『日本古典文学総復習』84『寝惚先生文集・狂歌才蔵集・四方のあか』

 今回はあまり間をおかずに次に行けた。江戸時代で忘れてはならない人物、大田南畝集である。別名蜀山人、四方赤良で知られる文人の選集だ。大田南畝はこれまでもチラチラとその作品に触れていた。また、永井荷風によってその人柄や作品に触れていたこともあってスムーズに読むことができた。

 太田南畝は寛延2年3月3日(1749年4月19日)に生まれ、文政6年4月6日(1823年5月16日)に死去している。その文筆活動は、天明期ということになる。天明期は江戸の文化が爛熟隆盛を見た時期である。田沼意次のいわばバブル期を生き、活動し、寛政の改革による緊縮期も経験したということにもなる。その時期に主に狂歌というジャンルで知られている。ただ、狂歌ばかりでなく、膨大な量の随筆を残しているし、洒落本、漢詩文、狂詩、なども多く残している。
 また、太田南畝は一貫して幕府の御家人であり、支配勘定まで上り詰めた幕府官僚であったことも忘れてはならないところだ。南畝はけっして裕福な上級の御家人の家に生まれたわけではなかったが、幼少から学問に秀でていたため、かなり無理をして教育を受けたようだ。今でいう奨学金を貰って学問所に通っていたようだし、壮年期も田沼意次のブレインから援助を得ていた。また、幕府の官僚登用試験にチャレンジし、優秀な成績で合格してそれなりの地位を得たりしている。
 こうした南畝の生涯は作品とどのような関係があるのだろうか、興味深いところである。実際の作品を見ていくことにする。

 この選集には以下の作品が収められている。それぞれを見ていく。

「寝惚先生文集」

 狂詩狂文集。すなわち漢詩と漢文が収められている。なんと南畝19歳の時の作品集。この若さで自らを寝惚先生とするところにすでに南畝のスタンスが伺える。もちろん漢文と漢詩であるからその教養は並々ならないものがあるが、まさに若き知識人がすでに韜晦と斜に構えた姿勢を持っていることに驚かされる。中国詩文集の体にならっているもの、「金ヲ詠ズ」「江戸見物」「桃太郎ヲ送ル序」など身辺の事象をおもしろおかしく写している。ただ、ここでは本音とも取れる以下の詩を引いておく。もちろん杜甫の「貧交行」のパロディだ。

貧鈍行

為貧為鈍奈世何
食也不食吾口過
君不聞地獄沙汰金次第
干挊追付貧乏多

貧すれば鈍する 世を奈何
食うや食はずの吾が口過
君聞かずや 地獄の沙汰も金次第
挊(かせ)ぐに追い付く 貧乏多し

「通詩選笑知」

 南畝二作目の狂詩集。「唐詩選」五言絶句部のパロディ。ただ、厳密にはすべて南畝個人の作とは言えないようだ。息子の三歳の祝いの席で狂詩仲間たちが集まった際の酒の勢いで作った作品集と言うことらしい。ここでは遊郭を題材にした五言絶句を紹介する。

色道後気  口説

客真争一夜 大象預期横
執心不相待 門外及落城

色道に気を後る  口説(こうせつ)
 
客真一夜を争ふ
大象預め横を期す
執心相待たず
門外落城に及ぶ

 こういう詩はもはや解説無くしては読めない。「気を後る」とは時を逸すること。「口説」とはここでは男女の痴話のこと。ただ、これは「くぜつ」とは読ませずに「こうせつ」としたのは元の詩の作者「張説」をもじったから。「客真」とは客と真実の恋人。遊女の客と間夫が一夜を争ったというお話。「大象」は「大蔵」で半可通のこと。「横を期す」とは、「横を切る」という遊女が客の目を盗んで間夫と密会することを意味する語からそれを期待したということ。「門外落城に及ぶ」とはこの本によれば、「交わらないうちに射精してしまう」ことだという。半可通の間夫をおちょくっている。
 パロディには元がある。元の詩は以下。

蜀道後期 張説

客心爭日月 來往預期程
秋風不相待 先至洛陽城

客心日月と争い
来往預め程を期す
秋風相待たず
先ず至る洛陽城

「客心」は旅のこころのこと。まったく内容は違う。しかし、巧みに文言を似せている。これが狂詩のスタイルということができる。参りました。

「狂歌才蔵集」

 南畝の第三狂歌集。南畝の狂歌集としては「千載和歌集」のパロディ、「万載狂歌集」があるが、その続編ということになる。天明六年に行われた「才蔵集撰歌会」の記録でもある。部立は勅撰集に倣って「巻第一春歌上」から「巻第十六神祇歌」まで六百二十七首に及ぶ大部なものだ。
 ここでは三首を引く。

       四 方 赤 良

抱ついてみれどたはいはなかりけり庭の柳の細き腰もと

 初 冬   平 秩 東 作

今朝ははや禿頭のみ撫でられてかみなし月の寒さをぞしる

 二日酔   古 来 稀 世 下毛

吐きもせずくれもやらぬあしたには朧豆腐にしくものぞなき

 解説はいるまい。

「四方のあか」

 南畝の最初の狂文集の刊本。この書が刊行されたのは田沼時代のバブル期が終わり、寛政の改革直前の時点だった。寛政の改革で粛清が行われ、田沼のブレイン土山宗次郎と言う人物が死罪になっているが、実はこの人物は南畝のパトロンだった。この事情からこの書では著者も町人の飯盛とまぎれるような細工をしているという。この辺りに南畝のような幕臣でありつつ文人を通す人物の苦悩があったかもしれない。また、南畝は子息が早死にしたこともあって、隠居できなかったという事情も見え隠れする。要するにこうした狂文も真っ向からの時代の批判へとは向かえないということになる。しかし、それを現代の目から批判してもはじまらない。その時代を精一杯生きた文人の姿を見れば足りる。
 一つだけ短い文を引く。

 遊女賛

 誠は嘘の皮、うそはまことのほね。まよへばうそもまこととなり、さとればまこともうそとなる。うそとまことの中の町、まよふもよし原、さとるもよし原。

  傾城のまこともうそも有磯海の浜の真砂の客の数々

「壬戊紀行」

  南畝の紀行文。南畝は大阪銅座に支配勘定として出張勤務した。官僚生活だ。その任を終えて江戸に帰る旅の記録である。あえて東海道ではなく中山道を選んで帰っている。内容は旅の詳細をしっかり記録するというものだ。したがって即物的な記述が多く、やや退屈に思える。ただ、そこに南畝の人となりが伺え、やはり名文家と言える。柳田国男をして「一悲一笑せしめる程の力を持って居る」と評価せしめる所以だろう。(本書解説から)

「奴凧」

 「世相風俗あるいは往年の知友の逸話の類を何くれとなく書きとめた随筆の一本」(本書解説から)ということになる。小冊子。随筆というよりほとんどメモといったらいい程のもの。ただ、そこに南畝のあらゆるものへの飽くなき好奇心が伺えて面白い。狂歌や狂詩のネタはこうしたところにあったのだろう。

「南畝集(抄)」

  南畝自筆の漢詩集。約四千七百首あるという。ここはその抄録。晩年の以下の詩を引いて、この南畝の旅を終えることにする。

 弄孫

抱孫不抱子
曾誦礼経言
為耽舐犢愛
却想含餳恩

 孫を弄ぶ

孫を抱くも子を抱かず
曾て礼経の言を誦ず
舐犢の愛に耽るが為に
却つて含餳の恩を想ふ

 南畝五十五歳の作という。バブル期(田沼時代)を遊楽に生き、緊縮期(寛政の改革期)を幕吏として実直に生きた南畝の晩年の気持ちが伝わる一首だ。孫を抱いて親の恩を思うという。

 最後に。太田南畝の作品を見てきて、常に成島柳北のことが念頭にあった。成島柳北は小生が最も敬愛する文人だが、柳北の原型が南畝にあったのではと言う思いが常にしていた。柳北もまた幕吏であったが、生きた時代が大きく異なっていた。幕末期という時代が柳北を南畝たらしめなかったのは言うまでもない。柳北はこの『新日本古典文学大系』の最終巻100冊目に登場する。それまでもう一息江戸文学を見ていくこととなる。

