『日本古典文学総復習』60『太閤記』

『太閤記』を読む

 この日本古典文学総復習、ここのところ滞ってしまった。いい季節になって「読書の秋」というけれど、どちらかというと「行楽の秋」で出かけることが多くなったのも原因の一つだ。ただ、この『太閤記』を前にしてあまりの大部にたじろいだと言うこともあった。なんとか今年中に100冊行きたいのだが、60冊目で後40冊は無理かもしれない気配になってしまった。
 さて、この書、書名の通り太閤豊臣秀吉の一代記である。いわゆる軍記物の流れをくむ書と言える。秀吉といえば誰でも知っている戦国武将で天下統一をなした人物だ。信長・秀吉・家康と並べてみても一番人気がある人物と言える。特に庶民に人気が高い。信長はかぶき者的で好む人物も少なくはない。家康は玄人好みでもう一つ人気はない。それに対して秀吉は現在でも人気は高いと言える。これは秀吉が低い身分の出身で、その知略から大出世をした人物だからだろう。こういう出世物語は庶民に受けるのだ。また、秀吉は多くの大衆的な作品で取り上げられてきたことも大きく影響している。テレビでも何度か取り上げられてきた。したがってその事績も人口に膾炙している。そしてそれらの作品の元になったのがこの『太閤記』である。

 この作品は儒学者小瀬甫庵という人物によって書かれたもので、初版は寛永3年 (1626)だという。したがって江戸時代になってから出版されたものだ。これに先行する「太閤記」もあったらしいが、全22巻あるこの書が最もまとまったものだ。ただ、江戸時代に幾度か発禁にされたそうだ。これは江戸時代が秀吉を滅ぼすことで成立したからだろうが、その後も根強い人気があって以降も版を重ねているようだ。また、様々な形で翻案され現代に至っている。

 ここでこの書の22巻の内容を見ておこう。「太閤記巻之綱目」から引く。

一 秀吉公素性     十一 行幸      二十一 八物語 下
二 因州取鳥落城    十二 小田原陣    二十二 御遺物并諸奉行
三 備中陣       十三 朝鮮陣 上
四 加賀越中合戦    十四 朝鮮陣 中
五 柴田合戦之上    十五 朝鮮陣 下
六 柴田合戦之下    十六 集
七 所司代 付 金賦  十七 秀次公最期
八 城主定       十八 諸家之伝記
九 尾州陣       十九 山中鹿助伝記
十 九州陣       二十 八物語 上

さて、この『太閤記』、軍記物の流れを汲むといったが、確かに幾つかの巻きには合戦の様子が語られてはいる。しかしどうも記録的な要素が多く、物語としては決して面白くない。これは筆者が儒学者であることが影響していると言える。
後半の「八物語」というものにそれが色濃く現れている。これは筆者の政治観を述べたもので、直接秀吉とは関係がないと思われる。こうしたことは初めてこの『太閤記』を紐解いて知り得たことだ。
ただ、先にも行ったようにこの書が元になって、後に浄瑠璃や歌舞伎、映画にテレビ、漫画等にも秀吉が取り上げられ、秀吉像が作られていったことには間違いはないようだ。

2017.09.26
この項了

『日本古典文学総復習』59『舞の本』

 前回「能・狂言」を取り上げたが、今回は幸若舞(こうわかまい)の本。幸若舞は「能・狂言」と違って、今やほとんど消滅してしまったものだが、当時は能よりも一般に支持されていたもので、むしろ能に先行する曲舞であったらしい。この『舞の本』はその幸若舞の台本となったものを読み物として絵入りで江戸期になって出版されたものだ。したがって、幸若舞がどうのような物であったかはこの本からはわからない。しかし、信長がこの舞を愛し、出陣の前に舞ったというセピソードは有名で多くの映画やテレビ番組で取り上げられているから想像はつく。ただ、映画やテレビはどうも「能」に近い物となっているようだ。また、「福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している」ようだから見ることもできる。
ただここでは舞の様子ではなく、ここで取り上げられている「話」に注目したい。この『舞の本』は一つの読み物だからだ。

 さて、この『舞の本』には36の話が収められているが、そのほとんどが軍記物語から取られているところに特徴がある。源平物が11編、義経物が11編、曽我物6編となっている。これはこの幸若舞が信長にみたように武士層に好まれた証拠である。軍記物語は読み物と言うより、語りや舞とともに普及していった。琵琶法師の語りがその代表だが、この幸若舞もその普及に寄与していたようだ。これは武士層が識字能力に劣っていたと言うこともあるかもしれない。また、実際の戦乱やそこでの人間模様を描くのに、語りや舞を伴ったほうが受け入れやすかったからかもしれない。そして、この『舞の本』はそれを絵入りで読み物化した。これも時代が江戸へ移り、識字能力の拡大と平和があったからこそかもしれない。またさらに、ここで語り継がれ、舞継がれて行った物語は様々に形を変えながらその後も生き延びて行く。江戸の浄瑠璃や歌舞伎の演目にもこの本にある物語から取られた物も多い。明治期に書かれた森鴎外の「山椒大夫」も出典がこの本にある「信田」にあるという。簡潔に言えば、この『舞の本』にある物語は日本人が「好き」な話なのだ。

 その例を源平物の「敦盛」と説話系の「信田」に見てみたい。

 「敦盛」はもちろん出典は『平家物語』である。『平家物語』の「敦盛最期」という章から大筋は捉えられている。話のポイントは平家の若き公達敦盛を打つ熊谷直実の心根にある。親として息子を持つ直実が同じような年頃の敵とはいえ少年の首をとることに逡巡し、(結局は首を取るが)武士として生まれたことを悔やむという話だ。

あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖(そで)を顔に押し当ててさめざめとぞ泣きゐたる。(『平家物語』から)

 そして、この直実がその後、この件をきっかけに菩提心を起こし、法然の元で出家する。幸若舞の話はここが中心となる。つまりは熊谷直実が主人公となって、その勇猛果敢な武士の人間的面を強調する物語だ。以下は信長が好んだと言う直実発心の行。

去程に、熊谷、よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞いてあり。我も人も、憂き世にながらへて、かかる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠し、栄花は先立て、無常の風に誘はるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立て、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思い定め、

以下熊谷は都に上り敦盛の獄門首を盗み取って荼毘に付し、遺骨を奉じ、黒谷の法然上人の許に投じて出家するという展開となる。そしてこの行のうち

人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。

の部分が信長の名とともに有名となる。信長が出陣の前にこの章句を語って舞ったという。この話は『信長公記』にあるというが、事実であるかはどうでもいい。あのかぶき者の信長らしからぬエピソードで、ここでも日本人の好みがわかる。
 なお、この「敦盛」は能に歌舞伎に取り上げられることになる。

さて、もう一つ「信田」だが、これは軍記物とは様相が異なる。
いわば一種の貴種流離譚だ。もともと貴種であったものがある事情から騙され、人買いに売られ辛酸をなめることになる。しかし、あることをきっかけに復活し、復讐を遂げるという物語だ。出典は明らかでないが、先行する物語があった可能性がある。また、主人公が平将門の末裔という設定も東国の将門伝説を背景に持っていたとも思われる。後に説教浄瑠璃「しだの小太郎」として再生し、説経節の「山椒大夫」と共通性が強く、鴎外の「山椒大夫」へと受け継がれる。こうした話も伝統的に日本人が「好き」なのだ。

中世から近世に至る過程にあるこうした物語群は我々日本人の心根になっている気がする。

2017.09.12
この項了

『日本古典文学総復習』57・58『謡曲百番』『狂言記』

 ここで「能・狂言」が登場する。この「能・狂言」は現代でも演じられている演劇の一種だ。室町時代に大流行した物だ。演劇だから文学としては戯曲と言う事になる。しかし、現代の戯曲のようにまず書かれて、それを演出家が演出し、舞台をつくり役者が演じるといったものとは異なる。まずは演じられていた。もともと台本たる戯曲があったわけではない。特に狂言はほとんど即興的な物だったようだ。ここに収められている『謡曲百番』『狂言記』は後の時代に演じられていた「能・狂言」を筆録したものだ。後の時代に残すためや稽古のための物だったようだ。しかしこれが後の時代すなわち江戸時代になるとそれ自体として一般化してゆく。能の台本は「謡曲」としてそれ自体が一つの歌謡になってゆく。事実この「謡曲」旦那衆が稽古するといった事が行われる。私の父親も商売が順調だった頃その稽古をしていたようで、謡曲本が家にもあり、下手な唸り声を聞かされた記憶がある。これは「小唄」の稽古と同様であったようだ。一方「狂言記」は笑い話として読まれ流布していったようだ。もともと「狂言」が「おかしみ」をコンセプトにしてた演劇だったからだ。
 さて、この並んで称される「能・狂言」はそれぞれ違った内容と姿を持っている。ともに「猿楽」を親として生まれた物だが「能」はどちらかというと上流社会的で「狂言」は庶民的だ。「能」が武士層を中心に愛好されたのに対し、「狂言」が庶民層に好まれたというばかりでなく、「能」の内容が古典的な題材を扱っていて、「狂言」が現実的な題材を扱っている点からもそれは言える。ただ、この二つが同時に同場所で演じられている事にも注目する必要がある。平安時代の貴族と庶民の間隔はきわめて広かったが、室町時代の武士と庶民の間はそれほど広い物ではなかったという事だ。もう一つはそれを演じ、作った人々が武士でもなく、もちろん貴族でもなく、僧侶でもなかったという点だ。むしろ社会階層的には末端の賎民ともいえる芸能を職とする人間だったと思われる点である。いわばこの時代になってはじめて芸能人が誕生したということだ。芸術家といい直してもいい。文学者といってもいいかもしれない。つまり職業としての芸術家の誕生である。これが江戸時代の文学へ引き継がれていくのは言うまでもない。
 以下『謡曲百番』から、後の歌舞伎にも使われた弁慶義経の物語の一部「安宅」を紹介しておく。『狂言記』からは柿を食おうとした山伏がおちょくられる「柿山伏」を紹介する。(本文は新古典大系を筆者が電子化した物である。一部記号等は変えている。)
 
