パソコン改造第3弾

パソコン改造第3弾

この話題の最終投稿です。前回の投稿でなんとか泥沼化から脱したことは語りました。しかし、当初の目的のWIN11へのアップグレイトについては報告していませんでした。

実は先日無事アップできたので報告です。そしてここに泥沼化は全くありませんでした。ただただ時間が掛かっただけです。

実は先日久しぶりにシステムを終了して、時間をおいて起動したところWIN11へのアップグレイトの案内が出ました。

そこでいわれる通り進めていっただけでした。

条件を満たしたPCは実に面倒なくできることがわかりました。ただ、まずダウンロードに時間が掛かりました。我が家のネットは決して遅くないのですが、これは相手が混んでいたせいでしょう。

つぎにPCをWIN11化するのに時間が掛かりました。これは多分HDDの容量のなさに原因していました。外付けのUSBドライブを使う旨のメッセージがでてましたから。これはOSの変更でしたから多くの展開領域が必要だったのでしょう。しかし、ほっとけばいいので他の事をして、昼過ぎに始めて夕刻遅くに終わりました。

その後はHDD内の整理をして、終了しました。

この間のポイントを以下整理しておきます。

  1. ハードウエアの大幅な変更は別のPC扱いになってしまうことを認識すべし。
  2. ハードウエアの変更はよくマニュアルを読んで行うべし。(しったか禁物)
  3. 電源の扱いには特に注意すべし。(帯電に注意)
  4. WIN11のポイントはBOOTにあると認識すべし。(従来のMBRからGTPへの変更)
  5. マイクロソフトの認証はデジタル認証になっていることを思い出すべし。

とまあいろいろ苦労したので、教訓です。もうこんなことはやらないだろうけどね。

2025.11.27

パソコン改造泥沼化第2弾

パソコン改造泥沼化第2弾

苦労の末、何とか新しいマザー・CPU・メモリーで従来からのWIN10は無事起動した。この顛末は先に書いたとおりだが、その後のWIN11へのUPの過程で再び大変なことを経験することになる。今度はその顛末を。

1.「WIN10の認証をしろ」とな?

実はマザーボードとCPUの変更など重大な変更を行ったパソコンは別のパソコンとみなされるらしいことがわかっていなかった。

さて「プロダクトID」ってあったけ?確かWIN7は持っている。それから8も持っている。

なにせパソコン歴は古い。MS-DOSの時代から使っているのだ。(いやいや懐かしいな。思い出にふけっている場合ではない。)

Windowsは先ずは95。これは正に画期的で1995年だった。その前は1.0、3.0、3.1と続いていたはず。1.0は1985年、95の10年前だ。

そしてXP。2001年だった。(NTというのもあったし、確か2000というのもあってこれは業務用だったと思う)そしてこれを長く使った。インターネットが一般化した時代だった。その後のVistaはほとんど使わず、7を使い続けた。そして8はMacBook上で使う。そして10だ。

あれ?思わず「僕のパソ道」になってしまった!(いずれ書きます。)

さて、ここで思い出したのは、7から10へのバージョンアップはマイクロソフトのサイトから行ったことだ。この10は2015年に発表でいわゆる最後のバージョンと言われ、継続的アップデートモデルということだった。(まだ10年ジャン!)

そこで7のIDを入力してみた。ダメだった。

ここでもわかっていなかったのは認証がデジタル認証になっていたことだ。

10のプロダクトIDはマイクロサイトのアカウントにいわゆる「紐づけ」されているわけだ。「設定」の「ライセンス認証」のページでアクティブ化をすればよかった。

ただ、当初マイクロソフトのサーバーが混んでいたのかうまくいかず、これも混乱に拍車を駆けたわけだが、翌日の朝につながって、一気にこの問題は解決した!あ~あ。

この別なPCとなってしまうということは実は他にも影響する。一つはウイルスバスターの使用台数の問題にひっかかってしまう。またofficeの認証もしなくてはならなくなった。これは面倒なだけでどうということなくできはするが。

こうしたこともはじめからわかっていないとほんとに混乱するのものだ。

2.「11にはアップできません」とよ。どうして?

マザーとCPU、メモリーを変えたのは何のため?どうして?ということでマイクロソフトのサイトから「PC正常性チェック」というプログラムを導入して調べてみた。すると最初の項目「セキュアブートをサポートしていません」と出て、その他の項目はクリアしているが、ここだけがダメだとなっていた。

さてここからがまたぞろ泥沼化するきっかけだった。これは、てっきりBIOSだ!と考えた。確かBIOSにbootの項目もあるしそこでの設定かと、そこでいろいろとBIOSをいじってしまった。

そうしたらある時全くPCが動かなくなってしまったのだ。BIOSの初期画面は出るのだが、キーボードが効かない。初期画面からBIOSにゆくF2キーやDelキーが入力できないのだ。

これは困った。ここでも色々調べてはみた。MacBookを持っているのでこういう時は役に立つ。BIOSのマニュアルもDLして、ここで見られるようにしてある。

最終的にはBIOSの初期化しかないということになって、これを試みた。つまりジャンパーピンのショートや電池をはずすというやつだ。ただこれも一回でうまくいったわけではない。これを行う場合もちろん電源は外すわけだが、どうもこれがうまくいっていなかったようだ。電源を外して「すぐに」やってもうまくいかないのだ。つまり「帯電」ということだ。

これも電源を抜き、電池も外して、一日おいて翌日行ってなんとかなった。しかしこのBIOSの設定はあまり関係がなかった。実はデフォルトでよかったのだ。(BIOSが新しいから)

こんな時ネットの情報は役に立つものだ。ただ、そこを発見できるかが問題なのだ。実はセキュアブートはブートするHDDの設定なのだ。

従来のHDDにはMBRという(マスターブートレコーダー)という起動のためのパーティションが書かれていた。しかしこれではUEFI(Unified Extensible Firmware Interface)では効かない。そこでMBRをGPT(GUIDパーティションテーブル)に変える必要があったのだ。

ホント技術がどんどん変っていくので困る!

さてさてどうする。これも親切、ネットにあった。いわく『データを消去せずに「MBR」を「GPT」に変換』。ありがとうございます。指示に従って行い。BIOSはデフォルトのままにしてやっとWIN11にアップできるPCになりました。(冒頭の画像)

やれやれ。大変でした。あたらしいPCを購入した方がよっぽど楽なんだが、このスンナリうまくいかないのが楽しいのだ。

この間の小生のジタバタを横で眺めていたカミさん曰く、「楽しそうだね」。

さて、まだ11にはアップしていません。またなにかあるかも。来週にします。楽しみは取っておきます。それと焦ってやると碌なことはないのでね。

また報告します。

2025.11.20

日本近代文学総復習明治文学編8『福沢諭吉集』を読む

はじめに

また少し間が空いてしまった。今回は半月で行けると思っていたが、途中にパソコンの改造の作業を入れてしまい、これが結構手こずってしまったので、やはり一月は要してしまいそうだ。

さて今回は個人集である。誰もが知っている福沢諭吉である。お札になったぐらいだから知らぬ人はほとんどいないと思うし、「学問のすすめ」の文言はどこかで必ず聞いたはずである。

ただ、福沢諭吉は文学者ではない。批評家というのともちょっと違う。しかし、日本近代を代表する「思想家」であることに間違いはない。これまでも文学者というより思想家をこの明治文学全集は取り上げてきているから不思議ではないが、その中でもこの人物は明治時代にあって外せない人物だから当然ということになろう。

ともかく改めてこの思想家の思想を読み解いていきたい。

福沢諭吉の思想

先ずは福沢諭吉の一般的な理解を紹介しておこう。ネットで検索すると以下のように書かれている。

AI による概要
福沢諭吉は、『慶應義塾の創設者』であり、明治時代の『啓蒙思想家』、**『教育家』**です。幕末に欧米の文化を『西洋事情』で紹介し、明治維新後は「学問のすすめ」などの著作を通じて、個人の自立と平等、そして学問の重要性を説きました。
慶應義塾の創設:1858年に蘭学塾を開き、これが現在の慶應義塾の源流となりました。
西洋文化の紹介:幕府の使節として欧米を訪れ、帰国後に『西洋事情』を著して、日本に西洋の知識を広く伝えました。
啓蒙思想の普及:「学問のすゝめ」を書き、人々に学問を勧めて個人の自立を促し、近代社会のあり方を示しました。
新しい言葉の創出:「自由」「演説」「社会」など、現代で当たり前に使われている多くの言葉を英語から訳して広めました。
明治政府に仕えず:明治維新後、政府からの要請を断り、教育活動と著作に専念しました。

間違いはありませんね。しかし、これだけでは福沢諭吉がいかに優れた思想家だったかは伝わりませんね。そこでこれからその著作を読んでいくことによってより深い理解をしていきます。そうするとこの福沢諭吉がいかに日本の近代において大きな人物だったかがわかるはずです。

収録作品の内容

「素本世界國盡」

冒頭で

「世界は廣し萬國は多しといへど大凡そ、五に分けし名目は亜細亜、阿弗利加、欧羅巴、北と南の亜米利加に、堺かぎりて五大洲、太洋洲は別に又、南の島の名稱なり。」

と述べて世界を州別に、そして各州では属する国々を挙げている。しかも七五調で分かりやすく覚えやすいように述べている。世界地理の教科書といったところ。

「通俗民權論」

緒言にある通り、これは上等社会の学者など知識人に対してではなく、俗世間の一般の人々に対して当時盛んに言われていた「民権」とは何かを福沢なりの考えで説いたものである。内容は八章にわたって述べられているが、基本は「一身独立」した「民」の力こそ重要であるという点に眼目があるとする。

「通俗國權論」「通俗國權論二編」

上記の通俗民權論脱稿後すぐに書かれたもの。ここでも基本は「一身独立」した「民」の力であり、それ無くして国の独立を維持・強化することはできないとするもの。一般的に「民権」と「国権」は対立し、相反する物のように考えられるが、福沢は「民権」あっての「国権」という考え方だ。その考えに基づいて自由民権運動、国会開設運動、条約改正問題等具体的政治課題を論じている。

「民情一新」

主に近代科学や産業革命によってもたらされた文明の力がその社会や人間を変えることを述べたもの。保守的な考え方ではなく、「進取の主義」によって国家のあり方や人間のあり方を変えていくことの重要性を説いたもので、それを理論的というより、具体的な制度や技術に沿って論じている。

「帝室論」

皇室は政治の枠外にあるべきことを説き。立場に関係なく全国民は同等に皇民であるとし、皇室は特定の政党に関与すべきではないことを主張したもの。現在の象徴天皇制に近い考え方が述べられている。「官権党」の結成を聞いた福澤が、その不適切なことを論じたもの。皇室の政治利用は危険であり、むしろ学問・芸術面での寄与こそ大事であるとする。

「尊王論」

基本的には前記の『帝室論』と変わらない趣旨。ただここで注意したいのは、同趣旨の論を改めて出版した経緯である。これは欽定憲法の起草、国会開設という点に絡んでいるようだ。福沢は繰り返し、帝室を政治外に置いておきたい考えが強くあったようだ。

「日本婦人論」

これは、女性の解放と自立を説いた先進的な論説。日本社会の長きに亘った男尊女卑の風習を打ち破るべく論じた婦人解放論と言える。その内容は、福沢が説く「一身独立」は女性にも応用されるべきものとし、女性に責任と財産を持たせること、そして封建的な男性の意識改革を促し、男女が独立した家族関係を築くべきであると主張している点が注目される。ここでも日本の民族が「人種改良」すべきことが述べられている。ここで面白いのは、結婚後に夫や妻の姓ではなく、新しい姓を創設すべきだと提言している点だ。これなどいわゆる「家制度」を根本から覆す論で、今話題の夫婦別姓どころではない気がする。

「實業論」

これは福沢諭吉の経済論集。ここでも国民の「一身独立」を説き、その経済活動こそ重要であること強調する。これは政府主導の経済からの脱皮を強調。背景には西南戦争後のインフレと松方デフレがあったと思われる。また、福沢は科学技術を背景にした「実業」の必要性を説く。これは実業界に未だ残っている封建的体質に対する批判である。しかもその批判は思想的な面からばかりでなく、変動するこの時代の経済状況を輸出入の数字や職工の賃金の世界比較をあげての分析からしている点も見逃せない。

ただ現実的には資本家が育っていないこの時代の日本の資本主義はどうしても国家主導にしかなり得ず福沢の理想は実現が難しかったのは歴史が示している。

「福翁百話」

これは、福沢諭吉が友人や来客との談話をまとめた100の随筆集。ここにはこれまで見てきた福沢の思想がさまざまな話題を通して述べられている。

注目すべき話題は「情欲は到底制止す可らず(四十五)」あたりだろうか。これは結局いい方策はないのだが、ここで福沢が人間の欲望を基本的に認めている点が重要だ。決して道徳的な方向に持っていこうとしていない点である。この考えは彼の「女性論」にも生きている。ぜひ読んで貰いたい一章である。以下の文言を引いておく。

「畢竟人生の情欲は制止す可きものにあらざれば、要は唯その方向を転じてこれを緩和するか、又は此れと彼れとを比較して害の少なき方に導くに在るのみ。(一部漢字変更)」

「福翁百餘話」

「福翁百話」と同じような趣旨で、随時に思いついた所感を書きとめたもので全十九編。

「明治十年丁丑公論」

これは、西南戦争の首魁である西郷隆盛を弁護し、明治新政府を批判した著書。著者は、西郷の行動を「横暴に対する抵抗」と捉え、明治新政府の統治に痛烈な批判を加えている。ここに福沢の明治新政府に対する根っからの抵抗感が窺える。ただ、この書は明治10年の西南戦争直後に執筆されというが、当時の取締法規に抵触する恐れがあったため、すぐには公刊されず福沢諭吉の死の直前である明治34年に『時事新報』紙上で発表されたという。

「瘠我慢の説」

この書は福沢の為人を知る上で重要であると思われる。また、これは明治維新に対する彼の立場を明確にする書でもあると言える。内容は明治維新前幕府側にあって重要な役割を示したが維新後明治政府に出仕した勝海舟と榎本武揚への批判で私信という形で書かれている。当初は発表の予定がなかったようだが、あるところから漏れてしまい地方の新聞に掲載されてしまったために前記の「明治十年丁丑公論」の一部として発表されものだ。

ここに福沢諭吉がやはり幕府側の人間であったこととそれ以上に明治新政府に対する反感が強かったことを示している。実は明治政府は政権を取ったものの全く人材不足であった。それまで官僚機構を高度に築きあげていた幕府には有用な人物が多数いた。これは「啓蒙思想集」でも見たように近代化にいち早く取り組んでいたのは実に幕府側の有意な若者たちだった、ということもあった。つまり明治政府にとって幕府側の人間は必要だったわけだ。「啓蒙思想集」に登場した多くの幕府側の若者たちも明治政府に何らの形で参加しているし、勝海舟はともかく、最後まで抵抗した榎本武揚までも受け入れたのだ。したがって福沢も政府への出仕を誘われている。前に取り上げた栗本鋤雲も然りである。しかし、福沢や栗本はそれを断っている。それを「瘠我慢」だとしている。そして彼らにはそれが足りないとしているのだ。ここにむしろ福沢の旧武士的な気概を見るのは私だけだろうか。好きだなこういう人物。ここに小栗上野介の無念や成島柳北の反社会的な姿勢を思わないいわけにはいかない。

