)
今は昔、和泉の国国分寺に、鐘撞き法師ありけり。鐘撞き歩きけるに、吉祥天のおはしましけるを見たてまつるだに、思ひかけたてまりて、掻き抱きたてまつり、引き抓みたてまつり、口吸ふ真似などして、月ごろ経る程に、夢に見るやう、鐘撞きに上りたるに、例の事なれば、吉祥天をまさぐりたてまつるに、うちはたらきての給やう、「わ法師の、月来我を思ひかけてかくする、いとあはれ也。我、汝が妻にならむ。その月のその日、播磨の印南野にかならず来会え。そこにてぞ会はむずる」と見て、覚めて、嬉しきこと限りなし。物仰せられつる御顔の、現のやうに面影に立ちて見えさせ給へば、「いつしか、その月日になれかし」とおぼゆ。
明け暮るるもしづ心なき程に、からうじて待ちつけて、まづかしこにきををきて、印南野に、その日になりて、いつしかいつしかとし歩くに、えもいはぬ女房の、色々の衣着て、裾取り出で来たり。見つけて、「これか」と思へど、わななかれて、ふえ寄り付かず。女房、「いとあはれに来会ひたり」とて、「今は、まづ入るべき家一つ造れ」。「あはれ、いかにしてか造り候ふべき」と申せば、「ことにもあらず。とく始めよ」とある程に、男の、ある一人出で来て、「かく野中には、いかなる人のおはしますぞ」と言へば、「この辺に住まむと思ひて来たるに、家もなし。便りもなければ、いかがせまし」と言へば、「さては事にも候はず。己が候へば、何事に候ふと仕らん」と言へば、「まづおはしまし所造り候はん」とて、「人召して参らむ」とて往ぬ。その辺の宗とある物の、党多かるなりけり。告げまはしたりければ、集りて、桁一つをのをの持て続きて来たり。何も彼も降り湧くやうに出で来れば、このかく物する者とても、かつは、をのが物ども取り持て来。又物取らせなどして、程なく家めでたく造り、えもいはすしつらひて、据ゑたてまつりつ。近く参り寄りて臥したる心地、置き所なし。仰せらるる様、「我、今は汝か妻になりにたり。我を思はば、異妻なせそ。ただ我一人のみをせよ」と仰せらるる。これは、ただあらん女の、少し思はしからんが言はんだに、従はざるべきにあらず。まして、これは言ふ限りなし。「いかにも、ただ仰せに従ひてこそ候はめ」と申せば、「いとよく言ひたり」とて、あはれとおぼしたり。
かくて、田を作れば、この一反は異人の十町に向はりぬ。よろづに乏しき物つゆなし。その郡の人、叶はぬなし。隣の郡の人も、聞きつつ、物乞ふに従ひつ取らす。又持て居る馬、牛多かり。かくしつつ、一国に満ちにたれば、国の守も、やむごとなき物にして、言ひと言ふ事の聞かぬなし。
かく楽しくて年来ある程に、事の沙汰しに上の郡に行きて、日来ある程に、追従する物、「あはうの郡の、なにがしと申す者の女のいとよきをこそ召して、御足など打たせさせ給はめ」と言ひければ、「好き心湧きたりとも、犯さばこそはあらめ」と思ひて、「よかんなり」と言ひければ、心うく装束かせて、出で来にけり。近く呼び寄せて、足もたせなどしける程に、いかがありにけむ、親しくなりにけり。思ふとならねど、日来有りける程置きたりけり。
事の沙汰果てて帰りたりけるに、御気色いと悪しげにて、「いかで、さばかり契りしことをば破るぞ」とて、むつからせ給ひて、「今は我帰りなむ。ここにえあらじ」と仰せられければ、ことわり申し、なを慕ひ申けれど、「これ、年来の物なり」とて、大きなりける桶に、白き物を二桶かき出だして賜びて、いづちともなくて失せ給ひにければ、悔い泣きしけれども甲斐なし。この桶なりける物は、この法師の年来の淫欲といふ物を、溜め置かせ給へりけるなりけり。さて後は、いとどをのやうにもこそなけれど、いと貧しからぬ物にて、いとよくて、聖にて止みにけると、人の語りし也。