「安宅」通関の秘策を協議している場面

【三】(問答)ハウ「いかに弁慶  シテ「御前に候  判「唯今旅人の申て通りつる事を聞いてあるか  シテ「いや何とも承らず候  判「安宅の湊に新関を立てて、山伏を堅く選ぶとこそ申つれ  シテ「言語道断の御事にて候物かな、扨は御下向を存て立たる関と存じ候、是はゆゆしき御大事にて候、先此傍にて皆々御談合あらふずるにて候、是は一大事の御事にて候間、皆皆心中の通りを御意見御申あらふずるにて候、  ツレ山「我等が心中には何程の事の候べき、唯打破つて御通りあれかしと存じ候  シテ「暫く、仰せの如く此関一所打ち破つて御通りあらふずるは安き事にて候へ共、御出候はんずる行末が御大事にて候、唯何ともして無異の儀が然べからふずると存候  ハフ「とも角も弁慶計らひ候へ  シテ「畏て候、それがしきつと案じ出したる事候、我等を始て皆々憎くひ山伏にて候が、何と申ても御姿隠れ御座無く候間、此ままにてはいかがと存候、恐れ多き申事にて候へ共、御篠懸を除けられ、あの強力が笈をそと御肩に置かれ、御笠を深深と召され、いかにもくたびれたる御体にて、我等より後に引き下って御通り候はば、中々人は思いもより申まじきと存じ候  ハフ「実にこれは尤にて候。さらば篠懸を取り候へ  シテ「承候

五「柿山伏」

山伏 次第(マーク)大峯葛城踏み分けて 我が本山に帰らん「罷出たるは、大峯葛城参詣致し、唯今下向道で御ざる、よきついでなれば、檀那回りを致そうと存ずる、まづ(繰り返し記号)、そろ(繰り返し記号)参らふ、やれさて、何とやら物欲しう存ずるが、まだ先の在所は程遠さうに御ざる、何と致そうぞ、いゑ、こゝに見事な柿が御ざるほどに、一つ取つて食びやうと存ずる。
 柿主「罷出たるは此辺りの者で御ざる、今日も行て、又柿を見舞ふと存ずる、何と致してやら、鳥が突いて迷惑致す、いゑこゝな、鳥を食うかして、へたが落ちたが、わゝ、さねも落つるが、上に鳥がおるか、いゑ、山伏が上がつておるが、何と致そうぞ。いや、きやつをなぶりませうぞ、はあ、上に猿めが上がつておる  山伏「はあ、柿主めが見つけおつた。何と致そうぞ  柿主「はあ、あれは猿ぢやが、身ぜせりをせぬ、異な事ぢや  山伏「わ、それがしを猿ぢやと言ふが、はあ、こりや、身ぜせりしませうず  柿主「ふん、猿にまがう所はない、猿なら、鳴かうぞゑ  山伏「はあ、こりや、鳴かざなるまひ、きや(繰り返し記号)  柿主「はあ、猿にまがう所はない。猿かと思へば、犬ぢやげなわいやい  山伏「はあ、又こりや、犬ぢやと言ふ  柿主「犬なら、鳴かうぞよ  山伏「はあ、又こりや、鳴かざなるまひ。びよ(繰り返し記号)  柿主「はあ、犬ぢや(繰り返し記号)、犬かと思へば、鳶ぢやげなわいやい  山伏「はあ、又こりや、鳶ぢやと言ふ  柿主「鳶なら、飛ぼぞよ  山伏「飛ばざなるまひ  柿主「鳶なら、飛ぼぞよ、(繰り返し記号)、(繰り返し記号)、ありや飛んだは
 山伏「あ痛、痛、やい、そこな者、それがしが木のそらにいれば、尊い山伏を「いや犬で候の、猿で候の」と言ふて、なぜに腰をぬかしたぞ、急いでくすろうでかやせ  柿主「やい、そこな者、柿を食て恥かしくは、「御免なれ」と言ふて、おつとせで往ね  山伏「やい、そこな者、山伏の手柄には、目に物を見せうぞよ  柿主「柿盗みながら、小言を言わずとも、急いで往ね  山伏「定言ふか。物に狂わせうが  柿主「山伏おけ、なるまいぞ  山伏「定言ふか、それ山伏といつぱ、役の行者の跡を継ぎ、難行苦行、こけの行をする、今此行力かなわぬかとて、一祈りぞ祈つたり 節(マーク)橋の下の菖蒲は 誰が植へた菖蒲ぞ  柿主「やい山伏、おかしい事をせずとも、往ね  山伏「やい、定言ふか、も一祈りぞ祈つたり、ぼうろぼん(繰り返し記号)(繰り返し記号)、そりや見たか、山伏の手柄には、物に狂ふは手柄ではないか

以上
2017.09.04
この項了

『日本古典文学総復習』56『梁塵秘抄・閑吟集・狂言歌謡』

日本文学には和歌とは若干の違いを持つ「歌謡」というジャンルがある。古くは「記紀歌謡」と呼ばれる「古事記」や「日本書紀」に引かれているものがある。新しくは「歌謡曲」ということになろうか。ただ、この「歌謡」はこれまで和歌ほどには日本文学の中で正当な地位を持たなかった。「歌謡」が本来歌われることを基本にしていて、「録音」という技術がなかった昔は筆録されない限り残されないという事情があったからだ。事実これから取り上げる中世の歌謡集『梁塵秘抄』も近代になってから発見されたものだ。しかし「歌謡」にはそれぞれの時代の多くの人々の感情生活が反映されているはずだ。書く「和歌」より、歌う「歌謡」の方が一般に流布していたはずだからである。

『梁塵秘抄』を読む

『梁塵秘抄』は後白河法皇の手になった中世を代表する歌謡集である。後白河法皇は若い時から歌謡を好み、それを筆録させたという。この書は古くからその存在は知られていた。しかし、実際にその歌謡が発見されたのは明治になってからだ。しかもそのほんの一部だ。だが、発見後にわかにこの書が有名になる。これまでの日本文学になかった様相をここに見たからかもしれない。

遊びをせんとや生まれけむ 戯たはぶれせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動がるれ(359)

