『日本古典文学総復習』88・89『偐紫田舎源氏上下』

また大部な作品がやってきた。柳亭種彦作、歌川国貞画の『偐紫田舎源氏』だ。前回の二倍の容量だ。したがって、この短期間に読了できるわけがない。例によってパラパラとページを括って読んだことにするしかない。

さて、題名からいってこれは源氏物語のパロディと想像できる。しかし、内容はどうもパロディではない。設定と物語の骨子を使っているものの基本は武家のお家騒動と権力争いとなっている。源氏物語が当時かなり読まれていた、というより人口に膾炙していたエピソードを巧みに使って、一種の活劇的な長編物語を作り上げたといっていい。馬琴が主に大陸の古典を典拠にして物語を作ったと同様に種彦は日本の古典を題材に物語を作り上げたと言える。

ということで舞台が同じ日本ということになるので、時代を源氏物語の平安時代から室町時代に移し替えている。語り手は江戸日本橋の式部小路の女お藤と言う人物という設定で、この人物が石山寺ならぬ石屋の二階に暮らして書いたとしている。(この辺りがいかにも江戸時代的だ。)
主人公は将軍足利義政の妾腹の子の光氏と言う人物。彼が将軍を狙う山名宗全と戦って最後には勝利して栄華を極めるいうストーリーだ。ただ、その過程ではこの光氏の女性遍歴が存分に描かれる。これはもう源氏物語の得意とするところだが、この源氏物語の幾つかの話を巧みに利用している。夕顔との一夜や六条御息所と葵の上の車争いの話なども巧みに利用されている。ただ、こうした男女の話の幾つかが室町時代という設定とは言え、城内を舞台に描かれていることが問題視されたようだ。
江戸時代の男女の恋愛沙汰といえば遊里が舞台というのが定番だが、それが城内となれば当時の大奥を連想させることとなる。そこでこの物語は評判になればなるほど当局から睨まれるようになったようだ。全編で四十編だが、実際に出版されたのは三十八編までで、これは当局から絶版を命じられたためだという。理由は当時の将軍家斉の大奥を描いているとされたためだという。

ところでこの物語には注目すべき点がまだある。その一つが国貞の絵だ。この大系本では上段に当時の板本が示されているが、絵の間に文章が刻まれているという形で、いわば絵の方が中心と言っていいものだ。その質の高さは当時の一級品と言える。ここにその一部をネット上で見つけたものから紹介する。(http://book.geocities.jp/hf2929/72murasaki/)各編の表紙は色刷りのようだ。

 

また注目すべきは源氏物語にある和歌を巧みに利用した発句や俗謡の類だ。源氏物語には多くの和歌が引かれている。作者紫式部は当時の有数な歌人であったが、この物語の作者種彦もそれに劣らぬ才能を示している。その幾つかを示しておく。

風よりはさきにきて見ん山ざくら(主人公・光氏)
宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく(源氏物語・若紫・光源氏)

さくらには目こそうつらね花のかほ(相手役・阿古木)
優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつらね(源氏物語・若紫・北山僧都)

いつか見んわれもちりゆく花の京(主人公・光氏)
いつかまた春のみやこの花を見ん時うしなへる山がつにして(源氏物語・須磨・光源氏)

なきかげやまだ目にのこるおぼろ月(主人公・光氏)
なきかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も雲がくれぬる(源氏物語・須磨・光源氏)

馬琴の合巻同様、いつか全編を精読できる日が来るか全く心許ないが、こちらの方が精読を試みたい気がしている。

2018.11.23
この項了

『日本古典文学総復習』87『開巻驚奇侠客伝』

またもや大分間が空いてしまった。もう11月も中旬だ。このままだとまた今年中に終わるのは難しいかもしれない。遅れた原因は色々とあるが、主な理由はこの作品だ。実に大部なのである。本文だけで700ページを優に超え、しかも2段組である。これを読破するのはもちろん部分的に斜め読みするのも難しかった。そこで今回は仕方なく梗概だけを紹介し、あわせて作者滝沢馬琴に触れてお茶を濁す事にする。

そもそも最初の疑問はこの大部の作品を誰が読んでいたかという事だ。作者馬琴は日本初の職業作家と言われている。つまり作品を書くだけで生活していた最初の作家だという。これまで見てきた江戸の作者たちはあるいは武士であったり、上流商人であったりしていて、いわば文学は余儀という形だった。しかし、馬琴は戯作者として原稿料をもらって生活していたという。という事はそれなりに読まれていなければならない事になる。こんな大部の本を誰が読んでいたのだろう。ただ、大部といっても一気に出版されてはいなかったようだ。少しづづ出版され、後にまとまって再び出版されるといった形のようだ。それにしても江戸の文化水準の高さをこれは物語っている。もちろん庶民層が読んだかどうかはわからない。しかし、総ルビであったことから、仮名さえ読めれば読む事ができるから、江戸や京、大阪といった都市の住民なら読めたに違いない。そこが驚きである。

さて、その内容だが、いわば歴史ものである。「史伝読本」と言う内容だ。舞台は例によって足利時代。滅びた南朝の遺臣たちが南朝のために忠義を尽くす話である。南朝方の新田氏と楠氏の子孫が主人公となっている。小六丸と姑摩姫という。そこに善悪二様の副主人公が配されて、史実と虚構がないまぜになって展開する。結局は勧善懲悪の物語なのだが、この主人公の設定に当代性がある。
この小六丸は近世歌謡に謡われた関東小六を面影とすると言われている。この人物は江戸赤坂に住んでいた氷川明神の熱心な信者で、美男・美声で知られた馬方がモデルとされているという。すなわちこの男は当時の流行の伊達男なのだ。馬方がモデルというとなんだが、むしろこれが庶民受けする形なのだろう。浄瑠璃にも登場し、歌舞伎や長唄の題材にもなったという。
そしてもう一人の女主人公姑摩姫は女侠奴小万と言う人物がモデルだという。この小万と言う人物は「なにわの女侠客。大阪長堀の豪商である三好家のむすめ、お雪」だという。いろんなエピソードがあるようだが。いわば「女伊達」のシンボル的存在だったようだ。これもまた都市の庶民受けする形である。
馬琴はこうした当時の庶民層のいわばアイドル的存在を巧みに利用して、しかも滅びた側の南朝を中心にすえて物語を作ったと言うわけだ。
しかし、それにしてもこの大部の物語をゆっくり読む時間のある江戸という時代がうらやましい限りだ。

2018.11.12
この項了 

『日本古典文学総復習』86『浮世風呂・戯場粋言幕の外・大手世界楽屋探』

 今回は式亭三馬だ。式亭三馬はと言えば『浮世風呂』だが、この作品に触れるといろいろと思い出だされることがある。
 大学のころ、この作品に接している。確か国語学の演習でテキストとして取り上げられていて、仕方なく読まされた。ここでこの作品が日本語史上の貴重な資料であることを知った。すなわち当時の江戸言葉がある意味そのまま筆写されているからだ。この演習では特にガ行鼻濁音の話が中心だった記憶がある。しかし、こうした読み方はあまり面白いものではない。

