日本古典文学総復習続編31『東海道四谷怪談』

当時のビラ

今回は四世鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』を取り上げる。

はじめに

この話、「お岩さん」の怪談話だといえば、なんとなく知っているような話かと思われる。しかし、実は詳しい内容はわかっているようでわかっていなかった。「お岩さん」というのは、かつては日本の幽霊の代名詞みたいなもので、今なら差し詰め「貞子」みたいなものだ。つまり、「お岩さん」とは、ただ単に顔に醜い傷跡のある女の幽霊だ、と知っているだけだった。しかし今回、この四世鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』を読んで、改めてこの「お岩さん」の話が実に複雑な、しかも極めて陰惨な話であることを知ったというわけだ。

しかし、この『東海道四谷怪談』、決して読みやすいものではなかった。これは、この『東海道四谷怪談』が歌舞伎の台本という形で提供されている点にも関係していると思う。これがいわゆる戯作、今で言えば小説のような形で提供されていればもっと読みやすかったと思っている。

文学のジャンルには「戯曲」というものがある。しかし、この歌舞伎台本はそれとは全くと言っていいほど異なるものだ。もっと言えば本来は「読む」べきものではないと言っていい。それはあくまで芝居のためのものなのだ。現在映画やテレビの台本をそれ自体として「読む」という行為はありうるだろうか。そう考えてみるとこの「台本」を「読む」より、歌舞伎の舞台を「観る」方がよっぽど「まし」ということになる。しかもこの「台本」を通読してもこの「話」の内容がスムーズに伝わりにくく苦労した。

しかし、そんな事ばかり言っていても仕方がない。あくまでもこの「台本」に沿った形で『東海道四谷怪談』を読んできたので、それを紹介したい。

この『東海道四谷怪談』の内容

この「台本」は以下の形で展開されている。

  • 初日二番目序幕
  • 初日二番目中幕
  • 初日二番目三幕目
  • 後日二番目序幕
  • 後日二番目中幕

これは舞台展開だ。この「二番目」というのはこの舞台が「世話物」であることを意味するようだ。「一番目」が「時代物」「二番目」が「世話物」という一日の上演順序があってのことだ。そしてこの『東海道四谷怪談』は実は「一番目」の「時代物」たる「忠臣蔵」のいわば「スピンオフ」的位置付けだった。つまりこの「舞台」は「忠臣蔵」とともに二日間にわたって上演されたということになる。

さて、そしてそれぞれの「幕」に「場」が設定されていてそれが紹介され、その後に「役人替名」と言って登場人物と配役が示されている。(ここで画像を見てもらいたい。この本の最初の3ページを画像化したものだ。以下他の「幕」も同様だ。クリックすると拡大するはずだ。)

本文1

では、それぞれの「場」を見ながらこの「話」を追っていくとにしよう。

初日二番目序幕

浅草境内の場

幕開きの仕出しの会話・お梅の恋煩い・藤八五文の薬売り・お袖の意地・直助の仲裁・直助の横恋慕・お袖の肘鉄・新参の乞食・下心ある伊右衛門の仲裁・親の許さ夫婦仲・御用金の盗賊・伊右衛門の殺意・見送る喜兵衛とお梅・乞食に身をやつして・危うし廻文状・喜兵衛一行の帰宅・色男のうかれた会話

薮の内地獄宿の場

めかしこんで私娼窟へ・夜の顔・あの手この手の口説・与茂七の登場・美人売女・お梅の述懐・思いもよらぬ再会・お袖の恨みごと・仲直り・夫婦の酒事・お袖のしゃべり・だし抜かれた直助・直助の啖呵・愛想づかし・藤八の追打ち・裸にされる直助

同裏田圃の場

(一)乞食らの太平楽・秋山長兵衛の出・義士の本心・衣服を取り替えて・待ちぶせ

(二)二つの惨劇・行き合った姉妹・夜鷹と地獄・姉妹の嘆き・仕組まれた罠・悪人の甘言・下心ある諫言・血祭りの祝言

ここで登場人物、それぞれの関係、最初の事件がわかる筋書きになっている。筋書きといっても舞台だから、ほとんど会話が中心なのでそこから理解するしかない。人物関係をざっと観ると以下だ。

伊右衛門 お岩 夫婦。与茂七 お袖 夫婦。お岩 お袖 姉妹。その父 四谷左門。伊右衛門の不正を知る 伊右衛門を拒否。全て 塩谷側 つまり没落側。

伊藤喜兵衛とお梅 祖父と孫娘。高野側 つまり勝者側。お梅 伊右衛門に恋慕。祖父孫娘に大甘。

そして事件は、薬売り 直助 お袖に横恋慕。伊右衛門 義父四谷左門に殺意。直助 お袖の夫与茂七に殺意。それぞれ実行 ただし与茂七は同志正三郎だった。(与茂七は死んでいない)
姉妹 死体を発見。伊右衛門・直助 騙して 敵討ちを約束。それぞれ夫婦生活を始める。

これが序幕の内容

初日二番目中幕

雑司ヶ谷四谷町の場

伊右衛門浪宅の場

小平の逐電・家伝の唐薬・浪人者の内証・小平捕わる・小平哀訴・忠義の盗み・指を折る・伊藤家からの産婦見舞・もう一つの妙薬・質屋の強催促・唐薬の質物・恩を売られる・産褥中のお岩・隣家を礼訪・お岩の独白・感謝で飲む毒薬

伊藤屋敷の場

伊藤家の豪奢・小判の御馳走・狂言自殺・懺悔の述壊・窮地に立つ伊右衛門・伊右衛門の変心   

元の伊右衛門浪宅の場

お岩の変貌・伊右衛門の帰宅・伊右衛門の愛想づかし・形見の櫛・蚊帳を質草に・血染めの生爪・伊右衛門の奸計・奇怪な求愛・鏡の中の顔・宅悦の白状・髪梳・お岩絶命・伊右衛門の帰宅・菊五郎早替り・小平を惨殺・葬式と婚礼の隣合せ・お梅の輿入・新床の怪

ここのお話は。伊右衛門とお岩、貧しい生活。お岩、妊娠、出産、病気がち。伊藤喜兵衛の対照的な豪華な生活。孫娘お梅を溺愛。喜兵衛、お岩に薬を届ける。実は毒薬、お岩毛が抜け、絶命。伊右衛門、中間の小仏小平を殺害、お岩の間男に仕立て 二人を戸板にくくりつけ流す。お梅、念願かなって伊右衛門に輿入れ。その新婚初夜、お岩の亡霊現れて、錯乱の伊右衛門、喜兵衛とお梅を殺害。となる。ここでは有名な「戸板流し」が語られ、お岩の梳る櫛も小道具として、その後重要な役割を果たすことになる。

これが二幕目の内容

初日二番目三幕目

十万坪隠亡堀の場

伊藤一家の零落・小平の卒塔婆・死の淵への誘引・鰻掻きに変身・お熊の前身・悪人同士の再会・卒塔婆のゆくえ・長兵衛の強請・戸板返し・世話だんまり

ここは短い幕。人物としてはお弓というお梅の母が登場、伊右衛門を打とうとする。また伊右衛門の母お熊が登場。これが息子にもまして相当な悪女。伊右衛門を死んだことにして、お弓を騙す。また悪役長兵衛も登場。また、鰻掻きに変身した直助と再会。伊右衛門 お弓を殺害。悪役長兵衛に強請られ、その後 お岩と小平をくくりつけた戸板に出くわす。これが有名な「戸板返し」。

(この幕の最後の部分は本文を画像化したので、これをご覧ください。クリックすると大きく表示されます)

本文2

これが三幕目の内容

後日二番目序幕

深川三角屋敷の場

洗濯物の伏線・蜆売りの次郎吉・水死体の風貌・見覚えのある着物・小平の倅・老人と孫・孫兵衛の一家・お袖の述懐・日暮れて直助帰る・櫛の因縁・盥の中から手が・着物の怪と鼠の怪と・宅悦との再会・惨劇を告げる櫛・お袖半狂乱・逃げ出す宅悦・お袖の決意・生きていた与茂七・幽霊にされた与茂七・夫婦の再会・だんまりほどき・直助正体を明かす・回文状を挟んで睨み合い・悲愴な計略

小塩田隠れ家の場

強悪婆・嫁や孫の出商・居候の旧主・謎の衣類・重なる怪事・赤垣伝蔵の来訪・討入りの密談・分配金・質屋の嫌疑・お熊の奸計・お熊の悪態・深まる疑惑・お熊の悪態・窮地の立つ又之丞・借財責め・打擲場・辛い宣告・義士の資格・小平の亡霊・幽霊の意見事・卒塔婆と位牌・お花の嘆き・亡魂、息子に憑依・難病本復

元の深川三角屋敷の場

お袖の述懐・畜生道・直助の述懐

ここのお話。ここはお岩の妹 お袖の話が中心。姉お岩の死の真相を知る。元の夫の与茂七と今の夫直助両方を騙して殺そうとするが、結果はお袖が死ぬことに。その際に実はお袖と直助は兄妹だったことが判明。直助自害。またここでこの話が忠臣蔵のスピンオフであることを示す話や、盥・鼠・櫛を使った見せ物的要素がある。

これが四幕目の内容

後日二番目中幕

夢の場

牽牛と織女・色悪の美男・うちわもめ・仲直りの酒盛・差し向い・お岩に生き写し・蛍火のゆらめく中で・簾の向うの顔・場面は一変

蛇山庵室の場

百万遍念仏・もう一つの塩谷浪人・父子の対面・母子の邪な悲願・高野家からの使者・逢魔が時・戻ってきた属託・頼みの綱も・勘当場・法力に縋って・すさまじき執念・悪友の裏切り・伊右衛門の最期

ここでのお話。伊右衛門、夢の中で美しいお岩(実は亡霊)と出会う。その亡霊に散々苦しめられる。実の父や塩谷浪人たちと出会うが、伊右衛門は母とともに敵方高野家へ寝返ろうとしている。しかし、お岩の亡霊が燃える盆提灯の中から現れて、伊右衛門の母を首くくりにして殺し、悪に加担した秋山長兵衛を仏壇の中に引き込んで殺す。この辺りはまさにこの舞台の見どころか。最後には与茂七がお岩の亡霊の力を借りてみごと伊右衛門を討ち果たす。

(この幕の「すさまじき執念」の部分は本文を画像化したので、これをご覧ください。クリックすると大きく表示されます)

本文3

これが五幕目(終幕)の内容

この部分は大団円に相応しく、さまざまな小道具、大道具を駆使して、見せ物たる歌舞伎の、また怪談ものの真骨頂が見物できる仕掛けがある部分。これらの仕掛けについては「江戸東京博物館」の展示でみるとよくわかる。(ここではyoutubeで見ていただきたい。江戸東京博物館youtube