「舊藩情」

これは、福沢諭吉が江戸時代における武士の厳格な身分制度と、家柄や血筋に縛られた「格差社会」の問題点を鋭く批判した著作だ。こうした論は自身がいわば下級の身分のしかも末っ子であった経験から論じられている。具体的に福沢が属した九州の小藩である中津藩の幕末から維新期にかけての実情を紹介している。そんな中、福沢は混乱期に自らの才能と努力によって確固とした地位を築いた(もちろんそれは政府の中ではないが)。そしてそれは何よりも「学ぶ」ことの重要性、その場である平等な学校の必要性を説いている。

「書翰集」

実に様々な人物に当てた書簡が収められている。書簡といっても一種論文のようなものもある。それぞれの内容についてはここで紹介はできない。

「諸文集」

福沢は本当に多くの文章を書いたものだ。ここには未発表のものや完本にならなかった短文が集められている。その中で小生が注目したのが「農に告るの文」という短いエッセイだ。これまで福沢の文章を色々読んできて感じたことの一つは農業や農民についてあまり語っていない点だ。福沢は近代主義者で殖産興業論者だから当然と言えば当然だが、実は日本の近代史において農業の問題は極めて大きいのだが、そこを福沢がどう見ていたかというのが興味深かった。さてこの短文でまず小作人の江戸時代から変わらぬ貧しい現実を描いて同情を寄せている。しかし結語では貧しさから抜け出すには「一日も早く無学文盲の閂を破る可き」だとして、全くどうして構造的に農民が貧しいかなど疑問すら提示していない。ここに福沢の考え方の特徴が見えている。今でも見え隠れするが、貧しさは「自己責任」だという自己責任論みたいである。ここは今後福沢の思想を考える上での一つの問題である。ここではこれ以上触れることはできない。

おわりに

ここまで福沢諭吉の文章を読んできたが、ここには代表作の『学問のすゝめ』と『文明論之概略』が掲載されていない。それは他でも読めるし、有名だからということらしい。実際小生も別の全集(中央公論社「日本の名著」33)で読んでいる。また青空文庫でも多くの著作が電子化され、また作業中ということだ。福沢諭吉は日本の近代が生んだ大きな思想家であることに疑いはない。今後も多くの人に読んで貰いたい。この小生の拙い文章がそのきっかけになってくれればいいと思っている。

2025.11.20
この項 了

久々にPC更新の話題

部品

久しぶりにPCをいじった。これまでもHDDをSSDに変えたり、メモリーを増設したり、OSを変えたりしてきた。そうだ電源も変えたっけ。

しかし今回は根本的な改造だ。マザーボードとcpuを変えようというわけだ。これはマイクロソフトの陰謀に負けたということによる。つまり今使っているデスクトップのPCは実に根本は二十年前のものだから、Win11にはバージョンアップできないからだ。

ま、新しいPCを購入する手もあるのだけど、そこは昔とった杵柄ということで思いっきりcpuを変えてしまおうと思ったわけだ。しかもcpuをIntelからAMDに変えるという、ちょとした冒険だ。ということでこれが結構大変だった。

かなり腕が鈍っていたというか、歳をとってしまったからというか、結構単純なミスが重なって実に三日間を要してしまった。その顛末をここに記録しておこうと思う。PCを改造する初心者さんにはこの小生の失敗談が参考になるのかもしれない。

用意したのは写真の3点。マザーボード、cpu、メモリー8G2枚(すでに装着)しめて約26,000円アマゾンで購入。安いよね。
部品

まずは使っているPCを分解。電源とSSDは使う。
旧PCの中身旧PCの部品

新しいマザーボードにcpuとcpuファンを装着その他も全てつなぐ。
新PC内部

これで動けば、なんでもないのだが。ここからが大変なことに。順を追って振り返る。

  1. なんと電源が入らない。どうして?
    • 実はこのPCの電源の扱いは慎重にしなくてはいけない。もちろん分解は電源を切り、ケーブルも抜いて行うのは常識だからそうした。
      しかし、どうも放電し切れていなかったようだ。そこで前に電源を変えたときに購入した電源テスターを引っ張り出し、チェックをした。
      すると数回のチェックで通電した。
  2. しかし、モニターには何も表示されない。どうして?
    • そこでなんとPCを元に戻すということやった。そこで元のPCは動いたので電源は生きているのがわかった。
      そしてそこでわかったのがcpu補助電源を刺していなかったということだ。旧PCのマザーボードでは4個口、新PCは8個口なのだ。
      再び全てセットをし直すことに。これが全てを刺し直すのだから大変だ。
  3. やっと動き、bios画面が登場した。しかし、cpu fan エラーの表示が。どうして?
    • これが大変。cpu fanはcpu付属のものを使ったが、これが中々の代物で、バネ付きのネジがうまく止まらないのだ。これが原因と思い、悪戦苦闘した。ネット上の記事でもはめにくいことが書かれていた。それを参考にファン部分とヒートシンク部分を外し、マザーボードの裏にあるパネルを抑えてなんとかネジ留めした。ワンタッチでつけられるタイプのものもあるのでそれを購入して使うのがいいと思う。やっとしっかり装着できたようだ。それとこの過程で判明したのが、cpu fanのコードの差し込み口が違っていたことだ。なんということだ!
  4. それでもwindows10は起動しない。どうして?
    • これができないと本当に面倒なことになる。やはりマザーとcpuを変えると無理なのか?しかしBIOS画面で古いSSDは認識している。しかしBOOTできるデバイスはないと言われている。これは設定があった。認識されたSSDをBOOT可能としなければならなかったわけだ。やれやれこれでやっと見慣れた画面が現れた。

見慣れた元の画面!実はマザー・cpu・メモリーはすっかり代わっているのだけどね。これで「目論見」通りになりました。

 

いやいや大変でした。ここで反省点。わかったつもりでやるのではなく、一つひとつ慎重にマニュアルをしっかり読んでやることですね。歳を食ったなって感じが否めませんでした。今後は新しいBIOSについてしっかり学んで、その上でウィン11にUPします。間に合うかな?では。

日本近代文学総復習明治文学編7『明治翻訳文学集』を読む

はじめに(翻訳文学について)

翻訳文学は日本の文学界に大きなジャンルとして今も存在している。小生の書棚にもいくつかの翻訳小説が並んでいる。中でもこれは私的な趣味だが、レイモンド・チャンドラーの探偵小説、しかも村上春樹訳が好きだ。実は以前にも別の翻訳者のものも読んではいた。しかし村上春樹の訳が出てからはもっぱらそちらを好んで読んできた。いわば同じ原作者の作品でも訳者によって違った印象になるのが翻訳文学の特徴だと言える。

さて、ここはその翻訳文学の嚆矢、明治時代の翻訳文学のいくつかの作品が取り上げられている。明治時代は海外、それも西洋の文物が多く入ってきた時代である。小説だけではなく多くの哲学書などが入ってきて、それを翻訳したり、内容を紹介してきたことはこれまでもみてきた通りだ。今回はその中で小説が取り上げられているわけだ。これはほんの一端に過ぎないだろうが、その時代の翻訳文学の姿を見ることとなる。

『歐洲奇事花柳春話』丹羽純一郎譯

ロウド・リットン(正確にはEdward Bulwer-Lyton)というイギリスの作家の小説「Ernest Maltravers」と「Alice」の抄訳、というか翻案・創作に近いようだ。この原作については全く知らないので、どこまで翻訳でどこまでが創作はわからない。

内容は一人の才子と数人の女性をめぐる話で、立身出世を望む青年が長い遍歴の中で様々な立場の女性と触れ合うが、結局は最初に恋に落ちた女性に再びたどり着く、といったいわば典型的な恋愛譚である。訳者の丹羽純一郎はイギリスから帰朝した法学士だが、帰朝の途次これを手遊びで翻訳したという。ただ、そこには明治初期にいわば「青雲の志」を持っていたであろう訳者の思想が反映していたに違いない。そしてそれが話の中心たる西欧的な男女関係への関心とともに当時の多くの教養ある青年たちの心を掴んだのかもしれない。

しかも題名にあるごとく旧時代的な文体で書かれていたこともそうした青年たちに受けたのかもしれない。この題名「花柳春話」とはいかにも江戸時代の人情本を思い浮かべさせるが、その文体は漢文訓読体である。この当時のこうした書の読者の多くは皆漢文の教育を受けた者たちだからだ。

さてこの書、「題言」をかの成島柳北が書いている。その趣旨は「情史(恋愛譚)など不要だと考える」学士に対しての反駁である。これまた柳北一流の反語的漢文で書かれている。これを読むとこの書の当時の意味合いというのが分かる気がする。

また、翻訳として面白いのは「one kiss」を「朱唇を一甞する」と訳しているところだ。訳には相当苦労したに違いない。

さらにこのリットンという人物が一面新進気鋭の政治家であったということもこの時期の日本において訳を出すに適していたのかもしれない。前回見た東海散士もこの書に影響されたということだ。

『開卷驚奇龍動鬼談』井上勤譯

これも同じくリットンの作品の翻訳。原題は「The Haunted and the Haunters : or The House and the Brain」というらしい(一柳廣孝氏「西洋魔術の到来」による)。直訳すれば、「幽霊と幽霊屋敷:あるいは家と脳」ということになる。つまりは怪異譚なのだが、その前半の幽霊屋敷の部分を訳したものだ。

内容は以下だ。

主人公である語り手(余)は友人からロンドンの市中で幽霊屋敷を見つけた話を聞いて好奇心に駆られ、従僕Fと愛犬を伴って探訪する。J氏が所有し老婆が管理する不気味な屋敷は長く借り手が付かなくなっている。そこでさまざまな怪異現象に見舞われ独り取り残されながらも、迷信や恐怖心を退け超自然を科学的に解釈しようとする主人公。最後に二階の空き部屋の床下に秘められた細密肖像画と呪術の装置を突き止め、その部屋を取り壊すことで屋敷の憑き物は落とされる。 (野口哲也氏「井上勤の初期翻訳への一視角ー『龍動鬼談』論」による)

ここで興味深いのはこうした怪異をあるものとして描き、それをいわば科学的に解明するという姿勢だ。日本にもこうした怪異譚は古くからあるが、この姿勢はない。序文で、この訳者の父親がかつてシーボルトに天狗の怪異を話したところ嘲られたことをあげ、「西洋にだってあるじゃないか」といっているのが面白い。しかし、日本の古来からの怪異譚とこの怪異譚は様相が全く違うといっていいい。西洋のそれはもっと心理的だし、分析する姿勢が違うのだ。ただ、この翻訳が後に明治期の「こっくりさん」の流行や催眠術や魔術の流行とも関係したようで、その点は注目するに値するとは言える。

さて、役者の井上勤はその後も精力的に翻訳を行なったようだ。トマス・モアの「ユートピア」、「アラビアンナイト」、シェークスピアの「ヴェニスの商人」、「ロビンソンクルーソー」などである。

『西洋怪談黒猫・ルーモルグの人殺し』饗庭篁村譯

これはエドガー・アラン・ポーの「黒猫」(「The Black Cat」)と「モルグ街の殺人」(「The Murders in the Rue Morgue」)の古い翻訳だ。この二作はいずれも短編だが、今でも多く読まれているいわば推理小説の部類に入る翻訳本だ。内容はことさら言うまでもないが、「黒猫」は一種の怪奇小説と言ってよく、「モルグ街の殺人」は謎解きのある密室事件の推理小説だ。

ただこの翻訳、実はあまり英語ができない饗庭篁村と言う人物が行なっているというのが味噌だ。実はこの饗庭篁村と言う人物は旧時代の文学者といっていい人物である。では、話を聞いて適当に翻案したのかというと、実はかなり原文と合っている。これはこの翻訳と現在の翻訳を比較してみても分かることだが、此処には当時英語のできる坪内逍遥や小野梓、そして早稲田のその教え子たちの協力があったと言うことだ。それにしても大作家でもなく、どちらかというとマイナーな詩人といった印象のポーをこの時代に見出したのは後の推理小説翻訳ブームの先駆けであったことに間違いはない。

『小説罪と罰』内田魯庵譯

これは言わずと知れたドストエフスキーの長編小説の日本での初めての翻訳。ただし英語翻訳の二重訳で前半の第三篇までの部分訳ということだ(全篇は六篇とエピローグの全七篇)。

その後、この小説はさまざまな訳者によって翻訳され、知的青年のいわば必読書のように言われてきた。しかしその大半の青年読者は途中で放棄することでも有名な小説だ。かく言う小生もその一人だったが、何しろ長いのと登場人物名のわかりにくさ、そしてその人物たちの長口舌にうんざりするところがあって、茶漬けを好む日本人には辛い小説である。(その後なんとか米川正夫氏の翻訳で青空文庫に掲載されたものをKindle化して読んだ。どういうわけか電子ブック化するとスーと読める。)

だが、この翻訳、当時はかなりの反響があったようだ。北村透谷が当時としてはこの小説の本質を的確に捉えた読みを示しているし、その影響から島崎藤村が『破戒』という小説に生かしたと言うことだ。

さて、この小説の内容だが、端的に言えば強盗殺人事件を犯した青年の精神の物語ということになる。大学を学費未納で除籍されて窮乏生活を送る知的青年が、何度か金銭を借りた金貸の因業な老婆を計画的に殺す。ただ、その時偶然にその老婆の義理の妹まで殺してしまう。悪名高い高利貸し老婆を殺害するのは思想的に「善」だとしていたが、義理の妹の殺人によって精神に異常を来すようになってしまう。その後さまざまな偶然から逮捕を免れるのだが、その間友人との関係、家族との軋轢等が描かれていく。そして後半重要な役割を果たす、ソーニャという女性や判事のポルフィーリィとの出会いが描かれる。ここまでが第三篇までであり、この翻訳の全部である。

ところで、部分的とはいえ、この青年の精神の物語が当時の日本の文学界にあっては極めて新鮮だったようだ。これほど人物の内奥を描き、その発言を的確に描いた作品は日本にはなかったからだ。その文体もかなり言文一致体に近づいているようにも思う。それは元の作品が登場人物の長口舌を描いていることにもよるが、口語をうまく使って翻訳しているからかもしれない。実は翻訳に二葉亭四迷が協力したことにもよるらしいが、こうした文体に対しても当時の反響の大きさが窺える。

『椿姫』長田秋涛譯

これはオペラで有名な作品。しかしここはアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が書いた長編小説。原題は「La Dame aux camélias」という。直訳すれば「椿の花の貴婦人」ということになる。このカメリアすなわち椿は、実は日本原産で東洋にしかない花で、当時ヨーロッパに齎らされて、パリで評判になった花だということも念頭に置いておくといいかもしれない。ヨーロッパでは豪華な「薔薇」がなんといっても貴婦人を象徴するはずだが、椿は「薔薇」よりやや可憐な感じだ。この物語の主人公の女性を象徴しているわけだが、この翻訳では露子という女性はいわば「高級娼婦」ながら、そうした誠実さと可憐さを持った女性として描かれている。

さて、物語は恋愛譚のよくあるパターンである。これはオペラでも同じ。おぼっちゃま青年が高級娼婦である美女に本当に惚れてしまい、美女もその誠実さに絆され、付き合うようになる。しかしこの青年の父がこれを憂い、二人の中を割く企てをする。青年の将来を思ってそれを受け入れ、美女が元の娼婦の生活に戻る。そのことを裏切りと思った青年が旅に出る。しかし、美女はその後心身ともに疲れはてて死んでしまう。そして青年はその美女が実は自分のことを思って身を引いたことを知って愕然とする。というお話だ。

ただ、この原作はこの美女(翻訳では露子)が死んで、その家や家財が競売にかけられたところから始まる。このシーンは当時の高級娼婦の生活がいかに豪華で贅沢なものだったか(しかし儚いものか)を象徴している。そしてこの競売で、ある書籍を作者が手に入れて、それを探していた主人公の青年(翻訳では有馬寿太郎)に渡すところから始まる。そしてこの青年がこの死んだ美女(翻訳では露子)との経緯を語るという形で物語が展開していく。その物語の内容は先に示した通りだ。

