『日本古典文学総復習』10『新古今和歌集』

『新古今和歌集』を読む

ここで、いわゆる八代集の最後『新古今和歌集』を取り上げる。この「新日本古典文学大系」は「萬葉集」から始まって、この『新古今和歌集』まで、歌集を並べている。これは和歌集が日本古典文学においてしめた役割の大きさから言って当然だが、この『新古今和歌集』で一応の終わりを示しているのも意味があると言える。この歌集はいわば和歌の時代の終わりを告げていると言ってもいい歌集だからだ。
古今集以来続いた勅撰集の歴史もこの後続くには続くが、この「新古今」で一つの達成?というより「行くところまで行ってしまった」感があるからだ。その後韻文の中心は連歌や俳諧に譲ることになる。

さて、この新古今は鎌倉時代の初頭に成立している。これは社会が平安の貴族中心から関東の武士の時代へと移り変わっていく過渡期に成立したと言うことだ。この勅宣をしたのが、後鳥羽天皇であったこともその歌集の性格に影響していると思える。周知のように後鳥羽天皇は平家が滅亡した後に即位した天皇である。また、その当時成立した鎌倉幕府に反旗を翻したことでも知られている。つまりこの歌集は滅びゆく貴族社会の最後のあがきを示しているとも言える気がする。
では、実際にどんな歌が収められているのだろうか?

この『新古今和歌集』には約2000首の歌があるが、その内訳は萬葉からが100首足らず、古今時代の歌人の歌が400首足らず、後は当代の歌人達の歌である。
形式的に一応万葉集からも再録し、古今時代の歌も取っている。(しかし、古今集以来の三代集に収録された歌は取っていない)歌人別では一番多くの歌が取られているのがなんと西行である。94首ある。これは後鳥羽院の西行好きが影響しているのだろうか?ともかく後鳥羽院のサロンに関係した歌人達の歌が多い。そのなかでこの歌集の特徴を最も鮮明に示しているのが選者の一人藤原定家である。歌数は46首と控えめだが、この定家の歌こそ良くも悪くもこの新古今の歌の特徴をよく示していると言えそうだ。そして定家の「本歌取り」という手法がこの時期の歌の本質をよく示している。
したがってここでは定家の歌を「本歌取り」という観点で見ていくことにする。

春の夜の夢のうき橋とだえして峰にわかるる横雲の空

有名な歌である。実にいい歌だと思える。ところがこの歌には本歌がある。古今の忠岑の以下の歌だ。

風吹けば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か

まず「峰にわかるる雲」が使われているのがわかる。「たえて」と「とだえして」も類似した表現だ。ただ、それだけではない。「夢のうき橋」という語も源氏物語の最終巻の題名であることもわかって使っている。さらには「春の夜の夢」という語句が平家物語にあり、定家の造語であるとは考え難い。(定家と平家物語にはつながりがあるようだ)また、「横雲の空」という語句も漢文に出典があるとも言われているようだ。こうなると、本歌取りばかりではなく、様々な古典からの借用でこの歌は成り立っていると言えるのかもしれない。
では定家のオリジナリティはどこにあるのだろうか?
それを考えるには忠岑の歌との違いを考えてみるといいかもしれない。
まず「君が心」という語があるかないかだ。忠岑の歌は結局「たえてつれなき君が心」に情景を持っていくというか、それを引き出すために情景を詠んでいると言えるが、定家の歌にはそうした詞はなく、ただ情景だけを詠んでいるように見える点だ。様々な典拠を持つ語句を並べてそこに一つの情景を作り出し、さらにその情景に仮託された情緒を描き出している。
この歌を素直に読めば、男女の朝早くの別れ(後朝の別れ)を彷彿させる。後ろ髪引かれながら女の元から帰っていく男の心情を読み取ることもできる。
ただ、この情景や情緒とて実感から引き出されたものではない。まさに和歌の世界で謂わば人工的に作られている。
もう一つ忠岑と定家の歌の違いに上の句と下の句の関係がある。忠岑の歌は上の句と下の句がひとつながりだが、定家の歌には断点がある。文法的には「して」という語で後に接続するように思えるが、下の句が体言で終わっている点から謂わば連句のような形になっている。これは私が後の俳諧に親しんでいるせいかもしれないが、上の句が俳諧の第三のようで、下の句が付句のように思われる。
こうした定家の歌の特徴は次の歌にも窺える。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫

この本歌は古今の読みひと知らずの以下の歌だ。

さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫

「さむしろ」「かたしき」「待つ」「宇治の橋姫」が使われている。しかも結句は同じである。古今の歌は「宇治の橋姫が筵にひとり寝をして今宵も私を待っているだろうか」という男の歌だ。定家は多くの言葉をこの歌から借りながら、秋の情景へと変換する。ポイントは「秋の風」と「月」だ。「秋」は「飽き」に通じる。むしろ男を待つ女の心情が歌われているといっていい。「秋風」が「すでに飽きられたことを知らせるかのように夜のふけるままにふきつのる」そんな時「月光を敷いて独り寝る」「宇治の橋姫」の心情である。ただ、ここは心情と言うより、冴え冴えとした月光に照らされる宇治の橋の情景として読むべきかもしれない。そしてそれが男を待つ女の情緒を仮託する。これもそうした意味で前にあげた歌と同様な手法だろう。そしてこの歌も上の句と下の句の断点が伺える。「て」で上の句は終わって、下の句は体言止めである。上の句はそれだけで俳諧の一句として読める気がしてならい。古今の本歌にはそれがない。
さらにもう一つ

駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

本歌は以下の万葉集の歌。

苦しくも降り来る雨かみわの崎狭野の渡りに家もあらなくに

萬葉の歌は雨に降られた旅人の心情を詠む。しかし定家はそれを一つの情景として詠んでいる。雨を雪に変えて。これもこれまでの例と同様。
もう一つ本歌取りの例

ひとりぬる山鳥のおのしだりおに霜をきまよふ床の月かげ

本歌は萬葉の柿本人麿の以下の歌だ。

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を独りかも寝む

「山鳥の尾のしだり尾」「独りかも寝む」をいただいている。人麿の歌の場合、「あしひきの」は「山」を出す枕詞であり、「山鳥の尾のしだり尾の」までは「ながながし」を出すための序詞だ。言いたいことは下の句の「ながながし夜を独りかも寝む」にしかない。それの対して定家の歌の本意は「ひとり寝の寝床にさす月の光の白さ」をいうところに眼目があり、山鳥の尾に霜が置かれているのと見間違えるほどだとしている。
ここでも体言止めが使われている。そして歌われているのは寒々しい月の光に照らされた寝室の情景だ。人麿の歌の語句を使いながら「霜」と「月影」と言う言葉を加えて情景を描き出している。

こうして定家の歌を見ていくと、絵画的な印象が強い。思いを直接に述ぶることはせずに、ある情景を描き出す。ただ、その情景は見たものではない。謂わば古今的な世界を「本歌取り」という手法で頭の中で再構築したものと言っていいかもしれない。しかもその完成度は極めて高いものだ。
これを実感を旨とする文学観からすれば「にせもの」と言えるかもしれないが、定家という人物がやって見せたことは貴族文化の行き着く最後の場所だったのかもしれない。

今回は定家の本歌取りの歌のみを見てきた。もちろんこれで『新古今和歌集』の全てを言い尽くすことはできない。たとえば一番多く取られている西行の歌についてもその違いを中心に見ていくことが必要だったかもしれない。また、後鳥羽院についても触れておきたかった。しかし、今回はここまでにしておく。

