『日本古典文学総復習』82『異素六帖・古今俄選・粋宇瑠璃・田舎芝居』

 また、一ヶ月空いてしまった。江戸文学は半専門なのだが、ここで取り上げられている作品はほとんど初見だ。それだけ時間がかかってしまう。
 さて、江戸文学の要素の大きな一つが「笑」である。ここで取り上げる作品群もその範疇に入る。いわゆる「滑稽本」である。ただ、こうした分類は必ずしもはっきりした区分けにはなっていない。「洒落本」というジャンルもあるが、その範疇に入れてもいいかもしれない。最初に取り上げる『異素六帖』と言う作品も江戸板洒落本の出発点とみなされるが、また江戸板滑稽本の祖という位置づけもされる作品だ。
 ではこの時期の滑稽本の特徴はどんなところに求められるだろうか?現代の「笑」とは実に趣を異にする。どちらかというと現代語でいえば「パロディ」といったほうがいい。現在日本ではこの「パロディ」というのが全く影を潜めているように思う。いやそれどころか「笑」が文学の中にはもはや存在しなくなっているようにも思われる。それはなぜか?それは「パロディ」が成立する条件がなくなってしまったからのように思われる。
 「パロディ」が成立するのはその元がよく知られている必要があるのは言うまでもない。「笑」とはおよそ縁遠い「元」があってはじめて「パロディ」は成立する。2番目に登場する『唐詩笑』がその典型である。もちろんこれは『唐詩選』のパロディだ。『唐詩選』がよく知られていてこそパロディが成立する。一般化すれば、「パロディ」は古典的教養の基盤がなければ成立しない。すなわち現代はそれが失われてしまっている。
 そういう意味でこの時期の滑稽本は教養人の文学ということになるが、こうした人々(作者と読者)には共通の教養があった気がする。実際、この時期の滑稽本の作者たちはかなりの教養人だった。無教養が蔓延し、真面目くさったことしか言えない余裕のない窮屈な社会では「笑」の文学は成立しないということかもしれない。

 さて、ではここに納められた八つの作品を見ていくことにする。

『異素六帖』

 『唐詩笑』の方法をそっくり踏襲したもので、舞台を吉原に定めて、『唐詩選』に加え「百人一首」まで用いたパロディ。
例えば

揚屋の紙屑籠
積雪浮雲端
不二の高嶺に雪はふりつつ
積雪は紙のおほくて白きかたちなり。閨中にて ふ ふ ふうふう うんうんうんうんといふうちに陰陽の外しる人なき味あり。その端みな此積雪となる。

といった具合。これは解説はいらないか。男女の営みに「紙」は必需品?

『唐詩笑』

 まさに『唐詩選』のパロディ。
二つだけ引く。

張若虚
夫妻交接事畢ル。スワチソノ淫具ヲ捏リ曰ク、「コノ物高致妙妙。「春江花月ノ夜」ニ「玉戸簾中巻ケドモ去ラズ」」
夫妻交接事畢。乃捏其淫具曰、此物高致妙妙。春江花月夜玉戸簾中巻不去。

張九齢
夫妻皆唐詩選ヲ読ム。雲雨ノ時ニ及ンデ微吟シテ曰ク、「樹ハ揺カス金掌ノ露、庭ハ接ス玉楼ノ陰」。妻コレヲ和シテ曰ク、「寧思ハンヤ窃ニ抃ツ者、情発スルハ知音ノ為ナリ」。
夫妻皆読唐詩選。及雲雨時微吟曰、樹揺金掌露、庭接玉楼陰。妻和之曰、寧思窃抃者、情発為知音。

 二つとも男女の夜の営み。「夫妻交接」はあからさまだが、「雲雨ノ時」も同じ意味。「淫具」「金掌」は男性の一物、「玉楼ノ陰」は女性の物だと解説しておけばわかるはず。「春江花月夜玉戸簾中巻不去」が張若虚の詩句であり、「樹揺金掌露、庭接玉楼陰」「寧思窃抃者、情発為知音」は張九齢の詩句。全く中身が違って読めるから面白い。あまり詳しく解説してしまうと下品になっていけない。

『雑豆鼻糞軍談』

 これはパロディというよりは全くのナンセンスな創作といっていい。題材は一応歴史上の人物らしき者が登場するし、実際にあった歴史上の事件のようだが、全くそうした事に基づいていない。前の2作には所謂「断章取義」という形があるが、これは言ってみれば「こじつけ」となる。これを拡大すると全く違った話になってしまう。この作はこうした一例のようだ。序に言う。

 さるによって此一書は、いつその事にあたまから相手にならぬ分別のまじりまめはなくそぐんだんとは
   幕に矢の ふふはりうけし 春の風

『古今俄選』

 これは謂わばパロディ集。まずはその序からして『古今和歌集』仮名序の完全なパロディと成っている。引用書目として挙がっているのは、『史記』や『詩經』といった漢籍から『太平記』『源平盛衰記』といった日本の古典まで10以上の古典である。そしてこの「俄」というのが、大阪での夏祭りの際に行われていた素人による笑劇のことらしい。それを台本の形にして掲載しているのがこの書だ。素人による笑劇といっても、もちろんやっていたのは教養人たちである。劇という形をとる為か、浄瑠璃や歌舞伎のパロディも多く含まれている。ただ、今読むと悲しいかな元がわからない為か良く納得できない。こうした点が、江戸の滑稽文学が読まれなくなった原因かもしれない。

『粋宇瑠璃』

 「くろうるり」と読む。徒然草に「しろうるり」というのが出てくる。

この僧都、ある法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは、何物ぞ」と、人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける

とある。文章からも語義はよくわからないが、一説に白痴で鈍(うる)けた意ともいう。徒然草では人の顔の形容としているが、いずれにしても褒められたものではない。その「しろ」を「くろ」として「粋」の字を当てている。「くろ」は「玄人」に通じる。ということは実はこの書、「粋人」批判の書ということになる。批判というよりは、当時の流行を牽引していた「粋」を遣う連中を「うがった」ということらしい。当時の教養人気取りの連中を「粋遣ひ(すいつかい)」といって、彼らのやっていることをあげつらって面白がっている。しかし、これも難解の書だ。

『絵兄弟』

 山東京伝の書。俳人其角の『句兄弟』のもじり。京伝は始め絵師であったようだ。一対の見立絵を置いて何事かを述べるという形をとっている。後半は文章のみだが、やはり見立絵の部分が面白い。この見立絵というのはたとえば十五番にある「女達磨」のように、十年年期の遊女を九年面壁の達磨に見立てるといった画題である。これは画像を見ていただく。

『田舎芝居』

 これまでの作品と違って、舞台が越後大沼郡の実在の村となっていて、農閑期の旅芝居の様子が描かれている。またこれまでの洒落本の傾向の「うがち」を真っ向から否定し、ひたすら滑稽味を出そうとした作品。まあ、どたばた喜劇といった様相で、作者も「洒落本に非ず実は野天本也と自称している。序文の中で

 洒落本の洒落を見て洒落る洒落は、洒落た所が洒落にもならねば、只可笑を専とすべし

とある。その翌年刊行されその後も評判となった十返舎一九の『浮世道中膝栗毛』の先駆けとされる作品でもある。

『茶番早合点』

 「茶番」はもともと茶の番すなわちお茶汲みの当番の事をいうが、江戸の歌舞伎小屋では大部屋の下級役者の仕事であったという。その役者が工夫を枯らして余興を見せた。それが今の意味にもなっている。要するに見え透いたおふざけという意味だ。
 ただ、ここでいう「茶番」は江戸で行われた素人の座敷芸を指す。しかも観客や仲間に景品を出すのが必須で、最後のオチに引っ掛けって景品を出すという趣向だったらしい。この書はその「茶番」の式亭三馬による解説書ということだ。オチも上方のボケとは違って、かなり技巧的かつ知識的だったようだ。これも江戸の「笑」が教養人的だった証左だが、解説書が書かれ、それを勉強するという所にもそれがうかがえる。