オペラについては有名だが、寡聞にして観たことが無いのでなんとも言えないが、ここに登場する二人はいわゆる「才子佳人」の類である。特に女性はいわゆる「娼婦」とは思えない純情誠実な女性でとして登場しているようだ。この「才子佳人」は日本の物語でも描かれるが、ただこの小説の方はそうには違いないが、やや現実的に描かれているように思う。決して類型的な人物像では無い気がする。翻訳とはいえ日本名で登場するので日本のこうした展開の物語にあるような人物と思われがちだが、この当時のこうした物語とは雰囲気がかなり違った感じがする。これは文体にもよるのかもしれない。文中会話文が多いことも、やや言文一致的であるからかもしれない。

さて、訳者の長田秋涛について触れておく。父の影響で早くからフランス語に親しんだようで、パリにも留学し、結構贅沢なパリ生活を送ったようだ。しかも同じく留学していた宮様の取り巻きとして当時の社交界にも出入りしていたようだ。それがこの翻訳にも生かされているという。(高橋邦太郎「秋涛と『椿姫』」明治文学全集月報)

おわりに

今回はなんとか半月で終わるつもりだったか、ここ一週間出かけてしまったのでやや遅れてしまった。今回もなかなか読みにくかったが、翻訳ということで言文一致に近くなった作品もあって少しそれは薄らいだ感がした。今後はもっと読みやすくなるのではと思っている。この文体の変化ということもこの近代文学の歴史の重要な要素なので、今後もこの点にも注意していこうと思う。

参考文献

以下の書籍を参考にしたことをここに記しておく。なお、ここでは一々触れなが、ネット上の研究論文など諸情報も参考にしたことを断っておく。

  • 『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 ー北村透谷から島崎藤村へ』高橋誠一郎 成文社 2019.2.27
  • 『文学と魔術の饗宴』 斎藤英喜編 小鳥遊書房 2024.9.30
  • 『「色」と「愛」の比較文化史』 佐伯順子 岩波書店 1998.1.27
  • 「国文学論考 第50号」都留文科大学国語国文学会 平成26年3月15日

2025.10.22
この項 了

日本近代文学総復習明治文学編6『明治政治小説集(二)』を読む

明治政治小説集の二回目。

東海散士篇『佳人之奇遇』(抄)

いきなり苦労させられた。読みにくいことこの上ない!実は以前の古典文学を読んだときには感じなかった読みにくさだ。したがってこれから書くのは全て読了した上でのことでないことを断っておく。とてもじゃないが、全て読了するには数ヶ月を要してしまうだろう。と、まず言い訳をしているわけだが、この読みにくさの原因はその文章そのものと、表記というかこの全集の版組にもある。まず文章だが、この『佳人之奇遇』は所謂漢文訓読体だ。以下に例を示す(写真)。

この作品は高々140年前に出版されたものだが、現代の文章と大きく隔っているのが分かる。しかもこの組版だ(写真は下段部分)。この全集は当時の表記をなるべく伝える目的のためか、また多くの作品を収めるためか、そうしているのだろうが、この行間のなさとカタカナや傍点、ルビなどが読みにくくしている(岩波の古典大系明治編は大分読みやすくしているが)。しかし、この作品は当時大ベストセラーだったようなのだ。「え、どれぐらいの人がこれをすらすら読めたの?」って思うが、ここに日本の近代の変化の急激さを感じざるを得ない。本当はこの作品、現代でも読むに堪える内容を持っているし、日本の近代史を考える上で読むべき著作の一つなのだけれど、残念でならない。

さて、こんなことばかり言っていても始まらない。数名の研究者たちの論文に助けられながらこの書について書いていくことにする。

その梗概

この書は長編である。全八編巻一六まである。ここは(抄)とあるように、五編の巻十までを収める。もっともその発行や内容が巻によって大きく異なる。初編は明治18年に刊行、その後明治21年までに四編まで刊行され、その三年後、国会開設の後に五編が、さらに日清戦争後の明治24年に六編から八編まで刊行されたというからだ。その内容もそれぞれで違ってきている。一部には「過去の傑作が、その名声の尾について 蛇足的に続いた」とみるむきもあるようだが、やはりここに収められている部分がこの書の一番の面目と言える。

さてその内容だが、題名にあるように主人公が留学地アメリカで二人の佳人に出会うことから物語が始まる。そしてこの二人の佳人が小国の亡命者であることから自身の境遇と同様であることを感じ、同情する中でさまざまな事件というか国外の事情が描かれていく。美女紅蓮のアイルランド、貴女幽蘭のスペイン、さらにコシュートのハンガリー、そしてポーランドさらにはイタリアの統一、エジプトの独立運動、アフリカの独立国の指導者まで登場する。どこからこの作者がネタを仕入れたが不明だが、かなり世界中の独立運動についての知識が豊富であったが窺える。いわば世界の独立運動史といった側面もある小説である。

その作者

さてこの作者だが、「東海散士」とはこの小説の主人公であり、日本の浪人といった意味の言葉で、勿論本名ではない。作者は柴四朗という会津藩の遺臣である。この会津藩の遺臣というところにすでにこの小説の骨子がうかがえる。自分を此処に登場する小国の亡命者に準えているのだ。勿論自分を亡国者にしたのは薩長の維新政府である。そしてこの小説に登場する小国の亡命者を産んだのはその維新政府が最も敬愛する英国である。特に英国人のアジア・アフリカ人に対する非道ぶりを憤りを持って描いているのは、英国と維新政府が重なっているからだと思える。

ただ注意したいのは、後半では朝鮮半島をめぐる議論や日清戦争後の三国干渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになっていった点である。勿論朝鮮や清もまた英国の支配下に置かれようとしていた意味では日本と同様である。しかし本編のヨーロッパやアフリカの小国に対する筆致と朝鮮というやはり小国に対する考えが微妙に違っている気がする。作者柴四朗は当時の朝鮮の独立運動にもかなり肩入れしていたようだ。この辺りはこの小説を離れて、当時の日本のアジア観の問題になるのでそれ自体興味深いが、作者柴四朗が後に国権主義的なナショナリズムに傾倒したのも頷ける気がする。

まとめ

しかし、それにしてもこの作品は当時としてはその舞台といい、登場人物といい、物珍しさも際立った作品であったことは間違いない。しかもそれが漢文訓読体というその当時の知識人には当たり前な文体で書かれていたこともベストセラーになった所以のものだったと言える。今から見るとその文章は古臭く、滑稽な点もあるが(例えば登場人物たちが高昌するマルセイエーズがなんと漢詩!)、当時としてはその政治的な表明と相まって多くの若者に受け入られたことは間違いないようだ。

末廣鐡膓篇『政治小説雪中梅』『政事小説花間鴬』『政治小説南洋の大波瀾』

今度は前回と違って比較的容易に読める。段組みは相変わらずだが、文体が比較的現代に近くなっている気がするし、会話部分も多く、内容もわかりやすい。まずは画像を見て欲しい。

この作品の初めの部分。この小説のヒロイン「富永お春」が病床の母親と交わす会話が書かれている。まだ「小女」となっているのが「お春」である。

その梗概

さて、この話、政治小説と自らうたっているが、やや人情本的である。それはこの最初に登場する「小女」と主人公で政治活動家の国野基という人物との絡みが中心になっているからだ。勿論背景には当時の自由民権運動熱があるし、主人公が投獄されると言った場面もあるが、別段政治的な主張が全面に出ているとは言えない。しかも、最後に結ばれるこの「小女」(お春)と主人公国野基が実は許嫁だったという展開はいかにもである。

さてその梗概は中村光夫氏の『明治文学史』からの引用で間に合わせることする。(というか、こんなに上手くまとめられない。)

(前略)「雪中梅」の筋書を述べると、主人公の青年志士国野基は、正義社にぞくし、政談演説会で雄弁をふるって大きな成功をおさめましたが、貧しいため下宿料の支払いにも困り投獄されるが、そのために、彼の窮地を救い、あるいは励ましてくれた少女富永お春と恋仲になり、お春の財産に目をつけた彼女の叔父夫婦が正義社の領袖である悪人川岸萍水にお春をめあわそうとする陰謀を破って、結婚の約束をすると、偶然にふたりはお春の父親のきめた許婚であったことが判明するという筋です。

さて、この「雪中梅」の続編が『政事小説花間鴬』。この題名については柳田泉の解説がいい。以下だ。

これが正に、雪中寒凝の虐をしのんだ梅樹が、今や時に逢うて花咲き、日暖かに、枝々の間をわたる鶯聲の和らぎが人の心を豊かに慰めるというこの作の題目の意味するところである。

要するにハッピーエンド。無事結婚した国野とお春はその後信念に従って行動するが、幾多の艱難辛苦に出合う。しかし、お春の健気な援助によって最後は思い通りに民間党大団結論を果たし、官民協和論が多くの賛同を得て、選挙で大勝利を収めるという話。その途中の艱難辛苦の内容は保守派の川岸という人物と過激派の武田という人物をめぐって起きる。いわば右と左の引っ張り合いということで、その中で主人公はいわば中間派ということになるが、そこがこの小説の政治的アピールということになるのかもしれない。ただ、ここでもお春という女性の役割が大きく描かれているのが、特徴的だ。

『政治小説南洋の大波瀾』

さて、もう一つ『政治小説南洋の大波瀾』に触れなくてはならない。

これは舞台がフィリピンという変わった小説。いわばスペインに支配されていたフィリピンの独立運動の話。作者末廣鐡膓はフィリピンの国祖というべきホセ・リサール博士という人物とアメリカ行きの船中で知り合ったという。そこでスペイン支配のフィリピンの実情を詳しく知り、なおかつヨーロッパの南方進出の野望を憂いて、日本の立場も同時に憂い、この作をものしたようだ。しかも当時日本にはやはり南方進出の意向もあり、それはヨーロッパと違っているというメッセージも含まれていたようだ。また当時、フィリッピン人の大半は日本士人の子孫であるとされていたようで、そのこともこの小説の内容に影響しているようだ。ここに朝鮮に対する東海散士の考えと同じように、当時の独立を果たしていないアジアの隣国に対する知識人の考えが窺える。それは後の大東亜共栄圏構想というナショナリズムに勿論通じるだろうが、その行き着く先は知る由もなかったのは仕方のないことである。

作者について

ここで作者末廣鐡膓について触れておきたい。彼は宇和島の出身。初め官吏となったようだが、自由民権運動の高まりのなか上京し新聞記者となり、政治運動に関わるようになったようだ。この点は「雪中梅」や「花間鴬」の主人公そのものだが、特に彼を有名にしたのが、朝野新聞の成島柳北とともに筆禍で投獄されたことだったようだ。当時の讒謗律、新聞紙条例の初回の逮捕者だった。その後、朝野新聞の社長となり、国会議員ともなっている。その政治的スタンスは自由党でもなく、立憲改進党でもなく、勿論過激派でもない穏健な独自路線にあったようだ。この辺りも小説に表れている通りだ。明治29年、現職議員のまま、舌癌で亡くなったという。

小宮山天香篇『冒嶮企業聯島大王』

最後になった。この作品はこれまでとは違い、それほど政治的なものではない。「企業」という言葉があるように、南方進出を図る企業家の冒険譚といった趣だ。「改進新聞」に連載された作品。主人公大東一郎は水兵上がりの船乗り。沈没の汽船を引き上げ、修理して南洋諸島に無人島の開発に出かけるというお話。英国人や中国人、そして日本人の乗組員たちが繰り広げる冒険が面白おかしく語られている。連載当時、いわゆる国権伸長のために南進論があったようだが、その風潮に乗ってよく読まれたようだ。「ロビンソン・クルーソー」の話もこの当時翻訳され読まれていたようだから、そういう意味でも評判になったようだ。ただ、この作者が大阪で新聞記者をしていたこともあって、中央すなわち東京においては今ひとつだったためか、文学史にはあまり登場しなかった作品だ。作者についても水戸藩の出身で、新聞記者を長く勤め、立憲政党に近かったぐらいのことしかわからない。ただ、前にあった「南洋の大波瀾」同様、当時の南洋進出のナショナリズムについて考える上でやはり重要な作品とは言える。

おわりに

これでなんとか六回目を終えることができた。相変わらず読みにくい文章が続くが、実はこれらの作品と同時期に坪内逍遥の新文学が登場している。これは内容ばかりでなく、その文章も大きく変わっているはずだ。それを楽しみに少しペースを上げていきたいと思っている。

2025.09.24

この項 了

日本近代文学総復習明治文学編5『明治政治小説集(一)』を読む

はじめに

実に一ヶ月以上ぶりである。前の総復習明治文学編4をブログに発表したのが、7月15日だった。その間なんとか読み進もうと何度かはページをめくっていたのだが、孫たちが夏休みに入るとつい先週までずっと一緒にいて、何度か遠方に出かけたりして、全く手につかなかった。まさに夏休みだったのだ。まだまだ暑さは残っているが、やっと孤独な時間ができたので、取り組むことにした。

さて、言い訳はこのぐらいにして、今回取り組むのは明治の「政治小説」だ。「明治の」と言ったが、他の時代にはないものだ。しかも明治「初期」特有のものだ。(いや、現代にもないことはないと言われるかもしれない。政治家が主人公の小説や総理大臣を扱った小説などだ。ネットを検索すると以下の現代の作品が出てくる。池井戸潤『民王』・原田マハ『総理の夫』・逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』・中山七里『総理にされた男』・真山仁『プリンス』などだ。)

しかし、ここで扱う「政治小説」は明らかにこれらとは異なる。明治維新後民権運動が高まり、国会開設運動や反政府運動を背景に描かれたこの時期特有のジャンルとしての「政治小説」である。

さて、(一)では以下の小説を紹介する。
戸田欽堂篇『民權演義情海波瀾』
桜田百衛篇『佛國革命起源西の洋血潮の暴風』
宮崎夢柳篇『佛蘭西革命記自由の凱歌(抄)』『虚無黨實傳記鬼啾啾』
坂崎紫瀾篇『天下無雙人傑海南第一傳奇汗血千里駒』
小室信介篇『自由艶舌女文章』
須藤南翠篇『處世寫眞緑簑談』
ではざっとその内容を見ていこう。

戸田欽堂篇『民權演義情海波瀾』

この作品は政治小説の「初め」の作品と言われている。明治13年の作。初めから単行本だったという。作者戸田欽堂は妾腹とは言え大垣藩主の子、維新後は父は大名だから華族ということになり、いわば華族の子が自由民権思想の小説を書いたわけだ。ただ、この小説は極めて概念的で、しかも小冊子だ。「情海」とは「政界」の謂だ。そこに「魁屋阿権(さきがけやおけん)」という芸者が登場、それを「和国屋民次(わこくやみんじ)」「国府正文(こくふまさふみ)」という男が争うという話。「阿権」は「権利」を、「民次」は「民衆」を、「国府」は「政府」の謂だ。そして、「国府」が譲る形で「阿権」と「民次」が夫婦になるという結末。要するになんとも穏和な政治小説ということになる。作者は華族の子ということもあって、維新後ヨーロッパに留学し、新知識を得て、さらにはキリスト教に帰依したらしいが、いかにもその出自に相応しい内容ということになる。しかし、こうした立場の若者も当時はこうした思想に親しんだという点が注目される。

また、冒頭にこの書を成島柳北に読んでもらい校閲を願ったことが語られ、ただ、柳北の病気のため叶わなかった点、また多少文章が硬いとの指摘を受けて改めたかったが、書肆の都合でこれも叶わなかった点に触れているところが注目される。