2018.08.24
この項了

『日本古典文学総復習』83『草双紙集』

今度は二ヶ月を要してしまった。こうなると今年中に終わるかどうか怪しくなってきた。なんとか終わりたい。しかし、今年の夏は異様に暑い。読書には不向きだ。早く秋になってほしい。また、他の大きな仕事に取り組んでいたことも時間がかかった原因だ。仕事と言うよりは趣味なんだが、木工に時間を取られていた。これについては記事にしている。
さて、今回は草双紙を取り上げる。百科事典によれば、

 江戸中・後期に江戸で刊行された庶民的絵入小説の一体。毎ページ挿絵が主体となり、その周囲を埋めるほとんどひらがな書きの本文と画文が有機的な関連を保って筋を運ぶのが特色。美濃紙半截二つ折り、5丁1冊単位で、2・3冊で1編を成す様式が通例。しだいに冊数を増し、短編から中編様式へ、そして後には年々継続の長編へと発展する。表紙色と内容の変化とがほぼ呼応し、赤本・黒本あるいは青本(黒本・青本)・黄表紙と進展し、装丁変革を経て合巻(ごうかん)に定着、明治中期まで行われる。(世界大百科事典 第2版)

 とある。要するに絵本ということになる。絵本というと子ども向けと思われるが、初期はそうだったかが、後には大人向けのそれなりの内容を持ったものとなっていったようだ。劇画マンガといったイメージでいいと思う。マンガは最近世界的にも注目されているようだが、その淵源がこの草双紙にあると言えそうだ。

 収録作品は以下のようになっている。簡単に内容を紹介しておく。

赤本・黒本・青本

「名人ぞろへ」

 見開き5画面しかない小冊子。異国趣味がうかがえる。木乃伊についても言及。

「ただとる山のほととぎす」

 万徳長者を主人公とし、鳥を取る話が中心。おおらかな法螺話。これも10画面の小冊子。

「ほりさらい」

 土木工事を草双紙に見立てた珍しい作品。ただし題名は失われていて、校注者がつけた仮題。

「熊若物語」

 黒本で上中下三冊ある。南北朝時代の仇討ち物語。謡曲にも取り上げられている阿新の物語の劇画版。

「亀甲の由来」

 黒本二冊だが、下巻のみ伝わる。「治病の妙薬として、猿の生肝を取りに竜王から遣わされた海月が、猿を騙して帰る途中、その目的を洩らしたため、猿に生肝を樹上に置き忘れたと騙されて逃げられた。その罪を竜王に責められ、打たれて骨なしになった。」という猿の生肝として知られる昔話の劇画版。浦島太郎が登場したり、やや話が変更されている。

「漢楊宮」

 青本で上中下三冊ある。元は「史記」にある話。秦の始皇帝暗殺を図り失敗した燕の太子丹の話。これまでも色々と日本で取り上げられた話の劇画版。

「子子子子子子」

 果たしてなんと読むでしょう。この小野篁の謎解きは「子」の字が倍あるが、ただ話は雪舟の一代記。これは雪舟の伝説が関係しているようだ。柱に縛られて涙で書いた鼠が生きているようだったという話だ。「子」は「こ」と読むし、「ね」とも「し」とも読む。正解は「ねこノこノこねこししノこノこしし」です。

「楠木葉軍団」

 黒本で上中下三冊ある。軍学者由井正雪が起こした慶安事件を題材とした黒本。もちろん当時の事件だけに時代を前にしているが、この事件はいろいろと作品化され人口に膾炙したようだ。いわばその劇画版。

「猿影岸変化退治」

 白猿神(猿の妖怪)が人間の女性を誘拐し、妊娠させるという中国唐代短編伝奇小説である「白猿伝」に基づいた話。実際には前に見た『繁野話』にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」を黒本化したもの。怪談で、現代でも何度か取り上げられている。

「狸の土産」

 黒本で上中二冊ある。当時有名だったとんだ茶釜の笠森おせんという美人と千住の茶釜の二つを題材にした金時の化け物退治の話。全く荒唐無稽な話だが、それの屈託のなさが取り柄と言える。 

黄表紙

「其返報怪談」

 恋川春町作。絵も描いている。作者自身が主人公。いわば絵の修行記。文中に見越入道が狐の謀略似合う話がある。作者の恋川春町は絵入の洒落本『当世風俗通』で注目され、後の『金々先生栄華夢』で黄表紙の祖とされる。

「大違宝舟」

 芝全交作、北尾重政画。藤原淡海が竜王に奪われた面向不背の玉を志度の海女の手により取り返したという、謡曲「海士」などで名高い玉取り伝説のパロディー。

「此奴和日本」

 「こいつはにっぽん」と読む。これは当時の流行語だという。当時は中国風の生活の気風があったようで、これを揶揄する所に眼目があったようだ。中国も形無しといった意味。四方山人作、北尾政美画。

「太平記万八講釈」

 「万八」は当時の流行語で口から出まかせといった意味。「太平記」は当時講釈に使われていて、「口から出まかせな太平記講釈」ということだろう。『太平記』巻十二にある大塔宮護良親王の建武の中興ごの行状が趣向の中心。

「正札附息質」

 江島其磧の『世間子息気質』のパロディー。大商人の気質の違う息子二人が巻き起こす珍妙な浮世離れした行動を一話づつ描いている。ついには二人とも勘当の身となってしまうというお話。

「悦贔屓蝦夷押領」

 これも恋川春町の作。「よろこぶひいきのえぞおし」と読む。義経が蝦夷に逃亡したとされる伝説がモチーフ。当時の北海道に関する関心が見て取れる。これはロシアの進出が影響していると思われる。また田沼意次の悪政を下敷きにしているともとれる話となっている。

「買飴帋凧野弄話」

 「あめをかつたらたこやろばなし」と読む。曲亭馬琴の作。何々づくし物といった趣向。いろいろな凧を挙げて、馬琴らしく蘊蓄を開陳するという趣向の話。生真面目なところが黄表紙と異なり、それがかえって異色となっている。

「色男其所此処」

 万象亭作、鳥居清長画。裕福なお坊ちゃんのお話。もちろん如何に女にもてたいかというお話。様々な階層、職業の女を相手に悪戦苦闘する様子を描いている。いかにも江戸戯作的作品。登場する女には実際のモデルがあったとされている。そういう意味でも現代の週刊誌的要素もあったようだ。

「草双紙年代記」

 草双紙の草創期から天明初年までの変遷を物語として描いた物。岸田杜芳作。北尾政演画。

合巻

「ヘマムシ入道昔話」

 合巻上中下3篇三編六巻。山東京伝作、歌川国直画。ヘマムシ入道とは文字遊戯でへを頭、マを口、ムを鼻、シを口と顎に見立てて人の姿を描くこと。ここでのヘマムシ入道は主人公が仇討ちのため蝦蟇の術を習いに行った術師ということになっている。ただこのヘマムシ、術を教えるどころか主人公の仇となる。結局はヘマムシ入道は主人公に討たれることになる。それまでは色々と紆余曲折がある物語でそれなりに長いが、これをセットにしているので合巻の名がある。

「童蒙話赤本事始」

 これも合巻上中下3篇三編六巻。曲亭馬琴作、歌川国貞画。子ども向けの話である桃太郎・舌切り雀・かちかち山・猿カニ合戦の綯い交ぜを江戸周辺を舞台に脚色したもの。登場するのはもちろん武士や郷士たち人間である。

「会席料理世界も吉原」

 市川団十郎の合巻という。しかし実際の団十郎が書いたとは思われていない。ただ、歌舞伎の要素を多分に持った話だ。歌舞伎の要素といっても決して直接は歌舞伎の内容を使ってはいないという。お家の重宝紛失・敵討ち・貧家・怪盗・晴れて帰参の上の裁判・道行・引窓などという歌舞伎の趣向の型というか、作劇上の型を取り入れている。お家の重宝紛失から浪々の身となって忠僕ともども苦労するという話。

