『日本古典文学総復習』67『近世歌文集上』 68『近世歌文集下』

また、時間が空いてしまった。今度は江戸期における和歌の世界である。ただ、あまり興味を引くものではなかった。ここはその概要にとどめておくことにする。

『近世歌文集上』

以下21編が収められている。

『春の曙』 烏丸光広著
「後鳥羽院四百年忌御会」
『山家記』 木下長嘯子著
『身延のみちの記』 元政著
『三行記』 烏丸資慶著
『倭謌五十人一首』 宮川松堅編
『烏丸光栄歌道教訓』 烏丸光栄著
『初学考鑑』 武者小路実陰著
『雲上歌訓』 萩原宗固編
『若むらさき』 了然尼編
『霞関集』 石野広通撰
「水戸徳川家九月十三夜会」
「南部家桜田邸詩歌会」
「田村家深川別業和歌」
「諏訪浄光寺八景詩歌」
「飛鳥山十二景詩歌」
「詠源氏物語和歌」
『遊角筈別荘記』
『大崎のつつじ』
『富士日記』 成島峰雄著
『墨水遊覧記』

和歌はその文学的生命の中心を俳諧に譲り、その地位が失われたかに見える近世だが、「後鳥羽院四百年忌御会」に見られるように、宮中では相変わらずその伝統的な地位を保ち続けていた。また、中世歌学の正統を伝える堂上歌壇の指導者たちも対象を貴族から上級武士に移すことによってその命脈を保とうとしていたようだ。萩原宗固という人物の手になる『雲上歌訓』はその例である。また、江戸を中心に武家の中にも歌に関心を持ち続け、作歌した人々もいた。石野広通という人物の手になる『霞関集』がその例である。ここに登場する武家たちはいずれも冷泉家や烏丸家の門人たちである。和歌が古今伝授の伝統を生かしつつ貴族にとってはその指南役を務めることが糊口の糧となっていたのだろう。また、武士にとっては一種の教養というか、ハイソな趣味と言ったものだったと思われる。後半にある大名家の歌会の記録や遊覧や旅の記録の中の歌はそうしたことをうかがわせる。

しかし、この江戸期で和歌文学史において注目すべきは下巻にある国学者たちの思想である。

『近世歌文集下』

ここには以下8編が収められている。順不同。

『あがた居の歌集』
紀行『旅のなぐさ』
紀行『岡部日記』以上賀茂真淵著
『菅笠日記』本居宣長著
『藤簍冊子』上田秋成著
歌論『布留の中道』小沢蘆庵著
『庚子道の記』武女著
書簡集『ゆきかひ』油谷倭文子・鵜殿余野子著

賀茂真淵は古今伝授の古今集より忘れ去られていた感のある「万葉集」に歌の本質を見出したことで知られている。いわば国学の最初のホープである。
万葉集を評価する動きはかつてもあった。しかし、江戸時代に入ってそれが一つのブームとなったようだ。先駆けはこの書にはない契沖だが、賀茂真淵がもっとも強く「万葉集」を称賛した。真淵のこの万葉称賛は単に和歌の世界に止まらず、そこに現れた古代日本人の精神こそ本来今でもあるべき姿だとし、現状の支配倫理である朱子学の道徳を否定するところまで深化させることとなる。
こうした古代への関心と評価はいわば江戸時代を通じていろいろな局面で展開されたことが興味深いが、明治に至ってもう一度あらわれるこの万葉再評価とは趣が違っているように思う。純粋に歌の技術的な考え方や文学性からと言うよりも、そこにある精神性に注目してなされたと言うことだ。従って実践的に歌を詠んだ真淵も決して万葉調には詠めなかったようだ。
『旅のなぐさ』『岡部日記』はともに紀行文。『岡部日記』には賀茂真淵28歳のときの最愛の妻を亡くしてしまった悲しみが記されている。

賀茂真淵の思想を受け継いだ本居宣長は『古事記伝』を著し、国学の完成者と言っていい存在だ。
『菅笠日記』はその宣長が43歳の時に友人5人と一緒に、吉野・飛鳥を遊覧した紀行文。一番の目的は吉野の桜を見ることと吉野水分神社に詣でることであったようだが、その帰りに飛鳥や橿原を訪れ、『古事記伝』の裏づけ調査的な意味合いもあったようだ。

上田秋成は『雨月物語』で夙に有名だが、元々は古典学者で国学者と言っていい。この巻で最もボリュームがあるのは上田秋成の『藤簍冊子』だ。
寛政(1789‐1801)初年から享和(1801‐04)にかけて秋成が書きとめて身辺のつづらに入れておいた和歌や長歌,紀行文,折々の随想などをまとめたもの。最初は歌集となっている。

小沢蘆庵の歌論『布留の中道』は古今集の紀貫之の歌

いそのかみ布留の中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは(恋四・679・紀貫之)

からその題名が取られている。小沢蘆庵のこの書はどちらかというと伝統的な古今重視の歌論である。

武女という女性の『庚子道の記』は尾張藩名古屋に数年間客居した女性が、花の頃合、故郷の方へ帰る折の道中の記。
『伊勢物語』『十六夜日記』などを彷彿させる古典的な紀行文である。

書簡集『ゆきかひ』は油谷倭文子と鵜殿余野子という女性の書簡集。
共に賀茂真淵に入門して和歌・国学を学び、土岐筑波子とともに県門三才女と謳われた。ここに国学ブームの一端がうかがわれる。

2017.12.16
この項了

『日本古典文学総復習』65『日本詩史 五山堂詩話』 66『菅茶山 頼山陽詩集』

この「日本古典文学総復習」、ここのところ滞ってしまった。前回から一ヶ月を経過してしまった。当初の計画では一年間で100巻を読破する予定だった。しかし現在66巻目を読んでいる状態。しかも今日は11月末日。なんとか70巻までたどり着いて今年を終了するしかないようだ。残り30巻は4月まで読了したい。計画変更は何事にもありがち、よくここまで来たと自ら慰めている。

さて、今回も江戸期の漢詩だ。先ずは漢詩論というか、漢詩にまつわる著作。以下その概略を紹介するにとどめておく。

『読詩要領』

ここでいう「詩」は『詩経』のこと。儒者伊藤東涯が『詩経』についての考え方をまとめた書。しかし、『詩経』の解説を超えて「詩」一般の本質に触れる指摘もあるようだ。勧善懲悪の考え方を超えて、

