『日本古典文学総復習』72『江戸座点取俳諧集』

『江戸座点取俳諧集』

 「俳句」と言えば、知らない人はいないはずだ。現在でも「俳句」をたしなむ人は多い。しかし、この「俳句」がもともと「俳諧」を親としていたことを知っている人は多くない。「俳句」は単独で詠むものだ。しかし「俳諧」は基本的に複数の人間が句を連ねて詠んでいくものだ。したがって、「俳諧」の句は発句を除いて必ず前の句が存在する。つまり句を詠む時、前の句にどう「付ける」かが最大の問題となる。その「付け方」がいろいろと研究されることとなる。芭蕉もここに最大の関心があり、いろいろと「付け方」について発言している。たとえば「匂い付け」といったことだ。しかもこの俳諧が元禄期以降大流行を見て、庶民層まで広がりを見せたことがこの「付け方」の研究に拍車をかけることとなる。そしてこの「付け方」を採点する、いわゆる「点者」という俳諧の師匠が登場することになる。
 その一番簡易なものが、前の句を示して、付句を作らせそれを採点するといったものだ。これが「点者」の役割だ。しかも、句を提出した者は幾らかの金銭を払い、高得点の者は懸賞品をもらうといった形が出來、それが一般化してゆく。こうなると一種の「賭け事」の様相を帯びてさらに大流行していくのだ。
現在でも人気のある「川柳」も実は柄井川柳という点者がおこなった前句付けが元となっている。
こうした俳諧を「点取俳諧」と呼ぶが、前句付けのみといった簡易なものから本格的な独吟歌仙を採点するものまであり、これらの一端を示したのが今回取り上げる『江戸座点取俳諧集』だ。それぞれを簡単に紹介する。

「二葉之松」

前句付月次高点句集。点者不角編。付句一句の面白さによって選句している。不角は芭蕉以前の江戸点取の先駆的存在。一例を。

   風ここちよく戦ぐ湯あがり
 両葉之部
すすたけと親にいつはる丁子染 幸有
殉死の限に寺の草ふみて    三口

わかりやすい七七の前句に全く異なった付句を並べる。これが俳諧の妙味なのだ。

「末若葉」

独吟歌仙選集。点者其角編。其角は江戸座の祖と言える。芭蕉の門人だが、芭風が地方を中心に広がったのに対し、都会的な洒落風を唱導した。ここは其角の門人たちの若葉の発句による独吟歌仙に其角が加点して収めたもの。その一例。

第一          彫棠
帆柱や若葉上越谷の棚
 山を見立る楊梅の旬
大名に八百屋が付て下るらん
 袴を陰に寝たる月影

「江戸筏」

独吟歌仙集。風葉編。点者は沾徳。江戸俳諧の新風を諸国に広めるために編まれたという。恋愛風俗の比喩を俳諧の眼目とする、都会的な俳諧。その一例。

第九          甘谷
何を取船とも見えず初時雨
 石蕗のひかりの凄き待合
織殿に不断余国の気を兼て
 蝕む月の手形一束

「万国燕」

俳諧高点付句集。淡々評。淡々は京大坂の俳諧大名と呼ばれ活躍。江戸風を関西にもたらす。その一例。

花之巻
虹と起りし活僧の恋    我笑
我庭の月はよそにて花盛り 難里

「俳諧草結」

俳諧選集。隆志編。高点句の手引書。京都の高点句を紹介しているが、風俗詩的傾向がある。その一例。

梨子柿の跡おもしろし接木の実
 始て鹿を得たる余り米

で始まる、ここは百韻。

「俳諧童の的」

これも手引き書。江戸座俳諧高点付句集。竹翁編。江戸座宗匠を座別に配列し、高点句を例示するとともにその宗匠の好みを示している。その一例。

寝た時も顔へ扇をおんど取
馬のつらにて明る柴の戸

「俳諧觿」

江戸座俳諧高点付句集。沾山編。これはまさに付句が歌仙式や百韻からはなれて、付句そのものとして独立する傾向を示すことになった。これがいわゆる前句付けの流行を示し、やがて近代の「俳句」や「川柳」につながる契機となったと思われる。その一例。

前句  別に風雅な昆布で葺屋根
 付 奥蝦夷の雪の咄しは嘘のやう

前句  当分の風邪も案じる斗りなり
 付 貴様ひとりで城は盤石

 こうした「付け合い」や「付句」は現在ほとんど行われていないが、復活すると面白いと思える。ツイッターを使ったりして。

2018.01.18
この項了

『日本古典文学総復習』71『元禄俳諧集』

『元禄俳諧集』

年が改まって、暮れに続いて俳諧集3冊。先ずはこの『元禄俳諧集』。俳諧は元禄期に入って、いわば爆発的に流行する。すでに前回見たように芭蕉という天才が現れたのもその遠因の一つだろうが、芭蕉の俳諧とは趣を異にする俳諧も多く作られている。基本的には京都・大坂・江戸といった大都市で多くの俳諧の宗匠が現れていわばしのぎを削ったわけだが、それは地方の都市にも波及し、各地で俳壇が作られていった。ここはこうした当時の状況を知る選集を見ていくことになる。なお、次はこうした俳諧ブームを牽引した俳諧点者たちにも注目する。

「蛙合」

歌合的な句合わせ。しかも蛙の句を並べる。もちろん芭蕉のこの句が冒頭を飾る。

古池や蛙飛びこむ水のおと 芭蕉

対する句は

いたいけに蛙つくばふ浮葉哉 仙化

判定は引き分け。

「続の原」

上・下二巻。不卜の編になる。春夏秋冬の句合わせ集。冬の部は芭蕉が判定者。

 一二番 左 煤掃
何方に行てあそばん煤はらひ 挙白
     右 勝
煤とりて寺はめでたき仏哉 不卜

芭蕉の評は

両句滑稽のまことをうしなわず、感心わきがたく侍れども、目でたき仏哉、と云し句のいきほひ、猶まさりて聞え侍れば為勝。

とある。

「新撰都曲」

上・下二巻。池西言水の編になる。諸家の四季吟と言水自身の独吟歌仙を収める。
歌仙から三句のみを紹介。

人々に同じ様なし山桜
 何に濁るか春の日の滝
四阿も睦月は馬の爪打て

「俳諧大悟物狂」

鬼貫の編になる。鬼貫の句集だが、西鶴や来山ら当代大坂の歴々の俳諧も収る。
俳諧を一つ。

                鬼貫
うたてやな桜を見れば咲きにけり
 月のおぼろは物たらぬ色   才麿
酒盛の跡も春なる夕にて    来山
 名に聞きふれし浦の網主   補天
五月雨に預てとをるきみが駒  瓠界
 なを山ふかく訴状書かへ   西鶴

