『日本古典文学総復習』79『本朝水滸伝・紀行・三野日記・折々草』

 再び間が空いてしまった。当初の計画ではとっくに終わっていたはずだが、ようやく79巻目となった。ま、急いでも仕方がない。というより元々急ぐ性格のものでもないからいいのだが、それでも期限を設けないとこうした仕事?もやり通せないことは確かなので、なんとか本年中には終わらせたいと思っている。

 さて、今回は読本(よみほん)というジャンルの作者と言われる建部綾足(たけべあやたり)という人物の作品だ。読本は字の通り「読む」すなわち文章中心の作品をいうが、内容も滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に代表されるように長編の伝奇的な内容を持つものが多かったようだ。ただ、漢文的な要素を多分に持っているためそれほど一般には普及はしなかったと思われる。ここが直前にみた「浮世草子」とは異なる。題材も基本的に中国のものを下敷きに歴史的なものが多くある。ここで読む『本朝水滸伝』も題名してからそれがわかる。
 ただ、この作者、読本作者という枠には到底はまりそうにない人物だ。その生涯をざっと見てみるとそれがわかる。

  • 享保4年(1719年)陸奥国弘前藩家老の次男として、江戸に生まれ、弘前で育った。
  • 元文3年(1738年)20歳、兄久通嫁そねとの情事のため、弘前の家から追われた。その後、俳諧を志し、各地を転々としながら、その道で名を成した。
  • 延享4年(1747年)29歳、江戸浅草に『吸露庵』を構え、俳諧の弟子をとったが、その後も旅を多くした。
  • 寛延2年(1749年)31歳、門人らの援助を得て上方へおもむき、翌年長崎に寄寓して約半年、熊代熊斐と石崎元徳に、南蘋派の画法を学んだ。
  • 宝暦元年(1751年)33歳、大阪に留まり画業で暮らし、翌年江戸へ帰った。
  • 宝暦3年(1753年)35歳、母の勧めで、中津藩主奥平昌敦に仕え、翌年藩命によりふたたび長崎で約1年半、費漢源に山水画、李用雲に墨竹図を学んだ。
  • 宝暦7年(1757年)39歳、遊女の紫苑(号、伎都)と結婚した。翌年中津藩を辞した。
  • 宝暦13年(1763年)45歳、片歌を提唱し、『綾足』の号を用いた。賀茂真淵に入門した。
  • 明和3年(1766年)48歳、歌道の冷泉家に入門した。
  • 明和5年(1768年)50歳、初めての小説『西山物語』を上梓した。京都に住み、片歌と国学とを講義した。
  • 明和7年(1770年)52歳、片歌の祖と考えたヤマトタケルの能褒野陵前に、片歌碑を建てた。花山院常雅から『片歌道守』の称号を得た。京都で万葉集や古今集を講義した。
  • 安永2年(1773年)55歳、『本朝水滸伝』前編京都で刊行。
  • 安永3年(1774年)56歳、旅行中に病み江戸の仮寓に没し、向島弘福寺に葬られた。

(ウィキペディアから一部変更して引用)

『続近世畸人伝』はこの人物を「生涯覚めたるか夢見たるか分からない人だった」と書いているらしいが、その生涯は波乱万丈と言っていいものだし、文学的足跡も俳諧から絵画そして国学的歌学、読本作者と多彩である。そして何よりこの人物が兄嫁との不義をきっかっけに生涯旅にあったということが重要だと思われる。つまりは具体的に一つの場所に留まり続けられない運命を背負っていて、それが文学的にも一つのところに止まりきれないことに繋がっていたと思う。

では収録作品を見て行くことにする。

『本朝水滸伝』

 本家『水滸伝』は明代に成立した伝奇歴史小説の大作だが、これを模したいわゆる「水滸もの」の先鞭をつけた作品。この「水滸もの」は現代でも多く書かれ読まれている。汚職官吏や不正がはびこる世の中を様々な事情で世間からはじき出された好漢たちが、梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結して、やがて悪徳官吏を打倒し、国を救うことを目指すという物語の筋書きは今でも多くの人を魅了するからだ。それはいつの時代も汚職官吏や不正がはびこっていると言うことの証左だが、そうしたものに戦いを挑むことができない庶民の願望を代弁してくれるからだろう。
 この『本朝水滸伝』も古代を舞台にしながら、その時代に権力をほしいままにした僧道鏡に抗して立ちあがった登場人物たちが梁山泊たる伊吹山に潜んで策略を練り戦いを挑むストーリーになっている。ただ、その登場人物たちは歴史的に名を残している具体的な人物、例えば大伴家持や恵美押勝といった人物である。そういう意味では歴史小説的な体裁となっている。しかし、登場人物たちはその名を借りているに過ぎず、作者の創造によっているようだ。後半部には楊貴妃まで登場にいたってはやや荒唐無稽の感を免れ得ないが、これがこの書の面白さと言えないことはない。
 もう一つこの書で注目したいのは、反乱する人物たちの中に現代でいうアイヌの王や東北部の豪族、山岳民と思われる人々が登場することだ。これも作者の創造によるものだとしても、いやだからこそこの作者の見識の広さを感じさせる。ひょっとすると作者が津軽で過ごしたことも関係があるかもしれないし、若い時から定住しない人生を強いられたかもしれない。

『紀行』

 建部綾足は旅の人であった。また、俳諧の人でもあった。となれば紀行文があるのは当然と言える。ここでは短い15編の紀行文が収められている。以下その旅の概略と句を紹介しておく。

     

  •  「笈の若葉」  北陸の旅。     伏せてある鍋は昼なり山桜
  •  

  •  「芦のやどり」 俳人野坡に入門。  旅人の別れはありて麦の秋
  •  

  •  「霜のたもと」 出羽に降る旅。   裾野から降るとも見へで蕎麦の花
  •  

  •  「痩法師」   江戸への旅。    其水に合はでくすりも花の時
  •  

  •  「ちちぶ山」  秩父に滞在。    峰に立ち洞に籠りて夏こだち
  •  

  •  「越の雪間」  金沢に下流る。   夜の雪朝まで見てや高鼾
  •  

  •  「北みなみ」  金沢から伊勢に。  昼顔や酒湯のあとの色にさく
  •  

  •  「梅の便」   奈良から京都へ。  雪折と見へしが咲かで塚の梅
  •  

  •  「かたらひ山」 吉野・初瀬に遊ぶ。 鶯のこごへて明ける桜かな
  •  

  •  「草の菴」   江戸に下る。    初鰹舟の一葉も茂る時
  •  

  •  「ひがし山」  京に上る。     留主に我さはるでもなし散り椿
  •  

  •  「浦づたひ」  長崎から九州の旅。 箱崎や紐とく草の花もなし
  •  

  •  「はながたみ」 長崎から大阪に。  風に添ふ香のかたみや梅の花
  •  

  •  「三千里」   江戸に帰る。    富士の雪里から消すや梅の花
  •  

  •  「小艸録」   中津候に再度伺候。 分入らぬ道迄ゆかしすみれ草

『三野日記』

 これも紀行文の一種か。三野とは下野・上野そして武蔵野らしい。そこを訪れたのは俳諧の宗匠としてだ。この地方はいわば彼の本拠地であったようだ。ここには弟子が多くいて俳諧の宗匠として面目躍如とする場所だったようだ。内容は彼が俳諧というより、賀茂真淵の影響からか「片歌」を推奨する論を張っている。
 「片歌」は辞書によれば、
 上代歌謡の一形式。5・7・7音を基本とする。もともとは短歌または旋頭歌 (せどうか) の上句もしくは下句だけをうたう場合をさしたと考えられる。『古事記』歌謡に 11首,『日本書紀』歌謡に6首 (うち3首は『古事記』歌謡と重複) あるだけであり,風土記歌謡や『万葉集』などにはみられない。独立して用いられた例はなく,問答の一方もしくは双方に用いられるか,他の形式の歌謡と連続して用いられる場合に限られる。後者の場合,1例を除いては一連の歌謡の最後に用いられており,それが本来の形であったと考えられる。
とある。
 これをなぜ彼が推奨したかは必ずしも明確ではないが、俳諧の発句とやや形式が似ていて、古代歌謡の内容を要約する働きから、いわば歌の凝縮した形式と考えたからかもしれない。もう一つは俳諧師として現状の俳諧のあり方に満足していなかったためとも思われる。しかしこの「片歌」は消滅していってしまう。