身分の低い僧が吉祥天女像に懸想して自慰行為をするという話の発端はこれまでの説話にも多く語られている。グラビヤや、まして動画などなかった時代、美しくふくよかな吉祥天女像は僧とはいえ若い男の性欲を刺激したに違いない。ただ、その吉祥天女像が反応する。吉祥天女は男の気持ちを汲み、「いとあはれ也。我、汝が妻にならむ」と言ってくれる。そして霊験あらたかにこの男の妻となっただけでなく、この男を出世させる。ただ、この天女多くの妻と同様嫉妬深かった。他の女を近づけるなと約束させる。しかし、男はある人の紹介で女と関係してしまう。よくある話だ。それを天女は知る。当然超能力者だからだ。その結末。なんと天女は「これ、年来の物なり」といって、「この法師の年来の淫欲といふ物」すなわち精液を、二桶置いて出て行ってしまう。いやはやなんとも言い難い結末だ。ただ、この僧そんなには不幸にはならなかったとしてこの話は終わっている。
そこに教訓めいた文言はない。よくまとまった話である。ここに説話が一つの短編物語に仕立てられる様を見る事ができる。
こうした説話集は読んでいて面白い物だ。『源氏物語』などは王朝の宮廷で語られ聞かれ読まれた。そしてこうした説話は中世以降やや広がった知識層に好まれ読まれ語られ聞かれたに違いない。それが江戸時代にもっと一般化する小説的な物へと発展する、そう思える。

この項了

『日本古典文学総復習』41『古事談』『続古事談』

『古事談』を読む

今回はこの新日本古典文学体系で最後の配本となった『古事談』を取り上げる。これもまた説話集という事になるだろうか。それにしても大部なものである。もっとも続編も収められてはいるが、九百ページを超えるこの書は到底読了はできないがその概要を記しておく。

この『古事談』は、鎌倉初期の説話集ということになっている。源顕兼という人物の編集による。奈良時代から平安中期に至るまでの実に462の説話を収める。王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6巻からなっていて、巻ごとに年代順で配列されている。文体は漢文が多いが、仮名交じり文もある。これは基にした資料を抜き書きするという方針によるものと思われる。したがって説話集と言うよりは一種の資料集といった趣となっている。という事は先行する文献からの引用が多いが、ほとんどが内容によらず客観的に収集する方針らしく、天皇を始めとする貴人に関してもその方針が変わらない。そういう意味でも一級の資料となっている。いわゆる正史とは違った人間性あふれる王朝史を見る事ができる。これまで見てきた仏教説話集とは違うわけである。

ではその一例を示しておく。

  (一 – 一七、一七)
 花山院御即位の日、馬内侍褰帳の命婦と為りて進み参る間、天皇高御座の内に引き入れしめ給ひて、忽ち以て配偶す、と云々。

ここで言う「配偶」とは「性交」のことだが、花山天皇が即位の時、馬内侍(当然女性)を御簾の内にいきなり引き込んで「やって」しまったという話。なんてことでしょう。

次はあの『枕草子』の作者、清少納言の晩年の話。

  (二 – 五五、一五四(庫一五五)
 清少納言、零落の後、若殿上人あまた同車して彼の宅の前を渡る間、宅の躰破壊したるをみて、「少納言は無下にこそ成りにけれ」と、車中に云ふを聞きて、本自桟敷に立ちたりけるが、簾を掻き揚げて、鬼の如くなる形の女法師、顔を指し出だす、と云々。「駿馬の骨をば買はずやありし」と云々。