 もう一つは銭湯についての思い出だ。小生は中学初年まで東京の下町的なところで暮らしていた。その辺りの住宅で内風呂を持っていた家はほとんどなかったように思う。歩いてすぐのところに確か「不動湯」という銭湯があり、そこに毎日のように通っていた。小学生になると夕方の早い時間に友達と連れ立って出かけるようになった。この時間の客は子供達や年寄り、夜の出勤前のお姉さんたちだ。もちろん男湯だが、いわゆる「おねえ」がすね毛を剃ったりしていた。また、いつも来ている年寄りが子供に声をかける。きまって「ぼう、おおきいね。何年生だ」という。正直に答えると、これも決まって「ちょっと背中を流してくれないか」というのだ。また、中学生ぐらいになると湯船の縁に並んで座って、とりとめもない話をする。きまってこれは怒られた。要するに銭湯は子供達の社交場だったのだ。現在コンビニの店先でたむろしている中坊たちとかわらない。前編巻之下の冒頭「午後の光景」として、寺子屋帰りの子供達が大勢で風呂に入ってきて、おしゃべりを始めるシーンがある。江戸時代からの続いていた風景であることがわかる。

 今もたまに近所のスーパー銭湯に行くことはある。もちろん郊外に転居してからはずっと内風呂なのだが、たまには大きな風呂に浸かりたくなる。だが、そこには子供の頃の情緒はない。黙々と湯船に浸かり、黙々と体を洗っているものばかりだ。声をかける年寄りもいなければ、子供をしかる大人もいない。
 さて、こんなとりとめもない話を書いてきたが、遠く江戸時代の銭湯風景を活写した「浮世風呂」は実に大部な作品である。この大系本でも三百ページ余を要している。たかが銭湯風景を描くのにこれだけの大部に及ぶとは驚きだ。中身は4編9冊に分けられ、初編・四編が男湯、二編・三編が女湯となっている。序文的な大意に次のようにある。

 熟監るに、銭湯ほど捷径の教諭なるはなし。其故如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴あびんとて裸形になるは、天地自然の道理。釈迦も孔子も於三も権助も、産れたまゝの容にて、惜い欲いも西の海、さらりと無欲の形なり。欲垢と梵悩と洗清めて浄湯を浴れば、旦那さまも折助も、孰が孰やら一般裸体。是乃ち生れた時の産湯から死だ時の葬潅にて、暮に紅顔の酔客も、朝湯に醒的となるが如く、生死一重が嗚呼まゝならぬ哉。されば仏嫌の老人も風呂へ入れば吾しらず念仏をまうし、色好の壮夫も裸になれば前をおさへて己から恥を知り、猛き武士の頸から湯をかけられても、人込じやと堪忍をまもり、目に見えぬ鬼神を隻腕に雕たる侠客も、御免なさいと石榴口に屈むは銭湯の徳ならずや。心ある人に私あれども、心なき湯に私なし。譬へば、人密に湯の中にて撒屁をすれば、湯はぶくぶくと鳴なりて、忽ち泡を浮み出いだす。嘗聞、薮の中の矢二郎はしらず、湯の中の人として、湯のおもはくをも恥ざらめや。惣て銭湯に五常の道あり。湯を以て身を温め垢を落し病を治し、草臥を休むるたぐひ則すなはち仁なり。

 
 「銭湯の哲学的考察」といったところか。当時銭湯が一時的平等な世界であったことが想像される。実は遊里もまた金銭さえあれば一時的平等な世界なのだが、いわば銭湯は安上がりな遊里的要素があった場所だったようだ。この時代の洒落本作者がおおく遊里を舞台に本を書いたことはこれまで見てきた。式亭三馬はそれを銭湯に置き変えたといえる。洒落本は寛政の改革のあおりで衰退していくが、これに変わって登場したのが滑稽本だが、滑稽本の舞台として銭湯がうってつけだったといえる。この大意にはその平等的世界が謳われている。

 しかし、実際は湯がかかったどうのと喧嘩もあったようだ。すべての人が「人込じやと堪忍をまもり」というわけにはいかなかった。ただこんなシーンで注目すべきはその描写だ。描写というより、人物のセリフなのだが、これが実に小気味いい啖呵の筆写となっている。「喧嘩は江戸の花」というが、この喧嘩単なる暴力沙汰というのではない。要するに口喧嘩である。江戸言葉で捲くし立てる。これを三馬は筆写するという形で描いている。ここに日本語史上の資料という側面をみることになるのだが、こうした当時の口語の筆写は文学史上あまり現れない「子供の言葉」の記録ともなっていて興味深い。これについては月報で土屋信一という人が触れている。意外にも現在とあまり変わらない幼児語が使われていることが分かる。さらに子供だけではなく、多くの立場の違う人物たちが登場し、その言動を活写している。そういう意味でも三馬の観察眼と記録魔的な作家魂といったものが感じられる。

 現代には様々な文明の利器があり、記録も簡単にできると誰もが思っている。だが、どうだろう百年以上経った未来に、この『浮世風呂』のように現在のあらゆる階層の人物たちの言動を読むことができるだろうか?もちろん三馬はそんなことを考えてこの作品を書いたわけではあるまいが、現代にそんな作家がひとり現れてもいい気がする。

 最後に同梱されている以下の作品にも簡単に触れておく。

「戯場粋言幕の外」

 江戸三番町で催された顔見世興行に集まる様々な階層の人物たちの風俗や言動を活写した三馬の処女作の一つ。ここに『浮世風呂』に通じる三馬のスタンスが十分にうかがえる。三馬はかなりな歌舞伎通だったこともわかる。

「大手世界楽屋探」

  仏教でいう全宇宙を表す三千世界をすべて劇場に見立てて、その舞台裏すなわち楽屋から描くという発想で構想された作品。しかし、初編のみで終わっている。ここには人口に膾炙された歴史的な事件を「実は舞台裏はこうでした」という形で描くことで滑稽味をだそうという発想が見られる。

 なお、末尾に『浮世風呂』の先行作品といえる山東京伝の『賢愚湊銭湯新話』と当時の銭湯営業に関する規定がわかる「店法度書之事」(『銭湯手引草』より)が付されている。

2018.09.11
この項了 

『日本古典文学総復習』85『米饅頭始・仕懸文庫・昔話稲妻表紙』

今回は山東京伝だ。京伝は前回取り上げた南畝とほぼ同時代に生きた文人である。南畝によって見出された人物でもある。すなわち天明期に活躍した戯作者であった。ただ、違いは南畝が幕臣だったが、京伝が町人だったということだ。江戸期の文人は下級武士と上層町人がほぼ二分していたようだ。ここに僅かながらの違いがあるだろうが、この時期の江戸の文化水準の高さを物語っている気がする。上層町人が下級とはいえ支配層である武士とほぼ同等な知識水準にあったということだ。しかも京伝が相手にしたと思われる読者層はやはり町人であったようだ。京伝の作品の多くは町人向けに書かれている。町人世界もまたかなりの高い文化水準の裾野を持っていたということだろう。
さて、この京伝が生きた時代は南畝と同様、バブル時代と緊縮政策時代に跨っている。ただ、京伝が活躍した時代はどちらかといえば緊縮時代に傾いていたと言える。事実、京伝は寛政の改革の締め付け政策から発禁処分どころか、「手鎖の刑」まで受けている。これは別段京伝が反権力的な作品を書いたということを意味しない。京伝が描いた世界が時の権力者の狙う儒教道徳と背反する世界だったためである。京伝は単に町人が好む世界を描いた。面白おかしく町人たちに受ければよかっただけな気がする。時の権力者はそれが気に食わなかったのだろう。いわば、ここに時の権力者の儒教道徳と町人の嗜好のギャップが鮮明になったわけだ。ただ、このギャップは対立と言うところまではいかない。町人の嗜好はあくまで嗜好と言うところにとどまって、町人思想と言うところまではいかない。ここに江戸時代の文人の独特なスタンスがうかがえる。そしてこの町人の嗜好がもっとも鮮明に現れるのが遊里の世界であった。
この時期の戯作は多く遊里を舞台にしている。いや戯作ばかりではない。この時代以前の浄瑠璃の近松が描いた世界も広い意味で遊里が唯一の舞台であった。なぜ遊里が江戸時代の文学の舞台の中心だったのだろうか。それは遊里がこの時代にあって独特な意味を担う場所だったからだ。この時代の遊里は表面的には(描かれている限りは)自由な世界のように見える。しかし実態は権力によって作られた世界であり、「金」に縛られた世界である。ただ、この世界はいわば実際の社会と隔絶されているために独特な倫理を産んだ世界でもあった。いわば町人の嗜好がもっとも純粋に現れる世界であったといえる。
京伝もまたこの世界に生きた。事実、京伝は管許遊里「吉原」に居ずっぱりだったという。前置きが長すぎた。ここからこの大系に収められた作品を見て行くことにする。

