『日本古典文学総復習』98『東路記・己巳紀行・西遊記』

 こんどは紀行文だ。この紀行文学は日本文学において重要な位置を占めている。しかし、江戸時代の紀行文はあまり読まれていないような気がする。もちろん芭蕉の「奥の細道」も紀行文学とすれば別だが、あまり文学史に登場しない。ただ、江戸時代は交通の発達した時代だ。参覲交代という制度によるところが大きいが、全国に街道が整備され、旅籠も増え、お伊勢参りなど庶民にとっても旅行ができる時代になったはずだ。そうなればガイドブックは必要だし、たとえ実際に旅に出ないとしても、各地の知識に対する欲求は大きくなったはずだ。
 そんな中で、たとえ文学史に取り上げられなくても優れた紀行文は存在した。ここは三作のみだが、江戸の紀行文を代表する作品だ。各作品を見ていこう。

『東路記』

「あづまじのき」と読む。貝原益軒の作。ここでは以下の紀行が収められている。

「東海道」

「美濃路」

「播州高砂より室までの道里を記す」

「江戸より美濃迄東山道の記」

「江戸より日光への行道の記」

「日光より上州倉加野迄の路を記す」

「美濃関が原より越前の敦賀への行道」

「越前敦賀より京への道」

「安芸国厳嶋記事」

 いずれもその行程を詳細に書いたガイドブックである。この辺りは科学者的な資質をもった貝原益軒ならではの気がする。どこからどこまで何里あるかなど距離を記したものが多い。また、風景や街の様子の描写も客観的である。そういう意味では面白さに欠けるが、ガイドブックとしては優れている。

『己巳紀行』

これも益軒の作。音読みで「きしきこう」と読む。ここには関西方面の紀行が収められている。以下だ。

「丹波丹後若狭紀行」

 これは京から現代の福知山線沿いに宮津・天橋立に至り、舞鶴・小浜と行って永坂峠を経て琵琶湖畔の今津にいたり、竹生島を見て、大原から京に戻るという旅の記録である。「末に近江の事を記す」とあるように竹生島に渡っている。記述は客観的な部分が多いが、竹生島では
「社前より遠く望めば、湖水渺茫として人(クワン)遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る」などと語ってその感動の様を文学的に表現している。

「南遊記事」

 「河内、和泉、紀伊、大和等の処々を記す」とあるように関西の旅。京から四条畷、岸和田を通り、和歌浦を見て、高野山、吉野を経て交野を通って京に戻る旅の記録である。

「嶋上紀行」

 「摂州嶋上郡、金竜寺、小曽部、伊勢寺等の事を記す」とあり、現在の高槻市辺りの小さな旅の記録である。

『西遊記』

 これは橘南谿という人物の作。京都の医者。門人の文蔵という人物を伴って京都から山陽道を下り、小倉から九州に入って九州を巡歴してさらに四国に渡り、船を使って明石・大阪に戻り京都に帰るという大変な旅の記録。
 そしてこの紀行文はこれまでの益軒の紀行文と違って、旅程を詳しく記述するというよりは、この長い旅で出会った様々な人物や事象を描いているところが特長だ。項目を見ると、例えば「檜垣女」「豆腐の怪」「牛の生皮」といった珍しいものを記している。旅が長いだけあって大部なものだ。注目するのは巻四の「琉球人」についての記述。その歴史についても正確に語っている。そのあとにある現在の宮崎県日向の「山女」と言う章も面白く、こうした地方に伝わる伝承や生活の記録は貴重である。

2019.05.07

この項了

『日本古典文学総復習』97『当代江戸百化物・在津紀事・仮名世説』

だいぶまた間が空いてしまった。前回からすぐに読み始めたのだが、この間長旅に出たり、世間の10連休なるものがあって、なかなか落ち着かなかったためにこうなってしまった。その10連休も終わり、やっと落ち着いた日常が帰ってきたので書く気になった。
さて、今回は江戸の随筆。その中でもいわゆる「人物逸話集」だ。有名どころでは『近世畸人伝』がある。この「畸人」というのは言ってみれば「おかしな人」という事になるが、けっして「異常な人」ではない。むしろ「優れた人物」ということになる。世間にいる「優れた人物」を紹介するという所にその主意があった。そして「優れた人物」は多にして世間の常識からはみ出す。江戸の人物逸話集はこうした世間の常識からはみ出した人物たちを温かい目で見、記録した作ということになる。具体的に各作品を見ていくことにする。

「当代江戸百化物」

宝暦八年(1758年)、馬場文耕という人物の作。下級武士の出身で後に講談師となり、講釈中に九代将軍徳川家重の治世や世事を誹謗し、幕政に対する批判を繰り返し、結果打ち首になった人物。この作品はそうした幕政に対する批判ではなく、市井の人物を語った人物逸話集だ。解説にあるように「今風に言えば『お騒がせ』人物を、士庶とりまぜて二十七名、二十二章に記述」したものだ。ここに登場する人物たちはそこらにいそうな人物ばかりだ。こうした人物を「化物」としながらも親しみをもって描いている。おそらく講釈の種本として書かれたものだという。元はもっと大部な作であったようだが、その一部のようだ。

「蓬左狂者伝」

尾張藩士堀田六林という人物が記した、名古屋城下における奇人・狂人の行状記である。ここでも市井の人物が取り上げられている。もちろんここに取り上げられている人物たちは常識人ではない。まさに奇人・狂人である。しかし、そこにある価値を見ている所が面白い。江戸の常識はもちろん儒教道徳ということになるが、いわばそこからはみ出した人物たちを取り上げている。これは一種の現状批判になっている。金竜道人という人物が序文を書いているが、そこにこんな趣旨のことが述べられている。すなわち、「今は世俗に媚びる人物ばかりで、そこからはみ出そうとする人物は少ない。しかし、そうした人物こそが真に孔子の徒となる資格がある。」と。

「落栗物語」

これはこれまでのものと違って公家や文化人に対する記述が目立つ作品。筆者は定かでないようだ。時代的には豊臣秀吉の時代から寛政期までを扱っていいる。もちろん一種の人物記となっている。実際に見聞した事実や逸話がほとんどのようだが、中には作り話的な話があるようだ。さて、この「落栗物語」という題名は「そのまま放置しておけば朽ち果ててしまうが、見つけて拾えば美味しく食べられる」ことからつけられたという。なるほどうまい命名だ。人物もそうである。歴史的にも、また今でも忘れ去られていった多くの優れた人物たちがいたはずだ。そんな人物たちを発掘するのが、この人物記である。

「逢原記聞」

これは「高士逸客」に関する逸話聞書集。「高士逸客」などという語彙は現在では滅多に聞かないが、語彙だけでなくこうした人物も滅多に見ない。しかし江戸においては優れた、志の高い、世間に阿ない人物たちが存在した。ここに取り上げられているのは概ね四十八名。有名な学者も取り上げられているが、筆者の聞書だけに後に有名になった人物ばかりではない。他には画人や武人も取り上げられその逸話は面白い。特に有名な池大雅の逸話は多く紹介されている。いずれにしても優れた人物たちは常識からはずれた人物たちだった。