「あめ子」

之道の編になる。芭蕉等の歌仙、半歌仙、三句まで、発句を収める。
芭蕉・之道・珍硯の三吟から。

                翁
白髪ぬく枕の下やきりぎりす
 入日をすぐに西窓の月    之道
甘塩の鰯かぞふる秋の来て   珍硯

「元禄百人一句」

流木堂江水の編になる。当時著名な俳人百名とその発句を収める。

次の夜は唯ひとりゆくすずみ哉 江水
先たのむ椎の木もあり夏木立  芭蕉

「卯辰集」

北枝の編になる。金沢の俳壇の選集。芭蕉が金沢を訪れたのを契機に編まれた。上巻は四季の句集、下巻は俳諧集。

梢より海ゆく蝉の命かな  梅露

「蓮実」

賀子の編になる。書中に収める俳諧をすべて蓮の実の発句で巻く。

                賀子
蓮の実におもへばおなじ我身哉
 世にある蔵も露の入物  西鶴
名月の朝日に影の替り来て  同

「椎の葉」

才麿の編になる。大坂から須磨明石を経て姫路に赴きしばらく滞在した紀行集。もちろん発句・俳諧が収められている。

いづくへか月に馴たる葦の杖 空我
 すがる鳴夜を先二夜三夜  才麿

「俳諧深川」

才麿の編になる。芭蕉とその門人の江戸期の歌仙集。

 深川夜遊
                芭蕉
青くても有べきものを唐辛子
 提ておもたき秋の新ラ鍬  才麿
暮の月槻のこつぱかたよせて 嵐蘭

「花見車」

轍士の編になる。ただし匿名となっている。京・大坂・江戸の三都および諸国の点者(俳諧の宗匠)二一五名を遊女の位に見立てて論評した評判記。
芭蕉を高く評価。当時の点者一般の実態を暴露していたりするが、当時の俳諧の流行ぶりと全国的な俳壇を見渡せて興味深い。

2018.01.09
この項了

『日本古典文学総復習』69『初期俳諧集』70『芭蕉七部集』

この「日本古典文学総復習」も今年最後となる。今年の1月10日に「万葉集」から始め、もくろみでは100巻であったが、以下の二冊で70巻である。ま、よくここまで来たなと思っている。ただ、ここに来て右手一手でタイプしていて難儀だ。じつは左手が四十?肩で思うように動かないのだ。しかしなんとか70巻までは仕上げたい。なにせ好きな江戸の俳諧がテーマということもあるからだ。

『初期俳諧集』

俳諧は俳句とは違う。今は俳句全盛だが、かつては俳諧といって付け合いが主流であった。すなわち連歌を基にしていて、それをいわば庶民化したのが俳諧である。連歌は短歌の上の句と下の句を別人が詠み、それを百句詠み連ねていくものだ。ただ,発句のみは前の句がないから独立的となる。これが後に俳句となったわけだ。この俳諧は江戸期に入って短詩系文学の中心となる。元禄期に芭蕉という天才を得て、一気にその座を得ることになるのだ。ここではまず芭蕉以前の俳諧を読むことになる。

「犬子集」

これは江戸時代前期の俳諧撰集だ。松江重頼という人物の編になる。寛永十(1633) 年に刊行された。いわゆる貞門俳諧最初の公刊撰集だ。
書名は『犬筑波集』の子といった意味からつけられたようだ。多くの発句と,付句の組み合わせが収められている。ここに俳諧の原型を見ることができる。いくつか句を引いておく。まずは発句。

しめ縄や春をもくるる戌の年
身にしむはわきあき風の袂哉
つもりこし年は額のしはす哉

ここには和歌にはない諧謔がある。「縄」「くくる」「いぬ」といった洒落、「わき」が「あいている」「袂」が寒いといった言い方、額の「しわ」すといったダジャレなどが眼目。以下は付け合いの例。

 むしろこもたたくひとりや定む覧
旅立つあとにゐるか女房
捨てられて涙ほろほろはらら子に
ふそくをいひて枕をしやる
えにしただ比翼の鳥にあやからん
うなぎをすかばほねもつよかれ

こういった付け合いも下世話なものに終始している。

「大坂独吟集」

編者はわからないが、江戸時代初期に刊行された俳諧集。幾音、素玄、三昌、意楽、鶴永、由平、未学、悦春、重安、以上九人の大坂俳人による独吟百韻巻(由平のみ二巻)に,西山宗因が加点し判詞を加えた書である。独吟というのは一人で連句をおこなって行くもの。当時流行したようだ。鶴永という人物は西鶴のことで、西鶴は矢数俳諧といって、矢継ぎ早に句をひねり出して行くもの。その創造力の旺盛さを誇った。一つだけ付け合いの例を示しておく。

軽口にまかせてなけよほととぎす
 ひょうたんあくる卯の花見酒
水心しらなみよする岸に来て
 こぎ行ふねに下手の大つれ

「談林十百韻」

田代松意という人の編による江戸時代前期の俳諧撰集。西山宗因が江戸に下ったのきっかけに作られた俳諧談林の連衆、松意、雪柴、在色、一鉄、正友、志斗、一朝、松臼、卜尺という俳人でつくった百韻10巻。ここは二つの例を引く。

郭公来べき宵也頭痛持      在 色
 高まくらにて夏山の月     松 意
涼風や一句のよせい吟ずらん   正 友
 旅乗物のゆくすゑの空     松 臼

革足袋のむかしは紅葉踏分たり  一 鉄
 尤頭巾の山おろしの風     在 色
おほへいに峰の白雪めにかけて  雪 柴
 春ゆく水の材木奉行      志 計

これらの例をちょっと見ただけでも、俳諧が古典的なもののパロディになっていることがわかる。最初の発句も実は古今集を踏まえているし、二番目の発句も誰でもわかるように「紅葉踏み分け鳴く鹿」を鹿革の地下足袋が踏むといった具合だ。それを脇(第二句)がよくわかった上で意味を転じて先に送っていくというやり方だ。しかし、この時期の俳諧は俳諧味にばかり気が入って後の芭蕉たちの俳諧のような美しさがない。要するに未だ洗練されていないといえる。ただ、和歌、連歌が和語にこだわって実際の生活から遊離していったのを、足元の生活に詩を戻す役割は果たしたと言える。

『芭蕉七部集』

芭蕉の登場によって、一気に俳諧が芸術性を増すことになる。その全貌をこの『芭蕉七部集』に見ることができる。
この『芭蕉七部集』は佐久間柳居という人物による編集で享保 17 (1732) 年頃成立したと言われている。芭蕉一代の撰集のうち代表的なもの七部、『冬の日』『春の日』『阿羅野』『ひさご』『猿蓑』『炭俵』『続猿蓑』を編集したものである。
ただ、芭蕉一代の撰集と言っても芭蕉個人の俳句集ではない。あくまで芭蕉一門の俳諧集だ。芭蕉を俳人としてくくるのは正しくない。俳諧の宗匠として捉えるのが正しい。というのはこの『芭蕉七部集』を読めばわかるように、芭蕉は多くの連衆と共に俳諧を創造しているからだ。
俳諧は以前の連歌の百韻にならっていたが、この芭蕉の時代になって歌仙式と呼ばれるもっと簡易な形式となった。歌仙すなわち三十六句で一巻きとする形式だ。その歌仙全体を統御していたのも芭蕉であった。一句の価値よりもむしろその「付け合い」の妙味と展開の妙味に価値を置いていたように思う。
では各巻からその一端を見て行くことにする。

『冬の日』

芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のとき,名古屋で,荷兮,杜国,野水,重五,正平らとつくった歌仙五巻と表句六句を収める。荷兮は名古屋の医者で,このとき蕉門に入り,その後『春の日』『阿羅野』も編んでいる。

