『日本古典文学総復習』7『拾遺和歌集』

『拾遺和歌集』を読む

歌集について

『拾遺和歌集』は、これまで見てきた古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集である。(ただ、成立についてはいろいろあるようだ)
「拾遺」という名のとおり、古今・後撰両集で入れ残した歌を拾うという意味を持っているようだ。
貫之・躬恒といった古今集の主要歌人の歌がさらに多く取られ、後撰集には取られてなかった後撰集の編者たちの歌が初めて多く採用されている点、さらには柿本人麿の歌が極めて多い点からそれは言える。(ただし、人麿の真作とみとめられる歌はわずかに過ぎないようだが。)
また、当時の専門歌人でない貴族たちの歌が多いのもその特徴と言える。これは和歌が貴族の間で日常化したことの証左だろう。
部立は全20巻でこれまでの歌集と同じだが、特徴的なのは「雑春」「雑夏」「雑秋」「雑冬」という巻があることだ。
では、内容的にはどんな特徴があるのだろうか?そこで今回はこの『拾遺和歌集』和歌集で初めて多くの歌が取られた歌人の歌を中心に見ていくことにする。

歌人

源順

わかやとのかきねやはるをへたつらん夏きにけりと見ゆる卯の花

「屏風に」という詞書きがある歌。いわゆる「屏風歌」だ。これは平安時代になって貴族の間でインテリアとして流行した大和絵の屏風に歌を書き込んだ物だ。
源順は後撰和歌集の編者だが、当代きっての学者だったようだ。万葉集の訓詁や漢文にも通じていたと言われる。「卯の花」は夏の身近な花。

平兼盛

み山いてて夜はにやきつる郭公暁かけてこゑのきこゆる

前の歌の詞書きに「天暦御時歌合」とあり、この歌も歌合の一首。歌合は歌人を左右二組にわけて、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊びだ。
当時の貴族の間で流行していた思われる。いかに和歌が貴族の間で日常的な物となっていたかの証左である。兼盛もこの集から多くの歌が取られている歌人の一人。

恵慶

あまの原そらさへさえや渡るらん氷と見ゆる冬の夜の月

これも歌合の一首とされる。冬の寒さから月を氷に見立てる。その後今昔物語集や古本説話集に引かれる。恵慶は法師だが、その経歴は不明。
但し、20首近くの歌が収録されていて、当時の歌壇においてそれなりの地位を占めていたと思われる。仏教徒がこうした歌人として現れるのもこの時代の特徴か。
歌はよく言えば平明だが、悪く言うと当たり前すぎる。

元輔

いかはかり思ふらむとか思ふらんおいてわかるるとほきわかれを

巻第六「別」にある歌。元輔は清少納言の父。高齢で地方に赴任する下級貴族の思いが切々と伝わって来るいい歌。「思ふらむとか思ふらん」の句が破調。
「わかる」「わかれ」の反復も心情を良く伝える。

公任

しもおかぬ袖たにさゆる冬の夜にかものうはけを思ひこそやれ

当時の歌壇において重要な地位を占めた人物。貴族としても上位の貴族であり、皇族とも関係が深い。
晩年は出家したと言われる。ここにも当時仏教が深く貴族の間に浸透していたことがうかがわれる。
冬の寒さを鴨に同情を寄せる形で表現。

村上天皇

山かつのかきほにおふるなてしこに思ひよそへぬ時のまそなき

恋の歌。これは古今の以下の歌を元に発想。

あな恋し今も見てしか山がつの垣ほに咲ける大和撫子

「時のまそなき」は「一時だってない」という意味。女性を大和撫子に装えるのはこのころからあったのか。
想像の歌だろうが、こうした情緒を尊ぶ風はいかにも日本的な気がする。村上天皇は多くの歌が取られている。

道綱母

歎きつつ独ぬる夜のあくるまはいかにひさしき物とかはしる

道綱母は言わずと知れた「蜻蛉日記」の作者。歌も有名。数は多くないが、この拾遺和歌集で初めて歌が取られている。謂わば女性の恨みの歌。当時の結婚形態がなせる恨み。

和泉式部

暗きより暗き道にそ入りぬへき遥に照せ山のはの月

作者名には「雅致女式部」とあるが和泉式部の歌。和泉式部はのちに有名となるが、この一首だけがこの集に載る。詞書きに「性空上人のもとに、詠みて遣はしける」とあり、仏教的な要素の濃い歌。
「暗き」闇は煩悩の闇を指す。「山のはの月」は上人を指し、いわば真如の月。煩悩で迷いに迷っている私に光明をもたらしてほしいと言っている。
この歌はのちに「古本説話集」や「無名草子」「沙石集」に引かれている。「沙石集」ではある遊女の歌となているらしい。いずれも煩悩多き女性の心情の象徴。
ここにも仏教の影響を色濃く見ることができる。

その他

こうしてざっと「拾遺和歌集」を繙いてみると、平明でわかりやすい歌が多いこと、また仏教的な影響が色濃くなったこと、うたが貴族の間でかなり一般化したことなどがうかがえた。
また、「物名歌」という分類があって、これがかなり多く取られている。
ほとんど「言葉遊び」の歌で文学的に見るべきところはないようだが、今後歌がどんどん技巧化していく端緒のような気もした。