「米饅頭始」

お米と言う人物が色々と苦労の末、相愛の男と添い遂げて饅頭屋を始め、成功するというお話。一種のおとぎ話。ただ、このお米一旦は遊里に売られ女郎として過ごした時期があり、ここもその遊里が舞台となっている。さてこの話、いわば大人の絵本なのだが、絵は京伝本人が描いている。名は北尾政演となっているが。

「三筋緯客気植田」

「三筋緯」とは当時通人客の間に流行した上田紬の極上品生上田の縞模様のこと。これを三人の遊客の気性にたとえる。それぞれがそれぞれの見識をもって傾城買いを試みるという、これも遊里の話。実在の遊女と思わせる人物も登場する。独りよがりな二人は馬鹿を見、誠実な男が最後は遊女と添い遂げるというお話。

「玉磨青砥銭」

これは当時の寛政の改革を皮肉った作品。現代にも通じるところがある。時代は鎌倉に設定しているが、すべての人間が真面目に家業に精を出し、昼夜を問わず働く社会を描く。人間ばかりか動物まで働かせるという。いわばすべて無駄のない世界を描く。しかしその行き過ぎを愚かだとするところにこの話の結末がある。ただ、結論は「足ることを知れ」というところにあり、決して当時の緊縮政策への批判というところにはない。

「通言総籬」

京伝の代表作「江戸生艶気蒲焼」の続編。ここでも三人の遊び人が登場。遊里の当時の消息を伝え、実際に遊ぶ様を描く。洒落本の代表作と言える。
うぬぼれ屋の半可通艶次郎がたいこ医者わる井志庵ととり巻きの喜之介宅を訪れ、遊女あがりの女房を交えて種々うわさ話をするのが前半。その後三人は吉原に出かけて松田屋にあがって遊ぶ。これが後半。松田屋は当時の最高級の遊女屋。入り口を入ったところの格子すなわち籬(まがき)が全面天井まで達していたという。題名総籬(そうまがき)はここから取られている。

「仕懸文庫」

「仕懸文庫」とは遊女の衣類を入れて持ち運ぶ箱のことだという。ここも遊里が舞台だが、新吉原ではなく、深川だ。深川は官許の遊里ではない、新興の岡場所だ。深川はいわば流行の先端を行っていたという。その深川の新しい風俗・気質を描きたかったようだ。当時の取り締まりから舞台を郊外に変えたり、内容を教訓にひっぱたりしているが、当時絶版の憂き目を見たようだ。

「昔話稲妻表紙」

京伝の読本。これまでの作品とは異なる大部なもの。日本の古典文学や民譚・伝説・説話等に取材して一つの物語に仕立てている。馬琴の読本のような作品。基本はお家騒動もの。仇討ちもテーマとなっている。もちろん馬琴とは違っているだろうが、こうした武士のテーマも江戸時代の大きな題材であった。

さて、こう見てくると京伝の文学はいわば当時のエンターテイメント文学だと言える。ただ、このエンターテイメントのなかに当時の武家社会と町人社会の葛藤が見え隠れする。こうしたことをけっして正面から扱ったわけではないが、今から見るとこうした戯作にそう思えるところが多々ある気がする。ここでも幕末の文人成島柳北のことが心にかかっていた。

2018.09.05
この項了

『日本古典文学総復習』84『寝惚先生文集・狂歌才蔵集・四方のあか』

 今回はあまり間をおかずに次に行けた。江戸時代で忘れてはならない人物、大田南畝集である。別名蜀山人、四方赤良で知られる文人の選集だ。大田南畝はこれまでもチラチラとその作品に触れていた。また、永井荷風によってその人柄や作品に触れていたこともあってスムーズに読むことができた。

 太田南畝は寛延2年3月3日(1749年4月19日)に生まれ、文政6年4月6日(1823年5月16日)に死去している。その文筆活動は、天明期ということになる。天明期は江戸の文化が爛熟隆盛を見た時期である。田沼意次のいわばバブル期を生き、活動し、寛政の改革による緊縮期も経験したということにもなる。その時期に主に狂歌というジャンルで知られている。ただ、狂歌ばかりでなく、膨大な量の随筆を残しているし、洒落本、漢詩文、狂詩、なども多く残している。
 また、太田南畝は一貫して幕府の御家人であり、支配勘定まで上り詰めた幕府官僚であったことも忘れてはならないところだ。南畝はけっして裕福な上級の御家人の家に生まれたわけではなかったが、幼少から学問に秀でていたため、かなり無理をして教育を受けたようだ。今でいう奨学金を貰って学問所に通っていたようだし、壮年期も田沼意次のブレインから援助を得ていた。また、幕府の官僚登用試験にチャレンジし、優秀な成績で合格してそれなりの地位を得たりしている。
 こうした南畝の生涯は作品とどのような関係があるのだろうか、興味深いところである。実際の作品を見ていくことにする。

 この選集には以下の作品が収められている。それぞれを見ていく。

「寝惚先生文集」

 狂詩狂文集。すなわち漢詩と漢文が収められている。なんと南畝19歳の時の作品集。この若さで自らを寝惚先生とするところにすでに南畝のスタンスが伺える。もちろん漢文と漢詩であるからその教養は並々ならないものがあるが、まさに若き知識人がすでに韜晦と斜に構えた姿勢を持っていることに驚かされる。中国詩文集の体にならっているもの、「金ヲ詠ズ」「江戸見物」「桃太郎ヲ送ル序」など身辺の事象をおもしろおかしく写している。ただ、ここでは本音とも取れる以下の詩を引いておく。もちろん杜甫の「貧交行」のパロディだ。

貧鈍行

為貧為鈍奈世何
食也不食吾口過
君不聞地獄沙汰金次第
干挊追付貧乏多

貧すれば鈍する 世を奈何
食うや食はずの吾が口過
君聞かずや 地獄の沙汰も金次第
挊(かせ)ぐに追い付く 貧乏多し

「通詩選笑知」

 南畝二作目の狂詩集。「唐詩選」五言絶句部のパロディ。ただ、厳密にはすべて南畝個人の作とは言えないようだ。息子の三歳の祝いの席で狂詩仲間たちが集まった際の酒の勢いで作った作品集と言うことらしい。ここでは遊郭を題材にした五言絶句を紹介する。

色道後気  口説

客真争一夜 大象預期横
執心不相待 門外及落城

色道に気を後る  口説(こうせつ)
 