 しかし、それにしても「笑」がストレートにこないのはこちらの教養不足ってことでしょうかね。

2018.06.12
この項了

『日本古典文学総復習』81『田舎荘子・当世下手談義・当世穴さがし』

 江戸時代に「談義本」というジャンルがある。これは江戸時代中期の戯作の一種だが、いわゆる滑稽本の先駆をなしたとされている。しかし内容は滑稽本とは異なっている。その祖先は仏教徒による談義にある。すなわち談義僧という仏教徒が仏教の教義をわかりやすく話をするという仏教談義だ。その談義僧の口調を真似て活字化したものが「談義本」ということになる。したがってはじめは滑稽を狙うというより、もっと教訓的な色彩が強かったようだ。しかし、庶民にもわかりやすくするために題材を当時の風俗に求めたため、やがて教訓臭が薄まり滑稽化していったようだ。
 もう一つこの談義本が流行したのは江戸中期の支配層の要求もあったようだ。江戸中期になると社会が安定し、商業化が進み市民生活が爛熟してくる。そうなると庶民への教化策が必要になってくる。もちろんそれは当時の支配原理たる儒教道徳による教化策だ。そうした支配層の要求にかなったのもこの談義本である。動物の問答を通して老荘の儒教的解釈を語ったり、狂俳文という形をとって死生観を語ったりする初期の談義本にはそうした色彩が強いようだ。
 ではここに収められている各作品を見ていくことにしよう。

『田舎荘子』

 談義本の嚆矢と言われる作品。享保12 (1727) 年刊。著者は佚斎樗山という人物。本編が上中下巻の3巻と付録1巻。外篇が6巻からなる。ここは本編と付録1巻が収められている。内容は動植物の対話をもって、老荘思想を元に教訓を伝えるというものとなっている。以下がその内容。

上巻 雀蝶変化・木兎自得・ケン蛇疑問・鴎蝣論道・鴨鷯得失・鷺鳥功拙
中巻 菜瓜夢魂・蟇之新道・古寺幽霊・蝉蛻至楽・貧神夢会
下巻 荘右衛門が伝・猫の妙術・荘子大意
付録 鳩之発明

 最後の「鳩之発明」も雉と鳩との問答の形をとっている。雉が鳩に対して「お前はなんでなんの警戒もなく人間の間に気楽に居られるんだ。」と言う。「自分はいつ捕まって喰われるかもしれないからいつも警戒して暮らしているのだ。」と。それに対し鳩は「自分だって警戒はしているし、捕らえられないような術は心得ている。しかし、山奥に暮らしていたって危険はあるし、やがて死は訪れるものだ。」とする。すなわち

「何方に居たればとて、命数来れば、遁るる所なきは、死の道也。」

とする。人間とて様々な災厄を恐れて何かと騒いでいるが、むしろ人間自身がその災厄を作り出しているようなものだとする。すなわち

「禅家にいへる事有、『元来地獄なし。衆生みづから地獄を作て、我と、此に、堕在す』と。汝が地震にさわぎ、うろたゆるも此類なり」。

と。
 こうした思想は儒教的というより老荘的である。しかも日本固有の死生観にもよっているように思う。

『労四狂』

 自堕落先生の「狂俳文」ともいうべき文章とされている。『労四狂』はもちろん「老子教」のもじりである。近世中期の「徒然草」と言うべき内容をもった作品で作者の死生哲学とでも言うべきものが述べられている。序に言う。

 「智者は智に狂ひ、愚者は愚に狂ふ。智者の智に狂ふは、愚者よりも病をもし。且得と失との地を審にせむと欲して、労し狂ふ者、又あり。其の狂ふと自ら知て狂ふ者有り。知らずして狂ふ者あり。庵主の爰に記するこもごも也。医薬の及ぶべからざるのみ也。憐むべし、憐れむべし。各死して後癒べし。狂なる哉、狂なる哉と、口をあき手をたたきて、十無居士北華序。」(一部変更)

 すなわち人間が一生をおくる上で必ずつきまとう苦労、その結果として必ずとりつかれる心の病としての「狂」ということが述べられている。智者は智に狂い、愚者は愚に狂い、その狂うと知って狂う者、知らずして狂う者、その症状はこもごも四つあるという。これが「労四狂」というわけだ。こうした人生哲学は本家『徒然草』にも語られているが、もっと徹底している気がする。こうした労苦を遁れるにはもう「死」しかないと言う事になるが、これを逆転すると享楽が見えてくる気がする。ペンネーム「自堕落」は韜晦だけではないのかもしれない。

『当世下手談義』

 「いまようへただんぎ」と読む。宝暦2年(1752年)江戸で刊行される。5巻5冊ある。1752年(宝暦2)江戸刊。作者は静観坊好阿(じょうかんぼうこうあ)という人物。もともとは享保の改革の意図を汲んだ庶民教化のための談義本。しかし、題材を当時の江戸の風俗にとり、江戸言葉を採り入れた文章は最初の江戸小説と言われ、仏教的な内容はない。そうした意味でも滑稽本の先駆けとも言える作品。歌舞伎、町人の身持、葬式のぜいたく、開帳、きおい組、虚説の流行、豊後節などが取り上げられ、それらを批判する形をとっているが、むしろ其の事が当時の江戸の風俗を活写する事になっている。
 また、解説によればこの書は3度目で当時の検閲をやっと通ったという。(通った時吉宗は死去している。)改革の意図を汲んだ庶民教化の書なのに妙だが、これも取り上げた題材による所が大きいと言えそうだ。豊後節は当時心中を美化するという名目で弾圧を受けたというから、それを取り上げる事自体問題視されたのかもしれない。ただ、それもこの書が当時から受け入れられた要因でもあったようだ。ようやく爛熟期にはいった江戸文化(上方文化に対する)の風俗を江戸言葉で活写したところにむしろこの書の魅力があったのかもしれない。

『当世穴さがし』

  豆男と言うのが主人公。この豆男は八文字屋本の好色物の主人公として人気を博したという。春信の春画にもなっている。この豆男が業平の霊夢に自由自在の身を得て、当時市中に流行した様々な風俗を取り上げて其の行き過ぎを批判するというストーリーとなっている。以下がその展開。

 壱の巻「豆男夢占の吉左右」「三味せんの流行」
 二の巻「琵琶が教訓の弁」「さがの釈迦もん答」
 三の巻「いけ花の立聞」「揚弓の高慢」
 四の巻「聖廟の神勅 付り はいかい点取の弁」
 五の巻「乗合舟の日記」「筒屋の夜話」「万度御はらいの託せん」

 ここに語られている流行がどの程度まで江戸市民に行きわたっていたかは定かではないが、もしこの書が語る事がある程度真実ならばこの時代の江戸はかなりな文化程度だったと想像できる。朱子学や徂来学といった学問の先端まで他の芸事と並んで流行現象として取り上げられている所にもそれがうかがえる。江戸文化恐るべしといった所だ。

『成仙玉一口玄談』

 「じょうせんだまひとくちげんだん」と読む。この題名からしてよくわからない。「一口玄談」は一気に語る霊妙な話ということだろう。「成仙玉」とは何か。仙人に成るための玉という事だろうか?この書の末尾近くに次の言葉がある。