この歌を知っている人は多いと思う。ここにこれまでの和歌にはない率直な庶民感情を見た人も多いと思う。例えば以下の歌もそうだ。

我が子は二十に成りぬらん 博打してこそ歩くなれ
国々の博党に さすがに子なれば憎かなし
負いたまふな 王子の住吉西の宮(365)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば
馬の子や牛の子に 蹴ゑさせてん 踏み破らせてん
真に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(408)

こうした歌謡は「今様」と言われ、いわば「流行歌」だ。この「流行歌」という語も今となっては死語に近いが、昭和の時代まで使われた歌謡曲をいう言葉だった。こうした歌謡は実にたくさん作られ歌われていたはずである。
ただ、この『梁塵秘抄』に収められている多くはこうした歌より以下のような法文歌と言われる仏教的な内容を持つ歌だったことも忘れてはならない。

生死の大海辺無し、仏性真如岸遠し、妙法蓮花は舟筏来世衆生渡すべし、(210)

『閑吟集』を読む

『閑吟集』は室町後期の歌謡集で、後に「小唄」として一般に流布する歌謡の原型である「小歌」を中心に収めたもの。連歌師の宗長が編集したとも言われている。室町時代は文化が完全に貴族から武家や庶民に移っていった時代だ。和歌が連歌に、連歌が俳諧にと、悪く言えば「卑俗化」していった時代だ。歌謡も軽いものが中心になっていったようだ。また、宴席で簡単な楽器と共に演奏されたいわゆる「うたいもの」の流行もこの時期から一般化していたようだ。小歌の幾つかを紹介しておく。

誰が袖ふれし梅が香ぞ 春に問はばや 物言う月に逢ひたやなう(8)

我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで笑止の蛍(59)

あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ(235)

薄の契りや 縹の帯の ただ片結び(245)

今結た髪が はらりと解けた いかさま心も 誰そに解けた(274)

花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ(305)

「四畳半的」男女の感情の機微を歌ったものに目が行くのは当然か。

『狂言歌謡』を読む

この巻には他に『狂言歌謡』というのが含まれている。「狂言」というのは「能・狂言」の「狂言」である。室町時代はまさに「能・狂言」の時代であった。ただ、この「能・狂言」も演じられることが基本だから、文学として取り扱うのが難しい。いわゆる戯曲として扱うということになるかもしれないが、特に「狂言」は即興性がその特徴だからいわゆる書かれた戯曲というものがない。ただ、「狂言」は「能」よりもセリフを主とするし、歌舞の要素も多い。
また、これらの芸能が流派を生み、伝統を引き継ぐ必要が生じると稽古のためにセリフ等を記録する必要が生じる。これらの事情から、狂言の和泉流が江戸時代にまとめた本がある。その本から歌謡部分を抜き出したものがこの『狂言歌謡』である。実際に筆録されたのは江戸時代になってからだが、使われていたのは室町時代だ。ここには先に見た『閑吟集』にある「小歌」等も含まれ、「狂言」で使われるさまざまな歌謡が収められている。
一例だけ引いておく。「狂言」と言えば「酒」である。

アド 松の酒屋や梅壺の 柳の酒こそすぐれたれ
シテ 年々に つき重ねたる舞の袖 返す袂や熱すらん
2人 やらめでた そもそも酒は 百薬の長として 寿命をのぶ
   その上酒に 十の徳あり しよかうに慈悲あり 寒気に衣あり
   推参に便りあり さて又餅は 万民に用いられ 白銀黄金 
   所領持 白銀黄金 所領の上に なを国持こそ めでたけ

2017.08.28
この項了

『日本古典文学総復習』54 55『室町物語集上・下』

『源氏物語』で達成を見た物語文学はその後どういう経緯をたどって現代に至ったのだろうか?ここで取り上げる室町時代物語集はそんな疑問の一つの解答のきっかけを示しているように思う。ここに集められた20編あまりの物語は様々な内容を持っている。それぞれについては以下に簡潔に示すが、その題材・表現は色々な要素を持っている。あるいは王朝物語的であったり、伝説的であったり、絵本的であったりというように。このバリエーションは後の江戸時代に引き継がれる。
これまで、王朝物語以降、多くの説話集を見てきた。説話はほんの短い話ばかりだが、多くのバリエーションを持った興味深い話が数多くあった。ここに紹介されている室町時代物語はその説話を一つの簡潔した物語としてまとめたというところに特徴がある気がする。平安時代からあった絵巻物の要素も多分に取り込んでわかりやすい物も多い。
また、題材が現代から見ると奇異なものも多くあるが、中世という時代の世相をよく反映しているとも言える。寺院の僧の堕落を取り上げているようでも、そこに明るさがある気がする。混乱と戦乱の時代であったろうが、「暗黒の中世」というイメージはない。
あまり馴染みがなく、文学史的にも取り上げられることが少ないこの時代の物語に改めて興味が湧いた。

『室町物語集上』

「あしびき」

いわゆる稚児物語の一つ。稚児物語は、寺院の僧侶と稚児の間に行われた男色の話。現代の倫理観から言えば存在さえ許されないようなテーマだが、中世から近世初頭にかけて多く書かれたようだ。「中世、特に室町時代において、寺院内部では稚児を対象とした男色(稚児愛)が広く行われていたことが背景にある(ただし、男色の流行自体は武家などにもあった)。」という。そん代表作の一つ。内容は決してキワモノ的だはなく、いわばハッピーエンドで終わっている。