客真一夜を争ふ
大象預め横を期す
執心相待たず
門外落城に及ぶ

 こういう詩はもはや解説無くしては読めない。「気を後る」とは時を逸すること。「口説」とはここでは男女の痴話のこと。ただ、これは「くぜつ」とは読ませずに「こうせつ」としたのは元の詩の作者「張説」をもじったから。「客真」とは客と真実の恋人。遊女の客と間夫が一夜を争ったというお話。「大象」は「大蔵」で半可通のこと。「横を期す」とは、「横を切る」という遊女が客の目を盗んで間夫と密会することを意味する語からそれを期待したということ。「門外落城に及ぶ」とはこの本によれば、「交わらないうちに射精してしまう」ことだという。半可通の間夫をおちょくっている。
 パロディには元がある。元の詩は以下。

蜀道後期 張説

客心爭日月 來往預期程
秋風不相待 先至洛陽城

客心日月と争い
来往預め程を期す
秋風相待たず
先ず至る洛陽城

「客心」は旅のこころのこと。まったく内容は違う。しかし、巧みに文言を似せている。これが狂詩のスタイルということができる。参りました。

「狂歌才蔵集」

 南畝の第三狂歌集。南畝の狂歌集としては「千載和歌集」のパロディ、「万載狂歌集」があるが、その続編ということになる。天明六年に行われた「才蔵集撰歌会」の記録でもある。部立は勅撰集に倣って「巻第一春歌上」から「巻第十六神祇歌」まで六百二十七首に及ぶ大部なものだ。
 ここでは三首を引く。

       四 方 赤 良

抱ついてみれどたはいはなかりけり庭の柳の細き腰もと

 初 冬   平 秩 東 作

今朝ははや禿頭のみ撫でられてかみなし月の寒さをぞしる

 二日酔   古 来 稀 世 下毛

吐きもせずくれもやらぬあしたには朧豆腐にしくものぞなき

 解説はいるまい。

「四方のあか」

 南畝の最初の狂文集の刊本。この書が刊行されたのは田沼時代のバブル期が終わり、寛政の改革直前の時点だった。寛政の改革で粛清が行われ、田沼のブレイン土山宗次郎と言う人物が死罪になっているが、実はこの人物は南畝のパトロンだった。この事情からこの書では著者も町人の飯盛とまぎれるような細工をしているという。この辺りに南畝のような幕臣でありつつ文人を通す人物の苦悩があったかもしれない。また、南畝は子息が早死にしたこともあって、隠居できなかったという事情も見え隠れする。要するにこうした狂文も真っ向からの時代の批判へとは向かえないということになる。しかし、それを現代の目から批判してもはじまらない。その時代を精一杯生きた文人の姿を見れば足りる。
 一つだけ短い文を引く。

 遊女賛

 誠は嘘の皮、うそはまことのほね。まよへばうそもまこととなり、さとればまこともうそとなる。うそとまことの中の町、まよふもよし原、さとるもよし原。

  傾城のまこともうそも有磯海の浜の真砂の客の数々

「壬戊紀行」

  南畝の紀行文。南畝は大阪銅座に支配勘定として出張勤務した。官僚生活だ。その任を終えて江戸に帰る旅の記録である。あえて東海道ではなく中山道を選んで帰っている。内容は旅の詳細をしっかり記録するというものだ。したがって即物的な記述が多く、やや退屈に思える。ただ、そこに南畝の人となりが伺え、やはり名文家と言える。柳田国男をして「一悲一笑せしめる程の力を持って居る」と評価せしめる所以だろう。(本書解説から)

「奴凧」

 「世相風俗あるいは往年の知友の逸話の類を何くれとなく書きとめた随筆の一本」(本書解説から)ということになる。小冊子。随筆というよりほとんどメモといったらいい程のもの。ただ、そこに南畝のあらゆるものへの飽くなき好奇心が伺えて面白い。狂歌や狂詩のネタはこうしたところにあったのだろう。

「南畝集(抄)」

  南畝自筆の漢詩集。約四千七百首あるという。ここはその抄録。晩年の以下の詩を引いて、この南畝の旅を終えることにする。

 弄孫

抱孫不抱子
曾誦礼経言
為耽舐犢愛
却想含餳恩

 孫を弄ぶ

孫を抱くも子を抱かず
曾て礼経の言を誦ず
舐犢の愛に耽るが為に
却つて含餳の恩を想ふ

 南畝五十五歳の作という。バブル期(田沼時代)を遊楽に生き、緊縮期(寛政の改革期)を幕吏として実直に生きた南畝の晩年の気持ちが伝わる一首だ。孫を抱いて親の恩を思うという。

 最後に。太田南畝の作品を見てきて、常に成島柳北のことが念頭にあった。成島柳北は小生が最も敬愛する文人だが、柳北の原型が南畝にあったのではと言う思いが常にしていた。柳北もまた幕吏であったが、生きた時代が大きく異なっていた。幕末期という時代が柳北を南畝たらしめなかったのは言うまでもない。柳北はこの『新日本古典文学大系』の最終巻100冊目に登場する。それまでもう一息江戸文学を見ていくこととなる。

2018.08.24
この項了

『日本古典文学総復習』83『草双紙集』

今度は二ヶ月を要してしまった。こうなると今年中に終わるかどうか怪しくなってきた。なんとか終わりたい。しかし、今年の夏は異様に暑い。読書には不向きだ。早く秋になってほしい。また、他の大きな仕事に取り組んでいたことも時間がかかった原因だ。仕事と言うよりは趣味なんだが、木工に時間を取られていた。これについては記事にしている。
さて、今回は草双紙を取り上げる。百科事典によれば、

 江戸中・後期に江戸で刊行された庶民的絵入小説の一体。毎ページ挿絵が主体となり、その周囲を埋めるほとんどひらがな書きの本文と画文が有機的な関連を保って筋を運ぶのが特色。美濃紙半截二つ折り、5丁1冊単位で、2・3冊で1編を成す様式が通例。しだいに冊数を増し、短編から中編様式へ、そして後には年々継続の長編へと発展する。表紙色と内容の変化とがほぼ呼応し、赤本・黒本あるいは青本(黒本・青本)・黄表紙と進展し、装丁変革を経て合巻(ごうかん)に定着、明治中期まで行われる。(世界大百科事典 第2版)

 とある。要するに絵本ということになる。絵本というと子ども向けと思われるが、初期はそうだったかが、後には大人向けのそれなりの内容を持ったものとなっていったようだ。劇画マンガといったイメージでいいと思う。マンガは最近世界的にも注目されているようだが、その淵源がこの草双紙にあると言えそうだ。

 収録作品は以下のようになっている。簡単に内容を紹介しておく。

赤本・黒本・青本

「名人ぞろへ」

 見開き5画面しかない小冊子。異国趣味がうかがえる。木乃伊についても言及。

「ただとる山のほととぎす」

 万徳長者を主人公とし、鳥を取る話が中心。おおらかな法螺話。これも10画面の小冊子。

「ほりさらい」

 土木工事を草双紙に見立てた珍しい作品。ただし題名は失われていて、校注者がつけた仮題。

「熊若物語」

 黒本で上中下三冊ある。南北朝時代の仇討ち物語。謡曲にも取り上げられている阿新の物語の劇画版。

「亀甲の由来」

 黒本二冊だが、下巻のみ伝わる。「治病の妙薬として、猿の生肝を取りに竜王から遣わされた海月が、猿を騙して帰る途中、その目的を洩らしたため、猿に生肝を樹上に置き忘れたと騙されて逃げられた。その罪を竜王に責められ、打たれて骨なしになった。」という猿の生肝として知られる昔話の劇画版。浦島太郎が登場したり、やや話が変更されている。

