『日本古典文学総復習』17『竹取物語』『伊勢物語』

『竹取物語』『伊勢物語』を読む

『續日本紀』という非文学的な巻を終えて、再び文学的な巻に戻る。平安の物語文学だ。もちろんこの後『源氏物語』が控えているが、それに先行すると思われるいくつかの物語が配されている。まずは『竹取物語』と『伊勢物語』だ。

この二つの物語は物語と言ってもその体裁は全く違っている。ご承知のように『竹取物語』は人口に膾炙したかぐや姫の話。いわばおとぎ話的な一つのまとまった話だ。
それに対し、『伊勢物語』は一応在原業平の一代記という体裁はとっているものの、一つないし複数の和歌にまつわる短編を集めた歌物語と呼ばれるものだ。
この一見全く異なる物語も、ある共通項で読むことができそうである。すなわち当時の「男と女の物語として読む」ことができるように思う。

『竹取物語』はおとぎ話として知られているが、意外に現実性のある物語としても読めるような気がする。すなわちこの物語の多くを占める所謂「求婚難題譚」の部分だ。
これはかぐや姫に言い寄る男たちに難題を吹きかけ結婚を拒否するという話だが、ここに登場する貴族の男たちの行動の様が、実は当時の貴族階級の様々なクラスの男たちの女に対する姿をシニカルに描いているととることができる気がする。女主人公かぐや姫は謂わばスーパーウーマンだが、地上的な男たちは上は天皇まであくまで地上的な制約の中で生きていると言うことだ。いわば当時の貴族の男の滑稽さが際立って描かれている。

それにたいして『伊勢物語』の男はかなり理想性が高い。いってみれば当時の男のあり方の見本というか理想形が描かれていて、それにたいして女は当時の婚姻形態からくる悲劇性として描かれているように思う。もちろんここに登場する男は社会的にはそれほど権勢を誇れる者ではない。しかし、いわば精神性としての理想と言う形で描かれている。

ここでよく引用される『伊勢物語』の二四段を引く

むかし、おとこ片田舎に住みけり。おとこ、宮仕へしにとて、別れおしみてゆきにけるまゝに、三年来ざりければ、待ちわびたるけるに、いとねむごろにいひける人に、「今宵逢はむ」とちぎりたりけるに、このおこ来きたりけり。
 「この戸あけたまへ」とたゝきけれど、あけで、歌をなむよみて出したりける。
 あらたまの年の三年を待ちわびてたゞ今宵こそゐまくらすれ
といひ出したりければ、
 梓弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはしみよせ
といひて、去なむとしければ、女、
 梓弓引けど引かねど昔より心は君に寄りにし物を
といひけれど、おとこかへりにけり。女、いとかなしくて、後にたちてをひゆけど、えをいつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、およびの血して、書きつけける。
 あひ思はで離れぬる人をとゞめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる
と書きて、そこにいたづらになりにけり。

(本文は『新日本古典文学体系』から筆者が電子化)

要約すれば、
都に出て行って三年間男にほっぽらかされていた女が諦めて新しい男を受け入れる決心をした。しかし、まさにその晩に昔の男が帰ってきてしまう。そうなると女はむしろ昔の男への思いがかえってつのってしまう。
「なんでこんな時に帰ってきてしまうの」と歌う。
それに対し昔の男はさっぱりしたもので、
「だったら昔俺に見せたように新しい男に優しくしてやれよ」といって帰ろうとする。
(「いいねこの男」って思いませんか。これが男の理想ですよ。今時多いストーカーに爪の垢でも煎じて飲ませたい。)
ところがこうなると女の方ではますます思いがつのる。
「昔から今の今まであなたを思っていたのに」と言う。
しかし、男はすたこらさっさと帰ってしまう。「おとこかえりにけり」という簡潔な表現がいい。さあそうなると女は執念だ。あくまで追いかけて行く。しかし追いつくことはできず、ついにそこにあった岩に指を切ってその血で書き付ける。
「ついにこんなに私が思っている男が私の気持ちも知らないで去ってしまう。もう私はここで死ぬしかない」と
すごい執念だ。そしてついに息絶える。
という話だ。

ここには当時の婚姻形態のあり方、そこに置かれた女性の悲劇、それに対して男の勝手さを読むこともできる。しかし、この男の行動と態度はその時代にあって一つの理想形のように思える。

『竹取物語』には貴族の男の滑稽さ・天皇という地上的権力も相対化する視点が伺えるし、物語としても完成度が高い。それに対し『伊勢物語』は和歌的情緒にとどまっているとも言える。しかし、この二つの物語は当時の「男と女の物語」として読む読み方もできるような気がする。

この項了

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