日本近代文学総復習明治文学編3『明治啓蒙思想集』を読む。

はじめに

まず、はたしてこれらは文学と言えるのか、という疑問が起きる。文学には評論(批評)というジャンルもあるが、ここにある文章は、そうした枠を遥かに超えている。いわば明治初期の思想的文書ということになる。しかし、この明治初期の思想的文書は間接的にその後の文学にそれなりの影響を及ぼしているという点で無視はできないのもまた確かである。ということでこの難解な文章をなんとか読み解していきたい。

思想家たちの共通点

さて、ここに登場する思想家たちの共通点はどにあるだろうか。まず言えるのは、いずれもはじめ儒学を学んで、後幕末に洋学を学んで、ほとんどが幕府に出仕し、維新後新政府に呼ばれて、新政府内で重要な役割を果たした人物だ、ということだ。

そこでこの思想家たちの出自と経歴を並べてみる。(本書の解説とネット上の情報による)

西周(にし あまね)
石見国津和野藩の御典医の家柄の出。
漢学の素養を身につける他、藩校で蘭学を学ぶ。
蕃書調所の教授並手伝となり哲学ほか西欧の学問を研究。
幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学。
法学・カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。
帰国後、目付に就任徳川慶喜の側近として活動。
王政復古後徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。
明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕。
軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努める。
明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。
津田眞道(つだ まみち)
美作国津山藩の料理番の家柄の出。
江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
蕃書調所に雇用される。
オランダに留学。
幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。
大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想。
明治維新後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。
外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。
のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官、元老院議官。
明六社の結成に関わる。
第1回衆議院議員総選挙に東京府第8区から立候補して当選。
杉亨二(すぎ こうじ)
肥前国長崎の医者の家柄の出。10歳の頃、孤児となる。
祖父・杉敬輔の友人上野俊之丞が経営する上野舶来本店(長崎の時計店)に丁稚奉公。
江戸幕府の蕃書調所教授手伝となる。
幕府直参として登用され、蕃書調所が改組されてできた開成所の教授並となる。
明治維新後は、津田真道が学頭をつとめる静岡学問所で教える。
西周が校長をつとめる沼津兵学校でフランス語を講じる。
明治維新後民部省に出仕。戸籍調査を命じられるが、これを拒否して辞任。
太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)に任ぜられる。
明六社の結成に参加している。
太政官正院政表課課長となる。
加藤弘之(かとう ひろゆき)
但馬国出石藩の家老家柄の出。
江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
明治維新後新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。
明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
『人権新説』出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確する。
『強者の権利の競争』では、強権的な国家主義を展開した。
『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。
神田孝平(かんだ たかひら)
岩手旗本竹中家家臣神田孟明の側室の出。
牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学ぶ。
幕府蕃書調所教授となり、同頭取に昇進。
明治維新後明治政府に1等訳官として招聘される。
兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任。
その間、地租改正を建議するとともに農民の土地売買の自由を唱える。
元老院議官就任。
貴族院議員に選出される。
森有禮(もり ありのり)
薩摩国薩摩の藩士の出。
造士館で漢学を学び、藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。
イギリスに密航、留学しユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学ぶ。
帰国後外国官権判事に任じられた。
少弁務使としてアメリカに赴任する。
明六社を結成する。
『明六雑誌』に「妻妾論」を発表。一夫一婦を主張する。
英国公使になる。
第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任。
国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺され死去。
箕作麟祥(みつくり りんしょう)
美作国津山藩の藩士の出。
藤森天山・安積艮斎に漢学を、家と江戸幕府の蕃書調所で蘭学を学ぶ。
ジョン万次郎(中浜万次郎)について英学を学ぶ。
蕃書調所の英学教授手伝並出役となる。
徳川昭武とともにフランスに留学した。
帰国後開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。
外国官(現・外務省)翻訳御用掛となる。
同年大学南校(現・東京大学)大学中博士に転じる。
和仏法律学校(現・法政大学)の初代校長に就任する。
明六社において、啓蒙活動にも力を注いだ。
中村正直(なかむら まさなお)
幕府同心の出。
築地の井部香山の塾で漢学を学び、翌年桂川甫周から蘭学の指南を受ける。
昌平坂学問所の寄宿寮に入る。佐藤一斎に儒学を、箕作奎吾に英語を習った。
甲府徽典館の学頭となる。
幕府の御用儒者となる。
幕府のイギリス留学生監督として外山捨八(正一)等の留学生12名を引き連れて渡英。
静岡学問所の教授となる。
サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』の邦題で出版
ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』の邦題で出版
大蔵省翻訳局長に任じられ、後に帝国学士会員、東京大学教授となる。
女子教育・盲唖教育にも尽力。
明六社の設立に参加。
洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になる。
貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。
西村茂樹(にしむら しげき)
佐倉藩の支藩佐野藩の側用人の出。
藩校である成徳書院に入り、藩が招いた安井息軒から儒学を学んだ。
大塚同庵に師事し砲術を学び、翌年、佐久間象山について砲術修業をした。
堀田正睦が老中首座・外国事務取扱となると、貿易取調御用掛に任じられた。
明六社を結成。
文部省に出仕し編書課長に就任。
儒教主義的徳育の強化政策を推進した。
また漢字廃止論者として『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』を発表した。
天皇、皇后の進講を約10年間務め、
東京学士会院会員、貴族院議員、宮中顧問官、華族女学校の校長をつとめた。
『日本道徳論』を刊行した。

