『日本古典文学総復習』25『枕草子』

紫式部日記について

前の巻にあったが、紫式部日記をここで枕草子とともに取り上げる。まずは有名な枕草子の作者清少納言についての紫式部の辛口評価。紫式部日記にある。
本文

 清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

現代語訳

  清少納言という人ほどいつも得意顔で偉そうにしていた人はいません。あれほど賢いふりをして、漢文をいろいろと書いているが、その程度も、よく見れば、まだとても未熟な点が多くあります。このように、他人とは違うよという風をするのが好きな人は、かえってかならず見劣りがし、先行きは悪くなっていくことばかりです。したがって、思わせぶりの振る舞いが身についてしまった人は、ひどく無風流でつまらい時でも、しみじみと情趣にひたったり、また興趣深いことを見過ごすまいとしているうちに、自然とその折に適切ではない軽薄な振る舞いになるものなのです。そのように中身のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうして良いことがありましょうか。

かなり手厳しい批評と言える。この後取り上げる枕草子の清少納言は確かにこの紫式部の言うように晩年は不遇であったようだ。それが賢い振りをするところが原因であったかどうかはわからないが、男勝りで知識を振り回す女性は不幸になると断言している。もちろん自分とは違うと言っている。では紫式部自身はどうなのか。以下を読んでみる。
本文

  よろづのこと、人によりてことごとなり。誇りかにきらきらしく心地よげに見ゆる人あり。よろづつれづれなる人のまぎるることなきままに、古き反古ひきさがし、行なひがちに口ひひらかし、数珠の音高きなど、いと心づきなく見ゆるわざなりと思ひたまへて、心にまかせつべきことをさへ、ただわが使ふ人の目に憚り、心につつむ。まして人の中にまじりては、言はまほしきこともはべれど、いでやと思ほえ、心得まじき人には、言ひて益なかるべし。ものもどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければもの言ふことももの憂くはべり。ことにいとしも、もののかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすなめり。

現代語訳

  人にまつわる全てのことは人によってそれぞれです。誇らかに輝いていて心地よさそうに見える人がいます。一方、何事につけ所在なく寂しそうな人もいます。そうした人が気持ちの紛れることのないままに、古い書き物を探し出して読んだり、勤行ということで口にお経を唱えたり、数珠の音を高く繰ったりなどするのは、傍目にとても気に食わなく見える行為であると思えます。したがって、思いどおりにしてよいようなことまで、ひたすら自分が使用する侍女の目さえ憚って、心の内におさめています。まして他人の中にまじっては、言いたいこともありますが、さあどうかしらと思われ、理解できない人には、言っても無益なことでしょう。(したがって何も言わないことになります。)人の非難をし、自分こそはと思っている人の前では、煩わしいので何を言うのも億劫です。特にとてもそこまで何もかもできる人というのはめったにいませんから。それはただ、自分の心中に立てた基準をもとにして人を否定したりするもののようですから。

これは紫式部の一種の処世術なのかもしれない。宮中という特殊な社会にあって、女房という立場はなかなか難しい立場だったのかもしれない。この紫式部日記は紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えた時期の記録である。前半にはその宮中の華やかな様子が記録されている。ただ、それが後半になると先に見たように他の女房たちの人物評や人生観を語る部分が多くなっていく。また、仏道への傾斜も見られるようになっていく。この源氏物語の作者紫式部は当代きっての物語作者というばかりでなく、当代きっての批評家でもあったと言える。なかなか見事な人物評や人生観を読むことができる。

枕草子について

まずその跋文を見てみると
本文

 この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとする、とおもひて、つれづれなる里居のほどに、書きあつめたるを、あいなう、人のためにびんなきいひ過しもしつべき所々もあれば、よう隠しをきたりと思しを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
宮の御前に、内の大臣の奉りたまへりけるを、「これになにを書かまし、上の御前には、史記といふ文をなん書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそははべらめ。」と申ししかば、「さば、得てよ。」とてたまはせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、つきせずおほかる紙を書きつくさむとせしに、いと物おぼえぬ事ぞおほかるや。

