『日本古典文学総復習』22・23『源氏物語』4・5

『源氏物語』を読む4

この物語、第2部(第3部というか)、源氏が死んだ以後の物語は大分様相が違う。舞台も都から離れた宇治を中心に展開する点も華やかさから程遠いものとなっている。
主人公の源氏の遺児薫大将と言う人物も初めから影を持った人物だ。この人物、源氏の子という事だが、実は源氏が晩年迎えた女三宮が柏木という若い男との間違いから生まれた子である。謂わば罪の子という設定になっている。そして物語はこの薫と匂宮と言う人物を巡って展開する。匂宮は源氏が遠流の地で出会った明石と言う女性の孫である。この二人の男は極めて対照的な人物として設定されている。もともと「薫」と言う言葉と「匂」と言う言葉は対照的な言葉だ。「薫」という語は内に秘めた美しさを言う語であり、「匂」という語は外に発散する美しさを言う語だ。薫大将は内向的な謂わばはっきりしない男として設定され、それに対して匂宮は社交的で積極的なプレイボーイとして設定されている。この二人が三角関係を展開する。その中で浮舟と言う女性を巡る関係がこの部分の物語の中心となる。この三角関係はこれまでの物語にある三角関係と様相を異にする。性格の違う二人の男の間で引き裂かれる女性が中心となっているからだ。浮舟は誠実でおとなしい薫との関係を大事に思うが、積極的で男性的な魅力の溢れる匂宮にどうしても惹かれてしまう。この三角関係は一人の女性の中での分裂という形で現れる。やがてこの浮舟は入水自殺を試みることとなる。結局は助けられ出家することになるのだが、ここでも成就しない恋愛が描かれている訳である。
以下は浮舟が死を決意して文を焼く場面である。

本文「浮舟」から

君は、げにただいま、いとあしくなりぬべき身なめりとおぼすに、宮よりはいかにいかにと苔の乱るるわりなさおのたまふ、いとわづらはしくてなむ。とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてある事は出で来なん、我身ひとつの亡くなりなむのみこそめやすからめ、むかしはけさうずる人のありさまのいづれとなきに思わづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ、ながらへばかならずうき事見えぬべき身の、亡くならむは何かおしかるべき、親もしばしこそ嘆きまどひ給はめ、あまたの子どもあつひに、おのづから忘れ草摘みてん、ありながらもてそこなひ、人笑へなるさまにてさすらへむは、まさる物思ひなるべし、など思ひなる。子めきおほどかにたをたをと見ゆれど、け高う世のありさまをも知る方少なくて生ほし立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。
 むつかしき反故などやりて、おどろおどろしくひとたびにもしたためず、灯台の火に焼き、水に投げ入れさせなど、やうやう失ふ。心知らぬ御達は、物へ渡り給ふべければ、つれづれなる月日を経てはかなくし集め給つる手習などをやり給なめりと思ふ。侍従などぞ見つくる時に、「などかくはせさせ給。あはれなる御中に心とどめて書きかはし給へる文は、人にこそ見せさせたまはざらめ、物の底に置かせ給て御覧ずるなん、ほどほどにつけてはいとあはれに侍る。さばかりめでたき御紙づかひ、かたじけなき御言の葉を尽くさせたまへるを、かくのみやらせ給、なさけけなきこと」と言ふ。「何か。むつかしく。長かるまじき身にこそあめれ。落ちとどまりて、人の御ためもいとほしからむ。さかしらにこれを取りおきけるよ、など漏り聞きたまはむこそはづかしけれ」
などの給。心ぼそきことを思ひもてゆくには、又え思ひ立つまじきわざなりけり。親をおきて亡くなる人は、いと罪深かなる物をなど、さすがに、ほの聞きたることをも思。