こう並べてみると、いずれも決して雄藩の中核にいた家の出ではないことがわかる。杉亨二などは時計職人の丁稚から身を起こしていることからも言えるように、幕末維新という混乱期にあっては家柄ではなく、個人の意欲と能力がいかにものを言ったがわかる。

次にほとんどがまずは漢学すなわち儒学を学び、その後蘭学・洋学を学んでいる点、また、いずれの人物も自分が所属したところから脱出している点だ。いわば脱藩している。そして国の内外に留学している点が見逃せない。もちろんこれが啓蒙思想家の特徴、すなわち洋学を学んだということになるが、そうした者たちをいち早く登用したのが幕府側だったということも見逃せない点だ。

ここに登場する人物たちはほとんどが幕末の幕府に出仕しているのは、当時政権にあった幕府にこそ西洋の優位性がはっきり見えていたからだ。西洋の学問や制度を取り入れるのが、流行りの言葉で言えばいかに「喫緊の課題」であったかがわかっていた。それに対して維新を担った倒幕派は「尊王攘夷」というイデオロギーに呪縛されていたため、実は気づいていたには違いないが、表立って認めるわけには行かなかったというわけだろう。しかし自分たちが政権を担ってしまうと、いかにそうした人物が必要かがわかったというわけだ。そして自分たちの周りにはそうした人物がいなかった。しかもこの啓蒙思想家たちはもともと軽輩の出で、決して幕閣の中心にいたわけではなかったからだ。ここにもこの思想家たちの特徴があると言える。

さて、前提はこのぐらいにして、ここに登場する思想家たちは、それぞれ何をなしたのか、その著作に即して見て行きたい。

西周について

まず、以下の語彙を見ていただきたい。

「理性」「感性 」「演繹」「帰納」「観念」「命題」「主観」「客観 」「総合」「実在」
現在では実に一般化した語だ。もちろん一般の人々はあまり使わないかもしれないが、決して特殊な語彙ではない。ただ学問的な語彙である。実はこれらの語彙は西周が初めて英語の訳語として使ったと言われている。それぞれ以下の訳語なのである。

「理性=reason」「感性=sensibility」「演繹=deduction」「帰納=induction」「観念=idea」「命題=proposition」「主観=subject」「客観=object」「総合=synthesis」「実在=being」

全て初めは哲学用語だった。そもそも「哲学」という語も西の作った訳語だと言われている。

その著作「百一新論」の末尾に「物理」と「心理」の区別と総合を論じて言う。

ここは「明治文学全集」の本文と「日本の名著」の本文、それと口語訳を示す。(いずれも画像。)(はっきり言って明治文学全集の本文は実に読みにくい。これはカタカナ表記に我々が慣れていないせいなのだが、ひらがな表記に直しただけの「日本の名著」の本文になると俄然読みやすくなる。また菅原光氏等による現代語訳の仕事も素晴らしい)

本文比較
本文比較

さて、ここまで「百一新論」で西は儒教について批判してきている。その骨子は儒教が個人的な「徳」を重んじ、それをそのまま現実の「政治」に実現できるとした点に対する批判だと言える。「礼」から「法」、「法」から「教」へいう流れで論じている。実はこうした儒教の論点は小生には難解だ。ただ、受け取れるのは西が所謂「実証」を重んじる姿勢を貫いている点である。例えば「神風」を否定している部分に現れている。これは天然現象、すなわち「物理」である、とはっきり説明している。そしてそれをどう受け止めるかが「心理」であるとする。そしてそこを総合するのが「哲学」だと言うのである。そしてそれを体系化しようとしたのが「百学連環」と言う著作である。これは未完に終わったが、西が試みたのはこれまでの「知識」の西洋的な実証主義で再編することだったようだ。