「鴉鷺物語」

擬軍記物語と言われる物。題名のように鴉と鷺が合戦するというおとぎ話的な物。

「伊吹童子」

酒呑童子物語。酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。ここはその酒呑童子の出生からやがて鬼となって大江山に住むようになるまでを物語っている。

「岩屋の草子」

擬古物語・継子譚。古く王朝からある継子物語を稲荷信仰・観音信仰からめて作った擬古物語。

「転寝草紙」

石山観音の霊験を語る恋物語。

「かざしの姫君」

怪婚譚。いわゆる異類と交わる話は古くからあるが、ここは菊と交わるという植物との怪婚譚。従ってあまり異様さはなくファンタスティックな内容となっている。

「雁の草子」

これも怪婚譚。雁との怪婚を描く。これも動物ながら狐などと違って滑稽さもなく、異様さも薄い。

「高野物語」

発心遁世譚。発心とは仏道に入るきっかけのことだが、これを語る物語。こうした話は中世に多く見られる。また、一種の懺悔物語でもある。

「小男の草子」

民間伝承の小さ子譚を基盤にした物語。一寸法師といえば誰でも知っている昔話。昔から伝承としてあったようだ。ここもその物語化。

「西行」

歌人西行は多くの伝説があり、後の世にも多くを語られた人物だが、この物語は歌人としての西行よりも、恩愛の執着と葛藤する西行の発心・道心を印象深く簡潔に描いている。

「ささやき竹」

鞍馬寺の僧が偽りのお告げで姫君を略取しようとして失敗する話。「ささやき竹」とは、節を抜いた長い竹の筒で、これを使って耳元に囁く道具。ここも僧が登場するが、なんとも間抜けな話。

「猿の草子」

全ての登場人物が猿である物語。猿を登場人物というのもおかしいが、それだけで滑稽な物となっている。ただ、往来ものの要素があり、辞書的な物となっている。資料的にも価値のある図録が特徴的だ。

『室町物語集下』

「しぐれ」

主人公の貴公子が最愛の女性と結ばれながら、親のすすめる政略結婚などのためにその人を失い、再び結ばれ得ない悲劇の物語。こうした内容の物語は現代でも使われる永遠のテーマだ。

「大黒舞」

庶民の栄達を福の神信仰とからめて語り、全編に祝言性があふれた物語。この大黒舞は新年に行われる門付けの一つで盛んに行われたもの。現在も山形や鳥取にあるという。

「俵藤太物語」

将門にまつわる話も多くあるが、藤原秀郷のむかで退治・竜宮伝説と将門討伐伝説の二つを中心にした武勇伝。

「毘沙門の本地」

申し子、天人降下、恋愛、合戦、異郷訪問(諸国遍歴)、神仏への転生という説話要素で成り立つスケールの大きい物語。

「弁慶物語」

いわゆる弁慶物。武芸に秀で弁舌巧み、少々滑稽で、悪人ながら憎めないという人物造形を持つ悪漢小説。

「窓の教」

一年に十二人の女性と会った、主人公伏見の中将の求婚譚。

「乳母の草紙」

啓蒙・教訓色を帯びた滑稽談。公家社会の旧来の古典的教養・教育と非公家社会の現実的功利主義とが対蹠されている。

「師門物語」

在地の武士が国司の横恋慕で妻との仲をひきさかれ流浪し、妻はその後を追う。最後は神仏の加護によって二人は再会するという物語。

この項了
2017.08.15

五島列島の教会を訪ね歩いて

頭ヶ島天主堂

私はキリスト教徒ではない。宗教とは無縁の人間だ。「無縁」というのは正しくないかもしれない。正月には地元の神社に初詣に行き、父母の葬儀は仏教で行った。確か結婚式はキリスト教式だった。ようするに宗教に対して「いい加減な」人間なのだ。たぶん多くの日本人がそうなのかもしれない。

今回五島列島の教会を訪ね歩いて、改めてなぜこれほどまでにここに教会が多く存在し、しかも生きた形で存在しているのか考えさせられた。

五島列島に多く存在する教会はまさに生きた教会だ。けっして歴史的建造物ではない。訪ねてみるとそれがよくわかる。掃除当番表があり、それぞれの席には自分の物の聖書と賛美歌集が置かれ、布団まで個人用に置かれてある。どこも掃除が行き届き、いつでもミサが行われる用意がある。この島ではキリスト教が今も住民の生活の一部をなしていることがよく分かる。しかもキリスト教は江戸期に禁教であったのに、である。

なぜ、五島列島ではこれほどまでにキリスト教が根付いているのだろうか。ここからは単に私の想像に過ぎないが、そのプロセスを考えてみた。

まずこの島の地理的条件だ。五島列島は九州の西に位置する。古くは遣唐使が立ち寄ったことでも知れるように大陸へ渡る際の停泊地だったようだ。つまりは大陸に近いという条件だ。日本にキリスト教が伝来した地は南方の種子島と言われているが、この島も早くから布教が行われた可能性がある。また、大陸との交易も盛んだった可能性もある。そして離島であるということだ。

次に、この島を治めていた領主が息子の治療の為にキリスト教を受け入れ、キリシタン大名だったことも大きな要素だ。

しかし、江戸時代に入るとキリスト教は禁教となる。信長の時代は反仏教の立場からキリスト教はむしろ奨励された向きがある。しかし安定した江戸時代に入ると完全にキリスト教は禁教となり、弾圧と排除の歴史が始まる。これについては多くの文献がその苛烈さを語っている。