「在津紀事」

広島藩の藩儒頼春水という人物が大阪に滞在していた時の多くの文人との交流を記録したもの。このころの大阪はまさに文化の中心であった。漢詩人のサークルである「混沌社」の活動を中心に描かれているが、漢詩人ばかりではなく、国学者・医者・書家・画家などその多士済々ぶりは当時の大阪がまさに文化の中心であったことをうかがわせるに充分である。記事の一つ一つは短く、百八十九章からなっている。

「泊洦筆話」

「泊洦」は「さざなみ」と読む。筆者清水浜臣は泊洦舎と号した国学者にして歌人。賀茂真淵の高弟村田春海の門人。終生県門古学顕揚に努めたという。本居宣長とは一線を画した。その賀茂真淵顕彰の意をこめた逸話集がこの書である。また荷田春満の顕彰にも努め、その碑文の紹介は現在でも史料的価値があるという。また、和歌についての知見も多く語られている。

「仮名世説」

太田南畝による随筆。題名は『世説新語』のもじり。『世説新語』は古代中国の著名人の逸話集だが、その日本版ということだろう。日本の優れた人物たちを『世説新語』にならって紹介している。もちろんここに登場する人物は文化人と呼ばれる人々が多いが、下巻には変わった人物を紹介するエピソードがあって面白い。例えば妻との古典についての言い争いから家出をして帰らなかった老人の話などだ。太田南畝の関心の広さがうかがえる。

こうしてみてくると江戸の随筆はもっと読まれてもいいと思う。人物に関する関心はゴシップコンシャスとして現代にもあるが、こうした人物誌はその時代の様相を示してくれていると思う。現代にも面白い人物誌はあるのかもしれないが。

2019.05.06

この項了

『日本古典文学総復習』95『上方歌舞伎集』96『江戸歌舞伎集』

 今度は歌舞伎である。先に見たように嘗ては浄瑠璃の方が歌舞伎より人気があった。しかし、時代が下るにつれ歌舞伎が隆盛となる。これは文化の中心が上方から江戸へと移っていったことと即応しているようだ。
 まずは歌舞伎の展開をざっとおさらいしてみることにする。
 最初に歌舞伎として始まったのは出雲の阿国という女性が始めた女歌舞伎だ。これは踊りが中心であったようだが、この歌舞伎踊りの中で阿国が男装して茶屋のおかかに戯れる寸劇を見せたのがその始まりだという。(茶屋が舞台ということでこの「傾城買い」が一定の様式を備え、いわゆる「島原狂言」という形が生まれたという。)
 やがて女歌舞伎は幕府の統制から元服前の美少年を担い手とする若衆歌舞伎へ、そして現在の野郎歌舞伎へと展開していった。
 この間、踊り中心だった歌舞伎が浄瑠璃との相互影響を経ながら、劇的要素を濃くして、ゆわゆる演劇としての形を整えていった。
 はじめ上方で坂田藤十郎という役者が現れ、さきにふれた「島原狂言」を中心に「和事」がうまれ流行した。こうして歌舞伎は上方で隆盛を誇ったようだ。しかし、政治の中心である江戸もようやく文化的にも中心の座を持つようになると、歌舞伎も江戸で盛んに行われるようになり、上方を上回る隆盛を見るようになる。ただ、男性社会の江戸では「和事」より「荒事」が好まれようになり、独特の様式も生まれ舞台芸術としての格式をもつようになったようだ。
 
 さて、この歌舞伎を文学として見るとはどのようなことだろうか。浄瑠璃は人形芝居だけに「語り」に、より重要性があり、その「語り」の詞章が文学として読めるということはある。近松門左衛門をみれば然りである。しかし、歌舞伎は人間が演じるだけにその要素は薄い。また、現代の戯曲のような作者がはっきりしているものも少なく、台本も演じる役者によっていくらでも変化したようだから現代の文学観から文学として見ることは難しいと言わざるを得ない。まさに舞台と役者が中心であったから、観劇してこそのものだと言える。そこで文字で読む我々はその筋立てと台詞のそれぞれと人物像などに文学を見るしかないように思う。
 この大系では以下の作品が収められているが、「絵入り狂言本」と言う物で残っているものと「台帳」と呼ばれた台本である。台本はあまり残っていないようでそれも時々で変化する物であったようだからある意味貴重なものだ。
 以下作品を見て行く。

『上方歌舞伎集』

「けいせい浅間嶽」(絵入狂言本)

  例によってお家騒動のお話。ゆわゆる世継ぎ争いが話の中心だ。しかし、この作はいわゆる反魂香の伝説を巧みに取り入れたところに後の世にも残った作品になったと言われている。反魂香の伝説は古く中国に発祥した、焚くとその煙の中に亡き人の姿が現れるという香の伝説。後に日本文学で多く引かれた伝説のようで、この作品では、主人公と愛人との起請、すなわち愛の誓いの証文を主人公が焼くと、その愛人が煙の中から現れ、恨み言を言って消える、という形で取り入れられている。この煙の中から愛人の姿が現れ、口説を述べる場面が後にいわゆる「浅間物」の特徴となったという。

「おしゆん伝兵衛十七年忌」(絵入狂言本)

 これは心中物。「おしゆん」は祇園の遊女の名。このおしゆんに惚れた伝兵衛という男が横恋慕する男を殺してしまい、心中を企てる話。実際にあった事件だという。ただ、心中直前におしゆんの兄と母親に助けられ逃げ延びる。伝兵衛を思う遊女おしゆんの真情やおしゆんの兄で猿回し与次郎の親切が話の中心だ。この兄を描いた「堀川猿回し」の段は今でもしばしば上演されるという。なお、この狂言本は極めて短いものだ。

「伊賀越乗掛合羽」(台帳)

 これは前の巻で取り上げられていた「伊賀越道中双六」の元の話。仇討ちの話である(内容は前回で触れた)。この作品は浄瑠璃と歌舞伎の相互影響を見るに適した作品で、何回も相互に改作されて上演されたようだ。
 ここはその歌舞伎台帳すなわち台本である。この巻の大部分を占める分量である。普通台帳には目録は付かないらしいが、まず目録があり、大序から大切まで全十五段が示されている(ただし九段目までは〜目となっている)。そして各段には配役と役者名が記され、舞台設定が記され、台詞が役名(役者名)ごとに記されている。もちろん途中にト書きもある。

『江戸歌舞伎集』

「参会名護屋」(絵入狂言本)

 歌舞伎十八番と言うのがある。その一つ「暫」は今でも人気の演目だが、元はこの「参会名護屋」の一場面として初代市川團十郎が初演したものだという。歌舞伎の作品は様々な先行作品の改作というのが多いが、この作品も古浄瑠璃の「なごやさんざ六条がよひ」「名古屋山三郎」、歌舞伎の「遊女論」等の改作である。
 この主人公名古屋山三は実在の武士というが、歌舞伎踊りの創始者の出雲阿国と恋愛伝説があり、伊達男として知られた存在だったようだ。これに敵役を加えた三角関係の話や例によってお家騒動を背景にしたりして物語が作られている。
 ここも絵入り狂言本ということでいわば筋書きのみの短いものだ。元禄期の台帳は残っていないらしい。