「かの成仙玉は汝等諸人の赤肉団上にありて、是を清浄本然真一と号く。云々」

「真一の水精玉を見つけ了れば、是を実の仙人といふ。此玉を見る者は、仙道を成就するを以て、仮に名づけて成仙玉といふ。云々」

 すなわち、仙人になるためのものは人間自身に備わっているもので、凡夫はそれに気づいていない。それに気づきさえすれば仙人になれるとする。
 実はこの話、やたらと女好きの漁師が天上の遊女を女房にしたところから始まっている。しかしその後、雷に奪い返されてしまう。そこで漁師は天上の遊女が忘れていった羽衣を着て雷を追いかける。そしてなんと東風に乗って遥か南のハラシリア(今のブラジル)に行ってしまうというのだ。この荒唐無稽な設定が神仙談そのものだが、当時の世界認識が意外に広かった事が伺えて興味深い。(宝永5年・1708年の「増補華夷通商考」にある「地球万国一覧之図」は現代の世界地図とほとんど変わりがない。)
 そして最後にはブラジルで出会った和荘兵衞という人物とともにこの漁師も守一仙人の導きで「実の神仙」となるというところで話は終わっている。
 この書の作者、文坡という人物ははじめ仏教説話の作者だったようだ。後に神仙教に鞍替えし、教祖のような存在となり、そのプロパガンダのためにこの作品を書いたようである。神仙教は中国の道教の影響を受け、また老荘思想とも絡まり、日本の伝統思想とも絡まって江戸時代に流行したようだ。現代からすれば怪しい思想のように思われ、見捨てられているが、日本の思想を考える上で一顧の必要はあるように思われた。

2018.05.10
この項了

『日本古典文学総復習』80『繁野話・曲亭伝奇花釵児・催馬楽奇談・鳥辺山調綫』

 このプロジェクト?ようやく80巻までたどり着いた。ここのところやや難渋している。それは対象がわかりにくいのだ。江戸期の文学は多岐にわたっている。ここで取り上げるのはあまり馴染みのない「読本」である。「読本」とは文字中心の物語をいうのだが、現在からするととても読みにくい。それはその内容にもよっている。「読本」は小説なのだが、その内容は多く中国の白話小説と呼ばれるものによっていて、ほとんどが伝奇的な内容を持っている。もちろんこうした内容を持っている小説は現代でも書かれているし、読まれている。現代風に言えば歴史ファンタジーといったところだろうか。しかし、こうした内容の小説が苦手なのだ。これはいわゆる現代文学、特に純文学というものに毒されてしまったからだろう。しかし、こうした伝奇的な話は日本文学において古くから大きな部分を占めている事も確かだ。それは今昔物語に至る古代からこの江戸時代の読本にいたる長い歴史を持っているとも言える。しかもそれが現代の大衆小説の世界に連なっている。決して看過できないジャンルなのだ。では内容をざっと紹介しておくことにする。

『繁野話』

 都賀庭鐘という人物になる作。5巻あり、5巻目は上下巻がある。明和3年、1766年に刊行されたという。9篇の物語が収められている。多くは中国の白話小説等を翻案した奇談集と言えるが、日本の話を下敷きにしたものもある。各話の内容をざっと紹介しておく。

第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」
 僧が物の精霊と問答するという話。雲を相手にその形状や属性を聞き出すという話だが、これも古く中国にあったらしい。
第二篇「守屋の臣残生を草莽に引話」
 上古の物部氏と蘇我氏の廃仏を巡る論争が題材。江戸期においてもこの論争は儒教対仏教という形をとって再び巻き起こっていたようだ。
第三篇「紀の関守が霊弓一旦白鳥に化する話」
 人妻の男女関係の話。今昔物語と中国の話を融合。教訓で終わる。人妻が結局男を手玉に取っていたという結末。
第四篇「中津川入道山伏塚を築しむる話」
 南北朝時代の歴史についての議論。小説と言うより歴史評論。これも江戸時代盛んに行われていたようだ。
第五篇「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」
 隠れ神を滅亡させる話。中国の小説の翻案のようだが、白菊という女性の役割が大きく描かれている。
第六篇「素卿官人二子を唐土に携る話」
 日本と中国を往来し騒動を起こした素卿という中国の人物の話。謡曲の「唐船」にもある話も取り込む。
第七篇「望月三郎兼舎竜窟を脱て家を続し話」
 甲賀三郎伝説に基づいた話。甲賀三郎は長野県諏訪地方の伝説上の人物。地底の国に迷いこんで彷徨い、後に地上に戻るも蛇体となり諏訪の神となったという。
第八篇「江口の遊女薄情を恨て珠玉を沈る話」
 現代の中国でも有名らしい優柔不断な美男子と美しさだけでなく侠気もある遊女の話の翻案。
第九篇「宇佐美宇津宮遊船を飾て敵を討話」
 南北朝の南方の活躍をのべた軍段。南北朝が合一したあとの南方の残党の話。

『曲亭伝奇花釵児』

曲亭馬琴の初期読本の一つ。
馬琴は読本の代表的作家。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』で夙に有名。
読本の多くと同様これも中国の伝奇小説からの翻案。中国清時代の戯曲の作者、李笠翁という人の『笠翁伝奇十種曲』、「玉掻頭伝奇」がネタ本であるとのこと。従ってこれも歌舞伎の台本のような体裁をとっている。しかし分量は多くなく、かなり圧縮・割愛しているようだ。内容は原本では明の皇帝武宗を巡る権力争いとそれを彩る女性たちの話と概括できるが、ここでは時代を室町時代にとり、武宗は足利義輝となっている。これは江戸時代の話の常套手段といってよく、例の忠臣蔵も時代を室町時代に設定している。また、幾つかの改変があるようでそこに馬琴の趣旨が伺えるのかもしれない。ただ、ざっと見ただけではそれはわからない。

『催馬楽奇談』

 小枝繁という人物の作になる読本の一つ。これも馬琴のように浄瑠璃に材を求めた物という。題材は軍記物語の『源平盛衰記』の鹿谷密謀事件にとっている。それに浄瑠璃「恋女房染分手綱」という作品の趣向を取り入れているという。この時代の時代小説のパターンらしい。この作者には伝説物読本である『松王物語』や史伝物読本の『小栗外伝』などがある。

『鳥辺山調綫』

 歌舞伎の演題に「鳥辺山心中」というのがある。これは「江戸から京に上った菊地半九郎は、まだ初心な遊女お染と愛し合うが、ふとした言い争いから親友の弟を殺してしまう。切腹しようとする半九郎は、お染の純真な想いにほだされ、二人で死出の道行に出る。」という話。この話は当時様々な形で人口に膾炙していたようだ。それを読本にしたのがこの作品。作者は村田嘉言という人物。父は村田春門。当時有名な国学者だったという。ただ、この読本は他と違って「心中」を題材にしているだけに「人情本」的要素が色濃いようだ。ただ、当時の読本の世界では善男善女を心中させるわけにはいかなかったらしい。そこで心中を決心する二人に死後の石塔を注文させるという結末が用意されている。なんとも中途半端な気がするが、読本が持っている時代的な制約なのかもしれない。
 ちなみに現代でも演じられる歌舞伎の「鳥辺山心中」の結末は心中しに行く道行となっている。

2018.04.25
この項了

『日本古典文学総復習』79『本朝水滸伝・紀行・三野日記・折々草』

 再び間が空いてしまった。当初の計画ではとっくに終わっていたはずだが、ようやく79巻目となった。ま、急いでも仕方がない。というより元々急ぐ性格のものでもないからいいのだが、それでも期限を設けないとこうした仕事?もやり通せないことは確かなので、なんとか本年中には終わらせたいと思っている。

 さて、今回は読本(よみほん)というジャンルの作者と言われる建部綾足(たけべあやたり)という人物の作品だ。読本は字の通り「読む」すなわち文章中心の作品をいうが、内容も滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に代表されるように長編の伝奇的な内容を持つものが多かったようだ。ただ、漢文的な要素を多分に持っているためそれほど一般には普及はしなかったと思われる。ここが直前にみた「浮世草子」とは異なる。題材も基本的に中国のものを下敷きに歴史的なものが多くある。ここで読む『本朝水滸伝』も題名してからそれがわかる。
 ただ、この作者、読本作者という枠には到底はまりそうにない人物だ。その生涯をざっと見てみるとそれがわかる。