『折々草』

 これは随筆に分類される作品だが、中身は短編小説風もあり、綾足が全国で見聞したさまざまな話を春夏秋冬の四季の部立の形式でまとめたものである。話は実に多岐にわたっており、以下のようなものがある。
 「江戸の根岸にて女の住家を求ありきし条」とか
 「雪なだれにあひて命をのがれしぬす人の事」とか
 「男を乞ひて死ける女の事」とか
 「伊予の国より長崎にくだる舟路を云条」とか
 「連歌よむを聞て狸の笑らひしをいふ条」とか
 「屁ひり翁をいふ条」といった類である。
 いずれも短い話であるが、いかに彼が全国を歩き、土地土地の話を興味深く聞いたり書き留めたりしたがわかる。こうした書は江戸時代に多く存在するだろうが、綾足の学識と才能、そして好奇心とが、いかにマルチであったが伺えて興味深い。

2018.04.12
この項了

『日本古典文学総復習』78『けいせい色三味線・けいせい伝授紙子・世間娘気質』

 まただいぶ経ってしまった。古典文学ばかり読んでいるとさすがに飽きるので、久しぶりに翻訳物の長編を読んだ。村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーの『水底の女』と言う作品。それもハードカバーの本。こうした本を街の本屋で買ったのも実に久しぶりのことだ。最近はすっかり読書はkindleばかり。活字の大きさを調整できるし、買うのもネットで簡単に済むから一度やると止められいからだ。しかしそれにしても、読書というか出版事情もここのところ大きく変わった気がする。

 さて、今回は江島其磧という人物の浮世草子だ。江島其磧は前回の井原西鶴の後に出た浮世草子の作家。西鶴の焼き直しといった評価が一般的だそうだが、西鶴との違いはまずは作家としての違いにある。すなわち、いわゆる出版が一般化し、出版社が作家を操るという現代の出版事情に近い形ができた後の作家だという点だ。京の八文字屋八左衛門という出版元がリードして作家に売れそうな本を書かせるという形の中で書いていた作家だということになる。
 この人物、京都の富裕な大仏餅屋の4代目だという。裕福な町人として祖父も父も連歌や俳諧を嗜んでいたようだ。そして始め浄瑠璃の執筆をし、そこで書肆八文字屋八左衛門こと自笑という人物に関わり、その依頼で書いた役者評判記『役者口三味線』が大いに当たって作家となったのである。はじめから舞台付きの脚本家のような作家だったわけだ。初期の作品に江島其磧の署名がないのもそんな事情によるようだ。出版元の八文字屋八左衛門が前面に出ていて、その後署名が行われるが、ここに出版元とその作者との確執が窺われるが、この作家が置かれていた立場が西鶴とは全く違っていたということだ。西鶴の焼き直しという評判も、西鶴が評判だっただけに出版元の要求が大いに関係していると思える。
 さて、ではここに収録されている三つの浮世草子を見ていくことにする。

『けいせい色三味線』

元禄14年に八文字屋八左衛門によって刊行された浮世草子。5巻24話ある。其磧浮世草子の処女作ということになる。5巻を京、大坂、江戸、鄙、湊に分け、それぞれの巻頭に遊女名寄(遊女の詳しい名簿)が出され、遊興の種々相が書かれている。これは役者評判記『役者口三味線』の体裁がとられていると言われるが、こうした趣向がリアリティをもたらしている。また、本文の冒頭には「傾城買の心玉」という、遊里での遊びに夢中にさせる憑き物が出てくるが、これに取り憑かれた人々の悲喜劇が描かれているわけだ。ただ、題材も文章も西鶴に拠るところが多いようだ。現代で言えば「剽窃」とも取れそうだが、当時にあっては問題となることはなかったようで、むしろ「西鶴よりわかりやすく、その構成の妙も当時の読者の求めに合致していて、新機軸と相まって、大好評を博した」という。

『けいせい伝授紙子』

 いわゆる忠臣蔵ものの一つ。赤穂浪士の事件は元禄十五年に起きているが、その八年後の宝永七年には浄瑠璃・歌舞伎上演がきっかけとなって赤穂浪士ブームが起きている。そのブームに乗じた浮世草子界の初めての作品だという。これも八文字屋によって同年に刊行されている。
 内容は他のものと同様、時代を室町時代に移し、高師直と塩冶判官の話となっている。ただ、この本は他のものとは違い、浮世草子らしく好色物的色彩が加えられている。高師直は塩冶判官の妻に恋慕し、怒った塩冶は師直に刃傷に及んでしまう。そして切腹させられる。塩冶に鎌田という家臣がいて、その妻に陸奥という女性がいる。この女性がこの物語の主人公である。この陸奥は夫が浪士になってしまったため、遊女となりはてる。しかも質素な紙子姿で勤めていた(これが題名の由来)。ところが、事もあろうに(実は策略)夫たちの宿敵師直に身請けされることになる。これを利用して仇討ちのための敵方の情報を得て、浪士たちを助けるというお話。
 やがて仇討ちが成就してこの女性陸奥は出家し尼となり、色道の談義を行うという話となっている。夫のために仇の妾となって内通する女性を主人公にしたところに妙味がある作品だ。
 こうした忠臣蔵物はこの後様々な人物たちの細部にわたるエピソードを生み、さまざまなジャンルの作品を生んできた。本当に日本人は未だに忠臣蔵が好きなのだ。この浮世草子はその最も早い小説界の反応だった。

『世間娘気質』

 
6巻。享保2年刊。気質 (かたぎ) 物の一つ。驕、悪性、悋気 など当代の娘の気質を16章で描く短編小説集。『世間子息気質 (むすこかたぎ) 』の追加として書かれたもので、ともに井原西鶴の『本朝二十不孝』 (1686) の影響を受けた作と言われている。ただ、前の二つよりは其磧の独自性があるように思われる。現代でも若い娘たちの行動は格好の通俗小説のネタに成るが、遊里という特殊社会の女性ではなく、いわば町人の娘の行動や気質に着目した点が面白い。ここは題名だけを羅列しておくが、その題名からどんな娘たちが登場するか想像できると思う。

「男を尻に敷金の威光娘」
「世間にかくれのなひ寛濶な驕娘」
「百の銭よみ兼たる歌好の娘」
「世帯持ても銭銀より命を惜まぬ侍の娘」
「小袖箪笥引出していはれぬ悪性娘」
「哀なる浄瑠璃に節のなひ材木屋の娘」
「悋気はするどひ心の剣白歯の娘」
「不器量で身を麩抹香屋の娘」
「物好の染小袖心の花は咲分た兄弟の娘」
「器量に打込聟の内証調て見る鼓屋の娘」
「胸の火に伽羅の油解て来る心中娘」
「身の悪を我口から白人となる浮気娘」
「嫁入小袖妻を重ぬる山雀娘」
「傍輩の悪性うつりにけりな徒娘」
「心底は操的段々に替る仕懸娘」
「貞女の道を守刀切先のよひ出世娘」