最後にこの定家の歌に後の芭蕉の俳諧への兆しを見つけたことを付け加えておく。
これでしばらく和歌から離れることになる。

この項了

『日本古典文学総復習』10『千載和歌集』

『千載和歌集』を読む

歌集について

この歌集は7番目の勅撰和歌集。『新古今集』の架け橋の役割を担ったものと思われる。それ以前の『金葉集』『詞花集』がややマイナーであったのに比べると本格的な勅撰集と言える。選者は当代歌壇の中心人物、藤原俊成だ。もう一度古今集以来の伝統を再認識する意を込めて、千年の歌を集めるということでこの名がある。20巻構成も元に戻している。歌数も1288首と古今並みである。
ただ、歌は時代の変化に伴い形を変えてきている。歌の専門化が進んだといっていいか、古今以来の伝統を守りつつ技巧的になっていったと言える。そういう意味で新古今への道筋を示している。
ここでは選者の俊成の歌を見、この千載和歌集で異彩を放つ西行の歌、そしてのちに大きく取り上げられることとなる式子内親王の歌を見る。

俊成

み吉野の花のさかりをけふ見れば越の白根に春風ぞふく

春上の末尾の歌。越の白根は歌枕。現在の白山のことで、萬葉から歌に詠まれてきた。もちろん俊成はここを眺めたことはないはずだ。吉野だって行ったことがないだろう。すなわちイメージなのだ。ただ、満開の桜の吉野山を雪の白山に見立てたことがユニークなのだろう。白いイメージ。

八重葎さしこもりにし蓬生にいかでか秋のわけてきつらん

秋上にある歌。秋を人に見立てたところがポイント。草ぼうぼうの荒れた家にも秋はやってくる。人はやっては来ないんだけど、というわけか。

照射する端山が裾のした露や入るより袖はかく萎るらん

照射は「ともし」と読む。夏に山野で狩りをする時、火であたりを照射することらしい。夏の狩りの歌題。しかしここは恋の歌。恋歌一にある。
詞書きに「初恋の心をよみ侍りける」とある。それにしても初恋の心を詠むに実に凝った歌だ。狩りをする人の裾の露から袖の涙を連想するのはどうかなと思うが、様々な技巧が凝らされているようだ。「した露」は秘めた恋を暗示。「入るより」は「恋に入るより」を言う。恋の歌もここまで来てしまったかという思いがする。

おく山の岩垣沼のうきぬなは深きこひぢに何乱れけん

これも恋の歌。「ぬなは」は蓴菜のこと。ここまではいわゆる「序詞」。「深きこひぢ」を導き出すための言葉。「こひぢ」は泥や泥土をいう言葉だが、当然「恋路」をかける。また、「乱れ」が「うきぬなは」の縁語。要するに「深い恋路に迷い込んだ心」を詠んでいるのだが、ここまで技巧的になると心情は伝わらないけどね。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

ここは率直な歌。この「世の中」は平安の男女の仲という意ではないだろう。「人生」と言ったら良いのかもしれない。この時代の貴族には新時代の胎動の仲での不安があったに違いない。「道こそなけれ」には俊成の心情が受け取れる気がする。「思ひ入る」にもそれが伺える。そして山奥の鹿の鳴き声もまたたしかに悲しげだ。こうした感情はこの集で多く仏教徒の歌が取られていることにも関係しているように思う。貴族たちにとって不安な時代だった。

西行

をしなべて花のさかりに成りにけり山のはごとにかかるしら雲

円位法師とあるが、有名な西行のこと。西行といえば「さくら」だ。桜の盛りを素直に詠む。満開の桜を白雲に見立てる。
ところで桜は現在の人間だとすぐに「染井吉野」を思い浮かべてしまうが、ここは山桜だということを改めて想像しよう。まさに山の裾に満開の山桜は白雲のようだ。
俊成はこの歌を「うるはしくたけ高く見ゆ」とした。技巧の対極にある歌い振りを評価する。

この世にて又あふまじき悲しさにすすめし人ぞ心乱れし

「哀傷歌」の末尾の歌。寂然法師の歌に対する返歌。共に修行した法師の臨終を知らせる歌に対しての歌。
「すすめし人」とは臨終正念を勧めた西行本人。臨終正念は死に際して一心に極楽往生を願って念仏を唱えること。法師にとって死は必ずしも悪いことではないはずだが、やはり会えない悲しみに心が乱れるとしている。こうした仏教的な考えはこの時代に支配的になっていったと思われる。

知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは

法師西行の恋の歌。「雲居のよそに見し月」は垣間見た高貴な女性の比喩。「月のかげ」は「月の光」のこと。すなわち美しいその人の面影を言うのだろう。「袂(たもと)に宿す」とは涙と共に忘れないということ。初句の「知らざりき」が我ながら思いがけなかったとしている。いい歌だ。

もの思へどもかからぬ人もあるものをあはれなりける身の契りかな

これも恋の歌。「身の契り」は自分の前世からの宿縁。苦しい恋の体験に我が身の因果を嘆く歌。これも率直な歌い振り。

仏には桜の花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば

雑中にある桜の3首のうちの一つ。歌の意は解説を要しまい。有名な下の歌を思い出す。西行は桜が大好きだった。

願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

式子内親王

ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりの夕暮の空

「ながむ」は物思いに耽る意味。「思ひやる」「思い」を「やる」こと。すなわち気を晴らすこと。要するに「春愁」。春の終わりはこうした情調を生む。深窓の内親王ならではの思いか。

神山のふもとになれしあふひ草ひきわかれても年ぞへにける

式子内親王は当時の風習に従って斎院生活を10年にわたって送った。「神山」は上賀茂神社の背後の山。「あふひ草」は「葵草」。詞書きによれば「賀茂祭の前の神事」である人が「葵草」を捧げたのをみて詠んだとある。忘れがたい斎院生活を思い出す。

草も木も秋のすゑ葉は見えゆくに月こそ色もかはらざりけれ

秋下にある歌。草木は色がどんどん変わっていくのが見えるのに、月だけ色が変わらないとしている。素直な歌い振り。

はかなしや枕さだめぬうたた寝にほのかにまよふ夢の通ひ路

恋の歌。「枕」は恋のアイテム。枕の位置で夢で会いたい人に会えるという迷信があったようだ。恋人に夢でも会えない儚さを歌う。

ふるさとをひとり別るる夕べにもをくるは月のかげとこそ聞け

「釈教歌」にある歌。「ふるさと」はここでは現世のこと。月の光だけが現世からのわかれを見送ってくれるとする。仏教的な考え方がこの頃完全に定着していたことを思わせる。
式子内親王の歌はいずれもわかりやすく素直な歌だ。
なお、平氏打倒の兵を挙げて敗死した以仁王はこの人の弟。生涯はけっして平坦なものではなかったと思われる。