与謝野晶子氏の訳文

浮舟はこうして寂しい運命のきわまっていくことを感じている時、宮から決心ができたはずであるとお言いになり、「君に逢はんその日はいつぞ松の木の苔こけの乱れてものをこそ思へ」というようなことばかり書いておいでになった。どちらへ行っても残る一人に障りのないことは望めない、自分の命だけを捨てるのが穏やかな解決法であろう、昔は恋を寄せてくる二人の男の優劣のなさに思い迷っただけでも身を投げた人もあったのである、生きておれば必ず情けないことにあわねばならぬ自分の命などは惜しくもない、母もしばらくは歎くであろうが、おおぜいの子の世話をすることで自然に自分の死のことは忘れてしまうであろう、生きていて身をあやまり、嘲笑を浴びる人になってしまうのは、母のためには自分の死んだよりも苦しいことに違いないと浮舟は死のほうへ心をきめていった。子供らしくおおようで、なよなよと柔らかな姫君と見えるが、人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。あとで人の迷惑になりそうな反古類を破って、一度には処分せずある物は焼き、また水へ投げ入れさせなどしておいおいに皆なくしていった。秘密の片端も知らぬ女房などは、ほかへ移転をされるのであるから、つれづれな日送りをしておいでになる間にたまった手習いの紙などを破ってしまうのであろうと思っていた。侍従などの見つける時には、
「なぜそんなことをなさいますか。思い合った中でお取りかわしになったお手紙は、人にはお見せになるものではありませんでも、箱の底へでもしまってお置きになりまして、時々出して御覧になりますのが、どの女性にも共通した楽しいことになっておりますよ。この上もないお紙をお使いになりまして、美しい御文章でおしたためになったものを、そんなに皆お破りになりますのは情けないことではございませんか」
 こんなふうに言ってとめる。
「いいのよ。私にはもう長い命はないようだからね。あとへ残ってはお書きになった方の迷惑にもなって気の毒よ。悪い趣味だ、愛人の手紙などをしまっておくなどとまたお思いになる方があっても恥ずかしいしね」
 などと浮舟は言うのであった。死というものの心細い本質を思ってはまだ自殺の決行はできないらしいのももっともである。親よりも先に死んで行く人は罪が深くなるそうであるがなどとさすがに仏教の教理も聞いていて思いもするのである。

ここで注目されるのが

け高う世のありさまをも知る方少なくて生ほし立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。

という部分だ。与謝野晶子氏はこう翻訳している。

人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。

これは作者の意見である。源氏物語には時々こんな作者の感想とも思える言葉がさし挟まれる。浮舟と言う女性についての批評である。学識がないから死を思うと言っている。しかし、与謝野晶子氏の訳とは違って、「世の中」を男女関係として読めば、この浮舟が都育ちではなく、男女関係の経験値がないからだと受け止める事ができる。
また、浮舟が

むかしはけさうずる人のありさまのいづれとなきに思わづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ、

と言っている部分がある。これは万葉集以来語られ、その後もいろいろな話に取り上げられた生田川の伝説が下敷きになっている。
ここで注目されるのは「だにこそ」という語だ。つまり浮舟は二人の言い寄る男の優劣がつけにくいからこそ死を選ぶとは言っていない。では何故か?それは二人の男の間で自分自身が分裂してしまっているからで、それを自覚しているからに違いないからだろう。この浮舟はこれまでのこの物語に登場する多くの女性たちの誰とも似ていない。
この後浮舟は何かに憑かれたように増水した宇治川に身を投じる。この何かに憑かれたようにという部分が重要だ。自分の「物の怪」が自分自身に憑いてしまった結果なのかもしれない。結局は横川の僧都に救われ、出家する事になるのだが、宇治十帖の主人公薫大将の恋はここでも成就しないことでこの物語は終局を迎える事になる。

『源氏物語』に改めて取り組んでみて、この物語にはいかに多くの要素があり、語るべきことが多くある事が改めてわかった。
作者紫式部という人物についても改めて興味を持った。これらについてはいずれまた機会があれば語りたい。

この項了

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