「漢楊宮」

 青本で上中下三冊ある。元は「史記」にある話。秦の始皇帝暗殺を図り失敗した燕の太子丹の話。これまでも色々と日本で取り上げられた話の劇画版。

「子子子子子子」

 果たしてなんと読むでしょう。この小野篁の謎解きは「子」の字が倍あるが、ただ話は雪舟の一代記。これは雪舟の伝説が関係しているようだ。柱に縛られて涙で書いた鼠が生きているようだったという話だ。「子」は「こ」と読むし、「ね」とも「し」とも読む。正解は「ねこノこノこねこししノこノこしし」です。

「楠木葉軍団」

 黒本で上中下三冊ある。軍学者由井正雪が起こした慶安事件を題材とした黒本。もちろん当時の事件だけに時代を前にしているが、この事件はいろいろと作品化され人口に膾炙したようだ。いわばその劇画版。

「猿影岸変化退治」

 白猿神(猿の妖怪)が人間の女性を誘拐し、妊娠させるという中国唐代短編伝奇小説である「白猿伝」に基づいた話。実際には前に見た『繁野話』にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」を黒本化したもの。怪談で、現代でも何度か取り上げられている。

「狸の土産」

 黒本で上中二冊ある。当時有名だったとんだ茶釜の笠森おせんという美人と千住の茶釜の二つを題材にした金時の化け物退治の話。全く荒唐無稽な話だが、それの屈託のなさが取り柄と言える。 

黄表紙

「其返報怪談」

 恋川春町作。絵も描いている。作者自身が主人公。いわば絵の修行記。文中に見越入道が狐の謀略似合う話がある。作者の恋川春町は絵入の洒落本『当世風俗通』で注目され、後の『金々先生栄華夢』で黄表紙の祖とされる。

「大違宝舟」

 芝全交作、北尾重政画。藤原淡海が竜王に奪われた面向不背の玉を志度の海女の手により取り返したという、謡曲「海士」などで名高い玉取り伝説のパロディー。

「此奴和日本」

 「こいつはにっぽん」と読む。これは当時の流行語だという。当時は中国風の生活の気風があったようで、これを揶揄する所に眼目があったようだ。中国も形無しといった意味。四方山人作、北尾政美画。

「太平記万八講釈」

 「万八」は当時の流行語で口から出まかせといった意味。「太平記」は当時講釈に使われていて、「口から出まかせな太平記講釈」ということだろう。『太平記』巻十二にある大塔宮護良親王の建武の中興ごの行状が趣向の中心。

「正札附息質」

 江島其磧の『世間子息気質』のパロディー。大商人の気質の違う息子二人が巻き起こす珍妙な浮世離れした行動を一話づつ描いている。ついには二人とも勘当の身となってしまうというお話。

「悦贔屓蝦夷押領」

 これも恋川春町の作。「よろこぶひいきのえぞおし」と読む。義経が蝦夷に逃亡したとされる伝説がモチーフ。当時の北海道に関する関心が見て取れる。これはロシアの進出が影響していると思われる。また田沼意次の悪政を下敷きにしているともとれる話となっている。

「買飴帋凧野弄話」

 「あめをかつたらたこやろばなし」と読む。曲亭馬琴の作。何々づくし物といった趣向。いろいろな凧を挙げて、馬琴らしく蘊蓄を開陳するという趣向の話。生真面目なところが黄表紙と異なり、それがかえって異色となっている。

「色男其所此処」

 万象亭作、鳥居清長画。裕福なお坊ちゃんのお話。もちろん如何に女にもてたいかというお話。様々な階層、職業の女を相手に悪戦苦闘する様子を描いている。いかにも江戸戯作的作品。登場する女には実際のモデルがあったとされている。そういう意味でも現代の週刊誌的要素もあったようだ。

「草双紙年代記」

 草双紙の草創期から天明初年までの変遷を物語として描いた物。岸田杜芳作。北尾政演画。

合巻

「ヘマムシ入道昔話」

 合巻上中下3篇三編六巻。山東京伝作、歌川国直画。ヘマムシ入道とは文字遊戯でへを頭、マを口、ムを鼻、シを口と顎に見立てて人の姿を描くこと。ここでのヘマムシ入道は主人公が仇討ちのため蝦蟇の術を習いに行った術師ということになっている。ただこのヘマムシ、術を教えるどころか主人公の仇となる。結局はヘマムシ入道は主人公に討たれることになる。それまでは色々と紆余曲折がある物語でそれなりに長いが、これをセットにしているので合巻の名がある。

「童蒙話赤本事始」

 これも合巻上中下3篇三編六巻。曲亭馬琴作、歌川国貞画。子ども向けの話である桃太郎・舌切り雀・かちかち山・猿カニ合戦の綯い交ぜを江戸周辺を舞台に脚色したもの。登場するのはもちろん武士や郷士たち人間である。

「会席料理世界も吉原」

 市川団十郎の合巻という。しかし実際の団十郎が書いたとは思われていない。ただ、歌舞伎の要素を多分に持った話だ。歌舞伎の要素といっても決して直接は歌舞伎の内容を使ってはいないという。お家の重宝紛失・敵討ち・貧家・怪盗・晴れて帰参の上の裁判・道行・引窓などという歌舞伎の趣向の型というか、作劇上の型を取り入れている。お家の重宝紛失から浪々の身となって忠僕ともども苦労するという話。

2018.08.09
この項了

ガラステーブルの作成

久しぶりの投稿。しかも木工の話題。
もう数ヶ月前にガラステーブルを復活させる計画を考えていた。
カミさんがここのところ低い籐の椅子で食事をとるようになったので、座卓では低いからもう少し高いテーブルを作ってあげようと考えた。
カミさんはいらないといっていたが、昔使っていたガラステーブルの天板のガラスがあったので、これも木工の練習ということでやり始めた。
もちろん材料はまだ豊富にあるケヤキの板だ。しかしこれが大変な難儀な仕事となった。
まず天板のガラス板がやや長方形で、角が丸くなっている。これをどう合わせるかだ。しかもこの天板をはめなくてはいけない。
そこで、コーナーの部分と直線の部分を分けて細工し、それをつなぐ方法をとった。




これを少ない道具でやるのは大変だった。まずカーブを天板に合わせること。つなぎを正確にあわせること。しかも強度が必要なのでボルト締めをしたうえで、つなぎの板をはめること。
本来ならいろいろな板継ぎの技法があって、トリマーのビットを使えばもっと上手くできたはずだが、トリマーはあるけどトリマーテーブルがないのでほとんど手鋸でやるはめとなり、本当に苦労した。しかし、これも素人木工の楽しみだ。


そして、脚の部分。これはやや厚めの別のケヤキの板を使った。ただ、横に渡した部分には同じ厚さの板がなくやや薄かった為にチョット見た目がよくない。ここはボルト締めをしてダボで埋めておいた。ここも本当は溝に組んで、楔で締めるというのが理想だがこれで我慢。

さて、上の画像は脚を横につないだ材料を組んだもの。これも天板がやや長方形なために直角に交差できず、微妙な角度になって大変だ。ぴったりいっていないが、この方がかえってよかったようだ。
そして最後の難関が天板の固定。やはりダボではめる形を選んだ。脚の上部にダボをつけて、天板に開けた穴に合わせるという方法。なんとか成功。
これでガタが来なければと思っていたが、なんとか大丈夫。使えそうだ。
ここでも材料をきちんと直方体にすることが重要で手道具ではこれがいかに難しいかをたっぷり経験しました。奥が深い。
さてさて、カミさん使ってくれるかな。