2018.08.09
この項了

ガラステーブルの作成

久しぶりの投稿。しかも木工の話題。
もう数ヶ月前にガラステーブルを復活させる計画を考えていた。
カミさんがここのところ低い籐の椅子で食事をとるようになったので、座卓では低いからもう少し高いテーブルを作ってあげようと考えた。
カミさんはいらないといっていたが、昔使っていたガラステーブルの天板のガラスがあったので、これも木工の練習ということでやり始めた。
もちろん材料はまだ豊富にあるケヤキの板だ。しかしこれが大変な難儀な仕事となった。
まず天板のガラス板がやや長方形で、角が丸くなっている。これをどう合わせるかだ。しかもこの天板をはめなくてはいけない。
そこで、コーナーの部分と直線の部分を分けて細工し、それをつなぐ方法をとった。




これを少ない道具でやるのは大変だった。まずカーブを天板に合わせること。つなぎを正確にあわせること。しかも強度が必要なのでボルト締めをしたうえで、つなぎの板をはめること。
本来ならいろいろな板継ぎの技法があって、トリマーのビットを使えばもっと上手くできたはずだが、トリマーはあるけどトリマーテーブルがないのでほとんど手鋸でやるはめとなり、本当に苦労した。しかし、これも素人木工の楽しみだ。


そして、脚の部分。これはやや厚めの別のケヤキの板を使った。ただ、横に渡した部分には同じ厚さの板がなくやや薄かった為にチョット見た目がよくない。ここはボルト締めをしてダボで埋めておいた。ここも本当は溝に組んで、楔で締めるというのが理想だがこれで我慢。

さて、上の画像は脚を横につないだ材料を組んだもの。これも天板がやや長方形なために直角に交差できず、微妙な角度になって大変だ。ぴったりいっていないが、この方がかえってよかったようだ。
そして最後の難関が天板の固定。やはりダボではめる形を選んだ。脚の上部にダボをつけて、天板に開けた穴に合わせるという方法。なんとか成功。
これでガタが来なければと思っていたが、なんとか大丈夫。使えそうだ。
ここでも材料をきちんと直方体にすることが重要で手道具ではこれがいかに難しいかをたっぷり経験しました。奥が深い。
さてさて、カミさん使ってくれるかな。

『日本古典文学総復習』82『異素六帖・古今俄選・粋宇瑠璃・田舎芝居』

 また、一ヶ月空いてしまった。江戸文学は半専門なのだが、ここで取り上げられている作品はほとんど初見だ。それだけ時間がかかってしまう。
 さて、江戸文学の要素の大きな一つが「笑」である。ここで取り上げる作品群もその範疇に入る。いわゆる「滑稽本」である。ただ、こうした分類は必ずしもはっきりした区分けにはなっていない。「洒落本」というジャンルもあるが、その範疇に入れてもいいかもしれない。最初に取り上げる『異素六帖』と言う作品も江戸板洒落本の出発点とみなされるが、また江戸板滑稽本の祖という位置づけもされる作品だ。
 ではこの時期の滑稽本の特徴はどんなところに求められるだろうか?現代の「笑」とは実に趣を異にする。どちらかというと現代語でいえば「パロディ」といったほうがいい。現在日本ではこの「パロディ」というのが全く影を潜めているように思う。いやそれどころか「笑」が文学の中にはもはや存在しなくなっているようにも思われる。それはなぜか?それは「パロディ」が成立する条件がなくなってしまったからのように思われる。
 「パロディ」が成立するのはその元がよく知られている必要があるのは言うまでもない。「笑」とはおよそ縁遠い「元」があってはじめて「パロディ」は成立する。2番目に登場する『唐詩笑』がその典型である。もちろんこれは『唐詩選』のパロディだ。『唐詩選』がよく知られていてこそパロディが成立する。一般化すれば、「パロディ」は古典的教養の基盤がなければ成立しない。すなわち現代はそれが失われてしまっている。
 そういう意味でこの時期の滑稽本は教養人の文学ということになるが、こうした人々(作者と読者)には共通の教養があった気がする。実際、この時期の滑稽本の作者たちはかなりの教養人だった。無教養が蔓延し、真面目くさったことしか言えない余裕のない窮屈な社会では「笑」の文学は成立しないということかもしれない。

 さて、ではここに納められた八つの作品を見ていくことにする。

『異素六帖』

 『唐詩笑』の方法をそっくり踏襲したもので、舞台を吉原に定めて、『唐詩選』に加え「百人一首」まで用いたパロディ。
例えば

揚屋の紙屑籠
積雪浮雲端
不二の高嶺に雪はふりつつ
積雪は紙のおほくて白きかたちなり。閨中にて ふ ふ ふうふう うんうんうんうんといふうちに陰陽の外しる人なき味あり。その端みな此積雪となる。

といった具合。これは解説はいらないか。男女の営みに「紙」は必需品?

『唐詩笑』

 まさに『唐詩選』のパロディ。
二つだけ引く。

張若虚
夫妻交接事畢ル。スワチソノ淫具ヲ捏リ曰ク、「コノ物高致妙妙。「春江花月ノ夜」ニ「玉戸簾中巻ケドモ去ラズ」」
夫妻交接事畢。乃捏其淫具曰、此物高致妙妙。春江花月夜玉戸簾中巻不去。

張九齢
夫妻皆唐詩選ヲ読ム。雲雨ノ時ニ及ンデ微吟シテ曰ク、「樹ハ揺カス金掌ノ露、庭ハ接ス玉楼ノ陰」。妻コレヲ和シテ曰ク、「寧思ハンヤ窃ニ抃ツ者、情発スルハ知音ノ為ナリ」。
夫妻皆読唐詩選。及雲雨時微吟曰、樹揺金掌露、庭接玉楼陰。妻和之曰、寧思窃抃者、情発為知音。

 二つとも男女の夜の営み。「夫妻交接」はあからさまだが、「雲雨ノ時」も同じ意味。「淫具」「金掌」は男性の一物、「玉楼ノ陰」は女性の物だと解説しておけばわかるはず。「春江花月夜玉戸簾中巻不去」が張若虚の詩句であり、「樹揺金掌露、庭接玉楼陰」「寧思窃抃者、情発為知音」は張九齢の詩句。全く中身が違って読めるから面白い。あまり詳しく解説してしまうと下品になっていけない。

『雑豆鼻糞軍談』

 これはパロディというよりは全くのナンセンスな創作といっていい。題材は一応歴史上の人物らしき者が登場するし、実際にあった歴史上の事件のようだが、全くそうした事に基づいていない。前の2作には所謂「断章取義」という形があるが、これは言ってみれば「こじつけ」となる。これを拡大すると全く違った話になってしまう。この作はこうした一例のようだ。序に言う。

 さるによって此一書は、いつその事にあたまから相手にならぬ分別のまじりまめはなくそぐんだんとは
   幕に矢の ふふはりうけし 春の風

『古今俄選』

 これは謂わばパロディ集。まずはその序からして『古今和歌集』仮名序の完全なパロディと成っている。引用書目として挙がっているのは、『史記』や『詩經』といった漢籍から『太平記』『源平盛衰記』といった日本の古典まで10以上の古典である。そしてこの「俄」というのが、大阪での夏祭りの際に行われていた素人による笑劇のことらしい。それを台本の形にして掲載しているのがこの書だ。素人による笑劇といっても、もちろんやっていたのは教養人たちである。劇という形をとる為か、浄瑠璃や歌舞伎のパロディも多く含まれている。ただ、今読むと悲しいかな元がわからない為か良く納得できない。こうした点が、江戸の滑稽文学が読まれなくなった原因かもしれない。

『粋宇瑠璃』

 「くろうるり」と読む。徒然草に「しろうるり」というのが出てくる。

この僧都、ある法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは、何物ぞ」と、人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける

とある。文章からも語義はよくわからないが、一説に白痴で鈍(うる)けた意ともいう。徒然草では人の顔の形容としているが、いずれにしても褒められたものではない。その「しろ」を「くろ」として「粋」の字を当てている。「くろ」は「玄人」に通じる。ということは実はこの書、「粋人」批判の書ということになる。批判というよりは、当時の流行を牽引していた「粋」を遣う連中を「うがった」ということらしい。当時の教養人気取りの連中を「粋遣ひ(すいつかい)」といって、彼らのやっていることをあげつらって面白がっている。しかし、これも難解の書だ。