  • 享保4年(1719年)陸奥国弘前藩家老の次男として、江戸に生まれ、弘前で育った。
  • 元文3年(1738年)20歳、兄久通嫁そねとの情事のため、弘前の家から追われた。その後、俳諧を志し、各地を転々としながら、その道で名を成した。
  • 延享4年(1747年)29歳、江戸浅草に『吸露庵』を構え、俳諧の弟子をとったが、その後も旅を多くした。
  • 寛延2年(1749年)31歳、門人らの援助を得て上方へおもむき、翌年長崎に寄寓して約半年、熊代熊斐と石崎元徳に、南蘋派の画法を学んだ。
  • 宝暦元年(1751年)33歳、大阪に留まり画業で暮らし、翌年江戸へ帰った。
  • 宝暦3年(1753年)35歳、母の勧めで、中津藩主奥平昌敦に仕え、翌年藩命によりふたたび長崎で約1年半、費漢源に山水画、李用雲に墨竹図を学んだ。
  • 宝暦7年(1757年)39歳、遊女の紫苑(号、伎都)と結婚した。翌年中津藩を辞した。
  • 宝暦13年(1763年)45歳、片歌を提唱し、『綾足』の号を用いた。賀茂真淵に入門した。
  • 明和3年(1766年)48歳、歌道の冷泉家に入門した。
  • 明和5年(1768年)50歳、初めての小説『西山物語』を上梓した。京都に住み、片歌と国学とを講義した。
  • 明和7年(1770年)52歳、片歌の祖と考えたヤマトタケルの能褒野陵前に、片歌碑を建てた。花山院常雅から『片歌道守』の称号を得た。京都で万葉集や古今集を講義した。
  • 安永2年(1773年)55歳、『本朝水滸伝』前編京都で刊行。
  • 安永3年(1774年)56歳、旅行中に病み江戸の仮寓に没し、向島弘福寺に葬られた。

(ウィキペディアから一部変更して引用)

『続近世畸人伝』はこの人物を「生涯覚めたるか夢見たるか分からない人だった」と書いているらしいが、その生涯は波乱万丈と言っていいものだし、文学的足跡も俳諧から絵画そして国学的歌学、読本作者と多彩である。そして何よりこの人物が兄嫁との不義をきっかっけに生涯旅にあったということが重要だと思われる。つまりは具体的に一つの場所に留まり続けられない運命を背負っていて、それが文学的にも一つのところに止まりきれないことに繋がっていたと思う。

では収録作品を見て行くことにする。

『本朝水滸伝』

 本家『水滸伝』は明代に成立した伝奇歴史小説の大作だが、これを模したいわゆる「水滸もの」の先鞭をつけた作品。この「水滸もの」は現代でも多く書かれ読まれている。汚職官吏や不正がはびこる世の中を様々な事情で世間からはじき出された好漢たちが、梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結して、やがて悪徳官吏を打倒し、国を救うことを目指すという物語の筋書きは今でも多くの人を魅了するからだ。それはいつの時代も汚職官吏や不正がはびこっていると言うことの証左だが、そうしたものに戦いを挑むことができない庶民の願望を代弁してくれるからだろう。
 この『本朝水滸伝』も古代を舞台にしながら、その時代に権力をほしいままにした僧道鏡に抗して立ちあがった登場人物たちが梁山泊たる伊吹山に潜んで策略を練り戦いを挑むストーリーになっている。ただ、その登場人物たちは歴史的に名を残している具体的な人物、例えば大伴家持や恵美押勝といった人物である。そういう意味では歴史小説的な体裁となっている。しかし、登場人物たちはその名を借りているに過ぎず、作者の創造によっているようだ。後半部には楊貴妃まで登場にいたってはやや荒唐無稽の感を免れ得ないが、これがこの書の面白さと言えないことはない。
 もう一つこの書で注目したいのは、反乱する人物たちの中に現代でいうアイヌの王や東北部の豪族、山岳民と思われる人々が登場することだ。これも作者の創造によるものだとしても、いやだからこそこの作者の見識の広さを感じさせる。ひょっとすると作者が津軽で過ごしたことも関係があるかもしれないし、若い時から定住しない人生を強いられたかもしれない。

『紀行』

 建部綾足は旅の人であった。また、俳諧の人でもあった。となれば紀行文があるのは当然と言える。ここでは短い15編の紀行文が収められている。以下その旅の概略と句を紹介しておく。

     

  •  「笈の若葉」  北陸の旅。     伏せてある鍋は昼なり山桜
  •  

  •  「芦のやどり」 俳人野坡に入門。  旅人の別れはありて麦の秋
  •  

  •  「霜のたもと」 出羽に降る旅。   裾野から降るとも見へで蕎麦の花
  •  

  •  「痩法師」   江戸への旅。    其水に合はでくすりも花の時
  •  

  •  「ちちぶ山」  秩父に滞在。    峰に立ち洞に籠りて夏こだち
  •  

  •  「越の雪間」  金沢に下流る。   夜の雪朝まで見てや高鼾
  •  

  •  「北みなみ」  金沢から伊勢に。  昼顔や酒湯のあとの色にさく
  •  

  •  「梅の便」   奈良から京都へ。  雪折と見へしが咲かで塚の梅
  •  

  •  「かたらひ山」 吉野・初瀬に遊ぶ。 鶯のこごへて明ける桜かな
  •  

  •  「草の菴」   江戸に下る。    初鰹舟の一葉も茂る時
  •  

  •  「ひがし山」  京に上る。     留主に我さはるでもなし散り椿
  •  

  •  「浦づたひ」  長崎から九州の旅。 箱崎や紐とく草の花もなし
  •  

  •  「はながたみ」 長崎から大阪に。  風に添ふ香のかたみや梅の花
  •  

  •  「三千里」   江戸に帰る。    富士の雪里から消すや梅の花
  •  

  •  「小艸録」   中津候に再度伺候。 分入らぬ道迄ゆかしすみれ草

『三野日記』

 これも紀行文の一種か。三野とは下野・上野そして武蔵野らしい。そこを訪れたのは俳諧の宗匠としてだ。この地方はいわば彼の本拠地であったようだ。ここには弟子が多くいて俳諧の宗匠として面目躍如とする場所だったようだ。内容は彼が俳諧というより、賀茂真淵の影響からか「片歌」を推奨する論を張っている。
 「片歌」は辞書によれば、
 上代歌謡の一形式。5・7・7音を基本とする。もともとは短歌または旋頭歌 (せどうか) の上句もしくは下句だけをうたう場合をさしたと考えられる。『古事記』歌謡に 11首,『日本書紀』歌謡に6首 (うち3首は『古事記』歌謡と重複) あるだけであり,風土記歌謡や『万葉集』などにはみられない。独立して用いられた例はなく,問答の一方もしくは双方に用いられるか,他の形式の歌謡と連続して用いられる場合に限られる。後者の場合,1例を除いては一連の歌謡の最後に用いられており,それが本来の形であったと考えられる。
とある。
 これをなぜ彼が推奨したかは必ずしも明確ではないが、俳諧の発句とやや形式が似ていて、古代歌謡の内容を要約する働きから、いわば歌の凝縮した形式と考えたからかもしれない。もう一つは俳諧師として現状の俳諧のあり方に満足していなかったためとも思われる。しかしこの「片歌」は消滅していってしまう。

『折々草』

 これは随筆に分類される作品だが、中身は短編小説風もあり、綾足が全国で見聞したさまざまな話を春夏秋冬の四季の部立の形式でまとめたものである。話は実に多岐にわたっており、以下のようなものがある。
 「江戸の根岸にて女の住家を求ありきし条」とか
 「雪なだれにあひて命をのがれしぬす人の事」とか
 「男を乞ひて死ける女の事」とか
 「伊予の国より長崎にくだる舟路を云条」とか
 「連歌よむを聞て狸の笑らひしをいふ条」とか
 「屁ひり翁をいふ条」といった類である。
 いずれも短い話であるが、いかに彼が全国を歩き、土地土地の話を興味深く聞いたり書き留めたりしたがわかる。こうした書は江戸時代に多く存在するだろうが、綾足の学識と才能、そして好奇心とが、いかにマルチであったが伺えて興味深い。