2018.03.21
この項了

『日本古典文学総復習』76『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』77『武道伝来記・西鶴置土産・万の文反古・西鶴名残の友』

だいぶ間が空いてしまった。ここのところ他の趣味で忙しかったと言い訳しておく。
さて、今回は井原西鶴。これまで西鶴は『好色一代男』『日本永代蔵』を読んできた。また、俳諧集を見ていく中でも登場してきた。しかし、改めてここに収められた作品を読んで、その魅力に感じ入った。まず西鶴の咄はこれまでの説話と違って、余計な外側からの思想がない。儒教的な倫理、仏教的な説教、そうした物が一切なく、ただ現実を生きている人間達のあくなき興味のみが窺えるのがいい。「金」や「色」といった欲望に翻弄される現世を生きる人間達を面白がって見つめる作家の目だ。いかに江戸時代の元禄期が成熟した社会になりつつあったが窺えるといってもいい。
では、ここに納められた西鶴作品を一通り紹介する。

『好色二代男』

正しくは『諸艶大鑑』。1684年(貞享1)に刊行される。西鶴の処女作『好色一代男』の好評から、一代男世之介の遺児世伝(よでん)が登場することもあり、当時から世間一般にこの題名が流布していた。ただ、形式は巻一から巻八までそれぞれ独立した話題を展開する五つの短編があつめられている全40話の短編集ということになる。内容は題名にあるように、諸国の遊里における遊興の諸相や遊女の生き方や心情が描かれている。また遊里に通う男の生態も描かれている。
「人間は欲に手足の付たる物ぞかし」という言葉があるように、西鶴はいわば生身の人間の欲がはっきり現れる遊里を舞台に当時の人間の実相を描いたと言える。

『西鶴諸国ばなし』

題名にある通り、西鶴による全世界的な説話集。1685年(貞享2)1月、大坂・池田屋三郎右衛門により刊行された。5巻5冊。自序に、「世間の広き事国々を見めぐりてはなしの種を求め」たとあるように、諸国の珍しい話、変わった話を集めている。ここでいう諸国とは日本各地という意味を超えて、中国の話も含まれる。前にみた『牡丹燈記』を翻案した浅井了意の『伽婢子』を受ける怪異譚があったりする。また、各巻の題名の下には「知恵・不思議・義理・慈悲・音曲・長生・恨・因果・遊興・報・仙人」などの見出語があって、その内容を簡潔に示している。各巻にはそれぞれ7つの「はなし」があり、全35話
の短編集ということになる。
このいわば説話集は中世期の説話集とちがって、仏教的な価値観や儒教的な価値観に収斂させることはない。「人はばけもの世にない物はなし」とあるように、そこにはあくまでも当世を生きる生身の人間の面白さ、意外さに対する西鶴の生き生きとした興味のみがうかがえる。

『本朝二十不孝』

1686年(貞享3)刊。5巻20話。改題本に『新因果物語』とある。中国の『二十四孝』を逆手にとって20の不孝譚を集めたもの。江戸時代は儒教道徳が公式な道徳規範だったが、その中で「孝」はもっとも庶民が守るべき規範であった。具体的には1683年(天和3)5代将軍徳川綱吉により発令された忠孝令があり、その後もその高札が掲げられ続けた。これに対するに西鶴は「孝にすすむる一助」とはいっているものの、真逆を行く「不孝」者を描くこと自体に面白さを求めたといっていい。不孝者を戒めるとか、孝行を薦めるとかそんなつもりは全くなかったと言える。現世の人間の姿を「不孝」者の中に求め、儒教道徳とは遠いところで生きる人間にたいする生き生きとした興味がうかがえる。

『武道伝来記』

1687年(貞享4)4月、江戸・万屋(よろずや)清兵衛、大坂・岡田三郎右衛門より刊行された。八巻八冊。副題に「諸国敵討」とあるように、北は奥州福島、南は薩摩に及ぶ復讐譚32話を集めたものである。ここは武士がモデルで、これまでの町人とは違った倫理の中で生きる人間を「仇討ち」という武士社会の最もシンボリックな事件を通して描いている。幾つかは実際の仇討ち事件をモデルにしているようで、西鶴のルポルタージュ作家としての面目がうかがえる。もちろん西鶴は町人に属する人間だが、その町人から当時の支配階級たる武士がどう見えたかも知ることができ興味深い。ただ、ここにも西鶴の現世の人間に対する飽くなき興味があり、町人も不孝者も仇討ちする武士もされる武士も西鶴にとっては現世を生きる同じ人間だという認識がうかがえる。

『西鶴置土産』

1693年(元禄6)8月に西鶴が52歳で没したあと、同年の冬に北条団水の編集により遺稿集として刊行されたという。ここには西鶴が書いてきた「金」と「色」の世界の「負」の面の物語が集められている。遊里はまさに「金」が物言う世界だ。「金」がなければ「粋」も「洒落」もできはしない。ここに登場する人物達はかつてはお大尽だったが、やがて遊里に搾り取られ、零落してしまった人物達だ。
何もかも底をついてしまった身でありながら遊び仲間に見栄を張り続け男たち、息子から勘当されてもなお悪所狂いはやめられず、遺産目当てに息子の死ぬを待つ親仁といった人物達が5巻15章で語られている。
「世界の偽かたまってひとつの美遊となれり」
とあるように、遊里は「嘘」で支えられた世界。しかし、一旦その世界にはまると
「昔より女郎買のよいほどをしらば、此躰迄は成果じ」
と言うようにとことん身を滅ぼすまで「わかちゃいるけどやめられない」世界なのだ。西鶴はここに人間の浅はかさを見ているようだが、決して達観した姿勢は見せてはいない。ここにも現世の人間の諸相を興味ぶかく、いわば「おもしろがって」見ている西鶴がいる気がする。

『万の文反古』

1696年(元禄9)1月、西鶴の第四遺稿集として門人北条団水が5巻5冊に編集し、京都・上村平左衛門、大坂・雁金屋庄兵衛、江戸・万屋清兵衛より刊行された。張貫の女人形をつくる職人が、材料の紙くずのなかからみつけだしたという趣向で、20編の手紙を紹介し、それに短いコメントを付けるという趣向のいわば書簡体小説集。他人の私信を読むという興味が、その私信を書く人物と受け取る人物の人生を想像させる。もちろんそこにある私信は西鶴の創造だろうが、ここにも様々な人生への飽くなき興味が伺える。「万の」とあるようにそこには町人・武士・遊女といった様々な人物が登場する。そしてその人物達の心の奥底を想像させることによって、現世を生きる人間の姿を描こうとした西鶴の新しい試みを見ることができる。

『西鶴名残の友』

これも門人北条団水による遺稿集。最後の遺稿集だ。これまで見てきた物とちがって、ここでは俳諧師西鶴が登場している。西鶴はまさに俳諧師であった。いやあり続けた。しかも芭蕉らの蕉風俳諧とは異なる談林派に俳諧師だった。俳諧は当時連歌風に傾いていったようだ。本当は連歌を笑いや俗でパロディー化するところに俳諧の妙味があったはずだ。それが談林派だが、西鶴は晩年までそれにこだわったようだ。この書はそうした思いから、古今の俳人・俳諧師達を登場させ、それらの人々の逸話・奇談を中心に自身の俳談・漫談・手記を交え、笑いの中で語っている。西鶴はこれまで見てきたように咄を多く書くようになったが、その本質は「笑い」をキーにする談林派の俳諧師であったことを改めて思い起こさせる。