「詩というものは、人の心におもふことをありように言ひあらわしたるもの也」
「詩は以て人情を道ふ」
「諷誦・吟詠して、人情・物態を考へ、温厚・和平の趣を得べき」

と言った言葉がある。

『日本詩史』

江戸時代中期の儒者、江村北海という人物になる日本文学史漢詩編といった書。日本における漢詩の沿革がわかる。
巻一・二が上代から戦国時代までの漢詩、残り巻三以降が江戸期の漢詩にあてられている。各時代の代表的な漢詩を紹介し、論評を与える形で書かれている。
江戸期の漢詩についてが多く割かれている。

『五山堂詩話』

菊池五山の漢詩文集。正篇10巻、補遺5巻からなる。文化4年(1807)から天保3年(1832)にかけて刊行された。ここでは巻一、二が収められている。
さて、五山は詩人のサークルである江湖社に参加し「続吉原詞」や「深川竹枝」などの詩作によってその才名を広く知られるようになった。そのことからもわかるように、五山の詩は唐詩どころか宋詩からも離れ、江戸の市井の生活を詠んだものに優れた作が多い。
これは漢詩が江戸期に成熟し、いわば日本化したというか、卑俗化した証であった。このことが寺門静軒をへて後の成島柳北を産む素地となったと言える。
また、五山はいわば批評家でもあり、当時の漢詩を多く批評した。この書はそうした漢詩の時評集である。

『孜孜斎詩話』

早熟の漢学者、西島蘭渓による日本漢詩の抜書きと批評の書。漢詩人石川丈山についてで始まっていることから、石川丈山に並々ならぬ傾倒ぶりがうかがえる。もちろん当時の多くの漢詩人及びその代表的作品が紹介され、論じられている。

『夜航余話』

津阪東陽による漢詩論集。死後出版された。上下2巻。上巻はカタカナ混じり文で書かれ、漢詩固有の話題を取り上げている。それに対し、下巻はひらがな混じり文で書かれ、漢詩と和歌・俳諧との関係に及ぶことが多く書かれている。東陽は儒者である。儒者にとって漢詩はいわば余技にすぎない。

「詩の学者におけるや特にそれ剰技のみ。行、余力有りて乃ち以て之を学ばば、君子必ずしも譏らざるなり」

とある。しかし、余技とは言えない並々ならない詩に対する関心があってこそこうした著作があることに間違いはない。というよりむしろ漢詩が儒者としての憂愁の友であったと言えそうだ。

『漁村文話』

江戸時代末の漢学者、海保漁村の著。これは漢詩論ではない。漢文の散文論と言っていい。対句をあまり使わない中国古典散文を論じている。漢文は日本語において大きな役割を果たしている。ここで小生が書いている拙い文章もいわば漢文崩しの文章ということができる。論理的な文章は漢文が向いている。これまで正式な文章は外国語である漢文で書かれていた。といってもどうしても日本語化する。そこに漢文崩しの日本語の文章が出来上がってくるのだが、その根本はやはり中国の古典的な文章にある。その中国の古典的散文を論じたのがこの書ということになる。これは日本語文章の歴史を考える上で重要な書と言えそうだ。

『菅茶山詩集』

菅茶山の詩集『黄葉夕陽村舎詩』を抄出している。

菅茶山は江戸末期の漢詩人。現在の広島県に生まれ、京都に遊学した経験はもつが、故郷神辺に塾をひらき廉塾とし、住居を黄葉夕陽村舎と名づけ多くの詩を残した。頼山陽とも交流があり、詩集『黄葉夕陽村舎詩』は京都で出版され、後明治期まで版を重ねたと言う。それだけこの菅茶山の漢詩は人々に親しまれたようだ。漢詩が儒者の余技や中国古典の模倣から脱却していわば「日本化」された、いい例といえる。その題材も自らが住む農村の風景が多く、鮮やかな写生的な詩に清新さが感じられる。またその詩から、なんの衒いもない落ち着いた人物が彷彿とする。ここに七絶二首を引く。書き下しは本書校訂者による。(以下同)

 即事

晏起家童未掃門   晏起するも家童未だ門を掃かず。
繞簷梨雪午風喧   簷を繞る梨雪午風喧かなり。
一双狂蝶相追去   一双の狂蝶相ひ追ひて去き、
直自南軒出北軒   直ちに南軒より北軒に出づ。

 冬夜読書

雪擁山堂樹影深   雪山堂を擁し樹影深し。
檐鈴不動夜沈沈   檐鈴動かず夜沈沈。
閑収乱帙思疑義   閑に乱帙を収めて疑義を思へば、
一穂青燈万古心   一穂の青燈万古の心。

初めの詩は農村の蝶が舞う朝の暖かな風景を写生したもの。後の詩は雪の夜の静かな読書後の感慨を述べたもの。
友人頼山陽は「菅茶山先生の詩に題す」の中で、「緒餘の小技も亦超倫」と言い、「終年白を衣る是山人」と言い、「高陽に跡を混じて韜晦に甘んず。」「名字何ぞ図らん薦紳に達するを。」とその人柄を絶賛している。

『頼山陽詩集』

江戸後期の儒者頼山陽の詩集『山陽詩鈔』『山陽遺稿詩』『日本楽府』からの抄出。山陽は夙にその書『日本外史』で有名な勤王家でもある。この『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなり、明治期は元より昭和の戦争期までよく読まれたという。ただこの書は歴史書としては誤謬が多いともされ、戦後は忘れ去られていった。しかし、頼山陽は前に紹介した菅茶山とも交流のあった漢詩人でもあり、詩吟で有名な漢詩の作者としてその名を止めている。
その詩は歴史的題材や歴史的人物を歌ったものも多いが、以下に紹介するような母を歌った詩などもある。

 癸丑歳偶作

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者已に水の如し。
天地無始終   天地始終なく、
人生有生死   人生生死あり。
安得類古人   安ぞ古人が類して、
千載列青史   千載青史に列するを得ん。

  中秋無月侍母

不同此夜十三回   此の夜を同じうせざること十三回
重得秋風奉一巵   重ねて秋風に一巵を奉ずるを得たり。
不恨尊前無月色   恨みず尊前月色なきを。
免看児子鬢辺絲   看らるるを免る児子鬢辺の絲。