歌の引用は便宜上以下のサイトによった。
https://ja.wikisource.org/wiki/拾遺和歌集

この項了

『日本古典文学総復習』6『後撰和歌集』

『後撰和歌集』を読む

『後撰和歌集』は『古今和歌集』から50年足らずの後編纂された2番目の勅撰集だ。したがって、『古今和歌集』とさほどの違いはない。取られている歌人もさほど違ってはいない。いわば『古今和歌集』の補遺版と言ったらいいかもしれない。ただ、編者は違っている。宮中に撰和歌所が置かれ、その寄人に任命された源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文だ。しかもこの編者たちの歌は取られていない。また、この編者たちは『万葉集』の訓詁を行ったとされている点も注目に値する。
部立はほとんど『古今和歌集』と同じで、春、夏、秋、冬、恋、雑、離別、賀歌の二十巻からなっている。ただ総歌数は1425首とやや多く、春と秋は上中下にわかれ、雑も多く、離別には羇旅歌が含まれ、賀歌には哀傷歌が含まれているのが違っている。
さて、今回この『後撰和歌集』を読んで注目したのは女流歌人の伊勢についてだ。この伊勢は『古今和歌集』にも多くの歌が取られているが、この集では紀貫之に次いで多い72首もの歌が取れれているからだ。いかにこの編者たちがこの伊勢という人物の歌に注目したかがうかがわれる。そこで今回はこの伊勢の歌を各巻からとっていきたい。

春には6首取られている。その中の一つ。

あをやきのいとよりはへておるはたをいつれの山の鴬かきる

「古今集」神遊歌に

青柳を片糸によりて鶯のぬふてふ笠は梅の花笠

という歌があって、この歌からの発想。実は鶯は姿をほとんど見せず、その色合いもけっして美しいものではない。鳴き声からのイメージがそうさせる。綺麗なのは実はメジロだけどね。可愛らしい想像の歌。

夏は3首。

郭公はつかなるねをききそめてあらぬもそれとおほめかれつつ

詞書きに「女の物見にいでたりけるに、こと車かたはらに来たりけるに、物など言ひかはして、後につかはしける」とある。ホトトギスの声が忘れなれないといっているが、この詞書きを見ると出逢った男性の声が忘れられないという意味に取れる。

秋には7首。

をみなへしをりもをらすもいにしへをさらにかくへき物ならなくに

この歌は以下の歌の返歌

女郎花折りけむ枝のふしごとに過ぎにし君を思ひいでやせし

この歌には「法皇、伊勢が家の女郎花を召しければ、たてまつるを聞きて 枇杷左大臣」という詞書きがあり、法皇が伊勢に命じて自家の女郎花を献上させたことを聞いた枇杷左大臣が歌を贈り、かつて寵愛を受けた法皇への思いを尋ねて来たというわけだ。それに対し、「私は今更心にかけてなどいないし、これを機会に昔を懐かしむこともない」としている。この辺りは伊勢にまつわる色恋沙汰が彷彿とする。

冬には以下の1首のみ。

涙さへ時雨にそひてふるさとは紅葉の色もこさまさりけり

これも前と同じ枇杷左大臣の歌に対する返歌。大臣の歌は「すまぬ家にまで来て紅葉に書きて言ひつかはしける」という詞書きがある以下の歌。

人すまず荒れたる宿を来て見れば今ぞ木の葉は錦おりける

秋の歌のようだが、「時雨」で冬に分類されたのだろう。この大臣とは藤原仲平のことで、伊勢のかつての恋人。「ふるさと」はかつて伊勢が住んでいた所。そこにかつての恋人が訪れて紅葉を歌う。それに対して「時雨」に「涙」が加わって紅くなったのだと。「紅涙」(こうるい)という美しい女性の涙をいう言葉があるが、この涙で紅くなったのだと恨む気持ちを歌う。

恋には22首もの歌が取られている。伊勢ならではだ。ここは以下の3首を引く。

おもひかはたえすなかるる水のあわのうたかた人にあはてきえめや

「まかる所知らせず侍りける頃、又あひ知りて侍りける男のもとより、『日頃たづねわびて、失せにたるとなむ思ひつる』と言へりければ」という詞書きがある歌。「なかるる」は「流れる」「泣かれる」がかかっている。「あはてきえめや」で「うたかた(泡沫)のように、会わないで消えるもんですか」と言っている。なかなかの歌だ。歌に濁点がないのはその当時の表記そのまま。

わかやととたのむ吉野に君しいらはおなしかさしをさしこそはせめ

これも以下の歌の返歌。その歌の詞書きに「女につかはしける 贈太政大臣」とある。この大臣は藤原時平。仲平の兄である。このとき伊勢は仲平とは疎遠になっていた。

ひたすらに厭ひはてぬる物ならば吉野の山にゆくへ知られじ

ここでは「吉野」が当時隠棲する場所として知られていたこと、「かざし」が不老長寿を願う呪いであったことを知らないと解釈できない。時平が「会ってくれないなら、いっそ吉野に隠棲したい」と言っているのに対し、伊勢は「私も隠棲して山人として暮らしたい」と応じている。隠棲は男女の関係を超えた生活を言うのだろう。