テキストについてはこれまでと同じ。

この項了

『日本古典文学総復習』9『金葉和歌集』『詞花和歌集』

『金葉和歌集』『詞花和歌集』を読む

この二つの和歌集はこれまでの勅撰和歌集と違って、10巻構成で歌の数も少ない。『金葉和歌集』が665首、『詞花和歌集』が415首である。
この二つの勅撰和歌集は平安後期に成立していて、安定した平安時代がようやく崩れていく時代背景を反映している。後に時代の中心に躍り出る「連歌」も『金葉和歌集』で取り上げられているのもその一つである。
もちろんこれまでの時代の歌人達の歌も取られてはいるが、歌の内容からもこれまでの勅撰和歌集にある特徴が崩れる様子が伺える。従って、当時は極めて評判の悪かった歌集のようだ。
その成立についても一筋縄でいかなかったようで、特に『金葉和歌集』は異本が多い。しかし、そこに新時代への胎動を見るとすれば、決して看過できない歌集であるとも言える。
ここでは主にこの時代の歌を中心に、また「連歌」も取り上げてみたい。

『金葉和歌集』から

あら小田に細谷川をまかすればひく注連縄にもりつつぞゆく

経信の歌。田園叙景歌。この題材と詠いぶりはこの歌集ならではかもしれない。

風ふけば蓮のうき葉に玉こえてすずしくなりぬ蜩の声

俊頼の歌。夕暮れの涼しさを詠んだ歌。蜩の声だけでなく、風と蓮の上の玉を配してなかなか名歌だ。

うづら鳴く真野の入江のはまかぜに尾花なみよる秋のゆふぐれ

これも俊頼の歌。「うづら鳴く」は万葉集の表現句。このころ萬葉集が一般化し、こうした語句も好んで使われたようだ。俊頼の代表的秀歌と言われている。

ふる雪に杉の青葉もうづもれてしるしも見えず三輪の山もと

皇后宮摂津と作者名がある。三輪は杉で有名だったらしい。杉の青葉が白い雪に埋もれていく情景が鮮明に描かれている。これも叙景歌と言っていい。
ここまでは『金葉集』の一つの特徴をなす叙景歌を取り上げた。その題材、詠みぶりはいずれも清新でこれまでの歌を超えるものさえあると思える。

近江にかありといふなるかれい山君は越えけり人と寝ぐさし

恋にある詠み人知らずの歌。「近江」と「逢う身」をかける。「かれい山」と「離れ(かれ」をかける。しかも「人と寝ぐし」は口語的で「寝たらしい」の意。かなり卑俗な歌ということになる。こんな歌も取り上げているところが面白い。

ぬす人といふもことはりさ夜中に君が心をとりに来れば

これも同上。極めてわかりやすい歌。こういう謂わば庶民的と言える歌も取られている。

ちはやぶるかみをば足にまく物か
これをぞ下の社とはいふ

連歌の一例。詞書きに「和泉式部が賀茂神社に参詣した時、草鞋ズレができたので足に紙を巻いていたのを神主がみて詠んだ」とあり、
その上の句に和泉式部が答えたという。要するに洒落である。賀茂神社は上下ある。ここは下賀茂神社というわけだ。江戸時代の俳諧を想起させるやりとりだ。

梅の花笠きたるみのむし
雨よりは風ふくなとや思ふらん

これも連歌の一例。ここは七七に五七五でつける。前句付け的な応答。詞書きに「蓑虫の梅の咲きたる枝にあるを見て」とあり、「童」が付けたとなっている。
蓑虫の蓑は雨よけだが、花を散らすのは風。蓑虫も雨より風よふくなと思っていいるだろうという意。
こうした短歌の上下を別人が読む遊びは後に連歌として大成していく。この集がここに注目した点からも当時すでにこれが一般化し始めていたことを伺わせる。

『詞花和歌集』から

いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ

をのが身のをのがこころにかなはぬを思はば物は思ひしりなん

上記3首はいわば伝統的な名歌。初めの歌は伊勢大輔の歌。2番目は新院御製とある歌。3番目は和泉式部の歌。いずれも人口に膾炙した歌だ。
こうした歌も多く取っていてこの集は伝統的な古今的な範疇にとどまっている側面も持っている。

胸は富士袖は清見が関なれやけぶりもなみも立たぬ日ぞなき

この歌は平祐挙の歌。俊成によって「趣向のおかしさを調子よく詠い上げただけの歌」と言われた歌の例としてよく引かれる。
また現在も「もはや俗謡すれすれの名調子といった印象を拭いがたい。」と言われている。ただこうした歌が和歌の新たな地平を切り開くのに必要だった気もする。
これも時代の要請ということになるのかもしれない。古今的なものからいかに抜け出すか、そんな試みの一つのようにも思える。

ここも歌の引用は適当な電子テキストがないため、『新日本古典文学大系』の表記を筆者が電子化したものである。

この項了

『日本古典文学総復習』8『後拾遺和歌集』

『後拾遺和歌集』を読む

歌集について

『後拾遺和歌集』は名のとおり『拾遺集』の後に編まれた勅撰和歌集である。といっても80年以上経っていることは注目していい。
総歌数は1218首。構成はこれまでと同様20巻で春、夏、秋、冬、賀、別、羇旅、哀傷、恋、雑からなっている。特徴は巻二十(雑歌六)に「神祇」「釈教」の分類が初めてあらわれた点、『古今集』『後撰集』以後の歌が取られているが、紀貫之等のこの時代の代表的な歌人の歌がほとんどない点、主な歌人として、和泉式部(67首)・相模(39首)・赤染衛門(32首)といった女流歌人が多く取られている点などだ。
また、撰進当時から批判の声が高かったらしいが、これはこの集がこれまでの勅撰集のあり方から脱皮を目指したためだとも言える。
そこでここでは多く取られて女流歌人の歌を見ていくことにする。これは源氏物語を頂点とする世界に類を見ない女流文学の端緒とも言えるからだ。

歌人

小大君

いかに寝て起くる朝にいふことぞ昨日をこぞと今日をことしと

巻頭を飾る歌。作者の詳細は不明だが、古今集の巻頭の歌を念頭に置いた歌であることは疑いない。歌としては理屈が勝っていてどうかと思うが、巻頭に女性の古今集巻頭の歌のパロディ的な歌を置いた点にこの歌集の意気込みが感じられる。
古今集巻頭の歌は在原元方の以下の歌だ。

年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ

紫式部

み吉野は春にけしきにかすめどもむすぼほれたる雪の下草

なかなか地上に現れない「雪の下草」は作者自身のことか。「むすぼほれたる」とは「根がもつれてほどけないでいる」意。心がふさいで晴れないと言っている。宮廷生活の一面か。

めづらしき光さしそふ月はもちながらこそ千代もめぐらめ

詞書きに「後一条院が生まれさせ給ひて、七夜に人々がまいりあひて、さかつきいだせと侍りければ」とあり、皇子誕生の祝いの歌。宮廷での華やかな面がうかがえる。
紫式部は言わずと知れた源氏物語の作者。もちろん多くの歌を残した。ただ、この女性、当代きっての批評家と言える。日記のなかで当代の女流をいろいろ批評している。後に引く清少納言はもっとも辛辣な批評を受けた人物。この集で多くの歌を取られている和泉式部についても歌や人物評をしている。これはこの女性たちがほとんど一条天皇の後宮に出仕していた女房仲間であったことも関係している。仲間という言葉を使ったが、「仲間」イコール「ライバル」という関係は今も昔も変わらない。

清少納言

夜こめて鳥のそらねにはかるともよに逢坂の関はゆるさじ

紫式部を出したら、この人を出さないと。言わずと知れた『枕草子』の作者の一首。百人一首にも取られた有名な歌。教養のひけらかしと紫式部に言われそうな歌。
この歌には「函谷関の故事」というのが背景にあって、中国の秦国に入って捕まった孟嘗君が逃げる時一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたというお話。長い詞書きがあって、宮中での出来事が語られている。

