ドナルド・キーン氏が逝去した。多くの人々が弔辞を記している。
小生も一言書きたくなった。
ちょうどドナルド・キーン氏の『日本文学史近世篇』を再読したばかりだからだ。
ここのところ取り組んでいる「日本古典文学総復習」で江戸時代の浄瑠璃について書いていて、参考にするためだ。
恥ずかしながらこの浄瑠璃についての知見がこれまでほとんどなかった。それをキーン氏の著作で学ぶためである。
キーン氏は元アメリカ人である。アメリカの日本文学研究家から日本文学について学ぶのは一見奇異な感じがする。
しかし、彼の日本文学史の知見は多くの日本人の国文学者より勝っているように思う。
もちろん国文学の専門家は多くいるし、江戸時代の作品についても微に入り細に亙って研究した著作も多くある。
しかし、キーン氏の著作には部分的な専門的な知見というより、より広範囲な日本文学の知見と批評に裏打ちされたところがあって、よりわかりやすいのだ。
そこには日本文学に対する飽くなき探究心と日本人に対する深い興味がある。
彼は先の大戦以前から日本語と日本文学をアメリカで学んでいたようだが、その知識から大戦中、情報局の兵士として多くの日本人の兵士の手紙や日記を読むことになり、そこが原点になってこれほどの深い日本文学に対する探求の旅を歩んでいったのは驚くべきことだと思う。
彼の多くの著作の中で、何と言っても外せないのは『百代の過客』である。
この著作で平安時代の「入唐求法巡礼行記」から徳川時代の「下田日記」まで78もの日記・紀行を渉猟している。これだけでもすごいが、日記文学という特異なジャンルに着目したのも大戦中の体験があってのことだと思う。
そうした意味でも『日本人の戦争ー作家の日記を読むー』もなくてはならない著作である。
こうしたキーン氏の生涯とその研究成果を見るとき、彼が言ったという日本文学の素晴らしさを思うというより、小生はアメリカの懐の深さを思う。
アメリカは大戦においてこのような稀有な人物を持ったが、日本はこうした人物を持つことができただろうか。
日本が嘗て支配を試みた朝鮮半島やインドシナ半島・インドネシアなどに対する歴史と民族に対する深い探求と成果など見当たらないことが恥ずかしい。
ドナルド・キーン氏もまた「百代の過客」に違いない。冥福を祈るまでもない。
2019.02.26