見し夢の思ひいてらるるよひことにいはぬをしるは涙なりけり

「心のうちに思ふことやありけむ」という詞書きがある歌。片思いの歌。「涙」だけが自分の思いを知っていると言う。いかにも古今的な恋の歌。

雑には17首取られている。その中から1首を引く。

よのなかはいさともいさや風のおとは秋に秋そふ心地こそすれ

これも返歌。読み人知らずとなっているが、「人に忘られたりと聞く女のもとにつかはしける」という詞書きを持つ以下の歌に対するもの。

世の中はいかにやいかに風のおとをきくにも今は物やかなしき

雑に分類されているが、秋とも恋ともとれる歌。ただ元歌が「風の音」に季節感があるが、季節がはっきりしないのでここに分類されたか。「世の中」は男女の仲を言うのは古典常識。「二人の仲はどうでしょう?悲しいのでは」聞いている元歌に対し、「秋に秋添う」気持ちだと答えている。「秋」に「飽き」が掛かっている。

離別

離別には10首取られている。その中から1首を引く。

わかるれとあひもをしまぬももしきを見さらん事やなにかかなしき

詞書きに「亭子のみかどおりゐたまうける秋、弘徽殿の壁に書きつけ侍りける」とある。関係が深かった宇多天皇の譲位が近づき、伊勢が宮中を離れることになった際に天皇が読むことを想定して壁に書いたと言う歌。「ももしき」は「宮中」を指す。「何か悲しき」とは「なんで悲しいことなっんかあるものか」という反語がかえって悲しさを強調する。

賀歌(哀傷)

哀傷には6首取られている。その中から2首を引く。

ひとりゆく事こそうけれふるさとのならのならひてみし人もなみ

詞書きに「大和に侍りける母みまかりてのち、かの国へまかるとて」とある。母の死を悼む。奈良は伊勢の「ふるさと」であり、かつて都があった土地という意味もある。「ならふ」は「慣れ親しむ」意。母の死を知って奈良に行く時の哀傷。素直な歌。

なくこゑにそひて涙はのほらねと雲のうへよりあめとふるらん

詞書きに「一つがひ侍りける鶴のひとつがなくなりにければ、とまれるがいたく鳴き侍りければ、雨の降り侍りけるに」とある。これはペット?の死を悼んだ歌。鶴がペット?鶴は当時から不老不死の象徴だったらしく、飼うことが流行していたようだ。

今回は解釈を混じえ伊勢の歌を見てきた。日本古典文学に果たす女流の役割は昔から大きものがあった。こののち宮中での女房たちによる文学が花開くが、伊勢はその先駆であったといえる。

本文は便宜上以下のサイトを利用した。
https://ja.wikisource.org/wiki/後撰和歌集

この項了

『日本古典文学総復習』5『古今和歌集』

『古今和歌集』を読む

この新日本古典文学大系では『萬葉集』に続くのがこの『古今集』である。そのあと勅撰集が続いているのでまずは和歌集を並べる編集方針らしい。
しかし、この古今和歌集は萬葉集とかなり違っている。改めて続けて読んでみてその大きな違いに気づかされた。

『古今和歌集』は『萬葉集』と同様巻二十ある。しかし、歌の数は1100首で萬葉の約4分の1、歌の種類もほとんどが短歌である。巻一から巻六までが四季の分類による。342首あって全体の約3分の1。また、巻十一から巻十五までが恋のうたで、360首でこれも全体の3分の1を超える。残りがその他の分類で雑歌、東歌、等である。
また、歌人の数も限定されている。詠み人知らずの歌も多いが、専門の歌人によるものが大半と言っていい。ご存知のようにこの『古今和歌集』は最初の勅撰集ということになっていることも『萬葉集』との大きな違いだ。
『萬葉集』は8世紀に成立したと考えられ、『古今和歌集』は10世紀の初頭に成立したと考えられるから違いがあって当然なのだが、ここには和歌だけではなく日本古代社会にも大きな転換点があったようだ。和文の文学史でいうと、この『萬葉集』と『古今集』との間には和歌の空白がある(現存する作品がない)のだが、その間に漢文の作品はいくつか残っている。実はこの漢文の詩文集が当時の勅撰集であった。8世紀には謂わば傍流であった和歌が社会変化にともなって10世紀初頭には表舞台にあがったということだ。
では具体的に歌を見ていこう。

春の歌

はるがすみたつを見すててゆくかりは花なきさとにすみやならへる

あだなりとなにこそたてれ桜花年にまれなる人もまちけり

けふこずはあすは雪とぞふりなましきえずはありとも花と見ましや

たれこめて春のゆくへもしらぬまにまちし桜もうつろひにけり

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を

夏の歌

さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする

夏の夜はまだよひながらあけぬるを雲のいづこに月やどるらむ

秋の歌

このまよりもりくる月の影見れば心づくしの秋はきにけり

秋ののにおくしらつゆは玉なれやつらぬきかくるくものいとすぢ

山田もる秋のかりいほにおくつゆはいなおほせ鳥の涙なりけり

冬の歌

花の色は雪にまじりて見えずともかをだににほへ人のしるべく

こうして四季の歌をざっと読んでいると、いずれも同様な情緒、題材が並べられていてあまり面白さが感じられない。春は何と言っても桜である。萬葉にはそれほど登場しなかったように思う。鳥はウグイスだ。夏だったらホトトギス。秋は月、鹿、雁、露。冬は雪と梅。こういう題材と情緒は現代でも日本人にとって定番のアイテムだ。この定番は古今集によって作られたといっていいかもしれない。これが後何百年も日本人の和歌を支配したといっても過言ではない。