赤染衛門

帰る雁雲居はるかになりぬなりまた来ん秋も遠しと思ふに

やすらわで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな

さもあらばあれ山と心しかしこくはほそぢにつけてあらす許ぞ

赤染衛門も一条後宮の女房の一人。紫式部はこの人の歌を評価している。
最初の歌は清少納言と違って素直な歌ぶり。
引いた2番目の歌は百人一首に取られている。男をまって夜明かししてしまったことを言っているが、なんとも素直に恨みがましいところがない歌だ。ただ、これは詞書きによればある女のために詠んであげた歌ということになっている。和歌が貴族の日常生活で一般化するとこうした「代詠」はかなりあったと思われる。
3番目の歌は実はこの『後拾遺和歌集』の掉尾を飾る歌だ。この集は女流歌人に始まって女流歌人に終わっていることになる。この歌は大江匡衡の以下の歌の返歌。

はかなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母せんとは

これは乳の出が悪い乳母を置いたことを嘆く、父の歌。大江匡衡は文章博士。赤染衛門はその妻。従ってこの歌は妻の慰めの歌。「山と心」は「大和心」。後に「大和魂」と表記されてしまうが、元々は漢才すなわち知識とは違う日常の実際的な知恵や才覚をいう言葉だ。それがあれば、たとえ乳が細くても置いておきましょうと言っている。この歌は「雑六」の俳諧歌に分類されている。

相模

見わたせば波のしらがみかけてけり卯の花咲ける玉川の里

たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせん

最初の歌の詞書きに「絵合」をした時の冊子に書き付けたとある。「絵合」は平安時代の貴族の間で行われた遊び。左右2組に分れて小さな絵を出し合ってその優劣を競う。『源氏物語』の「絵合」の段にそのありさまがうかがわれる。
波が立っているところを柵に見立てた歌。
2番目の歌は和泉式部と並び称された相模ならではの歌。詞書きに男が待てと言ってきた返事の歌とある。「たのむ」と「待つ」という語を繰り返し上手く使う。「あなたの頼りない言葉を期待することはできない。でも、気がつくとあなたを待ってしまう。なんと頼りない私の心よ。」と言っている。恋二にある歌。

和泉式部

さびしさに煙をだにもたたじとて柴折しくぶる冬の山里

とどめおきて誰をあはれと思ふらん子はまさるらん子はまさりけり

黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき

人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬ許ぞ

かるもかき臥す猪の床のいを安みさこそ寝ざらめかからずもがな

もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る

こうなれば、和泉式部の登場だ。当時の最高貴族藤原道長に「浮かれ女」と言わしめた女性だ。後世にも様々な伝説に登場する。前に見た『拾遺和歌集』では1首しか取られてなかったが、この集では実に67首も取られている。選者の並々ならぬ傾倒ぶりが伺える。
1首目は冬に取られた歌。「たたじ」は「断つまい」ということ。単に寒さしのぎなのだろうが、そこに「さびしさ」に耐えようとする情景として詠む。こういう歌もある。
2首目は素直に子を思う気持ちを詠む。和泉式部には小式部内侍という歌人の娘があり、この娘との逸話は有名だが、この歌の子は別の子。和泉式部は多くの男と結婚しているが、この子は藤原範永との間にもうけた娘。この娘がが藤原公成の子を出産した際に20代で死去したらしい。この際母の和泉式部が詠んだ歌である。親の率直な心情が率直な言葉で歌われている。
3首目以降は何も言う必要はあるまい。じっくり鑑賞すれば足りる。
やはり和泉式部は当代きっての、いや今でも十分通づる「恋の歌人」である。

その他

津の国のなにはのことか法ならぬ遊び戯れまでとこそ聞け

雑六の「釈教」にある、遊女の歌。「遊女宮木」と作者名を記している。
これは性空上人という人が結縁の供養をした際、多くの人々が布施をしたが、遊女からの布施を受け取るのを躊躇したことに対する歌。
「仏法は遊女の身までを救ってくれるものと聞いていますが」と上人をやり込める。いいね。こういう歌を取っていることも注目してもいいと思われる。
女流歌人の歌ばかりを拾ってきたが、この『後拾遺和歌集』はその控えめな歌集名にもかかわらず、文学史上瞠目すべき歌集であることを知った。

歌の引用は適当な電子テキストがないため、『新日本古典文学大系』の表記を筆者が電子化したものである。

この項了

『日本古典文学総復習』7『拾遺和歌集』

『拾遺和歌集』を読む

歌集について

『拾遺和歌集』は、これまで見てきた古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集である。(ただ、成立についてはいろいろあるようだ)
「拾遺」という名のとおり、古今・後撰両集で入れ残した歌を拾うという意味を持っているようだ。
貫之・躬恒といった古今集の主要歌人の歌がさらに多く取られ、後撰集には取られてなかった後撰集の編者たちの歌が初めて多く採用されている点、さらには柿本人麿の歌が極めて多い点からそれは言える。(ただし、人麿の真作とみとめられる歌はわずかに過ぎないようだが。)
また、当時の専門歌人でない貴族たちの歌が多いのもその特徴と言える。これは和歌が貴族の間で日常化したことの証左だろう。
部立は全20巻でこれまでの歌集と同じだが、特徴的なのは「雑春」「雑夏」「雑秋」「雑冬」という巻があることだ。
では、内容的にはどんな特徴があるのだろうか?そこで今回はこの『拾遺和歌集』和歌集で初めて多くの歌が取られた歌人の歌を中心に見ていくことにする。

歌人

源順

わかやとのかきねやはるをへたつらん夏きにけりと見ゆる卯の花

「屏風に」という詞書きがある歌。いわゆる「屏風歌」だ。これは平安時代になって貴族の間でインテリアとして流行した大和絵の屏風に歌を書き込んだ物だ。
源順は後撰和歌集の編者だが、当代きっての学者だったようだ。万葉集の訓詁や漢文にも通じていたと言われる。「卯の花」は夏の身近な花。

平兼盛

み山いてて夜はにやきつる郭公暁かけてこゑのきこゆる

前の歌の詞書きに「天暦御時歌合」とあり、この歌も歌合の一首。歌合は歌人を左右二組にわけて、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊びだ。
当時の貴族の間で流行していた思われる。いかに和歌が貴族の間で日常的な物となっていたかの証左である。兼盛もこの集から多くの歌が取られている歌人の一人。

恵慶

あまの原そらさへさえや渡るらん氷と見ゆる冬の夜の月

これも歌合の一首とされる。冬の寒さから月を氷に見立てる。その後今昔物語集や古本説話集に引かれる。恵慶は法師だが、その経歴は不明。
但し、20首近くの歌が収録されていて、当時の歌壇においてそれなりの地位を占めていたと思われる。仏教徒がこうした歌人として現れるのもこの時代の特徴か。
歌はよく言えば平明だが、悪く言うと当たり前すぎる。

元輔

いかはかり思ふらむとか思ふらんおいてわかるるとほきわかれを

巻第六「別」にある歌。元輔は清少納言の父。高齢で地方に赴任する下級貴族の思いが切々と伝わって来るいい歌。「思ふらむとか思ふらん」の句が破調。
「わかる」「わかれ」の反復も心情を良く伝える。

