成島柳北「柳橋新誌」初編を読む3

柳北は幕府の奥儒者です

前回の終わりに書いたが、この書の作者成島柳北は江戸時代の奥儒者だった。この書は安政六年一八五八年に書かれたと言われている。二十三才である。二十才で奥儒者となり、将軍に書を講じている。もちろん儒教の書である。

現代から考えると、その若さといい、その社会的立場といい、こんな書を書けるとは想像だにできないが、何が彼をしてこの書を書かしめたのか興味深い。

実は柳北、この四年後狂詩によって幕閣の因循を批判して、奥儒者の職を罷免させられている。この件は「柳橋新誌」二編の後序に触れられているが、柳北が実は血気盛んな面を持っていることをうかがわせる。

幕末という変動期にあって、体制側の中枢にいながら自らの体制を批判し、自らがよって立ってきた立場に疑いを持つ。容易にできることではないはずだ。その鬱屈を晴らすのが柳橋であったのだろう。

したがって、やや理想的にこの花街を描きたい所が散見するのは致し方ないが、どうしても柳北の批判精神がそこに止まらせないのも確かであるように思う。

明治期になって書かれた第二編は時代のさらなる変転を背景に違ったものとならざるを得なかった。

これについてはまた。

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