桜田百衛篇『佛國革命起源西の洋血潮の暴風』

これは一種の「翻訳小説」と言える。ただ、自由党の機関紙「自由新聞」に連載され、フランス革命を例に日本においての自由民権運動を鼓舞する形に書かれている点からやはり「政治小説」と言えそうだ。元本はフランスのアレキサンドル・ヂュマの『一医師の回想』という長編小説だという。この小説は主人公の成長をフランス革命を背景にして綴ったもののようだが、むしろ作者はフランス革命を成し遂げた人物を描きたかったようだ。作者は序文で次のように言っている。

(前略)志季島の大和文に書変し、名称をもとり換て、其概略を顕はすものは、吾邦方今の時世に照して専々有益と信へばなり。読者もその心して、文字の蕪陋を咎むるなく、辛苦の中に勇ましくも革命なせし外国人の有様を鑑がみて、自己の権理を復し給はば、訳者の慶幸これに過ず。(筆者電子化。一部仮名遣い、漢字等改めている。)

要するにこの小説を読んで自分たちの権利の主張をしっかりして欲しいと言っている。ただ、この翻訳第十八章まで行って未完となってしまった。

作者桜田百衛は岡山備前の人、東京外国語学校に学び。中村敬宇の門を叩き、早くから自由民権運動に参加したという。そして自由党内においては優秀なオルガナイザーとして活躍、あの車界運動も彼が組織したという。ただ、病に倒れ25歳という若さで亡くなったという。

宮崎夢柳篇『佛蘭西革命記自由の凱歌(抄)』

この作品『自由の凱歌』は前記のいわば続編。作者は直接前記の作者とは面識はなかったようだが、同じ「自由新聞」に入って、いわば未完に終わったヂュマの『一医師の回想』の続編を書いたわけだ。ただ、続編と言っても正確に続編ではなく、一気に「バスチイユの奪取」まで飛んで、そこを五十五回に亘って連載した。その評判はすこぶる良かったという。

宮崎夢柳篇『虚無黨實傳記鬼啾啾』

その後、翻訳(というか翻案)するに適したいい本がなかったというが、たまたま「地底の秘密」という「魯国虚無党の形情を記せし一書を得たり」(「鬼啾啾」緒言から)ということで書かれたのがこの作品だ。

内容はロシヤのテロリストたちの物語という体裁で、そこに当時のロシアの現状を描いている。ただ、その描き方は劇的で基本文章は漢文的なのだが、よくその内容が伝わるものだ。また、テロリストとして登場するのが、男性だけでなく、年端もいかない少女といった人物造形も巧みである。この話が実話なのかどうかはわからないが、ともかくロシヤの専制政治の酷さ、官吏たちの横暴、農民たちの貧窮と言った現状がよくわかり、これが当時の明治政府のあり方に投影されると考えていたのかもしれない。とにかくこの宮崎夢柳という人物はかなりの筆力のある文章家であったことは間違いない。この作品は明治17年12月から翌年4月にかけて新聞「自由灯」に連載され、これまた評判になったようだ。

また実は、この作品は電子ブックになっていて、比較的容易く読めるのがいい。こうした仕事が増えることを望んでやまない。

坂崎紫瀾篇『天下無雙人傑海南第一傳奇汗血千里駒』

この小説は坂本龍馬を主人公にした伝記小説と言われている。1883年(明治16年)に「土陽新聞」に連載されたという。その後一冊として出版されたらしいが、ここはその連載をそのまま載せている。実に65回にわたる連載だ(ただ、新聞の連載だから1回分は決して多くはないが)。

さて、内容だが、主人公は坂本龍馬ということだが、どちらかというと土佐を舞台にした維新史といった趣だ。いわば土佐勤王党の歴史といったところか。土佐勤王党の活動を「下士(郷士)による封建制度への抵抗」とし、それを、現下の藩閥政府に対抗する自由民権運動が再現しているとみなしたかったのかもしれない。この作者坂崎紫瀾は土佐のドン板垣退助を師とした人物であり、当時板垣退助が新政府(藩閥政府)に懐柔されそうになっていたこともこの作になんらかの影響があったかもしれない。

小室信介篇『自由艶舌女文章』

自由党の機関紙「自由新聞」の後続誌「自由灯」の創刊号から五八号まで47回に亘って掲載された小説。題名にある通り中心人物が全て女性である点が注目される。

内容は第一回から十一回までは抱えの芸妓「小民」をめぐる話。これをとりまきの養母お勘、金持髯大尽 、新貝熊次、箱屋の戌吉といった人物がその「小民」を束縛するという展開。

十二回から三十五回までは複雑な「お信」の身の上話。お力、お金、智次らの同志を得るという展開。その後、最後の四十七回まではこうしたお信らの助力によって「小民」が自由の身になるという設定である。

ここで設定されている人物たちはそれぞれの寓意であることはこの時期の政治小説にありがちな設定だ。「小民」はもちろん「国民」、「お勘」は「官権」、「金持髯大尽」は「政府高官」、「箱屋の戌吉」は「警察」を寓意している。また後半の「お力、お金、智次」は志士的民権家、すなわち当時の自由党の寓意ということになる。

この小説は題名や登場人物から女権伸長の主張を展開したと考えられるが、決してそうした部分は表面的には存在しない。ただ、こうした設定の背景には当時ようやく登場した女性民権家の姿があったのかもしれない。

作者小室信介は自由党の中では「国権論者」と言われたようだ。これはアジアの独立といった後のイデオロギーにも通ずる点があるようだが、「国権」の伸長には、まず人民の自立が不可欠だとする考え方のようだ。当時の自由党にはさまざまな要素があったわけだ。

また、彼は板垣退助が撃たれた時、その場に居合せ、あの有名なセリフ「板垣死すとも自由は死せず」を書いた人物だとされているらしい。

須藤南翠篇『處世寫眞緑簑談』

作者須藤南翠は本格的なこの時期の小説家である。これまで見てきた作品の作者とはかなり趣を異にしている。ここの作品の他多くの小説を残しているからだ。しかもこの『處世寫眞緑簑談』はこの集の中でも3分の一を占める長編である。しかしやはり政治小説の一つであることに変わりはない。ただ、これまではどちらかというと自由党系の作家が多かったが、この須藤南翠は改進党系の作家である。改進党は自由党以上に地方自治の重要性を説いてきたが、この小説もはっきりその地方自治の意義を説いたものとしている。

その凡例に以下の文言がある。

(前略)近時地方困憊の情愈々切迫して殆ど救済すべからざるの傾向を現ぜしに際し、地方分権の期愈々迫るを見る。予亦た此に感なき能ハざれバ、筐底を探りて聊か之れを補修し、遂に私論を小説に假りて説くに至れり。(筆者電子化。一部仮名遣い、漢字等改めている。)

その要約は以下である。ここは吉武好孝氏の論文「政治小説の意味するものー末広鉄腸と須藤南翠を中心に」を利用させてもらう。

その筋はこうである。「毎日電報」の主筆山田文治と弁護士中島博智とは地方自治を目ざす「政 社」を設立し中央集権の弊をなくしようという運動を起す。これに共鳴した越後生れの越山卓一は中島のもとで学問に励んでいるうちに、ひそかに中島の妹お今と相思の間柄になる。父の入獄を知った彼は郷里の越後に帰り、山田に励まされ困苦に耐え労働と勉学につとめ、傍ら地方自治の精神を鼓吹し婦人矯風会をつくるところまで進んでゆく。その間に、「専制的な大臣の春川伯爵が戸長を通じて村民分け持ちの美田を収奪しようとするのに反対して勝利をおさめる」、という挿話がふくまれている。しかも、それを彩る話として、 春川の娘艶子が父の政敵である中島博智に恋して父に許されず、失恋して修道院の尼になるつもりで単身イタリーに逃避しようと決心するが、結局、春川と中島の政見が妥協に傾いて二人の恋は、父春川から許されることになる、といったような恋物語がからんでいる。そのほか、 戸長の息子の森村権一郎が越山の妹お雪に横恋慕する話もその一つの挿話として活かされている。そのほかに、この小説の後編には、当時外交上のもつれが日本とスペインの間にあって、議会でその議論が沸騰した事情や、新聞社襲撃事件、隅田川のボートレースの華やかな場面などが描かれて多彩な物語を形づくっている。

こう見てくるとやはりこの小説も当時の政治小説のパターンの一つで、世の現状とそれに対する政治的な関わりを物語として大衆にアピールするという形である。それだけに現代の小説観からするともう一つ不満足だが、それでもこの小説は他のこの時期のこれまで見てきた小説より現実描写が巧みであるような気がした。

終わりに

なんとか今月中に終わることができた。このペースだとほんとに月一なのでまずい気がしている。何せ99冊あるわけだから、年間12冊で8年で96冊だと8年以上かかってしまう。終わるのが八十歳を過ぎてしまうのだ。いけるだろうかという不安が強い。これはこの全集が極めて読みにくいことにもよっている。実は今回紹介した電子ブック化されている本文は同じ本文だが実に読みやすいのだ。なんとかなないものか。そんな実現不可能なことを考えてしまうのも暑さのせいかもしれない。ま、頑張りまっせ。

2025.08.31

この項 了

日本近代文学総復習明治文学編4『成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集』を読む。

成島柳北

成島柳北は小生が古くから親しんできたということで、これまでも幾つかその文章について触れてきている。「柳橋新誌」は三度にわたってブログに書いてきた。また「柳北奇文」についても10回にわたって書いてきている。そこでその二著については今回はそのURLを示しておくにとどめておく。以下だ。

  • 成島柳北「柳橋新誌」初編を読む(1)・ 2・3
    • https://ogu-tec.net/wp/japan_classical_literature/ryuhoku2
    • https://ogu-tec.net/wp/japan_classical_literature/ryuhoku21
    • https://ogu-tec.net/wp/japan_classical_literature/ryuhoku3
  • 『日本古典文学総復習』100『江戸繁晶記・柳橋新誌』
    • https://ogu-tec.net/wp/japan_classical_literature/『日本古典文学総復習』100『江戸繁晶記・柳橋新誌』
  • 成島柳北「柳北奇文」を読む1から10
    • https://ogu-tec.net/wp/japan_classical_literature/成島柳北「柳北奇文」を読む1
    • https://ogu-tec.net/wp/japan_classical_literature/成島柳北「柳北奇文」を読む10

さて今回はこれまで詳細に触れなかった「紀行文」と言える諸作について触れておくことにする。

航薇日記・熱海文薮・鴨東新誌(京猫一斑)・航西日乘についてだ。

「航薇日記」

まずはこの書。「花月新誌」82号から117号(明治12年9月28日から14年11月20日)に連載されたものだが、この旅行そのものは明治2年に行われた。この年は柳北にとっては江戸幕府が倒れ、自身は隠居届を出した年である。しかもこの旅から帰ったのちに家督を譲った養子信包が死去している。柳北にとって特別な年であった。以下内容を見ていく。

初めは公表するつもりはなかったようだが、これは本格的な紀行文と言える。「航薇」の「薇」は「備中」「備前」の「備」のことで、現在の岡山県周辺のこと。すなわちこの紀行文は明治2年の岡山を中心に関西方面の旅の日記である。以下にその行程を示す。

  • 10月14日~17日 横浜 戸川成齋の一行と合流
  • 10月17日~19日 (船中) 午後 米国のオレゴニアン号に乗船
  • 10月19日~22日 大阪 松島・新町・道頓堀
  • 10月22日~24日 (船中) 瀬戸内海航行
  • 10月24日~ 妹尾 (戸川家の領地) 岡山城下 高松稲荷 吉備津宮
  • (11月4日) 25日岸田冠堂と出会う
  • 11月4日~5日 田の口 成齎等と妹尾を立つ 四宮麗岐守の子孫である貞蔵と出会う 瑜伽権現
  • 11月5日~6日 (船中) 激しい風の中での船出
  • 11月6日~7日 琴平 金刀比羅宮
  • 11月7日~8日 瑜伽 瑜伽権現
  • 11月8日~12日 妹尾 小川で釣りを楽しむ 冠堂と語り合う 11日亡父の命日
  • 11月12日~14日 児島 妹尾を発って船に乗る 戸川家の人々及び冠堂 も同行
  • 11月14日~15日 (船中) 小豆島へ向かう
  • 11月15日~16日 小豆島 寒霞渓 冠堂と対句を詠む
  • 11月16日~17日 (船中) 冠堂と別れて乗船
  • 11月17日~18日 兵庫 新町 福島三天神
  • 11月18日~24日 大阪 住吉明神
  • 11月24日~25日 兵庫 楠正成墓
  • 11月25日~27日 (船中) 26日紀州大島周辺通過
  • 11月27日~28日 横浜 12時頃横浜帰着

この旅の発端は義兄である戸川成齋が戸川家の領地である妹尾に降るのに同行するように求められたためだという。それまで柳北は西国を知らず、ぜひ「京阪」に「一遊」したいと考えていたところだったのでその誘いに乗ったという。

さて、その旅の実態だが、実に優雅な、しかし時には不天候に襲われたこともあるものの、贅沢な旅であったようだ。これまで柳北が目にしなかったような自然、人物、風習を実によく観察し、書き留めている。そればかりか、ほとんどの地で芸妓を招き、酒を酌み交わしている。これも柳北ならではだが、概ね満足していたようだ。時には不潔な家にいなければならないこともあったり、満足いかない芸妓に出会ったりしたものの、ここに批判的な言動はほとんどなかった気がする。また食べ物にも注目して書いているのが珍しく面白い。「ままかり」についてもこの地で知ったらしく、また「蛸」が美味であることにも触れているのがいい。

そしてなによりも多くの漢詩が作られているのが注目される。漢詩はもちろん柳北の得意とするところだが、時には短歌や徘徊も混ざっている。いかにも文人の旅日記である。浅学な小生にはこうした柳北の文章にどうこう言う資格はないが、この漢詩がこの紀行文のアクセントをなしているようで、ここをもう少し読めたたらなあと思う。

以下は後半の大阪を去る前日の晩から朝にかけての記述。まずは「明治文学全集」記述だが、本文にも句読点がなく、漢詩はそのまま(訓点はある)だ。実に読みにくい。

こたび浪華に来てより始めて小里に逢ぬれバ此前の月に逢し時のことなど言出て興じぬあまりにいたく酔て其席に臥したりしが三更の比平九郎が出できて君ハいひ甲斐なき人かな何とて今宵限りなるにかく酔ふし給ふといふ余も心づきて黄金亭のふしどに入れバ小里も来りぬこん春ハ再び浪華に来べきよしいひつつ寐にけり夜すがら雨ふる
相逢還吿別。切恨客身忙。一夜江亭雨。寒梅動暗香。
二十四日晴朝とく起出るとて小里に贈る
 いかにせん難波のあしのかり枕よせ來し波の歸るならひを」

今度は西岡勝彦(晩霞舎)による電子ブックの同箇所の記述だ。

こたび浪華に来てより始めて小里に逢ぬれば、此前の月に逢し時のことなど言出て興じぬ。あまりにいたく酔て其席に臥したりしが、三更の比平九郎が出できて、君はいひ甲斐なき人かな、何とて今宵限りなるにかく酔ふし給ふといふ。余も心づきて黄金亭のふしどに入れば、小里も来りぬ。
こん春は再び浪華に来べきよしいひつつ寐にけり。夜すがら雨降る。
相逢還吿別  相逢ふてまた別れを告ぐ
切恨客身忙  切に恨む 客身の忙
一夜江亭雨  一夜江亭の雨
寒梅動暗香  寒梅暗香動く
二十四日、晴。朝とく起出るとて小里に贈る。
いかにせん難波のあしのかり枕よせ來し波の歸るならひを
(抜粋:: 成島柳北 “航薇日記”。 Apple Books )