恋の歌

あさぢふのをののしの原しのぶとも人しるらめやいふ人なしに

わりなくもねてもさめてもこひしきか心をいづちやらばわすれむ

ひとしれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

色もなき心を人にそめしよりうつろはむとはおもほえなくに

恋の歌も古今集の大半を占めている。これは萬葉集でも言えたことで、日本人が古くから男女の関係に心血を注いできた証拠だが、古今集のそれは万葉集と大きく違っている。万葉集では男女の関係を謂わば直接的に歌う歌が多かったが、古今集のそれは「恋を恋する」と言ったらいいか、恋の情緒を楽しむといったらいいか、間接的な歌がほとんどだ。通じ合わない心を詠む歌が多いように思う。この恋の情緒もやはり日本人の恋の定番となった。

その他

風ふけばおきつ白浪たつた山よはにや君がひとりこゆらむ

こよろぎのいそたちならしいそなつむめざしぬらすなおきにをれ浪

その他の初めの歌は長いあとがきがあり、謂わば物語を背景にした歌。ちょっと萬葉ぶり。最後は東歌の一首。相模の国大磯あたりの浜を歌っている。これも古歌の雰囲気が残る。
正岡子規は古今集をこき下ろした。そして万葉集を評価した。そんな影響がこの私にあるのかもしれない。通読するとどれも同じに見えてしまうのだ。しかしもっと虚心坦懐に一首づつを切り離して時に応じて読んでみればいい歌もあるに違いない。また、この古今集が後の文学史に残した影響が計り知れないことも肝に銘じておくことも必要だろう。
なお古今集のテキストは便宜上以下のサイトから引いた。アメリカの大学のサイトだ。

http://jti.lib.virginia.edu/japanese/kokinshu/kikokin.html

この項了

『日本古典文学総復習』4『萬葉集』4

『萬葉集』を読む2の2

4冊目には以下の歌が収まっている。

巻十六
有由縁と雑歌3786から3889
巻十七
大伴家持中心3890から4031
巻十八
大伴家持中心4032から4138
巻十九
大伴家持中心4139から4292
巻二十
大伴家持中心4293から4320・4437から4516
防人の歌4321から4436

最後の4冊目だ。特に分類はない。ここは巻十七以降ほとんどが大伴家持の歌が中心となっている。家持は萬葉集の編者と見なされていて、ここは編者の私家集的な色合いが強い。
ただ、最後の巻二十には「防人」の歌が多く取られていて特徴を成している。
これは家持が防人を監督する立場にあったため、聞き書きしたものと思われる。
従ってここではまず巻十六について見て、さらに防人の歌について見、最後に家持の歌についてみることにする。
また、最後に萬葉集そのものの特質について触れる。

巻十六

巻十六は「有由縁と雑歌」となっている。これは歌そのものと言うより、歌にまつわる話が中心となる。すなわち歌物語の原型と考えてよいものが取られている。
平安朝になると多くの歌物語が現れるが、古来歌は話と共に伝承されていたのであって、それをある人物やあるストーリーにまとめ上げたのが歌物語だ。萬葉集に先行する古事記に於いても歌や歌謡がある話の中に収められている。また、歌には「詞書き」があって、それが歌の内容について補足する形があった。歌が歌として伝えられると言うより、あるエピソードと共に伝えられることの方が多かったのかもしれない。そんなことを考えさせられる巻だ。
ここでは後に「竹取物語」として結実する「竹取の翁」の有由緒歌を取り上げる。書き出しそのものがそっくりだ。萬葉集3791の「詞書き」はこう始まる。

昔、老翁ありき。号を竹取の翁と曰ふ。

竹取物語は

今はむかし、竹取の翁といふものありけり。

で始まっているからだ。ただ、話は違っていいる。萬葉集では単に翁が9人の仙女に出会うというだけの話である。これが長い長歌で歌われている。ここで引用はできないが返歌を引いておこう。
翁の歌

死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも

白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや

娘たちが和した歌

はしきやし翁の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ

その他色々な伝承があり、興味深い巻である。

「防人」の歌

巻二十に「防人」の歌が多く取られている。これまでにも幾つかは他の巻にもあったが、ここではまとまって紹介されている。この巻は大伴家持の私家集的な巻の最後なのだが、家持がある関心をもって収集したものと思われる。もともと家持は防人を監督する立場にあったのだろうが、そうだとしてもこれほどの歌を筆記したのには別の理由もあった気がする。それは歌人としての関心と謂わば不遇であった自分の境涯が関連しているのかもしれない。
さて、この防人は字の如く国家防衛を任務として主に東国から派遣された人々だ。となれば国家防衛の任務について気概を歌った歌があっても良さそうだが、それがほとんどない。ほとんどが故郷に残した恋人や妻、親に対する恋慕の情を歌ったものなのだ。これは新羅に派遣された人々の歌のも言えることだが、歌がいかにそうした感情の吐露を旨としていたがわかる。これはしっかり頭においていた方がいい。
例を幾つか引く。