「傾城阿佐間曾我」(絵入狂言本)

 江戸では先に触れた市川團十郎が人気だったが、一時上方で活躍した中村七三郎という役者が江戸に戻って良きライバルとなっていたようだ。芸風の違いがあったようだが、彼も江戸を代表する立役者であった。その中村七三郎が、先に触れた「浅間嶽」(「けいせい浅間嶽」)の趣向を「曽我物語」の中に取り入れたのがこの作品だ。この「曽我物語」はこれまでも多くの浄瑠璃や歌舞伎に取り上げられてきた仇討ちの話であるが、そこに濡場を設定するなど「荒事」とは違う要素が色濃くある作品となっている。後の二代目市川團十郎による「助六」の基礎となったという。公演された前年には赤穂浪士の討ち入りがあり、その影響も考えられている。

「御摂勧進帳」(台帳)

 これは有名な作品。「義経記」に基づいていることはいうまでもないが、能の「安宅」と言う作品にも色濃く影響されている。現在でも人気で義経・弁慶・冨樫の三役は立役者が演じることとなっている。
 ここはその台帳だ。この巻の大部分を占めている。一部を紹介しておく。「勧進帳の読み上げ」の場面である。台帳では台詞が役名ではなく、役者名で記されている点にも注目される。
海老蔵=弁慶、團十郎=冨樫だ。因みに義経は松本幸四郎。「第一番目五建目」「安宅の関の段」である。

海老蔵 確かな証拠は勧進帳、人を勧むるこの一巻、身の上の証拠に聞めされい。
団十郎 何、人を勧むる勧進帳とや。
海老蔵 いかにも。
団十郎 然らば早ふ。
海老蔵 心得申て候。
    ト是より又、鼓の相方になり、海老蔵心づいて浄るりの幕の巻物を出して読みにかかる。両方より、取た、とかかる。投ちらす。どつこいと止まる。
海老蔵 夫、つらつら惟みれば、大恩教主の秋の月は、涅槃の上、雲に隠れ、生死長夜の、長き夢、驚かすべき、人の上。
    ト両方より、勧進帳をとりにかかる。是を左右に投て、どつこいと止まる。
 主膳太夫浄るり(歌マーク)ここに中頃帝おわします。御名をば聖武皇帝と名づけ奉り、最愛の夫人に別れ、恋慕やみ難く、涕泣、眼にあつく、涙、玉を貫く。思ひを
海老蔵 善路に翻して、盧遮那仏を建立す。かほどの霊場の絶へなん事を悲しみて。
八蔵
仲五郎 それを。
    トまた掛かる
海老蔵 何をひろぐ。
    ト両人の腕を捩じあげる
浄るり(歌マーク)数千蓮花の上に座せん。帰命稽首、敬つて申と、天も響けと読みあげたり
    ト此浄瑠璃のうち、海老蔵、下へ置きし勧進帳を取て戴く。浄るり切れる
団十郎 その一巻の勧進帳を聞からは、詮議におよばぬ。きりきり爰を通りめされい。
海老蔵 スリヤ、此所を。
団十郎 通りめされい。

というわけだ。しかし歌舞伎はやはり「読む」ものではなく、「観る」ものですね。

2019.03.12

この項了

ドナルド・キーン氏は永遠に

ドナルド・キーン氏が逝去した。多くの人々が弔辞を記している。

小生も一言書きたくなった。

ちょうどドナルド・キーン氏の『日本文学史近世篇』を再読したばかりだからだ。
ここのところ取り組んでいる「日本古典文学総復習」で江戸時代の浄瑠璃について書いていて、参考にするためだ。

恥ずかしながらこの浄瑠璃についての知見がこれまでほとんどなかった。それをキーン氏の著作で学ぶためである。
キーン氏は元アメリカ人である。アメリカの日本文学研究家から日本文学について学ぶのは一見奇異な感じがする。
しかし、彼の日本文学史の知見は多くの日本人の国文学者より勝っているように思う。
もちろん国文学の専門家は多くいるし、江戸時代の作品についても微に入り細に亙って研究した著作も多くある。
しかし、キーン氏の著作には部分的な専門的な知見というより、より広範囲な日本文学の知見と批評に裏打ちされたところがあって、よりわかりやすいのだ。
そこには日本文学に対する飽くなき探究心と日本人に対する深い興味がある。

彼は先の大戦以前から日本語と日本文学をアメリカで学んでいたようだが、その知識から大戦中、情報局の兵士として多くの日本人の兵士の手紙や日記を読むことになり、そこが原点になってこれほどの深い日本文学に対する探求の旅を歩んでいったのは驚くべきことだと思う。

彼の多くの著作の中で、何と言っても外せないのは『百代の過客』である。
この著作で平安時代の「入唐求法巡礼行記」から徳川時代の「下田日記」まで78もの日記・紀行を渉猟している。これだけでもすごいが、日記文学という特異なジャンルに着目したのも大戦中の体験があってのことだと思う。
そうした意味でも『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』もなくてはならない著作である。

こうしたキーン氏の生涯とその研究成果を見るとき、彼が言ったという日本文学の素晴らしさを思うというより、小生はアメリカの懐の深さを思う。
アメリカは大戦においてこのような稀有な人物を持ったが、日本はこうした人物を持つことができただろうか。
日本が嘗て支配を試みた朝鮮半島やインドシナ半島・インドネシアなどに対する歴史と民族に対する深い探求と成果など見当たらないことが恥ずかしい。

ドナルド・キーン氏もまた「百代の過客」に違いない。冥福を祈るまでもない。

2019.02.26

『日本古典文学総復習』94『近松半二 江戸作者 浄瑠璃集』

 今回もまた浄瑠璃。ただ時代が下った時の浄瑠璃作品だ。これまで浄瑠璃は歌舞伎に比べて大いに流行していた。しかし江戸時代も18世紀の中頃になると浄瑠璃は衰退の兆しを見せ始め、主役の座を歌舞伎に譲るようになる。これは浄瑠璃が人形の技巧の高度化を遂げて行ったために、かえって物語の充実がおろそかにされていったこと。また文化の中心が上方から江戸へと移っていったこととも関係があるようだ。浄瑠璃は上方、大阪に本拠があったからかもしれない。そうなると浄瑠璃の歌舞伎化という形が、逆に歌舞伎台本の浄瑠璃化といった傾向も産むようになったようだ。
 そのような浄瑠璃斜陽化のなか、優れた作家として近松半二と言う人物が文学史に名をとどめている。近松半二は近松門左衛門とは血縁的なつながりはない。ただ、父が儒者の穂積以貫と言う人物で近松門左衛門と関係が深く、何より近松門左衛門に私淑していて、そう名乗ったようだ。多分浄瑠璃斜陽化の意識があって、門左衛門時代の復興を夢見ていたのかもしれない。その近松半二には今でも上演される「本朝廿四孝」「妹背山婦女庭訓」などの優れた作品があるが、ここでは絶筆となった「伊賀越道中双六」が収められている。(なお、巻末には翻刻のみの「仮名写安土問答」もある)
 以下他の作者のものも合わせて見て行くことにする。