また西は実に現実主義的な功利主義者であることが「人世三宝説」を読むとわかる。人生においては「健康」「知識」についで「富有」こそ必要だと解いている。さらには「天授の五官」に基づく実際の学を説いたことも注目される。

もう一つ注目すべきは西がローマ字による日本語表記を本気で奨めていた事実だ。これは「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」を読むとわかる。実は西も論文の漢字とカタカナの文章を問題視していたのだ。これは他の論者も触れていることだが、当時にあっては大問題であったようだ。現代の我々がこの時期の西のような優れた論客の文をまともに読めないのは実に学問にとって大きなマイナスであるのは事実である。先に画像で示したところをよく見て貰えば、この日本語表記の問題は決してなまじに否定することはできない気がする。これはやがて「言文一致」の運動へとつながっていくことになる。

西周についてはこの辺りで筆を擱くこととする。

津田眞道について

略歴にある通り、津田も西と同様な道を進んできた。しかし唯一異なるのが、津田が幼少期から国学に親しんできたことだ。これが後の思想にどんな違いを生んだかは詳らかにしないが、和歌に通じていたことは西との大きな違いである。その著「天外獨語」も和文で書かれている。内容は平田篤胤風の狭隘な攘夷運動の無知を指摘し、富国強兵策を説くにあたって、進化思想や、西洋風の哲学を援用している点にあるが、これを和文脈で書いている点もこの時期のこうした文書としては特筆に値すると言っていい。

さて、津田は日本においての法学の先駆的な役割を果たした人物だが、その「泰西法學要領」はまさに要領に過ぎないが、初めての法学通論と言っていいものだ。

また、この書(明治文学全集)ではその他、“公議所議案集”があり、これは維新後の新官僚としての改革意見が述べられているものだが、一つは「人身売買」を禁ずべきとする論と「年号」を廃止すべき論がある。

さらに『明六雜誌』より数編の論文が紹介されているが、注目は

「開化を進むる方法を論ず」で開化=文明化のためには、キリスト教の普及が不可欠としていること

「拷問論」で欧米との対等と条約改正を志向するために拷問の廃止が重要だとしていること、

「死刑論」で復讐を禁止して死刑を禁止しないのは文明ではなく、社会から犯罪者の害悪を除去するには流刑または禁錮・労役従事・終身刑で十分だとしていること、

「情欲論」で「他人の自由を害する」ことは「不義」であるが、「情欲」(欲望)とは「天性の自然に出ず」ものであり、「国人一般身体上の幸福」をもともなった「自由」こそ真の自由であるとして、一定程度欲望を肯定し、人間生活を歓楽・快楽に変えることができると肯定していること、

等である。また、夫婦や男女の同権的な発想も語られているものも注目に値する。

さらに『東京學士會院雜誌』よりと言うことで
「唯物論」が挙げられ、西と同様な実証主義的な考え方が語られている。これはコントの実証主義の影響とされている。

そして最後に「如是我觀」と言う出版された小品集が載せられている。

こう見てくると津田真道の思想はキリスト教に立脚し、寛容をモットーとする政治的リベラリズムであり、自由主義経済を唱道する、西洋型の自由主義社会を志向していた、と結論できそうだが、明治政府内部に居続けたためかどうか、この政府が持っている反自由主義的な側面を批判はできなかったようだ。この辺りにもこの明六社の啓蒙思想家たちの特徴があると言えるかもしれない。津田についてもこの辺りにしておかざるを得ない。