おわりに

こう読んでくると、この『東海道四谷怪談』が「忠臣蔵」を背景に、その話の裏で忠臣とは程遠い欲望に満ちた侍(浪人)や男たちの残忍に満ちた物語であることがわかる。またそうした男たちに翻弄される女たちの執念に満ちた姿も描かれている。そして、それを描くに歌舞伎という「見せ物」の、しかも「怪談」という設が功を奏しているように思う。歌舞伎の演出上の工夫や舞台の設についてはここで触れることはできなかったが、そこにこそ作者南北は心血を注いでいたのかもしれない。そこに触れないでは本当はこの歌舞伎台本を読んだことにならないかもしれないが、今回はここまでにしておく。

2024.11.09
この項 了

日本古典文学総復習続編30『浮世床・四十八癖』

はじめに

今回は式亭三馬だ。

実は過去にすでに三馬については触れている。正編の86だ。三馬の代表作『浮世風呂』と『戯場粋言幕の外』『大手世界楽屋探』を読んでいる(リンク)。しかし、今回は別作品が収められているので触れることにした。『浮世床』と『四十八癖』だ。

『浮世床』の梗概

この作品は『浮世風呂』の姉妹編といったところだ。まさに風呂の隣にある床屋を舞台にした話。しかし、話といっても話らしい話はない。ここにやってくる人々が語る「話」の記録といった趣だ。ここにこの作品が後世に残る最大の魅力がある。すなわち当時の話し言葉が記録されているからだ。具体例はのちに紹介するが、まずはその「話」を羅列しておく。なお全3篇あるのだが、三篇目は別人物の作なのでここには入れない。

初編巻之上

浮世床の近所合壁
 早朝の景・隠居登場
 勇肌の男の話題
 孔糞先生登場し、学識をひけらかす
 先生、寄席ビラに悩む
 湯上がりの隠居再登場
 読まぬ大学・今川論議
 二十四孝は王祥の説話
 先立った婆どのの話
 氏子論と宗旨の論
 すてき亀の登場
 ここに旦那出現とは
 常磐津師匠・仇文字の噂
 湯上がりの仇文字を見る目
 美人の年増とその妹の品さだめ
 菓子売り登場して呼び売りの口上披露

初編巻之中

馴染みの女のふみ自慢
 美人の月旦、転じて女房論となる
 商人作兵衛の上方者気質
 貰ってきた猫の名付
 道楽息子をさがす爺さまの愚痴
 三十過ぎての放蕩者

初編巻之下

かくあるべしの道楽訓
 悪戯者の丁稚にお手上げ
 奉公人・居候について
 居候飛助登場
 居候と銭右衛門のうそまこと
 霜枯れ時の巫女登場
 富家の娘御とその乳母登場

二篇 巻之上

口寄せに浮んだ霊は人ならず
 死霊の恨みから嫉妬論へ
 天狗になった爺さまの口寄せ
 互いに小咄を披露する

二篇 巻之下

色恋と酔いの終りは溝の中
 二字の戒名が話の発端
 髪結渡世の話
 鳥屋の口上一部始終
 瞽女のうたう正調越後節を披露する
 読めるか、通俗三国志を
 櫛屋、吉原の文使い登場ちゃぼ八と蛸助の拳勝負

こう並べてみるとよくもまあいろんな「話」を拾ったものだと感心する。この時代の江戸の庶民の関心事や言葉がよくわかる。落語のパターンである御隠居、与太郎、八さん、熊さんといったところの人物たちが勝手な「話題」を繰り広げているといったところだ。

その本文

さて、その本文だが、ここは一例をあげてみる。「すてき亀の登場」の場面だ。
ここは図表で示した方がいいだろう。クリックすると拡大します。

本文から言えること

どうだろうか。読めるだろうか。本文は全てこんな調子だ。所々にト書きがある。これは特に場面転換の時に現れる。また時々注が書かれる。これはこの本の注ではない。三馬が書き込んだ注だ。そして何よりも全て会話文ということだ。したがって当時の庶民の江戸弁がよくわかるわけだ。

さて、注の六が興味深い。今でも使う「だらしもねへくせに」という言葉は実は「しだらがない」の「下俗の方言」だと言っている点だ。これは「キセル」を「セルキ」という類だという。現代一部業界人が「おんな」を「なおん」、灰皿を「ザラハイ」という類だったという。

また、亀と熊のやりとりが面白い。こうした会話をそのまま記録したような本文は他にそう見られなかったはずだ。これがのちの「言文一致」へ影響していることは否めないだろう。

それとこの江戸弁のやりとりが最近ほとんど聞かれなくなったのが寂しく思われる。江戸落語に残っているだけで、粋のいい江戸弁が聞かれないのが残念だ。しかも最近関西系の発音が席巻しているような気がしてならない。こうした発音は流石にこの三馬もしっかり書き残すことは出来ていないが、現代のおいては録音という方法があるが、それを文学作品で文字で残すのは現代でも難しい。ここでもそれを書くのは難しいが、例えばテレビなどでアナウンサーすら平気で関西系アクセントで話すことが多いように思われる。「二月」を発音してみてください。どう発話しますか。グーグルでは正しく発声されているので、試してみてください。ちょっとこだわり過ぎでしょうか。必ずしも関西系が悪いとは言えないが、どうしても東京生まれ東京育ちのものにとっては違和感があるのは否めない。

ともかく、三馬が苦労して当時の会話を残そうとしたのがこの作品の最大の価値であることに間違いはない。

『四十八癖』の梗概

自序に「世の人の無くて七癖、或は有て四十八癖、異類異形を図にあらはして、癖といふ癖物語と目す」というのがこの題名の由来だが、以下に示すようにここで言う「癖」は、ちょっとした仕草の「癖」ではなく、いわゆる「癖のある人物」と言うふうな使い方の「癖」で一種の人物類型を示している。以下は「標目」として初めに記されているものだ。

初編

女房をこはがる亭主の癖
 物事を気にかける人の癖
 通りものになりたがる人の癖
 つまらぬ事を苦にする人の癖
 詞数の多き人の癖
 人の非をかぞふる人の癖

二篇

幇間めかす素人の癖
 大言を吐いて諸道を訕る人の癖
  并に克く応答をする人の癖
 陰で舌を出だす人の癖
 金を溜むる人の癖
 金を無くす人の癖
 浮虚なる人の癖
 并に不実者の癖

三篇

他の疝気を頭痛に病む人の癖
 他の奴婢を会めて世間話する人の癖
 他に遊ばれさうなる人の癖
 世話を為過ぎて悪く言はるゝ人の癖
 面白くない話する唯の老爺の癖
 物に譬へて悪言を衝く人の癖
 話の度毎に悪地口をいう人の癖
 亭主に負けぬ下卑女房の癖

四篇

拙将棋の癖
  並勝ちたる人の癖 負けたる人の癖
 我面白の他姦しと云はるゝ人の癖
 言語の可咲を含みて教諭する人の癖
 極楽蜻蛉と呼ばるゝ人の癖

こう見ただけで、「いるいる今でもこんな人」と思える。ここには三馬の人物観察がよく表れている。しかし、本文は例によって会話文が中心だ。これも図で示す。

その本文

どうです。読めますか。いるでしょう。こんな老人。小生もこの類かもしれない。気をつけなくちゃね。

おわりに

こうした類型的人物をそれぞれ会話文で描くところはなかなかの腕前というか、その観察眼が何より光っている。三馬は国語学的に評価されて、文学的にはもう一つ評価が上がらないが、いやいやどうして一つの画期的な仕事をしていると思う。

今回はここまで。

この項 了
2024.10.16

新WEB開発入門講座4個別編1「flexboxの完全理解」

はじめに

*これはYouTubeのビデオの参考資料です。以下に従ってご利用ください。*

適当なdirectoryにフォルダーを作成してください。
そこにさらにCSSというフォルダーとimgというフォルダーを作成してください。
そこにそれぞれ以下のファイルをおいてください。

といった具合にです。
ファイルは以下です。コピーしてエディタに張り付けて保存して下さい。

使用するファイル

課題1

fexbox01.html

fexbox01.css

画像1(flex-task1.png)

課題2

fexbox02.html

flexbox2.css

画像2(flex-task2.png)

課題3

fexbox03.html

flexbox3.css

画像3(flex-task3.png)

課題4

fexbox04.html

flexbox4.css

画像4(flex-task4.png)

flexboxの各プロパティの詳細

flex-direction

flex-direction は CSS のプロパティで、主軸の方向や向き(通常または逆方向)を定義することにより、フレックスコンテナー内でフレックスアイテムを配置する方法を設定します。
なお、 row および row-reverse の値は、フレックスコンテナーの書字方向に影響されます。 dir 属性が ltr である場合は、 row は左から右へ向かう水平軸を表し、また row-reverse は右から左へ向かう水平軸を表します。一方、 dir 属性が rtl である場合は、 row は右から左へ向かう水平軸を表し、また row-reverse は左から右へ向かう水平軸を表します。

/* 行のテキストの方向に配置 */
flex-direction: row;
/* と同様だが、逆向き */
flex-direction: row-reverse;
/* 積み重なるように配置する */
flex-direction: column;
/* と同様だが、逆向き */
flex-direction: column-reverse;

flex-flow

flex-flow は CSS の一括指定プロパティで、フレックスコンテナーの向きと折り返しの動作を同時に指定します。
/* flex-flow: <'flex-direction'> */
flex-flow: row;
flex-flow: row-reverse;
flex-flow: column;
flex-flow: column-reverse;
/* flex-flow: <'flex-wrap'> */
flex-flow: nowrap;
flex-flow: wrap;
flex-flow: wrap-reverse;
/* flex-flow: <'flex-direction'> および <'flex-wrap'> */
flex-flow: row nowrap;
flex-flow: column wrap;
flex-flow: column-reverse wrap-reverse;

justify-content

/* 位置による配置 */
justify-content: center; /* アイテムを中央に寄せる */
justify-content: start; /* アイテムを先頭に寄せる */
justify-content: end; /* アイテムを末尾に寄せる */
justify-content: flex-start; /* フレックスアイテムを先頭に寄せる */
justify-content: flex-end; /* フレックスアイテムを末尾に寄せる */
justify-content: left; /* アイテムを左端に寄せる */
justify-content: right; /* アイテムを右端に寄せる */
/* ベースラインによる配置 */
/* justify-content はベースラインの値を取りません */
/* 通常の配置 */
justify-content: normal;
/* 均等配置 */
justify-content: space-between; /* 各アイテムを均等に配置し
最初のアイテムは先頭に寄せ、
最後のアイテムは末尾に寄せる */
justify-content: space-around; /* 各アイテムを均等に配置し
先頭と末尾の間隔は、各アイテムの間隔の
半分の大きさになる */
justify-content: space-evenly; /* 各アイテムを均等に配置し
先頭と末尾と各アイテムの周りには、
同じ大きさの間隔を置く */
justify-content: stretch; /* 各アイテムを均等に配置し
サイズが ‘auto’ であるアイテムは、
コンテナーに合わせて引き伸ばす */
/* あふれた場合の配置 */
justify-content: safe center;
justify-content: unsafe center;