これならスムーズに読める。こうした仕事にまた助けられた思いだ。句読点を入れ、漢詩を書き下し、行間を開けている。こうしただけで圧倒的に読みやすくなっている。

さて、この部分もそうだが、永井荷風が「やられてしまった」ように、小生もまた柳北の文人趣味に「憧れてしまう」。決して現在柳北のようにはいかないのはわかってはいるけどね。素晴らしい紀行文でした。西岡勝彦(晩霞舎)による電子ブックは無料で公開されているので、是非触れてみていただきたい。http://www.bankasha.com

この書についてはここまで。

「熱海文薮」

これは明治17年7月30日出版されたが、元は明治11年から「花月新誌」と「朝野新聞」に連載されたものである。

中身は「澡泉紀遊」・「鴉のゆあみ」・「なくもがな」・「煙草の吸さし」・「すげのを笠」「菅の小笠附言」・「薬槽餘滴」の七編からなる。

これらの文書を読むと、成島柳北が温泉好きだったことは知られるが、彼の温泉好きは温泉そのものというよりは温泉地でのゆっくりした時間とその景色にあったと思える。熱海を中心に箱根はもちろん大磯や修善寺といった周辺にも興味を持って訪れて、その風景を描いているからだ。また、必ずと言っていいほど連れを伴い、詩作をしていることからも、何より彼にとっての温泉は文人趣味を発揮する場所であったとも言える。それにもう一つ、この温泉紀行を彼が主宰する雑誌に連載したのは、その読者へのサービスと言う意味合いとまさに温泉地そのものの宣伝でもあったと言える。今では当たり前のことだが、こうした温泉紀行はゆっくりしたいなあと思っている読者にとっての慰めでもある。柳北はそんな意味でも旅ガイドを書くのがうまかったと感心させられる(『柳橋新誌』もある意味街ガイドと言える)。

「鴨東新誌(京猫一斑)」

「花月新誌」2号から18号(明治10年1月14日から同7月28日)に連載、明治7年(1874)に刊行されたもの。

「鴨東新誌」とあるように京都の洛東の花街について記録で、いわば東京の柳橋の花街を主題とした「柳橋新誌」と対を成すと言われるもの。柳北は本願寺が翻訳局を京都に開くにあたってその責任者として約四ヶ月間京都に滞在した。その間に洛東の花街に通い詰めて、その様子を伺い、書いたわけだ。いかにも柳北らしい作、と言うより柳北にしか書けない作と言える。東西の校書すなわち芸者の比較論。これだけの短い間に論ずるほど花街に通ったわけだが、それにはそれなりの資金力が必要であったはずだが、パトロンが東本願寺だと言うのも頷ける。柳北はこの在京以前に欧米を訪問しているが、これも東本願寺が資金を出していた。東本願寺がどうしてここまで柳北に肩入れしたかは興味深いところだが、浅学の小生にはわからない。わからないと言えば、この東西の花街や芸者比較論もそれほどわかるわけではない。しかし、柳北が江戸人だけにやはり京にやや否定的な気がする。例えばこんな表現にそれが端的に現れているように思う。

東妓は気を使つて豪なり、名の為に財を捨て情の為に身を忘る者は無慮数百。西妓は利を重んじて怯なり。(後略)

これも一つの紀行文というか、旅のルポルタージュではある。

「航西日乘」

「花月新誌」118号〜142号 153号で完 明治14年11月30日から17年8月8日 連載されたもの。柳北の洋行の記録である。

その行程はざっと言えば以下のようになる。

明治5年9月13日フランス郵船ゴタベリイ号にて真宗大谷派の一員として横浜港出発し、ホンコンで郵船メーコン号に船を乗換、塞昆(サイゴン)、星嘉坡着 (シンガポール)、英顉錫狼 ポイントデガウルト (現在のゴール)、英佰埃及 蘇斯 (スエズ) 運河を通過 (紅海)して、船中エルバ島・コルシカ島を見て、

10月28日仏国・馬耳塞 (マルセイユ) に着く。実に一ヶ月半でヨーロッパに着いたわけだ。
その後巴里に滞在。その間イタリアにも行き、翌4月にロンドンにわたる。

イギリスには一ヶ月滞在し、その後アメリカに渡り、約一ヶ月の滞在で、6月16日にサンフランシスコを立ち、横浜に翌7月9日に帰ってきた。

この旅を大きく分けると、次の4つに分けられる。

  1. ヨーロッパまでのアジア・アフリカ地域の寄港地
  2. ヨーロッパ、特にフランス・イタリア
  3. ヨーロッパ、イギリス
  4. アメリカ

このうち4のアメリカは当初は記述があったようだが、連載された「花月新誌」が廃刊になったために発表できず、その原稿は散逸してしまったという。そこでこの紀行文は1から3の内容となっている。全体的には前に見た紀行文のような余裕のある柳北らしいところがやや欠けているように思う。漢詩など詩文が少ないのもその特徴と言える。これはこの旅が当時の交通状況から本当に大変だったことを窺わせる。また、初めての外遊ということもあって、流石の柳北も緊張感が並々ならぬものがあったと思われる。

さて、柳北はそれぞれの地域で何を見、感じてきたか。

1のアジア・アフリカ地域で目立つのはアジア人たちがヨーロッパ人に酷使され、蔑まれている現状である。スエズ運河で、現地人の水夫に対するイギリス人の横暴さに憤っている。この辺りから柳北も日本および日本人がそうならないようにという思いが兆しているのがわかるが、柳北はもともと正義感が強く、下の者に対する同情心が強いので、それが現れているとも言える。

2のフランス・イタリアではその近代的な施設に興味は示しつつ、むしろその歴史的な遺跡により多く興味を持っているように思う。滅んだものも大事にする国柄にも敬意を抱いたようだ。これは柳北が滅んだ側の人間であること。幕府内にいたときにフランスと深い関係にあったこと特にナポレオンに敬意を持っていたことも関係しているかと思う。

3のイギリスではその制度の整備された様子を評価しているが、ここでも社会の底辺に生きざるを得ないアイルランド人に同情を寄せているのが目立つ。これもいかにも柳北らしい観点のような気がする。

こう見てくると柳北の洋行は支配者のそれではなく、やはり文人のそれであるような気がする。流石に「航薇日記」にあるような余裕は薄れているものの、世界においても社会の底辺に生きる人々に対する同情心は忘れてはいない。また滅びたものにもやはり敬意を払っている。日本においても柳北が一貫して、社会からはみ出したところで生きることを選択し、そこからその社会を批判し続けてきた姿勢を保ってきたことがここでも伺える。

成島柳北についてはここまでにする。

服部撫松

「東京新繁昌記」「東京新繁昌記後編」「教育小説稚兒櫻」が所収されている。

「東京新繁昌記」「東京新繁昌記後編」

この作品は「江戸繁昌記」の明治開化版といったところだろう。成島柳北の「柳橋新誌」とよく比較されるが、そのテーストは全く異なる。まさに明治の新東京の完全なガイドである。筆者の服部撫松は福島二本松の儒者、柳北と違って新東京の全てが物珍しかったようだ。従ってこの書はベストセラーとなったようだ。作者の服部撫松はその印税で屋敷を建てたというからすごい。それは内容もさることながら、その文章の自在さも受けたようだ。現代では一部にこの服部撫松の文章がわかりにくいという向きもあるが、むしろ難しい漢字も少なく、口語に近い崩し漢文が、当時は受けたようだ。

さて、内容だが、以下の項目で新東京の風物を描いている。

初編
学校・人力車 附馬車会社・新聞社・貸座舗 附吉原・写真・牛肉屋・西洋目鏡・招魂社
二編
京橋煉化石 附 呉服店、奴茶店・待合茶店・浄瑠璃温習(サラヒ) 附女師(ウタシショウ)・築地異人館 附売魚店・新劇場(シンシバイ) 新富坊守田座・常平社
三編
新橋鉄道・増上寺 附 楊弓肆、驝駄師、水茶店・書肆 洋書舗、雑書店・万世橋 附住吉踊、弄珠師(シナタマツカヒ)、街頭演説(ツヂコウシヤク)、機捩(カラクリ)・新橋芸者
四編
博覧会・臨時祭 附 開帳・夜肆(よみせ)・麥湯・西洋断髪舗
五編
築地電信局(テリガラフ)・商会社 附 兜坊為換坐・蕃物店(カラモノタナ)・京鴉(けいあん)家 一名雇人請宿・妾宅・新温泉場 附 深川・新市街 附 帰商
六編
芝金瓦斯(がす)会社 附 瓦斯燈・公園 上野・女学校・西洋料理店・代言会社
七編(後編・続編第一)
勧工場・夜会 附 嚥会・天守教会・舩戸・消防隊・浅草橋・賃衣衾舗(そんりょうふとん)

実に多くの場所・風物を描いているのがわかる。全てが新時代にできたものではないが、正に新時代の東京ガイドというに相応しい。一例だけその文章を引いておく。

西洋断髪舗の冒頭

十尺の小肆(コミセ)、板を染めて石に擬し、柱を塗つて鉄を欺き、形異人館の如くにして初編の謂はゆる西洋眼鏡舗と甚だ其の趣気を同じうす。一箇の禿棒、頭圓かにして玉朁(+草冠)花(ギボウシ)の如く、渾身斜に紅白の二線を畫してこれを肆前に建て、以て招子(カンバン)と為す。(中略)開化の風俗も亦た復古更古更始の一物也。今都俗を観るに、男にして髪を断たざる者は因循と曰ひ、婦にして眉を剃らざる者は開化曰ふ。(後略)

とこんな具合である。元々は訓点付きの漢文であったようだが、この書では書き下し文となっている。

さて、成島柳北の『柳北新誌』二編は江戸の失われた文化や情緒を記すが、服部撫松はここにあるように、その新奇を記すのに忙しい。これは二人の出自の違いであり、なにしろ撫松は新しい東京が面白くてたまらないのだろう。それが伝わってくる。

なお、もう一つの作品「教育小説稚兒櫻」がこの書で所収されている。

これは服部撫松のいわば現代小説。貧苦の少年と華族の令嬢の物語。少年が令嬢に励まされながら苦労して大学に進み、愛でたく結ばれて欧州に留学するまでになるという出世物語。いかに教育が大事かというお話だ。文学史的にはあまり評価されなかったようだ。

服部撫松はここまで。

栗本鋤雲

今度は栗本鋤雲。この人物は決して文学者ではない。どちらかというと政治家である。いやむしろ能吏といっていい人物だ。ただ、この人物文才があって、いくつかの文章を残している。しかも維新後は啓蒙思想家たちと違って新政府には出仕せず、新聞社の主筆として活躍したためその文章が残っている。

さて、この人物、成島柳北と同様な履歴がある。やはり旧幕府にあって幕末重要な役割を担った後、維新後はいわば反体制側にとどまった人物だ。しかし柳北とは資質が違っていたようだ。あくまで能吏としての才覚を捨てられなかった。維新後惨殺されてしまった小栗上野介と同様、近代の日本にとって重要な人物だったはずだ。しかし、小栗や柳北と同様、徳川に対する忠誠心が強かったため、維新後の政府には同調できなかった。これは先に紹介してきた啓蒙思想家たちとは大きな違いである。この啓蒙思想家たちは旧幕府時代は軽輩であった。従って明治新政府に簡単に取り入ることができた。しかし栗本や小栗、柳北は旧幕府時代にそれなりに重要な立場にあったためにそうはできなかったと言える。

では、ここで以下の文章を見ていくことにする。

「匏菴十種」

この書には「鉛筆紀聞」と「曉窓追録」がある。

「鉛筆紀聞」は函館勤務を拝命して執筆されたもので、フランス人カションに質問した記録である。その中で西洋事情とフランスの国の制度や海軍の制度を聞いている。また、科学技術についても聞き、さらにはインドやロシヤ等の海外事情も聞いている。ここに当時の栗本の関心事とその理解ぶりが窺われる。これが後に生かされることになる。

「曉窓追録」はパリ滞在中の見聞録である。栗本は徳川家の派遣員の一人としてパリ万博に参加するためパリを訪れている。その時の記録である。

約五十項目に分けられる。以下全体を簡単な標題で分けると、

ナポレオン法典、訴訟の実際、警察官とその実際、宣誓とアジア人 の偽証 日本人の正直、気候とスケート遊び、パリの建築と清潔および安全、ガス灯、下水、道路と 都市改造の実際、凱旋門とパノラマ、動物園、博物館、ブローニュの森、観兵式と兵力、欧州各国の 兵力の比較 ビスマルク、ガリバルディー、ルイ外相の薬品会社社長転出、ロスチャイルドとユダヤ 人、国債と貨幣価値、セーヌ川の水運、電信と電送写真、新聞印刷法と蒸気機関、知日家フランス人 やオーストリー人の日本贔屓、日本の漆器と陶器、スイスとオランダ、独立ベルギー、ヨーロッパの 農業、身体障害者と廃兵院、ゴミ処理とアスファルト道路、野鳥、ソースとバター、 民兵、監獄、議事堂、ホテル、 劇場、 死体置き場、 競売 各国得意の技術、スエズ運河開整、ポーランド分割 ナポレオン三世の人気、メキシコの騒乱 ナポレオンと博覧会、ヨーロッパの人材は名家や豪家に出づ

という項目だ。

短いものは三、四行、長いものも三十行位である どれも面白い。ここに栗本の関心事が窺える。

「匏菴十種(抄)」には『報知新聞』に連載された文章がいくつか紹介されている。

「横須賀造船所経営の事」「「メルメデカション」口述筆記」「仏国公使の建言」「仏国公使最後の建言」などなどである。幕末の栗本が関わったさまざまについての記録と言える。この時期の詳細な資料となっている。

「匏菴遺稿(抄)」

この書には尾崎行雄・島田三郎・犬養毅の序文があり、この書には以下の文章が収録されている。

「箱舘叢記」
函館に病院を設置する記録
「七重村藥園起原」
函館の対岸の村に薬草園を作った記録
「養蠶起源」
養蚕奨励策、樺太開発の提案

ここにも政治家、いや能吏、栗本鋤雲の姿がある。

栗本鋤雲についてはここまで。

参考文献

『論考服部撫松』山敷和男 現代思潮社 1986年

『栗本鋤雲 大節を堅持した亡国の遺臣』小野寺龍太 ミネルヴァ書房 2010年

この項 了
2025.7.15

日本近代文学総復習明治文学編3『明治啓蒙思想集』を読む。

はじめに

まず、はたしてこれらは文学と言えるのか、という疑問が起きる。文学には評論(批評)というジャンルもあるが、ここにある文章は、そうした枠を遥かに超えている。いわば明治初期の思想的文書ということになる。しかし、この明治初期の思想的文書は間接的にその後の文学にそれなりの影響を及ぼしているという点で無視はできないのもまた確かである。ということでこの難解な文章をなんとか読み解していきたい。

思想家たちの共通点

さて、ここに登場する思想家たちの共通点はどにあるだろうか。まず言えるのは、いずれもはじめ儒学を学んで、後幕末に洋学を学んで、ほとんどが幕府に出仕し、維新後新政府に呼ばれて、新政府内で重要な役割を果たした人物だ、ということだ。

そこでこの思想家たちの出自と経歴を並べてみる。(本書の解説とネット上の情報による)