『絵兄弟』

 山東京伝の書。俳人其角の『句兄弟』のもじり。京伝は始め絵師であったようだ。一対の見立絵を置いて何事かを述べるという形をとっている。後半は文章のみだが、やはり見立絵の部分が面白い。この見立絵というのはたとえば十五番にある「女達磨」のように、十年年期の遊女を九年面壁の達磨に見立てるといった画題である。これは画像を見ていただく。

『田舎芝居』

 これまでの作品と違って、舞台が越後大沼郡の実在の村となっていて、農閑期の旅芝居の様子が描かれている。またこれまでの洒落本の傾向の「うがち」を真っ向から否定し、ひたすら滑稽味を出そうとした作品。まあ、どたばた喜劇といった様相で、作者も「洒落本に非ず実は野天本也と自称している。序文の中で

 洒落本の洒落を見て洒落る洒落は、洒落た所が洒落にもならねば、只可笑を専とすべし

とある。その翌年刊行されその後も評判となった十返舎一九の『浮世道中膝栗毛』の先駆けとされる作品でもある。

『茶番早合点』

 「茶番」はもともと茶の番すなわちお茶汲みの当番の事をいうが、江戸の歌舞伎小屋では大部屋の下級役者の仕事であったという。その役者が工夫を枯らして余興を見せた。それが今の意味にもなっている。要するに見え透いたおふざけという意味だ。
 ただ、ここでいう「茶番」は江戸で行われた素人の座敷芸を指す。しかも観客や仲間に景品を出すのが必須で、最後のオチに引っ掛けって景品を出すという趣向だったらしい。この書はその「茶番」の式亭三馬による解説書ということだ。オチも上方のボケとは違って、かなり技巧的かつ知識的だったようだ。これも江戸の「笑」が教養人的だった証左だが、解説書が書かれ、それを勉強するという所にもそれがうかがえる。

 しかし、それにしても「笑」がストレートにこないのはこちらの教養不足ってことでしょうかね。

2018.06.12
この項了

『日本古典文学総復習』81『田舎荘子・当世下手談義・当世穴さがし』

 江戸時代に「談義本」というジャンルがある。これは江戸時代中期の戯作の一種だが、いわゆる滑稽本の先駆をなしたとされている。しかし内容は滑稽本とは異なっている。その祖先は仏教徒による談義にある。すなわち談義僧という仏教徒が仏教の教義をわかりやすく話をするという仏教談義だ。その談義僧の口調を真似て活字化したものが「談義本」ということになる。したがってはじめは滑稽を狙うというより、もっと教訓的な色彩が強かったようだ。しかし、庶民にもわかりやすくするために題材を当時の風俗に求めたため、やがて教訓臭が薄まり滑稽化していったようだ。
 もう一つこの談義本が流行したのは江戸中期の支配層の要求もあったようだ。江戸中期になると社会が安定し、商業化が進み市民生活が爛熟してくる。そうなると庶民への教化策が必要になってくる。もちろんそれは当時の支配原理たる儒教道徳による教化策だ。そうした支配層の要求にかなったのもこの談義本である。動物の問答を通して老荘の儒教的解釈を語ったり、狂俳文という形をとって死生観を語ったりする初期の談義本にはそうした色彩が強いようだ。
 ではここに収められている各作品を見ていくことにしよう。

『田舎荘子』

 談義本の嚆矢と言われる作品。享保12 (1727) 年刊。著者は佚斎樗山という人物。本編が上中下巻の3巻と付録1巻。外篇が6巻からなる。ここは本編と付録1巻が収められている。内容は動植物の対話をもって、老荘思想を元に教訓を伝えるというものとなっている。以下がその内容。

上巻 雀蝶変化・木兎自得・ケン蛇疑問・鴎蝣論道・鴨鷯得失・鷺鳥功拙
中巻 菜瓜夢魂・蟇之新道・古寺幽霊・蝉蛻至楽・貧神夢会
下巻 荘右衛門が伝・猫の妙術・荘子大意
付録 鳩之発明

 最後の「鳩之発明」も雉と鳩との問答の形をとっている。雉が鳩に対して「お前はなんでなんの警戒もなく人間の間に気楽に居られるんだ。」と言う。「自分はいつ捕まって喰われるかもしれないからいつも警戒して暮らしているのだ。」と。それに対し鳩は「自分だって警戒はしているし、捕らえられないような術は心得ている。しかし、山奥に暮らしていたって危険はあるし、やがて死は訪れるものだ。」とする。すなわち

「何方に居たればとて、命数来れば、遁るる所なきは、死の道也。」

とする。人間とて様々な災厄を恐れて何かと騒いでいるが、むしろ人間自身がその災厄を作り出しているようなものだとする。すなわち

「禅家にいへる事有、『元来地獄なし。衆生みづから地獄を作て、我と、此に、堕在す』と。汝が地震にさわぎ、うろたゆるも此類なり」。

と。
 こうした思想は儒教的というより老荘的である。しかも日本固有の死生観にもよっているように思う。

『労四狂』

 自堕落先生の「狂俳文」ともいうべき文章とされている。『労四狂』はもちろん「老子教」のもじりである。近世中期の「徒然草」と言うべき内容をもった作品で作者の死生哲学とでも言うべきものが述べられている。序に言う。

 「智者は智に狂ひ、愚者は愚に狂ふ。智者の智に狂ふは、愚者よりも病をもし。且得と失との地を審にせむと欲して、労し狂ふ者、又あり。其の狂ふと自ら知て狂ふ者有り。知らずして狂ふ者あり。庵主の爰に記するこもごも也。医薬の及ぶべからざるのみ也。憐むべし、憐れむべし。各死して後癒べし。狂なる哉、狂なる哉と、口をあき手をたたきて、十無居士北華序。」(一部変更)

 すなわち人間が一生をおくる上で必ずつきまとう苦労、その結果として必ずとりつかれる心の病としての「狂」ということが述べられている。智者は智に狂い、愚者は愚に狂い、その狂うと知って狂う者、知らずして狂う者、その症状はこもごも四つあるという。これが「労四狂」というわけだ。こうした人生哲学は本家『徒然草』にも語られているが、もっと徹底している気がする。こうした労苦を遁れるにはもう「死」しかないと言う事になるが、これを逆転すると享楽が見えてくる気がする。ペンネーム「自堕落」は韜晦だけではないのかもしれない。

『当世下手談義』

 「いまようへただんぎ」と読む。宝暦2年(1752年)江戸で刊行される。5巻5冊ある。1752年(宝暦2)江戸刊。作者は静観坊好阿(じょうかんぼうこうあ)という人物。もともとは享保の改革の意図を汲んだ庶民教化のための談義本。しかし、題材を当時の江戸の風俗にとり、江戸言葉を採り入れた文章は最初の江戸小説と言われ、仏教的な内容はない。そうした意味でも滑稽本の先駆けとも言える作品。歌舞伎、町人の身持、葬式のぜいたく、開帳、きおい組、虚説の流行、豊後節などが取り上げられ、それらを批判する形をとっているが、むしろ其の事が当時の江戸の風俗を活写する事になっている。
 また、解説によればこの書は3度目で当時の検閲をやっと通ったという。(通った時吉宗は死去している。)改革の意図を汲んだ庶民教化の書なのに妙だが、これも取り上げた題材による所が大きいと言えそうだ。豊後節は当時心中を美化するという名目で弾圧を受けたというから、それを取り上げる事自体問題視されたのかもしれない。ただ、それもこの書が当時から受け入れられた要因でもあったようだ。ようやく爛熟期にはいった江戸文化(上方文化に対する)の風俗を江戸言葉で活写したところにむしろこの書の魅力があったのかもしれない。

『当世穴さがし』

  豆男と言うのが主人公。この豆男は八文字屋本の好色物の主人公として人気を博したという。春信の春画にもなっている。この豆男が業平の霊夢に自由自在の身を得て、当時市中に流行した様々な風俗を取り上げて其の行き過ぎを批判するというストーリーとなっている。以下がその展開。