flex-grow

flex-grow は CSS のプロパティで、フレックスコンテナー内の残りの空間が、どれだけフレックスアイテムの主軸方向の寸法に割り当てられるべきかを指定するフレックス伸長係数を設定します。
フレックスコンテナーの主軸方向の寸法が、フレックスアイテムの主軸方向の寸法の合計よりも大きい場合、余った空間はフレックスアイテムに分配され、各アイテムが伸びる大きさは、コンテナーのすべてのアイテムのフレックス伸長係数の合計の割合で按分した値になります。

flex-shrink

flex-shrink は CSS のプロパティで、フレックスアイテムの縮小係数を設定します。すべてのフレックスアイテムの寸法がフレックスコンテナーよりも大きい場合、アイテムは flex-shrink の数値に従って縮小して収まります。

flex-basis

flex-basis は CSS のプロパティで、フレックスアイテムの主要部分の初期の寸法を設定します。 box-sizing で設定していない限り、このプロパティはコンテンツボックスの寸法を定義します。

align-items

CSS の align-items プロパティは、すべての直接の子要素に集合として align-self の値を設定します。フレックスボックスでは交差軸方向のアイテムの配置を制御します。グリッドレイアウトでは、グリッド領域におけるアイテムのブロック軸方向の配置を制御します。
/* 基本キーワード */
align-items: normal;
align-items: stretch;
/* 位置による配置 */
/* align-items は左と右の値を取らない */
align-items: center; /* アイテムを中央付近にまとめる */
align-items: start; /* アイテムを先頭にまとめる */
align-items: end; /* アイテムを末尾にまとめる */
align-items: flex-start; /* フレックスアイテムを先頭にまとめる */
align-items: flex-end; /* フレックスアイテムを末尾にまとめる */
/* ベースラインに配置する */
align-items: baseline;
align-items: first baseline;
align-items: last baseline; /* オーバーフロー配置 (位置指定要素のみ) */
align-items: safe center;
align-items: unsafe center;

flex-wrap

flex-wrap は CSS のプロパティで、フレックスアイテムを単一行に押し込むか、あるいは複数行に折り返してもよいかを指定します。折り返しを許可する場合は、行を積み重ねる方向の制御も可能です。
flex-wrap: nowrap; /* 既定値 */
flex-wrap: wrap;
flex-wrap: wrap-reverse;

gap

gap は CSS のプロパティで、行や列の間のすき間 (溝) を定義します。これは row-gap および column-gap の一括指定です。gap は CSS のプロパティで、行や列の間のすき間 (溝) を定義します。これは row-gap および column-gap の一括指定です。
/* 単一の 値 */
gap: 20px;
gap: 1em;
gap: 3vmin;
gap: 0.5cm;
/* 単一の 値 */
gap: 16%;
gap: 100%;
/* 2 つの 値 */
gap: 20px 10px;
gap: 1em 0.5em;
gap: 3vmin 2vmax;
gap: 0.5cm 2mm;
/* 1 つまたは 2 つの 値 */
gap: 16% 100%;
gap: 21px 82%;
/* calc() 値 */
gap: calc(10% + 20px);
gap: calc(20px + 10%) calc(10% – 5px);

グローバル値(すべてに値として設定できます)

nitial
その要素のすべてのプロパティを初期値に変更するべきであることを指定します。
inherit
その要素のすべてのプロパティを継承値に変更するべきであることを指定します。
unset
その要素のすべてのプロパティを、既定値が inherit のものは継承値に、そうでなければ初期値に変更するべきであることを指定します。
revert
宣言が所属するスタイルシートの出所に応じて動作を指定します。
作者オリジンに所属するルールの場合、 revert の値でカスケードをユーザーのレベルまでロールバックし、その要素の指定値は、作者レベルのルールが指定されていないかのように計算されます。 revert の用途では、作者オリジンはオーバーライドおよびアニメーションのオリジンも含まれます。
ユーザーオリジンに所属するルールの場合、 revert の値でカスケードをユーザーエージェントレベルまでロールバックし、その要素の指定値は、作者レベルまたはユーザーレベルのルールが指定されていないかのように計算されます。
ユーザーエージェントオリジンでは、 revert の値は unset と同様に動作します。
revert-layer
その要素のすべてのプロパティを、直前のカスケードレイヤーが存在すれば、そこまでカスケードをロールバックすることを指定します。 他にカスケードレイヤーが存在しない場合、要素のプロパティは、現在のレイヤーに一致するルールが存在する場合はそのルール、または直前のスタイルオリジンにロールバックします。

以上

日本古典文学総復習続編29『與謝蕪村集』

はじめに

上田秋成に続いて今回は与謝蕪村を取り上げる。蕪村は実は秋成と同時代の人物。しかも何やら交流もあったそうで、お互いに気に入っていたようだ。その辺りはまた後に触れるとして、この蕪村、実はこの総復習でも正編で既に触れている。『天明俳諧集』の項(リンク)だ。その時は天明期の俳諧集の蕪村ということで触れていた。それはとても大事なことだが、しかしここは蕪村一人だけを取り上げての復習となる。

さて、蕪村は俳句作者として(本当は俳諧師なのだが)芭蕉とともに現代でも親しまれている。例えば

209 菜の花や月は東に日は西に(番号は本書の発句集の句番号。後同)

117 春の海終日(ひめもす)のたりのたり哉(括弧内は本書のルビ、「ひねもす」ではない)

という句は人口に膾炙した句だ。

しかも近代になってからは正岡子規の「写生」句としての評価、またそれとは対蹠的な「郷愁の浪漫主義的」句としての詩人萩原朔太郎の絶賛など本格的な蕪村評価が行われてきた。

しかし今回は、改めてこの『與謝蕪村集』を通読して、自分なりの読みを示したいと思う。

収録作品

この『與謝蕪村集』には以下の作品が収録されている。以下だ。

「蕪村句集」几董篇
上巻 春の部1−224(224句) 夏の部225-457(233句)
下巻 秋の部458-674(217句) 冬の部675-868(194句)
「俳詩」
北寿老仙をいたむ
春風馬堤ノ曲
澱河ノ歌
「新花つみ」
発句137句
文章
「文章篇」
短文13篇

発句について

お気に入りの句1

803 葱(ねぶか)買て枯木の中を帰りけり

先ずはこの句。これまで知らなかったというか、見過ごしてきた句だ。如何でしょう。ネギの束を持って冬枯れの道を急ぐ。「帰りけり」というように帰宅の途についているんでしょう。その宅には何が待っているんでしょうか。何か温かいものを感じませんか。蕪村には芭蕉にはない、いわば「小市民」的な温かみがある。

10 うぐひすや家内揃ふて飯時分

という句にもそれは表れています。

448 端居して妻子を避る暑かな

590 小鳥来る音うれしさよ板びさし

231 痩脛の毛に微風あり更衣

という句なども実に微笑ましいし、日常の一コマを愛情をもって詠んでいる。多分自宅は狭い「小家」なんでしょう。そういえば蕪村の句には「小家」が多く表れる。

4 うぐひすのあちこちとするや小家がち

159 さくらより桃にしたしき小家哉

この「句集」にはない句でも以下もある。(岩波文庫版句集から)

菜の花や油乏しき小家がち

飛蟻(はあり)とぶや富士の裾野の小家より

五月雨や美豆(みづ)の寐覚の小家がち

飛蟻とぶや富士の裾野の小家より

お気に入りの句2

346 さみだれや大河を前に家二軒

次はこの句。また「家」で申し訳ないが、この句は一見「写生」句の様に見える。しかしこの「家」もやはり「小家」であり、あたかも五月雨で増水した大河にまさに飲み込まれそうにやっと立っている。この「家」にはどんな人がどんな暮らしをしているのか。そんな蕪村の同情が伺える。それは次の句でははっきり詠われている。

761 こがらしや何に世わたる家五軒

ここは「家二軒」ではなく、「家五軒」だ。これは最低の集落の単位らしい。まさに寒村の風景だ。ここにも庶民の生業に対する同情がある。

ところで蕪村は芭蕉を崇拝していたと言われている。ここで芭蕉の有名な句、

五月雨をあつめて早し最上川

を引いておこう。全くの違いがわかる。

五月雨の空吹き落とせ大井川

五月雨は滝降り埋む水嵩哉

こうした「五月雨と川」の句をみてもよくわかる。

またこがらしの句も

狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉

京に飽きてこの木枯や冬住ひ

木枯に岩吹きとがる杉間かな

木枯しや竹に隠れてしづまりぬ

木枯しや頬腫痛む人の顔

凩に匂ひやつけし返り花

など、これだけあるが、やはり関心の向かい方が全く異なっているように思う。

実は蕪村が芭蕉に親炙し、その復活を夢見たのは「発句」そのものではく、「俳諧」についてだと言える。蕪村と芭蕉では全く個性が異なる。その嗜好や思考そして置かれた時代も異なる。ここは近代の識者が間違えやすいところだ。蕪村が夢見たのは蕉風の「俳諧」の復活だった。これまで蕪村の句を多くの近代の識者と同様「俳句」として詠んできた。これを「俳諧」として読めば自ずから変わってくるはずだ。

お気に入りの句3

ここからは多言を要さない。句だけ列挙しておく。

57 さしぬきを足でぬぐ夜や朧月

70 春雨や小磯の小貝ぬるゝほど

76 柴漬(ふしづけ)の沈みもやらで春の雨

116 遅き日のつもりて遠きむかしかな

194 さくら狩美人の腹や減却す

290 絶頂の城たのもしき若葉かな

327 愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら

332 夕風や水青鷺の脛をうつ

476 いな妻や八丈かけてきくた摺

529 月天心貧しき町を通りけり

732 飛騨山の質屋とざしぬ夜半の冬

742 蕭条として石に日の入枯野かな

805 易水になぶか流るゝ寒さかな

そして最後の句

868 芭蕉去(さり)てそのゝちいまだ年くれず

俳詩について

「北寿老仙をいたむ」「春風馬堤ノ曲」「澱河ノ歌」の三作品がある。「俳詩」とは、誰だか研究者がつけた蕪村独特の表現に対する命名だ。それだけ独特の表現ということになるのだが、当時「詩」といえば漢詩を意味し、「俳」は俳諧を意味していたから、漢詩と俳諧が混じり合った表現ということになる。

「北寿老仙をいたむ」

蕪村の良き理解者であった、年長の俳友の死を悼む挽歌である。漢詩的表現の読み下し文を8連連ねた詩になっている。例えばこんな表現だ。

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ

をかのべ何ぞかくかなしき

まさに新体詩の先駆けと言える。

「春風馬堤ノ曲」

漢文の序を持つ、一つのテーマの合計18の発句・短文・漢詩とで構成されている。一部を紹介する。

5 一軒の茶見世の柳老にけり

6 茶店の老婆子儂を見て慇懃に

  無恙を賀し且儂が春衣を美ム

7 店中有二客 能解江南語

  酒銭擲三緡 迎我譲榻去

といった具合だ。序文によれば「蕪村が故郷の毛馬の堤で見た薮入りの娘を主人公にして、彼女が大阪から毛馬に帰る途中の情景をつなげ俳詩にしている」ということになる。「と同時に蕪村のやるかたない旧懐の実情をも表している。」ということになる。この詩にも蕪村の優しさが表れている。