杖をひく事僅に十歩           杜國
つゝみかねて月とり落す霽かな       
 こほりふみ行水のいなずま    重五  
歯朶の葉を初狩人の矢に負て    野水   
 北の御門をおしあけのはる    芭蕉

敢えて芭蕉の句は第四句目の七七を選んだ。発句は杜國で冬。時雨がぱっと止んで月が現れたという。脇(第二句目)は重五。下に張った薄氷もぱっと割れが入るという。同様な趣旨。第三は展開のはじめ。野水が今年初めて狩りに出る人物が新年にふさわしい歯朶の葉をつけて薄氷を踏んだからだとする。それを受けて芭蕉は初狩人をそれなりの人物(御門とあるから)として、門を押し開けるごとくに「あけのはる」が開かれていくとさらに展開を促している。これが付け合いの妙味であり、宗匠芭蕉の役割なのだと思う。芭蕉は発句も多いが、むしろこうした展開のための七七の句に優れたものが多いように思う。 

『春の日』

山本荷兮 (かけい) の編になる。1巻。貞享三(1686) 年刊。『冬の日』に次ぐもの。尾張国の俳人が中心で,松尾芭蕉が一座した連句がなく、発句も二句しかとられていない。野水の発句から荷兮の第四句までを見てみる。荷兮の七七がいい。

三月十六日 且藁が田家にとまりて   野水
蛙のみきゝてゆゝしき寝覚かな
 額にあたるはる雨のもり      且藁
蕨烹る岩木の臭き宿かりて      越人
 まじまじ人をみたる馬の子     荷兮

『あら野』

これも荷兮の編になる。3冊。『冬の日』『春の日』に次ぐもの。芭蕉晩年の俳風「かるみ」の萌芽がみられという。ことに芭蕉、越人の両吟歌仙は『冬の日』より『猿蓑』への推移を示すものという。ここは芭蕉の句三首と両吟歌仙の初めの四句をみる。

酒のみ居たる人の繪に
月花もなくて酒のむひとり哉     芭蕉
いざゆかむ雪見にころぶ所まで    芭蕉
おくられつおくりつはては木曽の秋  芭蕉

深川の夜                 越人
雁がねもしづかに聞ばからびずや
 酒しゐならふこの比の月      芭蕉
藤ばかま誰窮屈にめでつらん     仝
 理をはなれたる秋の夕ぐれ     越人

『ひさご』

浜田珍碩(はまだちんせき)という人の編になる。元禄3年(1690)刊。

                 珍碩
いろいろの名もむつかしや春の草
 うたれて蝶の夢はさめぬる     翁
蝙蝠ののどかにつらをさし出て   路通
 駕篭のとをらぬ峠越たり      仝

翁というのは芭蕉のことである。

『猿蓑』

向井去来,野沢凡兆の編になる。宝井其角が序を書き,内藤丈草が跋文を書いている。元禄四(1691) 年刊。蕉風俳諧の円熟期を示すといわれている。発句 382句,芭蕉一座の連句4巻,芭蕉の『幻住庵記』とそれについての震軒の後文,『几右日記』と題する幻住庵訪問客の発句35句とから成る。書名は巻頭の「初時雨猿も小蓑をほしげなり」 (芭蕉) による。
ここは俳諧の終わりの部分を見てみる。

さまざまに品かはりたる恋をして    兆
 浮世の果は皆小町なり        蕉
なに故ぞ粥すゝるにも涙ぐみ      來
 御留守となれば廣き板敷       兆
手のひらに蚤這はする花のかげ     蕉
 かすみうごかぬ昼のねむたき     來

恋の座から花の句へと展開し、挙句へ至る部分。芭蕉の花の句が面白い。去来の挙句もなんとものんびりしていていい。

『炭俵』

志田野坡,小泉孤屋,池田利牛の編になる。元禄七(1694) 年刊。上巻には「梅が香にのつと日の出る山路かな」を発句とする芭蕉、野坡両吟歌仙をはじめ三種の連句と、春、夏の発句集を収め、下巻には秋、冬の発句集と四種の連句を収める。芭蕉最晩年の風調である「かるみ」を最もよく表わしたものとして知られる。ここは芭蕉の有名な発句から始まる四句と芭蕉の花の句がある歌仙の終わり部分を見る。「のつと日の出る」という句が秀逸。

                 芭蕉
むめがゝにのつと日の出る山路かな
 處々に雉子の啼たつ        野坡
家普請を春のてすきにとり付て    仝
 上のたよりにあがる米の直     芭蕉

よこ雲にそよそよ風の吹き出す    孤屋
 晒の上にひばり囀る        利牛
花見にと女子ばかりがつれ立て    芭蕉
 余のくさなしに 菫たんぽゝ     岱水

『続猿蓑』

沾圃(せんぽ)という人物が撰したものに芭蕉と支考が加筆したとされる俳諧集。元禄十一年(1698)刊。蕉門の連句・発句が集められ、「軽み」の作風が示されるとされている。俳諧に一部と芭蕉の瓜の句を見る。

                 里圃
いきみ立鷹引すゆる嵐かな
 冬のまさきの霜ながら飛      沾圃
大根のそだゝぬ土にふしくれて    芭蕉
 上下ともに朝茶のむ秋       馬見

  瓜
朝露によごれて凉し瓜の土      芭蕉

こうやってみてくると芭蕉が俳人というより俳諧師といったほうがいいことがわかる。もちろん単独の句として発句を読むことはできる。しかし、近代の俳人のようには句作していないということも改めて考えたほうがいいと思う。俳諧は「座の文学」という類のない文学形式であり、その完成者としての芭蕉像を今一度見直す必要があると言える。今年はこれでおしまい。

2017.12.29
この項了

『日本古典文学総復習』67『近世歌文集上』 68『近世歌文集下』

また、時間が空いてしまった。今度は江戸期における和歌の世界である。ただ、あまり興味を引くものではなかった。ここはその概要にとどめておくことにする。

『近世歌文集上』

以下21編が収められている。

『春の曙』 烏丸光広著
「後鳥羽院四百年忌御会」
『山家記』 木下長嘯子著
『身延のみちの記』 元政著
『三行記』 烏丸資慶著
『倭謌五十人一首』 宮川松堅編
『烏丸光栄歌道教訓』 烏丸光栄著
『初学考鑑』 武者小路実陰著
『雲上歌訓』 萩原宗固編
『若むらさき』 了然尼編
『霞関集』 石野広通撰
「水戸徳川家九月十三夜会」
「南部家桜田邸詩歌会」
「田村家深川別業和歌」
「諏訪浄光寺八景詩歌」
「飛鳥山十二景詩歌」
「詠源氏物語和歌」
『遊角筈別荘記』
『大崎のつつじ』
『富士日記』 成島峰雄著
『墨水遊覧記』

和歌はその文学的生命の中心を俳諧に譲り、その地位が失われたかに見える近世だが、「後鳥羽院四百年忌御会」に見られるように、宮中では相変わらずその伝統的な地位を保ち続けていた。また、中世歌学の正統を伝える堂上歌壇の指導者たちも対象を貴族から上級武士に移すことによってその命脈を保とうとしていたようだ。萩原宗固という人物の手になる『雲上歌訓』はその例である。また、江戸を中心に武家の中にも歌に関心を持ち続け、作歌した人々もいた。石野広通という人物の手になる『霞関集』がその例である。ここに登場する武家たちはいずれも冷泉家や烏丸家の門人たちである。和歌が古今伝授の伝統を生かしつつ貴族にとってはその指南役を務めることが糊口の糧となっていたのだろう。また、武士にとっては一種の教養というか、ハイソな趣味と言ったものだったと思われる。後半にある大名家の歌会の記録や遊覧や旅の記録の中の歌はそうしたことをうかがわせる。