「伊賀越道中双六」

 天明3年4月大坂竹本座にて初演。近松半二と近松加作の合作。近松半二の絶筆と言われている。歌舞伎から浄瑠璃化した「伊賀越乗掛合羽」と言う作品に依拠しているという。例によって仇討ちの話だ。上杉家の家老、和田行家と言う人物の子息が姉の婿唐木政右衛門という人物の助太刀を得て、父の敵沢井股五郎と言う人物を打つ話。
 ただ、これには実際の仇討ち事件が背景にあるという。世に言う「伊賀越敵討」だ。この仇討ち事件は喧嘩が元の事件だったようだが、やがて旗本と大名の対立まで発展して当時の話題となったようだ。また、この仇討ちの助っ人の荒木又右衛門の剣客ぶりも話題となり、多くの書物を生んでいる。
 こうした実際の事件を脚色するのはいわば浄瑠璃の常套手段だが、近松半二は、この事件を「道中双六」という構想で、場所(東海道筋)を移動しながら様々な登場人物たちが展開するドラマに仕立て上げた。「沼津の段」「岡崎の段」は今でも、その緊迫したドラマ仕立てが好まれているという。
 主人公も仇討ちする本人ではなく、助太刀する剣客唐木政右衛門として、その人物の活躍を描き、また、大名と旗本との確執も描いている。

「絵本太功記」

 普通「たいこうき」といえば「太閤記」である。もちろんこれは豊臣秀吉の一代記だ。しかしこの「絵本太功記」は信長を本能寺で謀反に及んだ明智光秀を主人公とする話である。その光秀が本能寺の変で織田信長を討ってから、天王山の合戦で秀吉に敗れて滅ぼされるまでの、いわゆる光秀の「三日天下」を題材にしている。近松半二はこの作に先行する『三日太平記』と『仮名写安土問答』(この書は翻刻のみで付録に収められている)でこの話を書いているが、この作は近松半二の作ではない。しかしこれらを基本にしていることは間違いないだろう。また、当時出版が始まった秀吉を描いた『絵本太閤記』が大評判となっていたことも影響しているはずだ。
 この作の特徴は、当時から大阪の人々に絶大な人気のあった秀吉ではなく、その敵役の光秀に着目した点にあるが、その構成にも注目すべき点がある。実録風に一日一段の構成になっている点だ。光秀が謀反を決意した天正10年6月1日から、秀吉との戦いに敗れ小栗栖の竹薮で落ち武者狩りの土民の手によって落命する同13日までを描き、それに「発端」の一段を加えた14段構成はこれまでの浄瑠璃になかったものだ。
 中でも十段目の「尼ヶ崎の段」は、誤って光秀が自らの手で母親を刺し殺してしまい、そこに戦場で深手を負った息子が戻ってきて、味方の敗北を伝え息絶えるという、悲壮感が追い打ちをかけるような名場面で、歌舞伎でももっぱらこの段が上演されたという。
 それにしても、成功者も好きだが、敗れ去った者への同情も好む庶民に後々も好まれることとなる話である。

「伊達競阿国戯場」

 これはもともと歌舞伎の台本だったものを浄瑠璃化した作品だ。歌舞伎では通称「先代萩」「身売りの累」で親しまれている。題名からわかるように仙台藩伊達家のお家騒動と下総に伝わる累の伝説を絡めて作られた作品。1778年(安永7)閏7月江戸中村座で初演されている。
 この伊達騒動は江戸時代前期に藩主の伊達綱宗が乱行を理由に幕府から隠居を命じられたことに端を発し、藩内の進歩派と保守派の対立や所領争いに発展した事件だ。
 累伝説は下総の羽生村にいたという醜女の話。その醜女、容貌が醜いだけでなく性根も悪かったために、結婚するが夫に殺されてしまう。それが怨霊となり祟りをもたらすという話。
 この二つの話が様々な形で取り上げられ作品として残っているが、中でも歌舞伎の「伽羅先代萩」は有名。浄瑠璃では第二から第五まで歌舞伎によっているが、そのあとは創作だと言われる。ただ、歌舞伎でも浄瑠璃でもすべて通して演ぜられることは少なく、それぞれの段がいわば独立して上演されている。この辺りも浄瑠璃や歌舞伎の特徴でもある。

 こう見てくると浄瑠璃はやがて歌舞伎にその中心的な座を譲って行くことになる。ただ、読む文学としては未だその価値は存在すると思う。なぜなら歌舞伎はあくまで見るものだからだ。それに比して浄瑠璃は人形を使っているとはいえ、その詞章すなわち「語り」に重きがあるからだ。
 次は歌舞伎台本を見て行くことになる。

2019.02.26
この項了

『日本古典文学総復習』93『竹田出雲 並木宗輔 浄瑠璃集』

 また、だいぶ間が空いてしまった。木工に取り組んでいたせいもあるが、それも完成したのでちょこちょこやっていたのを今日まとめてみた。
 今回も浄瑠璃。竹田出雲と並木宗輔だ。
 現在浄瑠璃は文楽という形で伝統芸能として演じられている。また、歌舞伎の台本としても演じられている。この文楽と歌舞伎の現在の関係は当時とは随分と違っている。現在、歌舞伎はそれなりに世間で認知されていることは歌舞伎の役者がテレビ等にかなり露出していることからもわかる。しかし浄瑠璃すなわち現在の文楽はほとんど古典芸能としてのみその存在価値があるにすぎないように思える。
 しかし、歌舞伎の多くは元は浄瑠璃の作品だった。浄瑠璃の一部を舞台に載せ、人形ではなく人間が演じたのが歌舞伎であったと言っていい。ここに上がっている作品もそうである。各作品を見ていくことにする。

「蘆屋道満大内鑑」

 享保19年に大坂竹本座で初演された竹田出雲の時代物の作品。もちろん人形浄瑠璃として公演されている。
 話は陰陽師として後代でも著名な安倍晴明の父とその敵役の蘆屋道満との対立を描いたもの。この話の下敷きには「信田妻」の伝説がある。この「信田妻」の話は古くから説経節でも取り上げられた異類婚姻譚。狐の母から生まれた安倍晴明が秘符と秘玉を与えられ陰陽師となり、蘆屋道満に験比べで勝つというもの。竹田出雲はこの話を情愛の物語に仕立てた。父保名と許婚葛の葉姫の物語だ。白狐の変わり身である葛の葉姫と本物の葛の葉姫との早変わりが見どころとなっている。また、「信田の森二人奴」の段ではじめて人形三人遣いが行われたことでも有名。さらに歌舞伎では四段目のみ上演されることがほとんどのようで、「曲書き」といわれる子を抱えたまま筆を口にくわえて裏文字で書くという芸当も見せ場となっている。時代物ではあるものの世話物的な要素の方が後にも受け入れられたようだ。