2017.11.30
この項了

『日本古典文学総復習』63『本朝一人一首』 64『蘐園録稿』『梅墩詩鈔』『如亭山人遺藁』

『本朝一人一首』を読む

今回は江戸時代の漢詩。
漢詩は本来中国古典の詩であることはいうまでもない。しかし日本文学において独特な位置を占めるジャンルでもある。いわば外国の詩を日本人が作るという作業が古来近代に至るまで多くの知識人によってなされて来たこと自体が世界に類を見ないことだ。現代の我々はこうした伝統から遠ざかってしまったが、ここでそれを振り返るのも悪くない。
さて、日本の漢詩はどの様な位置を占めていたのだろうか?まずそれが知識人の文学だということだ。もっと言えば支配層の文学だった。なぜなら漢詩は漢文と共にかつて知識人にとって必須の教養であったからだ。圧倒的な文化の影響を中国大陸から得ていた江戸期までの日本の知識人にとっては、明治以降西洋の学問を学ぶことが必須であったのと同様だった。
ただ、その教養は教養の範疇を徐々に越えていったと思われる。特に漢詩は知識人にとって内面を表現する一つの手段となっていった様だ。江戸時代特に幕末期になるとそれは顕著になる。幕府の中枢にいて儒学を担っていた成島柳北などは足元の幕府自体を批判する内容の漢詩を書いている。また、近代の漱石は小説とは別に、行き詰まった心境を漢詩に表現している。このように漢詩は元は外国の古典詩であったにもかかわらず一つの日本文学のジャンルをなしたのである。

ここでまず読む『本朝一人一首』はそうした漢詩のこれまでの集大成というか、日本漢詩のアンソロジーである。
編者は江戸時代前期の儒者の林鵞峰という人物。有名な林羅山の三男である。古代の大友皇子の詩から始まって、僧機先という人物の詩まで、四百八十二首
の漢詩が編まれている。時に編者の注もある。あの俳諧師松尾芭蕉も座右の書にしたという。

本文は以下だが、この大系本では振り仮名付きの書き下し文になっている。

66
晚春三日遊覽
杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕  來燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清  雖欲追尋良此宴 還知染懊腳跉趶
大伴家持 旅人子。

66同じく  大伴家持 旅人の子
杪春(べうしゅん)餘日媚景麗し 初巳(しょし)和風払つて自づから軽し
來燕泥を銜(ふく)んで賀して宇に入り  帰鴻(きこう)蘆を引いて迥(はる)かにして瀛(おき)に赴く
聞く君が侶(とも)に嘯(うそぶ)き流曲を新にし 禊飲(けいいん)爵(さかづき)を催(うなが)して河清きに泛(う)かぶ
此の良宴を追尋せんと欲すと雖も 還(また)知る染懊腳跉趶(せんあうあしれいて)

 林子曰:此二首,見『萬葉集』。按大伴氏出自道臣命,世執朝政,或為相,或為將。逮藤氏之盛,大伴氏稍衰,然猶在朝為月卿,出為藩鎮。家持任中納言,管領奧羽,且以倭歌著名。又偶見此詩,可謂有文武之才。池主亦能歌,其詩比家持,則雖不及之,注其心于漢字者,不亦奇乎。家持行實,考國史可以知焉。此外『萬葉集』有山上憶良詩,其體異樣,故略之。

もう一つ

243
連理樹
靡隔布深仁 無私施景化 神工誠不隱 天道斯無詐

243連理樹  有名王(ありなわう)

隔靡(へだてなび)く深仁を布(し)く 私無く景化を施す
神工誠に隱れず 天道斯(これ)詐(いつはり)無し

それにしてもこれをすべて読破するのは至難の技だ。いかに現代の我々がこうした漢詩文化から遠ざかってしまったか痛感する。

今度は江戸時代の漢詩集。

『蘐園録稿』を読む

「ケンエンロクコウ」と読む。江戸中期の漢詩集だ。江戸の儒学者、荻生徂徠の門流「古文辞派」と呼ばれる人たちの漢詩を集めたもの。ここでは抄録で服部南郭ら四人の漢詩人の詩を収める。現在でも「詩吟」で好まれて歌われる服部南郭の「夜下墨水」を引く。

  夜、墨水を下る      

 金龍山畔江月浮かぶ
 江揺らぎ月湧いて金龍流る 
 扁舟住まらず天水の如し
 両岸の秋風二州を下る
    
 夜下墨水
金龍山畔江月浮
江揺月湧金龍流
扁舟不住天如水
両岸秋風下二州

 服部南郭は京都の裕福な商家に生まれ、子供の頃から和歌の教育を受け偉才ぶりを発揮していたという。若くして江戸で柳沢吉保にその才能を見込まれ仕えるようになったという。柳沢邸のいわばサロンで知った荻生徂徠に入門、漢学、漢詩を学び、優れた漢詩を多く残した。

『如亭山人遺藁』を読む

柏木如亭は、江戸時代中期の漢詩人である。江戸に生まれ、生家は幕府小普請方の大工の棟梁であったという。最初の詩集はなんと『木工集』というから面白い。家督を一族のものに譲って、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになり、漂白の詩人となった。信州・越後から西は京都・備中に及んで滞在したという。その遺作を梁川星巌という人物が編んだのがこの詩集だ。面白い詩を一つ。

   大刀魚                     

吶喊(とっかん)声銷(き)えて天日(てんじつ)麗し
波濤(はたう)海靜かなり太平の初め
折刀(せつたう)百万沙(すな)に沈み去り
一夜東風(とうふう)尽く魚と作(な)る

大刀魚
吶喊声銷天日麗
波濤海靜太平初
折刀百万沈沙去
一夜東風尽作魚

『霞舟吟巻』を読む

江戸時代後期の儒者友野霞舟という人物の漢詩集。

 池辺に涼を趁(お)ふ             

涼を趁(お)ひて閑に曲池を繞(めぐ)りて行く 
雨後の微風竹を度(わた)りて清し
瞑色看る看る遠岸を籠め
紅蓮は漸く暗く白蓮は明るし

池辺趁涼
趁涼閑繞曲池行
雨後微風度竹清
瞑色看看籠遠岸
紅蓮漸暗白蓮明

『梅墩詩鈔』を読む

「ばいとんししょう」と読む。広瀬旭荘という江戸時代後期の儒学者・漢詩人の詩集。現在の大分県日田市の博多屋広瀬三郎右衛門という人物の八男に生まれたという。長詩が多いのだが、ここは引用に適した七絶を。

 春 寒                

梅枝幾ばく処か籬を出でて斜めなり
水に臨んで扉を掩ふ三四家
昨日の寒風今日の雨
已に開ける花は未だ開かざる花を羨む

春 寒
梅枝幾処出籬斜
臨水掩扉三四家
昨日寒風今日雨
已開花羨未開花

『竹外二十八字詩』を読む

「ちくがいにじゅうはちじし」と読む。江戸時代後期の漢詩人、藤井竹外の漢詩集。前編は安政5年(1858)刊で、上下2巻に七言絶句(二十八字詩)217首を収める。後編は明治4年(1871)刊。上下2巻で、七言絶句164首の他に五言絶句20種を収める。
作者竹外は文化4年4月20日生まれ。摂津高槻藩の藩士である。頼山陽、梁川星巌に師事。七言絶句にすぐれ、絶句竹外の称がある。鉄砲の名手でもあったらしく、奇行の人でもあったという。