しかし、この江戸期で和歌文学史において注目すべきは下巻にある国学者たちの思想である。

『近世歌文集下』

ここには以下8編が収められている。順不同。

『あがた居の歌集』
紀行『旅のなぐさ』
紀行『岡部日記』以上賀茂真淵著
『菅笠日記』本居宣長著
『藤簍冊子』上田秋成著
歌論『布留の中道』小沢蘆庵著
『庚子道の記』武女著
書簡集『ゆきかひ』油谷倭文子・鵜殿余野子著

賀茂真淵は古今伝授の古今集より忘れ去られていた感のある「万葉集」に歌の本質を見出したことで知られている。いわば国学の最初のホープである。
万葉集を評価する動きはかつてもあった。しかし、江戸時代に入ってそれが一つのブームとなったようだ。先駆けはこの書にはない契沖だが、賀茂真淵がもっとも強く「万葉集」を称賛した。真淵のこの万葉称賛は単に和歌の世界に止まらず、そこに現れた古代日本人の精神こそ本来今でもあるべき姿だとし、現状の支配倫理である朱子学の道徳を否定するところまで深化させることとなる。
こうした古代への関心と評価はいわば江戸時代を通じていろいろな局面で展開されたことが興味深いが、明治に至ってもう一度あらわれるこの万葉再評価とは趣が違っているように思う。純粋に歌の技術的な考え方や文学性からと言うよりも、そこにある精神性に注目してなされたと言うことだ。従って実践的に歌を詠んだ真淵も決して万葉調には詠めなかったようだ。
『旅のなぐさ』『岡部日記』はともに紀行文。『岡部日記』には賀茂真淵28歳のときの最愛の妻を亡くしてしまった悲しみが記されている。

賀茂真淵の思想を受け継いだ本居宣長は『古事記伝』を著し、国学の完成者と言っていい存在だ。
『菅笠日記』はその宣長が43歳の時に友人5人と一緒に、吉野・飛鳥を遊覧した紀行文。一番の目的は吉野の桜を見ることと吉野水分神社に詣でることであったようだが、その帰りに飛鳥や橿原を訪れ、『古事記伝』の裏づけ調査的な意味合いもあったようだ。

上田秋成は『雨月物語』で夙に有名だが、元々は古典学者で国学者と言っていい。この巻で最もボリュームがあるのは上田秋成の『藤簍冊子』だ。
寛政(1789‐1801)初年から享和(1801‐04)にかけて秋成が書きとめて身辺のつづらに入れておいた和歌や長歌,紀行文,折々の随想などをまとめたもの。最初は歌集となっている。

小沢蘆庵の歌論『布留の中道』は古今集の紀貫之の歌

いそのかみ布留の中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは(恋四・679・紀貫之)

からその題名が取られている。小沢蘆庵のこの書はどちらかというと伝統的な古今重視の歌論である。

武女という女性の『庚子道の記』は尾張藩名古屋に数年間客居した女性が、花の頃合、故郷の方へ帰る折の道中の記。
『伊勢物語』『十六夜日記』などを彷彿させる古典的な紀行文である。

書簡集『ゆきかひ』は油谷倭文子と鵜殿余野子という女性の書簡集。
共に賀茂真淵に入門して和歌・国学を学び、土岐筑波子とともに県門三才女と謳われた。ここに国学ブームの一端がうかがわれる。

2017.12.16
この項了

『日本古典文学総復習』65『日本詩史 五山堂詩話』 66『菅茶山 頼山陽詩集』

この「日本古典文学総復習」、ここのところ滞ってしまった。前回から一ヶ月を経過してしまった。当初の計画では一年間で100巻を読破する予定だった。しかし現在66巻目を読んでいる状態。しかも今日は11月末日。なんとか70巻までたどり着いて今年を終了するしかないようだ。残り30巻は4月まで読了したい。計画変更は何事にもありがち、よくここまで来たと自ら慰めている。

さて、今回も江戸期の漢詩だ。先ずは漢詩論というか、漢詩にまつわる著作。以下その概略を紹介するにとどめておく。

『読詩要領』

ここでいう「詩」は『詩経』のこと。儒者伊藤東涯が『詩経』についての考え方をまとめた書。しかし、『詩経』の解説を超えて「詩」一般の本質に触れる指摘もあるようだ。勧善懲悪の考え方を超えて、

「詩というものは、人の心におもふことをありように言ひあらわしたるもの也」
「詩は以て人情を道ふ」
「諷誦・吟詠して、人情・物態を考へ、温厚・和平の趣を得べき」

と言った言葉がある。

『日本詩史』

江戸時代中期の儒者、江村北海という人物になる日本文学史漢詩編といった書。日本における漢詩の沿革がわかる。
巻一・二が上代から戦国時代までの漢詩、残り巻三以降が江戸期の漢詩にあてられている。各時代の代表的な漢詩を紹介し、論評を与える形で書かれている。
江戸期の漢詩についてが多く割かれている。

『五山堂詩話』

菊池五山の漢詩文集。正篇10巻、補遺5巻からなる。文化4年(1807)から天保3年(1832)にかけて刊行された。ここでは巻一、二が収められている。
さて、五山は詩人のサークルである江湖社に参加し「続吉原詞」や「深川竹枝」などの詩作によってその才名を広く知られるようになった。そのことからもわかるように、五山の詩は唐詩どころか宋詩からも離れ、江戸の市井の生活を詠んだものに優れた作が多い。
これは漢詩が江戸期に成熟し、いわば日本化したというか、卑俗化した証であった。このことが寺門静軒をへて後の成島柳北を産む素地となったと言える。
また、五山はいわば批評家でもあり、当時の漢詩を多く批評した。この書はそうした漢詩の時評集である。

『孜孜斎詩話』

早熟の漢学者、西島蘭渓による日本漢詩の抜書きと批評の書。漢詩人石川丈山についてで始まっていることから、石川丈山に並々ならぬ傾倒ぶりがうかがえる。もちろん当時の多くの漢詩人及びその代表的作品が紹介され、論じられている。

『夜航余話』

津阪東陽による漢詩論集。死後出版された。上下2巻。上巻はカタカナ混じり文で書かれ、漢詩固有の話題を取り上げている。それに対し、下巻はひらがな混じり文で書かれ、漢詩と和歌・俳諧との関係に及ぶことが多く書かれている。東陽は儒者である。儒者にとって漢詩はいわば余技にすぎない。

「詩の学者におけるや特にそれ剰技のみ。行、余力有りて乃ち以て之を学ばば、君子必ずしも譏らざるなり」

とある。しかし、余技とは言えない並々ならない詩に対する関心があってこそこうした著作があることに間違いはない。というよりむしろ漢詩が儒者としての憂愁の友であったと言えそうだ。