置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも

我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず

父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで

忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも

我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね

家持も同情を寄せている。

海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ

家持の歌

さてここまで来て家持の歌を見なければならない。家持の歌は合計473首あり、萬葉集の約一割を占めている。ここでは外せない以下の歌を取り上げる。

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも

我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば

巻十九の末尾にある三首だ。
やはり萬葉集の中では完成度の高い歌と言わねばなるまい。特に3首目の歌は「うららかな」春の日にむしろ「心悲し」とする点で独自性のある歌である。和歌はともするとその時代の定型的な情緒にとらわれてしまうが、そんな定型的な情緒から抜き出ている。具体的個人的に「悲しい」と思わざるを得ない契機があるわけではないのに「心悲しい」としている。こういった情緒心情は萬葉集にあって大勢を占めるものではない。また、2首目の歌では1首目にある「うら悲し」や3首目にある「心悲し」といった直接に心情を表す語はないが、「かそけき」と言うことばが何か心寂しい心情をよく表している。竹を揺るすわずかな音になんとなくの「寂しさ」を感じるというのだ。こうした感情のあり方とその表現はもう少しで古今集へつながる面を思わせる。家持がどのようなところからこうした発想を得たかはわからない。大陸からの文化の影響も既にあったかもしれないが、土着的な感情生活が色濃く残っていたに違いない時代にあって、家持のこの達成はこの時代の貴族の一つの到達点だったに違いないと言える。
萬葉集最後の歌も家持の歌である。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事

萬葉集について

これで一応萬葉集を読了ということにする。読了といってもすべて詳細に読んだわけではない。どだいこの膨大な歌を一つ残らず短期間で精読するのは無理である。
ただ、久しぶりにざっと読んでみてこれまで気づかなかった点も多々あった。例えば巻一七のような部分があること、また多くの先行する歌集の存在があって成り立っていること。さらには、いかに古来から日本人の感情生活が男女の関係に執着していたか、などである。
もちろんこの萬葉集が日本文学で最も古いものではないが、この新しい古典文学全集がこの萬葉集から始まっているにはそれなりの理由があることも改めて知らされた思いがする。何と言っても日本古典文学は「和歌」にまず本質があるからだ。そしてこの萬葉集が時代の進展とともに何度も復活してきた経緯にも理由があることがわかった気がしている。この膨大な「和歌」群を眺める時、様々なアプローチがあってよく、今後とも何度も開くことになると思う。

この項了

『日本古典文学総復習』3『萬葉集』3

『萬葉集』を読む2の1

3冊めには以下の歌が収まっている。

巻11
旋頭歌2351から2367
正述心緒2368から2414・2517から2618
寄物陳思2308から2414・2619から2807
問答歌2508から2516・2808から2827
譬喩歌2828から2840
巻12
正述心緒2848から2850・2864から2963
寄物陳思2851から2863・2964から3100
問答歌3101から3126・3211から3220
羈旅発思3127から3179
悲別歌3180から3210
巻13
雑歌3221から3247
相聞3248から3304
問答歌3305から3322
譬喩歌3323
挽歌3324から3347
巻14
東歌3348から3577
巻15
新羅国に派遣された使人の歌3578から3722
中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌3723から3785

巻十一

ここはちょっと変わった配列になっている。歌体や表現法で分類している。ここからはほとんどが読み人知らずの歌だ。
最初に現れる旋頭歌はその後ほとんど姿を消す歌の形式で五七七を2回繰り返した6句からなる形式。上三句と下三句とで詠み手の立場がことなる歌が多く、頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことから、旋頭歌と呼ばれる。五七七の片歌を2人で唱和または問答したことから発生したと考えられている。

玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ

と言った歌がある。
正述心緒には当時信じられていた衣の紐に関する迷信の歌がある。

君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに

故もなく我が下紐を解けしめて人にな知らせ直に逢ふまでに

衣の紐が解けるのは思い人が思っているからだとする伝説というか迷信、なかなか面白い。
寄物陳思からは

水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ

問答歌からは

鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ

鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば

を引いておこう。

巻十二

この巻の初めに「古今相聞往来歌類之下」とあり、前の巻十一と同じような構成になっていることから巻十一はその「上」となるのかもしれない。
ここでは上にない羈旅発思の歌と悲別歌から引く。

我妹子し我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐解けぬ

草枕旅の衣の紐解けて思ほゆるかもこの年ころは

草枕旅の紐解く家の妹し我を待ちかねて嘆かふらしも

ここも「紐」の歌。

息の緒に我が思ふ君は鶏が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ

巻十三

この巻は従来の分類に戻っている。しかし、収められている歌が長歌と返歌のセットがほとんどだ。ここも読み人知らずの歌がほとんどだが、古い歌が多いように思う。

蜻蛉島大和の国は神からと言挙げせぬ国…….(長歌)