清少納言の零落譚はこの他にも色々とあったようだ。

大部の書だけにこれだけでは物足りないが、ここらへんにしておくしかない。ただ、資料集として座右に置いておくべき書だ。

この項了

『日本古典文学総復習』40『宝物集』『閑居の友』『比良山古人霊託』

再び説話集。
平安時代が終わりにさしかからると時代は混乱の時代に突入する。この混乱はそれまでの貴族文化の担い手たちに大きな変化を余儀なくさせる事となる。すでにこれは『今昔物語集』に見てきた。また和歌の世界にも大きな変化をもたらしてきた。先に見た『方丈記』や『徒然草』もその表れだ。では仏教はどう変質したのか?ここで取り上げる『宝物集』『閑居の友』はこの時期の仏教説話集である。古典としてあまり馴染みのないこれらの作品はどのような内容を持っているのだろうか。その概要を見て行きたい。

『宝物集』を読む

『宝物集』は仏教説話集という事になっているが、これまで見た説話集とは趣を事にしている。断片的な説話を収集したというより、一つの物語の構成を取っている。
鬼界が島から京へ一人の男が戻って来る。そして釈迦堂に参詣する。
日中の釈迦堂。寺僧が本尊前で大勢の参詣者を相手に釈迦像渡来の由来を語る。
深夜の釈迦堂。数名の参詣者が「宝物」とは何かを論じあう。また法師が仏道とは何かを語る。
このような構成になっている。
内容は要するに物質的なものより精神的なものが何よりの「宝物」であり、現世的な苦悩から脱して仏道に精進して仏となるまでの道を歩むことこそ大事だするところにある。
ただ、こうした論を様々な傍証をもって説いているところにこの作品の特徴がある。多くの和歌が引用されていることが注目される。例えば以下だ。

 第六に、愛別離苦と申は、わかれをおしむを申侍るなり。これもあさきよりふかく申すべきなり。云々

 
として

   凡河内躬恒
 けふのみと春をおもはぬ時だにも立ことやすき花のかげかは

 
という歌以下五首の和歌を引用し、さらに夏を惜しむ歌五首を引用、さらには秋のわかれとして同様に歌五首を引用と和歌の引用が続き、この章だけでも実に百首以上の歌が引用されている。
和歌はこれまでの王朝文化の中心的な存在だ、その多くを引用し、それを仏教的な教義に結び付けているところに特徴がある。この「愛別離苦」は人間にとって最も感情を吐露しやすいテーマだから、古来多くの歌に詠まれてきたのは当然だ。しかしそれは本来仏教では「四苦八苦」の一つとして越えなければならないものだ。それを超えるのが仏の道に精進することだとするのである。
この『宝物集』はこうした意味でも未だ王朝文化の枠内にとどまったもののようだ。

『閑居の友』を読む

『閑居の友』は、慶政という人物の作とされる仮名文で書かれた鎌倉初期の仏教説話集である。2巻32話からなっている。各地の無名の人や、女性を主人公にとった説話が多く、その人物たちが発心、すなわち仏の道に入ることを紹介している。後の『発心集』の先駆的な作品だ。当時既成の仏教は世俗的な権力闘争に明け暮れ、本来の人々の救済という意味を失い、人々は浄土宗的な新興仏教に惹かれ始めた時代だ。そんな中この慶政という人物は既成仏教の中にあって真の救済装置としての仏教を問い直したかったのかもしれない。『閑居の友』という題名とは裏腹にそこに集められた説話の内容は厳しいものとなっている。その一端を以下の話に見ることができる。ちょと長いが引用する。