『漁村文話』

江戸時代末の漢学者、海保漁村の著。これは漢詩論ではない。漢文の散文論と言っていい。対句をあまり使わない中国古典散文を論じている。漢文は日本語において大きな役割を果たしている。ここで小生が書いている拙い文章もいわば漢文崩しの文章ということができる。論理的な文章は漢文が向いている。これまで正式な文章は外国語である漢文で書かれていた。といってもどうしても日本語化する。そこに漢文崩しの日本語の文章が出来上がってくるのだが、その根本はやはり中国の古典的な文章にある。その中国の古典的散文を論じたのがこの書ということになる。これは日本語文章の歴史を考える上で重要な書と言えそうだ。

『菅茶山詩集』

菅茶山の詩集『黄葉夕陽村舎詩』を抄出している。

菅茶山は江戸末期の漢詩人。現在の広島県に生まれ、京都に遊学した経験はもつが、故郷神辺に塾をひらき廉塾とし、住居を黄葉夕陽村舎と名づけ多くの詩を残した。頼山陽とも交流があり、詩集『黄葉夕陽村舎詩』は京都で出版され、後明治期まで版を重ねたと言う。それだけこの菅茶山の漢詩は人々に親しまれたようだ。漢詩が儒者の余技や中国古典の模倣から脱却していわば「日本化」された、いい例といえる。その題材も自らが住む農村の風景が多く、鮮やかな写生的な詩に清新さが感じられる。またその詩から、なんの衒いもない落ち着いた人物が彷彿とする。ここに七絶二首を引く。書き下しは本書校訂者による。(以下同)

 即事

晏起家童未掃門   晏起するも家童未だ門を掃かず。
繞簷梨雪午風喧   簷を繞る梨雪午風喧かなり。
一双狂蝶相追去   一双の狂蝶相ひ追ひて去き、
直自南軒出北軒   直ちに南軒より北軒に出づ。

 冬夜読書

雪擁山堂樹影深   雪山堂を擁し樹影深し。
檐鈴不動夜沈沈   檐鈴動かず夜沈沈。
閑収乱帙思疑義   閑に乱帙を収めて疑義を思へば、
一穂青燈万古心   一穂の青燈万古の心。

初めの詩は農村の蝶が舞う朝の暖かな風景を写生したもの。後の詩は雪の夜の静かな読書後の感慨を述べたもの。
友人頼山陽は「菅茶山先生の詩に題す」の中で、「緒餘の小技も亦超倫」と言い、「終年白を衣る是山人」と言い、「高陽に跡を混じて韜晦に甘んず。」「名字何ぞ図らん薦紳に達するを。」とその人柄を絶賛している。

『頼山陽詩集』

江戸後期の儒者頼山陽の詩集『山陽詩鈔』『山陽遺稿詩』『日本楽府』からの抄出。山陽は夙にその書『日本外史』で有名な勤王家でもある。この『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなり、明治期は元より昭和の戦争期までよく読まれたという。ただこの書は歴史書としては誤謬が多いともされ、戦後は忘れ去られていった。しかし、頼山陽は前に紹介した菅茶山とも交流のあった漢詩人でもあり、詩吟で有名な漢詩の作者としてその名を止めている。
その詩は歴史的題材や歴史的人物を歌ったものも多いが、以下に紹介するような母を歌った詩などもある。

 癸丑歳偶作

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者已に水の如し。
天地無始終   天地始終なく、
人生有生死   人生生死あり。
安得類古人   安ぞ古人が類して、
千載列青史   千載青史に列するを得ん。

  中秋無月侍母

不同此夜十三回   此の夜を同じうせざること十三回
重得秋風奉一巵   重ねて秋風に一巵を奉ずるを得たり。
不恨尊前無月色   恨みず尊前月色なきを。
免看児子鬢辺絲   看らるるを免る児子鬢辺の絲。

2017.11.30
この項了

『日本古典文学総復習』63『本朝一人一首』 64『蘐園録稿』『梅墩詩鈔』『如亭山人遺藁』

『本朝一人一首』を読む

今回は江戸時代の漢詩。
漢詩は本来中国古典の詩であることはいうまでもない。しかし日本文学において独特な位置を占めるジャンルでもある。いわば外国の詩を日本人が作るという作業が古来近代に至るまで多くの知識人によってなされて来たこと自体が世界に類を見ないことだ。現代の我々はこうした伝統から遠ざかってしまったが、ここでそれを振り返るのも悪くない。
さて、日本の漢詩はどの様な位置を占めていたのだろうか?まずそれが知識人の文学だということだ。もっと言えば支配層の文学だった。なぜなら漢詩は漢文と共にかつて知識人にとって必須の教養であったからだ。圧倒的な文化の影響を中国大陸から得ていた江戸期までの日本の知識人にとっては、明治以降西洋の学問を学ぶことが必須であったのと同様だった。
ただ、その教養は教養の範疇を徐々に越えていったと思われる。特に漢詩は知識人にとって内面を表現する一つの手段となっていった様だ。江戸時代特に幕末期になるとそれは顕著になる。幕府の中枢にいて儒学を担っていた成島柳北などは足元の幕府自体を批判する内容の漢詩を書いている。また、近代の漱石は小説とは別に、行き詰まった心境を漢詩に表現している。このように漢詩は元は外国の古典詩であったにもかかわらず一つの日本文学のジャンルをなしたのである。

ここでまず読む『本朝一人一首』はそうした漢詩のこれまでの集大成というか、日本漢詩のアンソロジーである。
編者は江戸時代前期の儒者の林鵞峰という人物。有名な林羅山の三男である。古代の大友皇子の詩から始まって、僧機先という人物の詩まで、四百八十二首
の漢詩が編まれている。時に編者の注もある。あの俳諧師松尾芭蕉も座右の書にしたという。

本文は以下だが、この大系本では振り仮名付きの書き下し文になっている。

66
晚春三日遊覽
杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕  來燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清  雖欲追尋良此宴 還知染懊腳跉趶
大伴家持 旅人子。

66同じく  大伴家持 旅人の子
杪春(べうしゅん)餘日媚景麗し 初巳(しょし)和風払つて自づから軽し
來燕泥を銜(ふく)んで賀して宇に入り  帰鴻(きこう)蘆を引いて迥(はる)かにして瀛(おき)に赴く
聞く君が侶(とも)に嘯(うそぶ)き流曲を新にし 禊飲(けいいん)爵(さかづき)を催(うなが)して河清きに泛(う)かぶ
此の良宴を追尋せんと欲すと雖も 還(また)知る染懊腳跉趶(せんあうあしれいて)

 林子曰:此二首,見『萬葉集』。按大伴氏出自道臣命,世執朝政,或為相,或為將。逮藤氏之盛,大伴氏稍衰,然猶在朝為月卿,出為藩鎮。家持任中納言,管領奧羽,且以倭歌著名。又偶見此詩,可謂有文武之才。池主亦能歌,其詩比家持,則雖不及之,注其心于漢字者,不亦奇乎。家持行實,考國史可以知焉。此外『萬葉集』有山上憶良詩,其體異樣,故略之。

もう一つ

243
連理樹
靡隔布深仁 無私施景化 神工誠不隱 天道斯無詐

243連理樹  有名王(ありなわう)