杉亨二について

この人物はここの明六社の中でも異色な存在である。履歴のところでも示したようにその出自や年少の頃の生活は他の明六社の連中と全く異なる。それは単に彼が孤児で時計職人の徒弟であったということだけではない。殆ど漢学の薫陶を受けていないという点である。この点は杉がその後幕府や明治政府に身を置きながらあまり政治的な発言や行動をしていないことに影響していると思われる。江戸時代の漢学すなわち儒教の学習は個人的な倫理はもとより支配の、すなわち政治の学問を学ぶということであった。この明六社の啓蒙思想家たちの殆どは西洋の学芸や技術を取り入れたが、その奥には支配のための政治的な要素を持っていたといっていい。そうした漢学の薫陶を受けていないということで杉には政治的な要素が希薄であったと言えそうだ。従って、この杉はもっぱら統計学の泰斗として知られていて、明治政府にあっても技術官僚として過ごし、明治の政変や自由民権運動にも殆んど反応を示していない。しかも、福沢諭吉を除き、他のこの明六社の啓蒙思想家たちが後に貴族院議員となり華族に列せられたが、彼は在野の一統計学者として生涯を終えている。

しかし、ここでは以下のやや政治的・経済学的文章が掲載されているのでそれぞれについて触れておきたい。

「南北米利堅聯邦論」「空商事ヲ記ス 」「真為政者ノ説 」「人間公共説 」「貿易政正論」「想像国説」の六編である。

まず「南北米利堅聯邦論」「空商事ヲ記ス」は万国史の事例の殆んど翻訳のようだ。杉は旧幕時代、開成所で大部の万国史 (十冊)を二年半余かかって通読したという。そこでフランス革命の記事にいたく驚き、アメリカの歴史も学んだようだ。その成果ということだろう。

「真為政者ノ説」では真の為政者は内外の歴史に照らして現状を把握し「民情」にも通じて政治を行うべきとしている。ここに先ずは実態を把握するという後の統計学への傾斜がうかがえるという。しかし概念的な一般論に終わっている。

「人間公共説 」もやはり学んだ洋学の翻訳に過ぎず、当時こうした洋学者に一般的な天賦人権論による社会契約説を述べたに過ぎないようだ。

さて、ここでもっとも注目されるのは「貿易政正論」・「想像国説」ということになる。

これはいわゆる保護貿易説である。当時明六社の西・津田らは自由貿易説を説き、それが主流であったようだ。それに対して保護法を行って自国の生産力をまず高めるべきだとしている。しかも輸入超過は金銀の流出を拡大し、最終的には枯渇し、ついに相手にされなくなり、自然に鎖国状態に陥り、世も漸々不自由になるとの想像説である。そして「是ニ至テ仏国ニテ唱フル『コムミニスミス』ノ説ノ始テ我国ニ行ハルルカ」云々として警告している。これは一種の極論だが、こうした説は実は杉が「明治六年以来の海外貿易表の作成に当っていたこと」の実績が裏付けとなっていたようである。

やはりここでも杉亨二は統計学の人である。杉亨二についてはここまでとする。

加藤弘之について

この人物は啓蒙思想家の中でも最も極端な振れ幅のあった人物といえる。加藤も初めは洋学に基づいて天賦人権論・社会契約論者であった。しかし、国会開設運動の高まりの中で転向し、社会進化論を唱えて、明治末期頃までには「極端な国家主義者」の烙印を押されるまでに国家主義へと傾斜していったと言う。

さて、この書では「民選議院ヲ設立スルノ疑問」・「馬城臺二郎ニ答フル書」・幾つかの『明六雜誌』の論文・『國體新論』・『人權新説』が収められている。

初めの二書は所謂民選議院開設運動に対する加藤の立場を表明した書。所謂時期尚早論と言う立場だ。馬城臺二郎とは民権運動の指導的立場にあった大井憲太郎のことである。『明六雜誌』の論文もこの時期の加藤の立場を表明したものだ。

さて問題は後の二書である。

『國體新論』は加藤の初期の思想を表明したものだが、転向時自ら絶版にした書。『人權新説』は転向後の加藤の立場・思想を表明したものだ。

『國體新論』はその章立ての文言を見ればその内容がわかる。以下だ。

  • 第一章 国家民君成立セシ所以ノ大原因
  • 第二章 国家ノ主眼ハ人民ニシテ人民ノ為メニ君主アリ政府アル所以ノ理
  • 第三章 天下ノ国土は一君主ノ私有ニアラズ、唯之ヲ管理スルノ権特ニ一君主ニアル所以ノ理
  • 第四章 君主及ビ政府ノ人民ニ対セル権利義務并ニ立法司法ノ二権柄
  • 第五章 人民ノ君主政府ニ対セル権利義務
  • 第六章 人民自由ノ権利及ビ自由ノ精神
  • 第七章 国体ト政体ト相異ナルノ理并ニ政治ノ善悪公私必ズシモ政体ニ由ラザルノ理