 壱の巻「豆男夢占の吉左右」「三味せんの流行」
 二の巻「琵琶が教訓の弁」「さがの釈迦もん答」
 三の巻「いけ花の立聞」「揚弓の高慢」
 四の巻「聖廟の神勅 付り はいかい点取の弁」
 五の巻「乗合舟の日記」「筒屋の夜話」「万度御はらいの託せん」

 ここに語られている流行がどの程度まで江戸市民に行きわたっていたかは定かではないが、もしこの書が語る事がある程度真実ならばこの時代の江戸はかなりな文化程度だったと想像できる。朱子学や徂来学といった学問の先端まで他の芸事と並んで流行現象として取り上げられている所にもそれがうかがえる。江戸文化恐るべしといった所だ。

『成仙玉一口玄談』

 「じょうせんだまひとくちげんだん」と読む。この題名からしてよくわからない。「一口玄談」は一気に語る霊妙な話ということだろう。「成仙玉」とは何か。仙人に成るための玉という事だろうか?この書の末尾近くに次の言葉がある。

「かの成仙玉は汝等諸人の赤肉団上にありて、是を清浄本然真一と号く。云々」

「真一の水精玉を見つけ了れば、是を実の仙人といふ。此玉を見る者は、仙道を成就するを以て、仮に名づけて成仙玉といふ。云々」

 すなわち、仙人になるためのものは人間自身に備わっているもので、凡夫はそれに気づいていない。それに気づきさえすれば仙人になれるとする。
 実はこの話、やたらと女好きの漁師が天上の遊女を女房にしたところから始まっている。しかしその後、雷に奪い返されてしまう。そこで漁師は天上の遊女が忘れていった羽衣を着て雷を追いかける。そしてなんと東風に乗って遥か南のハラシリア(今のブラジル)に行ってしまうというのだ。この荒唐無稽な設定が神仙談そのものだが、当時の世界認識が意外に広かった事が伺えて興味深い。(宝永5年・1708年の「増補華夷通商考」にある「地球万国一覧之図」は現代の世界地図とほとんど変わりがない。)
 そして最後にはブラジルで出会った和荘兵衞という人物とともにこの漁師も守一仙人の導きで「実の神仙」となるというところで話は終わっている。
 この書の作者、文坡という人物ははじめ仏教説話の作者だったようだ。後に神仙教に鞍替えし、教祖のような存在となり、そのプロパガンダのためにこの作品を書いたようである。神仙教は中国の道教の影響を受け、また老荘思想とも絡まり、日本の伝統思想とも絡まって江戸時代に流行したようだ。現代からすれば怪しい思想のように思われ、見捨てられているが、日本の思想を考える上で一顧の必要はあるように思われた。

2018.05.10
この項了

『日本古典文学総復習』80『繁野話・曲亭伝奇花釵児・催馬楽奇談・鳥辺山調綫』

 このプロジェクト?ようやく80巻までたどり着いた。ここのところやや難渋している。それは対象がわかりにくいのだ。江戸期の文学は多岐にわたっている。ここで取り上げるのはあまり馴染みのない「読本」である。「読本」とは文字中心の物語をいうのだが、現在からするととても読みにくい。それはその内容にもよっている。「読本」は小説なのだが、その内容は多く中国の白話小説と呼ばれるものによっていて、ほとんどが伝奇的な内容を持っている。もちろんこうした内容を持っている小説は現代でも書かれているし、読まれている。現代風に言えば歴史ファンタジーといったところだろうか。しかし、こうした内容の小説が苦手なのだ。これはいわゆる現代文学、特に純文学というものに毒されてしまったからだろう。しかし、こうした伝奇的な話は日本文学において古くから大きな部分を占めている事も確かだ。それは今昔物語に至る古代からこの江戸時代の読本にいたる長い歴史を持っているとも言える。しかもそれが現代の大衆小説の世界に連なっている。決して看過できないジャンルなのだ。では内容をざっと紹介しておくことにする。

『繁野話』

 都賀庭鐘という人物になる作。5巻あり、5巻目は上下巻がある。明和3年、1766年に刊行されたという。9篇の物語が収められている。多くは中国の白話小説等を翻案した奇談集と言えるが、日本の話を下敷きにしたものもある。各話の内容をざっと紹介しておく。

第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」
 僧が物の精霊と問答するという話。雲を相手にその形状や属性を聞き出すという話だが、これも古く中国にあったらしい。
第二篇「守屋の臣残生を草莽に引話」
 上古の物部氏と蘇我氏の廃仏を巡る論争が題材。江戸期においてもこの論争は儒教対仏教という形をとって再び巻き起こっていたようだ。
第三篇「紀の関守が霊弓一旦白鳥に化する話」
 人妻の男女関係の話。今昔物語と中国の話を融合。教訓で終わる。人妻が結局男を手玉に取っていたという結末。
第四篇「中津川入道山伏塚を築しむる話」
 南北朝時代の歴史についての議論。小説と言うより歴史評論。これも江戸時代盛んに行われていたようだ。
第五篇「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」
 隠れ神を滅亡させる話。中国の小説の翻案のようだが、白菊という女性の役割が大きく描かれている。
第六篇「素卿官人二子を唐土に携る話」
 日本と中国を往来し騒動を起こした素卿という中国の人物の話。謡曲の「唐船」にもある話も取り込む。
第七篇「望月三郎兼舎竜窟を脱て家を続し話」
 甲賀三郎伝説に基づいた話。甲賀三郎は長野県諏訪地方の伝説上の人物。地底の国に迷いこんで彷徨い、後に地上に戻るも蛇体となり諏訪の神となったという。
第八篇「江口の遊女薄情を恨て珠玉を沈る話」
 現代の中国でも有名らしい優柔不断な美男子と美しさだけでなく侠気もある遊女の話の翻案。
第九篇「宇佐美宇津宮遊船を飾て敵を討話」
 南北朝の南方の活躍をのべた軍段。南北朝が合一したあとの南方の残党の話。

『曲亭伝奇花釵児』

曲亭馬琴の初期読本の一つ。
馬琴は読本の代表的作家。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』で夙に有名。
読本の多くと同様これも中国の伝奇小説からの翻案。中国清時代の戯曲の作者、李笠翁という人の『笠翁伝奇十種曲』、「玉掻頭伝奇」がネタ本であるとのこと。従ってこれも歌舞伎の台本のような体裁をとっている。しかし分量は多くなく、かなり圧縮・割愛しているようだ。内容は原本では明の皇帝武宗を巡る権力争いとそれを彩る女性たちの話と概括できるが、ここでは時代を室町時代にとり、武宗は足利義輝となっている。これは江戸時代の話の常套手段といってよく、例の忠臣蔵も時代を室町時代に設定している。また、幾つかの改変があるようでそこに馬琴の趣旨が伺えるのかもしれない。ただ、ざっと見ただけではそれはわからない。

『催馬楽奇談』

 小枝繁という人物の作になる読本の一つ。これも馬琴のように浄瑠璃に材を求めた物という。題材は軍記物語の『源平盛衰記』の鹿谷密謀事件にとっている。それに浄瑠璃「恋女房染分手綱」という作品の趣向を取り入れているという。この時代の時代小説のパターンらしい。この作者には伝説物読本である『松王物語』や史伝物読本の『小栗外伝』などがある。

『鳥辺山調綫』

 歌舞伎の演題に「鳥辺山心中」というのがある。これは「江戸から京に上った菊地半九郎は、まだ初心な遊女お染と愛し合うが、ふとした言い争いから親友の弟を殺してしまう。切腹しようとする半九郎は、お染の純真な想いにほだされ、二人で死出の道行に出る。」という話。この話は当時様々な形で人口に膾炙していたようだ。それを読本にしたのがこの作品。作者は村田嘉言という人物。父は村田春門。当時有名な国学者だったという。ただ、この読本は他と違って「心中」を題材にしているだけに「人情本」的要素が色濃いようだ。ただ、当時の読本の世界では善男善女を心中させるわけにはいかなかったらしい。そこで心中を決心する二人に死後の石塔を注文させるという結末が用意されている。なんとも中途半端な気がするが、読本が持っている時代的な制約なのかもしれない。
 ちなみに現代でも演じられる歌舞伎の「鳥辺山心中」の結末は心中しに行く道行となっている。