隔靡(へだてなび)く深仁を布(し)く 私無く景化を施す
神工誠に隱れず 天道斯(これ)詐(いつはり)無し

それにしてもこれをすべて読破するのは至難の技だ。いかに現代の我々がこうした漢詩文化から遠ざかってしまったか痛感する。

今度は江戸時代の漢詩集。

『蘐園録稿』を読む

「ケンエンロクコウ」と読む。江戸中期の漢詩集だ。江戸の儒学者、荻生徂徠の門流「古文辞派」と呼ばれる人たちの漢詩を集めたもの。ここでは抄録で服部南郭ら四人の漢詩人の詩を収める。現在でも「詩吟」で好まれて歌われる服部南郭の「夜下墨水」を引く。

  夜、墨水を下る      

 金龍山畔江月浮かぶ
 江揺らぎ月湧いて金龍流る 
 扁舟住まらず天水の如し
 両岸の秋風二州を下る
    
 夜下墨水
金龍山畔江月浮
江揺月湧金龍流
扁舟不住天如水
両岸秋風下二州

 服部南郭は京都の裕福な商家に生まれ、子供の頃から和歌の教育を受け偉才ぶりを発揮していたという。若くして江戸で柳沢吉保にその才能を見込まれ仕えるようになったという。柳沢邸のいわばサロンで知った荻生徂徠に入門、漢学、漢詩を学び、優れた漢詩を多く残した。

『如亭山人遺藁』を読む

柏木如亭は、江戸時代中期の漢詩人である。江戸に生まれ、生家は幕府小普請方の大工の棟梁であったという。最初の詩集はなんと『木工集』というから面白い。家督を一族のものに譲って、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになり、漂白の詩人となった。信州・越後から西は京都・備中に及んで滞在したという。その遺作を梁川星巌という人物が編んだのがこの詩集だ。面白い詩を一つ。

   大刀魚                     

吶喊(とっかん)声銷(き)えて天日(てんじつ)麗し
波濤(はたう)海靜かなり太平の初め
折刀(せつたう)百万沙(すな)に沈み去り
一夜東風(とうふう)尽く魚と作(な)る

大刀魚
吶喊声銷天日麗
波濤海靜太平初
折刀百万沈沙去
一夜東風尽作魚

『霞舟吟巻』を読む

江戸時代後期の儒者友野霞舟という人物の漢詩集。

 池辺に涼を趁(お)ふ             

涼を趁(お)ひて閑に曲池を繞(めぐ)りて行く 
雨後の微風竹を度(わた)りて清し
瞑色看る看る遠岸を籠め
紅蓮は漸く暗く白蓮は明るし

池辺趁涼
趁涼閑繞曲池行
雨後微風度竹清
瞑色看看籠遠岸
紅蓮漸暗白蓮明

『梅墩詩鈔』を読む

「ばいとんししょう」と読む。広瀬旭荘という江戸時代後期の儒学者・漢詩人の詩集。現在の大分県日田市の博多屋広瀬三郎右衛門という人物の八男に生まれたという。長詩が多いのだが、ここは引用に適した七絶を。

 春 寒                

梅枝幾ばく処か籬を出でて斜めなり
水に臨んで扉を掩ふ三四家
昨日の寒風今日の雨
已に開ける花は未だ開かざる花を羨む

春 寒
梅枝幾処出籬斜
臨水掩扉三四家
昨日寒風今日雨
已開花羨未開花

『竹外二十八字詩』を読む

「ちくがいにじゅうはちじし」と読む。江戸時代後期の漢詩人、藤井竹外の漢詩集。前編は安政5年(1858)刊で、上下2巻に七言絶句(二十八字詩)217首を収める。後編は明治4年(1871)刊。上下2巻で、七言絶句164首の他に五言絶句20種を収める。
作者竹外は文化4年4月20日生まれ。摂津高槻藩の藩士である。頼山陽、梁川星巌に師事。七言絶句にすぐれ、絶句竹外の称がある。鉄砲の名手でもあったらしく、奇行の人でもあったという。

 芳 野                 

古陵の松柏天飆(てんぺう)に吼ゆ
山寺春を尋(たづ)ぬれば春寂寥
眉雪の老僧時に帚(は)くを輟(や)め
落花深き處南朝を説く

芳 野
古陵松柏吼天飆
山寺尋春春寂寥
眉雪老僧時輟帚
落花深處説南朝

さて、こうして改めて江戸期の漢詩を読んでいくと、漢詩には独特な硬さがあって、これが和歌にはない男性的なものを感じさせるなと思える。日本文学には希薄な強さを感じるといってもいい。これは決して中国語で読むのとは違う、漢文訓読ならではのものだと思う。ただ、作者の感慨にはなかなか至ることはできなかったが。

2017.10.24
この項了

古いネットブックの復活

さて、今度は古いネットブックの復活だ。
これはEPSONのNa01-miniというものだ。もともとXPが入っていた。
最終的には以下の様にした。

  1. ディスクをもと使っていたSSDに変える。
  2. LinuxのUbuntuを入れる。
  3. Bracketsを使える様にする。

結局はこれで市民活動センターに置いておいて、講習の際の補助マシンとして使えることとなった。

ただ、そこに至るまではそれなりの試行錯誤あった。
1は難なくいったが、初めはそこに入っているwin7がそのまま動くかという淡い期待があったが、それは無理だった。
そこで、使っていないwin8.1のインストールディスクがあるのでそれを入れようと試みた。このディスクは元MacBookにBootchampで入れたものだ。
しかし、これが64ビット版だったために入らない。ではwin7をと考えたが、これも64ビット版でだめ。XPはインストールディスクが付いているから戻すことはできる。しかし今更ということでついにLinuxを選ぶこととなった。
ただ、この復活はWEB開発の講習に使うのが主な目的なので優れたエディタBracketsが動かなくてはならない。幸いググってみるとさすがLinux版がある。あとはBracketsに必須とも言えるChromeが入るかだ。これもググってみると行けそうだ。よしということでやってみた。その手順。

  1. Ubuntuのディスクを用意。これは以前ファイル復活用に作ってあったものを使う。
  2. 難なくインストールできる。全てをUbuntuにする。
  3. Bracketsをインストールする。これは他のマシンの様には行かない。久しぶりにコマンでのインストールを行う。以前からlinuxを勉強していたからうまく行く。
  4. Chromeのインストール。ここでつまずく。結局はLinux版Chromeは32ビット版の開発を止めてしまったことが原因だった。ここでも32ビットCPUの限界が露わになってしまった。これもダメかと思った。
  5. Chromiumのインストール。しかし、Chromeのいわば親に当たるChromiumというブラウザがあることを知り、これ入れればBracketsのライブビューができるのではと考えた。うまくいきました。
Ubuntuを起動したところ
Bracketsでhtmlとcssを編集
ライブビューでchomiumを起動して開発中のコンテンツをブラウズすることができた。

これでネットブックも蘇りました。

Linuxいいですね。多くのボランティアによって行われていることもここに明記しておこう。メモリーは1Gのままだけど動きはストレスがないからこのままにしておくことにする。それにしてもMicrosoftは困りもんですね。OSをどんどん変えて、ハードのスペックをどんどん高くしてユーザーを困らせる。まったくね。