ただ、私はキリスト教の排除が宗教的な対立から生まれたものとは思っていない。イスラム教とキリスト教の対立のような仏教徒との対立があったわけではないと。徳川幕府の禁教はもっと経済的な政治的な理由によって行われたと考える。幕府の鎖国政策も同様だと考えている。イデオロギーとして鎖国をしたわけではない。むしろ海外からの権益を独占する為に行ったものだと。またキリスト教の浸透がキリシタン大名を多く生み、それが海外とも交易で多額の利益を得て勢力を増すことを恐れたのが禁教の主な要因だったと思われる。

こうした要因からキリスト教徒への弾圧も苛烈を極めたものであったが、隠れキリシタンとして一般の信徒が生きる道がわずかであったとしてもあったような気がする。九州本土から多くの一般のキリシタンが五島の辺鄙な漁村に逃れ、自給自足の生活をしながら信仰を守っていった様子が想像出来る。

何と言っても五島列島は離島である。現在でもフェリーで3時間、ジェエトホイルでも1時間半かかるのだ。当時にあっては航海は死ぬか生きるかであったろう。信仰の為に命を賭して島に渡った人々が、わずかな土地に植物を栽培し、何と言っても豊かな海の資源を得ることができれば信仰を糧にして生きることはできたように思う。

また、五島列島のキリスト教信仰はマリヤ信仰を中心としていたことも現地に行って知った。あらゆるところにマリヤ像があり、ルルドと呼ばれる洞窟が作られていた。このマリヤ信仰は仏教の観音信仰に擬せられる。日本仏教においても観音信仰は根強いものだ。各地に観音像があるが、マリヤ観音像というのもある。いわば観音信仰に擬することでキリスト教信仰を潜伏させたものと思わせる。「潜伏キリシタン」という言い方を現地で知ったが、こうした「潜伏キリシタン」が江戸期の長い禁教の時代を子孫に継いで行ったのだろう。変な言い方かもしれないが、禁教があったからこそと言える気もする。

明治に入って禁教が溶けると、潜伏していたキリシタンは一挙に表に現れる。それが教会建築ラッシュを生む。これまで先祖たちが守ってきた信仰が大手を振って行われる。その場が集落ごとに必ずあると言っていい教会なのだ。信徒たちはけっして裕福ではないにちがいない。しかしこの解放が身を削って資金を拠出する原動力になったと。

中通島の東端にある立派な石造りの頭ヶ島天主堂もそうした教会の一つだ。しかし、地元の人が今は信者の住人は11人しかいず、皆高齢だと言っていた。ここにも少子高齢化の波は否応なく訪れている。地元はこの島を世界遺産に登録しようとしている。これも経済効果を生みたいが故であろう。しかし、私はそうした行為はあまり好きではない。信仰と信徒がいなければ、単なる歴史的建物に成り下がるからだ。

若い人たちがこの豊かな島で人生を選択してくれることを望むだけだ。 具体的に訪れた教会は以下のページをご覧あれ。

五島列島教会旅

五島列島教会旅

高井旅教会

ひょんなことから五島列島に行くことになった。まずは長崎に飛んで軍艦島を見学する予定だったが、あいにく海が荒れていて上陸できないということで長崎の街を歩いた。実に暑かった。見所は大浦天主堂。その後五島に渡ってももっぱら教会見学の旅になった。もちろん五島は海が素晴らしい。海を見ながら時には車を降りて砂浜を歩き、集落ごとにあると言っていい教会を訪ねて行った。福江島から上五島、そして佐世保に渡って平戸へ、いずれも多くの教会が存在する。全て訪ねるのは無理だったが、写真に収めた教会全てをここに紹介する。写真をクリックしてくれれば説明も読めるはずだ。長崎のキリシタンについては思うところもあったが、これはまた別の機会に書くことにする。

『日本古典文学総復習』53『中華若木詩抄』『湯山聯句鈔』

ここのところこの日本古典文学総復習も50巻を超えて滞ってしまった。これは夏ということもあって出かける機会が多いことと、何しろ暑いということも原因している。しかし、扱う書物が難解なことも大きな原因だ。今回も初めて聞く書名の文献だ。五山文学の資料といっていいものだが、扱われているのが漢詩というのも馴染みが薄い。漢詩はかつては知識人にとって必須の教養だった。明治の文学者まではまだ生きていたはずだ。そういう意味では日本文学史にあって一つの重要なジャンルをなしていたはずだ。しかし現在は忘れ去られてしまった。なんとかその概略だけでもここに示しておこうと思う。

『中華若木詩抄』について

「抄物」と言われる書物の一つで、如月寿印という人物が編纂したと言われる。17世紀の中頃に成立したらしい。唐や宋の詩人と日本の禅僧の手になる漢詩二百数十編に注釈を加えたものだ。「抄物」とは各種の作品を注釈し解説した書物をいうが、この「中華若木詩抄」は禅僧の手になっていて、当時禅僧にとって漢詩がいかに重要な教養であったが伺える。禅僧は当時の知識人の代表的存在だから漢詩が知識人の文学であったことは間違いない。和歌が連歌へ俳諧へと庶民化する傾向にあったのと対照的である。これが後に漢詩が文学史の表舞台から降りていく原因にもなったと思われる。ただ、その文章はかなり口語的に思われる。具体的に一つだけ原文を紹介しておこう。(ただし影印・クリックして拡大してください)