 芳 野                 

古陵の松柏天飆(てんぺう)に吼ゆ
山寺春を尋(たづ)ぬれば春寂寥
眉雪の老僧時に帚(は)くを輟(や)め
落花深き處南朝を説く

芳 野
古陵松柏吼天飆
山寺尋春春寂寥
眉雪老僧時輟帚
落花深處説南朝

さて、こうして改めて江戸期の漢詩を読んでいくと、漢詩には独特な硬さがあって、これが和歌にはない男性的なものを感じさせるなと思える。日本文学には希薄な強さを感じるといってもいい。これは決して中国語で読むのとは違う、漢文訓読ならではのものだと思う。ただ、作者の感慨にはなかなか至ることはできなかったが。

2017.10.24
この項了

古いネットブックの復活

さて、今度は古いネットブックの復活だ。
これはEPSONのNa01-miniというものだ。もともとXPが入っていた。
最終的には以下の様にした。

  1. ディスクをもと使っていたSSDに変える。
  2. LinuxのUbuntuを入れる。
  3. Bracketsを使える様にする。

結局はこれで市民活動センターに置いておいて、講習の際の補助マシンとして使えることとなった。

ただ、そこに至るまではそれなりの試行錯誤あった。
1は難なくいったが、初めはそこに入っているwin7がそのまま動くかという淡い期待があったが、それは無理だった。
そこで、使っていないwin8.1のインストールディスクがあるのでそれを入れようと試みた。このディスクは元MacBookにBootchampで入れたものだ。
しかし、これが64ビット版だったために入らない。ではwin7をと考えたが、これも64ビット版でだめ。XPはインストールディスクが付いているから戻すことはできる。しかし今更ということでついにLinuxを選ぶこととなった。
ただ、この復活はWEB開発の講習に使うのが主な目的なので優れたエディタBracketsが動かなくてはならない。幸いググってみるとさすがLinux版がある。あとはBracketsに必須とも言えるChromeが入るかだ。これもググってみると行けそうだ。よしということでやってみた。その手順。

  1. Ubuntuのディスクを用意。これは以前ファイル復活用に作ってあったものを使う。
  2. 難なくインストールできる。全てをUbuntuにする。
  3. Bracketsをインストールする。これは他のマシンの様には行かない。久しぶりにコマンでのインストールを行う。以前からlinuxを勉強していたからうまく行く。
  4. Chromeのインストール。ここでつまずく。結局はLinux版Chromeは32ビット版の開発を止めてしまったことが原因だった。ここでも32ビットCPUの限界が露わになってしまった。これもダメかと思った。
  5. Chromiumのインストール。しかし、Chromeのいわば親に当たるChromiumというブラウザがあることを知り、これ入れればBracketsのライブビューができるのではと考えた。うまくいきました。
Ubuntuを起動したところ
Bracketsでhtmlとcssを編集
ライブビューでchomiumを起動して開発中のコンテンツをブラウズすることができた。

これでネットブックも蘇りました。

Linuxいいですね。多くのボランティアによって行われていることもここに明記しておこう。メモリーは1Gのままだけど動きはストレスがないからこのままにしておくことにする。それにしてもMicrosoftは困りもんですね。OSをどんどん変えて、ハードのスペックをどんどん高くしてユーザーを困らせる。まったくね。

2017.10.20

この項了

古いデスクトップPCのバージョンアップ

最近はもっぱらMacBookAirでドキュメントを書いたり、WEB開発をしている。後はiPadでネットを見たり音楽を聴いたり、写真を撮ったりで、すっかりMac派に成ってしまった。しかし、家にはWin7が動いているデスクトップとなんとXPが入っているネットブックがある。ここのところ全くこの二つは顧みなかったが(デスクトップはそれなりに使っていた。主に競馬予想だけど)、あるきっかけで見直すこととなった。そのきっかけは息子のところのWinノートが具合が悪くなって持ち込まれたことだ。結局息子のマシンは敢えなく廃棄となって、新しいマシンを購入することなった。その過程で自分のところにある古いマシン(この他に2台のノートPCがある)も処分することを思い立ち、なんとか使えそうなこの二台だけは延命を図ったというわけだ。そのプロセスを書いておく。

まずはデスクトップ。これはもう10年は経っている。しかし、中身を色々変えて使ってきた。使用感は悪くない。CPUは古いものの、ビデオカードを搭載して、メインディスクもSSDに変えてある。メインメモリーは1Gしかないのにビデオカードのおかげで決して遅くない。ただSSDが容量が少なく、容量が足りないぞという表示が出るようになった。そこで以下のことを試みた。

  1. SSDを容量の大きものに変える。
  2. メモリーを増やす。
  3. ビデオカードもメモリーの大きいものに変える。
  4. Userのフォルダを別のディスクに移す。

こうすれば当面の問題はクリアーできると考えたためだ。

1,2は難なくうまくいった。特にSSDの交換は購入したSSDにクローン作成ソフトが付いていて(勿論ダンロードだけど)すぐにクローン化できて、難なく同じ様にWin7が起動した。メモリーついてはしっかり調べれば問題ない。合わせて二万円弱の出費だった。

新しいSSDをUSBでPC二繋いでいるところ。
クローン作成ソフトでクローン化しているところ。

しかし
3についてはマザーボードとBIOSの問題からうまく認識してくれなくて、使えなかった。これは将来マザーとCPUを変えた時にとっておくことにする。

問題は4だ。ここで大きなミスをしてしまい大変なことになってしまった。
Userのフォルダを別のディスクに移す手順は結構面倒だ。レジストリをいじるのでここでミスると取り返しがつかない。バックアップを完全にしておかないとだめだ。結局バックアップからリストアすることになったが、そのバックアップがかなり以前に作られたものだったためにその間のデータの移行が大変だったと言うわけだ。特にこのデスクトップは競馬のデータベースが入っていてこれがかなり膨大なものになっているからだ。
さて、何をミスったかというとドライブレターの間違いである。自分の環境ではデータディスクがE:なのに一般の様にD:だと考えていたために起こってしまった。こうなるとユーザープロファイルが読めなくてログインできなくなったしまうのだ。