2018.04.25
この項了

『日本古典文学総復習』79『本朝水滸伝・紀行・三野日記・折々草』

 再び間が空いてしまった。当初の計画ではとっくに終わっていたはずだが、ようやく79巻目となった。ま、急いでも仕方がない。というより元々急ぐ性格のものでもないからいいのだが、それでも期限を設けないとこうした仕事?もやり通せないことは確かなので、なんとか本年中には終わらせたいと思っている。

 さて、今回は読本(よみほん)というジャンルの作者と言われる建部綾足(たけべあやたり)という人物の作品だ。読本は字の通り「読む」すなわち文章中心の作品をいうが、内容も滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に代表されるように長編の伝奇的な内容を持つものが多かったようだ。ただ、漢文的な要素を多分に持っているためそれほど一般には普及はしなかったと思われる。ここが直前にみた「浮世草子」とは異なる。題材も基本的に中国のものを下敷きに歴史的なものが多くある。ここで読む『本朝水滸伝』も題名してからそれがわかる。
 ただ、この作者、読本作者という枠には到底はまりそうにない人物だ。その生涯をざっと見てみるとそれがわかる。

  • 享保4年(1719年)陸奥国弘前藩家老の次男として、江戸に生まれ、弘前で育った。
  • 元文3年(1738年)20歳、兄久通嫁そねとの情事のため、弘前の家から追われた。その後、俳諧を志し、各地を転々としながら、その道で名を成した。
  • 延享4年(1747年)29歳、江戸浅草に『吸露庵』を構え、俳諧の弟子をとったが、その後も旅を多くした。
  • 寛延2年(1749年)31歳、門人らの援助を得て上方へおもむき、翌年長崎に寄寓して約半年、熊代熊斐と石崎元徳に、南蘋派の画法を学んだ。
  • 宝暦元年(1751年)33歳、大阪に留まり画業で暮らし、翌年江戸へ帰った。
  • 宝暦3年(1753年)35歳、母の勧めで、中津藩主奥平昌敦に仕え、翌年藩命によりふたたび長崎で約1年半、費漢源に山水画、李用雲に墨竹図を学んだ。
  • 宝暦7年(1757年)39歳、遊女の紫苑(号、伎都)と結婚した。翌年中津藩を辞した。
  • 宝暦13年(1763年)45歳、片歌を提唱し、『綾足』の号を用いた。賀茂真淵に入門した。
  • 明和3年(1766年)48歳、歌道の冷泉家に入門した。
  • 明和5年(1768年)50歳、初めての小説『西山物語』を上梓した。京都に住み、片歌と国学とを講義した。
  • 明和7年(1770年)52歳、片歌の祖と考えたヤマトタケルの能褒野陵前に、片歌碑を建てた。花山院常雅から『片歌道守』の称号を得た。京都で万葉集や古今集を講義した。
  • 安永2年(1773年)55歳、『本朝水滸伝』前編京都で刊行。
  • 安永3年(1774年)56歳、旅行中に病み江戸の仮寓に没し、向島弘福寺に葬られた。

(ウィキペディアから一部変更して引用)

『続近世畸人伝』はこの人物を「生涯覚めたるか夢見たるか分からない人だった」と書いているらしいが、その生涯は波乱万丈と言っていいものだし、文学的足跡も俳諧から絵画そして国学的歌学、読本作者と多彩である。そして何よりこの人物が兄嫁との不義をきっかっけに生涯旅にあったということが重要だと思われる。つまりは具体的に一つの場所に留まり続けられない運命を背負っていて、それが文学的にも一つのところに止まりきれないことに繋がっていたと思う。

では収録作品を見て行くことにする。

『本朝水滸伝』

 本家『水滸伝』は明代に成立した伝奇歴史小説の大作だが、これを模したいわゆる「水滸もの」の先鞭をつけた作品。この「水滸もの」は現代でも多く書かれ読まれている。汚職官吏や不正がはびこる世の中を様々な事情で世間からはじき出された好漢たちが、梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結して、やがて悪徳官吏を打倒し、国を救うことを目指すという物語の筋書きは今でも多くの人を魅了するからだ。それはいつの時代も汚職官吏や不正がはびこっていると言うことの証左だが、そうしたものに戦いを挑むことができない庶民の願望を代弁してくれるからだろう。
 この『本朝水滸伝』も古代を舞台にしながら、その時代に権力をほしいままにした僧道鏡に抗して立ちあがった登場人物たちが梁山泊たる伊吹山に潜んで策略を練り戦いを挑むストーリーになっている。ただ、その登場人物たちは歴史的に名を残している具体的な人物、例えば大伴家持や恵美押勝といった人物である。そういう意味では歴史小説的な体裁となっている。しかし、登場人物たちはその名を借りているに過ぎず、作者の創造によっているようだ。後半部には楊貴妃まで登場にいたってはやや荒唐無稽の感を免れ得ないが、これがこの書の面白さと言えないことはない。
 もう一つこの書で注目したいのは、反乱する人物たちの中に現代でいうアイヌの王や東北部の豪族、山岳民と思われる人々が登場することだ。これも作者の創造によるものだとしても、いやだからこそこの作者の見識の広さを感じさせる。ひょっとすると作者が津軽で過ごしたことも関係があるかもしれないし、若い時から定住しない人生を強いられたかもしれない。

『紀行』

 建部綾足は旅の人であった。また、俳諧の人でもあった。となれば紀行文があるのは当然と言える。ここでは短い15編の紀行文が収められている。以下その旅の概略と句を紹介しておく。

     

  •  「笈の若葉」  北陸の旅。     伏せてある鍋は昼なり山桜
  •  

  •  「芦のやどり」 俳人野坡に入門。  旅人の別れはありて麦の秋
  •  

  •  「霜のたもと」 出羽に降る旅。   裾野から降るとも見へで蕎麦の花
  •  

  •  「痩法師」   江戸への旅。    其水に合はでくすりも花の時
  •  

  •  「ちちぶ山」  秩父に滞在。    峰に立ち洞に籠りて夏こだち
  •  

  •  「越の雪間」  金沢に下流る。   夜の雪朝まで見てや高鼾
  •  

  •  「北みなみ」  金沢から伊勢に。  昼顔や酒湯のあとの色にさく
  •  

  •  「梅の便」   奈良から京都へ。  雪折と見へしが咲かで塚の梅
  •  

  •  「かたらひ山」 吉野・初瀬に遊ぶ。 鶯のこごへて明ける桜かな
  •  

  •  「草の菴」   江戸に下る。    初鰹舟の一葉も茂る時
  •  

  •  「ひがし山」  京に上る。     留主に我さはるでもなし散り椿
  •  

  •  「浦づたひ」  長崎から九州の旅。 箱崎や紐とく草の花もなし
  •  

  •  「はながたみ」 長崎から大阪に。  風に添ふ香のかたみや梅の花
  •  

  •  「三千里」   江戸に帰る。    富士の雪里から消すや梅の花
  •  

  •  「小艸録」   中津候に再度伺候。 分入らぬ道迄ゆかしすみれ草

『三野日記』

 これも紀行文の一種か。三野とは下野・上野そして武蔵野らしい。そこを訪れたのは俳諧の宗匠としてだ。この地方はいわば彼の本拠地であったようだ。ここには弟子が多くいて俳諧の宗匠として面目躍如とする場所だったようだ。内容は彼が俳諧というより、賀茂真淵の影響からか「片歌」を推奨する論を張っている。
 「片歌」は辞書によれば、
 上代歌謡の一形式。5・7・7音を基本とする。もともとは短歌または旋頭歌 (せどうか) の上句もしくは下句だけをうたう場合をさしたと考えられる。『古事記』歌謡に 11首,『日本書紀』歌謡に6首 (うち3首は『古事記』歌謡と重複) あるだけであり,風土記歌謡や『万葉集』などにはみられない。独立して用いられた例はなく,問答の一方もしくは双方に用いられるか,他の形式の歌謡と連続して用いられる場合に限られる。後者の場合,1例を除いては一連の歌謡の最後に用いられており,それが本来の形であったと考えられる。
とある。
 これをなぜ彼が推奨したかは必ずしも明確ではないが、俳諧の発句とやや形式が似ていて、古代歌謡の内容を要約する働きから、いわば歌の凝縮した形式と考えたからかもしれない。もう一つは俳諧師として現状の俳諧のあり方に満足していなかったためとも思われる。しかしこの「片歌」は消滅していってしまう。