公任

しもおかぬ袖たにさゆる冬の夜にかものうはけを思ひこそやれ

当時の歌壇において重要な地位を占めた人物。貴族としても上位の貴族であり、皇族とも関係が深い。
晩年は出家したと言われる。ここにも当時仏教が深く貴族の間に浸透していたことがうかがわれる。
冬の寒さを鴨に同情を寄せる形で表現。

村上天皇

山かつのかきほにおふるなてしこに思ひよそへぬ時のまそなき

恋の歌。これは古今の以下の歌を元に発想。

あな恋し今も見てしか山がつの垣ほに咲ける大和撫子

「時のまそなき」は「一時だってない」という意味。女性を大和撫子に装えるのはこのころからあったのか。
想像の歌だろうが、こうした情緒を尊ぶ風はいかにも日本的な気がする。村上天皇は多くの歌が取られている。

道綱母

歎きつつ独ぬる夜のあくるまはいかにひさしき物とかはしる

道綱母は言わずと知れた「蜻蛉日記」の作者。歌も有名。数は多くないが、この拾遺和歌集で初めて歌が取られている。謂わば女性の恨みの歌。当時の結婚形態がなせる恨み。

和泉式部

暗きより暗き道にそ入りぬへき遥に照せ山のはの月

作者名には「雅致女式部」とあるが和泉式部の歌。和泉式部はのちに有名となるが、この一首だけがこの集に載る。詞書きに「性空上人のもとに、詠みて遣はしける」とあり、仏教的な要素の濃い歌。
「暗き」闇は煩悩の闇を指す。「山のはの月」は上人を指し、いわば真如の月。煩悩で迷いに迷っている私に光明をもたらしてほしいと言っている。
この歌はのちに「古本説話集」や「無名草子」「沙石集」に引かれている。「沙石集」ではある遊女の歌となているらしい。いずれも煩悩多き女性の心情の象徴。
ここにも仏教の影響を色濃く見ることができる。

その他

こうしてざっと「拾遺和歌集」を繙いてみると、平明でわかりやすい歌が多いこと、また仏教的な影響が色濃くなったこと、うたが貴族の間でかなり一般化したことなどがうかがえた。
また、「物名歌」という分類があって、これがかなり多く取られている。
ほとんど「言葉遊び」の歌で文学的に見るべきところはないようだが、今後歌がどんどん技巧化していく端緒のような気もした。

歌の引用は便宜上以下のサイトによった。
https://ja.wikisource.org/wiki/拾遺和歌集

この項了

『日本古典文学総復習』6『後撰和歌集』

『後撰和歌集』を読む

『後撰和歌集』は『古今和歌集』から50年足らずの後編纂された2番目の勅撰集だ。したがって、『古今和歌集』とさほどの違いはない。取られている歌人もさほど違ってはいない。いわば『古今和歌集』の補遺版と言ったらいいかもしれない。ただ、編者は違っている。宮中に撰和歌所が置かれ、その寄人に任命された源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文だ。しかもこの編者たちの歌は取られていない。また、この編者たちは『万葉集』の訓詁を行ったとされている点も注目に値する。
部立はほとんど『古今和歌集』と同じで、春、夏、秋、冬、恋、雑、離別、賀歌の二十巻からなっている。ただ総歌数は1425首とやや多く、春と秋は上中下にわかれ、雑も多く、離別には羇旅歌が含まれ、賀歌には哀傷歌が含まれているのが違っている。
さて、今回この『後撰和歌集』を読んで注目したのは女流歌人の伊勢についてだ。この伊勢は『古今和歌集』にも多くの歌が取られているが、この集では紀貫之に次いで多い72首もの歌が取れれているからだ。いかにこの編者たちがこの伊勢という人物の歌に注目したかがうかがわれる。そこで今回はこの伊勢の歌を各巻からとっていきたい。

春には6首取られている。その中の一つ。

あをやきのいとよりはへておるはたをいつれの山の鴬かきる

「古今集」神遊歌に

青柳を片糸によりて鶯のぬふてふ笠は梅の花笠

という歌があって、この歌からの発想。実は鶯は姿をほとんど見せず、その色合いもけっして美しいものではない。鳴き声からのイメージがそうさせる。綺麗なのは実はメジロだけどね。可愛らしい想像の歌。

夏は3首。

郭公はつかなるねをききそめてあらぬもそれとおほめかれつつ

詞書きに「女の物見にいでたりけるに、こと車かたはらに来たりけるに、物など言ひかはして、後につかはしける」とある。ホトトギスの声が忘れなれないといっているが、この詞書きを見ると出逢った男性の声が忘れられないという意味に取れる。

秋には7首。

をみなへしをりもをらすもいにしへをさらにかくへき物ならなくに

この歌は以下の歌の返歌

女郎花折りけむ枝のふしごとに過ぎにし君を思ひいでやせし

この歌には「法皇、伊勢が家の女郎花を召しければ、たてまつるを聞きて 枇杷左大臣」という詞書きがあり、法皇が伊勢に命じて自家の女郎花を献上させたことを聞いた枇杷左大臣が歌を贈り、かつて寵愛を受けた法皇への思いを尋ねて来たというわけだ。それに対し、「私は今更心にかけてなどいないし、これを機会に昔を懐かしむこともない」としている。この辺りは伊勢にまつわる色恋沙汰が彷彿とする。

冬には以下の1首のみ。

涙さへ時雨にそひてふるさとは紅葉の色もこさまさりけり

これも前と同じ枇杷左大臣の歌に対する返歌。大臣の歌は「すまぬ家にまで来て紅葉に書きて言ひつかはしける」という詞書きがある以下の歌。

人すまず荒れたる宿を来て見れば今ぞ木の葉は錦おりける

秋の歌のようだが、「時雨」で冬に分類されたのだろう。この大臣とは藤原仲平のことで、伊勢のかつての恋人。「ふるさと」はかつて伊勢が住んでいた所。そこにかつての恋人が訪れて紅葉を歌う。それに対して「時雨」に「涙」が加わって紅くなったのだと。「紅涙」(こうるい)という美しい女性の涙をいう言葉があるが、この涙で紅くなったのだと恨む気持ちを歌う。

恋には22首もの歌が取られている。伊勢ならではだ。ここは以下の3首を引く。

おもひかはたえすなかるる水のあわのうたかた人にあはてきえめや

「まかる所知らせず侍りける頃、又あひ知りて侍りける男のもとより、『日頃たづねわびて、失せにたるとなむ思ひつる』と言へりければ」という詞書きがある歌。「なかるる」は「流れる」「泣かれる」がかかっている。「あはてきえめや」で「うたかた(泡沫)のように、会わないで消えるもんですか」と言っている。なかなかの歌だ。歌に濁点がないのはその当時の表記そのまま。

わかやととたのむ吉野に君しいらはおなしかさしをさしこそはせめ

これも以下の歌の返歌。その歌の詞書きに「女につかはしける 贈太政大臣」とある。この大臣は藤原時平。仲平の兄である。このとき伊勢は仲平とは疎遠になっていた。

ひたすらに厭ひはてぬる物ならば吉野の山にゆくへ知られじ

ここでは「吉野」が当時隠棲する場所として知られていたこと、「かざし」が不老長寿を願う呪いであったことを知らないと解釈できない。時平が「会ってくれないなら、いっそ吉野に隠棲したい」と言っているのに対し、伊勢は「私も隠棲して山人として暮らしたい」と応じている。隠棲は男女の関係を超えた生活を言うのだろう。