西周(にし あまね)
石見国津和野藩の御典医の家柄の出。
漢学の素養を身につける他、藩校で蘭学を学ぶ。
蕃書調所の教授並手伝となり哲学ほか西欧の学問を研究。
幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学。
法学・カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。
帰国後、目付に就任徳川慶喜の側近として活動。
王政復古後徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。
明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕。
軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努める。
明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。
津田眞道(つだ まみち)
美作国津山藩の料理番の家柄の出。
江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
蕃書調所に雇用される。
オランダに留学。
幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。
大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想。
明治維新後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。
外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。
のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官、元老院議官。
明六社の結成に関わる。
第1回衆議院議員総選挙に東京府第8区から立候補して当選。
杉亨二(すぎ こうじ)
肥前国長崎の医者の家柄の出。10歳の頃、孤児となる。
祖父・杉敬輔の友人上野俊之丞が経営する上野舶来本店(長崎の時計店)に丁稚奉公。
江戸幕府の蕃書調所教授手伝となる。
幕府直参として登用され、蕃書調所が改組されてできた開成所の教授並となる。
明治維新後は、津田真道が学頭をつとめる静岡学問所で教える。
西周が校長をつとめる沼津兵学校でフランス語を講じる。
明治維新後民部省に出仕。戸籍調査を命じられるが、これを拒否して辞任。
太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)に任ぜられる。
明六社の結成に参加している。
太政官正院政表課課長となる。
加藤弘之(かとう ひろゆき)
但馬国出石藩の家老家柄の出。
江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
明治維新後新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。
明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
『人権新説』出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確する。
『強者の権利の競争』では、強権的な国家主義を展開した。
『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。
神田孝平(かんだ たかひら)
岩手旗本竹中家家臣神田孟明の側室の出。
牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学ぶ。
幕府蕃書調所教授となり、同頭取に昇進。
明治維新後明治政府に1等訳官として招聘される。
兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任。
その間、地租改正を建議するとともに農民の土地売買の自由を唱える。
元老院議官就任。
貴族院議員に選出される。
森有禮(もり ありのり)
薩摩国薩摩の藩士の出。
造士館で漢学を学び、藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。
イギリスに密航、留学しユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学ぶ。
帰国後外国官権判事に任じられた。
少弁務使としてアメリカに赴任する。
明六社を結成する。
『明六雑誌』に「妻妾論」を発表。一夫一婦を主張する。
英国公使になる。
第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任。
国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺され死去。
箕作麟祥(みつくり りんしょう)
美作国津山藩の藩士の出。
藤森天山・安積艮斎に漢学を、家と江戸幕府の蕃書調所で蘭学を学ぶ。
ジョン万次郎(中浜万次郎)について英学を学ぶ。
蕃書調所の英学教授手伝並出役となる。
徳川昭武とともにフランスに留学した。
帰国後開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。
外国官(現・外務省)翻訳御用掛となる。
同年大学南校(現・東京大学)大学中博士に転じる。
和仏法律学校(現・法政大学)の初代校長に就任する。
明六社において、啓蒙活動にも力を注いだ。
中村正直(なかむら まさなお)
幕府同心の出。
築地の井部香山の塾で漢学を学び、翌年桂川甫周から蘭学の指南を受ける。
昌平坂学問所の寄宿寮に入る。佐藤一斎に儒学を、箕作奎吾に英語を習った。
甲府徽典館の学頭となる。
幕府の御用儒者となる。
幕府のイギリス留学生監督として外山捨八(正一)等の留学生12名を引き連れて渡英。
静岡学問所の教授となる。
サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』の邦題で出版
ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』の邦題で出版
大蔵省翻訳局長に任じられ、後に帝国学士会員、東京大学教授となる。
女子教育・盲唖教育にも尽力。
明六社の設立に参加。
洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になる。
貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。
西村茂樹(にしむら しげき)
佐倉藩の支藩佐野藩の側用人の出。
藩校である成徳書院に入り、藩が招いた安井息軒から儒学を学んだ。
大塚同庵に師事し砲術を学び、翌年、佐久間象山について砲術修業をした。
堀田正睦が老中首座・外国事務取扱となると、貿易取調御用掛に任じられた。
明六社を結成。
文部省に出仕し編書課長に就任。
儒教主義的徳育の強化政策を推進した。
また漢字廃止論者として『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』を発表した。
天皇、皇后の進講を約10年間務め、
東京学士会院会員、貴族院議員、宮中顧問官、華族女学校の校長をつとめた。
『日本道徳論』を刊行した。

こう並べてみると、いずれも決して雄藩の中核にいた家の出ではないことがわかる。杉亨二などは時計職人の丁稚から身を起こしていることからも言えるように、幕末維新という混乱期にあっては家柄ではなく、個人の意欲と能力がいかにものを言ったがわかる。

次にほとんどがまずは漢学すなわち儒学を学び、その後蘭学・洋学を学んでいる点、また、いずれの人物も自分が所属したところから脱出している点だ。いわば脱藩している。そして国の内外に留学している点が見逃せない。もちろんこれが啓蒙思想家の特徴、すなわち洋学を学んだということになるが、そうした者たちをいち早く登用したのが幕府側だったということも見逃せない点だ。

ここに登場する人物たちはほとんどが幕末の幕府に出仕しているのは、当時政権にあった幕府にこそ西洋の優位性がはっきり見えていたからだ。西洋の学問や制度を取り入れるのが、流行りの言葉で言えばいかに「喫緊の課題」であったかがわかっていた。それに対して維新を担った倒幕派は「尊王攘夷」というイデオロギーに呪縛されていたため、実は気づいていたには違いないが、表立って認めるわけには行かなかったというわけだろう。しかし自分たちが政権を担ってしまうと、いかにそうした人物が必要かがわかったというわけだ。そして自分たちの周りにはそうした人物がいなかった。しかもこの啓蒙思想家たちはもともと軽輩の出で、決して幕閣の中心にいたわけではなかったからだ。ここにもこの思想家たちの特徴があると言える。

さて、前提はこのぐらいにして、ここに登場する思想家たちは、それぞれ何をなしたのか、その著作に即して見て行きたい。

西周について

まず、以下の語彙を見ていただきたい。

「理性」「感性 」「演繹」「帰納」「観念」「命題」「主観」「客観 」「総合」「実在」
現在では実に一般化した語だ。もちろん一般の人々はあまり使わないかもしれないが、決して特殊な語彙ではない。ただ学問的な語彙である。実はこれらの語彙は西周が初めて英語の訳語として使ったと言われている。それぞれ以下の訳語なのである。

「理性=reason」「感性=sensibility」「演繹=deduction」「帰納=induction」「観念=idea」「命題=proposition」「主観=subject」「客観=object」「総合=synthesis」「実在=being」

全て初めは哲学用語だった。そもそも「哲学」という語も西の作った訳語だと言われている。

その著作「百一新論」の末尾に「物理」と「心理」の区別と総合を論じて言う。

ここは「明治文学全集」の本文と「日本の名著」の本文、それと口語訳を示す。(いずれも画像。)(はっきり言って明治文学全集の本文は実に読みにくい。これはカタカナ表記に我々が慣れていないせいなのだが、ひらがな表記に直しただけの「日本の名著」の本文になると俄然読みやすくなる。また菅原光氏等による現代語訳の仕事も素晴らしい)

本文比較
本文比較

さて、ここまで「百一新論」で西は儒教について批判してきている。その骨子は儒教が個人的な「徳」を重んじ、それをそのまま現実の「政治」に実現できるとした点に対する批判だと言える。「礼」から「法」、「法」から「教」へいう流れで論じている。実はこうした儒教の論点は小生には難解だ。ただ、受け取れるのは西が所謂「実証」を重んじる姿勢を貫いている点である。例えば「神風」を否定している部分に現れている。これは天然現象、すなわち「物理」である、とはっきり説明している。そしてそれをどう受け止めるかが「心理」であるとする。そしてそこを総合するのが「哲学」だと言うのである。そしてそれを体系化しようとしたのが「百学連環」と言う著作である。これは未完に終わったが、西が試みたのはこれまでの「知識」の西洋的な実証主義で再編することだったようだ。

また西は実に現実主義的な功利主義者であることが「人世三宝説」を読むとわかる。人生においては「健康」「知識」についで「富有」こそ必要だと解いている。さらには「天授の五官」に基づく実際の学を説いたことも注目される。

もう一つ注目すべきは西がローマ字による日本語表記を本気で奨めていた事実だ。これは「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」を読むとわかる。実は西も論文の漢字とカタカナの文章を問題視していたのだ。これは他の論者も触れていることだが、当時にあっては大問題であったようだ。現代の我々がこの時期の西のような優れた論客の文をまともに読めないのは実に学問にとって大きなマイナスであるのは事実である。先に画像で示したところをよく見て貰えば、この日本語表記の問題は決してなまじに否定することはできない気がする。これはやがて「言文一致」の運動へとつながっていくことになる。

西周についてはこの辺りで筆を擱くこととする。

津田眞道について

略歴にある通り、津田も西と同様な道を進んできた。しかし唯一異なるのが、津田が幼少期から国学に親しんできたことだ。これが後の思想にどんな違いを生んだかは詳らかにしないが、和歌に通じていたことは西との大きな違いである。その著「天外獨語」も和文で書かれている。内容は平田篤胤風の狭隘な攘夷運動の無知を指摘し、富国強兵策を説くにあたって、進化思想や、西洋風の哲学を援用している点にあるが、これを和文脈で書いている点もこの時期のこうした文書としては特筆に値すると言っていい。

さて、津田は日本においての法学の先駆的な役割を果たした人物だが、その「泰西法學要領」はまさに要領に過ぎないが、初めての法学通論と言っていいものだ。

また、この書(明治文学全集)ではその他、“公議所議案集”があり、これは維新後の新官僚としての改革意見が述べられているものだが、一つは「人身売買」を禁ずべきとする論と「年号」を廃止すべき論がある。

さらに『明六雜誌』より数編の論文が紹介されているが、注目は

「開化を進むる方法を論ず」で開化=文明化のためには、キリスト教の普及が不可欠としていること

「拷問論」で欧米との対等と条約改正を志向するために拷問の廃止が重要だとしていること、

「死刑論」で復讐を禁止して死刑を禁止しないのは文明ではなく、社会から犯罪者の害悪を除去するには流刑または禁錮・労役従事・終身刑で十分だとしていること、

「情欲論」で「他人の自由を害する」ことは「不義」であるが、「情欲」(欲望)とは「天性の自然に出ず」ものであり、「国人一般身体上の幸福」をもともなった「自由」こそ真の自由であるとして、一定程度欲望を肯定し、人間生活を歓楽・快楽に変えることができると肯定していること、

等である。また、夫婦や男女の同権的な発想も語られているものも注目に値する。

さらに『東京學士會院雜誌』よりと言うことで
「唯物論」が挙げられ、西と同様な実証主義的な考え方が語られている。これはコントの実証主義の影響とされている。

そして最後に「如是我觀」と言う出版された小品集が載せられている。

こう見てくると津田真道の思想はキリスト教に立脚し、寛容をモットーとする政治的リベラリズムであり、自由主義経済を唱道する、西洋型の自由主義社会を志向していた、と結論できそうだが、明治政府内部に居続けたためかどうか、この政府が持っている反自由主義的な側面を批判はできなかったようだ。この辺りにもこの明六社の啓蒙思想家たちの特徴があると言えるかもしれない。津田についてもこの辺りにしておかざるを得ない。

杉亨二について

この人物はここの明六社の中でも異色な存在である。履歴のところでも示したようにその出自や年少の頃の生活は他の明六社の連中と全く異なる。それは単に彼が孤児で時計職人の徒弟であったということだけではない。殆ど漢学の薫陶を受けていないという点である。この点は杉がその後幕府や明治政府に身を置きながらあまり政治的な発言や行動をしていないことに影響していると思われる。江戸時代の漢学すなわち儒教の学習は個人的な倫理はもとより支配の、すなわち政治の学問を学ぶということであった。この明六社の啓蒙思想家たちの殆どは西洋の学芸や技術を取り入れたが、その奥には支配のための政治的な要素を持っていたといっていい。そうした漢学の薫陶を受けていないということで杉には政治的な要素が希薄であったと言えそうだ。従って、この杉はもっぱら統計学の泰斗として知られていて、明治政府にあっても技術官僚として過ごし、明治の政変や自由民権運動にも殆んど反応を示していない。しかも、福沢諭吉を除き、他のこの明六社の啓蒙思想家たちが後に貴族院議員となり華族に列せられたが、彼は在野の一統計学者として生涯を終えている。

しかし、ここでは以下のやや政治的・経済学的文章が掲載されているのでそれぞれについて触れておきたい。

「南北米利堅聯邦論」「空商事ヲ記ス 」「真為政者ノ説 」「人間公共説 」「貿易政正論」「想像国説」の六編である。

まず「南北米利堅聯邦論」「空商事ヲ記ス」は万国史の事例の殆んど翻訳のようだ。杉は旧幕時代、開成所で大部の万国史 (十冊)を二年半余かかって通読したという。そこでフランス革命の記事にいたく驚き、アメリカの歴史も学んだようだ。その成果ということだろう。

「真為政者ノ説」では真の為政者は内外の歴史に照らして現状を把握し「民情」にも通じて政治を行うべきとしている。ここに先ずは実態を把握するという後の統計学への傾斜がうかがえるという。しかし概念的な一般論に終わっている。

「人間公共説 」もやはり学んだ洋学の翻訳に過ぎず、当時こうした洋学者に一般的な天賦人権論による社会契約説を述べたに過ぎないようだ。

さて、ここでもっとも注目されるのは「貿易政正論」・「想像国説」ということになる。

これはいわゆる保護貿易説である。当時明六社の西・津田らは自由貿易説を説き、それが主流であったようだ。それに対して保護法を行って自国の生産力をまず高めるべきだとしている。しかも輸入超過は金銀の流出を拡大し、最終的には枯渇し、ついに相手にされなくなり、自然に鎖国状態に陥り、世も漸々不自由になるとの想像説である。そして「是ニ至テ仏国ニテ唱フル『コムミニスミス』ノ説ノ始テ我国ニ行ハルルカ」云々として警告している。これは一種の極論だが、こうした説は実は杉が「明治六年以来の海外貿易表の作成に当っていたこと」の実績が裏付けとなっていたようである。

やはりここでも杉亨二は統計学の人である。杉亨二についてはここまでとする。

加藤弘之について

この人物は啓蒙思想家の中でも最も極端な振れ幅のあった人物といえる。加藤も初めは洋学に基づいて天賦人権論・社会契約論者であった。しかし、国会開設運動の高まりの中で転向し、社会進化論を唱えて、明治末期頃までには「極端な国家主義者」の烙印を押されるまでに国家主義へと傾斜していったと言う。

さて、この書では「民選議院ヲ設立スルノ疑問」・「馬城臺二郎ニ答フル書」・幾つかの『明六雜誌』の論文・『國體新論』・『人權新説』が収められている。

初めの二書は所謂民選議院開設運動に対する加藤の立場を表明した書。所謂時期尚早論と言う立場だ。馬城臺二郎とは民権運動の指導的立場にあった大井憲太郎のことである。『明六雜誌』の論文もこの時期の加藤の立場を表明したものだ。

さて問題は後の二書である。

『國體新論』は加藤の初期の思想を表明したものだが、転向時自ら絶版にした書。『人權新説』は転向後の加藤の立場・思想を表明したものだ。

『國體新論』はその章立ての文言を見ればその内容がわかる。以下だ。

  • 第一章 国家民君成立セシ所以ノ大原因
  • 第二章 国家ノ主眼ハ人民ニシテ人民ノ為メニ君主アリ政府アル所以ノ理
  • 第三章 天下ノ国土は一君主ノ私有ニアラズ、唯之ヲ管理スルノ権特ニ一君主ニアル所以ノ理
  • 第四章 君主及ビ政府ノ人民ニ対セル権利義務并ニ立法司法ノ二権柄
  • 第五章 人民ノ君主政府ニ対セル権利義務
  • 第六章 人民自由ノ権利及ビ自由ノ精神
  • 第七章 国体ト政体ト相異ナルノ理并ニ政治ノ善悪公私必ズシモ政体ニ由ラザルノ理