『湯山聯句鈔』について

この書は『中華若木詩抄』と同じく室町時代末期の明応九年(一五〇〇)五月五日より同二十三日にかけて、禅僧である寿春妙永と景徐周麟が湯山(有馬温泉)に出かけた折に興行・応酬した千句の聯句(湯山聯句)に対して、一韓智 が註釈・解説を施して、永正元年(一五〇四)八月二十日に成立したものだ。
この聯句というのが面白い。もちろん連歌の連句とは違うが、その影響が伺える。「一座の聯衆が、現前の景や共通に理解の可能な心情を素材として、先行の諸文芸よりもっとも密接に関連した典拠を用いて表現し、二句一聯によって最小単位のまとまりある世界を共同で築き上げようとした文芸である」と定義されているようで、本来的に連歌の連句と共通する。連歌の連句は長句(五七五)と短句(七七)とを交互に連ねていくものだ。それに対し、この聯句は原則として五言の漢句を連ねる形である。
また舞台が有馬温泉というのも面白い。

垢を洗い、病を治さうとてかと云に、いや、元来法身は清浄なれば、洗ふべきの垢もないぞ。治すべき病もないぞ。さるほどに、今湯に入るは、この無垢を随分至極と思ひ、無病を至極と思ふ、この心を洗ひ去けんとてあるぞ

すなわち「元来、法身は清浄なのだから、洗いおとすべき垢や治すべき病はない。無垢や無病を当たり前だと思う心こそ垢がついて病んでいるのだ」
と一韓は述べている。

ここでも具体的に一つだけ原文を紹介しておこう。(ただし影印・クリックして拡大してください)

この項了
2017.08.09

『日本古典文学総復習』52『庭訓往来』『句双紙』

『庭訓往来』を読む

『庭訓往来』という書名は以前から知ってはいた。しかし、その中身は全く知らなかった。多分辞書のようなものだぐらいの知識しかなかった。今回初めてその書を紐解いてみた。果たしこの書はなんと名付けたらいいのだろう。文学作品とは到底言えそうにない。まずはその一部を紹介する。画像も載せておく。

面拝の後、中絶良久く、遺恨山の如し、何れの時か
 意霧を散ぜん哉、併ら胡越を隔つるに似たり、猶以て千悔々々、
 抑、醍醐雲林院の花、濃香芬々して匂已に
 盛ん也、嵯峨吉野の山桜、開落条を交ふ、黙
 止難きは此の節也、争でか徒然として、光陰を送らん哉、花の
 下の好士、諸家の狂仁雲の如く霞に似たり、遠所の
 花は、乗物僮僕、合期し難し、先づ近隣の名
 花、歩行の儀を以て思ひ立つ事に候、左道の様為りと
 雖も、異体の形を以て明後日御同心候はば、本望
 也、連歌の宗匠、和歌の達者、一両輩
 御誘引有る可し、其の次を以て、詩聯句の詠同じく所望に候、
 破籠小竹筒等は、是自随身す可し、硯懐紙
 等は、懐中せらる可き歟、如何、心底の趣紙上に
 尽し難し、併ら参会の次を期す、不具恐々謹言
 二月廿三日   弾正忠三善
 (謹上) 大監物殿

 是自申さしめんと欲し候の処に、遮つて恩問に預り候、
 御同心の至り、多生の嘉会也、抑花の底の
 会の事、花鳥風月は好士の学ぶ所、詩歌管弦は、嘉齢延年の方也、御勧進の
 体、本懐に相叶ひ候者を哉、後園庭前の花、
 深山叢樹の桜、誠に以て、開敷の最中也、若し今
 明の際に、暴風霖雨有らば、無念の事也、同じく
 は、片事も急ぎ度存ぜしめ候所也、倭歌は、
 人丸赤人の古風を仰ぐと雖も、未だ長歌、短歌、旋
 頭、混本、折句、沓冠の風情究ず、(連歌は、無情寂忍の旧徹を学ぶと
 雖も、未だ)輪廻、傍題、打越、落題の体を(弁ず)、詩聯句は、菅家
 江家の旧流を汲乍ら、更に序、表、賦、題、傍絶、韻
 声の質を忘る、頗る猿猴の人に似たるが如く、蛍火の
 燈を猜むに同じ、然ども、人数の一分に召加へられば、殆ど後日
 の恥辱を招く可し、執筆、発句、賦物以下、才学未練の間、当座に定めて赤面に及ぶべき歟、聊用意
 有る可き由の事、承り候ひ訖ぬ、形の如く稽古を致す可し、
 公私の怱忙として、毛挙に遑あらず、恐々謹言 
   二月廿三日     監物丞源 
 謹上 弾正忠殿(御返事)

(以上の本文は大系本の表記を筆者が電子化したものだが、改行がおかしいのはこの大系本が写本の通りに改行しているためだ。写本の一部を画像で示しておく。)

こうした往復書簡が一年間続く形で記されている。「往来」とは往復ということで、ここでは往復書簡のことを言う。「庭訓」とは字のごとく庭の教えという意味でおもに幼児教育を言う言葉だ。従ってこの書は初学者のために書かれた往復書簡の形をとった教科書ということになる。その内容は月々によって異なり、そこに常識的な知識が並べられていると言うわけだ。また、お家流と言われる書の見本としての役割もあったようだ。そしてこの書が後々も活用されることになる。もっと辞書的にこの書に現れる語や事柄を図入りで示す本が江戸時代になって現れる。これがこの『庭訓往来』という書名を有名にしたのだと思われる。
ところで、この書を紐解いてみて日本の中世において教育がやや一般化した跡が見られることに注目した。もちろん近代的な学校と言えるものはいまだ存在しないが、一部の貴族のみに限られていた教育が武士へまた寺院をつうじて庶民へと広がる契機をこの書等に感じることができる。江戸時代になればそれが一挙に広がっていくのもうなずける気がする。