『日本古典文学総復習』82『異素六帖・古今俄選・粋宇瑠璃・田舎芝居』

 また、一ヶ月空いてしまった。江戸文学は半専門なのだが、ここで取り上げられている作品はほとんど初見だ。それだけ時間がかかってしまう。
 さて、江戸文学の要素の大きな一つが「笑」である。ここで取り上げる作品群もその範疇に入る。いわゆる「滑稽本」である。ただ、こうした分類は必ずしもはっきりした区分けにはなっていない。「洒落本」というジャンルもあるが、その範疇に入れてもいいかもしれない。最初に取り上げる『異素六帖』と言う作品も江戸板洒落本の出発点とみなされるが、また江戸板滑稽本の祖という位置づけもされる作品だ。
 ではこの時期の滑稽本の特徴はどんなところに求められるだろうか?現代の「笑」とは実に趣を異にする。どちらかというと現代語でいえば「パロディ」といったほうがいい。現在日本ではこの「パロディ」というのが全く影を潜めているように思う。いやそれどころか「笑」が文学の中にはもはや存在しなくなっているようにも思われる。それはなぜか?それは「パロディ」が成立する条件がなくなってしまったからのように思われる。
 「パロディ」が成立するのはその元がよく知られている必要があるのは言うまでもない。「笑」とはおよそ縁遠い「元」があってはじめて「パロディ」は成立する。2番目に登場する『唐詩笑』がその典型である。もちろんこれは『唐詩選』のパロディだ。『唐詩選』がよく知られていてこそパロディが成立する。一般化すれば、「パロディ」は古典的教養の基盤がなければ成立しない。すなわち現代はそれが失われてしまっている。
 そういう意味でこの時期の滑稽本は教養人の文学ということになるが、こうした人々(作者と読者)には共通の教養があった気がする。実際、この時期の滑稽本の作者たちはかなりの教養人だった。無教養が蔓延し、真面目くさったことしか言えない余裕のない窮屈な社会では「笑」の文学は成立しないということかもしれない。

 さて、ではここに納められた八つの作品を見ていくことにする。

『異素六帖』

 『唐詩笑』の方法をそっくり踏襲したもので、舞台を吉原に定めて、『唐詩選』に加え「百人一首」まで用いたパロディ。
例えば

揚屋の紙屑籠
積雪浮雲端
不二の高嶺に雪はふりつつ
積雪は紙のおほくて白きかたちなり。閨中にて ふ ふ ふうふう うんうんうんうんといふうちに陰陽の外しる人なき味あり。その端みな此積雪となる。

といった具合。これは解説はいらないか。男女の営みに「紙」は必需品?

『唐詩笑』

 まさに『唐詩選』のパロディ。
二つだけ引く。

張若虚
夫妻交接事畢ル。スワチソノ淫具ヲ捏リ曰ク、「コノ物高致妙妙。「春江花月ノ夜」ニ「玉戸簾中巻ケドモ去ラズ」」
夫妻交接事畢。乃捏其淫具曰、此物高致妙妙。春江花月夜玉戸簾中巻不去。

張九齢
夫妻皆唐詩選ヲ読ム。雲雨ノ時ニ及ンデ微吟シテ曰ク、「樹ハ揺カス金掌ノ露、庭ハ接ス玉楼ノ陰」。妻コレヲ和シテ曰ク、「寧思ハンヤ窃ニ抃ツ者、情発スルハ知音ノ為ナリ」。
夫妻皆読唐詩選。及雲雨時微吟曰、樹揺金掌露、庭接玉楼陰。妻和之曰、寧思窃抃者、情発為知音。

 二つとも男女の夜の営み。「夫妻交接」はあからさまだが、「雲雨ノ時」も同じ意味。「淫具」「金掌」は男性の一物、「玉楼ノ陰」は女性の物だと解説しておけばわかるはず。「春江花月夜玉戸簾中巻不去」が張若虚の詩句であり、「樹揺金掌露、庭接玉楼陰」「寧思窃抃者、情発為知音」は張九齢の詩句。全く中身が違って読めるから面白い。あまり詳しく解説してしまうと下品になっていけない。

『雑豆鼻糞軍談』

 これはパロディというよりは全くのナンセンスな創作といっていい。題材は一応歴史上の人物らしき者が登場するし、実際にあった歴史上の事件のようだが、全くそうした事に基づいていない。前の2作には所謂「断章取義」という形があるが、これは言ってみれば「こじつけ」となる。これを拡大すると全く違った話になってしまう。この作はこうした一例のようだ。序に言う。

 さるによって此一書は、いつその事にあたまから相手にならぬ分別のまじりまめはなくそぐんだんとは
   幕に矢の ふふはりうけし 春の風

『古今俄選』

 これは謂わばパロディ集。まずはその序からして『古今和歌集』仮名序の完全なパロディと成っている。引用書目として挙がっているのは、『史記』や『詩經』といった漢籍から『太平記』『源平盛衰記』といった日本の古典まで10以上の古典である。そしてこの「俄」というのが、大阪での夏祭りの際に行われていた素人による笑劇のことらしい。それを台本の形にして掲載しているのがこの書だ。素人による笑劇といっても、もちろんやっていたのは教養人たちである。劇という形をとる為か、浄瑠璃や歌舞伎のパロディも多く含まれている。ただ、今読むと悲しいかな元がわからない為か良く納得できない。こうした点が、江戸の滑稽文学が読まれなくなった原因かもしれない。

『粋宇瑠璃』

 「くろうるり」と読む。徒然草に「しろうるり」というのが出てくる。

この僧都、ある法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは、何物ぞ」と、人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける

とある。文章からも語義はよくわからないが、一説に白痴で鈍(うる)けた意ともいう。徒然草では人の顔の形容としているが、いずれにしても褒められたものではない。その「しろ」を「くろ」として「粋」の字を当てている。「くろ」は「玄人」に通じる。ということは実はこの書、「粋人」批判の書ということになる。批判というよりは、当時の流行を牽引していた「粋」を遣う連中を「うがった」ということらしい。当時の教養人気取りの連中を「粋遣ひ(すいつかい)」といって、彼らのやっていることをあげつらって面白がっている。しかし、これも難解の書だ。

『絵兄弟』

 山東京伝の書。俳人其角の『句兄弟』のもじり。京伝は始め絵師であったようだ。一対の見立絵を置いて何事かを述べるという形をとっている。後半は文章のみだが、やはり見立絵の部分が面白い。この見立絵というのはたとえば十五番にある「女達磨」のように、十年年期の遊女を九年面壁の達磨に見立てるといった画題である。これは画像を見ていただく。

『田舎芝居』

 これまでの作品と違って、舞台が越後大沼郡の実在の村となっていて、農閑期の旅芝居の様子が描かれている。またこれまでの洒落本の傾向の「うがち」を真っ向から否定し、ひたすら滑稽味を出そうとした作品。まあ、どたばた喜劇といった様相で、作者も「洒落本に非ず実は野天本也と自称している。序文の中で