見し夢の思ひいてらるるよひことにいはぬをしるは涙なりけり

「心のうちに思ふことやありけむ」という詞書きがある歌。片思いの歌。「涙」だけが自分の思いを知っていると言う。いかにも古今的な恋の歌。

雑には17首取られている。その中から1首を引く。

よのなかはいさともいさや風のおとは秋に秋そふ心地こそすれ

これも返歌。読み人知らずとなっているが、「人に忘られたりと聞く女のもとにつかはしける」という詞書きを持つ以下の歌に対するもの。

世の中はいかにやいかに風のおとをきくにも今は物やかなしき

雑に分類されているが、秋とも恋ともとれる歌。ただ元歌が「風の音」に季節感があるが、季節がはっきりしないのでここに分類されたか。「世の中」は男女の仲を言うのは古典常識。「二人の仲はどうでしょう?悲しいのでは」聞いている元歌に対し、「秋に秋添う」気持ちだと答えている。「秋」に「飽き」が掛かっている。

離別

離別には10首取られている。その中から1首を引く。

わかるれとあひもをしまぬももしきを見さらん事やなにかかなしき

詞書きに「亭子のみかどおりゐたまうける秋、弘徽殿の壁に書きつけ侍りける」とある。関係が深かった宇多天皇の譲位が近づき、伊勢が宮中を離れることになった際に天皇が読むことを想定して壁に書いたと言う歌。「ももしき」は「宮中」を指す。「何か悲しき」とは「なんで悲しいことなっんかあるものか」という反語がかえって悲しさを強調する。

賀歌(哀傷)

哀傷には6首取られている。その中から2首を引く。

ひとりゆく事こそうけれふるさとのならのならひてみし人もなみ

詞書きに「大和に侍りける母みまかりてのち、かの国へまかるとて」とある。母の死を悼む。奈良は伊勢の「ふるさと」であり、かつて都があった土地という意味もある。「ならふ」は「慣れ親しむ」意。母の死を知って奈良に行く時の哀傷。素直な歌。

なくこゑにそひて涙はのほらねと雲のうへよりあめとふるらん

詞書きに「一つがひ侍りける鶴のひとつがなくなりにければ、とまれるがいたく鳴き侍りければ、雨の降り侍りけるに」とある。これはペット?の死を悼んだ歌。鶴がペット?鶴は当時から不老不死の象徴だったらしく、飼うことが流行していたようだ。

今回は解釈を混じえ伊勢の歌を見てきた。日本古典文学に果たす女流の役割は昔から大きものがあった。こののち宮中での女房たちによる文学が花開くが、伊勢はその先駆であったといえる。

本文は便宜上以下のサイトを利用した。
https://ja.wikisource.org/wiki/後撰和歌集

この項了

『日本古典文学総復習』5『古今和歌集』

『古今和歌集』を読む

この新日本古典文学大系では『萬葉集』に続くのがこの『古今集』である。そのあと勅撰集が続いているのでまずは和歌集を並べる編集方針らしい。
しかし、この古今和歌集は萬葉集とかなり違っている。改めて続けて読んでみてその大きな違いに気づかされた。

『古今和歌集』は『萬葉集』と同様巻二十ある。しかし、歌の数は1100首で萬葉の約4分の1、歌の種類もほとんどが短歌である。巻一から巻六までが四季の分類による。342首あって全体の約3分の1。また、巻十一から巻十五までが恋のうたで、360首でこれも全体の3分の1を超える。残りがその他の分類で雑歌、東歌、等である。
また、歌人の数も限定されている。詠み人知らずの歌も多いが、専門の歌人によるものが大半と言っていい。ご存知のようにこの『古今和歌集』は最初の勅撰集ということになっていることも『萬葉集』との大きな違いだ。
『萬葉集』は8世紀に成立したと考えられ、『古今和歌集』は10世紀の初頭に成立したと考えられるから違いがあって当然なのだが、ここには和歌だけではなく日本古代社会にも大きな転換点があったようだ。和文の文学史でいうと、この『萬葉集』と『古今集』との間には和歌の空白がある(現存する作品がない)のだが、その間に漢文の作品はいくつか残っている。実はこの漢文の詩文集が当時の勅撰集であった。8世紀には謂わば傍流であった和歌が社会変化にともなって10世紀初頭には表舞台にあがったということだ。
では具体的に歌を見ていこう。

春の歌

はるがすみたつを見すててゆくかりは花なきさとにすみやならへる

あだなりとなにこそたてれ桜花年にまれなる人もまちけり

けふこずはあすは雪とぞふりなましきえずはありとも花と見ましや

たれこめて春のゆくへもしらぬまにまちし桜もうつろひにけり

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を

夏の歌

さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする

夏の夜はまだよひながらあけぬるを雲のいづこに月やどるらむ

秋の歌

このまよりもりくる月の影見れば心づくしの秋はきにけり

秋ののにおくしらつゆは玉なれやつらぬきかくるくものいとすぢ

山田もる秋のかりいほにおくつゆはいなおほせ鳥の涙なりけり

冬の歌

花の色は雪にまじりて見えずともかをだににほへ人のしるべく

こうして四季の歌をざっと読んでいると、いずれも同様な情緒、題材が並べられていてあまり面白さが感じられない。春は何と言っても桜である。萬葉にはそれほど登場しなかったように思う。鳥はウグイスだ。夏だったらホトトギス。秋は月、鹿、雁、露。冬は雪と梅。こういう題材と情緒は現代でも日本人にとって定番のアイテムだ。この定番は古今集によって作られたといっていいかもしれない。これが後何百年も日本人の和歌を支配したといっても過言ではない。

恋の歌

あさぢふのをののしの原しのぶとも人しるらめやいふ人なしに

わりなくもねてもさめてもこひしきか心をいづちやらばわすれむ

ひとしれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

色もなき心を人にそめしよりうつろはむとはおもほえなくに

恋の歌も古今集の大半を占めている。これは萬葉集でも言えたことで、日本人が古くから男女の関係に心血を注いできた証拠だが、古今集のそれは万葉集と大きく違っている。万葉集では男女の関係を謂わば直接的に歌う歌が多かったが、古今集のそれは「恋を恋する」と言ったらいいか、恋の情緒を楽しむといったらいいか、間接的な歌がほとんどだ。通じ合わない心を詠む歌が多いように思う。この恋の情緒もやはり日本人の恋の定番となった。

その他

風ふけばおきつ白浪たつた山よはにや君がひとりこゆらむ

こよろぎのいそたちならしいそなつむめざしぬらすなおきにをれ浪

その他の初めの歌は長いあとがきがあり、謂わば物語を背景にした歌。ちょっと萬葉ぶり。最後は東歌の一首。相模の国大磯あたりの浜を歌っている。これも古歌の雰囲気が残る。
正岡子規は古今集をこき下ろした。そして万葉集を評価した。そんな影響がこの私にあるのかもしれない。通読するとどれも同じに見えてしまうのだ。しかしもっと虚心坦懐に一首づつを切り離して時に応じて読んでみればいい歌もあるに違いない。また、この古今集が後の文学史に残した影響が計り知れないことも肝に銘じておくことも必要だろう。
なお古今集のテキストは便宜上以下のサイトから引いた。アメリカの大学のサイトだ。

http://jti.lib.virginia.edu/japanese/kokinshu/kikokin.html

この項了

『日本古典文学総復習』4『萬葉集』4

『萬葉集』を読む2の2

4冊目には以下の歌が収まっている。

巻十六
有由縁と雑歌3786から3889
巻十七
大伴家持中心3890から4031
巻十八
大伴家持中心4032から4138
巻十九
大伴家持中心4139から4292
巻二十
大伴家持中心4293から4320・4437から4516
防人の歌4321から4436