2018.03.05
この項了

久しぶりに木工の話題

久しぶりに木工をやることに。ここのところ寒いのでなかなかお庭木工とはいかずサボっていたが、娘の依頼で絵の額を作ることに。
娘が冬に家族でハワイに行って現地の絵を買ってきたというので、この依頼となった。
当たり前の額ではつまらないと思って、ずいぶん以前に師匠からもらったモッコクの皮付きの板があったことを思い出し、作ることに。
そのプロセスを一応書き留めておく。
まずは材料。ヒノキの端切とモッコクの皮付き板。これらを一応カンナがけで同じ暑さに揃えた。一見モッコクは固そうだが以外にうまくカンナがかかった。

絵をはめる枠には余ったヒノキを使うことに。これは難しくない。

肝心な額の表面は結構難しかった。きちんとしていない板を使うので、中で直角を取って、45度で合わせるのが結構苦労した。

板を重ねて肯定し、留定規を当てて切断することで結構うまくいった。

あとは45度の部分を接着して、裏側に枠を同じく接着して完成。細かいところは裏の板を抑える為の溝を彫ったり、額を立てるために棒を挿す穴を彫ったり、板を磨いたりする。
最後にサンドペーパーで磨いて、オイルをかけて納品。

2018.02.23

過去と同じようにいかないのがパソコンメンテナンス

以前娘のパソコンをWIN10にした話を書いた。ま、一応動いていたようだが、あまりにも遅い!ということでまた持ち込まれた。
考えてみれば遅いのは当たり前。8年前のデスクトップでメモリーが2Gしかないんだから当たり前だ。
そこで速くしてやろうということになった。
パソコンを速くするにはまずはメモリーの増設、そしてビデオカードの装着、そしてハードディスクをSSDに変えるという手順。
メモリーの増設は種類を間違えなければ難しくはない。メーカーのサイトで仕様を確認し、さらにCPUZというソフトでスペックを調べて、あったメモリーを購入する。2G二枚購入して、計6Gにする。しっかり認識してくれた。
次にビデオカード。これは以前自分のPCの為に購入した玄人志向の
「ビデオカードGEFORCE GT 710搭載 ロープロファイル 空冷FAN GF-GT710-E2GB/LP」だ。
スリムタワーにも対応できる製品だったのが幸いした。
これもNVIDIAからGT710のドラーバーを手に入れて、インストールして動いてくれた。
これだけでずいぶん速くなった。起動は遅いが、描画はかなり速くなった。ノートと違って、デスクトップはこのビデオカードが入れられる所がいい。
さて、今度はSSDへの変更だ。
ここで大きく時間を取ってしまった。
SSDへの換装はすでに2度経験している。いずれも自分のPCでだが、2度とも難なくうまくいった。従って今回もどうということはないと思っていた。
経験上前に使った「Crucial [Micron製] 」の500Gの物をアマゾンで購入し、3.5inchへの変換ブラケットもコード付きということで同じくアマゾンで購入した。
さて、いよいよという所で、まずは「3.5inchへの変換ブラケットもコード付き」の中になんとコードが入っていなかった。そこで返品。
次にSSDにシリアルナンバーが書かれた紙が入っていない。これが経験上の誤りだった。以前購入した275Gの物にはそれが入っていて、それを使うとブロックコピーでクローンを作成するソフトが手に入り、簡単にクローンができたのだが、それがない為に苦労することとなった。
しかも、マニュアル(ネット上)にあるソフトのリンクが切れているし、ようやくの思いでそのソフトにたどり着いてもやはりシリアルナンバーを聞いてくる。そこで販売元に電話をしたが、つれない返事。アマゾンに聞いてくれという。
うーん困った。しかし、フリーでクローン作成ツールはあるし、ブラケットとコードも別途購入して、自力でやることにした。
次に立ちはだかったのがこれまでやったのがWIN7で今度はWIN10だという点。SSDを繋いでもエクスプローラでは表示されないという点だ。
結局以下をやらなくてはならない羽目に陥り、丸1日費やすこととなったというわけだ。以下手順を書いておく。

  1. SSDをUSB接続。電源確保できるサンワサプライのケーブル変換装置を使用。(以前の記事)
  2. WIN10の設定・システム・デバイスから接続を確認。(エクスプローラでは見えない)
  3. WIN10の検索で「ハード ディスク」とタイプして、ハードディスクツールを起動して、SSDをフォーマットする。その際MBR付きにする。
  4. フリーのクローン作成ツールでクローン作成。(容量が多い為相当時間がかかる。一晩中!)
  5. SSDを元あったハードディスクと交換。(同じコードを使うこと。そうしないとプライマリーにならない。)
  6. WIN10を起動。スパッと起動する。
  7. 元のハードディスクも接続。データディスクにする。
  8. SSDのデータ部分を削除。(これがまた大変。何回も止まる。これはクイック起動とかでデータが絡んでいる為と思われる。ここもWIN10の厄介な所)
  9. 元のハードディスクのいらない部分(システム関連)を削除。(これも厄介。結局この削除作業は完全には終わらなかった)

ついでにボタン電池も交換しておく。あとは娘の所の環境に合わせるのみ。
実に疲れました。
この間、いろいろなことを考えた。教訓ということで記しておく。
パソコンのメンテナンスは一つとして同じようにはいかないということ。
まっさらにしてしまえば簡単だが、データやOSによっても異なるし、使う部品によっても異なるからだ。
ネットで購入するときはよーくここのところを調べるべきだ。

しかしそれにしてもWIN10はほんと困った代物です。余計な設定が多すぎるのだ。もっともメーカーのPCを購入して黙って使いなさいということなんだろうけどね。それだったら今もこの記事を書いているMACの方がほとんどメンテンスできないからいいのかもしれない。チャンチャン。

2018.02.20

『日本古典文学総復習』74『仮名草子集』75『御伽婢子』

『仮名草子集』を読む

 今度は散文。散文といえば現代では代表が小説だが、その小説の親が浮世草子。そう井原西鶴だ。井原西鶴の『好色一代男』が刊行されたのは1682年(天和2)。しかし、それ以前に中世の御伽草紙があり、ここで取り上げる「仮名草子」があった。西鶴の作品をも当時は仮名草子と称していたらしいが、この語は「仮名」とあるように漢語で書かれた書物ではなく、ひらがなで書かれた読み物の総称であったようだ。従って庶民階級にも読める散文の総称ということになる。そしてもう一つ大事な点はこの時代に出版技術が発展し、出版物として流通できるようになった点だ。現代では当たり前だが、活字になってこそ文学として成立する。書き手があり、読み手があってこその文学だからだ。しかもそれが世間で流通してこそ文学として成長する。その魁がこの「仮名草子」と言える。江戸時代はこの後多くの散文作品が登場する。西鶴の浮世草子がその本格的な初めての達成だが、「仮名草子」はその嚆矢だった。
 これまでも日本古典文学には物語、説話、随筆といった多くの散文作品はあった。しかしそれは主に知識階級のものであった。これを一気に庶民化したのが社会の安定に伴う識字率の向上と印刷技術革新だった。そこに登場したのがこの「仮名草子」である。
では具体的にここに収録されている各作品を見て行ことにする。

「大坂物語」

慶長 20 (1615) 年に刊行された仮名草子。2巻。作者不明。大坂の陣の戦闘経過を内容としている。大坂の陣はいわば同時代の大きな事件であったが、それを謂わばルポルタージュ的に描き、出版したところに大きな意義がある。