 洒落本の洒落を見て洒落る洒落は、洒落た所が洒落にもならねば、只可笑を専とすべし

とある。その翌年刊行されその後も評判となった十返舎一九の『浮世道中膝栗毛』の先駆けとされる作品でもある。

『茶番早合点』

 「茶番」はもともと茶の番すなわちお茶汲みの当番の事をいうが、江戸の歌舞伎小屋では大部屋の下級役者の仕事であったという。その役者が工夫を枯らして余興を見せた。それが今の意味にもなっている。要するに見え透いたおふざけという意味だ。
 ただ、ここでいう「茶番」は江戸で行われた素人の座敷芸を指す。しかも観客や仲間に景品を出すのが必須で、最後のオチに引っ掛けって景品を出すという趣向だったらしい。この書はその「茶番」の式亭三馬による解説書ということだ。オチも上方のボケとは違って、かなり技巧的かつ知識的だったようだ。これも江戸の「笑」が教養人的だった証左だが、解説書が書かれ、それを勉強するという所にもそれがうかがえる。

 しかし、それにしても「笑」がストレートにこないのはこちらの教養不足ってことでしょうかね。

2018.06.12
この項了

『日本古典文学総復習』81『田舎荘子・当世下手談義・当世穴さがし』

 江戸時代に「談義本」というジャンルがある。これは江戸時代中期の戯作の一種だが、いわゆる滑稽本の先駆をなしたとされている。しかし内容は滑稽本とは異なっている。その祖先は仏教徒による談義にある。すなわち談義僧という仏教徒が仏教の教義をわかりやすく話をするという仏教談義だ。その談義僧の口調を真似て活字化したものが「談義本」ということになる。したがってはじめは滑稽を狙うというより、もっと教訓的な色彩が強かったようだ。しかし、庶民にもわかりやすくするために題材を当時の風俗に求めたため、やがて教訓臭が薄まり滑稽化していったようだ。
 もう一つこの談義本が流行したのは江戸中期の支配層の要求もあったようだ。江戸中期になると社会が安定し、商業化が進み市民生活が爛熟してくる。そうなると庶民への教化策が必要になってくる。もちろんそれは当時の支配原理たる儒教道徳による教化策だ。そうした支配層の要求にかなったのもこの談義本である。動物の問答を通して老荘の儒教的解釈を語ったり、狂俳文という形をとって死生観を語ったりする初期の談義本にはそうした色彩が強いようだ。
 ではここに収められている各作品を見ていくことにしよう。

『田舎荘子』

 談義本の嚆矢と言われる作品。享保12 (1727) 年刊。著者は佚斎樗山という人物。本編が上中下巻の3巻と付録1巻。外篇が6巻からなる。ここは本編と付録1巻が収められている。内容は動植物の対話をもって、老荘思想を元に教訓を伝えるというものとなっている。以下がその内容。

上巻 雀蝶変化・木兎自得・ケン蛇疑問・鴎蝣論道・鴨鷯得失・鷺鳥功拙
中巻 菜瓜夢魂・蟇之新道・古寺幽霊・蝉蛻至楽・貧神夢会
下巻 荘右衛門が伝・猫の妙術・荘子大意
付録 鳩之発明

 最後の「鳩之発明」も雉と鳩との問答の形をとっている。雉が鳩に対して「お前はなんでなんの警戒もなく人間の間に気楽に居られるんだ。」と言う。「自分はいつ捕まって喰われるかもしれないからいつも警戒して暮らしているのだ。」と。それに対し鳩は「自分だって警戒はしているし、捕らえられないような術は心得ている。しかし、山奥に暮らしていたって危険はあるし、やがて死は訪れるものだ。」とする。すなわち

「何方に居たればとて、命数来れば、遁るる所なきは、死の道也。」

とする。人間とて様々な災厄を恐れて何かと騒いでいるが、むしろ人間自身がその災厄を作り出しているようなものだとする。すなわち

「禅家にいへる事有、『元来地獄なし。衆生みづから地獄を作て、我と、此に、堕在す』と。汝が地震にさわぎ、うろたゆるも此類なり」。

と。
 こうした思想は儒教的というより老荘的である。しかも日本固有の死生観にもよっているように思う。

『労四狂』

 自堕落先生の「狂俳文」ともいうべき文章とされている。『労四狂』はもちろん「老子教」のもじりである。近世中期の「徒然草」と言うべき内容をもった作品で作者の死生哲学とでも言うべきものが述べられている。序に言う。

 「智者は智に狂ひ、愚者は愚に狂ふ。智者の智に狂ふは、愚者よりも病をもし。且得と失との地を審にせむと欲して、労し狂ふ者、又あり。其の狂ふと自ら知て狂ふ者有り。知らずして狂ふ者あり。庵主の爰に記するこもごも也。医薬の及ぶべからざるのみ也。憐むべし、憐れむべし。各死して後癒べし。狂なる哉、狂なる哉と、口をあき手をたたきて、十無居士北華序。」(一部変更)

 すなわち人間が一生をおくる上で必ずつきまとう苦労、その結果として必ずとりつかれる心の病としての「狂」ということが述べられている。智者は智に狂い、愚者は愚に狂い、その狂うと知って狂う者、知らずして狂う者、その症状はこもごも四つあるという。これが「労四狂」というわけだ。こうした人生哲学は本家『徒然草』にも語られているが、もっと徹底している気がする。こうした労苦を遁れるにはもう「死」しかないと言う事になるが、これを逆転すると享楽が見えてくる気がする。ペンネーム「自堕落」は韜晦だけではないのかもしれない。

『当世下手談義』

 「いまようへただんぎ」と読む。宝暦2年(1752年)江戸で刊行される。5巻5冊ある。1752年(宝暦2)江戸刊。作者は静観坊好阿(じょうかんぼうこうあ)という人物。もともとは享保の改革の意図を汲んだ庶民教化のための談義本。しかし、題材を当時の江戸の風俗にとり、江戸言葉を採り入れた文章は最初の江戸小説と言われ、仏教的な内容はない。そうした意味でも滑稽本の先駆けとも言える作品。歌舞伎、町人の身持、葬式のぜいたく、開帳、きおい組、虚説の流行、豊後節などが取り上げられ、それらを批判する形をとっているが、むしろ其の事が当時の江戸の風俗を活写する事になっている。
 また、解説によればこの書は3度目で当時の検閲をやっと通ったという。(通った時吉宗は死去している。)改革の意図を汲んだ庶民教化の書なのに妙だが、これも取り上げた題材による所が大きいと言えそうだ。豊後節は当時心中を美化するという名目で弾圧を受けたというから、それを取り上げる事自体問題視されたのかもしれない。ただ、それもこの書が当時から受け入れられた要因でもあったようだ。ようやく爛熟期にはいった江戸文化(上方文化に対する)の風俗を江戸言葉で活写したところにむしろこの書の魅力があったのかもしれない。

『当世穴さがし』

  豆男と言うのが主人公。この豆男は八文字屋本の好色物の主人公として人気を博したという。春信の春画にもなっている。この豆男が業平の霊夢に自由自在の身を得て、当時市中に流行した様々な風俗を取り上げて其の行き過ぎを批判するというストーリーとなっている。以下がその展開。

 壱の巻「豆男夢占の吉左右」「三味せんの流行」
 二の巻「琵琶が教訓の弁」「さがの釈迦もん答」
 三の巻「いけ花の立聞」「揚弓の高慢」
 四の巻「聖廟の神勅 付り はいかい点取の弁」
 五の巻「乗合舟の日記」「筒屋の夜話」「万度御はらいの託せん」

 ここに語られている流行がどの程度まで江戸市民に行きわたっていたかは定かではないが、もしこの書が語る事がある程度真実ならばこの時代の江戸はかなりな文化程度だったと想像できる。朱子学や徂来学といった学問の先端まで他の芸事と並んで流行現象として取り上げられている所にもそれがうかがえる。江戸文化恐るべしといった所だ。