ここで述べられていることは、本来の社会契約思想とはいえなかったとされるが、それでも政府の目的を人民の保護におき、私権を天賦のものとして認めると言うものであったようだ。また、人民の自由と権利をしっかり認めるよう述べている。

こうした論を自ら絶版にしたわけだ。そして『人權新説』を書いた。緒言に言う。「優勝劣敗是天理矣」と。そして第一章は「天賦人権ノ妄想ニ出ル所以ヲ論ズ」と題している。この「優勝劣敗是天理矣」こそ進化論の文言だ。進化論はもとダーウィンが唱えた「進化は生存競争・自然淘汰・適者生存による」とする自然科学の論であったはずだ。これを社会に適用したのが「社会進化論」と言うことになる。そして、これが「人間は生来自由・平等で、個人が契約を結んで国家や政府を設立した」という社会契約論に対する批判の理論として用いられたと言うわけだ。しかもこの「優勝劣敗」と言うことが「強者・適者の理論」と言う形をとって現状の社会を固定的に支持する理論となったようだ。しかし、スペンサーが唱えたという「社会進化論」は決してそれだけのものだけではなかったようだが、これがドイツにおいては国家〔全体〕があって個人があるというもともとドイツにおいて発達した国家有機体説と結びつきプロイセン啓蒙専制君主の支配を正当化する理論に変更されたと言う。

しかし、それにしても加藤弘之はなぜこんな大きな転向をしてしまったのだろうか。ここにこの時期の啓蒙思想家たちの特質が隠れていると思う。ある評者は加藤がドイツ語を主に学び、ドイツの哲学に影響されたためだとしている。福沢諭吉はイギリス流だからそうならなかったと。しかし、これは浅学な小生の創造に過ぎないが、やはり加藤の「支配の側に居たい」と言う止みがたい願望によっているのではないかと思う。それはこの啓蒙思想家たちの共通の特質だと思う。それともう一つ明治新政府が西洋的な制度と思想を維持しながら、一方で維新を推進した「尊皇攘夷」思想を捨てきれないと言ういわば矛盾した両面をどう同調させるかという要求の結果かもしれないと思う。この転向の直前、加藤は所謂「尊皇攘夷」論者に脅迫を受けていたと言う事実があるらしい。こうした内実は昭和の戦争期まで引きずることになる。あ〜あ。

加藤弘之についてはここまでとする。

神田孝平について

彼はこれまで見てきた思想家より地味な存在である。しかしそれは必ずしも彼が歴史に残した役割と業績が劣っていたためとは言えない。むしろ地方官としての業績や税制改革、民会設立の考え方は他の啓蒙思想家たちよりは優れたものがあったような気がする。

この書では以下の論書が掲載されている。

「農商辨」「會議法則案」「褒功私説」「日本國當今急務五ケ條の事」「論重板」「江戸市中改革仕方案」「人心一致説」「田税改革議」「“公議所議案集”から三編」「“民會規則”」「『明六雜誌』より・五編」「『東京學士會院雜誌』より九編)

である。

いずれも短いものだが、中心は経済学の分野というか財政に関する著作と言うことになる。これは幕府にいた時からのものから新政府に出仕してからのものまで収められている。

「農商辨」は幕府にいた時の作だが、趣旨は「課税対象を「農」の「産物」から「商」の「利」へと移行すべきだと」言うものである。これは江戸時代の租税を根本的に変更する考え方である。また、新政府時代も「地租改正」に関してかなり重要な役割を演じたようだ。

もう一つは所謂「民会」の必要性を説いたものだ。

「江戸市中改革仕方案」では、地方政治のレベルだが、「民」の代表者による議決機関としての議会開設を主張」していることが注目される。

また、幕府時のものだが、「會議法則案」で、従来では政策決定に加わることのできなかった武士の意見を政策に反映させるため「會議」に諮問機関としての役割を持たせようとした点も見逃せない。

これは「日本國當今急務五ヶ條の事」で、「士」の「衆議」のみならず,「農」・「工」・「商」をも含める「國人」の「衆説」を政策に反映させる必要があると説いた点も所謂民主主義的な意思決定を考えていたことを伺わせる。

こうなると、所謂自由民権運動の国会開設論に対しては大賛成ということになるはずだが、ここは他の明六社の同人同様、時期尚早論の立場だったようだ。しかし実際はまずは地方自治体においての「民会」の開設を考えていたようで、実際に兵庫県令としてその実現に努めている。

そのほか、「国楽ヲ振興スヘキノ説」(『明六雜誌』)や「邦語ヲ以テ教授スル大学校ヲ設置スヘキ説」・「暦法改良論」(『東京學士會院雜誌』)などユニークな提案もある。

なお、孝平は「たかひら」というらしい。

神田孝平についてはこれくらいにしておく。

森有禮について

今度は神田と違って派手な存在の森有礼。なぜ派手かというと、留学やアメリカ行きで学んだことを派手に意見し、周囲を巻き込むのが好きだったからだ。その結果かどうか最後は暗殺されるという派手な死に方をした。

この森の成したことはいくつかあるが、まずは一夫一妻制の主張と契約結婚の実施である。これは『明六雜誌』に発表された「妻妾論」に詳しい。一夫一妻制は今となっては当たり前のことだが、明治初年はそんなことはなかった。むしろ「妾」を法的に保護することさえ行われていた。これは所謂伝統的な「家」社会というべき日本の旧来からある制度を守る姿勢が明治新政府にも踏襲されていたことを意味する。しかもそれは家父長制を意味し、所謂男女同権、夫婦同権に大いに反していた。これを森はアメリカでのキリスト教の感化から敢然と否定しようとしたわけだ。この論文は明六社内でも激しい論議を生んだようだ。血統を守る上で「妾」は必要とする説や、更にはその頃流行した「レディファースト」に対しての反感(加藤弘之)まで生んだ。血統については「養子」制度があって「妾」を必ずしも必要としないと森は述べていて、森も「家」制度そのものは否定したわけではなかったようだ。福沢諭吉は「男女同数論」で曖昧な同調論を述べている。つまりこの頃の開明的と言われた連中も結局は所謂男女同権、夫婦同権の何たるかを本当は理解していなかったと思われる。

また森は公議所の議案で「廃刀論」を述べたが、ほとんどの所員に反対され、一時野に下ることになった。このように森は新しいことを敢然と述べる点では他の明六社の人々より長けていたようだ。

さて、この森のなしたことのもう一つは文部行政への貢献である。森は伊藤内閣の初の文部大臣である。その辺りは「教育論」「學政片言」「學政要領」「兵式體操ニ關スル上奏案」に詳しい。こうした森の文部行政へその後の日本の教育制度の根幹を成したものだ。

しかしそれにしても森がこの時代において敢然と述べたことの多くは今しっかりと実現していることを考えると、今から言えば限界はあるものの確かに優れた人物であったっことに間違いはない。

森の暗殺については伊勢神宮での不敬によるもので、所謂尊王論者によって行われたという。それだけ森は近代主義者とみなされていたようだ。

この書では他にロシヤ留学の紀行文「航魯紀行」が収められている。

森についてはこの辺でおわりにしておく。

箕作麟祥について

この人物は明六社の中でも最も地味な存在と言える。小生もこの書を繙くまで寡聞にしてその名を知らなかった。ある意味それが仕方がないのは、この箕作にはまとまった著作がほとんどないためだ。

ここでも『明六雜誌』より三編と「國政轉變ノ論」があるのみである。しかし彼は法学の面ではかなりの実績を残したようだ。特にフランス民法の翻訳と明治期の法典編纂事業、とりわけ「民法」の編纂には多大な貢献をなしたという。それは何よりもその語学力によるものだが、ここに収められている諸論文もその語学力によるところが大きいと言える。(箕作は江戸時代からの蘭学者の家系のでで、蘭学者の祖父に育てられたという。江戸時代にフランスへの留学もしている。(経歴の欄参照))

さて、その「國政轉變ノ論」にはヨーロッパの革命の歴史が語られていて、これも「万国史」の翻訳(というよりほとんど翻案?理解した上で日本語で書くというもの)から得た知識によっていると言える。ただ、これは明六社に対抗する立場の叢書に掲載され、いわば革命肯定論のような要素を持っていたので、反政府側から喝采を、政府側からは非難を受けたという。もちろん箕作は政府側にいた人物なので一時その立場を危うくしたという。

しかし、この箕作も他の明六社の人々と同じようにヨーロッパの歴史は理解し、紹介するが、それを直ちに当時の日本に適用しようとは思っても見なかったのだ。

この箕作麟祥についてはこのぐらいにしておく。

中村正直について

この人物はこの中では際立って大きな存在と言える。もちろん明六社には泰斗福沢諭吉がいるが、当時においてはその双璧というべき存在だったと言える。それはこの中村正直が、略歴に述べたように、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』の邦題で出版し、ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』の邦題で出版したからに他ならない。この二書は当時のベストセラーだったようだ。福沢の『西洋事情』とともに当時の有為な青年たちにとってのバイブルと言っていい書だった。(この書ではこの二書の序文のみ掲載されている。)まさに西洋思想の紹介者であったわけだ。

しかし、この中村正直は完全な漢学者でもあった。ここに挙げられている思想家たちがみな漢学を学んでいることは述べた。しかし、中村はそれを超えて完全な漢学者であり、江戸幕府のお抱え儒者であったのだ。しかもそうでありながら、キリスト教に帰依し、洗礼まで受けているのだ。いわば一見矛盾する思想経歴にこの人物の特徴があると言える。「儒教」「イギリス流自由主義」「キリスト教」これらが、この人物の中でどう連絡しているのか、またその葛藤はあったのか、そしてそれは無矛盾であったのか、実に興味深いところではある。

さて、小生はずいぶん以前にこの人物についての小論文を書いた。題して「中村敬宇『擬泰西人上書』の近代化論」というものだ。この文書はこの書にも掲載されているが、趣旨はキリスト教の禁教の廃止と、更には天皇に受洗を奨めている点にある。何とも大胆な主張である。この書は題名にあるように、ヨーロッパ人が天皇に物申すという形になっていて、しかも匿名で発表されたが、中村の書であることは証明されている。中村の静岡時代の文書である。流石に直接的な表現は変更されたようだが、それなりの反響はあったが、いわば完全に無視されたというのが本当のところのようだ。

しかし、ここに中村の思想の特徴を見る気がする。儒教的な「天」をキリスト教の「天守」に擬え、それを「天皇」に結びつけている。しかも、日本の近代化には何より国民の自立した近代的な思想が必要でそれは天皇自らが範を示し国民に伝播させるべきだとするものだ。そこにキリスト教の思想が必要だとしている。中村正直にとっては何よりも「近代化」、それは技術的な事柄というより精神的な「近代化」が喫緊の課題で、それには「儒教」も「イギリス流自由主義」も「キリスト教」も必要であったということなのだろう。

この書には以下の文書が掲載されている。

「留學奉願候存寄書付」「敬天愛人説」「擬泰西人上書」『序跋文集』『明六雜誌』『同人社文學雜誌』『東京學士會院雜誌』より数篇「報償論」「愛敬歌」「自叙千字文」

中村正直についてもこのくらいにしておかざるを得ない。

西村茂樹について

最後になる西村茂樹はこの明六社に前の中村正直を紹介、加入させた人物。二人は明六社の中でも似たところがある。ともに儒教的な道徳観を持ち続けた人物である。ただ、中村はどちらかというと開明的で西村は保守的な人物とみなされがちである。それは西村が何より「道徳」を強調し、「弘道会」という道徳振興団体を創り、「欧化主義」に反対したからだ。しかし、中村同様西村も開明的な面を多分に持っていたように思うし、中村もやはり「道徳」の重要性を強調していたように思う。

では、西村の「道徳」とはどのようなものだったのか、それには『日本道徳論』を見るのが一番だろう。『日本道徳論』 の内容は以下の章立てで語られている。

  • 第一段 道徳学ハ現今日本ニ於テ何程大切ナル者ナルカ
  • 第二段 現今本邦ノ道徳学ハ世教ニ拠ルベキカ、世外教ニ拠ルベキカ
  • 第三段 世教ハ何物ヲ用フルヲ宜シトスベキカ
  • 第四段 道徳学ヲ実行スルハ何ノ方法ニ拠ルベキカ
  • 第五段 道徳会ニテ主トシテ行フベキハ何事ゾ

西村は近代化にとって大事なのは「国民の品性」だとしている。これはヨーロッパにおいても同じである。ただ、ヨーロッパにはキリスト教というものがある。つまり宗教が「国民の品性」をたもさせている。ここで「世外教」と言うのは西洋のキリスト教すなわち「宗教」のことだろう。「世教」とは日本の儒教や国学をいうのだろう。しかし、日本においてはそうした「宗教」がすでにキリスト教のようには存在していないとする。では日本において何をもって道徳の基礎とするか。以下のように言う。

余が道徳の教の基礎とせんとするものは儒教に非ず哲学に非ず、況して仏教と耶蘇教に非ざるは勿論なり。然れども亦儒道を離れず、哲学を離れず、仏教耶蘇教の中よりも亦之を取ることあり。

と言い、

しかし、一定の主義を確立して後に諸教の説を採るときは心配ない。一定の主義とは、二教(儒教・哲学) の精神を取り、二教の一致するところを取り一致しないところは棄てる。一致するところとは「天地の真理」である。

とする。

つまりは西村の「道徳」は儒教と西欧哲学のいいとこ取りで成り立っていると言える。そしてその「道徳」の実際は「勤勉」「節倹」「剛毅」「忍耐」「信義」と「進取の気に富むこと」「愛国の心を盛んにすること」「万世一統の皇室を奉戴すること」だとしている。そしてその実践が第一は「我身を善くし」第二は「我家を善くし」第三は「我郷里を善くし」第四は「我本国を善くし」第五は「他国の人民を善くす」ことにつながるとしている。

これは功利主義的な視点から西洋文明を理解し、取り入れることとも違うし、単に西洋技術・東洋道徳といった二元論とも違っている。この西村の道徳論は功利主義的欧化主義者伊藤博文から忌避されたと言うのも頷ける。

だが、西村は決して頑迷な保守主義者ではなかったようだ。例えば、日本においての「父子同居の風」「一家同居」を「何の用にも立たず」として、「其父母たる者は決して其子の養育を受けざる様に心掛くべきこと」と言い、当時の家父長的家族制度を否定している。また、女子の「早婚」もやめるべきとしているなど、現代に通じる考え方を述べている。

この書には『明六雜誌』より二篇、「東西政事主義の異同」、「公衆の思想」、「日本弘道會の改稱に付きて一言す」、『東京學士會院雑誌』より四篇、「日本道徳論」が収められている。

なお、ここでの引用等については定平元四良氏の論文「西村茂樹の道徳論」を大いに参考にさせてもらったことをお断りしておく。

おわりに

ようやく辿り着いたと言う感じだ。結構難儀した。前の論が五月の13日に校了しているので実に一ヶ月以上かかってしまったことになる。かといって完璧に読みこなせたわけではない。実に読みにくかった。そこで随分と先学の論文のお世話になった。ネット上の論文はいつものことだが、今回は以下の書籍のお世話にもなった。たかだか200年にも満たない時代の作品がこれほど読みにくいと言うのはある意味日本の近代の弱点?と言う他ない。江戸から明治へという激動の時代を生きた知識人の一つの姿を何とか後づけることができたかどうか心許ないが、これからの人々も是非知ってほしい事柄ではあるので、この拙い小生の紹介?を読んでいただければと思う。