『折々草』

 これは随筆に分類される作品だが、中身は短編小説風もあり、綾足が全国で見聞したさまざまな話を春夏秋冬の四季の部立の形式でまとめたものである。話は実に多岐にわたっており、以下のようなものがある。
 「江戸の根岸にて女の住家を求ありきし条」とか
 「雪なだれにあひて命をのがれしぬす人の事」とか
 「男を乞ひて死ける女の事」とか
 「伊予の国より長崎にくだる舟路を云条」とか
 「連歌よむを聞て狸の笑らひしをいふ条」とか
 「屁ひり翁をいふ条」といった類である。
 いずれも短い話であるが、いかに彼が全国を歩き、土地土地の話を興味深く聞いたり書き留めたりしたがわかる。こうした書は江戸時代に多く存在するだろうが、綾足の学識と才能、そして好奇心とが、いかにマルチであったが伺えて興味深い。

2018.04.12
この項了

『日本古典文学総復習』78『けいせい色三味線・けいせい伝授紙子・世間娘気質』

 まただいぶ経ってしまった。古典文学ばかり読んでいるとさすがに飽きるので、久しぶりに翻訳物の長編を読んだ。村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーの『水底の女』と言う作品。それもハードカバーの本。こうした本を街の本屋で買ったのも実に久しぶりのことだ。最近はすっかり読書はkindleばかり。活字の大きさを調整できるし、買うのもネットで簡単に済むから一度やると止められいからだ。しかしそれにしても、読書というか出版事情もここのところ大きく変わった気がする。

 さて、今回は江島其磧という人物の浮世草子だ。江島其磧は前回の井原西鶴の後に出た浮世草子の作家。西鶴の焼き直しといった評価が一般的だそうだが、西鶴との違いはまずは作家としての違いにある。すなわち、いわゆる出版が一般化し、出版社が作家を操るという現代の出版事情に近い形ができた後の作家だという点だ。京の八文字屋八左衛門という出版元がリードして作家に売れそうな本を書かせるという形の中で書いていた作家だということになる。
 この人物、京都の富裕な大仏餅屋の4代目だという。裕福な町人として祖父も父も連歌や俳諧を嗜んでいたようだ。そして始め浄瑠璃の執筆をし、そこで書肆八文字屋八左衛門こと自笑という人物に関わり、その依頼で書いた役者評判記『役者口三味線』が大いに当たって作家となったのである。はじめから舞台付きの脚本家のような作家だったわけだ。初期の作品に江島其磧の署名がないのもそんな事情によるようだ。出版元の八文字屋八左衛門が前面に出ていて、その後署名が行われるが、ここに出版元とその作者との確執が窺われるが、この作家が置かれていた立場が西鶴とは全く違っていたということだ。西鶴の焼き直しという評判も、西鶴が評判だっただけに出版元の要求が大いに関係していると思える。
 さて、ではここに収録されている三つの浮世草子を見ていくことにする。

『けいせい色三味線』

元禄14年に八文字屋八左衛門によって刊行された浮世草子。5巻24話ある。其磧浮世草子の処女作ということになる。5巻を京、大坂、江戸、鄙、湊に分け、それぞれの巻頭に遊女名寄(遊女の詳しい名簿)が出され、遊興の種々相が書かれている。これは役者評判記『役者口三味線』の体裁がとられていると言われるが、こうした趣向がリアリティをもたらしている。また、本文の冒頭には「傾城買の心玉」という、遊里での遊びに夢中にさせる憑き物が出てくるが、これに取り憑かれた人々の悲喜劇が描かれているわけだ。ただ、題材も文章も西鶴に拠るところが多いようだ。現代で言えば「剽窃」とも取れそうだが、当時にあっては問題となることはなかったようで、むしろ「西鶴よりわかりやすく、その構成の妙も当時の読者の求めに合致していて、新機軸と相まって、大好評を博した」という。

『けいせい伝授紙子』

 いわゆる忠臣蔵ものの一つ。赤穂浪士の事件は元禄十五年に起きているが、その八年後の宝永七年には浄瑠璃・歌舞伎上演がきっかけとなって赤穂浪士ブームが起きている。そのブームに乗じた浮世草子界の初めての作品だという。これも八文字屋によって同年に刊行されている。
 内容は他のものと同様、時代を室町時代に移し、高師直と塩冶判官の話となっている。ただ、この本は他のものとは違い、浮世草子らしく好色物的色彩が加えられている。高師直は塩冶判官の妻に恋慕し、怒った塩冶は師直に刃傷に及んでしまう。そして切腹させられる。塩冶に鎌田という家臣がいて、その妻に陸奥という女性がいる。この女性がこの物語の主人公である。この陸奥は夫が浪士になってしまったため、遊女となりはてる。しかも質素な紙子姿で勤めていた(これが題名の由来)。ところが、事もあろうに(実は策略)夫たちの宿敵師直に身請けされることになる。これを利用して仇討ちのための敵方の情報を得て、浪士たちを助けるというお話。
 やがて仇討ちが成就してこの女性陸奥は出家し尼となり、色道の談義を行うという話となっている。夫のために仇の妾となって内通する女性を主人公にしたところに妙味がある作品だ。
 こうした忠臣蔵物はこの後様々な人物たちの細部にわたるエピソードを生み、さまざまなジャンルの作品を生んできた。本当に日本人は未だに忠臣蔵が好きなのだ。この浮世草子はその最も早い小説界の反応だった。

『世間娘気質』

 
6巻。享保2年刊。気質 (かたぎ) 物の一つ。驕、悪性、悋気 など当代の娘の気質を16章で描く短編小説集。『世間子息気質 (むすこかたぎ) 』の追加として書かれたもので、ともに井原西鶴の『本朝二十不孝』 (1686) の影響を受けた作と言われている。ただ、前の二つよりは其磧の独自性があるように思われる。現代でも若い娘たちの行動は格好の通俗小説のネタに成るが、遊里という特殊社会の女性ではなく、いわば町人の娘の行動や気質に着目した点が面白い。ここは題名だけを羅列しておくが、その題名からどんな娘たちが登場するか想像できると思う。

「男を尻に敷金の威光娘」
「世間にかくれのなひ寛濶な驕娘」
「百の銭よみ兼たる歌好の娘」
「世帯持ても銭銀より命を惜まぬ侍の娘」
「小袖箪笥引出していはれぬ悪性娘」
「哀なる浄瑠璃に節のなひ材木屋の娘」
「悋気はするどひ心の剣白歯の娘」
「不器量で身を麩抹香屋の娘」
「物好の染小袖心の花は咲分た兄弟の娘」
「器量に打込聟の内証調て見る鼓屋の娘」
「胸の火に伽羅の油解て来る心中娘」
「身の悪を我口から白人となる浮気娘」
「嫁入小袖妻を重ぬる山雀娘」
「傍輩の悪性うつりにけりな徒娘」
「心底は操的段々に替る仕懸娘」
「貞女の道を守刀切先のよひ出世娘」

2018.03.21
この項了

『日本古典文学総復習』76『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』77『武道伝来記・西鶴置土産・万の文反古・西鶴名残の友』

だいぶ間が空いてしまった。ここのところ他の趣味で忙しかったと言い訳しておく。
さて、今回は井原西鶴。これまで西鶴は『好色一代男』『日本永代蔵』を読んできた。また、俳諧集を見ていく中でも登場してきた。しかし、改めてここに収められた作品を読んで、その魅力に感じ入った。まず西鶴の咄はこれまでの説話と違って、余計な外側からの思想がない。儒教的な倫理、仏教的な説教、そうした物が一切なく、ただ現実を生きている人間達のあくなき興味のみが窺えるのがいい。「金」や「色」といった欲望に翻弄される現世を生きる人間達を面白がって見つめる作家の目だ。いかに江戸時代の元禄期が成熟した社会になりつつあったが窺えるといってもいい。
では、ここに納められた西鶴作品を一通り紹介する。