「尤之双紙」

「もっともそうし」と読む。斎藤徳元という人の匿名作で八条宮智忠親王の加筆になるという。1632年(寛永9)6月,京都恩阿斎の刊になる。「犬枕」の跡を追って「ものはづくし」の形式に成る擬物語で,上巻に「ながき物」以下39項目,下巻に「ひく物」以下39項目の「ものはづくし」を収録している。「ものはづくし」は古く「枕草子」にあって有名だが、ここもその形をとって一種辞書的な要素を持っている。作者が俳諧師であることから俳諧の教養書の意味合いもあった気がする。五版まで出たようで多くの人に親しまれたようだ。

「清水物語」

朝山意林庵という人の作。1638年(寛永15)に刊行された。意林庵という人は細川忠利・徳川忠長に仕えた儒学者で、わかりやすい儒教教理の解説や、当時の政治また風俗の批判をするつもりで、この書を著したという。一応小説的形態をとり、著者が清水寺に参詣したとき,多くの人が問答をしているのを傍聴するという形にしている。学問のことから、隠者・賢人・法度・侍の気質・主君の心得・浪人・化物・喧嘩・殉死・天道などの問題が語られている。

「是楽物語」

作者不詳、成立未詳。明暦年間から寛文初年までの作と思われる。五十過ぎの男二人と十六の娘が巻き起こす一夏の恋物語。こういうとなにかロマッティクな小説を思い浮かべるが、中身は豈図らんや結構ドロドロしている。妻との確執・使用人の悪巧み、夫毒殺事件の話、果ては娘の投身自殺へと物語は展開する。そこに清水信仰・流行の狂歌・流行の温泉療法などが絡んでいかにも江戸的な内容となっている。巷間流布していた実話を多く取り入れた形跡があり、そういう意味からも当時多く受け入れられた作品といえそうだ。

「身の鏡」

毛利家の家臣玉木土佐守吉保という人物の自叙伝。1617年(元和3)に作られたと言われる。吉保の先祖および自身の誕生から老年に至る事跡を年代順に叙述。年月日付には若干の記憶違いがみられるが、戦国時代を生きぬいた地方武士の生活が生き生きと記されている好史料となっているようだ。とくに、著者の体験に基づく当時の寺院教育の教授法や教科書などが詳しく記されていて教育史料としても貴重であるという。

「一休ばなし」

1668年(寛文8)刊行された一休和尚の逸話集。編著者は未詳。序文に一休宗純の漢詩集『狂雲集』を俗解したと断っているがほとんど関係はないようだ。一休の幼少のころのとんちばなしに始まって、蜷川新右衛門との交遊、関の地蔵に小便をかける話、タコを食う話など46話がある。笑話本として歓迎され、また模倣書も作られたようだ。ここに現代でも親しまれている「一休のとんち話」の出発がある。

「都風俗鑑」

作者未詳。延宝年間に刊行されたらしい。題名の通り京都の当時の風俗を紹介している。おもに「遊び」や「女性」について多くを割いているが、けっして遊里に偏らず、町の様子や男たちの様子も描かれている。いわゆる遊女評判記とは一線を画す物となっている。これが後の西鶴の浮世草子に繋がる。

こうして「仮名草子」を見て行くと、内容的にも形式的にも大きな幅があることがわかる。単に小説的な物ばかりをいうのではでないことがわかる。これは漢籍中心だった多くの書物が仮名文字に置き換えられ、町人層にまで書物が裾野を広げたことの証左でもある。

『御伽婢子』を読む

 「仮名草子」には漢籍の日本語化という役割があったことは前にも触れたが、その最も大きな達成がこの『御伽婢子』と言える。「おとぎぼうこ」と読む。浅井了意という人物の手になる仮名草子の一書。1666年(寛文6)に刊刊行された。13巻68話もあり近世初期を代表する怪異小説集だ。その素材のほとんどを中国の怪異小説ならびに雑書から得ているというが、巧みな翻案でまったく異国臭を感じさせないほど日本化しているところが大きな特徴だ。舞台や時代設定人物なども日本に置き換えている。
 怪異談は古くから日本にもあった。これまでもいくつか見てきたところだ。ただ、中世までの怪異談には仏教的な因果応報思想が色濃くあり、そこに登場する人物も極めて類型的だった。しかしここではもっと人間的な要素が色濃く出ている。現世的な人間の持つ怨念や情念といった物が加わりより小説化したと言える。
 こうした怪異談は一般に言う「怪談話」として後にも流行し、現代に至っているわけだが、有名な「怪談牡丹灯籠」もここに登場する。
この話は元々は中国の小説。これを翻案したのがこの書。若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話だった。それを後に山東京伝や鶴屋南北が脚色し、さらには明治の人情噺の名人三遊亭円朝が『怪談牡丹灯籠』として創作した。円朝はこの幽霊話に、仇討や殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げたのだ。
 それにしても日本文学に於いての怪異談はすたれることがない。現代でも合理では割り切れない人間のドラマがあるからかもしれない。
この『御伽婢子』にある話はいずれも短い物だが、これからもここにある話に創作意欲を喚起される作家が現れるかもしれないと思えた。

2018.02.05
この項了

『日本古典文学総復習』73『天明俳諧集』

『天明俳諧集』を読む

 江戸の俳諧は芭蕉によってその頂点に達したと思われた。確かに芭蕉は俳諧を一つの芸術に高めたと言える。しかし一方で俳諧は点取り俳諧に見られるように江戸の多くの人によってその裾野が支えられていた。芭蕉以後、俳諧はいわゆる蕉風といわれる芭蕉を祖とする俳諧と其角らの点取り俳諧を基本にする江戸風の謂わば都市俳諧とに二分された。一方は地方において、他方は京大坂江戸といった都市において盛んに行われたようだ。それが天明期に至って蕪村という稀有な俳人が現れて様相が変わる。蕪村は芭蕉復興を唱えて登場するが、けっして蕉風の単なる追随者ではなかった。感覚的にまた資質的に都市的な要素を多分にもった才能であった。いわばここに地方系俳諧と都市系俳諧の芭蕉復活運動を通じた統合が行われたといっていいようだ。この『天明俳諧集』において、その蕪村を中心とした天明期の俳諧の様子を見ることとなる。芭蕉はもちろん好きだが、より蕪村に親近感を覚える。

「其雪影」

編者は高井几董。宝暦12年(1762)成立。上巻は連句集、下巻は発句集からなる。蕪村門下の実力を世に問うた。例は連句の蕪村の発句と几董の脇。

欠々て月もなく成夜寒哉  蕪村
 秋しづかさに謡一番   几董

「あけ鳥」

これも几董の編に成る。安永2年(1772)成立。蕉風復興を志向し、俳諧に新風を世に示そうとした蕪村の傾向が色濃い。例は九湖の発句と几董の脇。

山吹の縄ゆるされて盛かな 九湖
 掃ちぎりたる庭の春風  キ董

「続明鳥」

全篇の続編。3年後に成立。四百十六の発句と十二巻の連句を収める。都市系俳諧と地方系俳諧との接近混交によってなった蕪村の天明調をもっとも具体的に示す。例は一句。

うぐひすや障子に透る春の色 万容

「写経社集」

編者は道立。安永5年(1776)成立。道立の発起で洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵を再建。元の芭蕉庵は松尾芭蕉とは別人の庵であったというが、芭蕉を系愛した道立が誤解のまま再建したという。冒頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再建記」なる一文がある。例は道立の発句、松宗の脇、蕪村の第三を引く。