2018.04.12
この項了

『日本古典文学総復習』78『けいせい色三味線・けいせい伝授紙子・世間娘気質』

 まただいぶ経ってしまった。古典文学ばかり読んでいるとさすがに飽きるので、久しぶりに翻訳物の長編を読んだ。村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーの『水底の女』と言う作品。それもハードカバーの本。こうした本を街の本屋で買ったのも実に久しぶりのことだ。最近はすっかり読書はkindleばかり。活字の大きさを調整できるし、買うのもネットで簡単に済むから一度やると止められいからだ。しかしそれにしても、読書というか出版事情もここのところ大きく変わった気がする。

 さて、今回は江島其磧という人物の浮世草子だ。江島其磧は前回の井原西鶴の後に出た浮世草子の作家。西鶴の焼き直しといった評価が一般的だそうだが、西鶴との違いはまずは作家としての違いにある。すなわち、いわゆる出版が一般化し、出版社が作家を操るという現代の出版事情に近い形ができた後の作家だという点だ。京の八文字屋八左衛門という出版元がリードして作家に売れそうな本を書かせるという形の中で書いていた作家だということになる。
 この人物、京都の富裕な大仏餅屋の4代目だという。裕福な町人として祖父も父も連歌や俳諧を嗜んでいたようだ。そして始め浄瑠璃の執筆をし、そこで書肆八文字屋八左衛門こと自笑という人物に関わり、その依頼で書いた役者評判記『役者口三味線』が大いに当たって作家となったのである。はじめから舞台付きの脚本家のような作家だったわけだ。初期の作品に江島其磧の署名がないのもそんな事情によるようだ。出版元の八文字屋八左衛門が前面に出ていて、その後署名が行われるが、ここに出版元とその作者との確執が窺われるが、この作家が置かれていた立場が西鶴とは全く違っていたということだ。西鶴の焼き直しという評判も、西鶴が評判だっただけに出版元の要求が大いに関係していると思える。
 さて、ではここに収録されている三つの浮世草子を見ていくことにする。

『けいせい色三味線』

元禄14年に八文字屋八左衛門によって刊行された浮世草子。5巻24話ある。其磧浮世草子の処女作ということになる。5巻を京、大坂、江戸、鄙、湊に分け、それぞれの巻頭に遊女名寄(遊女の詳しい名簿)が出され、遊興の種々相が書かれている。これは役者評判記『役者口三味線』の体裁がとられていると言われるが、こうした趣向がリアリティをもたらしている。また、本文の冒頭には「傾城買の心玉」という、遊里での遊びに夢中にさせる憑き物が出てくるが、これに取り憑かれた人々の悲喜劇が描かれているわけだ。ただ、題材も文章も西鶴に拠るところが多いようだ。現代で言えば「剽窃」とも取れそうだが、当時にあっては問題となることはなかったようで、むしろ「西鶴よりわかりやすく、その構成の妙も当時の読者の求めに合致していて、新機軸と相まって、大好評を博した」という。

『けいせい伝授紙子』

 いわゆる忠臣蔵ものの一つ。赤穂浪士の事件は元禄十五年に起きているが、その八年後の宝永七年には浄瑠璃・歌舞伎上演がきっかけとなって赤穂浪士ブームが起きている。そのブームに乗じた浮世草子界の初めての作品だという。これも八文字屋によって同年に刊行されている。
 内容は他のものと同様、時代を室町時代に移し、高師直と塩冶判官の話となっている。ただ、この本は他のものとは違い、浮世草子らしく好色物的色彩が加えられている。高師直は塩冶判官の妻に恋慕し、怒った塩冶は師直に刃傷に及んでしまう。そして切腹させられる。塩冶に鎌田という家臣がいて、その妻に陸奥という女性がいる。この女性がこの物語の主人公である。この陸奥は夫が浪士になってしまったため、遊女となりはてる。しかも質素な紙子姿で勤めていた(これが題名の由来)。ところが、事もあろうに(実は策略)夫たちの宿敵師直に身請けされることになる。これを利用して仇討ちのための敵方の情報を得て、浪士たちを助けるというお話。
 やがて仇討ちが成就してこの女性陸奥は出家し尼となり、色道の談義を行うという話となっている。夫のために仇の妾となって内通する女性を主人公にしたところに妙味がある作品だ。
 こうした忠臣蔵物はこの後様々な人物たちの細部にわたるエピソードを生み、さまざまなジャンルの作品を生んできた。本当に日本人は未だに忠臣蔵が好きなのだ。この浮世草子はその最も早い小説界の反応だった。

『世間娘気質』

 
6巻。享保2年刊。気質 (かたぎ) 物の一つ。驕、悪性、悋気 など当代の娘の気質を16章で描く短編小説集。『世間子息気質 (むすこかたぎ) 』の追加として書かれたもので、ともに井原西鶴の『本朝二十不孝』 (1686) の影響を受けた作と言われている。ただ、前の二つよりは其磧の独自性があるように思われる。現代でも若い娘たちの行動は格好の通俗小説のネタに成るが、遊里という特殊社会の女性ではなく、いわば町人の娘の行動や気質に着目した点が面白い。ここは題名だけを羅列しておくが、その題名からどんな娘たちが登場するか想像できると思う。

「男を尻に敷金の威光娘」
「世間にかくれのなひ寛濶な驕娘」
「百の銭よみ兼たる歌好の娘」
「世帯持ても銭銀より命を惜まぬ侍の娘」
「小袖箪笥引出していはれぬ悪性娘」
「哀なる浄瑠璃に節のなひ材木屋の娘」
「悋気はするどひ心の剣白歯の娘」
「不器量で身を麩抹香屋の娘」
「物好の染小袖心の花は咲分た兄弟の娘」
「器量に打込聟の内証調て見る鼓屋の娘」
「胸の火に伽羅の油解て来る心中娘」
「身の悪を我口から白人となる浮気娘」
「嫁入小袖妻を重ぬる山雀娘」
「傍輩の悪性うつりにけりな徒娘」
「心底は操的段々に替る仕懸娘」
「貞女の道を守刀切先のよひ出世娘」

2018.03.21
この項了

『日本古典文学総復習』76『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』77『武道伝来記・西鶴置土産・万の文反古・西鶴名残の友』

だいぶ間が空いてしまった。ここのところ他の趣味で忙しかったと言い訳しておく。
さて、今回は井原西鶴。これまで西鶴は『好色一代男』『日本永代蔵』を読んできた。また、俳諧集を見ていく中でも登場してきた。しかし、改めてここに収められた作品を読んで、その魅力に感じ入った。まず西鶴の咄はこれまでの説話と違って、余計な外側からの思想がない。儒教的な倫理、仏教的な説教、そうした物が一切なく、ただ現実を生きている人間達のあくなき興味のみが窺えるのがいい。「金」や「色」といった欲望に翻弄される現世を生きる人間達を面白がって見つめる作家の目だ。いかに江戸時代の元禄期が成熟した社会になりつつあったが窺えるといってもいい。
では、ここに納められた西鶴作品を一通り紹介する。

『好色二代男』

正しくは『諸艶大鑑』。1684年(貞享1)に刊行される。西鶴の処女作『好色一代男』の好評から、一代男世之介の遺児世伝(よでん)が登場することもあり、当時から世間一般にこの題名が流布していた。ただ、形式は巻一から巻八までそれぞれ独立した話題を展開する五つの短編があつめられている全40話の短編集ということになる。内容は題名にあるように、諸国の遊里における遊興の諸相や遊女の生き方や心情が描かれている。また遊里に通う男の生態も描かれている。
「人間は欲に手足の付たる物ぞかし」という言葉があるように、西鶴はいわば生身の人間の欲がはっきり現れる遊里を舞台に当時の人間の実相を描いたと言える。