「澱河ノ歌」

五言絶句二首と漢詩書き下し文一首の合計三首の短いもの。淀川と宇治川を喩えに恋情と郷愁を歌ったもの。

この「俳詩」には蕪村の挑戦的な表現者の意欲が窺える。

「新花つみ」について

蕪村の遠い師にあたる其角に『華摘』という亡母追善のための一夏百句の冊子があるそうだ。それに倣って一夏千句のやはり亡母追善を意図したが、途中家庭の事情により中断したという。しかし137の発句とそれなりの長さを持つ一連の文章によって構成されている。

ここで注目するのはその文章である。実に面白いのだ。狸や狐が現れる一種の怪異談が多いのだが、それが実に滑稽で面白い。各地の人物のエピソードも今風に言えば「愛」のある文章だ。芭蕉の俳文とは全くテーストが異なる。怪異談といえば同時代の上田秋成を思い浮かべるが、秋成とも全くテーストが異なる。秋成とは交流があったらしいが、秋成にある「性、狷介」というところは全く蕪村にはない気がする。どんな体つきだったかはわからないが、芭蕉や秋成は痩せぎすのイメージだが、蕪村は丸いイメージだ。ここの文章を読むとそれがわかる。

文章篇について

ここには13篇の短文を納める。これまで触れなかったが、蕪村は周知のように画家であったが、その画讃の短文が3篇ある。他には小冊子の序文が7篇、独立した短文が3篇という構成だ。

最後の「歳末ノ弁」は、蕪村最晩年の作と言われていて、

蕉翁去りて蕉翁なし。とし又去るや又来たるや。

との文言がある。最後まで芭蕉を慕った生涯であったことがここでも窺える。

さて、蕪村の文章にはそれほど見るべきものはないと言われているようだが、上田秋成は評価していたようだ。この書の最後の頭注にある秋成の文章を引用する。

うちよめて唯から歌を女文字してかいつけたるさましたるは、むかし蕉窓にゐぐゞまりて杜律をうまく読、笠着てわらぢはきながら、山家を懐にしたる人一すぢの教なるべし

と言っている。蕪村の「はいかい文」は「洒落」でその発句の「麗藻」と相似ないとして評価している。秋成とは全く個性が違っていただけに、却って蕪村の丸い?性格を慕っていたのかもしれない。

おわりに

蕪村は稀有な個性であったような気がするが、今後その「俳諧」についてもっと読み込んでみたい思いを残しつつ、ここらで擱筆する。ちょっと長くなったので。

2024.09.19
この項 了

日本古典文学総復習続編28『春雨物語・書初機嫌海』

上田秋成の2回目

はじめに

だいぶ間が空いてしまった。その間約1ヶ月あまり。実に暑い日が続いた。そればかりか孫たちが夏休みということもあって、孫たちの所へ行ったり、我が家に来ていたり、一緒にちょっとした旅に出たり、それはそれは大変な1ヶ月あまりだったわけだ。もちろん大変なだけではなく、それはそれで楽しい日々なのだけれど、落ち着いて古典文学研究とはいかなかった。

実は今回取り上げる上田秋成の『春雨物語』と『書初機嫌海』は既に読了していたのだけれど、ブログ化するのが夏休み突入に間に合わなかったわけだ。

しかし、9月に入ってやっと落ち着いた日が戻ってきた。しかも今日(9月3日)はクーラーがいらないほど涼しいこともあってやる気になった。

前置きが長くなったら早速始めよう。

『春雨物語』

『春雨物語』の梗概

この作品は『雨月物語』と違って、その成立やまとまりに難がある作品だ。それは当初出版されたわけでなく、なんと戦後(第二次世界大戦後)にまとまったものが発見されるという運命を持った作品だからだ。収録されている物語も伝本によって異なるが、この古典集成では以下の作品が収められている。

序・血かたびら・天津をとめ・海賊・二世の縁・目ひとつの神・死首のゑがほ・捨石丸・宮木が塚・歌のほまれ・樊噲、以上10作品だ。

それぞれ内容をざっと見ておこう。

「血かたびら」
奈良時代が舞台の歴史物語。藤原薬子の乱を描く。
「天津をとめ」
平安時代が舞台の物語。僧正遍昭の話。
「海賊」
紀貫之に議論をふっかける謂わば秋成の歌論・歴史論。文屋秋津という人物に仮託。
「二世の縁」
謂わば仏教批判の物語。即身仏と思われた僧が実は生き返ると粗野な男に過ぎなかったという話。
「目ひとつの神」
謂わば京の歌道批判の物語。芸道化した和歌についての批判ということになる。
「歌のほまれ」
歌論。秋成の真骨頂か。
「死首のゑがほ」
やや残酷な話。兄が妹の首を切るというのだから。しかし妹には笑顔があったという。
「捨石丸」
仇討ちの話。青の洞門の逸話にちなむ。
「宮木が塚」
遊女の悲運に散る儚い一生を描いた話。
「樊噲」
怪力の盗賊の話。本格的な物語。最後は僧となる。

『春雨物語』を貫くもの

さて、この物語群、一見バラバラな話の集合という感を否めないが、何か貫くものはあるのだろうか?その成立から言って一見バラバラなのはある意味仕方がないが、しかし一貫しているのは取りも直さず上田秋成の批評精神だといえる。物語という形は取っているが、いずれも批評だという気がする。最も物語的な形を持っている「死首のゑがほ」や「樊噲」にしても、そこに秋成の時代に対する批評が読み取れる。秋成は歴史や時代について独特な考えを持っていたようだ。またその時代の儒教や仏教についても批判的であったのは間違いない。また、「和歌」についてや「言語」についても独特な考えを持っていたようだ。

こうした形でこの物語群を整理すれば、最初の三編は秋成の歴史認識を示し、仏教批判を挟んで、次の二編で歌論を展開し、次の続く四編の物語でいわば時代批判を込めたと言えるのでないだろうか。

上田秋成はその時代において決して優遇された学者ではなかったようだ。例えば同じ国学者の本居宣長に比べてみればわかる気がする。つまり学者的に語ることが難しい立場だったからこそこうした物語にその学問的内容を込めるしか無かったのかもしれない。西鶴のように根っからの小説家でもなく宣長のように学者でもなかった上田秋成の微妙な立場がこの物語に表れていると言える気がする。

『書初機嫌海』

この古典集成にはもう一つ、この作品が収められている。極めて短いものだが、本来は物語として書かれたようだ。しかし、どうも秋成の思いで物語の枠をはみ出して、決して成功した物語とはなっていない。当初は西鶴の『世間胸算用』の向こうを張って、三都の正月の様子を物語風に描こうとしたようだが、これも成功しているとは言えない。

ま、それは後述するとして先ずはその内容を抑えておこう。

『書初機嫌海』の梗概

この書は上中下三巻でそれぞれ副題が与えられている。

  • 上「むかしににほふ築地の梅」
  • 中「富士はうへなき東の初日影」
  • 下「見せばやな難波の春たつ空」

上は京都、中は江戸、下は大阪が舞台だ。もう少し内容をこの書の小見出しで見ていこう。

上「むかしににほふ築地の梅」

太平の世の饒舌・正月風景も有為転変・門松のむかし今・食えぬ飾りは買わぬが当世・千年一日はお築地の内・竹の園生の頼みは城持・君に忠義は金の工面・後楯なき公卿の姫たち・犬も通わぬ勝手口・玉だれのかしこきあたりは、ご空腹・金に無縁が高貴のあかし

中「富士はうへなき東の初日影

神のお告げも和様唐様・所変れば品変る・裏には裏の魂胆・卓文君流は時代遅れ・花のお江戸はお膝元の賑わい・今業平は食いつめ者・あり金はたいて江戸の風呂・湯づけの味は命の親・一攫千金は昔の夢・行きつく先は品川の海・何はなくとも故郷・こけて拾ったふんどしに金・江戸は一夜の鹿島立ち・加賀屋の元手は拾い物

下「見せばやな難波の春たつ空」

京阪の歳末昔のままならず・十国十色の新春風景・瓜なすびは三、四月・新奇好みも欲がもと・欲世界にも百家争鳴・思い込んだが身の定め・うか助の頼りは飲み友達・飲み友達は豪邸の主・福の神と貧乏神の相性・天下の台所には分限者あまた・長者にもそれなりの苦労・鶴が舞う難波の初春

上田秋成の悪癖

こうした小見出しを見ただけでも、何やら否定的な内容が読み取れるのではないだろうか。京は昔の建前だけで生きている街という印象だし、景気が良いはずの江戸も昔ほどではないし、大阪も昔の様ではないと。それとどうしても秋成の批評癖が出てしまい、所々に漢学批判、仏教批判、されには国学批判まで表れて、どうにも新春の清々しい物語とは行っていない。ここらあたりは上田秋成という人のどうにもできない癖で、これが物語作家としての不味さということになるかと思う。

ただ、その批評眼や博学をもっと別な形で発揮できていれば当代一流の文人ということになるのだろうが、どうもそうさせない何かがこの人物自体にあって、そこがまた物語作家から離れられない因になっているのだと思う。

終わりに(上田秋成の晩年)

さて、この辺で筆を置くことにするが、上田秋成の晩年について、岡本かの子の優れた小説があるので紹介しておきたい。青空文庫で読めるので、ぜひ読んでもらいたい。題して「上田秋成の晩年」。零落した秋成を描いているが、ここに秋成という文学者の姿がよく捉えられていると思う。今回はここまで。

2024.09.05

この項 了

日本古典文学総復習続編27『雨月物語・癇癖談』

雨月物語飯本

はじめに

今回は上田秋成を取り上げる。

上田秋成はこれまで取り上げきた西鶴の約100年後に現れた江戸時代中期の代表的散文家だ。西鶴同様、小説家と言ってもいいのだが、この上田秋成には国学者としての業績にも並々ならぬものがあるのでそういうのが適切かもしれない。また今でいう批評家的な側面も強く持った作家ということもあるからだ。

さて、西鶴・秋成両者とも大阪の町人の出であり、共通点もないことはないが、その気質、作品のテーストにはかなりの差がある。西鶴がリアリストなら、秋成はロマンチストだという向きもあるが、決してそんな単純な区分けにならない奥深さがこの秋成にはある気がする。西鶴の小説には現実をいわば客観的に活写する「明るさ」があるが、秋成の小説には人間の内奥にあるドロドロしたものを描こうとする「暗さ」がある、と言ったらいいかもしれない。

では、先ずはその辺りをその代表作『雨月物語』で見ていくことにしよう。

『雨月物語』の梗概

『雨月物語』は全五巻九話の短編小説集だ。以下の物語がある。

  • 巻之一「白峯」「菊花の約」
  • 巻之二「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」
  • 巻之三「仏法僧」「吉備津の釜」
  • 巻之四「蛇性の婬」
  • 巻之五「青頭巾」「貧福論」