ここで述べられていることは、本来の社会契約思想とはいえなかったとされるが、それでも政府の目的を人民の保護におき、私権を天賦のものとして認めると言うものであったようだ。また、人民の自由と権利をしっかり認めるよう述べている。

こうした論を自ら絶版にしたわけだ。そして『人權新説』を書いた。緒言に言う。「優勝劣敗是天理矣」と。そして第一章は「天賦人権ノ妄想ニ出ル所以ヲ論ズ」と題している。この「優勝劣敗是天理矣」こそ進化論の文言だ。進化論はもとダーウィンが唱えた「進化は生存競争・自然淘汰・適者生存による」とする自然科学の論であったはずだ。これを社会に適用したのが「社会進化論」と言うことになる。そして、これが「人間は生来自由・平等で、個人が契約を結んで国家や政府を設立した」という社会契約論に対する批判の理論として用いられたと言うわけだ。しかもこの「優勝劣敗」と言うことが「強者・適者の理論」と言う形をとって現状の社会を固定的に支持する理論となったようだ。しかし、スペンサーが唱えたという「社会進化論」は決してそれだけのものだけではなかったようだが、これがドイツにおいては国家〔全体〕があって個人があるというもともとドイツにおいて発達した国家有機体説と結びつきプロイセン啓蒙専制君主の支配を正当化する理論に変更されたと言う。

しかし、それにしても加藤弘之はなぜこんな大きな転向をしてしまったのだろうか。ここにこの時期の啓蒙思想家たちの特質が隠れていると思う。ある評者は加藤がドイツ語を主に学び、ドイツの哲学に影響されたためだとしている。福沢諭吉はイギリス流だからそうならなかったと。しかし、これは浅学な小生の創造に過ぎないが、やはり加藤の「支配の側に居たい」と言う止みがたい願望によっているのではないかと思う。それはこの啓蒙思想家たちの共通の特質だと思う。それともう一つ明治新政府が西洋的な制度と思想を維持しながら、一方で維新を推進した「尊皇攘夷」思想を捨てきれないと言ういわば矛盾した両面をどう同調させるかという要求の結果かもしれないと思う。この転向の直前、加藤は所謂「尊皇攘夷」論者に脅迫を受けていたと言う事実があるらしい。こうした内実は昭和の戦争期まで引きずることになる。あ〜あ。

加藤弘之についてはここまでとする。

神田孝平について

彼はこれまで見てきた思想家より地味な存在である。しかしそれは必ずしも彼が歴史に残した役割と業績が劣っていたためとは言えない。むしろ地方官としての業績や税制改革、民会設立の考え方は他の啓蒙思想家たちよりは優れたものがあったような気がする。

この書では以下の論書が掲載されている。

「農商辨」「會議法則案」「褒功私説」「日本國當今急務五ケ條の事」「論重板」「江戸市中改革仕方案」「人心一致説」「田税改革議」「“公議所議案集”から三編」「“民會規則”」「『明六雜誌』より・五編」「『東京學士會院雜誌』より九編)

である。

いずれも短いものだが、中心は経済学の分野というか財政に関する著作と言うことになる。これは幕府にいた時からのものから新政府に出仕してからのものまで収められている。

「農商辨」は幕府にいた時の作だが、趣旨は「課税対象を「農」の「産物」から「商」の「利」へと移行すべきだと」言うものである。これは江戸時代の租税を根本的に変更する考え方である。また、新政府時代も「地租改正」に関してかなり重要な役割を演じたようだ。

もう一つは所謂「民会」の必要性を説いたものだ。

「江戸市中改革仕方案」では、地方政治のレベルだが、「民」の代表者による議決機関としての議会開設を主張」していることが注目される。

また、幕府時のものだが、「會議法則案」で、従来では政策決定に加わることのできなかった武士の意見を政策に反映させるため「會議」に諮問機関としての役割を持たせようとした点も見逃せない。

これは「日本國當今急務五ヶ條の事」で、「士」の「衆議」のみならず,「農」・「工」・「商」をも含める「國人」の「衆説」を政策に反映させる必要があると説いた点も所謂民主主義的な意思決定を考えていたことを伺わせる。

こうなると、所謂自由民権運動の国会開設論に対しては大賛成ということになるはずだが、ここは他の明六社の同人同様、時期尚早論の立場だったようだ。しかし実際はまずは地方自治体においての「民会」の開設を考えていたようで、実際に兵庫県令としてその実現に努めている。