最後の4冊目だ。特に分類はない。ここは巻十七以降ほとんどが大伴家持の歌が中心となっている。家持は萬葉集の編者と見なされていて、ここは編者の私家集的な色合いが強い。
ただ、最後の巻二十には「防人」の歌が多く取られていて特徴を成している。
これは家持が防人を監督する立場にあったため、聞き書きしたものと思われる。
従ってここではまず巻十六について見て、さらに防人の歌について見、最後に家持の歌についてみることにする。
また、最後に萬葉集そのものの特質について触れる。

巻十六

巻十六は「有由縁と雑歌」となっている。これは歌そのものと言うより、歌にまつわる話が中心となる。すなわち歌物語の原型と考えてよいものが取られている。
平安朝になると多くの歌物語が現れるが、古来歌は話と共に伝承されていたのであって、それをある人物やあるストーリーにまとめ上げたのが歌物語だ。萬葉集に先行する古事記に於いても歌や歌謡がある話の中に収められている。また、歌には「詞書き」があって、それが歌の内容について補足する形があった。歌が歌として伝えられると言うより、あるエピソードと共に伝えられることの方が多かったのかもしれない。そんなことを考えさせられる巻だ。
ここでは後に「竹取物語」として結実する「竹取の翁」の有由緒歌を取り上げる。書き出しそのものがそっくりだ。萬葉集3791の「詞書き」はこう始まる。

昔、老翁ありき。号を竹取の翁と曰ふ。

竹取物語は

今はむかし、竹取の翁といふものありけり。

で始まっているからだ。ただ、話は違っていいる。萬葉集では単に翁が9人の仙女に出会うというだけの話である。これが長い長歌で歌われている。ここで引用はできないが返歌を引いておこう。
翁の歌

死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも

白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや

娘たちが和した歌

はしきやし翁の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ

その他色々な伝承があり、興味深い巻である。

「防人」の歌

巻二十に「防人」の歌が多く取られている。これまでにも幾つかは他の巻にもあったが、ここではまとまって紹介されている。この巻は大伴家持の私家集的な巻の最後なのだが、家持がある関心をもって収集したものと思われる。もともと家持は防人を監督する立場にあったのだろうが、そうだとしてもこれほどの歌を筆記したのには別の理由もあった気がする。それは歌人としての関心と謂わば不遇であった自分の境涯が関連しているのかもしれない。
さて、この防人は字の如く国家防衛を任務として主に東国から派遣された人々だ。となれば国家防衛の任務について気概を歌った歌があっても良さそうだが、それがほとんどない。ほとんどが故郷に残した恋人や妻、親に対する恋慕の情を歌ったものなのだ。これは新羅に派遣された人々の歌のも言えることだが、歌がいかにそうした感情の吐露を旨としていたがわかる。これはしっかり頭においていた方がいい。
例を幾つか引く。

置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも

我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず

父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで

忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも

我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね

家持も同情を寄せている。

海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ

家持の歌

さてここまで来て家持の歌を見なければならない。家持の歌は合計473首あり、萬葉集の約一割を占めている。ここでは外せない以下の歌を取り上げる。

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも

我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば

巻十九の末尾にある三首だ。
やはり萬葉集の中では完成度の高い歌と言わねばなるまい。特に3首目の歌は「うららかな」春の日にむしろ「心悲し」とする点で独自性のある歌である。和歌はともするとその時代の定型的な情緒にとらわれてしまうが、そんな定型的な情緒から抜き出ている。具体的個人的に「悲しい」と思わざるを得ない契機があるわけではないのに「心悲しい」としている。こういった情緒心情は萬葉集にあって大勢を占めるものではない。また、2首目の歌では1首目にある「うら悲し」や3首目にある「心悲し」といった直接に心情を表す語はないが、「かそけき」と言うことばが何か心寂しい心情をよく表している。竹を揺るすわずかな音になんとなくの「寂しさ」を感じるというのだ。こうした感情のあり方とその表現はもう少しで古今集へつながる面を思わせる。家持がどのようなところからこうした発想を得たかはわからない。大陸からの文化の影響も既にあったかもしれないが、土着的な感情生活が色濃く残っていたに違いない時代にあって、家持のこの達成はこの時代の貴族の一つの到達点だったに違いないと言える。
萬葉集最後の歌も家持の歌である。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事

萬葉集について

これで一応萬葉集を読了ということにする。読了といってもすべて詳細に読んだわけではない。どだいこの膨大な歌を一つ残らず短期間で精読するのは無理である。
ただ、久しぶりにざっと読んでみてこれまで気づかなかった点も多々あった。例えば巻一七のような部分があること、また多くの先行する歌集の存在があって成り立っていること。さらには、いかに古来から日本人の感情生活が男女の関係に執着していたか、などである。
もちろんこの萬葉集が日本文学で最も古いものではないが、この新しい古典文学全集がこの萬葉集から始まっているにはそれなりの理由があることも改めて知らされた思いがする。何と言っても日本古典文学は「和歌」にまず本質があるからだ。そしてこの萬葉集が時代の進展とともに何度も復活してきた経緯にも理由があることがわかった気がしている。この膨大な「和歌」群を眺める時、様々なアプローチがあってよく、今後とも何度も開くことになると思う。

この項了

『日本古典文学総復習』3『萬葉集』3

『萬葉集』を読む2の1

3冊めには以下の歌が収まっている。

巻11
旋頭歌2351から2367
正述心緒2368から2414・2517から2618
寄物陳思2308から2414・2619から2807
問答歌2508から2516・2808から2827
譬喩歌2828から2840
巻12
正述心緒2848から2850・2864から2963
寄物陳思2851から2863・2964から3100
問答歌3101から3126・3211から3220
羈旅発思3127から3179
悲別歌3180から3210
巻13
雑歌3221から3247
相聞3248から3304
問答歌3305から3322
譬喩歌3323
挽歌3324から3347
巻14
東歌3348から3577
巻15
新羅国に派遣された使人の歌3578から3722
中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌3723から3785

巻十一

ここはちょっと変わった配列になっている。歌体や表現法で分類している。ここからはほとんどが読み人知らずの歌だ。
最初に現れる旋頭歌はその後ほとんど姿を消す歌の形式で五七七を2回繰り返した6句からなる形式。上三句と下三句とで詠み手の立場がことなる歌が多く、頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことから、旋頭歌と呼ばれる。五七七の片歌を2人で唱和または問答したことから発生したと考えられている。

玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ

と言った歌がある。
正述心緒には当時信じられていた衣の紐に関する迷信の歌がある。

君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに

故もなく我が下紐を解けしめて人にな知らせ直に逢ふまでに

衣の紐が解けるのは思い人が思っているからだとする伝説というか迷信、なかなか面白い。
寄物陳思からは

水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ

問答歌からは

鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ

鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば

を引いておこう。

巻十二

この巻の初めに「古今相聞往来歌類之下」とあり、前の巻十一と同じような構成になっていることから巻十一はその「上」となるのかもしれない。
ここでは上にない羈旅発思の歌と悲別歌から引く。