それぞれの内容を簡潔に記せば以下のようになる。

「白峯」
崇徳院の亡霊と西行の論戦
「菊花の約」
男同士の義理の物語
「浅茅が宿」
夫婦の、義理堅い女の物語
「夢応の鯉魚」
鯉になった僧の話
「仏法僧」
秀次の亡霊と俳諧した話
「吉備津の釜」
これも夫婦の話だが、嫉妬に狂う女の話
「蛇性の婬」
ある男にしつこく恋慕する蛇の化身の女の話
「青頭巾」
少年愛に狂う僧の話
「貧福論」
金の亡者が金の亡霊にあう話

ざっとこんな話だが、これらの物語は長短も含めて何の関連性もないように見えるそれぞれ独立した物語だ。ただ共通項は「怪異譚」であるということ。全て何らかの亡霊の物語なのだ。

怪異譚の諸相

そもそも怪異譚とは、何だろうか。

日本の古典文学には、源氏物語の「物の怪」に代表されるように、「怪異譚」が多くあり、日本文学の中心的テーマだと言ってもいいくらいだ。現代の人間と違って、昔の人間たちには「怪異」を信じる特質があったためだと思われるが、それを信じる現実的な要素も多々あったと思われる。またこの「怪異」が人間の本質的な部分を表象するとも考えられていたからかもしれない。

ではどんな時に怪異が現れるのだろうか。それは「人間の強い執着心」によるものだと考えられる。それが死後や、あるいは生前に別な形で出現すると信じられていたからに他ならないと言える。それが亡霊である。そしてその亡霊は決してマイナスイメージばかりとは限らないし、しかも死霊ばかりでなく生き霊としても現れるし、動物の形になって現れることもある。この『雨月物語』はまさにそうした「人間の強い執着心」が産んだ亡霊たちの物語なのである。

この書の浅野三平氏の解説に従えば、「人間の執着心」を中心にこの物語群を以下のように整理できるようだ。(若干私見も交えておく)

信義(義理立て)への執着
「菊花の約」武士の男同士の信義・義理立ての世界
「浅茅が宿」夫婦の特に女の義理立ての世界
愛欲への執着
「吉備津の釜」嫉妬に狂う女の世界
「蛇性の婬」愛欲に狂う女の世界
「青頭巾」美少年の肉を食らう僧の世界
復讐(権力意志からの)への執着
「白峯」崇徳院と西行の話
「仏法僧」暴虐で伝説的な秀次の亡霊の話
芸術(もしくは動物)への執着
「夢応の鯉魚」魚を助ける功徳により魚となる話
金銭(もしくは商売)への執着
「貧福論」金銭に異常な執着が金の亡霊となって現れる話

この中で「愛欲への執着」が一番真実味を持って迫ってくるものがある。物語としても巻之四に一作のみの「蛇性の婬」は読んでいてゾッとするような恐怖を感じる。主人公の次男坊に言いようのないほどの愛欲を捧げる美女は結局「蛇」の化身なのだが、その美女に惑わされ続ける男の心情は痛いほどわかる気がするし、ひょっとするとこの主人公は作者そのものではないかと思われてくるほどだ。

そしてもう一つ印象深いのは「白峯」だ。これは西行が崇徳院に語る語り口が凄まじいことだ。作者の知識の深さと歴史観などがうかがえて興味深い。

村上春樹の『雨月物語』

さて、ここで村上春樹を登場させたい。村上春樹については今更小生がどうのこうのいう必要はないが、何とこの上田秋成に関する論文を渉猟していたときに村上春樹に関するある論文に出会ったのだ。それは広島大学の林靖という人の「村上春樹『海辺のカフカ』における『雨月物語』の受容」という論文だ。『海辺のカフカ』にこの『雨月物語』の引用が多数登場するという。実はかなり以前小生もこの『海辺のカフカ』を読んでいるし、かなり気に入った作品だったはずだが、この件は全く気づいていなかった(あるいはすっかり失念していたのかもしれない)。また、内田樹氏もこの点(村上春樹と上田秋成)を指摘していて、さらに江藤淳やフィッツジェラルド、チャンドラーへと発展させて論じているのを発見した(大阪の図書館司書に向けた講演の筆記で)。

これらは、人間の心の深部に潜む漠然としたものをいかに描くかが文学の中心的なテーマだとすれば、まさにその嚆矢が上田秋成だったということかもしれない。この点についてはここでは深入りできないが、この『雨月物語』がさらに何百年か経て、現代の代表的な作家に影響していることが嬉しい気がする。

『癇癖談』について

もう一つこの書には『癇癖談』という作品が収められている。

「くせものがたり」と読むとのことだが、『伊勢物語』を踏まえた作りになっているのは「むかしをとこありけり」で始まっている章段が多いことでもわかる。また、当時『伊勢物語』をもじった「仁勢物語」があったように、一種の流行りだったようなので、それに乗ったということもあったのかもしれない。しかし中身は『伊勢物語』とはかけ離れた内容だ。むしろ『徒然草』のような批評文的随筆と言っていい。ただ本人があくまで物語だと言っているので、これも小説ということになっているにすぎない。

さて、「癇癖」とは何か。「くせ」と読ませてはいるが、実は「感情が強すぎて、興奮したり、腹を立てたりしやすい性質」をいう言葉だ。怒りっぽい性格と言っていい言葉だ。実は秋成が自分がこれだと言っているようなものだ。ここにはさまざまな人間の気質が描かれているわけだが、むしろ秋成自身の、自分の鬱憤を晴らすかのような言辞がみられる。

『癇癖談』の具体的内容

序があって上下二巻の構成だ。この書では特に章立てはしていないが、頭注にある要約文(?)を抜き出してみる。これを見れば大体の内容はわかるはずだ。

『癇癖談』上
はじめに(序章)
背伸びする人々
流行のはかなさ
すべてこの世は金次第
遊女の見た当世風
女にもてるのも金
学者貧乏
猫も杓子も茶道の世の中
時勢にあうあわぬは運次第
えせ医者とえせ法師
美人局に会った男
音楽好きのなれのはて
浮気な夫の留守まもる女の道楽
風流女の流転の生
物知りの知ったかぶり
『癇癖談』下
力のない者は無理するな
博奕うちなみに見られた俳諧師
若者に通じぬ昔ばなし
男女の仲は狐と狸
嘘つき女と利口男
貧民街の夕暮
遊女の将来は心がけ次第
芸人の末路も心がけ次第
世を捨てた隠者の心境

こうした文言からも秋成が何を相手取ってものを言っているかがわかる。要するに現実に目にするもの耳にするものが嫌でたまらいのだ。そしてそれを批判する自分すらも嫌でしょうがないと言った姿が窺える。教養人ぶりたい気持ちがどうしてもあらわれてしまっているが、それを韜晦する姿も隠さず描いているところが、今どこぞにいる他人を責めることで自分をアピールするといった政治家候補や似非知識人とは全く違うと言える。

おわりに

今回はここまでで一旦終了する。この後もう一冊上田秋成を読むことになるが、もっとこの江戸の文学者に迫れればと思う。

2024.07.12

この項、了。

古典研究とIT・AI

AIくずし字アプリ「みを」のスクリーンショット

AIの話題

最近AIが話題だが、NPOでもこれが話題になった。

小生少なからず勉強してきたHTMLとCSSも簡単に書いてくれる。例えばある入力用のページを作ってもらうために紙に絵を書く。それを画像化し、読み込んで、「プログラムせよ」と言えば、HTMLとCSSを書いてくれる。実に便利だ。もう小生程度のプログラマー?は不要となるかもしれない。

また基本的なプログラムでいえば、例えば「ある数までの素数を全て表示するプログラムをJavaScriptとPHPで書いてくれ」と言えばすぐさま両方で書いてくれる。しかも細かいところも質問にも丁寧に答えてくれた。こうなるとAI様さまだ。

日本古典文学とAI

しかしここで話題にする日本の古典文学の事となるとまだまだ。これはデータが少ないためだろう。ここのところ勉強していた江戸時代の井原西鶴について聞いてみたところだいぶ嘘を言われた。これもいずれは良くなるだろうが、今の状態では使えない。これを知識のない学生が鵜呑みにしたら大変だ。

AIくずし字認識アプリ

だが、この分野でAIを使った素晴らしいプログラムがあるのを見つけた。これはタイ人の若い女性が開発の中心になったものだが、これまで解読が難しかった江戸時代以前のというか明治時代以前と言ったらいいか、いわゆる変体仮名というか、くずし字というか、そうした文字で書かれた古典文書を解読するアプリだ。このアプリ、かなりの精度で古典文書を現代のテキストに変換できると言うのだ。実際にやってみたがなかなかのものだ。もちろんAIを使っている。これなどまさに古典研究にITが生かされた例である。

またこれを外国人である若い女性の研究者が開発の中心になったと言うことも驚きだ。しかしこれは外国人だからこそと言うところもあるかもしれない。日本の研究者であれば、自力で読めることが当たり前とされているから、こんな事は考えなかったかもしれない。しかし古典はそのままで読まなければならないと言うものでもない。研究者でなければ、現代表記どころか、もちろん口語訳で読んでも構わないし、漫画で読んだとしても古典を読むことに全く変わりは無いはずだ。この辺の事は結構こだわる人もいるかもしれないが、日本は実に多くの古典文学を持っているのに、それを一部の研究者のものだけにしておくのは全く惜しいことだからだ。

さて、このアプリ、源氏物語の「澪標(みをつくし)」から「みを」と名付けられ、スマホで使うアプリとしても配布されている。(この辺の事情については以下に詳しい。http://codh.rois.ac.jp/miwo/)これによって今まで現代表記にならなかった文書も多く現代表記化されるに違いないし、今国会図書館が進めている書籍の電子化にも寄与するに違いない。実はこの件も井原西鶴を勉強していていた過程で、ネットを色々検索していて知ったのだ。大きな一種の副産物だった。

「青空文庫」のKindle化

もう一つ副産物の話題。これも古典研究とITの話題ということになろうかと思う。

それは以前にも2回ブログに書いた「青空文庫」とKindleの話だ。その続編というか、訂正版というか、現在使える版ということになるかと思う。以前の記事は以下で読めるはずだ。

青空文庫をKindleで読むには(Mac編)

MACでAozoraEpub3.jarが動かなかった件

さて、今回は何を書くかというと、一つはこうしたプログラムというか、ITを使ったやり方は日々変化してしまうということだ。

今回井原西鶴に続いて、上田秋成という江戸時代の文学者の文章を勉強することになったのが、その上田秋成の代表作が「青空文庫」に電子化されていることを知り、だったらそれを以前のようにKindleで読めるようにしようとした。しかし、これが簡単にいかなかったのだ。

以前の記事にようにやればうまくいくと思っていた。しかし、自分がボケていたのか、忘れていたのか、すぐにはうまくいかなかった。これについては二つの場合で書かなくてはならない。即ちMacBookの場合とWIN10の場合だ。