「狭夜衣鴛鴦剣翅」

 「さよごろもおしどりのつるぎは」と読む。元文四年豊竹座で初演された並木宗輔の時代物の作品。「仮名手本忠臣蔵」に先行する作品。例によって時代は南北朝の時代、足利尊氏と新田義貞が争う物語を背景に新田の家臣塩冶判官と尊氏の重臣高師直の争いの話。その推理小説的要素、意外な展開などから後に評価されることはあったが、当時はその写実的で暗い内容からあまり受けなかったようだ。当時大阪の人形浄瑠璃に再演記録ないという。

「新うすゆき物語」

 寛保一年大坂竹本座で初演された時代物。ただし角書には「時代世話」とあり、舞台が鎌倉時代になっているが、世話物的な要素を多分に持った作品。作者は合作。江戸初期の仮名草子「薄雪物語」が下敷きになっている。この話は典型的な恋愛小説。園部衛門と言う人物が清水寺で見初めた人妻と恋文をかわし、やがてその恋愛は成就するが、その人妻薄雪は病死してしまい、園部衛門も出家してしまうという話。実はこの話、大半が衛門と薄雪の往復書簡で構成されていて、これが恋文の文例として読まれたという。
 その単純な話に敵討ちの要素を加えたり、天下調伏の嫌疑を絡めたりして劇化したもの。ただ、その元の物語の単純な構成が一般受けした理由にもなっていたようで、かなりな評判となり、上演頻度が高かったようだ。歌舞伎においても様々な見せ場を設け評判を得て来たという。

「義経千本桜」

 延享四年竹本座初演。元は浄瑠璃の傑作とされる作品。竹田出雲、並木宗輔らの合作。当時歌舞伎は不振を極めていたという。浄瑠璃が隆盛の極にあったらしい。
 物語は義経の名があるが、むしろ平家の公達の話。知盛・維盛・教経といった滅びゆく平家の三武将を中心に、いがみの権太、静御前、狐忠信たちの活躍がある。千本桜というように一見華やかな舞台の中で無常感が漂う悲劇となっている。もちろん平家物語が下敷きになっている。
 後に歌舞伎でも多く取り上げられ、知盛の入水や無頼漢のいがみの権太が維盛一家を助ける場面、これまた狐の化身が登場する道行など多くの観客を楽しませた。「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」とともに時代物の三大傑作とされている。

 このように見てくると浄瑠璃がいかに歌舞伎よりも中心的なものであったがわかる。浄瑠璃の方がむしろ完全な物語となっていて、歌舞伎がのちにその浄瑠璃の一部分を演じるという形であったことがわかる。また、浄瑠璃も古くからある物語や伝説を巧みに取り上げることによって物語を構成していることがわかる。つまり演劇は基本的な話が観客に知られていないと成立しにくいという特徴が知られる。
 最後に文芸としての浄瑠璃と言うことで言えば、その文章の一端を示さなければならないだろう。

 山々は。皆白妙に白雪の。梢するどき。気色かな。佐藤忠信大音上。「清和天皇の後胤。検非違使五位の尉源の義経也。兄頼朝が家来の汝等。現在我に敵するは。主に刃向ふ無道人。天狗に習し妙術にて。一一に蹴殺して。谷のみくずとしてくれん。観念せよ」と呼はつたり。(「義経千本桜」第五 (吉野山の段) 冒頭)

 

2019.02.09
この項了

『日本古典文学総復習』91・92『近松浄瑠璃集上・下』

 年が改まって、あと10冊になったので、少し速度を上げないとと思っている。
 今回は前回に続いて浄瑠璃。その浄瑠璃を完成させた近松だ。近松門左衛門は江戸時代を代表する文学者だ。西鶴や芭蕉よりも最も江戸時代を代表すると言っていい存在だと思っている。ただ、浄瑠璃というジャンルが現在は古典芸能という所に追いやられてしまっているために、その文学としての価値が必ずしも正当に評価されていないように思える。この辺りを念頭に近松の世界を振り返ってみたい。
 近松は上級の武士の家に生まれ、幼少時代は比較的恵まれた生活をしていたようだが、父が浪人になったために京都に移り住み、ある機会から公家に仕えるようになって、そこで浄瑠璃に出会ったようだ。当時浄瑠璃はそれなりの流行を見せていたようで、京の公家たちの間でも好む人たちがいたようだ。そこで当時の浄瑠璃の代表的存在、加賀掾に出会い、その台本を書くことになったとのこと。当時の浄瑠璃の作者は署名もない存在だった。歌舞伎の台本作者も同様で演じる者が全てだった。そんな中、近松の作品として先ず間違いないものとしては、この書の巻頭にある『世継曽我』と言う作品だ。

『世継曽我』

 これは伝統的に受けに受けた曽我兄弟の仇討ち物語の後日談と言う形でつくられている。兄弟の恋人を登場させて、当時の遊里の情緒も含んだ当世風に仕立て上げられている話。しかも歌舞伎的な要素を浄瑠璃に持ち込んだ作品とされている。
 そして、この本がきっかけで竹本義太夫と出会うことになったようだ。義太夫は浄瑠璃の根本である義太夫節の創始者。この竹本義太夫が登場して近松と出会い、浄瑠璃は大きく変化する。その竹本が大阪で竹本座を立ち上げ、初演となったのが『せみ丸』と言われている。

『せみ丸』

 近松門左衛門という署名のある作品。内容は謡曲の「蝉丸」を題材に、美男で多くの恨みを女からうけた主人公蝉丸がその結果盲目になるというもの。この作品がいわば「色好み」を題材にしている点、また三段目の「せみまる道行」のいわゆる道行文の完成度に特色がある。
 さて、この後に掲載されている『曽根崎心中』が何と言っても近松浄瑠璃の特質を遺憾無く発揮する作品だ。

『曽根崎心中』

 この作品は一段ものといって極めて短いものだが、当時実際にあった心中事件をほどなく浄瑠璃化し上演したために大ヒットとなったようだ。
 醤油屋の主人の甥で手代奉公中の徳兵衛という人物が、堂嶋新地の遊女おはつと馴染んでいたが、それぞれに縁談が持ち上がり(といっても遊女の場合は身請け話だが)、そこに徳兵衛が友人に金を騙し取られるといったいきさつもからまり、結局二人は心中するという話。
 この作品がいわば近松の作品の方向性を決めたといっていい。これ以来近松は「心中」にこだわった。ここに当時の社会の本質を見極めたといっても過言ではないような気がする。この後いわゆる心中ものと言われる作品が多出する。以下だ。
『曽根崎心中』1703年(元禄16年)『心中二枚絵草紙』1706年(宝永3)3月『卯月の紅葉』1706年(宝永3)4月『卯月の潤色』1707年(宝永4)『心中重井筒』1707年(宝永4)『今宮の心中』1711年(正徳元年)『心中天網島』1720年(享保5年)『心中宵庚申』1722年(享保7年)竹本座
 なお、この大系では『曽根崎心中』のほか、『今宮の心中』『心中宵庚申』が収録されている。