改めてUserのフォルダを別のディスクに移す手順を書いておく。

  1. 最新のバックアップをとり、確認しておく。(極めて重要)
  2. ダミーアドミンユーザーを作り、それでログインする。
  3. c:にあるUserのフォルダを別のディスクにコピーする。(できない部分もある)
  4. レジストリエディタでユーザープロファイルの部分を変更する。(ここでドライブレターを間違えては大変)
  5. c:にあるUserのフォルダを削除する。(できない部分があったらリネームするといい)
  6. シンボリックリンクを作成する。(コマンド)
  7. 再起動して別のアドミンユーザーでログインする。
  8. ダミーアドミンユーザーを削除する。

勿論これは概略だ。実際にはネットで注意深く研究してからやるべきだ。バックアップで直近に戻れることを条件に行うことだ。

いまはこうしてやっとしっかりしかも以前より速く動いている。やれやれって感じだ。

さて、ネットブックの更新については次の投稿で。

2017.10.20
この項了

『日本古典文学総復習』62『田植草紙』『山家鳥虫歌』『鄙廼一曲』『琉歌百控』

この巻はいずれも民謡集だ。民謡は歌謡の一種だが、これまではあまり文学史の表舞台には登ってこなかった。しかし歌謡は古くから存在していた。記紀歌謡は古事記・日本書紀に収録された歌謡を言うが、短歌より古くから存在していたものだ。ただ、歌謡は歌われるものという性質から文字化され、読まれるということが難しかったから表面に出てこなかっただけとも言える。ところが中世末期から江戸にかけてこうした歌謡を筆録する機運が高まったようだ。これも文学の庶民化のなせる技なのだろう。ここにある民謡集はいずれもそうした機運の元に文字化されものだが、そこに当時の庶民の感情生活の一端を伺う事が出来そうだ。

『田植草紙』を読む

「たうえぞうし」と読む。この書は大正の末年に広島県で発見されたという。はじめ鎌倉時代のものと捉えられたようだが、もっと後の時代のものとされた。編者はわからないが、江戸時代の中期に筆写されたものだという。
この書は他の民謡集のように各地の民謡を集成したものではない。田植の進行にそって朝歌から昼歌、晩歌というように配列されているところに特徴がある。これは共同で各戸の田植を一日で終えてゆくという囃田とよばれる行事の為の歌謡ということらしい。この囃田とは音楽と歌を用いる田植のことらしいが、中国山地に伝えられてきたようだ。
さて、その歌だが、朝歌二番を見てみよう。

きのふからけふまで ふくは何風
 恋風ならば しなやかに
なびけや なびかで風にもまれな
おとさじ 桔梗のそらの露おば
しなやかにふく恋風が身にしむ

この歌は「田植歌」の特徴をよく伝えている。初めの一行が親歌で「音頭」が歌う。二行目が小歌で「早乙女」が付ける。普通はこの繰り返しとなるが、この「田植歌」ではさらに「オロシ」と呼ばれる三行があって全部で五行詩となっている。しかもそれが「恋」の歌となるのが特徴だ。歌謡とくに民謡は「田植歌」といった労働に関わる歌が多いのだが、それにもかかわらず「恋」を歌う内容になるところが面白い。これは田植が男女によって行われたことも関係するが、田植などの農耕そのものが男女の営みに擬されていたことも影響していると思える。

『山家鳥虫歌』を読む

「さんかちょうちゅうか」と読む。これは江戸時代中期に編纂されたまさに民謡集。上下2冊に全国各地の民謡が収められ、国別に分類されている。明和8 (1771) 年に序が書かれているところから,江戸時代中期あたりまでの諸国の歌が集められたものだと考えられている。歌の形は「七・七・七・五」型が多く、これは「都々逸」に繋がる形である。従って現在の「民謡」の概念を超えていわゆる「俗謡」と呼ばれるものも多く収録されている。

ここでは下巻の薩摩六首を紹介しておこう。

闇夜なれども忍ばば忍べ 伽羅の香りをしるべにて
千世の前髪下ろさば下ろせ わしも留めましよ振り袖を
洲山おかめ女は洲山の狐 尾をふり尻ふる人をふる
散りゆく花は根に変える ふたたび花が咲くじやない
島が島なら世が世であるならば なんの地方に身は持とぞ
 なんの地方に身は持とぞ
志賀唐崎の名はよけれ 一つ松とは聞さへつらい

といった具合で、これは俗謡すなわち小唄や都々逸に通じるものである。

『鄙廼一曲』を読む

「ひなのひとふし」と読む。これは民俗学の先駆者と言える菅江真澄(すがえますみ)が著わした歌謡書。1809年(文化6)ころに成立したようだ。その二十年前に菅江真澄は生涯の旅に出て、信濃・越後から奥羽を経て、現在の北海道の松前に及ぶ各地を歩いてその見聞を記録している。この書はそれらの地域で集めた民謡の記録である。その序文に「今し世の賤山賤の宿にて、よね・粟・むき・稗を舂くに、ひねもす、さよはすがらに聞なれて、きめの臼唄、雲碓唄、磨臼唄も、おかしき曲をひとつふたつと聞にまかせて、書いつくればさはなり…」とある。まさに訪れた地方で生活の中で歌われていた民謡の記録である。

以下一つだけ紹介しよう。

   おなじつがろ 汐干がへり
 此古風ところどころにのこれり
今日はの汐干に蛤ひろふた 袂ぬれつつ振り分髪の しどけないふり しほらしや
渡る雁しばしはとまれ われは吾妻の流れにすむよ せめてたよりに文ひとつ

その他『巷謡編』『童謡古謡』『琉歌百控』が収められている。
『巷謡編』は土佐の国学者鹿持雅澄(かもちまざずみ)の編集になる土佐の民謡歌謡の集成。長い序文がある。

『童謡古謡』は修験僧行智になる、江戸浅草に伝承した童謡の書留。ここには今も歌われる童謡が散見できる。

『琉歌百控』 は最古の琉歌集の一つ。「りゅうかひゃっこう」と読む。いわゆる琉球すなわち沖縄に伝わって歌われた琉歌を三味線歌謡としてとらえ、節(曲)を中心に編纂されている。編者は明らかではないが、総数601首が収められ、大部なものである。琉球歌謡はその独特な節回しと語彙があってそこを伝えようとする意図が伺える。一つだけ紹介する。こんな風に書かれている。

 打束節      (ウチアガリブシ)
あわん夜の夢の   アワンユヌイミヌ
繁くあらよひや   シジクアラユイヤ
宵の手枕の     ユイヌティマクラヌ
稀にあらな     マリニアラナ
逢ぬ先今に     アワヌサチナマニ
くなひやい見れば  タナビヤイミリバ
迚も成欲や     トゥティンナシブシャヤ
吸ぬかし      スワヌンカシ