 下巻 九 宮腹の女房の、不浄の姿を見する事
 昔、某の僧都とて、尊き人、ある宮腹の女房に、心ざしを移す事ありけり。思ひかねてや侍りけん、うち口説き、心の底を表はしければ、この女、とばかりためらひて、「なじかは、さまでに煩ひ給ふべき。里にまかり出でたらんに、必ず案内し侍らむ」といひけり。この人、ただおほかたの情かとは思へども、さすがまた、昔には似ずなん思ひ居りける。
 かかるに、いくほどもあらで、「このほどまかり出でたる事侍。今宵はこれに侍べし」といひたり。さるべきやうに、出で立ちて行きぬ。この人出で会ひて、「仰せの揺るぎなく重ければ、まかり出でて侍。ただし、この身のありさま、臭く穢らはしき事、譬へていはんかたなし。頭の中には脳髄間なく湛へたり。膚の中に、肉・骨を纏へり。すべて、血流れ、膿汁垂りて、一も近付くべき事なし。しかあるを、さまざまの外の匂ひを傭ひて、いささかその身を飾りて侍れば、何となく心にくきさまに侍るにこそありけれ。そのまことのありさまを見給はば、定めてけうとく、恐ろしくこそおぼしなり給はめ。このよしをも細かに口説き申さむとて、『里へ』とは申し侍りしなり」とて、「人やある。火を灯して参れ」といひければ、切灯台に火いと明く灯して来たり。
 さて、引き物を上げつつ、「かくなん侍るを、いかでか御覧じ忍び給ふべき」とて出でたりけり。髪はそそけ上がりて、鬼などのやうにて、あてやかなりし顔も、青く、黄に変はりて、足などもその色ともなく、いぶせき汚くて、血ところどころ付きたる衣のあり香、まことに臭く、耐へがたきさまにて、さし出でてさめざめと泣きて、「日ごとに繕ひ侍るわざを止めて、ただ我が身の成り行くにまかせて侍れば、姿も着る物もかくなん侍るにはあらずや。そこは、仏道近き御身なれば、偽りの色を見せ奉らむも、かたがた畏れも侍りぬべければ、かやうにうちとけ侍りぬるなり」と、かき口説きいひけり。
 この人、つゆ物いふことなし。さめざめと泣きて、「いみじき友に逢ひ奉りて、心をなん改め侍りぬる」とて、車に急ぎ乗りて、返りにけりとなん。
 まことにいみじく賢く侍りける女の心なりけり。今の世にも、さほどおどろおどろしきまでこそなけれども、捨つとなれば、人の身はあらぬ物になり侍るにこそ。かの水の面に影を見て、身をいたづらになし果てけん、さこそは廃れけん顔立ては悲しく侍りけめ。小野小町がことを書き記せるものを見れば、姿も着る物も、目を恥ぢしめ侍るぞかし。まして、いたう顔も良からぬ人の、成り行くにまかせて侍らんは、などてかはこの女房の偽りの姿に異なるべき。いはんや、息止まり、身冷えて、夜を重ね、日を送らん時をや、いかにいはんや、膚ひはれ、膿汁流れて、筋とけ、肉とくる時をや。まことに、心を静めてのどかに思ふべし。

 
要約すれば、僧都が女房に惚れ密会する事になったが、女房はひどく醜い状態を僧都に見せ、改心させるという話。それにしてもこの女房、どうやってそれほどの醜さを演出したのかわからないが、作者は「まことにいみじく賢く侍りける女の心なりけり」とこの女を評価する。この女房だけではない、どんな人間もひと皮剥けば、みな醜いものなのだ。まして肉体が滅んでしまえばなおさらだと言っている。生を醜いものだとする考え方は現在ではあまり受け入れられないだろう。しかしこの時代には日常的に目にすることがあったのかもしれない。それほど荒れていた時代だからこそ仏教がそして浄土が望まれたのは確かかもしれない。

もう一つこの巻には作品がある。『比良山古人霊託』という小冊子だ。
『閑居の友』の作者慶政が法性寺という寺にいる間、二十一歳の女房に霊が憑いた。この霊が比良山の大天狗と告げ、鎌足以前の摂関家の祖と称する。その天狗との問答の記録がこの書である。この大天狗は反仏教的なものを象徴しているのだろう。もっと言えば土俗的なものの象徴とも言える。つまりは土俗的なものと仏教的な考え方の問答という事になる。しかもこの天狗の世界について詳細な叙述がある。こうした文書は当時の社会のあり方を知る上でも貴重なものと言えるし、当時の仏教が抱えていた問題を知る事もできる。

この項了