『今宮の心中』

 この作品は『曽根崎心中』同様、実際にあった心中事件のあと作られ上演されている。事件の詳細は不明だが、大坂今宮の戎の森で前年秋にあった、年上の下女と手代の心中事件だという。下女のおさきという人物に別の縁談があったことから事件は起きたという、例のパターンだ。しかし、この事件はその心中の、松の木に絹の布を掛けて、その両端で首を吊るという形から、世間の注目を集めたという。ただ、近松は当時の他の作者たち(他の座でもこの話を題材に作品が上演されていたし、浮世草子も出版されていたようだ)と違って、主人公の手代を単純な悲劇のヒーローに仕立てていない点が注目される。

『心中宵庚申』

 この作品は心中ものとしてはちょっと変わった内容に思える。というのは心中するのが夫婦だからだ。この夫婦、夫は養子、妻は三度の結婚という組み合わせ。そこに義母が大きく絡む。夫の留守中に義母が折り合いの合わない妻を懐妊中にもかかわらず里に返してしまう。夫はなんとか妻と添い遂げたいと思うが、義母に対する恩誼から苦悩する。色々と画策するが結局は死を選ぶしか無くなるという話だ。
 現代的感覚から言えば、おかしな話に思えるが、当時にあっては決してありえない話ではなかったのだろう。
 こうした近松の心中ものにはいくつかの特徴がある。その第一は登場するする人物がごく普通の人間たちだということだ。歴史的人物を扱うものが多かったその他の作品やいわばヒーローを主人公とする演目に比べると、そこに登場する人物たちは極めて卑小に見える。単に市井の人物というばかりか、実に優柔不断な情けない人物たちなのである。
 またもう一つの特徴は、内容が当時の社会の枠組みをしっかり捉えている点だ。それまでの男女の情愛をテーマにしていた文学と違い、社会の枠組みの中で苦悩する人間の葛藤が描かれている。一般に近松の心中ものを「義理と人情の板挟み」をテーマとすると言われるが、この「義理」というのが社会の枠組みであり、その枠組みの中でしか生きることのできない普通の人間の「情」が貫徹するためには「死」しかないことを描ききったということだ。
 そして見逃してはならない特徴がその語り口だ。それは「道行文」と言う形で定式化されたものだ。これは、男女が様々な軋轢から結局は死を選ぶしかなく、死にに行くクライマックスで語られる文章の完成度だ。ドナルドキーン氏が最も美しい日本の文章だといった『曽根崎心中』から引用しておく。

この世の名残り 夜も名残り 死ににゆく身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足ずつに消えてゆく 夢の夢こそ あはれなれ
 あれ 数ふればあかつきの 七つの時が六つなりて のこる一つが今生の 鐘のひびきの聞きおさめ 寂滅為楽とひびく也

 これを聞いた(読んだではない)当時の聴衆は胸が詰まって涙したに違いない。
 しかし、この近松の心中ものは、多くの類似の作品を生みながら姿を消してしまう。これは当時の為政者がこの心中ものの上演を禁止したからだ。この事実は逆にこうした心中ものが如何に当時の社会の本質的な暗部を捉えていたかの証左でもあると言える。
 心中ものにこだわりすぎただろうか。もちろん近松には他にも多くの作品がある。以下この大系に納められた他の作品を列挙してこの回を終えることにする。

 『丹波与作待夜の小室節』

俗謡でうたわれた人物を題材に、馬方におちぶれた元武士の与作に、なじみの女小万、妻の滋野井、子の三吉らがからむ物語。「恋女房染分手綱」はその改作。

 『百合若大臣野守鏡』

 幸若舞、説経節、などにもある「百合若物」の主人公百合若大臣の話。筑紫の国司となり命によって蒙古を攻めて凱旋の途中逆臣のため孤島におきざりにされるが、後に神仏の加護で筑紫にかえることができ、鉄の大弓で復讐をとげる。

 『碁盤太平記』

 時代物の代表作。赤穂義士のかたき討ちを「太平記」の世界に仮託して、大星由良之助、力彌父子の出立と討入り本懐を脚色したもの。これも実際の事件を扱った作品。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を生む母胎となった。

 『大職冠』

 元は幸若舞の曲の一つ。中国から送られた宝珠が瀬戸内海で竜に奪われたのを残念に思った大織冠藤原鎌足が、海女と契ってその女に竜宮の宝珠を取返させるという玉取り伝説に基づく。謡曲『海士』や古浄瑠璃にもある話。外国趣味が見られる作品。

 『天神記』

 菅原道真を巡る天神伝説や先行する能作品等をモチーフとした作品。初演当時大当たりし、同年歌舞伎でも上演され、人形浄瑠璃を歌舞伎に移した最初の例となったと言われる。『天神記』には「渡唐天神」「飛梅」「綱敷天神」「柘榴天神」「天拝山祈願」といった、道真と天神にまつわる伝説が巧みに織り込まれている。『菅原伝授手習鑑』の先行作。

 『双生墨田川』

 時代物の一つ。能の隅田川を骨子とし、宇治加賀掾の浄瑠璃隅田川などによる。吉田家のお家騒動に霊木のたたりをからませ、鯉魚の名画の霊怪談を付加するといった怪奇性の強い点に特色がある。吉田少将行房とその愛妾班女との間に梅若・松若の双生児がいた。行房は舅の常陸大掾百連の計略にかかって死に、松若は天狗にさらわれるという話。

 『津国女夫池』

 晩年の作品。室町幕府の将軍足利義輝殺害にまつわる史実と、大阪天満にあった夫婦池の伝説をおりまぜた時代物。義輝に謀反を起こす悪の一派と将軍家を守り世の中の秩序回復を図ろうとする善の側の攻防が展開される。将軍の御台を守る冷泉造酒之進とその父・文次兵衛の起こす悲劇が描かれる。善良な人間が犯す「悪」に対する関心がうかがえる作品。

 『女殺油地獄』

 これも同様に「悪」の際たるもの、殺人を扱った著名な作品。放蕩息子である河内屋の次男与兵衛が金に困り、姉のように親しんでいた豊島屋の女房・お吉を殺してしまう顛末が書かれた作品。しかし、この作品はいわば衝撃的な内容のためか、初演以来再演がなかったという。ただ、現代では映画等に取り上げられている。

 『信州川中島合戦』

 近松の最晩年期を代表する作品の一つ。時代物。戦国時代末期、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とによる戦いの史実を背景に、山本勘助などの伝説を加えた作。信玄の子勝頼と謙信の娘衛門姫との恋が信州の領主村上義清の横恋慕のため親たちに知られ、両家不和の原因となったとする。これを収めようと努めるのが山本勘助で、謙信は川中島の合戦で信玄を襲うが、その信玄は実は勘介だったとする。

 『関八州繋馬』

 近松の絶筆と言われる作品。「繋馬」は、関東の風雲児、平将門が用いていた旗印という。しかし、活躍するのはその遺児の将軍太郎良門と小蝶の兄妹。敵役は源頼光と四天王という古浄瑠璃ではおなじみの武者たちと言う構成。巧みに謡曲「土蜘」が取り入れられ、妖怪変化が登場して舞台が工夫されていて大いに受けたと言われる。