そのほか、「国楽ヲ振興スヘキノ説」(『明六雜誌』)や「邦語ヲ以テ教授スル大学校ヲ設置スヘキ説」・「暦法改良論」(『東京學士會院雜誌』)などユニークな提案もある。

なお、孝平は「たかひら」というらしい。

神田孝平についてはこれくらいにしておく。

森有禮について

今度は神田と違って派手な存在の森有礼。なぜ派手かというと、留学やアメリカ行きで学んだことを派手に意見し、周囲を巻き込むのが好きだったからだ。その結果かどうか最後は暗殺されるという派手な死に方をした。

この森の成したことはいくつかあるが、まずは一夫一妻制の主張と契約結婚の実施である。これは『明六雜誌』に発表された「妻妾論」に詳しい。一夫一妻制は今となっては当たり前のことだが、明治初年はそんなことはなかった。むしろ「妾」を法的に保護することさえ行われていた。これは所謂伝統的な「家」社会というべき日本の旧来からある制度を守る姿勢が明治新政府にも踏襲されていたことを意味する。しかもそれは家父長制を意味し、所謂男女同権、夫婦同権に大いに反していた。これを森はアメリカでのキリスト教の感化から敢然と否定しようとしたわけだ。この論文は明六社内でも激しい論議を生んだようだ。血統を守る上で「妾」は必要とする説や、更にはその頃流行した「レディファースト」に対しての反感(加藤弘之)まで生んだ。血統については「養子」制度があって「妾」を必ずしも必要としないと森は述べていて、森も「家」制度そのものは否定したわけではなかったようだ。福沢諭吉は「男女同数論」で曖昧な同調論を述べている。つまりこの頃の開明的と言われた連中も結局は所謂男女同権、夫婦同権の何たるかを本当は理解していなかったと思われる。

また森は公議所の議案で「廃刀論」を述べたが、ほとんどの所員に反対され、一時野に下ることになった。このように森は新しいことを敢然と述べる点では他の明六社の人々より長けていたようだ。

さて、この森のなしたことのもう一つは文部行政への貢献である。森は伊藤内閣の初の文部大臣である。その辺りは「教育論」「學政片言」「學政要領」「兵式體操ニ關スル上奏案」に詳しい。こうした森の文部行政へその後の日本の教育制度の根幹を成したものだ。

しかしそれにしても森がこの時代において敢然と述べたことの多くは今しっかりと実現していることを考えると、今から言えば限界はあるものの確かに優れた人物であったっことに間違いはない。

森の暗殺については伊勢神宮での不敬によるもので、所謂尊王論者によって行われたという。それだけ森は近代主義者とみなされていたようだ。

この書では他にロシヤ留学の紀行文「航魯紀行」が収められている。

森についてはこの辺でおわりにしておく。

箕作麟祥について

この人物は明六社の中でも最も地味な存在と言える。小生もこの書を繙くまで寡聞にしてその名を知らなかった。ある意味それが仕方がないのは、この箕作にはまとまった著作がほとんどないためだ。

ここでも『明六雜誌』より三編と「國政轉變ノ論」があるのみである。しかし彼は法学の面ではかなりの実績を残したようだ。特にフランス民法の翻訳と明治期の法典編纂事業、とりわけ「民法」の編纂には多大な貢献をなしたという。それは何よりもその語学力によるものだが、ここに収められている諸論文もその語学力によるところが大きいと言える。(箕作は江戸時代からの蘭学者の家系のでで、蘭学者の祖父に育てられたという。江戸時代にフランスへの留学もしている。(経歴の欄参照))

さて、その「國政轉變ノ論」にはヨーロッパの革命の歴史が語られていて、これも「万国史」の翻訳(というよりほとんど翻案?理解した上で日本語で書くというもの)から得た知識によっていると言える。ただ、これは明六社に対抗する立場の叢書に掲載され、いわば革命肯定論のような要素を持っていたので、反政府側から喝采を、政府側からは非難を受けたという。もちろん箕作は政府側にいた人物なので一時その立場を危うくしたという。