植かかるはじめはひくき田うたかな 道立
 夏もおくあるしほり戸の道    松宗
茶のにほひかしこき人やおはすらん 蕪村

「夜半楽」

編者は蕪村。安永6年の成立。俳詩として名高い蕪村の「春風馬堤曲」を収める。ここは蕪村の発句と月居の脇を引く。

歳旦をしたりかほなる俳諧師  蕪村
 脇は何者節の飯たい     月居

「花鳥篇」

編者は蕪村。天明3年(1782)成立か。蕪村独自の拝風を示した一書。挿絵もあり、花桜の艶やかさ引き立つ春興帳。ここは宗因の発句に蕪村がつけた脇に几董の第三までを引く。

ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞 宗因
 ましてやまぢかきゆふだちの雲  蕪村
江を襟の山ふところに舟よせて   几董

「五車反古」

編者は維駒。天明3年(1782)の刊行。几董の協力を得て編んだ父春泥舎召波の十三回忌追悼集。しかし、追悼集の色彩より召波が生前親交のあった俳人たちの句に妙味がある。ここは一句を引く。

船頭の鼾を逃るほたる哉  在江戸 燕史

「秋の日」

編者は暁台。芭蕉の「冬の日」の続編を意図した歌仙集。すなわち尾張続五歌仙の別名を持つ。芭蕉の「冬の日」も尾張五歌仙。いわば天明期の芭蕉復活の魁となったという。ここは白図の発句に暁台の脇を引く。

今幾日ありて又来んむら紅葉  白図
 月な荒しそ天ラ低き雲    暁台

「ゑぼし桶」

編者は蕪村と親しい美角という人物。暁台が京の美角邸に逗留し、芭蕉追善の俳諧を催した時の作を編集した物。ここにも芭蕉復興の気概のあった暁台が京の蕪村一派に加わろうとする姿勢が見える。ここは一句のみ。

納豆たたくこだまや四百八十寺 暁台

「俳諧月の夜」

編者は樗良。安永5年(1776)成立。蕪村とも交流があり、蕪村一門の句も多く惹かれているが、樗良自身は蕪村と一線を画していたようだ。ここは一句のみ。

雲晴て人の呼まで月見かな   蛙水

「仮日記」

江涯の編になる書。江涯は加賀の出身の行脚俳人。様々な地域で活動した俳人らしく、その俳諧活動をしるした句日記から春の句だけを収めた書。いろいろな地域の俳人の作を見ることができる。ただ、後半は近江八幡の人々の連句や発句を収める。ここは一句。

うかうかと華にくれ行命哉   闌山

「遠江の記」

五升庵蝶夢の作になる紀行文。浜名湖遊覧一日の記録だが、そこに風景把握に新しみがあり、多く句が挿入されている。ここは一句のみ。

舟ぞよき物くひながらやまざくら 方壺

2018.01.25
この項了

『日本古典文学総復習』72『江戸座点取俳諧集』

『江戸座点取俳諧集』

 「俳句」と言えば、知らない人はいないはずだ。現在でも「俳句」をたしなむ人は多い。しかし、この「俳句」がもともと「俳諧」を親としていたことを知っている人は多くない。「俳句」は単独で詠むものだ。しかし「俳諧」は基本的に複数の人間が句を連ねて詠んでいくものだ。したがって、「俳諧」の句は発句を除いて必ず前の句が存在する。つまり句を詠む時、前の句にどう「付ける」かが最大の問題となる。その「付け方」がいろいろと研究されることとなる。芭蕉もここに最大の関心があり、いろいろと「付け方」について発言している。たとえば「匂い付け」といったことだ。しかもこの俳諧が元禄期以降大流行を見て、庶民層まで広がりを見せたことがこの「付け方」の研究に拍車をかけることとなる。そしてこの「付け方」を採点する、いわゆる「点者」という俳諧の師匠が登場することになる。
 その一番簡易なものが、前の句を示して、付句を作らせそれを採点するといったものだ。これが「点者」の役割だ。しかも、句を提出した者は幾らかの金銭を払い、高得点の者は懸賞品をもらうといった形が出來、それが一般化してゆく。こうなると一種の「賭け事」の様相を帯びてさらに大流行していくのだ。
現在でも人気のある「川柳」も実は柄井川柳という点者がおこなった前句付けが元となっている。
こうした俳諧を「点取俳諧」と呼ぶが、前句付けのみといった簡易なものから本格的な独吟歌仙を採点するものまであり、これらの一端を示したのが今回取り上げる『江戸座点取俳諧集』だ。それぞれを簡単に紹介する。

「二葉之松」

前句付月次高点句集。点者不角編。付句一句の面白さによって選句している。不角は芭蕉以前の江戸点取の先駆的存在。一例を。

   風ここちよく戦ぐ湯あがり
 両葉之部
すすたけと親にいつはる丁子染 幸有
殉死の限に寺の草ふみて    三口

わかりやすい七七の前句に全く異なった付句を並べる。これが俳諧の妙味なのだ。

「末若葉」

独吟歌仙選集。点者其角編。其角は江戸座の祖と言える。芭蕉の門人だが、芭風が地方を中心に広がったのに対し、都会的な洒落風を唱導した。ここは其角の門人たちの若葉の発句による独吟歌仙に其角が加点して収めたもの。その一例。

第一          彫棠
帆柱や若葉上越谷の棚
 山を見立る楊梅の旬
大名に八百屋が付て下るらん
 袴を陰に寝たる月影

「江戸筏」

独吟歌仙集。風葉編。点者は沾徳。江戸俳諧の新風を諸国に広めるために編まれたという。恋愛風俗の比喩を俳諧の眼目とする、都会的な俳諧。その一例。

第九          甘谷
何を取船とも見えず初時雨
 石蕗のひかりの凄き待合
織殿に不断余国の気を兼て
 蝕む月の手形一束

「万国燕」

俳諧高点付句集。淡々評。淡々は京大坂の俳諧大名と呼ばれ活躍。江戸風を関西にもたらす。その一例。

花之巻
虹と起りし活僧の恋    我笑
我庭の月はよそにて花盛り 難里

「俳諧草結」

俳諧選集。隆志編。高点句の手引書。京都の高点句を紹介しているが、風俗詩的傾向がある。その一例。

梨子柿の跡おもしろし接木の実
 始て鹿を得たる余り米

で始まる、ここは百韻。

「俳諧童の的」

これも手引き書。江戸座俳諧高点付句集。竹翁編。江戸座宗匠を座別に配列し、高点句を例示するとともにその宗匠の好みを示している。その一例。

寝た時も顔へ扇をおんど取
馬のつらにて明る柴の戸

「俳諧觿」

江戸座俳諧高点付句集。沾山編。これはまさに付句が歌仙式や百韻からはなれて、付句そのものとして独立する傾向を示すことになった。これがいわゆる前句付けの流行を示し、やがて近代の「俳句」や「川柳」につながる契機となったと思われる。その一例。

前句  別に風雅な昆布で葺屋根
 付 奥蝦夷の雪の咄しは嘘のやう

前句  当分の風邪も案じる斗りなり
 付 貴様ひとりで城は盤石

 こうした「付け合い」や「付句」は現在ほとんど行われていないが、復活すると面白いと思える。ツイッターを使ったりして。

2018.01.18
この項了

『日本古典文学総復習』71『元禄俳諧集』

『元禄俳諧集』

年が改まって、暮れに続いて俳諧集3冊。先ずはこの『元禄俳諧集』。俳諧は元禄期に入って、いわば爆発的に流行する。すでに前回見たように芭蕉という天才が現れたのもその遠因の一つだろうが、芭蕉の俳諧とは趣を異にする俳諧も多く作られている。基本的には京都・大坂・江戸といった大都市で多くの俳諧の宗匠が現れていわばしのぎを削ったわけだが、それは地方の都市にも波及し、各地で俳壇が作られていった。ここはこうした当時の状況を知る選集を見ていくことになる。なお、次はこうした俳諧ブームを牽引した俳諧点者たちにも注目する。