我妹子し我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐解けぬ

草枕旅の衣の紐解けて思ほゆるかもこの年ころは

草枕旅の紐解く家の妹し我を待ちかねて嘆かふらしも

ここも「紐」の歌。

息の緒に我が思ふ君は鶏が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ

巻十三

この巻は従来の分類に戻っている。しかし、収められている歌が長歌と返歌のセットがほとんどだ。ここも読み人知らずの歌がほとんどだが、古い歌が多いように思う。

蜻蛉島大和の国は神からと言挙げせぬ国…….(長歌)

大船の思ひ頼める君ゆゑに尽す心は惜しけくもなし

歌は恋い焦がれる思いを直接に高らかに歌っている。ここに萬葉集の大きな特色があると言える。これは次の東歌にも言えることなので次の巻でもふれる。

巻十四

東歌は文字通り東国の歌だが、東国の範囲は信濃すなわち長野県や遠江すなわち現在の静岡県を西の端にしてそれより東の国ということになっている。国別及び歌の内容ごとに歌を並べて、最後に「未だ国を勘へざる」とした歌を収めている。
東歌はどのように収集したのだろうか、興味深いところだが、歌われている場所が限られている傾向があって、後の歌枕的な場所がこのころから定まっていたようにも思える。また、萬葉集編纂時にはすでに風土記ほか地方の国々の様子を報告する文書があったように思われ、都人によって選択された歌であったには違いない。ただ、東歌独特の語彙や語法も見られる点は興味深く、内容も身近な恋愛感情を歌った歌が多いのも特徴だ。
まずは相模の国から引く。足柄山の歌が多いので。

足柄のをてもこのもにさすわなのかなるましづみ子ろ我れ紐解く

ちょっとスリリングな男女の密会を歌っている。
有名な東歌

稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ

これも男女の歌。
前にも触れたが、東歌にもこうした男女の恋愛感情、というより恋愛そのものを歌った歌が多く、ここがやはり日本古代の歌の特徴であり伝統と言える。要するに平和主義者が昔から多い国なんです。

巻十五

この巻は少し変わっていることは初めに触れた。すなわち「新羅国に派遣された使人の歌」と中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌が収められている。主に九州の防衛にあたった防人の歌は有名だが、こうした歌もあるのが面白い。
幾つか引いてみる。
遣新羅使(けんしらぎし)の壬生宇太麻呂(みぶのうだまろ)の歌。妻(恋人)を思う歌

旅にあれど夜は火灯し居る我れを闇にや妹が恋ひつつあるらむ

新羅に遣わされた人たちの内のひとり、雪宅麻呂が壱岐の島で病気のために亡くなり、葛井子老(ふじゐのむらじおゆ)が彼の死を悼んで詠んだ歌。

黄葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも

中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌には中臣宅守が罪を犯して配流された事件が背景にあるようで、事情は詳らかではないが、ここにその時の贈答歌が収められているのが面白い。こうした歌に注目する編者の目が面白いと思うのだ。
二人の歌を引く
狭野弟上娘子の歌

君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも

強烈な歌である。
それに対し中臣宅守の歌のなんと穏当なこと。

あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり

この項了

『日本古典文学総復習』2『萬葉集』2

『萬葉集』を読む1の2

2冊めには以下の歌が収まっている。
巻6
雑歌907から1067
巻7
雑歌1068から1295
譬喩歌1296から1403
挽歌1404から1417
巻8
春の雑歌1418から1447
春の相聞1448から1464
夏の雑歌1465から1497
夏の相聞1498から1510
秋の雑歌1511から1605
秋の相聞1606から1635
冬の雑歌1636から1654
冬の相聞1655から1663
巻9
雑歌1664から1765
相聞1766から1794
挽歌1795から1811
巻10
春の雑歌1812から1889
春の相聞1890から1936
夏の雑歌1937から1978
夏の相聞1979から1995
秋の雑歌1996から2238
秋の相聞2239から2311
冬の雑歌2312から2332
冬の相聞2334から2350

巻六

この巻ではやはり山部赤人の歌が目立つ。数もそうだが歌の良さもそうである。宮廷歌人たる内容の長歌の反歌2首を引いておこう。

み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

また、この赤人の叔母にあたるという坂上郎女の歌にもいいものがある。

我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝

赤人はいわゆる宮廷歌人の一人で柿本人麿と並び称される。宮廷歌人だけに謂わば皇室賛歌的な歌も多いが、叙景歌的な歌もあって後の歌集にも多く登場する。

巻七

この巻はこれまでにない分類で歌を集めている。
分類自体はこれまでにあった、雑歌・譬喩歌・挽歌という分類だが、その中身が異なっている。雑歌の中に「天を詠みし一首」「月を詠みし一八首」等々として歌を紹介している。天文・自然・場所等での分類だ。譬喩歌も同様に物で分類するという形をとっている。挽歌はわずかしかない。天文ではやはり「月」自然では「河」が多い。ここにも日本の詩の題材の特徴が伺える。

玉垂の小簾の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも

ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き

初めの歌には作者の記述はないが、後の歌は柿本人麿歌集にあるとする。
譬喩歌では「玉に寄せし」が多い。以下に引く。

海神の持てる白玉見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人

ここでの「白玉」は「真珠」のことで、それを深窓の美しい娘に譬えているとする。

巻八

ここで初めて季節による分類が登場する。これまでの分類をさらに季節によって分ける試みだ。これまでの分類は謂わば大陸の影響下に行われた物と考えられるが、
この季節による分類はその後「古今集」以後しっかりと定着する。いわば日本的な分類と言えるかもしれない。しかもここは作者をはっきり明記した上で歌を収めている。幾つか引く。

水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも

笠郎女が家持に贈った歌とされる。春の相聞。

卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る

ここは家持の歌が多い。これもその一つ。霍公鳥はホトトギスのこと。夏の雑歌。

神さぶといなにはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも

加茂女王の歌とされる。秋の相聞。

沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも

大伴旅人を忘れてはいけない。太宰府での歌。冬の雑歌。

巻九

この巻はまた以前の分類に戻っている。
雑歌に珍しく「星」を詠んだ歌がある。月を詠んだ歌はたくさんあるが、太陽や星を詠んだ歌があまりないのが日本の古典の特徴と言えるが、
これは七夕伝説はすでに伝わっていたことを示している。因みに後の巻10には七夕を詠んだ歌が130首以上ある。

彦星のかざしの玉は妻恋ひに乱れにけらしこの川の瀬に

ここで東国の地名を含んだ歌。

埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽霧るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし

勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

いずれも高橋虫麻呂歌集にあるという。後者は真間の手児奈の伝説を歌った長歌の反歌だ。

巻十

この巻はまた巻8と同様な構成をとっている。
春の雑歌には「鳥を詠みし二十四首」とあり、「鳥」を読んだ歌が多く見られる。

春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな

春の相聞には

春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば

夏の雑歌にもやはり「鳥」の歌二十七首ある。霍公鳥は「ホトトギス」

木の暗の夕闇なるに霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ

夏の相聞には

霍公鳥来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも

秋の雑歌には

秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹

秋の相聞には「鳥」とはしていないが、

出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける

さすがに冬にはない。
後に「花鳥風月」とか「花鳥諷詠」と言った言葉があるように、「鳥」はこのころから和歌の主要な題材であったことがわかる。
また、四季による分類が登場したことは萬葉集編纂者の意識が古今集に繋がるものを持っていたことをうかがわせる。