MacBookAirの場合

まずはMacBookAirの場合。実は最近初期化をしてしまったのだ。しかもOSをバージョンアップしている。以前の記事にあるようにこの「青空文庫」のKindle化はJavaのアプレットを使う。そのためそのアプレットをもう一度持って来なくてはならない。ただここまでは難なくできた。バックアップから持ってくることができた。しかし変換してみると文字化けしている。これはこの青空文庫のエンコードがシフトJISのためだ。そこで青空文庫のテキストデータを一旦エディタで開き、UTF-8に変換してから読み込ませなければならない。これまでの記事ではこれに触れていないので、付け加えておくことにする。

WIN10の場合

これはもっと厄介だった。Javaのアプレットそのものはあったのだが、全く動かない。実はJavaそのものがなかったためだった。そこで以前のように導入したが、これでもだめだった。これはJavaのライセンスの問題のようだった。つまりオラクルのJavaが使えないことになっていて、オープンのJavaを導入しなくてはならないようだ。そしてもう一つKindle化するために必要なkindlegenというプログラムがないということだ。これは以前の記事で書いたようには配布されていない。そこでどうするかというとKindelpreviewerというプログラム内にあるので、それをコピーしてこのアプレットがある場所におく必要があるということだ。

要するに「青空文庫」という素晴らしいプロジェクトによって電子化された多くのテキストをこれまた素晴らしいデバイスであるKindleで読むという素晴らしい体験をするために努力された多くのプログラマに感謝するが、それにしてもパソコンの環境が色々変わると大変だ。

現在の「青空文庫」のKindle化(簡略に)

Javaの導入
MACの場合は不要・WINの場合はオープンJavaを導入
https://www.javadrive.jp/start/install/index1.html
AozoraEpub3の導入
Vectorから入れるのが簡単だが、やたらCMがあるので注意する
https://www.vector.co.jp/soft/winnt/writing/se522586.html
Kindle Previewerの導入
https://kdp.amazon.co.jp/ja_JP/help/topic/G202131170
これはkindlegenのため

あとはこれまでの記事による。

ちょっと話が長すぎた。

2024.07.04

日本古典文学総復習続編26『好色一代男』

一代男原本

はじめに

今回は『好色一代男』を取り上げる。

これまで井原西鶴の作品を取り上げてきたが、この作品で最後である。ただ、この作品は西鶴の浮世草子の第一作だ。小生は西鶴の作品をさかさまに辿ってきたことになる。このことに別段意図はないのだが、逆さまに読んでくると、その後の作品にある特徴の萌芽がここにあるのがわかる。これは追々述べていくことにするが、まずはその梗概を記しておく。

その梗概

この作品は主人公である世之介という人物の七歳から六十歳までの五十七年間を描くと言う形を取っている。もちろん「好色」とあるように五十七年間の主人公の「性生活」が描かれているわけだが、それを全八巻に収め、年齢順に並べて書かれている。すでにこの作品で後の作品と同様、各巻に「目録」をつけている。その目録の基本は年齢だ。そしてそこにそれぞれ二つの小見出し的な文言を並べている。具体的には以下だ。(なお、文言は巻一のみ示すことにする。表記は古典集成による。以下同じ。)

巻一 
   七歳  けした所が恋のはじめ
       こしもとに心ある事
   八歳  はづかしながら文言葉
       おもひは山崎の事
   九歳  人には見せぬところ
       ぎやうずいよりぬれの事
   十歳  袖の時雨はかかるが幸
       はや念者ぐるひの事
   十一歳 たづねてきくほどちぎり
       伏見しもくまちの事
   十二歳 ぼんのうの垢かき
       兵庫風呂屋者の事
   十三歳 わかれは当座はらひ
       八坂茶屋者の事

  • 巻二 一四歳から二十歳
  • 巻三 二十一歳から二十七歳
  • 巻四 二十八歳から三十四歳
  • 巻五 三十五歳から四十一歳
  • 巻六 三十六歳から四十二歳
  • 巻七 四十九歳から五十五歳
  • 巻八 五十六歳から六十歳

この目録を見れば大体の内容が判る仕組みだ。

注(ちょっと年齢の並びがおかしいところがあるのに気付くだろうか。巻六だ。巻五からの流れでいくと巻六は四十二歳から四十八歳のはずだ。この件については古来いろいろなことが言われているようだが、実は巻五と巻六にはかなりの断点があったようだ。そこで年齢の誤記があったらしい。内容的には巻四までとそれ以降には違いがあるのだが、いわば第二部と言うべき巻五を描き始めたものの、次の巻六を書くまでになんらかの事情があったのかもしれない。ただここはこの点に深入りはできない。)

さて、大雑把に主人公世之介の人生を見ていくと、三十四歳までとその後で大きな違いが生じるのがわかる。それは三十四歳の時、父が亡くなり、その莫大な遺産が手に入ることになったからである。これは巻四の最後に描かれている。主人公世之介はそれまではいわばボンボンの放蕩息子にすぎなかった。しかし、莫大な遺産が手に入ると名実ともに「大大尽」になったのだ。その部分を本文で見てみる。

「日頃の願ひ、今なり。おもふ者を請け出し、または名だかき女郎のこらずこの時買はいでは」と、弓矢八幡百二十末社ども集めて、大大大じんとぞ申しける。

これまで決して自由にはならなかった女たちをこれで全て自由にできると意気込んでいる。これは、これまではボンボンとはいえ、決して遊女たちを自由にできていなかったとも言える。しかも高級遊郭の太夫たちは自由にできなかったことを意味する。即ち、この物語は前半は主人公世之介のいわば修行時代を描いていることになり、後半は主に高級遊女たちを相手にする絶頂期を描くと言う予告となっているのである。

そしてその後、贅の限りを尽くし、多くの高級遊女たちと交わった世之介は、あくまで性の奥義を極めんと還暦を迎えた後も仲間とともに多くの閨房用の道具・薬を持って女性しか住んでいないという「女護の嶋」に船出するところでこの物語は終わる。

実は女性の物語

さて、この「好色一代男」は世之介という飽くなき性の探求者の物語と言うふうに思えるが、実はよく読むとそうではない気がする。と言うのは巻々に多くの遊女たちが登場し、それがそれぞれ個性的なのだ。世之介は狂言回しで、実は眼目は相手の遊女たちにあったと言える気がする。主人公世之介に人間的な陰影はほとんどない気がする。しかし登場する女たちは皆個性的で生活の背景を背負っている。しかも三都だけでなく、多くの地方の遊女が登場し、そこが面白い。作者西鶴はどこから情報を得ていたのか、それとも実際に旅をしての体験かわからないが、もうこの一作目から全国規模の話になっているのだ。

地方の女たち

この作品に登場する地方遊里を整理してみると以下である。

  • 巻一 伏見・兵庫
  • 巻二 奈良
  • 巻三 下関・寺泊
  • 巻四 追分
  • 巻五 大津・室津・堺・宮島
  • 巻八 長崎

最後の長崎を別にすれば、ほとんどが前半、即ち主人公のいわば「性の修行時代」であることがわかる。

ここで遊女が床に入る場面を見てみる。実はこの作品、決していわゆる「春本」でないことが、このセックスシーンがあまりないことでわかるのだが、ここは数少ないそのシーンを抜き出してみる。以下だ。

今や今やと待つほどに、君様のあし音して、床近く立ちながら帯とき捨て、着物もかしこへうち捨て、はだかでぐずぐずとはひりさまに、「これもいらぬ物」と脚布ときて、そのまましがみつきて、いな所を捜つて、ひた物身もだえするこそ、まだ宵ながら笑し。(巻三・二十五歳)

これは寺泊の遊女の床入りの場面。江戸で遊女高尾に35回もふられてその後も交れなかったことを思い出し、この遊女がその高尾だったらと思うが、それじゃ面白くもないと思い返す場面だ。まさにこれが地方遊里の女の典型ということになろうか。

高級遊女の手管

これに対して、ちょっと長いが以下を読んでいただきたい。

枕近く立ちより、「それそれ、申し申し、めずらしき蜘が蜘が」と申されければ、世之介夢おどろき、「いやな事」と起きあがる所をしかとしめつけ、「女郎蜘が取りつきます」といひさま帯とかせ、我もときて、「これがわるいか」と肌まで引きよせ、うしろをさすりおろして、「今まではどの女がここらをいらひ候もしらず」と、下帯のそこまで手の行く時きゆるがごとし。今はたまり兼ねて断りなしに腹の上にのり懸れば、下より胸おさへて、「これは聊尓なさるる」といふ。「堪忍ならぬ。ゆるし給へ。」といふ。「又時節もあるべし。先づ今晩は」といふ。世之介せんかたなく、「かやうの事にて江戸にてもおろされ、無念今にあり。独りはおりられず。貴様に抱きおろされてならばおりよう」といふ。とやかくいふうちに、かんじんの物くなつきて用に立ち難し。是非なくおるるを、初音下より両の耳捕へ、「人の腹の上に今までありながら、ただはおろさぬ」と、こころよく首尾をさせける。まれなる床ぶりなり。(巻六・四十歳)

これは京都島原の初音という遊女との話。稀な床上手と言うことか。北國寺泊の遊女との違いが際立つ。

三都の高級遊女たち

さてこの作品、後半は大金持ちとなった主人公世之介がいわば金に物を言わせて高級遊女たちと交わることになるのだが、ここに登場する三人の高級遊女たちは決して金や権力だけでは靡かない女たちだ。遊郭は特殊な世界だが、もちろん「金」が物をいう。そして特殊な「しきたり」がある世界だ。そんな世界にあって、そんな世界の「しきたり」を超越した女として三人の遊女が登場する。しかも後半では遊女が個人名で登場することに注目したい。その三人とは以下だ。

まず「吉野」という遊女。(巻五・主人公三十五歳の時)

「日本一遊女の手本」と称され、小刀鍛治の弟子にもいきな計らいをする、なんでもできる万能の女として描かれる。

次に「三笠」という遊女。(巻六・主人公三十六歳の時)

いわゆる奴風(男気のある意)の太夫。しきたりを破って世之介に入れ込み、折檻されるが、それにも耐えて、思いを遂げる男勝りの女として描かれる。

そして「高橋」という遊女。(巻七・主人公四十九歳の時)

天津乙女の妹かと思えるほどの美形。権力者の客にもそっぽを向き、世之介に添う心意気ある女として描かれる。

さて、こうした強い意志を持つ女性ではないが、

遊女と普通の女と間に揺れ動いた誠実な女として描かれる「藤浪」という遊女。(巻六・主人公三十八歳の時)

「情深くて手管の名人」で実に気の利く、誰にでも優しい「夕霧」という遊女。(巻六・主人公三十七歳の時)