大船の思ひ頼める君ゆゑに尽す心は惜しけくもなし

歌は恋い焦がれる思いを直接に高らかに歌っている。ここに萬葉集の大きな特色があると言える。これは次の東歌にも言えることなので次の巻でもふれる。

巻十四

東歌は文字通り東国の歌だが、東国の範囲は信濃すなわち長野県や遠江すなわち現在の静岡県を西の端にしてそれより東の国ということになっている。国別及び歌の内容ごとに歌を並べて、最後に「未だ国を勘へざる」とした歌を収めている。
東歌はどのように収集したのだろうか、興味深いところだが、歌われている場所が限られている傾向があって、後の歌枕的な場所がこのころから定まっていたようにも思える。また、萬葉集編纂時にはすでに風土記ほか地方の国々の様子を報告する文書があったように思われ、都人によって選択された歌であったには違いない。ただ、東歌独特の語彙や語法も見られる点は興味深く、内容も身近な恋愛感情を歌った歌が多いのも特徴だ。
まずは相模の国から引く。足柄山の歌が多いので。

足柄のをてもこのもにさすわなのかなるましづみ子ろ我れ紐解く

ちょっとスリリングな男女の密会を歌っている。
有名な東歌

稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ

これも男女の歌。
前にも触れたが、東歌にもこうした男女の恋愛感情、というより恋愛そのものを歌った歌が多く、ここがやはり日本古代の歌の特徴であり伝統と言える。要するに平和主義者が昔から多い国なんです。

巻十五

この巻は少し変わっていることは初めに触れた。すなわち「新羅国に派遣された使人の歌」と中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌が収められている。主に九州の防衛にあたった防人の歌は有名だが、こうした歌もあるのが面白い。
幾つか引いてみる。
遣新羅使(けんしらぎし)の壬生宇太麻呂(みぶのうだまろ)の歌。妻(恋人)を思う歌

旅にあれど夜は火灯し居る我れを闇にや妹が恋ひつつあるらむ

新羅に遣わされた人たちの内のひとり、雪宅麻呂が壱岐の島で病気のために亡くなり、葛井子老(ふじゐのむらじおゆ)が彼の死を悼んで詠んだ歌。

黄葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも

中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌には中臣宅守が罪を犯して配流された事件が背景にあるようで、事情は詳らかではないが、ここにその時の贈答歌が収められているのが面白い。こうした歌に注目する編者の目が面白いと思うのだ。
二人の歌を引く
狭野弟上娘子の歌

君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも

強烈な歌である。
それに対し中臣宅守の歌のなんと穏当なこと。

あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり

この項了

『日本古典文学総復習』2『萬葉集』2

『萬葉集』を読む1の2

2冊めには以下の歌が収まっている。
巻6
雑歌907から1067
巻7
雑歌1068から1295
譬喩歌1296から1403
挽歌1404から1417
巻8
春の雑歌1418から1447
春の相聞1448から1464
夏の雑歌1465から1497
夏の相聞1498から1510
秋の雑歌1511から1605
秋の相聞1606から1635
冬の雑歌1636から1654
冬の相聞1655から1663
巻9
雑歌1664から1765
相聞1766から1794
挽歌1795から1811
巻10
春の雑歌1812から1889
春の相聞1890から1936
夏の雑歌1937から1978
夏の相聞1979から1995
秋の雑歌1996から2238
秋の相聞2239から2311
冬の雑歌2312から2332
冬の相聞2334から2350

巻六

この巻ではやはり山部赤人の歌が目立つ。数もそうだが歌の良さもそうである。宮廷歌人たる内容の長歌の反歌2首を引いておこう。

み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

また、この赤人の叔母にあたるという坂上郎女の歌にもいいものがある。

我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝

赤人はいわゆる宮廷歌人の一人で柿本人麿と並び称される。宮廷歌人だけに謂わば皇室賛歌的な歌も多いが、叙景歌的な歌もあって後の歌集にも多く登場する。

巻七

この巻はこれまでにない分類で歌を集めている。
分類自体はこれまでにあった、雑歌・譬喩歌・挽歌という分類だが、その中身が異なっている。雑歌の中に「天を詠みし一首」「月を詠みし一八首」等々として歌を紹介している。天文・自然・場所等での分類だ。譬喩歌も同様に物で分類するという形をとっている。挽歌はわずかしかない。天文ではやはり「月」自然では「河」が多い。ここにも日本の詩の題材の特徴が伺える。

玉垂の小簾の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも

ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き

初めの歌には作者の記述はないが、後の歌は柿本人麿歌集にあるとする。
譬喩歌では「玉に寄せし」が多い。以下に引く。

海神の持てる白玉見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人

ここでの「白玉」は「真珠」のことで、それを深窓の美しい娘に譬えているとする。

巻八

ここで初めて季節による分類が登場する。これまでの分類をさらに季節によって分ける試みだ。これまでの分類は謂わば大陸の影響下に行われた物と考えられるが、
この季節による分類はその後「古今集」以後しっかりと定着する。いわば日本的な分類と言えるかもしれない。しかもここは作者をはっきり明記した上で歌を収めている。幾つか引く。