『成仙玉一口玄談』

 「じょうせんだまひとくちげんだん」と読む。この題名からしてよくわからない。「一口玄談」は一気に語る霊妙な話ということだろう。「成仙玉」とは何か。仙人に成るための玉という事だろうか?この書の末尾近くに次の言葉がある。

「かの成仙玉は汝等諸人の赤肉団上にありて、是を清浄本然真一と号く。云々」

「真一の水精玉を見つけ了れば、是を実の仙人といふ。此玉を見る者は、仙道を成就するを以て、仮に名づけて成仙玉といふ。云々」

 すなわち、仙人になるためのものは人間自身に備わっているもので、凡夫はそれに気づいていない。それに気づきさえすれば仙人になれるとする。
 実はこの話、やたらと女好きの漁師が天上の遊女を女房にしたところから始まっている。しかしその後、雷に奪い返されてしまう。そこで漁師は天上の遊女が忘れていった羽衣を着て雷を追いかける。そしてなんと東風に乗って遥か南のハラシリア(今のブラジル)に行ってしまうというのだ。この荒唐無稽な設定が神仙談そのものだが、当時の世界認識が意外に広かった事が伺えて興味深い。(宝永5年・1708年の「増補華夷通商考」にある「地球万国一覧之図」は現代の世界地図とほとんど変わりがない。)
 そして最後にはブラジルで出会った和荘兵衞という人物とともにこの漁師も守一仙人の導きで「実の神仙」となるというところで話は終わっている。
 この書の作者、文坡という人物ははじめ仏教説話の作者だったようだ。後に神仙教に鞍替えし、教祖のような存在となり、そのプロパガンダのためにこの作品を書いたようである。神仙教は中国の道教の影響を受け、また老荘思想とも絡まり、日本の伝統思想とも絡まって江戸時代に流行したようだ。現代からすれば怪しい思想のように思われ、見捨てられているが、日本の思想を考える上で一顧の必要はあるように思われた。

2018.05.10
この項了

『日本古典文学総復習』80『繁野話・曲亭伝奇花釵児・催馬楽奇談・鳥辺山調綫』

 このプロジェクト?ようやく80巻までたどり着いた。ここのところやや難渋している。それは対象がわかりにくいのだ。江戸期の文学は多岐にわたっている。ここで取り上げるのはあまり馴染みのない「読本」である。「読本」とは文字中心の物語をいうのだが、現在からするととても読みにくい。それはその内容にもよっている。「読本」は小説なのだが、その内容は多く中国の白話小説と呼ばれるものによっていて、ほとんどが伝奇的な内容を持っている。もちろんこうした内容を持っている小説は現代でも書かれているし、読まれている。現代風に言えば歴史ファンタジーといったところだろうか。しかし、こうした内容の小説が苦手なのだ。これはいわゆる現代文学、特に純文学というものに毒されてしまったからだろう。しかし、こうした伝奇的な話は日本文学において古くから大きな部分を占めている事も確かだ。それは今昔物語に至る古代からこの江戸時代の読本にいたる長い歴史を持っているとも言える。しかもそれが現代の大衆小説の世界に連なっている。決して看過できないジャンルなのだ。では内容をざっと紹介しておくことにする。

『繁野話』

 都賀庭鐘という人物になる作。5巻あり、5巻目は上下巻がある。明和3年、1766年に刊行されたという。9篇の物語が収められている。多くは中国の白話小説等を翻案した奇談集と言えるが、日本の話を下敷きにしたものもある。各話の内容をざっと紹介しておく。

第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」
 僧が物の精霊と問答するという話。雲を相手にその形状や属性を聞き出すという話だが、これも古く中国にあったらしい。
第二篇「守屋の臣残生を草莽に引話」
 上古の物部氏と蘇我氏の廃仏を巡る論争が題材。江戸期においてもこの論争は儒教対仏教という形をとって再び巻き起こっていたようだ。
第三篇「紀の関守が霊弓一旦白鳥に化する話」
 人妻の男女関係の話。今昔物語と中国の話を融合。教訓で終わる。人妻が結局男を手玉に取っていたという結末。
第四篇「中津川入道山伏塚を築しむる話」
 南北朝時代の歴史についての議論。小説と言うより歴史評論。これも江戸時代盛んに行われていたようだ。
第五篇「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」
 隠れ神を滅亡させる話。中国の小説の翻案のようだが、白菊という女性の役割が大きく描かれている。
第六篇「素卿官人二子を唐土に携る話」
 日本と中国を往来し騒動を起こした素卿という中国の人物の話。謡曲の「唐船」にもある話も取り込む。
第七篇「望月三郎兼舎竜窟を脱て家を続し話」
 甲賀三郎伝説に基づいた話。甲賀三郎は長野県諏訪地方の伝説上の人物。地底の国に迷いこんで彷徨い、後に地上に戻るも蛇体となり諏訪の神となったという。
第八篇「江口の遊女薄情を恨て珠玉を沈る話」
 現代の中国でも有名らしい優柔不断な美男子と美しさだけでなく侠気もある遊女の話の翻案。
第九篇「宇佐美宇津宮遊船を飾て敵を討話」
 南北朝の南方の活躍をのべた軍段。南北朝が合一したあとの南方の残党の話。

『曲亭伝奇花釵児』

曲亭馬琴の初期読本の一つ。
馬琴は読本の代表的作家。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』で夙に有名。
読本の多くと同様これも中国の伝奇小説からの翻案。中国清時代の戯曲の作者、李笠翁という人の『笠翁伝奇十種曲』、「玉掻頭伝奇」がネタ本であるとのこと。従ってこれも歌舞伎の台本のような体裁をとっている。しかし分量は多くなく、かなり圧縮・割愛しているようだ。内容は原本では明の皇帝武宗を巡る権力争いとそれを彩る女性たちの話と概括できるが、ここでは時代を室町時代にとり、武宗は足利義輝となっている。これは江戸時代の話の常套手段といってよく、例の忠臣蔵も時代を室町時代に設定している。また、幾つかの改変があるようでそこに馬琴の趣旨が伺えるのかもしれない。ただ、ざっと見ただけではそれはわからない。

『催馬楽奇談』

 小枝繁という人物の作になる読本の一つ。これも馬琴のように浄瑠璃に材を求めた物という。題材は軍記物語の『源平盛衰記』の鹿谷密謀事件にとっている。それに浄瑠璃「恋女房染分手綱」という作品の趣向を取り入れているという。この時代の時代小説のパターンらしい。この作者には伝説物読本である『松王物語』や史伝物読本の『小栗外伝』などがある。

『鳥辺山調綫』

 歌舞伎の演題に「鳥辺山心中」というのがある。これは「江戸から京に上った菊地半九郎は、まだ初心な遊女お染と愛し合うが、ふとした言い争いから親友の弟を殺してしまう。切腹しようとする半九郎は、お染の純真な想いにほだされ、二人で死出の道行に出る。」という話。この話は当時様々な形で人口に膾炙していたようだ。それを読本にしたのがこの作品。作者は村田嘉言という人物。父は村田春門。当時有名な国学者だったという。ただ、この読本は他と違って「心中」を題材にしているだけに「人情本」的要素が色濃いようだ。ただ、当時の読本の世界では善男善女を心中させるわけにはいかなかったらしい。そこで心中を決心する二人に死後の石塔を注文させるという結末が用意されている。なんとも中途半端な気がするが、読本が持っている時代的な制約なのかもしれない。
 ちなみに現代でも演じられる歌舞伎の「鳥辺山心中」の結末は心中しに行く道行となっている。

2018.04.25
この項了