しかし、この箕作も他の明六社の人々と同じようにヨーロッパの歴史は理解し、紹介するが、それを直ちに当時の日本に適用しようとは思っても見なかったのだ。

この箕作麟祥についてはこのぐらいにしておく。

中村正直について

この人物はこの中では際立って大きな存在と言える。もちろん明六社には泰斗福沢諭吉がいるが、当時においてはその双璧というべき存在だったと言える。それはこの中村正直が、略歴に述べたように、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』の邦題で出版し、ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』の邦題で出版したからに他ならない。この二書は当時のベストセラーだったようだ。福沢の『西洋事情』とともに当時の有為な青年たちにとってのバイブルと言っていい書だった。(この書ではこの二書の序文のみ掲載されている。)まさに西洋思想の紹介者であったわけだ。

しかし、この中村正直は完全な漢学者でもあった。ここに挙げられている思想家たちがみな漢学を学んでいることは述べた。しかし、中村はそれを超えて完全な漢学者であり、江戸幕府のお抱え儒者であったのだ。しかもそうでありながら、キリスト教に帰依し、洗礼まで受けているのだ。いわば一見矛盾する思想経歴にこの人物の特徴があると言える。「儒教」「イギリス流自由主義」「キリスト教」これらが、この人物の中でどう連絡しているのか、またその葛藤はあったのか、そしてそれは無矛盾であったのか、実に興味深いところではある。

さて、小生はずいぶん以前にこの人物についての小論文を書いた。題して「中村敬宇『擬泰西人上書』の近代化論」というものだ。この文書はこの書にも掲載されているが、趣旨はキリスト教の禁教の廃止と、更には天皇に受洗を奨めている点にある。何とも大胆な主張である。この書は題名にあるように、ヨーロッパ人が天皇に物申すという形になっていて、しかも匿名で発表されたが、中村の書であることは証明されている。中村の静岡時代の文書である。流石に直接的な表現は変更されたようだが、それなりの反響はあったが、いわば完全に無視されたというのが本当のところのようだ。

しかし、ここに中村の思想の特徴を見る気がする。儒教的な「天」をキリスト教の「天守」に擬え、それを「天皇」に結びつけている。しかも、日本の近代化には何より国民の自立した近代的な思想が必要でそれは天皇自らが範を示し国民に伝播させるべきだとするものだ。そこにキリスト教の思想が必要だとしている。中村正直にとっては何よりも「近代化」、それは技術的な事柄というより精神的な「近代化」が喫緊の課題で、それには「儒教」も「イギリス流自由主義」も「キリスト教」も必要であったということなのだろう。

この書には以下の文書が掲載されている。

「留學奉願候存寄書付」「敬天愛人説」「擬泰西人上書」『序跋文集』『明六雜誌』『同人社文學雜誌』『東京學士會院雜誌』より数篇「報償論」「愛敬歌」「自叙千字文」

中村正直についてもこのくらいにしておかざるを得ない。

西村茂樹について

最後になる西村茂樹はこの明六社に前の中村正直を紹介、加入させた人物。二人は明六社の中でも似たところがある。ともに儒教的な道徳観を持ち続けた人物である。ただ、中村はどちらかというと開明的で西村は保守的な人物とみなされがちである。それは西村が何より「道徳」を強調し、「弘道会」という道徳振興団体を創り、「欧化主義」に反対したからだ。しかし、中村同様西村も開明的な面を多分に持っていたように思うし、中村もやはり「道徳」の重要性を強調していたように思う。

では、西村の「道徳」とはどのようなものだったのか、それには『日本道徳論』を見るのが一番だろう。『日本道徳論』 の内容は以下の章立てで語られている。

  • 第一段 道徳学ハ現今日本ニ於テ何程大切ナル者ナルカ
  • 第二段 現今本邦ノ道徳学ハ世教ニ拠ルベキカ、世外教ニ拠ルベキカ
  • 第三段 世教ハ何物ヲ用フルヲ宜シトスベキカ
  • 第四段 道徳学ヲ実行スルハ何ノ方法ニ拠ルベキカ
  • 第五段 道徳会ニテ主トシテ行フベキハ何事ゾ

西村は近代化にとって大事なのは「国民の品性」だとしている。これはヨーロッパにおいても同じである。ただ、ヨーロッパにはキリスト教というものがある。つまり宗教が「国民の品性」をたもさせている。ここで「世外教」と言うのは西洋のキリスト教すなわち「宗教」のことだろう。「世教」とは日本の儒教や国学をいうのだろう。しかし、日本においてはそうした「宗教」がすでにキリスト教のようには存在していないとする。では日本において何をもって道徳の基礎とするか。以下のように言う。