水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも

笠郎女が家持に贈った歌とされる。春の相聞。

卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る

ここは家持の歌が多い。これもその一つ。霍公鳥はホトトギスのこと。夏の雑歌。

神さぶといなにはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも

加茂女王の歌とされる。秋の相聞。

沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも

大伴旅人を忘れてはいけない。太宰府での歌。冬の雑歌。

巻九

この巻はまた以前の分類に戻っている。
雑歌に珍しく「星」を詠んだ歌がある。月を詠んだ歌はたくさんあるが、太陽や星を詠んだ歌があまりないのが日本の古典の特徴と言えるが、
これは七夕伝説はすでに伝わっていたことを示している。因みに後の巻10には七夕を詠んだ歌が130首以上ある。

彦星のかざしの玉は妻恋ひに乱れにけらしこの川の瀬に

ここで東国の地名を含んだ歌。

埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽霧るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし

勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

いずれも高橋虫麻呂歌集にあるという。後者は真間の手児奈の伝説を歌った長歌の反歌だ。

巻十

この巻はまた巻8と同様な構成をとっている。
春の雑歌には「鳥を詠みし二十四首」とあり、「鳥」を読んだ歌が多く見られる。

春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな

春の相聞には

春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば

夏の雑歌にもやはり「鳥」の歌二十七首ある。霍公鳥は「ホトトギス」

木の暗の夕闇なるに霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ

夏の相聞には

霍公鳥来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも

秋の雑歌には

秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹

秋の相聞には「鳥」とはしていないが、

出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける

さすがに冬にはない。
後に「花鳥風月」とか「花鳥諷詠」と言った言葉があるように、「鳥」はこのころから和歌の主要な題材であったことがわかる。
また、四季による分類が登場したことは萬葉集編纂者の意識が古今集に繋がるものを持っていたことをうかがわせる。

『日本古典文学総復習』1『萬葉集』1

さて、何から始めるか? 幸い書斎に鎮座している「新日本古典文学大系」という全集がある。 こいつを一つ読破してみようと思った。実に100巻である。 これまでも幾つかは拾い読みをしているし、読破といっても精細に読むわけではないからなんとかできるだろう。 1週間で2冊のペースで行けば1年間で読み終わる算段だ。

『萬葉集』を読む1の1

先ずは萬葉集から始める。これは大部なので4冊あるが、2冊を早速紐解いてみた。 巻1から巻5が1冊目、巻6から巻10までが2冊目だ。全部で2350首の歌を収める。4500首以上ある萬葉集の半分ぐらいである。 かつてもざっと読んだことはあるが今回まさにざっと読んで考えたことを記す。 1冊目には以下の歌が収まっている。 巻1 雑歌1から84 巻2 相聞85から140 挽歌141から234 巻3 雑歌235から389 譬喩歌390から414 挽歌415から483 巻4 相聞484から792 巻5 雑歌793から906 さて、この分類は雑歌・相聞・挽歌が大きな分類であることはわかるが、それがいわばそれぞれの巻にあることが特徴だ。 そして一番多い雑歌だが、これは相聞・挽歌以外の歌といった意味だろう。 なんか雑という言葉がよくないイメージを与えるが、ここに多く天皇や皇族の歌が収められていることを考えればいわゆる「雑」ではない。 「ぞうか」と読む。

巻一

第一の歌は雄略天皇の歌とされる歌謡だ。これは古代歌謡の要素を色濃く持つ歌だ。 その他、ここは天皇始め皇族の歌が多いが、萬葉集で異色の山上憶良の歌もある。 この中で出色の歌はやはり額田王の以下の歌だろう。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

巻二

ここは相聞と挽歌だ。
相聞はいわゆる恋の歌と言えるが、ここは広く親子の情愛の歌も含む。
挽歌はいわゆる死を悼む歌である。
ここの相聞では宮廷歌人と言われる柿本人麿の妻を歌う歌がいい。人麿のいわば個人的な歌である。
長歌に反歌2首だ。反歌の一つを引く。

石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか

ところで反歌とはなにか。これは長歌の内容をいわば反芻した歌という意味での「反」つまり繰り返しの歌だ。長歌の内容を要約したものと考えればいい。
挽歌としては有馬皇子の有名な歌3首がやはりいい。

磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも

有馬皇子については歴史上の人物で悲運の皇子としてのイメージが色濃いためにそう思うのかもしれない。

巻三

雑歌には高市黒人や山部赤人の歌がいくつかあって、なかなかいいが、やはりここは萬葉集で謂わば特異な詩人と言える山上憶良の以下の歌だろう。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ

こんな内容の歌が古代にあること自体が面白い。というよりこの後も決して現れない内容の歌だ。歌としてはどうかだが、宴会の途中で「子供が泣いているだろうし、妻も待っているから帰るよ」とは!
譬喩歌というのがここで登場する。内容によるのではなく、謂わば修辞による分類。「喩え」がポイントの歌。
早くも萬葉集の編者とされる大伴家持が登場する。

なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

挽歌にも家持の「なでしこ」の歌がある。

秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

巻四

ここは多く取られている大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)を取り上げるべきだろう。ここに既に平安朝の女流歌人の片鱗がある。
「怨恨の歌」と題された長歌。その反歌だけを引く。