そして前掲の床上手な「初音」という遊女。

などなど、実にそれぞれ個性的な遊女たちだ。

このようにこの「好色一代男」は遊女たちの物語と言ってもいいほどだ。

おわりに

ここまでこの物語を読んできて、言い切れないことはたくさんある。もっとここに登場する女達を紹介したいし、その姿の描写や、遊郭内部の様子、そしてその食事、などなど、興味のつくせない物語である。それはまた後日に譲って、今回はここまでにしておく。

2024.06.26

この項 了

日本古典文学総復習続編25『好色一代女』

はじめに

今回は浮世草子の好色物、その三作目の『好色一代女』を取り上げる。

この作品は西鶴が浮世草子第一作目の『好色一代男』の成功の後、主人公の二代目を主人公にした『諸艶大鑑』を出した後の作品。無名の女主人公の主に性的な遍歴を描く作品。当時のこうした女性の生活が実に生き生きと描かれている面白い作品だ。

その梗概

この作品、一主人公の一生が描かれているわけだが、全6巻各4話合計24の話から出来上がっている。例によって各巻頭には目録がある。以下である。(表記は古典集成のまま、カッコ内はそのルビをそのままの仮名遣いで記す)

巻一

老女隠家(ろうによのかくれが)
舞曲遊興(ぶきよくのいうきよう)
国主艶妾(こくしゆのえんせふ)
淫婦美形(いんぷのびけい)

巻二

淫婦中位(いんぷのちゆうゐ)
分里数女(ぶんりのすぢよ)
世間寺大黒(せけんでらだいこく)
諸礼女祐筆(しょれいおんないうひつ)

巻三

町人腰元(ちやうにんこしもと)
妖孽寛濶女(わざはひのくわんくわつ)
調謔の哥船(たはぶれのうたぶね)
金紙の匕元結(きんがみのはねもとゆい)

巻四

身替長枕(みがはりのながまくら)    
墨絵浮気袖(すみゑのうはきそで)    
屋敷琢渋皮(やしきみがきのしぶりがわ) 
栄耀願男(ええうのねがひおとこ)    

巻五

石垣恋崩(いしがけのこひくづれ)
小歌伝受女(こうたのでんじゆをんな)
美扇恋風(びせんのれんぶう)
濡問屋硯(ぬれのとひやすずり)

巻六

暗女昼化物(あんぢよはひるのばけもの)
旅泊人許(りよはくのひとたらし)
夜発附声(やほつのつけごゑ)
皆思謂五百羅漢(みなおもはくのごひやくらかん)

しかも各話にはそれぞれ歌がついている。巻一のみ以下に記しておく

老女隠家(ろうによのかくれが)

〽️都に是沙汰の女訪ねて
昔物語を聞けば
一代の板づら
さりとは浮世洒落者
今もまだ美しき

舞曲遊興(ぶきよくのいうきよう)

〽️清水の初桜に
見し幕のうちは
一節のやさしき娘 いかなる人の
ゆかりぞ 親は親は
あれを知らずや祇園町のそれ
今でも自由になるもの

国主艶妾(こくしゆのえんせふ)

〽️三十日切りの手掛け者にはあらず
  よしある人の息女も
末を頼みにやる事
  さては
仮初めに
 なるまい
  なるともなるとも
 望み次第

淫婦美形(いんぷのびけい)

〽️京の良い中を改めたる女
  島原の太夫職の風俗
善し悪しの詮議がくどい
  思はく丸裸にして語るに
思ひの外なる内証

これを読むと大体の話がわかる仕組みになっている。

一代女の職業遍歴

さて、最後は老尼となり、隠れ里「好色庵」に隠棲する一代女を、恋にやつれた若者二人が訪れるところから物語が始まる。ここから一代女が過去を語っていくという形で話が進んでいく。
そこで、一代女が生涯経験した職業?を通してこの物語を見ていく。そうすると、この物語の全体像がわかるし、それがこの物語の胆だと言っていいからだ。若干の説明をつけてみていく。

巻一

  1. (官女仕え)十一歳で恋心。
  2. (舞子)美貌と巧みな客あしらいで評判。
  3. (養女)見染められてさる家の養女となるが、その男親と交わい、離縁。
  4. (大名妾)さまざまな審査を経て国主の妾に合格。しかし殿が弱臓(性的虚弱者)で暇を出される。
  5. (島原太夫)親が連帯保証人で金につまり、身売りすることに。太夫に上り詰める。遊郭の風俗が興味深く描かれている。

巻二

  1. (天神)遊女の位、太夫の下。うぬぼれ強く、太夫から下される。
  2. (十五)「かこひ」と読む。天神のさらに下の遊女。この辺りの遊郭の描写も面白い。
  3. (端居)これもさらに下。一代女の零落ぶりを示す。年季が明けることになる。
  4. (寺大黒)「寺大黒」とは僧侶の妻をいうが、ここは三年契約の住職のお妾。若衆姿に変えたのが効果。しかし結局妊娠と偽って寺を脱出する。寺の性的無軌道ぶりが面白い。
  5. (女祐筆)「祐筆」とは本来貴人に仕えた書記のことを言うが、ここは筆指南で文の代筆をする仕事。それがもたらす男関係も描かれる。

巻三

  1. (呉服屋腰元)うぶなふりして「大文字屋」と言う呉服屋に腰元奉公することに。しかし本来の好色がたたって旦那とできてしまい、結局出奔。
  2. (大名表便)対外的な職務に従う奥女中となる。奥で開かれた悋気講(一般的には庶民の女房たちが集まって開く無尽講。夫の浮気話などを言い合い、憂さ晴らしした)で主人公の呪いから奥方が頓死。これまた出奔。
  3. (歌比丘尼)寝枕の寂しい船頭相手に船の上で歌って売春する女のこと。これもなじみが文無しになり廃業。
  4. (武家方髪結女)言葉通りの職業。さる武家の奥方の髪を結うのだが、この奥方実は髪が薄い。これを口外しない約束だったが、この奥方、一代女の髪に嫉妬して「切れ」、「削げ」と無理難題。そこで復讐。ハゲを殿にバラす。奥方里に帰り、一代女この殿を我が物に。

巻四

  1. (介添女)方々の御息女嫁入りの介添え女に雇われる。当時の豪華な結婚事情が描かれる。ただ、地味な方こそ将来があると語る。
  2. (お物師役)針仕事、裁縫女だ。しばらくは色道を離れる。
  3. (仕立女)しかし越後屋出入りの仕立て屋となり、再び色に染まる生活。出入りの仕事関係の堅物の番頭をたらし込む。ここは一代女の裸の描写があり、出色。
  4. (茶の間女) 武家で、腰元と下女の中間に位置する女中のこと。藪入りで年老いた中間に惚れられる。
  5. (中居)なんと泉州堺で中居奉公。この中居とは年寄りの夜の準備をする役。この年寄りは老婆だったが、なんと男役をやるという。なんとなんと男役の老婆との床入り。全くね。

巻五

  1. (茶屋女)色茶屋にいる女。もちろん売春目的。流石に年老いた一代女。
  2. (通女)あることから大名の囲い者となる。家を与えられた妾のこと。年老いても見染める人はいる。
  3. (伝授女)これは別名湯女のこと。銭湯で面倒見る仕事だが、ここも売春仕事。風呂屋の風俗が描かれていて面白い。
  4. (雑女)ここはよくわからないが、零落し目医者に通う女たちの姿を描く。この主人公も目を患っていたようだ。
  5. (扇畳妻)扇屋の妻となる。店の看板役を勤める。しかし悪いくせ、浮気が祟って追放される。
  6. (糸くり女)まさに糸車を使って糸を紡ぐ女のこと。西陣ですね。ただ、ここでも男は忘れていない。
  7. (隠居夜伽女)隠居相手だから楽な仕事と思いきや、この御隠居かなりの強蔵(絶倫男)で大変。流石の一代女も人に背負われて中宿(身元引請宿のこと)に帰る始末。
  8. (蓮莱女)大阪の問屋街に置かれていた女。飯炊女と言うことだが、もちろん性的サービスをし、問屋に出入りする男たちの相手をする。その生活が自堕落なのでこの名がつく。

巻六

  1. (暗物女)暗宿と呼ばれた淫売宿で売春する女のこと。その様子が詳しく描かれる。主人公は「分」と言って売春の代金を宿と分ける女として働く。落ちぶれたもの。
  2. (旅篭屋の人待女)旅籠屋にいて、旅客を引っ張り込んで仕事をする女。松坂でのこと。
  3. (紅、針売る女)桑名に至り、この商売。
  4. (遣り手)これは遊女を監督する立場。もう女として仕事ができないと言うことか。
  5. (惣嫁)ついに最下層の売春婦となる。大阪でこの名。京では辻君、江戸では夜鷹。
  6. (尼)生き恥を晒し続けてはと入水を試みるが、助けられ、諭されて尼となる。

おわりに

さて、こうして読んでくると、この主人公が実に多くの職業に就いて一生を過ごしたことになるのがわかる。しかも、女性がこの時代就ける仕事が意外に多かったことにも驚かされる。ただ、そのほとんどがセックス絡みなのはまさに「好色一代女」たる所以だから仕方がないとしてもだ。そしてこの一代女がその華奢な美貌と教養となんでもこなせる才覚によって、さまざまな職に就きながら生き通してゆく姿に感動すら覚える。全く暗いイメージはないし、「やるねえ!」と声をかけたくなる。これも西鶴の筆致に依るのだろうが、この時代に対する共感を強く感じる。

ちょっと長くなったので、この辺でおわりにしておく。

2024.06.13
この項 了

日本古典文学総復習続編24『世間胸算用』

「世間胸算用」刊本写真

初めに

今回は『世間胸算用』を取り上げる。この作品は西鶴が没する一年前に刊行されたというから、最晩年の作品ということになる。前回取り上げた『日本永代蔵』と同様、町人物と呼ばれる町人たちの経済生活を活写した作品だ。内容は以下に示すが、『日本永代蔵』が主に町人でも成功者である上流町人を描いていたのに対して、この作品は町人でも中流以下の、しかもいわば失敗者を描いているところに特徴がある。

その梗概

『日本永代蔵』同様、まずは目録が示されているので、そこから見ておこう。(表記は本書のとおり。ただし一部漢字ひらがなに)

巻一

一 問屋の寛闊女
はやりの小袖は千草桃品染
大晦日の振手形如件
二 長刀はむかしの鞘
牢人細工の鯛つり
大晦日の小質屋は泪
三 伊勢海老は春のもみじ
状の書賃一通一銭
大晦日に隠居の才覚
四 芸鼠の文づかひ
居風呂の中の長物語
大晦日に煤はきの宿

巻二

一 銀一匁の講中
◯長町に続く嫁入荷物
◯大晦日の祝儀紙子一疋
二 訛言も只はきかぬ宿
◯何の沙汰なき取上婆
◯大晦日の投節も唄ひ所
三 尤も始末の異見
宵寝の久三がはたらき
大晦日の山椒の粉うり
四 門柱も皆かりの世
朱雀の鳥おどし
大晦日の喧嘩屋殿