『西鶴諸国ばなし』

題名にある通り、西鶴による全世界的な説話集。1685年(貞享2)1月、大坂・池田屋三郎右衛門により刊行された。5巻5冊。自序に、「世間の広き事国々を見めぐりてはなしの種を求め」たとあるように、諸国の珍しい話、変わった話を集めている。ここでいう諸国とは日本各地という意味を超えて、中国の話も含まれる。前にみた『牡丹燈記』を翻案した浅井了意の『伽婢子』を受ける怪異譚があったりする。また、各巻の題名の下には「知恵・不思議・義理・慈悲・音曲・長生・恨・因果・遊興・報・仙人」などの見出語があって、その内容を簡潔に示している。各巻にはそれぞれ7つの「はなし」があり、全35話
の短編集ということになる。
このいわば説話集は中世期の説話集とちがって、仏教的な価値観や儒教的な価値観に収斂させることはない。「人はばけもの世にない物はなし」とあるように、そこにはあくまでも当世を生きる生身の人間の面白さ、意外さに対する西鶴の生き生きとした興味のみがうかがえる。

『本朝二十不孝』

1686年(貞享3)刊。5巻20話。改題本に『新因果物語』とある。中国の『二十四孝』を逆手にとって20の不孝譚を集めたもの。江戸時代は儒教道徳が公式な道徳規範だったが、その中で「孝」はもっとも庶民が守るべき規範であった。具体的には1683年(天和3)5代将軍徳川綱吉により発令された忠孝令があり、その後もその高札が掲げられ続けた。これに対するに西鶴は「孝にすすむる一助」とはいっているものの、真逆を行く「不孝」者を描くこと自体に面白さを求めたといっていい。不孝者を戒めるとか、孝行を薦めるとかそんなつもりは全くなかったと言える。現世の人間の姿を「不孝」者の中に求め、儒教道徳とは遠いところで生きる人間にたいする生き生きとした興味がうかがえる。

『武道伝来記』

1687年(貞享4)4月、江戸・万屋(よろずや)清兵衛、大坂・岡田三郎右衛門より刊行された。八巻八冊。副題に「諸国敵討」とあるように、北は奥州福島、南は薩摩に及ぶ復讐譚32話を集めたものである。ここは武士がモデルで、これまでの町人とは違った倫理の中で生きる人間を「仇討ち」という武士社会の最もシンボリックな事件を通して描いている。幾つかは実際の仇討ち事件をモデルにしているようで、西鶴のルポルタージュ作家としての面目がうかがえる。もちろん西鶴は町人に属する人間だが、その町人から当時の支配階級たる武士がどう見えたかも知ることができ興味深い。ただ、ここにも西鶴の現世の人間に対する飽くなき興味があり、町人も不孝者も仇討ちする武士もされる武士も西鶴にとっては現世を生きる同じ人間だという認識がうかがえる。

『西鶴置土産』

1693年(元禄6)8月に西鶴が52歳で没したあと、同年の冬に北条団水の編集により遺稿集として刊行されたという。ここには西鶴が書いてきた「金」と「色」の世界の「負」の面の物語が集められている。遊里はまさに「金」が物言う世界だ。「金」がなければ「粋」も「洒落」もできはしない。ここに登場する人物達はかつてはお大尽だったが、やがて遊里に搾り取られ、零落してしまった人物達だ。
何もかも底をついてしまった身でありながら遊び仲間に見栄を張り続け男たち、息子から勘当されてもなお悪所狂いはやめられず、遺産目当てに息子の死ぬを待つ親仁といった人物達が5巻15章で語られている。
「世界の偽かたまってひとつの美遊となれり」
とあるように、遊里は「嘘」で支えられた世界。しかし、一旦その世界にはまると
「昔より女郎買のよいほどをしらば、此躰迄は成果じ」
と言うようにとことん身を滅ぼすまで「わかちゃいるけどやめられない」世界なのだ。西鶴はここに人間の浅はかさを見ているようだが、決して達観した姿勢は見せてはいない。ここにも現世の人間の諸相を興味ぶかく、いわば「おもしろがって」見ている西鶴がいる気がする。

『万の文反古』

1696年(元禄9)1月、西鶴の第四遺稿集として門人北条団水が5巻5冊に編集し、京都・上村平左衛門、大坂・雁金屋庄兵衛、江戸・万屋清兵衛より刊行された。張貫の女人形をつくる職人が、材料の紙くずのなかからみつけだしたという趣向で、20編の手紙を紹介し、それに短いコメントを付けるという趣向のいわば書簡体小説集。他人の私信を読むという興味が、その私信を書く人物と受け取る人物の人生を想像させる。もちろんそこにある私信は西鶴の創造だろうが、ここにも様々な人生への飽くなき興味が伺える。「万の」とあるようにそこには町人・武士・遊女といった様々な人物が登場する。そしてその人物達の心の奥底を想像させることによって、現世を生きる人間の姿を描こうとした西鶴の新しい試みを見ることができる。

『西鶴名残の友』

これも門人北条団水による遺稿集。最後の遺稿集だ。これまで見てきた物とちがって、ここでは俳諧師西鶴が登場している。西鶴はまさに俳諧師であった。いやあり続けた。しかも芭蕉らの蕉風俳諧とは異なる談林派に俳諧師だった。俳諧は当時連歌風に傾いていったようだ。本当は連歌を笑いや俗でパロディー化するところに俳諧の妙味があったはずだ。それが談林派だが、西鶴は晩年までそれにこだわったようだ。この書はそうした思いから、古今の俳人・俳諧師達を登場させ、それらの人々の逸話・奇談を中心に自身の俳談・漫談・手記を交え、笑いの中で語っている。西鶴はこれまで見てきたように咄を多く書くようになったが、その本質は「笑い」をキーにする談林派の俳諧師であったことを改めて思い起こさせる。

2018.03.05
この項了

久しぶりに木工の話題

久しぶりに木工をやることに。ここのところ寒いのでなかなかお庭木工とはいかずサボっていたが、娘の依頼で絵の額を作ることに。
娘が冬に家族でハワイに行って現地の絵を買ってきたというので、この依頼となった。
当たり前の額ではつまらないと思って、ずいぶん以前に師匠からもらったモッコクの皮付きの板があったことを思い出し、作ることに。
そのプロセスを一応書き留めておく。
まずは材料。ヒノキの端切とモッコクの皮付き板。これらを一応カンナがけで同じ暑さに揃えた。一見モッコクは固そうだが以外にうまくカンナがかかった。

絵をはめる枠には余ったヒノキを使うことに。これは難しくない。

肝心な額の表面は結構難しかった。きちんとしていない板を使うので、中で直角を取って、45度で合わせるのが結構苦労した。

板を重ねて肯定し、留定規を当てて切断することで結構うまくいった。

あとは45度の部分を接着して、裏側に枠を同じく接着して完成。細かいところは裏の板を抑える為の溝を彫ったり、額を立てるために棒を挿す穴を彫ったり、板を磨いたりする。
最後にサンドペーパーで磨いて、オイルをかけて納品。