初めより長く言ひつつ頼めずはかかる思ひに逢はましものか

さて、女流歌人といったが、「益荒男ぶり」と称されるこの萬葉集にも実に女性の歌が多く取られている事実をここで改めて認識しておく必要がありそうだ。

巻五

ここも相聞だが、相聞が男女の恋歌とは限らないことをよく示している。それはこの巻で有名な憶良の「貧窮問答歌」が収められていることでもわかる。
またこの巻には憶良の「沈阿自哀文」という長文(勿論漢文)も載っている。これは歌集としては特異だ。この憶良については別途論じる必要があろうが(確か40年以上前に論文を書いた記憶があるが)、こうした謂わば哲学的と言うか、社会的な内容の歌や文章を収めている点にこの歌集の凄さがある。
短歌のみを引く。

世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

1冊目ここまで。

歌の表記について。

萬葉集の歌はいわゆる万葉仮名で書かれている。例えば最初に引いた額田王の歌は以下のようだ。

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

すべて漢字である。漢字を訓と音で表記するという発明がなされて、これが以後の日本語の表記につながる。詳細に論じることはできないが、この万葉仮名を現代の仮名遣いに改める際は色々と問題がある場合がある。また、萬葉集は伝わっている本によっても表記が異なる場合がある。したがって、ここは本来『新日本古典文学体系』による表記にすべきだが、便宜上以下のサイトの電子テキストを利用した。
このサイトは面白いサイトで以前から利用させてもらっている。xmlのプログラムについてもここで多くを学んだことを述べておく。

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/

こぞことし

誰ぞの俳句に

去年今年貫く棒のごときもの(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)

と言うのがあったが、年が変わったからとて何が変わるものではないが、なんとなく今年はこれをやってやろうなんて気がするから不思議だ。もっとも小生の句だが、

今年こそ今年こそはで去年今年(ことしこそことしこそはでこぞことし)

ということもあって、新年に期したことも年末になってみればすっかり忘れていたりする。ただ、性懲りもなく、今年も考えた。

それは題して

『日本古典文学総復習』

さてさてどうなるか?次回の投稿で。

蘭の鉢置き台作成

かみさんの要望で部屋に置く蘭の鉢置き台を作成した。大分寒くなってきたんで庭から部屋に移動するため。
材料は濡れ縁に放置してあった欅の端の板にやはり欅の2年前に製材してもらった端の太い板。
放置してあった板はかなり反っていて、シラタが腐食。しかも表面が汚くなっている。
家具とは言えないものだからかまわないのでざっくり作ってみた。

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材料の汚い板。しかし表面をしっかり洗って、腐食部分を取り除き、半分にして鉋をかける。師匠の紹介で購入した鉋、さすがによく切れます。

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こんなにきれいに。これが材木のいいところ。削れば美しくなります。大型機械でやれば反りも取れんでしょうが、ここはそこまでやらなくても。

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脚になる部分の材を切る。結構太いので大変かと思いきや、この替え刃鋸がよく切れる。新しい替え刃で切った。切り口もきれい。

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本当はこれも鉋がけすべきだけど、洗っただけにした。オイルでも塗ればこんな感じになるだろうが、まいいか。(ぬれている状態です)

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あとはこの脚二つに板を載せるだけで完成

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日当たりの良い2階に設置。(これが一つ一つが結構重いので運ぶのが大変)

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蘭の鉢はかみさんが運んで載せました。

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さて、花を咲かせるか。

木製スプーンの作成過程

蓼科から何年か前に持ち帰った栗の木を庭に放置してあったのを見つけて、これでスプーンを作ってみようと思った。以前にもやったことはあるが、今回はちょと丁寧にやってみようと。

そこでそのプロセスを報告する。

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まず鉈で整形する。これがなかなか便利。
ノコギリを使うより簡単に割れるし、皮など不要部分も削ぎ落とせる。

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次に一応の墨付けをして

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ノコギリで切れ目を入れ

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やはり鉈を使って整形する。

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スプーンの肝心な部分は平鑿で平にしてから大体の形を墨付けし

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まずは丸鑿で彫っていく。栗材は堅いイメージだけど、意外とスムーズに彫れる。しかし決して慌ててはいけない。

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今度はいわばスプーン作成専用の彫刻刀?で彫る。これが実は秘密兵器。アメリカ製らしいが、「flexcut」といってオフコーポレーションで買ったものだ。とてもうまく彫れる。

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ここまできたらノコギリをつかってさらに整形する。

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そしてあとはひたすら小刀で削っていく。スプーンを作るのにこの小刀での削りが一番時間がかかるが、これが楽しいのだ。(ようするによっぽどの暇人じゃないとこんな作り方はできない。というよりこれを楽しみにできない人はこんなことはしませんよね。)

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ここまで削れば上出来でしょうか。

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ここでいよいよ電動工具登場!と言っても単にドリルを固定して、その先に紙ヤスリを付けたビットを付けたもの。これもなかなか便利。これを使って彫りあとを綺麗にしていく。これもちょっとづつです。

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こんな感じ。

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でも内側はこれではうまく綺麗になりません。

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あとはひたすら紙ヤスリの世界です。250番ぐらいから始めて1000番ぐらいまでやりましょう。

最後は実際に使えるように木型め塗料を塗ることになるかと。完成はもうちょっと。