これはもう読むというより聞くべきものだ。

こうした民謡や俗謡の内容も和歌と同様、やはり「恋」が中心となるのはやはり日本文学の大いなる特徴と言えるようだ。

2017.10.15
この項了

『日本古典文学総復習』61『七十一番職人歌合』 『新撰狂歌集』 『古今夷曲集』

大分この古典文学総復習、滞ってしまった。読書の秋というより、行楽の秋でなかなか自宅で落ち着いていられなかったためだ。
しかしやっと江戸初期の面白い古典について書けることととなった。江戸時代はもっとも興味ある時代だ。文学においてもさまさまなジャンルが花開いた時代だからだ。文学の庶民化の時代とも言え、馴染みやすい作品が数多く作られたからでもある。

『七十一番職人歌合』を読む

「しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ」と読む。題にあるように、これは歌合。室町時代・1500年末ごろに成立したとされる。しかし、この歌合、これまでものとは趣を異にしている。職人を題材としているのだ。職人の姿絵と「画中詞」と呼ばれる職人同士の会話や口上も描かれている。いかにも近世初期の社会を彷彿とさせる。近世は職人と庶民が表舞台に出てくる社会だからだ。

さて内容だが、七十一番とあるように、七十一組の職人が登場する。つまりは倍の百四十二種の職人となる。しかし、職人といっても現代でいう「職人」の範疇を超えている。物売り・芸人・連歌師なども含まれている。例えば、三十七番の「豆腐売り」に「素麺売り」とか、六十三番の「競馬組」に「相撲取」といった具合だ。では、ここはいかにも職人らしい一番を紹介する。

「番匠」と「鍛治」だ。大工と鍛冶屋である。歌合だから二つの歌が紹介され、判定が行われる。

一番 左
をしなをす工(たくみ)もいさやすみかねにさげすむ月のかたぶきにけり
   右
軒あれて古きかぢやの太郎槌ふりさけみれば月のさやけき

判定は「持」、すなわち引き分け。

その後二つの職人の仕事姿の絵と言葉がある。

(模本だが、国立博物館に絵巻きがあって画像を見ることができるので、ここで紹介。なお、アドレスは以下だ。
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017448)

そしてさらに二つの歌が再び紹介され、判定が行われている。その形が七十一組続くと言うわけだ。もちろん歌は専門歌人が読んだものである。

この書は、歌の内容と出来がどうのというより、当時の社会の現実を見るに適したものとなっている。ただ、それだけでなく職業人が文学の表舞台に立ってくるようになったことが注目される。

『新撰狂歌集』を読む

狂歌は江戸時代の重要な文学ジャンルの一つだ。江戸時代の文学の中心はパロディにあると言っていい。狂歌はまさに和歌のパロディだが、その狂歌の初期の作品集がこれだ。
1633年(寛永10)ころの刊行されたという。編者と版元は明らかではない。上下2冊あって、古今の狂歌191首を和歌集の部立に従って、四季・恋・羇旅・述懐・釈教・哀傷・神祇・雑に分類編集されている。所収作品は古くは鎌倉時代の定家まで及んでいるが、狂歌らしく作者不明のものも多く、宇治の茶大臣母、無銭法師のごとき狂名もすでに用いられている。以下こんな感じだ。

 

芋を盗まれたる人のよめる

筒井筒五つばかりもとりはせで掘りにけるかな芋見ざるまに

 備前の吉備津にて神前に団子をささげたるを見て  小野の小餅

搗き砕き団子そなふる吉備津宮これかや神は巫(きぬ)が習はし

 寒夜月といふ題にて  大江の肥持

冬の夜の尿しがてらに見る月はおもしろしとてやがてひつこむ

こうしたパロディは本来的に元がわかっていないと面白くないことは言うまでもない。こうしたことは如何に古典が教養人のなかで一般化していたが伺える。もちろん狂歌は教養人の作品である。

『古今夷曲集』を読む

これも江戸時代前期の狂歌集。生白堂行風 (せいはくどうぎょうふう) という人物の編という。 10巻4冊あり、寛文6 (1666) 年に刊行されたもの。古今の作者二四一人に及ぶ作者の狂歌千首以上をやはり和歌集の部立にしたがって分類している。この時代いかに狂歌が流行したかが伺える大部の狂歌集である。いくつか紹介しておく。

 正 長
たばこのむうちより春は来にけらし烟も霞むはなのさき哉

 槿(あさがほ)  (雄  長 老)
花の露も日影うつれば蛭に塩ひるはしほしほとなれる朝貌

 題知らず 西行上人
七瀬川やせたる馬に水かへば九勢(くせ)になるとてとをせとぞいふ

 来不逢恋(くれどあはざるこひ) 未 得
鉄砲のたまたまきてもはなさぬは結句おもひのたねが島哉

 人のもとより鰆の鮨をえて返事に 右衛門尉藤原武員
近江鮒宇治丸あゆの鮨もあれどをされぬ味は鰆なりけり

といった具合である。

2017.10.13
この項了

『日本古典文学総復習』60『太閤記』

『太閤記』を読む

 この日本古典文学総復習、ここのところ滞ってしまった。いい季節になって「読書の秋」というけれど、どちらかというと「行楽の秋」で出かけることが多くなったのも原因の一つだ。ただ、この『太閤記』を前にしてあまりの大部にたじろいだと言うこともあった。なんとか今年中に100冊行きたいのだが、60冊目で後40冊は無理かもしれない気配になってしまった。
 さて、この書、書名の通り太閤豊臣秀吉の一代記である。いわゆる軍記物の流れをくむ書と言える。秀吉といえば誰でも知っている戦国武将で天下統一をなした人物だ。信長・秀吉・家康と並べてみても一番人気がある人物と言える。特に庶民に人気が高い。信長はかぶき者的で好む人物も少なくはない。家康は玄人好みでもう一つ人気はない。それに対して秀吉は現在でも人気は高いと言える。これは秀吉が低い身分の出身で、その知略から大出世をした人物だからだろう。こういう出世物語は庶民に受けるのだ。また、秀吉は多くの大衆的な作品で取り上げられてきたことも大きく影響している。テレビでも何度か取り上げられてきた。したがってその事績も人口に膾炙している。そしてそれらの作品の元になったのがこの『太閤記』である。

 この作品は儒学者小瀬甫庵という人物によって書かれたもので、初版は寛永3年 (1626)だという。したがって江戸時代になってから出版されたものだ。これに先行する「太閤記」もあったらしいが、全22巻あるこの書が最もまとまったものだ。ただ、江戸時代に幾度か発禁にされたそうだ。これは江戸時代が秀吉を滅ぼすことで成立したからだろうが、その後も根強い人気があって以降も版を重ねているようだ。また、様々な形で翻案され現代に至っている。