2018.02.23

過去と同じようにいかないのがパソコンメンテナンス

以前娘のパソコンをWIN10にした話を書いた。ま、一応動いていたようだが、あまりにも遅い!ということでまた持ち込まれた。
考えてみれば遅いのは当たり前。8年前のデスクトップでメモリーが2Gしかないんだから当たり前だ。
そこで速くしてやろうということになった。
パソコンを速くするにはまずはメモリーの増設、そしてビデオカードの装着、そしてハードディスクをSSDに変えるという手順。
メモリーの増設は種類を間違えなければ難しくはない。メーカーのサイトで仕様を確認し、さらにCPUZというソフトでスペックを調べて、あったメモリーを購入する。2G二枚購入して、計6Gにする。しっかり認識してくれた。
次にビデオカード。これは以前自分のPCの為に購入した玄人志向の
「ビデオカードGEFORCE GT 710搭載 ロープロファイル 空冷FAN GF-GT710-E2GB/LP」だ。
スリムタワーにも対応できる製品だったのが幸いした。
これもNVIDIAからGT710のドラーバーを手に入れて、インストールして動いてくれた。
これだけでずいぶん速くなった。起動は遅いが、描画はかなり速くなった。ノートと違って、デスクトップはこのビデオカードが入れられる所がいい。
さて、今度はSSDへの変更だ。
ここで大きく時間を取ってしまった。
SSDへの換装はすでに2度経験している。いずれも自分のPCでだが、2度とも難なくうまくいった。従って今回もどうということはないと思っていた。
経験上前に使った「Crucial [Micron製] 」の500Gの物をアマゾンで購入し、3.5inchへの変換ブラケットもコード付きということで同じくアマゾンで購入した。
さて、いよいよという所で、まずは「3.5inchへの変換ブラケットもコード付き」の中になんとコードが入っていなかった。そこで返品。
次にSSDにシリアルナンバーが書かれた紙が入っていない。これが経験上の誤りだった。以前購入した275Gの物にはそれが入っていて、それを使うとブロックコピーでクローンを作成するソフトが手に入り、簡単にクローンができたのだが、それがない為に苦労することとなった。
しかも、マニュアル(ネット上)にあるソフトのリンクが切れているし、ようやくの思いでそのソフトにたどり着いてもやはりシリアルナンバーを聞いてくる。そこで販売元に電話をしたが、つれない返事。アマゾンに聞いてくれという。
うーん困った。しかし、フリーでクローン作成ツールはあるし、ブラケットとコードも別途購入して、自力でやることにした。
次に立ちはだかったのがこれまでやったのがWIN7で今度はWIN10だという点。SSDを繋いでもエクスプローラでは表示されないという点だ。
結局以下をやらなくてはならない羽目に陥り、丸1日費やすこととなったというわけだ。以下手順を書いておく。

  1. SSDをUSB接続。電源確保できるサンワサプライのケーブル変換装置を使用。(以前の記事)
  2. WIN10の設定・システム・デバイスから接続を確認。(エクスプローラでは見えない)
  3. WIN10の検索で「ハード ディスク」とタイプして、ハードディスクツールを起動して、SSDをフォーマットする。その際MBR付きにする。
  4. フリーのクローン作成ツールでクローン作成。(容量が多い為相当時間がかかる。一晩中!)
  5. SSDを元あったハードディスクと交換。(同じコードを使うこと。そうしないとプライマリーにならない。)
  6. WIN10を起動。スパッと起動する。
  7. 元のハードディスクも接続。データディスクにする。
  8. SSDのデータ部分を削除。(これがまた大変。何回も止まる。これはクイック起動とかでデータが絡んでいる為と思われる。ここもWIN10の厄介な所)
  9. 元のハードディスクのいらない部分(システム関連)を削除。(これも厄介。結局この削除作業は完全には終わらなかった)

ついでにボタン電池も交換しておく。あとは娘の所の環境に合わせるのみ。
実に疲れました。
この間、いろいろなことを考えた。教訓ということで記しておく。
パソコンのメンテナンスは一つとして同じようにはいかないということ。
まっさらにしてしまえば簡単だが、データやOSによっても異なるし、使う部品によっても異なるからだ。
ネットで購入するときはよーくここのところを調べるべきだ。

しかしそれにしてもWIN10はほんと困った代物です。余計な設定が多すぎるのだ。もっともメーカーのPCを購入して黙って使いなさいということなんだろうけどね。それだったら今もこの記事を書いているMACの方がほとんどメンテンスできないからいいのかもしれない。チャンチャン。

2018.02.20

『日本古典文学総復習』74『仮名草子集』75『御伽婢子』

『仮名草子集』を読む

 今度は散文。散文といえば現代では代表が小説だが、その小説の親が浮世草子。そう井原西鶴だ。井原西鶴の『好色一代男』が刊行されたのは1682年(天和2)。しかし、それ以前に中世の御伽草紙があり、ここで取り上げる「仮名草子」があった。西鶴の作品をも当時は仮名草子と称していたらしいが、この語は「仮名」とあるように漢語で書かれた書物ではなく、ひらがなで書かれた読み物の総称であったようだ。従って庶民階級にも読める散文の総称ということになる。そしてもう一つ大事な点はこの時代に出版技術が発展し、出版物として流通できるようになった点だ。現代では当たり前だが、活字になってこそ文学として成立する。書き手があり、読み手があってこその文学だからだ。しかもそれが世間で流通してこそ文学として成長する。その魁がこの「仮名草子」と言える。江戸時代はこの後多くの散文作品が登場する。西鶴の浮世草子がその本格的な初めての達成だが、「仮名草子」はその嚆矢だった。
 これまでも日本古典文学には物語、説話、随筆といった多くの散文作品はあった。しかしそれは主に知識階級のものであった。これを一気に庶民化したのが社会の安定に伴う識字率の向上と印刷技術革新だった。そこに登場したのがこの「仮名草子」である。
では具体的にここに収録されている各作品を見て行ことにする。

「大坂物語」

慶長 20 (1615) 年に刊行された仮名草子。2巻。作者不明。大坂の陣の戦闘経過を内容としている。大坂の陣はいわば同時代の大きな事件であったが、それを謂わばルポルタージュ的に描き、出版したところに大きな意義がある。

「尤之双紙」

「もっともそうし」と読む。斎藤徳元という人の匿名作で八条宮智忠親王の加筆になるという。1632年(寛永9)6月,京都恩阿斎の刊になる。「犬枕」の跡を追って「ものはづくし」の形式に成る擬物語で,上巻に「ながき物」以下39項目,下巻に「ひく物」以下39項目の「ものはづくし」を収録している。「ものはづくし」は古く「枕草子」にあって有名だが、ここもその形をとって一種辞書的な要素を持っている。作者が俳諧師であることから俳諧の教養書の意味合いもあった気がする。五版まで出たようで多くの人に親しまれたようだ。

「清水物語」

朝山意林庵という人の作。1638年(寛永15)に刊行された。意林庵という人は細川忠利・徳川忠長に仕えた儒学者で、わかりやすい儒教教理の解説や、当時の政治また風俗の批判をするつもりで、この書を著したという。一応小説的形態をとり、著者が清水寺に参詣したとき,多くの人が問答をしているのを傍聴するという形にしている。学問のことから、隠者・賢人・法度・侍の気質・主君の心得・浪人・化物・喧嘩・殉死・天道などの問題が語られている。

「是楽物語」

作者不詳、成立未詳。明暦年間から寛文初年までの作と思われる。五十過ぎの男二人と十六の娘が巻き起こす一夏の恋物語。こういうとなにかロマッティクな小説を思い浮かべるが、中身は豈図らんや結構ドロドロしている。妻との確執・使用人の悪巧み、夫毒殺事件の話、果ては娘の投身自殺へと物語は展開する。そこに清水信仰・流行の狂歌・流行の温泉療法などが絡んでいかにも江戸的な内容となっている。巷間流布していた実話を多く取り入れた形跡があり、そういう意味からも当時多く受け入れられた作品といえそうだ。

「身の鏡」

毛利家の家臣玉木土佐守吉保という人物の自叙伝。1617年(元和3)に作られたと言われる。吉保の先祖および自身の誕生から老年に至る事跡を年代順に叙述。年月日付には若干の記憶違いがみられるが、戦国時代を生きぬいた地方武士の生活が生き生きと記されている好史料となっているようだ。とくに、著者の体験に基づく当時の寺院教育の教授法や教科書などが詳しく記されていて教育史料としても貴重であるという。