「蛙合」

歌合的な句合わせ。しかも蛙の句を並べる。もちろん芭蕉のこの句が冒頭を飾る。

古池や蛙飛びこむ水のおと 芭蕉

対する句は

いたいけに蛙つくばふ浮葉哉 仙化

判定は引き分け。

「続の原」

上・下二巻。不卜の編になる。春夏秋冬の句合わせ集。冬の部は芭蕉が判定者。

 一二番 左 煤掃
何方に行てあそばん煤はらひ 挙白
     右 勝
煤とりて寺はめでたき仏哉 不卜

芭蕉の評は

両句滑稽のまことをうしなわず、感心わきがたく侍れども、目でたき仏哉、と云し句のいきほひ、猶まさりて聞え侍れば為勝。

とある。

「新撰都曲」

上・下二巻。池西言水の編になる。諸家の四季吟と言水自身の独吟歌仙を収める。
歌仙から三句のみを紹介。

人々に同じ様なし山桜
 何に濁るか春の日の滝
四阿も睦月は馬の爪打て

「俳諧大悟物狂」

鬼貫の編になる。鬼貫の句集だが、西鶴や来山ら当代大坂の歴々の俳諧も収る。
俳諧を一つ。

                鬼貫
うたてやな桜を見れば咲きにけり
 月のおぼろは物たらぬ色   才麿
酒盛の跡も春なる夕にて    来山
 名に聞きふれし浦の網主   補天
五月雨に預てとをるきみが駒  瓠界
 なを山ふかく訴状書かへ   西鶴

「あめ子」

之道の編になる。芭蕉等の歌仙、半歌仙、三句まで、発句を収める。
芭蕉・之道・珍硯の三吟から。

                翁
白髪ぬく枕の下やきりぎりす
 入日をすぐに西窓の月    之道
甘塩の鰯かぞふる秋の来て   珍硯

「元禄百人一句」

流木堂江水の編になる。当時著名な俳人百名とその発句を収める。

次の夜は唯ひとりゆくすずみ哉 江水
先たのむ椎の木もあり夏木立  芭蕉

「卯辰集」

北枝の編になる。金沢の俳壇の選集。芭蕉が金沢を訪れたのを契機に編まれた。上巻は四季の句集、下巻は俳諧集。

梢より海ゆく蝉の命かな  梅露

「蓮実」

賀子の編になる。書中に収める俳諧をすべて蓮の実の発句で巻く。

                賀子
蓮の実におもへばおなじ我身哉
 世にある蔵も露の入物  西鶴
名月の朝日に影の替り来て  同

「椎の葉」

才麿の編になる。大坂から須磨明石を経て姫路に赴きしばらく滞在した紀行集。もちろん発句・俳諧が収められている。

いづくへか月に馴たる葦の杖 空我
 すがる鳴夜を先二夜三夜  才麿

「俳諧深川」

才麿の編になる。芭蕉とその門人の江戸期の歌仙集。

 深川夜遊
                芭蕉
青くても有べきものを唐辛子
 提ておもたき秋の新ラ鍬  才麿
暮の月槻のこつぱかたよせて 嵐蘭

「花見車」

轍士の編になる。ただし匿名となっている。京・大坂・江戸の三都および諸国の点者(俳諧の宗匠)二一五名を遊女の位に見立てて論評した評判記。
芭蕉を高く評価。当時の点者一般の実態を暴露していたりするが、当時の俳諧の流行ぶりと全国的な俳壇を見渡せて興味深い。

2018.01.09
この項了

『日本古典文学総復習』69『初期俳諧集』70『芭蕉七部集』

この「日本古典文学総復習」も今年最後となる。今年の1月10日に「万葉集」から始め、もくろみでは100巻であったが、以下の二冊で70巻である。ま、よくここまで来たなと思っている。ただ、ここに来て右手一手でタイプしていて難儀だ。じつは左手が四十?肩で思うように動かないのだ。しかしなんとか70巻までは仕上げたい。なにせ好きな江戸の俳諧がテーマということもあるからだ。

『初期俳諧集』

俳諧は俳句とは違う。今は俳句全盛だが、かつては俳諧といって付け合いが主流であった。すなわち連歌を基にしていて、それをいわば庶民化したのが俳諧である。連歌は短歌の上の句と下の句を別人が詠み、それを百句詠み連ねていくものだ。ただ,発句のみは前の句がないから独立的となる。これが後に俳句となったわけだ。この俳諧は江戸期に入って短詩系文学の中心となる。元禄期に芭蕉という天才を得て、一気にその座を得ることになるのだ。ここではまず芭蕉以前の俳諧を読むことになる。

「犬子集」

これは江戸時代前期の俳諧撰集だ。松江重頼という人物の編になる。寛永十(1633) 年に刊行された。いわゆる貞門俳諧最初の公刊撰集だ。
書名は『犬筑波集』の子といった意味からつけられたようだ。多くの発句と,付句の組み合わせが収められている。ここに俳諧の原型を見ることができる。いくつか句を引いておく。まずは発句。

しめ縄や春をもくるる戌の年
身にしむはわきあき風の袂哉
つもりこし年は額のしはす哉

ここには和歌にはない諧謔がある。「縄」「くくる」「いぬ」といった洒落、「わき」が「あいている」「袂」が寒いといった言い方、額の「しわ」すといったダジャレなどが眼目。以下は付け合いの例。

 むしろこもたたくひとりや定む覧
旅立つあとにゐるか女房
捨てられて涙ほろほろはらら子に
ふそくをいひて枕をしやる
えにしただ比翼の鳥にあやからん
うなぎをすかばほねもつよかれ

こういった付け合いも下世話なものに終始している。

「大坂独吟集」

編者はわからないが、江戸時代初期に刊行された俳諧集。幾音、素玄、三昌、意楽、鶴永、由平、未学、悦春、重安、以上九人の大坂俳人による独吟百韻巻(由平のみ二巻)に,西山宗因が加点し判詞を加えた書である。独吟というのは一人で連句をおこなって行くもの。当時流行したようだ。鶴永という人物は西鶴のことで、西鶴は矢数俳諧といって、矢継ぎ早に句をひねり出して行くもの。その創造力の旺盛さを誇った。一つだけ付け合いの例を示しておく。

軽口にまかせてなけよほととぎす
 ひょうたんあくる卯の花見酒
水心しらなみよする岸に来て
 こぎ行ふねに下手の大つれ

「談林十百韻」

田代松意という人の編による江戸時代前期の俳諧撰集。西山宗因が江戸に下ったのきっかけに作られた俳諧談林の連衆、松意、雪柴、在色、一鉄、正友、志斗、一朝、松臼、卜尺という俳人でつくった百韻10巻。ここは二つの例を引く。

郭公来べき宵也頭痛持      在 色
 高まくらにて夏山の月     松 意
涼風や一句のよせい吟ずらん   正 友
 旅乗物のゆくすゑの空     松 臼

革足袋のむかしは紅葉踏分たり  一 鉄
 尤頭巾の山おろしの風     在 色
おほへいに峰の白雪めにかけて  雪 柴
 春ゆく水の材木奉行      志 計

これらの例をちょっと見ただけでも、俳諧が古典的なもののパロディになっていることがわかる。最初の発句も実は古今集を踏まえているし、二番目の発句も誰でもわかるように「紅葉踏み分け鳴く鹿」を鹿革の地下足袋が踏むといった具合だ。それを脇(第二句)がよくわかった上で意味を転じて先に送っていくというやり方だ。しかし、この時期の俳諧は俳諧味にばかり気が入って後の芭蕉たちの俳諧のような美しさがない。要するに未だ洗練されていないといえる。ただ、和歌、連歌が和語にこだわって実際の生活から遊離していったのを、足元の生活に詩を戻す役割は果たしたと言える。