 ここでこの書の22巻の内容を見ておこう。「太閤記巻之綱目」から引く。

一 秀吉公素性     十一 行幸      二十一 八物語 下
二 因州取鳥落城    十二 小田原陣    二十二 御遺物并諸奉行
三 備中陣       十三 朝鮮陣 上
四 加賀越中合戦    十四 朝鮮陣 中
五 柴田合戦之上    十五 朝鮮陣 下
六 柴田合戦之下    十六 集
七 所司代 付 金賦  十七 秀次公最期
八 城主定       十八 諸家之伝記
九 尾州陣       十九 山中鹿助伝記
十 九州陣       二十 八物語 上

さて、この『太閤記』、軍記物の流れを汲むといったが、確かに幾つかの巻きには合戦の様子が語られてはいる。しかしどうも記録的な要素が多く、物語としては決して面白くない。これは筆者が儒学者であることが影響していると言える。
後半の「八物語」というものにそれが色濃く現れている。これは筆者の政治観を述べたもので、直接秀吉とは関係がないと思われる。こうしたことは初めてこの『太閤記』を紐解いて知り得たことだ。
ただ、先にも行ったようにこの書が元になって、後に浄瑠璃や歌舞伎、映画にテレビ、漫画等にも秀吉が取り上げられ、秀吉像が作られていったことには間違いはないようだ。

2017.09.26
この項了

『日本古典文学総復習』59『舞の本』

 前回「能・狂言」を取り上げたが、今回は幸若舞(こうわかまい)の本。幸若舞は「能・狂言」と違って、今やほとんど消滅してしまったものだが、当時は能よりも一般に支持されていたもので、むしろ能に先行する曲舞であったらしい。この『舞の本』はその幸若舞の台本となったものを読み物として絵入りで江戸期になって出版されたものだ。したがって、幸若舞がどうのような物であったかはこの本からはわからない。しかし、信長がこの舞を愛し、出陣の前に舞ったというセピソードは有名で多くの映画やテレビ番組で取り上げられているから想像はつく。ただ、映画やテレビはどうも「能」に近い物となっているようだ。また、「福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している」ようだから見ることもできる。
ただここでは舞の様子ではなく、ここで取り上げられている「話」に注目したい。この『舞の本』は一つの読み物だからだ。

 さて、この『舞の本』には36の話が収められているが、そのほとんどが軍記物語から取られているところに特徴がある。源平物が11編、義経物が11編、曽我物6編となっている。これはこの幸若舞が信長にみたように武士層に好まれた証拠である。軍記物語は読み物と言うより、語りや舞とともに普及していった。琵琶法師の語りがその代表だが、この幸若舞もその普及に寄与していたようだ。これは武士層が識字能力に劣っていたと言うこともあるかもしれない。また、実際の戦乱やそこでの人間模様を描くのに、語りや舞を伴ったほうが受け入れやすかったからかもしれない。そして、この『舞の本』はそれを絵入りで読み物化した。これも時代が江戸へ移り、識字能力の拡大と平和があったからこそかもしれない。またさらに、ここで語り継がれ、舞継がれて行った物語は様々に形を変えながらその後も生き延びて行く。江戸の浄瑠璃や歌舞伎の演目にもこの本にある物語から取られた物も多い。明治期に書かれた森鴎外の「山椒大夫」も出典がこの本にある「信田」にあるという。簡潔に言えば、この『舞の本』にある物語は日本人が「好き」な話なのだ。

 その例を源平物の「敦盛」と説話系の「信田」に見てみたい。

 「敦盛」はもちろん出典は『平家物語』である。『平家物語』の「敦盛最期」という章から大筋は捉えられている。話のポイントは平家の若き公達敦盛を打つ熊谷直実の心根にある。親として息子を持つ直実が同じような年頃の敵とはいえ少年の首をとることに逡巡し、(結局は首を取るが)武士として生まれたことを悔やむという話だ。

あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖(そで)を顔に押し当ててさめざめとぞ泣きゐたる。(『平家物語』から)

 そして、この直実がその後、この件をきっかけに菩提心を起こし、法然の元で出家する。幸若舞の話はここが中心となる。つまりは熊谷直実が主人公となって、その勇猛果敢な武士の人間的面を強調する物語だ。以下は信長が好んだと言う直実発心の行。

去程に、熊谷、よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞いてあり。我も人も、憂き世にながらへて、かかる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠し、栄花は先立て、無常の風に誘はるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立て、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思い定め、

以下熊谷は都に上り敦盛の獄門首を盗み取って荼毘に付し、遺骨を奉じ、黒谷の法然上人の許に投じて出家するという展開となる。そしてこの行のうち

人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。

の部分が信長の名とともに有名となる。信長が出陣の前にこの章句を語って舞ったという。この話は『信長公記』にあるというが、事実であるかはどうでもいい。あのかぶき者の信長らしからぬエピソードで、ここでも日本人の好みがわかる。
 なお、この「敦盛」は能に歌舞伎に取り上げられることになる。

さて、もう一つ「信田」だが、これは軍記物とは様相が異なる。
いわば一種の貴種流離譚だ。もともと貴種であったものがある事情から騙され、人買いに売られ辛酸をなめることになる。しかし、あることをきっかけに復活し、復讐を遂げるという物語だ。出典は明らかでないが、先行する物語があった可能性がある。また、主人公が平将門の末裔という設定も東国の将門伝説を背景に持っていたとも思われる。後に説教浄瑠璃「しだの小太郎」として再生し、説経節の「山椒大夫」と共通性が強く、鴎外の「山椒大夫」へと受け継がれる。こうした話も伝統的に日本人が「好き」なのだ。