参考文献

  • 『西周 現代語訳セレクション』菅原光・相原耕作・島田英明 慶應義塾大学出版会 2019
  • 『幕末維新の文化』(幕末維新論集11)羽賀祥二篇 吉川弘文館 2001
  • 『津田真道 研究と伝記』大久保利謙編 みすず書房 1997
  • 『西 周 加藤弘之』(日本の名著34) 植手通有編 中央公論社 1972
  • 『「明六雑誌」とその周辺』神奈川大学人文研究所編 お茶の水書房 2004
  • 『「自由」を求めた儒者』李セボン 中央公論社 2020
  • 『「民」を重んじた思想家 神田孝平』南森茂太 九州大学出版会 2022
  • 『新版 日本の思想家 上』朝日ジャーナル篇 朝日選書 1975

2025.06.24 この項 了

日本近代文学総復習明治文学編2明治開化期文学集(二)を読む

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「高橋阿傳夜刃譚」

再び假名垣魯文の作品。これは前回の久保田彦作篇「鳥追阿松海上新話」と同様の所謂「毒婦」物。この「高橋阿傳」の方が「毒婦」としては著名であったようだ。

「高橋阿傳」は姉の夫を殺し金を奪った罪で、否認し続けたが、明治12年1月31日、絞首刑を上回る斬首刑に処された、という。

この事件を当時盛んになった「小新聞」等がおおいに取り上げた。当時の「小新聞」は庶民向けで、こうした事件を好んで取り上げたからだ。いわば現在の週刊誌と同様だ。この假名垣魯文の作品も、初め『仮名読新聞』で連載を開始したと言う。しかし2日で中絶し、「絵入読本」で改めて刊行することになった物だ。すなわち、この事件を一つのドキュメンタリーとして全八編24回にわたるシリーズものとして出版した。明治十二年二月二十二日に初編、八編は同年の四月二十二日には発行されたと言うから、ほぼ1週間に一編という短い間に発行されたわけだ。しかも一編が3話で二日に1話というペースでいわば新聞の連載とさほど変わらない。事件後のこの短い間に発行したのは、もちろん、こうした話題は読者の興味を惹きつける期間が短いからだろう。しかし先ずはこの作者の筆力に驚かされる。

さて、この「絵入読本」と言う形式は江戸時代の「合巻」のようなもので、全編総ルビで挿絵が多くあり、庶民にとってわかりやすい読みものだったらしい。現代の劇画の、文字が多いものと考えればいいかもしれない(画像参照)。そして内容も実際の事件を題材にして、ゴシップ好きの庶民に受けるものとしたようだ(ただ、現在は決して読みやすくはないが)。

さて、内容は実際の事件を題材にしているが、そこにはかなりの虚構があるようだ。実際のお伝と言う人物がどのような生まれで、何をしてきたかはある程度はわかっているようだ。しかし、この作品はあるところでは強調し、粉飾している。つまり「毒婦」と言うイメージにあうように話を面白くしているきらいがある。

このお伝という女性の事件はズバリ強盗殺人事件である。具体的には借金を返済するために姉の良人吉蔵という男に相談し、金を無心したが、関係を迫られ、しかも貸してくれないので、寝ている吉蔵に馬乗りになって剃刀で首を切り、殺し、金を奪ったという事件である。ただその際、罪を逃れるためか、これは姉の仇討ちだとする書き置きをその死骸においたという。吉蔵は姉を殺し、自分までも手込めにしようとした悪人だと。そして姉の墓参りを終えたら自首すると。(八編二十三回、画像参照。当時の絵入り版と翻刻した明治文学全集版の本文)

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明治文学全集の本文
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この本文を読むと実にリアルにその場面を描いているのがわかる。まさに記事というより小説である。ここに魯文の筆力がある。

ただ、驚くべきはここに至る「お伝」をその誕生から説き起こし、さまざまな人生の苦難を描いていることだ。どれだけの情報がこの短期間にあったか、どこまでが事実で虚構かわからないところだ。その中で、注目すべきは高橋波之助という人物との結婚生活だ。この波之助にハンセン病の兆候が表れ、治療費のために田畠を売ったり、身を売ったりの夫婦生活だ。ここでは「毒婦」というよりは夫の病を必死に看病する「孝女」の趣まである気がする。ただ、この波之助は明治5年9月に死去してしまう。ここから9年8月に殺人容疑で逮捕されるまでの凡そ4年間、お伝はつぎつぎと男を変えて渡り歩き、生きていくことになる。ここでも魯文の筆力と想像力に感心するしかない。また、お伝という女性を描く魯文の筆はこれまでの滑稽本作者の筆ではない気がする。

「嶋田一郎梅雨日記」

岡本起泉篇

これも当時流行とも言えた、事件に基づいた読本だ。その事件とは当時の権力者大久保利通暗殺事件である。その首謀者が嶋田一郎という人物。その一代記という形になっている。全5編15刷の明治式の合巻である。

この事件が起きたのが、明治十一年五月、この書の初編が発表されたのが翌年の明治十二年七月、完結したのが同年十二月だから、これも素早い出来上がりと言える。こうした事件に基づく物語は庶民の関心が薄れないうちに売るのが常套だが、それにしても単に事件そのものではなく、その首謀者の一代記まで仕上げるのは、やはり当時の戯作者の筆力に脅かされる。ただ、前の「お伝」の毒婦ものと違って、ことが権力者の暗殺事件だけに筆者もかなり気を遣ってはいるようだ。例えば、こんな件がある。ことが起きて、犯人たちが自首する記述の前に以下のように言い訳している。

此段尚記すべき事多けれど大方ハ憶測に類するのみか憚り多き事共なるが上に記者も爰に至り急に腕萎へ指しびれ胸塞がり筆の運びの渋りて其状を委しく記し能ハざれバ其大略を記すのみ看客よろしく察せられよ(筆者電子化、ルビは省略)

こんな言葉が挟まるのが、今読むとおかしいが、事件の性質が性質だけに作者も危ないと感じたに違いない。しかし、この一代記、明らかに犯人島田一郎に同情的なのは明らかだ。書き出しの嶋田一郎の出生の記述も加賀の足軽の長男だけれども、その父は実直な人であったとしているし、いわばその「孝子」だとしている。また、途中のこれは潤色だろうけれど芸者梅吉との絡みにしても決して悪人とは描いていない。実はここがこうした読本が大衆受けする要素なのだ。時は西南戦争時である。背景にやはり不平士族の鬱憤がある。そして庶民の鬱憤もあり、時の権力者よりも、それに一矢を報いる側に同情的なのである。しかしだからと言ってこれを声高に言うことはできない。事実、この犯人側を擁護する発言は幾つかあったようだが、即刻罰せられているという。

この途中の文言にこそ当時の戯作・読本の特質が現れているように思う。

「澤村田之助曙草紙」

岡本起泉篇

これは当時の名俳優、女形の沢村田之助の一代記。これも事実性を重視した五編一五刷の明治式の合巻。ここは第五編の序を引くのがいいだろう(画像参照、筆者が電子化するより総ルビの原文の方がよい)。ここで筆者はこの役者がいかに凄いかを説いている。早くから男遊び(絶世の美少年だった)や女遊び(役者は遊理でモテた)を繰り返し、そのせいか、はたまた舞台の宙吊りから転落のせいか、晩年手足を切断する羽目に陥る。しかしヘボンによって治療を受け(切断したのはヘボン。画像参照)、アメリカら義足を輸入してもらい、舞台に立ち続ける(といっても女方で遊女の役が多く、座っての演技が多かったというが)。しかし、三十四歳の若さで発狂して死したという。こうした役者についての事実性の高い物語は当時も庶民層に受けたに違いない。今でも芸能人ネタは週刊誌を賑わせている。ただ、この沢村田之助の話は小生の好きな成島柳北が田之助の没後直ぐに語ったというように、旧時代の(江戸時代的な)いわば手足を切られた状態で何もできなかった者たちにとってのヒーロー的象徴でもあったようだ。

鳴呼、彼レハ真ニ俳優中ノ人傑ニ非ズヤ、余ハ幕府ノ遺民ナリ、幕府麾下ノ士其ノ麗億ノミナズ、皆嘗テ観棚上ニ坐シテ親シク田之助ノ演劇ヲ看タル者ナリ、而シテ済々タル多士ハ尽ク偉丈夫ニシテ手足備ハル、然ルニ今日ニ至テ往々自カラ其ノ口ヲ糊スルニ難ク、手有レドモ一技ノ為ス可キ無ク、足有レドモ独リ立ツ能ハズ、旦暮凍飢ニ迫ルノ状傍観スルニ忍ビザル者有リ、此輩田之助ノ風ヲ聞カバ、豈深ク心ニ愧ヂザランヤ、今ヤ田之助死セリ、余一文ヲ草シテ之レヲ哭シ、併セテ以テ自カラ戒シム、(成島柳北「哭澤村田之助」「文芸倶楽部」版『柳北全集』より、一部漢字改め、筆者電子化)

明治文学全集の本文
明治文学全集の本文
元の画像付き本文
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「金之助の話説」

前田香雪?篇

「東京絵入新聞」で大ヒットした「つづき物」。明治十一年八月二十一日から二十八日と九月三日から十二日までの連載。執筆者は実は不明。女遊びで借金を作って勘当された金之助という人物、馴染みの芸者小蝶に諭され、一念発起して大阪に降り、新聞の予備売りから始めて成功し、借金も返し、親にも認められ、小蝶とも添い遂げるという物語。これまで見てきたものとは異なるが、これも新時代の、その身一代の勤労と努力によって成功するのだという世相を反映しているという。

「巷説兒手柏」

高畠藍泉篇

これは全編、活版印刷の東京式合巻。この活版印刷は以前よりあったが、やはり木版の方が戯作には適していたようだ。すなわち絵が入り、くずし字がその周りにあるレイアウトの戯作は板に自由に彫れる木版が適していたし、江戸時代からの読者には馴染みがあった。しかしそれをあえて全編活版印刷にしたのは、新時代の教育を受けた読者を想定していたという。内容も勧善懲悪というより、幕末から明治にかけての人生模様を描いている。

「蝶鳥紫山裙模様」

高畠藍泉篇

これも同じ作者のもの。全編、活版印刷の東京式合巻。ただ元は雑誌に三十七回に亘って連載されたもの。しかし前作とは違って、所謂「仇討ちもの」。これも実際にあった住谷兄弟の仇討ち事件を題材にしている。「仇討ちもの」はいわば伝統的な題材だが、明治に入って仇討ちは禁止になっている。それだけに逆に新鮮な事件であり、庶民の関心を大いに引いたと思われる。ただ、内容が作者の前作とは違って勧善懲悪的な物に戻ってしまっているようだ。

「冠松眞土夜暴動」

武田交来篇

木版刷の明治式合巻。神奈川県下に実際に起こった農民暴動事件の合巻化。やはり事実性を強調した作品。眞土は現在の平塚にある一村。そこでの農民暴動は地租改正等を背景に、借金をした上土地を奪われた農民たちが暴徒化、戸長一家を殺害した事件。もちろん首謀者たちは斬罪ということになるが、多くの減刑の嘆願書が出され、結果無期懲役に減刑された(後恩赦になったという)。当然世論は農民側に味方したし、この物語も同様である。最末尾に言う。

茲に至て悪人亡び善人栄ふる冠の松真土の夜暴動晴わたり潤沢土地ぞめでたしめでたし(筆者電子化、一部漢字変更)

「勤王佐幕巷説二葉松」

宇田川文海篇

これも所謂「つづき物」。東京式合巻。ただ、大阪の「朝日新聞」に連載された。当時大阪はこうした出版では東京に遅れをとっていたようだ。しかしこの作品はヒットしたという。内容は所謂「お家騒動物」。尾張徳川家の幕末の内部抗争を描いている。もちろん実名は使っていないが、倒幕当時の尾張徳川家の微妙な立場を背景にしたお家騒動というか、内部の抗争を事実に基づくと言いながらかなりの粉飾を織り交ぜて描いている。尾張は実は倒幕にとって重要な地理的位置にあった。薩長は西だから当然倒幕となれば東征ということになり、尾張を通らなければならない。徳川となれば当然佐幕となるはずだが、そうでもないのだ。もちろんこの作品は明治になってから書かれているから結果は承知している。しかしそこをいわば芝居仕立てで描いたところに読者の興味を惹いたようだ。

「淺尾よし江の履歴」

古川魁蕾篇

これも「つづき物」。「東京絵入新聞」に明治十五年四月二六日から八月五日まで87回に亘って連載され、後に「浅尾岩切真実競」として刊行された。東京式合巻。かなり読まれたらしく、坪内逍遥の「当世書生気質」にも紹介されるほどだった。なんと舞台は宮崎。そこの芸者若鹿という女は、岩切滋雄という若い官吏と恋仲となり、その後引き裂かれてお互に不幸な運命に陥ったが、一途に想いを通して、めでたく岩切の妾となることが出来たというお話。「妾」になることがめでたいかどうかはともかくとして、当時としてはそれも幸せの形だったのかもしれない。これも当時の庶民にとっては心をくすぐられる話だったようだ。

「惨風悲雨世路日記」

菊亭香水篇

この作はこれまでのものと形や内容が異なっている。まず発行だが、まず初めに「月氷奇遇艶才春話」と題され、明治十五年に上中二冊が刊行されたが、下は発刊に至らず、二年後にこの題名で上中下一冊として発刊されたという。また内容もこれまでの戯作とは違って翻訳物を参考にした恋愛小説というものだ。所謂人情本とも違うし、事実に基づいたつづき物とも違っている。いわば近代小説の先駆け的作品と言えるようだ。

青年教師の久松菊雄という人物が主人公。教え子の松江タケと将来を誓う仲となるが、この二人、さまざまな障壁に会いながらも添い遂げていくというストーリー。その間に当時の教育界への批判があったり、時代風潮への批判があったりし、最後には政治への傾倒が語られる点も新しいと言えそうだ。しかし文章は硬い漢文調で全く新しさはない。例えば以下のような調子だ。

 固本県ノ学務課員ニ能ク人材ヲ観察シテ以テ之ヲ登用スルノ識見ニ富ル者アルコトナク亦夕彼ノ巡回教師ノ如キ学区取締ノ如キ多クハ是レ愛憎ニ因テ事ヲ行ヒ私謁ヲ受ケテ務ヲ弁スルモノ少シトセス現ニ余カ知ル所ノ村井氏ノ如キハ才学共ニ兼備シテ加フルニ能ク意ヲ学事ニ注キ同校ノ進歩較観ル可キモノ少キニ非ラスト離モ憫ム可シ更ニ一等ヲ進タルコトナク之二反シテ彼ノ滝某ノ如キハ浅学不才一章ノ文辞スラ容易二之ヲ綴り得ル能ハス只兵長スル所ノモノハ軽弁卜諛笑トノミ然レトモ彼レ既ニ彼ノ高等ニ在り(中略)実ニ長大息ノ至リニ堪へシャ(第五回)

主人公が不当配転にあって怒っている言葉である。

この作品はこれまでのものと違って、それなりの教養を身につけた新時代の青年たちが読者だったのだろうと思われる。

おわりに

いやいや二冊目もかなり難航した。しかしなんとか終わった。この時期の作品はまさに過渡期で江戸時代的なものと新時代的なものとが複雑に絡み合っている。文章の形もその内容もだ。そこが読みにくい一つの原因でもあるが、この明治文学全集が二段組で多くの活字を詰め込んでいるせいでもある。また多く総ルビだというのもかえって読みにくい原因でもある。

なお、最後に「新舊過渡期の囘想」という坪内逍遙の文章が収められているが、これは解説の一つなので取り上げなかったことをお断りしておく。

2025.05.13

この項 了