『日本古典文学総復習』26 『堤中納言物語 』『とりかへばや物語』

今度は平安後期の物語2編。『堤中納言物語』と『とりかへばや物語』だ。

『堤中納言物語』を読む

「虫めづる姫君」で有名な平安後期に成立したと思われる短編物語集。10編の短編物語と断片がある。いずれもごく短い話だが、それぞれに興味深い。以下簡単にその梗概を記す。

「花桜折る少将」
美貌の貴公子「花桜折る少将」が美女を手に入れようとするが、手なずけたはずの手下にどんでん返しをくらい美女の祖母の老尼を盗み出してしまうという落語的な話。
「このついで」
薫物の香りの中、リレー方式で語られる恋愛のオムニバス形式の話。歌物語的、日記文学的、作り物語的な世界が語られる。次第に暗い話になっていく。しかし結末はほっとする。
「虫めづる姫君」
美しく気高いが、化粧せず、眉を抜かず、歯を染めず、平仮名を書かず、毛虫を愛する風変わりな姫君の話。当時の姫君のは珍しい理屈っぽい性格のこの姫、なかなか面白い。しかし性格異常ともとれるところもあり、世紀末的な要素も伺える話。
「ほどほどの懸想」
これもオムニバス形式の話。屈託のない少年と少女の恋。若侍と女房との遊戯的な恋。貴族の物憂い恋。こういった恋の様相が描かれる。
「逢坂越えぬ権中納言」
諸事にわたって完璧な貴公子である中納言が、恋する女宮の側まで参上するが、遠慮のためについに契ることは出来ずに終わる。
「貝合わせ」
少女たちが貝合わせの準備をしているところに、通りがかった蔵人少将。母のないひとりの姫君に同情した彼は、観音様になりすまし、姫君の勝利を祈る。会話の連発があり話芸の要素がある話。
「思はぬ方にとまりする少将」
「少将」と「権少将」、まぎらわしい名前の男性二人。少将は姉、権少将は妹と付き合っていたが、使いの者がまちがえて、それぞれ逆の相手と一夜を共にしてしまうという四角関係が語られる。「とりかへばや物語」に共通する話。
「はなだの女御」
二十人の女房たちがそれぞれの主人を草木にたとえて和歌を詠む様子を男が隠れて窺うという話。謂わば週刊誌的な女性評判記といった趣。羅列的で話としはどうか。
「はいずみ」
男が妻と浮気相手の選択を迫られるが。男はあくまで気弱な悪者。元の妻はあくまで可憐で気の毒な美女という設定。結局元の妻の歌にほだされて、元の鞘に納まるというお話。
「よしなしごと」
少々厚かましい僧が他人から品物を借りるために、「これから山寺にこもります。つきましては身の周りのものをお借りしたいのですが‥‥」という手紙を書くという書簡体の話。漢文表記のものづくし。
断章「冬ごもる」
書き出しのみ残る。

この物語群は当時「物語合わせ」が行われていて、その記録であると思われる。平安時代には「何々合わせ」という遊びが流行ったようだ。「歌合」はその代表。それぞれが歌を出し合い、その優劣を競う遊び。これがやがて批評や歌論に発展したという。源氏物語にも「絵合」が描かれている。ここは「物語」を出し合ってその優劣を競ったその話の記録だったと。したがっていずれも短く話言葉的になっている。内容もキワモノ的になっているのもそのせいかもしれない。ただ、ここに平安貴族文化の爛熟と退廃を見ることもできる。しかし、面白いことは間違いない。

『とりかへばや物語』を読む

この物語は評価二分している。題材が奇妙なために特に戦前は底評価、戦後はその奇妙さゆえに評価されている。その設定は題名にあるように男女が入れ替わって成長するというものだ。最近でもこうした設定は幾つかあって、話題となったアニメ映画「君の名は」もその設定だ。

権大納言件大将の二人の子は腹違いながら瓜二つの美貌の持ち主。ただ、男子は内気で、女子は活動的。父は二人を男女をとりかえたらいいのにと思い、それぞれを男女入れ替えて育てる。成人後もそれぞれ逆の性で立派に育ち、社会的にもそれなりの出世を遂げる。そんな中好色の宮の宰相という人物が登場し物語が展開する。しかし、結局は男に入れ替わった子も女であることがばれ妊娠、女に入れ替わった子も男姿に戻ることになる。色々と紆余曲折の末二人は元の性に戻ってそれぞれに出世することになる。ただ、そうした過程で我が子と呼べない子があったり、行方不明ということにしなくてはならないことがあったりする不幸も描かれる。

簡単にまとめてしまえばこうなるが、この物語は人物を捉えるのが実にややこしい。中宮・国母となった女子は以下の名前で登場する。姫君・若君・大夫の君・侍従・三位中将・権大納言左衛門督・右大将・尚侍・宇治の橋姫・女御。関白左大臣になった男子も若君・姫君・尚侍・右大将・内大臣と呼ばれる。当時は立場で名を表し、現在みたいに姓名で表す習慣がないから仕方がないが実に分かりにくい。しかも途中で男女が入れ替わっているから尚更だ。ただ、物語自体はそんなに複雑とは言えない。それに言うほどに面白いとも思えない。設定は珍奇なのだが、男女の入れ替わりも結局は元の鞘に収まってしまい、そのこと自体が持っている問題性みたいなものはほとんどないからだ。

この物語の評価が二分している点も両者とも的を外しているように思える。現在、両性具有といった特別の性やジェンダーといったことが話題になる。ゲイやレズビアンといったことも一般化しつつある。これは男性性や女性性といったことが多分に生物学的な特性より社会文化的な面が大きくなっている点に根拠があるような気がする。男性的な女性や女性的な男性はいつの時代でもあったし、平安時代の貴族の男性は今から見ると多分に女性的だ。こうした男性的とか女性的とかいう概念はほとんど社会文化的なものなのだ。しかし、この『とりかえばや物語』はこうした点に踏み込んだ物語とは言えない気がする。したがって、こうした点からの非難も評価も当たらない気がする。

この項了

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