『句双紙』について

この書は全くの語彙集だ。しかも説明も何もない。ただ、一字・二字・三字・四言・五言・六言・七言・八言・五言対・六言対・七言長句という分類で語をただ並べたものである。これは禅宗の僧侶が知っているべき語を収集したもので教科書なのである。

付録に「実語教童子教諺解」という書もある。

この項了

2017.07.27

『日本古典文学総復習』51『中世日記紀行集』

『中世日記紀行集』を読む

高倉院厳島御幸記・高倉院升遐記・海道記・東関紀行・うたたね・十六夜日記・中務内侍日記・竹むきが記・都のつと・小島のくちずさみ・藤河の記・筑紫道記・北国紀行・宗祇終焉記・佐野のわたり

以上15編を収める。

中世になって紀行文が多く作られる。それは前回も書いた通り京都と鎌倉の二重政権の一つの表れだと言える。具体的に京都から鎌倉へ行く必要が生じたからだ。その過程を文章に残しておくことは容易に想像できる。ただ、これまでも貴族の地方への任官ということはあった。その記録としては『土佐日記』がある。しかし、平安時代の地方行きとこの時代の地方行きは自ずから性格が変わっていった。平安時代の地方は京都から見れば未開の地である。一時的に行くことはあってもさして重要な意味を持ってはいなかった。しかし中世に入ると地方は一つの別な世界を形作り、無視でき無い存在になっていった。そこに行く紀行文も自ずから性格が変わっていったはずだ。いわば地方の時代の始まりであり、地方を別な目で見る紀行文の始まりであった。
ここでは鎌倉行きを詳細に記録した「海道記」、「東関紀行」、「十六夜日記」、それに後代の「奥の細道」に繋がる連歌師宗祗の「筑紫道記」「宗祇終焉記」を取り上げてみたい。

「海道記」

相模河ヲ亘ヌレバ、懐嶋ニ入テ砥上ノ原ニ出ヅ。南ノ浦見遣レバ、波ノ綾織ハヘテ白キ色ヲ濯フ。北ノ原ヲ望バ、草ノ緑染ナシテ浅黄ヲサラセリ。中ニ八松ト云所アリ。八千歳ノ陰ニ立寄テ、十八公ノ栄ヲ感ズ。
 八松ノ千世フル陰ニ思ナレテトガミガ原ニ色モカハラズ

「東関紀行」

かくしつつ明し暮すほどに、つれづれも慰やとて、和賀江の築島、三浦のみさきなどいふ浦々を行て見れば、海上の眺望哀を催して、来し方に名高く面白き所々にもをとらずおぼゆる也。
 さびしさは過こしかたの浦々もひとつながめの沖のつり舟
 玉よする三浦がさきの波まより出たる月の影のさやけき

「十六夜日記」

二十九日、酒匂を出でて、浜路をはるばると行く。明はなるる海の上、いと細き月出たり。
 浦路行く心細さを浪間より出でて知らする有明の月
渚に寄せ返る浪の上に霧立ちて、あまた有つる釣舟見えずなりぬ。
 蜑小舟漕ぎ行方を見せじとや浪に立添ふ浦の朝霧
都遠く隔たり果てぬるも猶夢の心地して、
 立離れよもうき波はかけもせじ昔の人の同じ世ならば

それぞれに特徴が伺える。まずその文体だが、「海道記」は漢文訓読体、「東関紀行」は和漢混交文、「十六夜日記」は和文、といった違いだ。いずれも場所は現在の神奈川県、鎌倉に入る直前の場所の記述だが、「海道記」に紀行文としての面目がある。名も知れ無い場所で風景を発見している。「東関紀行」にもそう言える所はあるが、「十六夜日記」はそうした面が希薄だ。もともと「十六夜日記」の作者の旅の目的がそうした所にはないのが原因だろうが、風景描写という点では「海道記」が勝っているように思う。これまで風景は歌枕といった類型的にものにとどまっていた。自分の目で見て自分の感慨に照らして風景を描写する本格的な風景の発見は近代を待たないと実現しないが、その端緒がここにある気がする。では宗祗の紀行文はどうだろう。

「筑紫道記」

これは宗祗が晩年山口から九州にわった紀行文だが、関心は寺社仏閣にあっていわば名所めぐり的なものだ。たとえば、

松原遠く連なりて、箱崎にもいかで劣り侍らむなど見ゆるは比なけれど、名所ならねば、強ゐて心とまらず。

という文言があるように名所すなわち歌枕に関心があって風景をそのもとして見る記述はない。宗祗は連歌師であり、連歌は過去の歌を踏まえることにその眼目の一つがあったから、関心はそういう所に行くのは当然かもしれない。
「宗祇終焉記」は弟子の宗長が宗祗を伴って越後から駿河に帰る旅の記述。途中宗祗は死去してしまう。この文はその道中を記したものだが、連歌師たちの旅であるから当然連歌の発句が多く紹介されている。紀行文としては見るべきものはないが、連歌師たちがいかに地方に赴いたかがわかるものだ。これが後の俳諧連歌師芭蕉に連なっていく。これも地方の時代の象徴かもしれない。

この項了

2017.07.23