2017.10.20

この項了

古いデスクトップPCのバージョンアップ

最近はもっぱらMacBookAirでドキュメントを書いたり、WEB開発をしている。後はiPadでネットを見たり音楽を聴いたり、写真を撮ったりで、すっかりMac派に成ってしまった。しかし、家にはWin7が動いているデスクトップとなんとXPが入っているネットブックがある。ここのところ全くこの二つは顧みなかったが(デスクトップはそれなりに使っていた。主に競馬予想だけど)、あるきっかけで見直すこととなった。そのきっかけは息子のところのWinノートが具合が悪くなって持ち込まれたことだ。結局息子のマシンは敢えなく廃棄となって、新しいマシンを購入することなった。その過程で自分のところにある古いマシン(この他に2台のノートPCがある)も処分することを思い立ち、なんとか使えそうなこの二台だけは延命を図ったというわけだ。そのプロセスを書いておく。

まずはデスクトップ。これはもう10年は経っている。しかし、中身を色々変えて使ってきた。使用感は悪くない。CPUは古いものの、ビデオカードを搭載して、メインディスクもSSDに変えてある。メインメモリーは1Gしかないのにビデオカードのおかげで決して遅くない。ただSSDが容量が少なく、容量が足りないぞという表示が出るようになった。そこで以下のことを試みた。

  1. SSDを容量の大きものに変える。
  2. メモリーを増やす。
  3. ビデオカードもメモリーの大きいものに変える。
  4. Userのフォルダを別のディスクに移す。

こうすれば当面の問題はクリアーできると考えたためだ。

1,2は難なくうまくいった。特にSSDの交換は購入したSSDにクローン作成ソフトが付いていて(勿論ダンロードだけど)すぐにクローン化できて、難なく同じ様にWin7が起動した。メモリーついてはしっかり調べれば問題ない。合わせて二万円弱の出費だった。

新しいSSDをUSBでPC二繋いでいるところ。
クローン作成ソフトでクローン化しているところ。

しかし
3についてはマザーボードとBIOSの問題からうまく認識してくれなくて、使えなかった。これは将来マザーとCPUを変えた時にとっておくことにする。

問題は4だ。ここで大きなミスをしてしまい大変なことになってしまった。
Userのフォルダを別のディスクに移す手順は結構面倒だ。レジストリをいじるのでここでミスると取り返しがつかない。バックアップを完全にしておかないとだめだ。結局バックアップからリストアすることになったが、そのバックアップがかなり以前に作られたものだったためにその間のデータの移行が大変だったと言うわけだ。特にこのデスクトップは競馬のデータベースが入っていてこれがかなり膨大なものになっているからだ。
さて、何をミスったかというとドライブレターの間違いである。自分の環境ではデータディスクがE:なのに一般の様にD:だと考えていたために起こってしまった。こうなるとユーザープロファイルが読めなくてログインできなくなったしまうのだ。

改めてUserのフォルダを別のディスクに移す手順を書いておく。

  1. 最新のバックアップをとり、確認しておく。(極めて重要)
  2. ダミーアドミンユーザーを作り、それでログインする。
  3. c:にあるUserのフォルダを別のディスクにコピーする。(できない部分もある)
  4. レジストリエディタでユーザープロファイルの部分を変更する。(ここでドライブレターを間違えては大変)
  5. c:にあるUserのフォルダを削除する。(できない部分があったらリネームするといい)
  6. シンボリックリンクを作成する。(コマンド)
  7. 再起動して別のアドミンユーザーでログインする。
  8. ダミーアドミンユーザーを削除する。

勿論これは概略だ。実際にはネットで注意深く研究してからやるべきだ。バックアップで直近に戻れることを条件に行うことだ。

いまはこうしてやっとしっかりしかも以前より速く動いている。やれやれって感じだ。

さて、ネットブックの更新については次の投稿で。

2017.10.20
この項了

『日本古典文学総復習』62『田植草紙』『山家鳥虫歌』『鄙廼一曲』『琉歌百控』

この巻はいずれも民謡集だ。民謡は歌謡の一種だが、これまではあまり文学史の表舞台には登ってこなかった。しかし歌謡は古くから存在していた。記紀歌謡は古事記・日本書紀に収録された歌謡を言うが、短歌より古くから存在していたものだ。ただ、歌謡は歌われるものという性質から文字化され、読まれるということが難しかったから表面に出てこなかっただけとも言える。ところが中世末期から江戸にかけてこうした歌謡を筆録する機運が高まったようだ。これも文学の庶民化のなせる技なのだろう。ここにある民謡集はいずれもそうした機運の元に文字化されものだが、そこに当時の庶民の感情生活の一端を伺う事が出来そうだ。

『田植草紙』を読む

「たうえぞうし」と読む。この書は大正の末年に広島県で発見されたという。はじめ鎌倉時代のものと捉えられたようだが、もっと後の時代のものとされた。編者はわからないが、江戸時代の中期に筆写されたものだという。
この書は他の民謡集のように各地の民謡を集成したものではない。田植の進行にそって朝歌から昼歌、晩歌というように配列されているところに特徴がある。これは共同で各戸の田植を一日で終えてゆくという囃田とよばれる行事の為の歌謡ということらしい。この囃田とは音楽と歌を用いる田植のことらしいが、中国山地に伝えられてきたようだ。
さて、その歌だが、朝歌二番を見てみよう。

きのふからけふまで ふくは何風
 恋風ならば しなやかに
なびけや なびかで風にもまれな
おとさじ 桔梗のそらの露おば
しなやかにふく恋風が身にしむ

この歌は「田植歌」の特徴をよく伝えている。初めの一行が親歌で「音頭」が歌う。二行目が小歌で「早乙女」が付ける。普通はこの繰り返しとなるが、この「田植歌」ではさらに「オロシ」と呼ばれる三行があって全部で五行詩となっている。しかもそれが「恋」の歌となるのが特徴だ。歌謡とくに民謡は「田植歌」といった労働に関わる歌が多いのだが、それにもかかわらず「恋」を歌う内容になるところが面白い。これは田植が男女によって行われたことも関係するが、田植などの農耕そのものが男女の営みに擬されていたことも影響していると思える。

『山家鳥虫歌』を読む

「さんかちょうちゅうか」と読む。これは江戸時代中期に編纂されたまさに民謡集。上下2冊に全国各地の民謡が収められ、国別に分類されている。明和8 (1771) 年に序が書かれているところから,江戸時代中期あたりまでの諸国の歌が集められたものだと考えられている。歌の形は「七・七・七・五」型が多く、これは「都々逸」に繋がる形である。従って現在の「民謡」の概念を超えていわゆる「俗謡」と呼ばれるものも多く収録されている。

ここでは下巻の薩摩六首を紹介しておこう。

闇夜なれども忍ばば忍べ 伽羅の香りをしるべにて
千世の前髪下ろさば下ろせ わしも留めましよ振り袖を
洲山おかめ女は洲山の狐 尾をふり尻ふる人をふる
散りゆく花は根に変える ふたたび花が咲くじやない
島が島なら世が世であるならば なんの地方に身は持とぞ
 なんの地方に身は持とぞ
志賀唐崎の名はよけれ 一つ松とは聞さへつらい