 こうして近松の作品を見てくると、やはりそれは演劇だということを思い知らされる。

2019.01.18
この項了

『日本古典文学総復習』90『古浄瑠璃・説教集』

 やっと90冊目となった。今年の年賀状を見たら、去年までで70冊とあった。もう年賀状を書く時期だからこの一年20冊しか読んでいないことになる。まあ、いろいろな事情があるが、古典も時代が下るにつれ、これまであまり触れていなかったものが多く登場するというのが主な原因かもしれない。総復習と題してはいるが、江戸時代に入ると初見の古典が多く登場するのも時間がかかる理由と言える。

 さて、今回は『古浄瑠璃・説教集』だ。江戸時代の文学は実に多岐に亘っていて、これまで読んできた浮世草子や滑稽本・洒落本、それに大部な読本といった散文を始め、芭蕉を中心とする俳諧や狂歌まで多くの優れた作品がある。その中でも忘れてはならないのが、「浄瑠璃」と言うジャンルだ。これから触れるであろう近松は西鶴や芭蕉といった天才と肩を並べるどころか、むしろ抜きん出た存在だが、その近松は浄瑠璃の作者である。この近松の浄瑠璃は江戸時代の文学の象徴だと言っても過言では無い。時代の本質に最も近づいた文学者と言っていい存在である。ただ、浄瑠璃は人形を使った劇として演ぜられる為にかえって近代においては近づきがたいものとなってしまったように思う。当時はそんなことはなかったはずだが、この音曲と人形を用いた「語り」である浄瑠璃は近代の「読む」ことを中心にした文学読者にとっては異質なものと写ってしまうからだ。

 それはさておき、ここではその近松の浄瑠璃に行く前に、先行する浄瑠璃とその祖ともいえる説経節について見ることにする。

 浄瑠璃の始めはこの巻の冒頭にある「浄瑠璃御前物語」である。この物語は後の義経、牛若丸の恋物語である。その相手の名が「浄瑠璃姫」ということになっている。例によって悲恋物語であり、蘇生話である。元は三河国峰の薬師のご利益(ごりやく)を伝える語り物であったという。
 先ずはこの点が重要だ。話が仏教の布教に絡んでいること、そして「語り」ものであったことだ。「語り」ものはむしろ文学の中心だった。我々は「読む」ということに文学を見るが、「読む」形が一般化したのは江戸後期に入ってからだ。簡単にいえば識字率がそれほど高くなく「読む」ことではなく、「聞く」ことによって文学を享受するのが一般的であったということだろう。「読む」ことのできる人口が少なく、出版もそれほど発達していない中、「語られる」物語はいわば誰でも享受することができるものだ。しかもそれが人形とはいえ、演ぜられればなおさら親しみやすいはずだ。しかも内容が悲劇の主人公の物語となれば庶民に受けいられたに違いない。
 ここでわれわれが「読ん」でいるのはもちろん活字化された物だが、いずれも最初は語られていたものだ。説経節もまたそうした物の一つである。

 以下ここに納められた作品を見ていこう。

「浄瑠璃御前物語」

 前述

「ほり江巻双紙」

 高貴な身分の出である武士が美しい姫を娶って幸せに見えた人生が、国司の横恋慕によって暗転し、非業の死を遂げる。残された忘形見が艱難を乗り越え、復讐を果たして栄えるというおきまりのお話。東国で熊野信仰や日光信仰を説いた人々の関与があったとされる。

「をぐり」

 説教節の一つ。後にも歌舞伎でも取り上げられた有名な話。これも高貴な出である小栗判官が照手姫という美女を娶ったところから悲劇が始まる。姫の兄弟に惨殺されてしまう。しかし、地獄の閻魔大王に許され、辛うじて生き返り、熊野の壺湯につかり元の姿となる。そして復讐を遂げて、照手姫とも再会を果たす話。時宗の布教や熊野信仰とも深い関わりがある。

「かるかや」

 これも説経節の一つ。高野山の念仏僧が広めたと思われる往生譚。苅萱道心と子息石童丸の物語。なに不自由ない生活をしていた加藤左衛門重氏という人物が突如周囲の反対を押し切って出家し、苅萱道心と名乗り、妻と息子が訪ねて来るのを恐れて女人禁制の高野山にこもる。やがて息子とは再会するが父であることは最後まで明かさず、北國に旅に出て往生する。息子の石童丸も出家し道念坊と名付けられ、やがて往生して、やっと善光寺に親子地蔵として祀られるというお話。

「さんせう太夫」

 これも説経節。森鴎外の小説で有名になった話。安寿と厨子王の話。これも説経節のパターンでおなじみの離散と復讐の物語。これも仏教的背景があるらしい。忍性といった律宗僧の宗教活動だ。最後はやはり幸福になるのだが、途中の話の展開は実に悲惨だし、復讐のあり方も実に残酷な点が注目される。

「阿弥陀の胸割」

 仏教種の古い語り物。阿弥陀の身代わり利生譚。「さんせう太夫」と同様な姉弟の物語で幾多の艱難辛苦を乗り越えてやがて幸福となるというこの時期の語り物のパターンだ。 

「牛王の姫」

 「浄瑠璃御前物語」と同様、鞍馬の牛若丸のお話。題名にあるように牛王の姫との恋物語となっている。牛王の姫は数々の拷問にも屈しない姿は「さんせう太夫」の安寿と同じ人物像。こうした話がいかに当時の庶民に受けたがわかる。これも人形劇として語られていた。

「公平甲論」

 金平浄瑠璃の代表作とされる話。金平浄瑠璃は、軍記浄瑠璃と言われ、罠にはまって没落した武士たちの復活劇を描く。いわば後の歌舞伎の荒事につながるものだ。源頼義のもと、親四天王の子供たちが子四天王として活躍する武勇潭となっている。

「一心三河白道」

 歌舞伎の主要演目として知られる清玄桜姫物のうち最古とされる作品。清玄桜姫物とは、様々な形で歌舞伎で取り上げられたいわば恋愛に執着する男の物語。有名な「娘道成寺」にもこの話の片鱗がある。

 さて、最後に「をぐり」から本文を紹介しておく。この部分は加藤周一氏も取り上げた照手姫の人物像の鮮烈さを示す部分だ。ここには平安時代にはなかった芯の強い女性像が伺える。小栗判官と照手姫が再会する場面だ。この時小栗は完全復活し社会的立場も高いものとなっていた。一方照手姫はいまだ水汲み女という下層の女であった。照手姫の主人は再会にあたって、十二単をまとって出かけるように勧める。しかし照手姫は
次のように言って拒否し、前垂れ姿で小栗の前に現れる。

 

「愚かな長殿の御諚やな 流れの姫とあるにこそ 十二単もいらふづれ 下の水仕とあるからは あるそのままで参らん」と 襷がけの風情にて 前垂しながら銚子を持つて 御酌にこそは御立ちある

