ここのところこの日本古典文学総復習も50巻を超えて滞ってしまった。これは夏ということもあって出かける機会が多いことと、何しろ暑いということも原因している。しかし、扱う書物が難解なことも大きな原因だ。今回も初めて聞く書名の文献だ。五山文学の資料といっていいものだが、扱われているのが漢詩というのも馴染みが薄い。漢詩はかつては知識人にとって必須の教養だった。明治の文学者まではまだ生きていたはずだ。そういう意味では日本文学史にあって一つの重要なジャンルをなしていたはずだ。しかし現在は忘れ去られてしまった。なんとかその概略だけでもここに示しておこうと思う。
『中華若木詩抄』について
「抄物」と言われる書物の一つで、如月寿印という人物が編纂したと言われる。17世紀の中頃に成立したらしい。唐や宋の詩人と日本の禅僧の手になる漢詩二百数十編に注釈を加えたものだ。「抄物」とは各種の作品を注釈し解説した書物をいうが、この「中華若木詩抄」は禅僧の手になっていて、当時禅僧にとって漢詩がいかに重要な教養であったが伺える。禅僧は当時の知識人の代表的存在だから漢詩が知識人の文学であったことは間違いない。和歌が連歌へ俳諧へと庶民化する傾向にあったのと対照的である。これが後に漢詩が文学史の表舞台から降りていく原因にもなったと思われる。ただ、その文章はかなり口語的に思われる。具体的に一つだけ原文を紹介しておこう。(ただし影印・クリックして拡大してください)
『湯山聯句鈔』について
この書は『中華若木詩抄』と同じく室町時代末期の明応九年(一五〇〇)五月五日より同二十三日にかけて、禅僧である寿春妙永と景徐周麟が湯山(有馬温泉)に出かけた折に興行・応酬した千句の聯句(湯山聯句)に対して、一韓智 が註釈・解説を施して、永正元年(一五〇四)八月二十日に成立したものだ。
この聯句というのが面白い。もちろん連歌の連句とは違うが、その影響が伺える。「一座の聯衆が、現前の景や共通に理解の可能な心情を素材として、先行の諸文芸よりもっとも密接に関連した典拠を用いて表現し、二句一聯によって最小単位のまとまりある世界を共同で築き上げようとした文芸である」と定義されているようで、本来的に連歌の連句と共通する。連歌の連句は長句(五七五)と短句(七七)とを交互に連ねていくものだ。それに対し、この聯句は原則として五言の漢句を連ねる形である。
また舞台が有馬温泉というのも面白い。
垢を洗い、病を治さうとてかと云に、いや、元来法身は清浄なれば、洗ふべきの垢もないぞ。治すべき病もないぞ。さるほどに、今湯に入るは、この無垢を随分至極と思ひ、無病を至極と思ふ、この心を洗ひ去けんとてあるぞ
すなわち「元来、法身は清浄なのだから、洗いおとすべき垢や治すべき病はない。無垢や無病を当たり前だと思う心こそ垢がついて病んでいるのだ」
と一韓は述べている。
ここでも具体的に一つだけ原文を紹介しておこう。(ただし影印・クリックして拡大してください)
この項了
2017.08.09