『好色二代男』

正しくは『諸艶大鑑』。1684年(貞享1)に刊行される。西鶴の処女作『好色一代男』の好評から、一代男世之介の遺児世伝(よでん)が登場することもあり、当時から世間一般にこの題名が流布していた。ただ、形式は巻一から巻八までそれぞれ独立した話題を展開する五つの短編があつめられている全40話の短編集ということになる。内容は題名にあるように、諸国の遊里における遊興の諸相や遊女の生き方や心情が描かれている。また遊里に通う男の生態も描かれている。
「人間は欲に手足の付たる物ぞかし」という言葉があるように、西鶴はいわば生身の人間の欲がはっきり現れる遊里を舞台に当時の人間の実相を描いたと言える。

『西鶴諸国ばなし』

題名にある通り、西鶴による全世界的な説話集。1685年(貞享2)1月、大坂・池田屋三郎右衛門により刊行された。5巻5冊。自序に、「世間の広き事国々を見めぐりてはなしの種を求め」たとあるように、諸国の珍しい話、変わった話を集めている。ここでいう諸国とは日本各地という意味を超えて、中国の話も含まれる。前にみた『牡丹燈記』を翻案した浅井了意の『伽婢子』を受ける怪異譚があったりする。また、各巻の題名の下には「知恵・不思議・義理・慈悲・音曲・長生・恨・因果・遊興・報・仙人」などの見出語があって、その内容を簡潔に示している。各巻にはそれぞれ7つの「はなし」があり、全35話
の短編集ということになる。
このいわば説話集は中世期の説話集とちがって、仏教的な価値観や儒教的な価値観に収斂させることはない。「人はばけもの世にない物はなし」とあるように、そこにはあくまでも当世を生きる生身の人間の面白さ、意外さに対する西鶴の生き生きとした興味のみがうかがえる。

『本朝二十不孝』

1686年(貞享3)刊。5巻20話。改題本に『新因果物語』とある。中国の『二十四孝』を逆手にとって20の不孝譚を集めたもの。江戸時代は儒教道徳が公式な道徳規範だったが、その中で「孝」はもっとも庶民が守るべき規範であった。具体的には1683年(天和3)5代将軍徳川綱吉により発令された忠孝令があり、その後もその高札が掲げられ続けた。これに対するに西鶴は「孝にすすむる一助」とはいっているものの、真逆を行く「不孝」者を描くこと自体に面白さを求めたといっていい。不孝者を戒めるとか、孝行を薦めるとかそんなつもりは全くなかったと言える。現世の人間の姿を「不孝」者の中に求め、儒教道徳とは遠いところで生きる人間にたいする生き生きとした興味がうかがえる。

『武道伝来記』

1687年(貞享4)4月、江戸・万屋(よろずや)清兵衛、大坂・岡田三郎右衛門より刊行された。八巻八冊。副題に「諸国敵討」とあるように、北は奥州福島、南は薩摩に及ぶ復讐譚32話を集めたものである。ここは武士がモデルで、これまでの町人とは違った倫理の中で生きる人間を「仇討ち」という武士社会の最もシンボリックな事件を通して描いている。幾つかは実際の仇討ち事件をモデルにしているようで、西鶴のルポルタージュ作家としての面目がうかがえる。もちろん西鶴は町人に属する人間だが、その町人から当時の支配階級たる武士がどう見えたかも知ることができ興味深い。ただ、ここにも西鶴の現世の人間に対する飽くなき興味があり、町人も不孝者も仇討ちする武士もされる武士も西鶴にとっては現世を生きる同じ人間だという認識がうかがえる。

『西鶴置土産』

1693年(元禄6)8月に西鶴が52歳で没したあと、同年の冬に北条団水の編集により遺稿集として刊行されたという。ここには西鶴が書いてきた「金」と「色」の世界の「負」の面の物語が集められている。遊里はまさに「金」が物言う世界だ。「金」がなければ「粋」も「洒落」もできはしない。ここに登場する人物達はかつてはお大尽だったが、やがて遊里に搾り取られ、零落してしまった人物達だ。
何もかも底をついてしまった身でありながら遊び仲間に見栄を張り続け男たち、息子から勘当されてもなお悪所狂いはやめられず、遺産目当てに息子の死ぬを待つ親仁といった人物達が5巻15章で語られている。
「世界の偽かたまってひとつの美遊となれり」
とあるように、遊里は「嘘」で支えられた世界。しかし、一旦その世界にはまると
「昔より女郎買のよいほどをしらば、此躰迄は成果じ」
と言うようにとことん身を滅ぼすまで「わかちゃいるけどやめられない」世界なのだ。西鶴はここに人間の浅はかさを見ているようだが、決して達観した姿勢は見せてはいない。ここにも現世の人間の諸相を興味ぶかく、いわば「おもしろがって」見ている西鶴がいる気がする。

『万の文反古』

1696年(元禄9)1月、西鶴の第四遺稿集として門人北条団水が5巻5冊に編集し、京都・上村平左衛門、大坂・雁金屋庄兵衛、江戸・万屋清兵衛より刊行された。張貫の女人形をつくる職人が、材料の紙くずのなかからみつけだしたという趣向で、20編の手紙を紹介し、それに短いコメントを付けるという趣向のいわば書簡体小説集。他人の私信を読むという興味が、その私信を書く人物と受け取る人物の人生を想像させる。もちろんそこにある私信は西鶴の創造だろうが、ここにも様々な人生への飽くなき興味が伺える。「万の」とあるようにそこには町人・武士・遊女といった様々な人物が登場する。そしてその人物達の心の奥底を想像させることによって、現世を生きる人間の姿を描こうとした西鶴の新しい試みを見ることができる。

『西鶴名残の友』

これも門人北条団水による遺稿集。最後の遺稿集だ。これまで見てきた物とちがって、ここでは俳諧師西鶴が登場している。西鶴はまさに俳諧師であった。いやあり続けた。しかも芭蕉らの蕉風俳諧とは異なる談林派に俳諧師だった。俳諧は当時連歌風に傾いていったようだ。本当は連歌を笑いや俗でパロディー化するところに俳諧の妙味があったはずだ。それが談林派だが、西鶴は晩年までそれにこだわったようだ。この書はそうした思いから、古今の俳人・俳諧師達を登場させ、それらの人々の逸話・奇談を中心に自身の俳談・漫談・手記を交え、笑いの中で語っている。西鶴はこれまで見てきたように咄を多く書くようになったが、その本質は「笑い」をキーにする談林派の俳諧師であったことを改めて思い起こさせる。

2018.03.05
この項了

久しぶりに木工の話題

久しぶりに木工をやることに。ここのところ寒いのでなかなかお庭木工とはいかずサボっていたが、娘の依頼で絵の額を作ることに。
娘が冬に家族でハワイに行って現地の絵を買ってきたというので、この依頼となった。
当たり前の額ではつまらないと思って、ずいぶん以前に師匠からもらったモッコクの皮付きの板があったことを思い出し、作ることに。
そのプロセスを一応書き留めておく。
まずは材料。ヒノキの端切とモッコクの皮付き板。これらを一応カンナがけで同じ暑さに揃えた。一見モッコクは固そうだが以外にうまくカンナがかかった。

絵をはめる枠には余ったヒノキを使うことに。これは難しくない。

肝心な額の表面は結構難しかった。きちんとしていない板を使うので、中で直角を取って、45度で合わせるのが結構苦労した。

板を重ねて肯定し、留定規を当てて切断することで結構うまくいった。

あとは45度の部分を接着して、裏側に枠を同じく接着して完成。細かいところは裏の板を抑える為の溝を彫ったり、額を立てるために棒を挿す穴を彫ったり、板を磨いたりする。
最後にサンドペーパーで磨いて、オイルをかけて納品。

2018.02.23