 そして小栗が照手姫にその身分をただすと

 

「さて自らは 主命にて御酌にこそは参りたれ 初めて御所様と懺悔物語には参らぬよ 酌が厭なら待たうか」と 銚子を捨てて 御酌をこそはお退きある

 と言って拒否するのだ。

 ここに加藤氏は後の江戸時代の遊里の花魁の気性の原型を見ている。

 さて、ここでやっとこの日本古典文学総復習も90冊を終えた。あと10冊は来年に持ち越しである。

2018.12.29
この項了

『日本古典文学総復習』88・89『偐紫田舎源氏上下』

また大部な作品がやってきた。柳亭種彦作、歌川国貞画の『偐紫田舎源氏』だ。前回の二倍の容量だ。したがって、この短期間に読了できるわけがない。例によってパラパラとページを括って読んだことにするしかない。

さて、題名からいってこれは源氏物語のパロディと想像できる。しかし、内容はどうもパロディではない。設定と物語の骨子を使っているものの基本は武家のお家騒動と権力争いとなっている。源氏物語が当時かなり読まれていた、というより人口に膾炙していたエピソードを巧みに使って、一種の活劇的な長編物語を作り上げたといっていい。馬琴が主に大陸の古典を典拠にして物語を作ったと同様に種彦は日本の古典を題材に物語を作り上げたと言える。

ということで舞台が同じ日本ということになるので、時代を源氏物語の平安時代から室町時代に移し替えている。語り手は江戸日本橋の式部小路の女お藤と言う人物という設定で、この人物が石山寺ならぬ石屋の二階に暮らして書いたとしている。(この辺りがいかにも江戸時代的だ。)
主人公は将軍足利義政の妾腹の子の光氏と言う人物。彼が将軍を狙う山名宗全と戦って最後には勝利して栄華を極めるいうストーリーだ。ただ、その過程ではこの光氏の女性遍歴が存分に描かれる。これはもう源氏物語の得意とするところだが、この源氏物語の幾つかの話を巧みに利用している。夕顔との一夜や六条御息所と葵の上の車争いの話なども巧みに利用されている。ただ、こうした男女の話の幾つかが室町時代という設定とは言え、城内を舞台に描かれていることが問題視されたようだ。
江戸時代の男女の恋愛沙汰といえば遊里が舞台というのが定番だが、それが城内となれば当時の大奥を連想させることとなる。そこでこの物語は評判になればなるほど当局から睨まれるようになったようだ。全編で四十編だが、実際に出版されたのは三十八編までで、これは当局から絶版を命じられたためだという。理由は当時の将軍家斉の大奥を描いているとされたためだという。

ところでこの物語には注目すべき点がまだある。その一つが国貞の絵だ。この大系本では上段に当時の板本が示されているが、絵の間に文章が刻まれているという形で、いわば絵の方が中心と言っていいものだ。その質の高さは当時の一級品と言える。ここにその一部をネット上で見つけたものから紹介する。(http://book.geocities.jp/hf2929/72murasaki/)各編の表紙は色刷りのようだ。

 

また注目すべきは源氏物語にある和歌を巧みに利用した発句や俗謡の類だ。源氏物語には多くの和歌が引かれている。作者紫式部は当時の有数な歌人であったが、この物語の作者種彦もそれに劣らぬ才能を示している。その幾つかを示しておく。

風よりはさきにきて見ん山ざくら(主人公・光氏)
宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく(源氏物語・若紫・光源氏)

さくらには目こそうつらね花のかほ(相手役・阿古木)
優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつらね(源氏物語・若紫・北山僧都)

いつか見んわれもちりゆく花の京(主人公・光氏)
いつかまた春のみやこの花を見ん時うしなへる山がつにして(源氏物語・須磨・光源氏)

なきかげやまだ目にのこるおぼろ月(主人公・光氏)
なきかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も雲がくれぬる(源氏物語・須磨・光源氏)

馬琴の合巻同様、いつか全編を精読できる日が来るか全く心許ないが、こちらの方が精読を試みたい気がしている。

2018.11.23
この項了

『日本古典文学総復習』87『開巻驚奇侠客伝』

またもや大分間が空いてしまった。もう11月も中旬だ。このままだとまた今年中に終わるのは難しいかもしれない。遅れた原因は色々とあるが、主な理由はこの作品だ。実に大部なのである。本文だけで700ページを優に超え、しかも2段組である。これを読破するのはもちろん部分的に斜め読みするのも難しかった。そこで今回は仕方なく梗概だけを紹介し、あわせて作者滝沢馬琴に触れてお茶を濁す事にする。

そもそも最初の疑問はこの大部の作品を誰が読んでいたかという事だ。作者馬琴は日本初の職業作家と言われている。つまり作品を書くだけで生活していた最初の作家だという。これまで見てきた江戸の作者たちはあるいは武士であったり、上流商人であったりしていて、いわば文学は余儀という形だった。しかし、馬琴は戯作者として原稿料をもらって生活していたという。という事はそれなりに読まれていなければならない事になる。こんな大部の本を誰が読んでいたのだろう。ただ、大部といっても一気に出版されてはいなかったようだ。少しづづ出版され、後にまとまって再び出版されるといった形のようだ。それにしても江戸の文化水準の高さをこれは物語っている。もちろん庶民層が読んだかどうかはわからない。しかし、総ルビであったことから、仮名さえ読めれば読む事ができるから、江戸や京、大阪といった都市の住民なら読めたに違いない。そこが驚きである。

さて、その内容だが、いわば歴史ものである。「史伝読本」と言う内容だ。舞台は例によって足利時代。滅びた南朝の遺臣たちが南朝のために忠義を尽くす話である。南朝方の新田氏と楠氏の子孫が主人公となっている。小六丸と姑摩姫という。そこに善悪二様の副主人公が配されて、史実と虚構がないまぜになって展開する。結局は勧善懲悪の物語なのだが、この主人公の設定に当代性がある。
この小六丸は近世歌謡に謡われた関東小六を面影とすると言われている。この人物は江戸赤坂に住んでいた氷川明神の熱心な信者で、美男・美声で知られた馬方がモデルとされているという。すなわちこの男は当時の流行の伊達男なのだ。馬方がモデルというとなんだが、むしろこれが庶民受けする形なのだろう。浄瑠璃にも登場し、歌舞伎や長唄の題材にもなったという。
そしてもう一人の女主人公姑摩姫は女侠奴小万と言う人物がモデルだという。この小万と言う人物は「なにわの女侠客。大阪長堀の豪商である三好家のむすめ、お雪」だという。いろんなエピソードがあるようだが。いわば「女伊達」のシンボル的存在だったようだ。これもまた都市の庶民受けする形である。
馬琴はこうした当時の庶民層のいわばアイドル的存在を巧みに利用して、しかも滅びた側の南朝を中心にすえて物語を作ったと言うわけだ。
しかし、それにしてもこの大部の物語をゆっくり読む時間のある江戸という時代がうらやましい限りだ。

2018.11.12
この項了