『本朝文粋』を読む
今度は漢詩文集。日本文学において一つのジャンルを成しているのが、漢詩文。ただ、どうもこのジャンルはあまり扱われない。しかし、古くは漢詩文は教養人の必須科目であった。日本は大陸すなわち中国の圧倒的な文化の影響下にあった。したがってエリートたちは漢文、すなわち中国語を駆使することは何より大事であったはずだ。正式な文書、記録としての日記などは全て漢文で書かれていた。すなわち公式な文書は漢文で、私的なものは仮名文でという使い分けが存在した。文学史においてこの漢文があまり扱われないのは文学が私的なものを中心に発達したからだ。そして現在も漢文は我々にとって縁遠いものとなってしまった。
ここで取り上げる『本朝文粋』はその漢詩文をいわば教科書的に集めたものだ。平安時代においても漢詩文は一部の専門家に委ねられていた形跡がある。ただ貴族たちは公式な文書を作るとき漢文を知らなければならない。そこでこうした漢詩文集を参考にした。または専門家に依頼して漢文を書かせた。そうした漢文詩文専門家の文例集ということができる。文章博士の大江氏がその代表であり、多くの文が取られている。
しかし、ここに文学史的な要素がないわけではない。仮名文学にはない特徴がある。仮名文学は私的なものだといったが、その内容は日常の些事や男女の恋愛を扱ったものが多い。近代になるまで社会的な思想的なものを扱ったものがあまりない。その仮名文学にはない要素をこの漢詩文が担っている面がある。ここで取り上げる慶滋保胤の「池亭記」もその一つだ。慶滋保胤については幸田露伴氏に「連環記」という作品があって詳しいが、当時の文章家の一人である。この「池亭記」は当時の都の様子を描写し、郊外に一宇を設けて隠棲する意義を書いている。後の「方丈記」の先駆的文章とされたものだ。その冒頭を紹介する。
尚、本文と書き下し文は以下のサイトを利用させてもらった。
本文 http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/monzui/monzui.htm
書き下し文 https://koten.sk46.com/sakuhin/honcho.html
本文
予二十餘年以來,歷見東西二京。西京人家漸稀,殆幾幽墟矣。人者有去無來,屋者有壞無造。
其無處移徙,無憚賤貧者是居。或樂幽隱亡命,當入山歸田者不去。若自蓄財貨,有心奔營者,雖一日不得住之。
往年有一東閣,華堂朱戶,竹樹泉石,誠是象外之勝地也。主人有事左轉,屋舍有火自燒,其門客之居近地者數十家,相率而去。
其後主人雖歸,而不重修。子孫雖多,而不永住。荊棘鏁門,狐狸安穴。夫如此者,天之亡西京,非人之罪明也。
書き下し文
予二十余年以来、東西の二京を歴く見るに、西京は人家漸くに稀らにして、殆に幽墟に幾し。人は去ること有りて来ること無く、屋は壊るること有りて造ること無し。
其の移徙するに処無く、賎貧に憚ること無き者は是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、当に山に入り田に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄へ、奔営に心有るが若き者は、一日と雖も住むこと得ず。
往年一つの東閣有り。華堂朱戸、竹樹泉石、誠に是れ象外の勝地なり。主人事有りて左転し、屋舎火有りて自らに焼く。其の門客の近地に居る者数十家、相率て去りぬ。
其の後主人帰ると雖も、重ねて修はず。子孫多しと雖も、永く住まはず。荊棘門を鏁し、狐狸穴に安むず。夫れ此の如きは、天の西京を亡すなり、人の罪に非ざること明らかなり。
(巻第十二、記、池亭記)
この冒頭部分を読んだだけでも仮名文学にはない当時の都の様子が描かれているのがわかる。源氏物語にも一部庶民的な生活の一コマが描かれているところはあるが、その見方が異なる。いわば社会的関心が伺える。しかし、結局は隠棲こそ生き方として選ぶべきものだとする結論はやはり時代的な限界と言えるかもしれない。いやむしろ隠棲を望む知識人のあり方はこの後の日本の思想家たちの一つのパターンだとも言える。この慶滋保胤の「池亭記」は、そういう意味で後の「方丈記」や江戸時代の芭蕉の先駆的なあり方と言えるかもしれない。
なお、この本朝文粋はその他いろいろと面白い話もあり、漢文という敷居さえ乗り越えられれば現在でも読むべき古典であることに変わりはない。