「一休ばなし」

1668年(寛文8)刊行された一休和尚の逸話集。編著者は未詳。序文に一休宗純の漢詩集『狂雲集』を俗解したと断っているがほとんど関係はないようだ。一休の幼少のころのとんちばなしに始まって、蜷川新右衛門との交遊、関の地蔵に小便をかける話、タコを食う話など46話がある。笑話本として歓迎され、また模倣書も作られたようだ。ここに現代でも親しまれている「一休のとんち話」の出発がある。

「都風俗鑑」

作者未詳。延宝年間に刊行されたらしい。題名の通り京都の当時の風俗を紹介している。おもに「遊び」や「女性」について多くを割いているが、けっして遊里に偏らず、町の様子や男たちの様子も描かれている。いわゆる遊女評判記とは一線を画す物となっている。これが後の西鶴の浮世草子に繋がる。

こうして「仮名草子」を見て行くと、内容的にも形式的にも大きな幅があることがわかる。単に小説的な物ばかりをいうのではでないことがわかる。これは漢籍中心だった多くの書物が仮名文字に置き換えられ、町人層にまで書物が裾野を広げたことの証左でもある。

『御伽婢子』を読む

 「仮名草子」には漢籍の日本語化という役割があったことは前にも触れたが、その最も大きな達成がこの『御伽婢子』と言える。「おとぎぼうこ」と読む。浅井了意という人物の手になる仮名草子の一書。1666年(寛文6)に刊刊行された。13巻68話もあり近世初期を代表する怪異小説集だ。その素材のほとんどを中国の怪異小説ならびに雑書から得ているというが、巧みな翻案でまったく異国臭を感じさせないほど日本化しているところが大きな特徴だ。舞台や時代設定人物なども日本に置き換えている。
 怪異談は古くから日本にもあった。これまでもいくつか見てきたところだ。ただ、中世までの怪異談には仏教的な因果応報思想が色濃くあり、そこに登場する人物も極めて類型的だった。しかしここではもっと人間的な要素が色濃く出ている。現世的な人間の持つ怨念や情念といった物が加わりより小説化したと言える。
 こうした怪異談は一般に言う「怪談話」として後にも流行し、現代に至っているわけだが、有名な「怪談牡丹灯籠」もここに登場する。
この話は元々は中国の小説。これを翻案したのがこの書。若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話だった。それを後に山東京伝や鶴屋南北が脚色し、さらには明治の人情噺の名人三遊亭円朝が『怪談牡丹灯籠』として創作した。円朝はこの幽霊話に、仇討や殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げたのだ。
 それにしても日本文学に於いての怪異談はすたれることがない。現代でも合理では割り切れない人間のドラマがあるからかもしれない。
この『御伽婢子』にある話はいずれも短い物だが、これからもここにある話に創作意欲を喚起される作家が現れるかもしれないと思えた。

2018.02.05
この項了

『日本古典文学総復習』73『天明俳諧集』

『天明俳諧集』を読む

 江戸の俳諧は芭蕉によってその頂点に達したと思われた。確かに芭蕉は俳諧を一つの芸術に高めたと言える。しかし一方で俳諧は点取り俳諧に見られるように江戸の多くの人によってその裾野が支えられていた。芭蕉以後、俳諧はいわゆる蕉風といわれる芭蕉を祖とする俳諧と其角らの点取り俳諧を基本にする江戸風の謂わば都市俳諧とに二分された。一方は地方において、他方は京大坂江戸といった都市において盛んに行われたようだ。それが天明期に至って蕪村という稀有な俳人が現れて様相が変わる。蕪村は芭蕉復興を唱えて登場するが、けっして蕉風の単なる追随者ではなかった。感覚的にまた資質的に都市的な要素を多分にもった才能であった。いわばここに地方系俳諧と都市系俳諧の芭蕉復活運動を通じた統合が行われたといっていいようだ。この『天明俳諧集』において、その蕪村を中心とした天明期の俳諧の様子を見ることとなる。芭蕉はもちろん好きだが、より蕪村に親近感を覚える。

「其雪影」

編者は高井几董。宝暦12年(1762)成立。上巻は連句集、下巻は発句集からなる。蕪村門下の実力を世に問うた。例は連句の蕪村の発句と几董の脇。

欠々て月もなく成夜寒哉  蕪村
 秋しづかさに謡一番   几董

「あけ鳥」

これも几董の編に成る。安永2年(1772)成立。蕉風復興を志向し、俳諧に新風を世に示そうとした蕪村の傾向が色濃い。例は九湖の発句と几董の脇。

山吹の縄ゆるされて盛かな 九湖
 掃ちぎりたる庭の春風  キ董

「続明鳥」

全篇の続編。3年後に成立。四百十六の発句と十二巻の連句を収める。都市系俳諧と地方系俳諧との接近混交によってなった蕪村の天明調をもっとも具体的に示す。例は一句。

うぐひすや障子に透る春の色 万容

「写経社集」

編者は道立。安永5年(1776)成立。道立の発起で洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵を再建。元の芭蕉庵は松尾芭蕉とは別人の庵であったというが、芭蕉を系愛した道立が誤解のまま再建したという。冒頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再建記」なる一文がある。例は道立の発句、松宗の脇、蕪村の第三を引く。

植かかるはじめはひくき田うたかな 道立
 夏もおくあるしほり戸の道    松宗
茶のにほひかしこき人やおはすらん 蕪村

「夜半楽」

編者は蕪村。安永6年の成立。俳詩として名高い蕪村の「春風馬堤曲」を収める。ここは蕪村の発句と月居の脇を引く。

歳旦をしたりかほなる俳諧師  蕪村
 脇は何者節の飯たい     月居

「花鳥篇」

編者は蕪村。天明3年(1782)成立か。蕪村独自の拝風を示した一書。挿絵もあり、花桜の艶やかさ引き立つ春興帳。ここは宗因の発句に蕪村がつけた脇に几董の第三までを引く。

ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞 宗因
 ましてやまぢかきゆふだちの雲  蕪村
江を襟の山ふところに舟よせて   几董

「五車反古」

編者は維駒。天明3年(1782)の刊行。几董の協力を得て編んだ父春泥舎召波の十三回忌追悼集。しかし、追悼集の色彩より召波が生前親交のあった俳人たちの句に妙味がある。ここは一句を引く。

船頭の鼾を逃るほたる哉  在江戸 燕史

「秋の日」

編者は暁台。芭蕉の「冬の日」の続編を意図した歌仙集。すなわち尾張続五歌仙の別名を持つ。芭蕉の「冬の日」も尾張五歌仙。いわば天明期の芭蕉復活の魁となったという。ここは白図の発句に暁台の脇を引く。

今幾日ありて又来んむら紅葉  白図
 月な荒しそ天ラ低き雲    暁台

「ゑぼし桶」

編者は蕪村と親しい美角という人物。暁台が京の美角邸に逗留し、芭蕉追善の俳諧を催した時の作を編集した物。ここにも芭蕉復興の気概のあった暁台が京の蕪村一派に加わろうとする姿勢が見える。ここは一句のみ。

納豆たたくこだまや四百八十寺 暁台

「俳諧月の夜」

編者は樗良。安永5年(1776)成立。蕪村とも交流があり、蕪村一門の句も多く惹かれているが、樗良自身は蕪村と一線を画していたようだ。ここは一句のみ。

雲晴て人の呼まで月見かな   蛙水

「仮日記」

江涯の編になる書。江涯は加賀の出身の行脚俳人。様々な地域で活動した俳人らしく、その俳諧活動をしるした句日記から春の句だけを収めた書。いろいろな地域の俳人の作を見ることができる。ただ、後半は近江八幡の人々の連句や発句を収める。ここは一句。

うかうかと華にくれ行命哉   闌山

「遠江の記」

五升庵蝶夢の作になる紀行文。浜名湖遊覧一日の記録だが、そこに風景把握に新しみがあり、多く句が挿入されている。ここは一句のみ。

舟ぞよき物くひながらやまざくら 方壺

2018.01.25
この項了