中世から近世に至る過程にあるこうした物語群は我々日本人の心根になっている気がする。

2017.09.12
この項了

『日本古典文学総復習』57・58『謡曲百番』『狂言記』

 ここで「能・狂言」が登場する。この「能・狂言」は現代でも演じられている演劇の一種だ。室町時代に大流行した物だ。演劇だから文学としては戯曲と言う事になる。しかし、現代の戯曲のようにまず書かれて、それを演出家が演出し、舞台をつくり役者が演じるといったものとは異なる。まずは演じられていた。もともと台本たる戯曲があったわけではない。特に狂言はほとんど即興的な物だったようだ。ここに収められている『謡曲百番』『狂言記』は後の時代に演じられていた「能・狂言」を筆録したものだ。後の時代に残すためや稽古のための物だったようだ。しかしこれが後の時代すなわち江戸時代になるとそれ自体として一般化してゆく。能の台本は「謡曲」としてそれ自体が一つの歌謡になってゆく。事実この「謡曲」旦那衆が稽古するといった事が行われる。私の父親も商売が順調だった頃その稽古をしていたようで、謡曲本が家にもあり、下手な唸り声を聞かされた記憶がある。これは「小唄」の稽古と同様であったようだ。一方「狂言記」は笑い話として読まれ流布していったようだ。もともと「狂言」が「おかしみ」をコンセプトにしてた演劇だったからだ。
 さて、この並んで称される「能・狂言」はそれぞれ違った内容と姿を持っている。ともに「猿楽」を親として生まれた物だが「能」はどちらかというと上流社会的で「狂言」は庶民的だ。「能」が武士層を中心に愛好されたのに対し、「狂言」が庶民層に好まれたというばかりでなく、「能」の内容が古典的な題材を扱っていて、「狂言」が現実的な題材を扱っている点からもそれは言える。ただ、この二つが同時に同場所で演じられている事にも注目する必要がある。平安時代の貴族と庶民の間隔はきわめて広かったが、室町時代の武士と庶民の間はそれほど広い物ではなかったという事だ。もう一つはそれを演じ、作った人々が武士でもなく、もちろん貴族でもなく、僧侶でもなかったという点だ。むしろ社会階層的には末端の賎民ともいえる芸能を職とする人間だったと思われる点である。いわばこの時代になってはじめて芸能人が誕生したということだ。芸術家といい直してもいい。文学者といってもいいかもしれない。つまり職業としての芸術家の誕生である。これが江戸時代の文学へ引き継がれていくのは言うまでもない。
 以下『謡曲百番』から、後の歌舞伎にも使われた弁慶義経の物語の一部「安宅」を紹介しておく。『狂言記』からは柿を食おうとした山伏がおちょくられる「柿山伏」を紹介する。(本文は新古典大系を筆者が電子化した物である。一部記号等は変えている。)
 
「安宅」通関の秘策を協議している場面

【三】(問答)ハウ「いかに弁慶  シテ「御前に候  判「唯今旅人の申て通りつる事を聞いてあるか  シテ「いや何とも承らず候  判「安宅の湊に新関を立てて、山伏を堅く選ぶとこそ申つれ  シテ「言語道断の御事にて候物かな、扨は御下向を存て立たる関と存じ候、是はゆゆしき御大事にて候、先此傍にて皆々御談合あらふずるにて候、是は一大事の御事にて候間、皆皆心中の通りを御意見御申あらふずるにて候、  ツレ山「我等が心中には何程の事の候べき、唯打破つて御通りあれかしと存じ候  シテ「暫く、仰せの如く此関一所打ち破つて御通りあらふずるは安き事にて候へ共、御出候はんずる行末が御大事にて候、唯何ともして無異の儀が然べからふずると存候  ハフ「とも角も弁慶計らひ候へ  シテ「畏て候、それがしきつと案じ出したる事候、我等を始て皆々憎くひ山伏にて候が、何と申ても御姿隠れ御座無く候間、此ままにてはいかがと存候、恐れ多き申事にて候へ共、御篠懸を除けられ、あの強力が笈をそと御肩に置かれ、御笠を深深と召され、いかにもくたびれたる御体にて、我等より後に引き下って御通り候はば、中々人は思いもより申まじきと存じ候  ハフ「実にこれは尤にて候。さらば篠懸を取り候へ  シテ「承候

五「柿山伏」

山伏 次第(マーク)大峯葛城踏み分けて 我が本山に帰らん「罷出たるは、大峯葛城参詣致し、唯今下向道で御ざる、よきついでなれば、檀那回りを致そうと存ずる、まづ(繰り返し記号)、そろ(繰り返し記号)参らふ、やれさて、何とやら物欲しう存ずるが、まだ先の在所は程遠さうに御ざる、何と致そうぞ、いゑ、こゝに見事な柿が御ざるほどに、一つ取つて食びやうと存ずる。
 柿主「罷出たるは此辺りの者で御ざる、今日も行て、又柿を見舞ふと存ずる、何と致してやら、鳥が突いて迷惑致す、いゑこゝな、鳥を食うかして、へたが落ちたが、わゝ、さねも落つるが、上に鳥がおるか、いゑ、山伏が上がつておるが、何と致そうぞ。いや、きやつをなぶりませうぞ、はあ、上に猿めが上がつておる  山伏「はあ、柿主めが見つけおつた。何と致そうぞ  柿主「はあ、あれは猿ぢやが、身ぜせりをせぬ、異な事ぢや  山伏「わ、それがしを猿ぢやと言ふが、はあ、こりや、身ぜせりしませうず  柿主「ふん、猿にまがう所はない、猿なら、鳴かうぞゑ  山伏「はあ、こりや、鳴かざなるまひ、きや(繰り返し記号)  柿主「はあ、猿にまがう所はない。猿かと思へば、犬ぢやげなわいやい  山伏「はあ、又こりや、犬ぢやと言ふ  柿主「犬なら、鳴かうぞよ  山伏「はあ、又こりや、鳴かざなるまひ。びよ(繰り返し記号)  柿主「はあ、犬ぢや(繰り返し記号)、犬かと思へば、鳶ぢやげなわいやい  山伏「はあ、又こりや、鳶ぢやと言ふ  柿主「鳶なら、飛ぼぞよ  山伏「飛ばざなるまひ  柿主「鳶なら、飛ぼぞよ、(繰り返し記号)、(繰り返し記号)、ありや飛んだは
 山伏「あ痛、痛、やい、そこな者、それがしが木のそらにいれば、尊い山伏を「いや犬で候の、猿で候の」と言ふて、なぜに腰をぬかしたぞ、急いでくすろうでかやせ  柿主「やい、そこな者、柿を食て恥かしくは、「御免なれ」と言ふて、おつとせで往ね  山伏「やい、そこな者、山伏の手柄には、目に物を見せうぞよ  柿主「柿盗みながら、小言を言わずとも、急いで往ね  山伏「定言ふか。物に狂わせうが  柿主「山伏おけ、なるまいぞ  山伏「定言ふか、それ山伏といつぱ、役の行者の跡を継ぎ、難行苦行、こけの行をする、今此行力かなわぬかとて、一祈りぞ祈つたり 節(マーク)橋の下の菖蒲は 誰が植へた菖蒲ぞ  柿主「やい山伏、おかしい事をせずとも、往ね  山伏「やい、定言ふか、も一祈りぞ祈つたり、ぼうろぼん(繰り返し記号)(繰り返し記号)、そりや見たか、山伏の手柄には、物に狂ふは手柄ではないか

以上
2017.09.04
この項了