といった具合で、これは俗謡すなわち小唄や都々逸に通じるものである。

『鄙廼一曲』を読む

「ひなのひとふし」と読む。これは民俗学の先駆者と言える菅江真澄(すがえますみ)が著わした歌謡書。1809年(文化6)ころに成立したようだ。その二十年前に菅江真澄は生涯の旅に出て、信濃・越後から奥羽を経て、現在の北海道の松前に及ぶ各地を歩いてその見聞を記録している。この書はそれらの地域で集めた民謡の記録である。その序文に「今し世の賤山賤の宿にて、よね・粟・むき・稗を舂くに、ひねもす、さよはすがらに聞なれて、きめの臼唄、雲碓唄、磨臼唄も、おかしき曲をひとつふたつと聞にまかせて、書いつくればさはなり…」とある。まさに訪れた地方で生活の中で歌われていた民謡の記録である。

以下一つだけ紹介しよう。

   おなじつがろ 汐干がへり
 此古風ところどころにのこれり
今日はの汐干に蛤ひろふた 袂ぬれつつ振り分髪の しどけないふり しほらしや
渡る雁しばしはとまれ われは吾妻の流れにすむよ せめてたよりに文ひとつ

その他『巷謡編』『童謡古謡』『琉歌百控』が収められている。
『巷謡編』は土佐の国学者鹿持雅澄(かもちまざずみ)の編集になる土佐の民謡歌謡の集成。長い序文がある。

『童謡古謡』は修験僧行智になる、江戸浅草に伝承した童謡の書留。ここには今も歌われる童謡が散見できる。

『琉歌百控』 は最古の琉歌集の一つ。「りゅうかひゃっこう」と読む。いわゆる琉球すなわち沖縄に伝わって歌われた琉歌を三味線歌謡としてとらえ、節(曲)を中心に編纂されている。編者は明らかではないが、総数601首が収められ、大部なものである。琉球歌謡はその独特な節回しと語彙があってそこを伝えようとする意図が伺える。一つだけ紹介する。こんな風に書かれている。

 打束節      (ウチアガリブシ)
あわん夜の夢の   アワンユヌイミヌ
繁くあらよひや   シジクアラユイヤ
宵の手枕の     ユイヌティマクラヌ
稀にあらな     マリニアラナ
逢ぬ先今に     アワヌサチナマニ
くなひやい見れば  タナビヤイミリバ
迚も成欲や     トゥティンナシブシャヤ
吸ぬかし      スワヌンカシ

これはもう読むというより聞くべきものだ。

こうした民謡や俗謡の内容も和歌と同様、やはり「恋」が中心となるのはやはり日本文学の大いなる特徴と言えるようだ。

2017.10.15
この項了

『日本古典文学総復習』61『七十一番職人歌合』 『新撰狂歌集』 『古今夷曲集』

大分この古典文学総復習、滞ってしまった。読書の秋というより、行楽の秋でなかなか自宅で落ち着いていられなかったためだ。
しかしやっと江戸初期の面白い古典について書けることととなった。江戸時代はもっとも興味ある時代だ。文学においてもさまさまなジャンルが花開いた時代だからだ。文学の庶民化の時代とも言え、馴染みやすい作品が数多く作られたからでもある。

『七十一番職人歌合』を読む

「しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ」と読む。題にあるように、これは歌合。室町時代・1500年末ごろに成立したとされる。しかし、この歌合、これまでものとは趣を異にしている。職人を題材としているのだ。職人の姿絵と「画中詞」と呼ばれる職人同士の会話や口上も描かれている。いかにも近世初期の社会を彷彿とさせる。近世は職人と庶民が表舞台に出てくる社会だからだ。

さて内容だが、七十一番とあるように、七十一組の職人が登場する。つまりは倍の百四十二種の職人となる。しかし、職人といっても現代でいう「職人」の範疇を超えている。物売り・芸人・連歌師なども含まれている。例えば、三十七番の「豆腐売り」に「素麺売り」とか、六十三番の「競馬組」に「相撲取」といった具合だ。では、ここはいかにも職人らしい一番を紹介する。

「番匠」と「鍛治」だ。大工と鍛冶屋である。歌合だから二つの歌が紹介され、判定が行われる。

一番 左
をしなをす工(たくみ)もいさやすみかねにさげすむ月のかたぶきにけり
   右
軒あれて古きかぢやの太郎槌ふりさけみれば月のさやけき

判定は「持」、すなわち引き分け。

その後二つの職人の仕事姿の絵と言葉がある。

(模本だが、国立博物館に絵巻きがあって画像を見ることができるので、ここで紹介。なお、アドレスは以下だ。
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017448)

そしてさらに二つの歌が再び紹介され、判定が行われている。その形が七十一組続くと言うわけだ。もちろん歌は専門歌人が読んだものである。

この書は、歌の内容と出来がどうのというより、当時の社会の現実を見るに適したものとなっている。ただ、それだけでなく職業人が文学の表舞台に立ってくるようになったことが注目される。

『新撰狂歌集』を読む

狂歌は江戸時代の重要な文学ジャンルの一つだ。江戸時代の文学の中心はパロディにあると言っていい。狂歌はまさに和歌のパロディだが、その狂歌の初期の作品集がこれだ。
1633年(寛永10)ころの刊行されたという。編者と版元は明らかではない。上下2冊あって、古今の狂歌191首を和歌集の部立に従って、四季・恋・羇旅・述懐・釈教・哀傷・神祇・雑に分類編集されている。所収作品は古くは鎌倉時代の定家まで及んでいるが、狂歌らしく作者不明のものも多く、宇治の茶大臣母、無銭法師のごとき狂名もすでに用いられている。以下こんな感じだ。

 

芋を盗まれたる人のよめる

筒井筒五つばかりもとりはせで掘りにけるかな芋見ざるまに

 備前の吉備津にて神前に団子をささげたるを見て  小野の小餅

搗き砕き団子そなふる吉備津宮これかや神は巫(きぬ)が習はし

 寒夜月といふ題にて  大江の肥持

冬の夜の尿しがてらに見る月はおもしろしとてやがてひつこむ

こうしたパロディは本来的に元がわかっていないと面白くないことは言うまでもない。こうしたことは如何に古典が教養人のなかで一般化していたが伺える。もちろん狂歌は教養人の作品である。

『古今夷曲集』を読む

これも江戸時代前期の狂歌集。生白堂行風 (せいはくどうぎょうふう) という人物の編という。 10巻4冊あり、寛文6 (1666) 年に刊行されたもの。古今の作者二四一人に及ぶ作者の狂歌千首以上をやはり和歌集の部立にしたがって分類している。この時代いかに狂歌が流行したかが伺える大部の狂歌集である。いくつか紹介しておく。

 正 長
たばこのむうちより春は来にけらし烟も霞むはなのさき哉

 槿(あさがほ)  (雄  長 老)
花の露も日影うつれば蛭に塩ひるはしほしほとなれる朝貌

 題知らず 西行上人
七瀬川やせたる馬に水かへば九勢(くせ)になるとてとをせとぞいふ

 来不逢恋(くれどあはざるこひ) 未 得
鉄砲のたまたまきてもはなさぬは結句おもひのたねが島哉

 人のもとより鰆の鮨をえて返事に 右衛門尉藤原武員
近江鮒宇治丸あゆの鮨もあれどをされぬ味は鰆なりけり

といった具合である。

2017.10.13
この項了