巻三

一 都の顔見芝居
◯それそれの仕出し羽織
◯大晦日の編笠はかづき物
二 餅ばなは年の内の詠め
◯掛取上手の五郎左衛門
◯大晦日に無用の仕形舞
三 小判は寝姿の夢
無間の鐘つくづくと物案じ
大つごもりの人置のかか
四 神さへお目ちがひ
堺は内証のよい所
大晦日の因果物がたり

巻四

一 闇の夜の悪口
世にある人の衣くばり
地車に引く隠居銀
二 奈良の庭竈
万事正月払ぞよし
山路を越ゆる数の子
三 亭主の入替り
下り舟の乗合噺
分別してひとり機嫌
四 長崎の柱餅
礼扇子は明くる事なし
小見せものはしれた孔雀

巻五

一 つまりての夜市
文反古は恥の中々
いにしへに替る人の風俗
二 才覚の軸すだれ
親の目にはかしこし
江戸廻しの油樽
三 平太郎殿
かしましのお祖母を返せ
一夜にさまざまの世の噂
四 長久の江戸棚
きれめの時があきなひ
春の色めく家並の松

これを見れば大体の内容がわかる仕組みになっているのは『日本永代蔵』と同じ。ただ、この書はちょっと少なく、全5巻各4話ということで、20のエピソードが語られている。各巻とも「大晦日は一日千金」という副題があるように、大晦日の町人たちの借金取りとのてんやわんやが語られている。先に言った通りここに登場する町人は『日本永代蔵』に登場する町人たちと違ってやや下流の人たちである。しかも失敗者たちである。ただ中心はもっと下流の長屋住まいの人々ではない。というのは大晦日に決済するということはいわゆる「掛け買い」ができる人たちだからである。長屋住まいの人達も登場するにはするが、そうした人たちは借金取りには追われない。「掛け買い」ができないからだ。しかし、正月を何もなしに迎えなければならいという人、質種が何もなくて困り果てている人として登場する。こうした人々もまた人生の失敗者たちなのだ。つまりこの『世間胸算用』は人生の失敗者たちの大晦日のエピソード集ということになろうかと思う。

エピソードの諸相

さて、もう少し内容を見ていくことにしよう。この書の20篇のエピソードは決して統一的にならべらていない。ほんとに色々バラバラなのだ。ただ、大晦日の「金」をめぐる話ということで統一されている。そしてここに登場する人物たちは皆人生の失敗者である。序で西鶴は言う。

元日より
胸算用油断なく、
一日千金の大晦日をしるべし。

と。しかしここに登場する人物たちは皆「胸算用」に失敗している。『日本永代蔵』で「始末」を説いた西鶴がここにもいる。しかし,西鶴の筆致は決してこうした失敗者に非難がましい目を向けてはいない。むしろ面白がっているようだ。ではいくつかのエピソードを紹介しよう。

貧乏夫婦の話

まずは夫婦で登場する話だ。夫婦で登場する話はいくつかあるが、ここでは巻一の二「長刀はむかしの鞘」と巻三の三「小判は寝姿の夢」を取り上げたい。

「長刀はむかしの鞘」

この話は貧乏長屋に暮らす浪人夫婦の話。女房はかつてはそれなりの身分の武士の娘。夫は浪人の身で「牢人細工の鯛つり」とあるように玩具を作って売って生業にしていた。しかしその商売もうまく行かず大晦日に質屋に入れるものとてほとんど尽きていた。そこで最後に長刀の鞘を女房に質屋に持って行かせる。ところが質屋はその長刀の鞘を一瞥しただけ「何の役にも立たないもの」と言って放ってよこす。さて、ここからが面白い。女房がたちまち顔色を変え、口舌を打つのだ。この薙刀の鞘についての来歴を滔々と述べ、「役に立たぬものとは。先祖の恥。女にこそ生れたれ、命はをしまぬ。」とまで言って、質屋の亭主に取り付いて泣き出してしまう。これには質屋の亭主も困惑し、なんとか宥めるが、この女房の喚きは収まらず、ついには近所の野次馬が現れて、仲裁に入る始末。しかもこの仲裁が、「この女房の夫は「ゆすり」だから、来ないうちに収めた方がいい」というもの。そこで仕方なく質屋は「銭三百と黒米三升」を出したという。しかも唐臼まで貸して帰したと言っている。

さて、筆者西鶴はこの件について、「貧すれば鈍するのは嫌だね」と言う意味のことを言っている。また「大晦日の小質屋は泪」とあるように質屋には同情している(ここには他にも質屋しか頼れない最下層の町人の様子が描かれている)。しかし、この話の描写には決して非難がましいところはなく、むしろ生き生きと面白く描いている印象だ。

「小判は寝姿の夢」

これは夫婦の愛情あふれる話。かつて江戸にて小判の山を見た亭主はそれが忘れられずに、働きもせずに大金持ちになることを夢見てついに悪事を思いつく。この亭主には赤子と女房がいて、大晦日の晩、餓え寸前の状態だった。その女房、何とか悪事を思いとどませるために乳母奉公に出てとりあえずの金銭を得る。しかし、その奉公先の主人が色好みで、しかも亡くなった先妻にこの女房が似ているという話を聞いたこの亭主、もう立ってもいられず、この女房を取り返しに行ったという話。

この男、聞きもあへず、「最前の銀は、そのままあり。それを聞いてからは、たとへ命がはて次第」と、かけ出し行きて、女房取り返して、泪で、年を取りける。

と、この話を西鶴は結んでいる。何のコメントもないのが、この話を他の話とは際立って異色な感じを持たせていると言えるのかもしれない。「金」が全ての世の中だが、こうした「愛情」が「金」を上回って描かれているのは珍しいと言えるからだ。

世間から逃れた人々の話

さて、今度は、たまたまあるところに居合わせた人々が語る大晦日の話を取り上げたい。
巻四の三「亭主の入替り」と巻五の三「平太郎殿」だ。

「亭主の入替り」

これは副題に「下り舟の乗合噺」とあるように、京から大阪に下る船に大晦日に乗り合わせた人々の話。こう言う話の仕立ては西鶴得意のところか。いつもの下り船は賑やかだが、この日の船の乗客は一人を除いて何やら寂しそうだ。というのもこの日にうちに居られずに船にいるからか、皆悩み多き人々のようだ。ある男は叔母をたづねて無心をしたが叶わず、年の越しようがないと嘆き、ある男は弟を役者にして金を得ようとしたが叶わず、旅費を損して帰るといい、またある男は持ち伝えた日蓮上人自筆の曼荼羅を売りに行ったがうまく行かず、家に帰れば借金取りがいるので帰りたくはないといい、ある男は米の取引がうまく行かずに帰るという。

ただ一人だけ「分別してひとり機嫌」とあるように機嫌のいい男がいた。実はこの男、互いに親しい男同士入れ替わって留守をして、借金取りが来る時、凶暴な借金取りの風を装い、内儀を脅す芝居をするという。こうすると他の借金取りも帰っていくという工夫を話す。「これを、大つごもりの入れかはり男とて、近年の仕出なり。」と得意満面であったという話。

一つの船に乗り合わせた男たちのけっして幸福とはいえない人生のさまざまが語られている。ここでも西鶴はどうこう批評はしていない。

「平太郎殿」

平太郎殿とは親鸞の関東での弟子で、この人のことを語るのが真宗の寺では節分の夜の恒例になっていて、この日ばかりは老若男女ともに参詣が多いという。しかし、ある年、大晦日と節分が重なって、ある寺では、なんと参詣する人が三人しかいなかった。そこで住職が今夜は三人に法話をしても灯明の油代にもならないなどという。だから帰りなさいと。しかし、三人は帰らずにそれぞれの身の上話をするという嗜好だ。

副題の「かしましのお祖母を返せ」というのは、倅が借金取りから逃れるために仕組んだ作り事。このばばを寺に行かせ、ばばがいないと騒ぎ立て、近所の人に頼んで太鼓・鉦を叩いて「お祖母を返せ」と、一晩中町中を練り歩いて過ごそうというもの。こうすれば、借金取りから逃れられるというのだ。

もう一人の男は、入婿して将来をうまくやろうと考えたが、結局女房に愛想を尽かされて追い出され泊まるところ無くこの寺に来たという話。

またもう一人の男は年を越す才覚がなく、この平太郎殿の讃談参りにくれば、人が多く、その草履・雪駄を盗んで酒の代にしようと思ったという。が、どこ寺にも人がいず当てが外れたという。

そしてこんな話を聞いているうちに、何と次から次に人が寺に現れて、やれ子が生まれただの、誰かが死んだので葬礼してくれだの、小袖を盗まれただの、井戸が潰れたので水をくれだの、勘当された息子を預かってくれだのと大変。最後に「うき世に住むから、師走坊主も隙のない事ぞかし」と、この話を結んでいる。これが副題「一夜にさまざまの世の噂」ということだろう。

その他の話

さて、ここには4話のみあげたが、その他の話にも面白いものが多くある。しかし全て紹介するわけにも行かないのでこの辺にしておくが、いずれも大晦日の借金取りとのエピソードだ。借金取りから逃れるのに、よくもこんな方法を考えたものだと言った話は前に紹介したものばかりではない。西鶴の取材力に驚かされる。(多分創作ではないと思われるので)

そして最後に触れたいのは舞台についてである。特に堺と長崎は別格に扱われているように思う。また、奈良も登場するが、これも京・大阪にはないのんびりした様子が伺える。西鶴は果たして長崎を訪れたことがあったかどうか定かではないが、西鶴にとっても特別なところだったようだ。そしてもう一つが江戸だ。この書の最後は江戸を舞台にしている。京・大阪にない贅沢なところを取り上げている。これまでこの書は失敗者を並べていて、ともするとマイナスな印象を拭えないが、最後は剛毅な江戸の町人を描くことによって、明るくまとめているのも西鶴らしいと言えるのかもしれない。

終わりに

こう読んでくると、西鶴は本当に稀有な作家であることがよくわかる。これは単にこの時代のというにとどまらず、日本文学史上稀な作家であることは間違いないように思われる。この「金」、すなわち「金銭」というものは我々人間の生活にとって近世以降欠かせない重要なものである。しかしこれを正面から取り上げた文学はほとんどないと言っていい。しかもそれを文学までに昇華した例は皆無と言っていいかもしれない。西鶴はこの『世間胸算用』で金銭をめぐってあくせくする人間たちを描きながら、けっしてそれを当時のイデオロギーである儒教的な道徳観や仏教的な教訓で包もうとしなかったのが、何より新しかったように思う。事実として、時には愛情さえ持ってこの時代に台頭した町人を描いたこの西鶴の町人物は日本文学史上の金字塔とさえいえそうだ。

井原西鶴は初め芭蕉と同じように俳諧師として出発した。そしてのちに好色物、武家物の浮世草子を経て、この町人物に至ったという。ここに文学者西鶴のどんな変遷があったのか、興味深いところだが、次は逆を辿って、好色ものの二作品、『好色一代男』と『好色一代女』を見ることにする。
今回はここまで。

2024.05.24
この項 了