『芭蕉七部集』

芭蕉の登場によって、一気に俳諧が芸術性を増すことになる。その全貌をこの『芭蕉七部集』に見ることができる。
この『芭蕉七部集』は佐久間柳居という人物による編集で享保 17 (1732) 年頃成立したと言われている。芭蕉一代の撰集のうち代表的なもの七部、『冬の日』『春の日』『阿羅野』『ひさご』『猿蓑』『炭俵』『続猿蓑』を編集したものである。
ただ、芭蕉一代の撰集と言っても芭蕉個人の俳句集ではない。あくまで芭蕉一門の俳諧集だ。芭蕉を俳人としてくくるのは正しくない。俳諧の宗匠として捉えるのが正しい。というのはこの『芭蕉七部集』を読めばわかるように、芭蕉は多くの連衆と共に俳諧を創造しているからだ。
俳諧は以前の連歌の百韻にならっていたが、この芭蕉の時代になって歌仙式と呼ばれるもっと簡易な形式となった。歌仙すなわち三十六句で一巻きとする形式だ。その歌仙全体を統御していたのも芭蕉であった。一句の価値よりもむしろその「付け合い」の妙味と展開の妙味に価値を置いていたように思う。
では各巻からその一端を見て行くことにする。

『冬の日』

芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のとき,名古屋で,荷兮,杜国,野水,重五,正平らとつくった歌仙五巻と表句六句を収める。荷兮は名古屋の医者で,このとき蕉門に入り,その後『春の日』『阿羅野』も編んでいる。

杖をひく事僅に十歩           杜國
つゝみかねて月とり落す霽かな       
 こほりふみ行水のいなずま    重五  
歯朶の葉を初狩人の矢に負て    野水   
 北の御門をおしあけのはる    芭蕉

敢えて芭蕉の句は第四句目の七七を選んだ。発句は杜國で冬。時雨がぱっと止んで月が現れたという。脇(第二句目)は重五。下に張った薄氷もぱっと割れが入るという。同様な趣旨。第三は展開のはじめ。野水が今年初めて狩りに出る人物が新年にふさわしい歯朶の葉をつけて薄氷を踏んだからだとする。それを受けて芭蕉は初狩人をそれなりの人物(御門とあるから)として、門を押し開けるごとくに「あけのはる」が開かれていくとさらに展開を促している。これが付け合いの妙味であり、宗匠芭蕉の役割なのだと思う。芭蕉は発句も多いが、むしろこうした展開のための七七の句に優れたものが多いように思う。 

『春の日』

山本荷兮 (かけい) の編になる。1巻。貞享三(1686) 年刊。『冬の日』に次ぐもの。尾張国の俳人が中心で,松尾芭蕉が一座した連句がなく、発句も二句しかとられていない。野水の発句から荷兮の第四句までを見てみる。荷兮の七七がいい。

三月十六日 且藁が田家にとまりて   野水
蛙のみきゝてゆゝしき寝覚かな
 額にあたるはる雨のもり      且藁
蕨烹る岩木の臭き宿かりて      越人
 まじまじ人をみたる馬の子     荷兮

『あら野』

これも荷兮の編になる。3冊。『冬の日』『春の日』に次ぐもの。芭蕉晩年の俳風「かるみ」の萌芽がみられという。ことに芭蕉、越人の両吟歌仙は『冬の日』より『猿蓑』への推移を示すものという。ここは芭蕉の句三首と両吟歌仙の初めの四句をみる。

酒のみ居たる人の繪に
月花もなくて酒のむひとり哉     芭蕉
いざゆかむ雪見にころぶ所まで    芭蕉
おくられつおくりつはては木曽の秋  芭蕉

深川の夜                 越人
雁がねもしづかに聞ばからびずや
 酒しゐならふこの比の月      芭蕉
藤ばかま誰窮屈にめでつらん     仝
 理をはなれたる秋の夕ぐれ     越人

『ひさご』

浜田珍碩(はまだちんせき)という人の編になる。元禄3年(1690)刊。

                 珍碩
いろいろの名もむつかしや春の草
 うたれて蝶の夢はさめぬる     翁
蝙蝠ののどかにつらをさし出て   路通
 駕篭のとをらぬ峠越たり      仝

翁というのは芭蕉のことである。

『猿蓑』

向井去来,野沢凡兆の編になる。宝井其角が序を書き,内藤丈草が跋文を書いている。元禄四(1691) 年刊。蕉風俳諧の円熟期を示すといわれている。発句 382句,芭蕉一座の連句4巻,芭蕉の『幻住庵記』とそれについての震軒の後文,『几右日記』と題する幻住庵訪問客の発句35句とから成る。書名は巻頭の「初時雨猿も小蓑をほしげなり」 (芭蕉) による。
ここは俳諧の終わりの部分を見てみる。

さまざまに品かはりたる恋をして    兆
 浮世の果は皆小町なり        蕉
なに故ぞ粥すゝるにも涙ぐみ      來
 御留守となれば廣き板敷       兆
手のひらに蚤這はする花のかげ     蕉
 かすみうごかぬ昼のねむたき     來

恋の座から花の句へと展開し、挙句へ至る部分。芭蕉の花の句が面白い。去来の挙句もなんとものんびりしていていい。

『炭俵』

志田野坡,小泉孤屋,池田利牛の編になる。元禄七(1694) 年刊。上巻には「梅が香にのつと日の出る山路かな」を発句とする芭蕉、野坡両吟歌仙をはじめ三種の連句と、春、夏の発句集を収め、下巻には秋、冬の発句集と四種の連句を収める。芭蕉最晩年の風調である「かるみ」を最もよく表わしたものとして知られる。ここは芭蕉の有名な発句から始まる四句と芭蕉の花の句がある歌仙の終わり部分を見る。「のつと日の出る」という句が秀逸。

                 芭蕉
むめがゝにのつと日の出る山路かな
 處々に雉子の啼たつ        野坡
家普請を春のてすきにとり付て    仝
 上のたよりにあがる米の直     芭蕉

よこ雲にそよそよ風の吹き出す    孤屋
 晒の上にひばり囀る        利牛
花見にと女子ばかりがつれ立て    芭蕉
 余のくさなしに 菫たんぽゝ     岱水

『続猿蓑』

沾圃(せんぽ)という人物が撰したものに芭蕉と支考が加筆したとされる俳諧集。元禄十一年(1698)刊。蕉門の連句・発句が集められ、「軽み」の作風が示されるとされている。俳諧に一部と芭蕉の瓜の句を見る。

                 里圃
いきみ立鷹引すゆる嵐かな
 冬のまさきの霜ながら飛      沾圃
大根のそだゝぬ土にふしくれて    芭蕉
 上下ともに朝茶のむ秋       馬見

  瓜
朝露によごれて凉し瓜の土      芭蕉

こうやってみてくると芭蕉が俳人というより俳諧師といったほうがいいことがわかる。もちろん単独の句として発句を読むことはできる。しかし、近代の俳人のようには句作していないということも改めて考えたほうがいいと思う。俳諧は「座の文学」という類のない文学形式であり、その完成者としての芭蕉像を今一度見直す必要があると言える。今年はこれでおしまい。

2017.12.29
この項了