現代語訳

 このノートは私の目に映り心に思ったことを、まさか他人が読むようなことはあるまいと思って、退屈で心さびしい私宅生活の間に書き集めたものだが、あいにく、他人にとって具合の悪い言い過ぎもしてしまいそうな所もあるので、うまく隠しておいたと思ったのに、意外にも世間にもれ出て伝わってしまったことだ。
中宮さまに内大臣さまが献上なさったノートを、中宮さまが「これに何を書こうかしら。天皇さまは史記という書物をお書き写しなさったのよ。」などとおっしゃったので、私が「枕草子(当時の一般名詞であったという)を書いたらよろしゅうございましょう。」と申し上げたところ、「では、そなたにあげよう。」とおっしゃって、私にくださったので、それに、つまらないことを、あれやこれやと、限りなくたくさんある紙を全部使って書こうとしたために、たいそうわけのわからぬことが多いことになってしまった。

ここに枕草子の成立が書かれている。ただ、ちょっとわかりにくい。筆者が里下りしている時に書き集めたと言いながら、宮中で中宮から紙を頂いた時に書こうとしたと言っている点だ。こういう跋文は筆者なりの韜晦があって文面通り取れないところがある。しかし、ともあれ筆者が宮中で女房として働いていた時に見聞したり、かき集めたものを宮中生活から退いた後にまとめた物だとは言えそうだ。したがって、この書はきちんとした構成を持たず、いくつかの要素が混じった物となっている。その中で宮中での中宮定子に仕えた時の記録が約3分1を占めている。これが日記的章段と言われる部分だ。この枕草子は普通随筆の嚆矢と言われる。しかし、日記文学の中に入れていいと思える。
ただ、日記的といっても回想である。そしてその内容は、仕えた中関白家およびその娘で一条天皇の中宮定子への絶賛である。実はこの中関白家は後に政争にやぶれ没落している。この作者が里下がりしたのもそれと関係しているはずだ。しかし、作者はあくまで過去の栄光を生き生きとした筆致で描いている。ここに作者清少納言の性格が伺える。紫式部が酷評したこの作者はマイナス面をほとんど書かない。紫式部が人間の裏面やマイナス面を冷静に捉えるのとは違っている。したがってこの書の印象はきわめて明るいドライなものだ。どちらを好むかは人それぞれだろうが、そうした面がこの書を読みやすい物にしている。
さて、この書には日記的章段とは別に類聚的章段と言われる部分も多くの部分をなしている。これは一種の辞書的要素を持つ部分である。
一般名詞をあげて、その説明を付ける章段。
形容詞や形容動詞をあげて、その意味に当てはまる物を具体的に示す章段である。
例えば

 原は
竹原。甕の原。朝の原。その原。萩原。粟津原。奈志原。うなゐごが原。安倍の原。篠原。

 市は
辰の市。椿市は、大和に數多ある中に、長谷寺にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、觀音の御縁あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。餝摩の市。飛鳥の市。

といった類のものだ。これは覚書というより仕えた定子のための教科書だったのではないかと小生は考えている。仕えた定子は日記的章段ではかなりの人格者として描かれているが、実際は十数歳の少女である。つまり作者は家庭教師的な役割を持っていいて、謂わば宮中での古典常識を教えていて、この書がそのノートであったと。
以下のものづくしと言われる部分も同じだ。
例えば

 あてなるもの
薄色に白重の汗袗。かりのこ。削氷のあまづらに入りて、新しき鋺に入りたる。水晶の珠數。藤の花。梅の花に雪のふりたる。いみじう美しき兒の覆盆子くひたる。

ただ、こうした段にも筆者の独自な観察眼があり、ある語についてはその説明が微に入り細にわたっていて、具体例も多く引かれ読み物としても面白いものとなっている。
枕草子は誰もが知っている古典。しかもすっきり読める古典。現代語訳には橋本治氏の「桃尻語訳枕草子」というのがあり、面白く読めるので是非ご一読を。

この項了

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