余が道徳の教の基礎とせんとするものは儒教に非ず哲学に非ず、況して仏教と耶蘇教に非ざるは勿論なり。然れども亦儒道を離れず、哲学を離れず、仏教耶蘇教の中よりも亦之を取ることあり。

と言い、

しかし、一定の主義を確立して後に諸教の説を採るときは心配ない。一定の主義とは、二教(儒教・哲学) の精神を取り、二教の一致するところを取り一致しないところは棄てる。一致するところとは「天地の真理」である。

とする。

つまりは西村の「道徳」は儒教と西欧哲学のいいとこ取りで成り立っていると言える。そしてその「道徳」の実際は「勤勉」「節倹」「剛毅」「忍耐」「信義」と「進取の気に富むこと」「愛国の心を盛んにすること」「万世一統の皇室を奉戴すること」だとしている。そしてその実践が第一は「我身を善くし」第二は「我家を善くし」第三は「我郷里を善くし」第四は「我本国を善くし」第五は「他国の人民を善くす」ことにつながるとしている。

これは功利主義的な視点から西洋文明を理解し、取り入れることとも違うし、単に西洋技術・東洋道徳といった二元論とも違っている。この西村の道徳論は功利主義的欧化主義者伊藤博文から忌避されたと言うのも頷ける。

だが、西村は決して頑迷な保守主義者ではなかったようだ。例えば、日本においての「父子同居の風」「一家同居」を「何の用にも立たず」として、「其父母たる者は決して其子の養育を受けざる様に心掛くべきこと」と言い、当時の家父長的家族制度を否定している。また、女子の「早婚」もやめるべきとしているなど、現代に通じる考え方を述べている。

この書には『明六雜誌』より二篇、「東西政事主義の異同」、「公衆の思想」、「日本弘道會の改稱に付きて一言す」、『東京學士會院雑誌』より四篇、「日本道徳論」が収められている。

なお、ここでの引用等については定平元四良氏の論文「西村茂樹の道徳論」を大いに参考にさせてもらったことをお断りしておく。

おわりに

ようやく辿り着いたと言う感じだ。結構難儀した。前の論が五月の13日に校了しているので実に一ヶ月以上かかってしまったことになる。かといって完璧に読みこなせたわけではない。実に読みにくかった。そこで随分と先学の論文のお世話になった。ネット上の論文はいつものことだが、今回は以下の書籍のお世話にもなった。たかだか200年にも満たない時代の作品がこれほど読みにくいと言うのはある意味日本の近代の弱点?と言う他ない。江戸から明治へという激動の時代を生きた知識人の一つの姿を何とか後づけることができたかどうか心許ないが、これからの人々も是非知ってほしい事柄ではあるので、この拙い小生の紹介?を読んでいただければと思う。

参考文献

  • 『西周 現代語訳セレクション』菅原光・相原耕作・島田英明 慶應義塾大学出版会 2019
  • 『幕末維新の文化』(幕末維新論集11)羽賀祥二篇 吉川弘文館 2001
  • 『津田真道 研究と伝記』大久保利謙編 みすず書房 1997
  • 『西 周 加藤弘之』(日本の名著34) 植手通有編 中央公論社 1972
  • 『「明六雑誌」とその周辺』神奈川大学人文研究所編 お茶の水書房 2004
  • 『「自由」を求めた儒者』李セボン 中央公論社 2020
  • 『「民」を重んじた思想家 神田孝平』南森茂太 九州大学出版会 2022
  • 『新版 日本の思想家 上』朝日ジャーナル篇 朝日選書 1975

2025.06.24 この項 了

日本近代文学総復習明治文学編2明治開化期文学集(二)を読む

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「高橋阿傳夜刃譚」

再び假名垣魯文の作品。これは前回の久保田彦作篇「鳥追阿松海上新話」と同様の所謂「毒婦」物。この「高橋阿傳」の方が「毒婦」としては著名であったようだ。

「高橋阿傳」は姉の夫を殺し金を奪った罪で、否認し続けたが、明治12年1月31日、絞首刑を上回る斬首刑に処された、という。

この事件を当時盛んになった「小新聞」等がおおいに取り上げた。当時の「小新聞」は庶民向けで、こうした事件を好んで取り上げたからだ。いわば現在の週刊誌と同様だ。この假名垣魯文の作品も、初め『仮名読新聞』で連載を開始したと言う。しかし2日で中絶し、「絵入読本」で改めて刊行することになった物だ。すなわち、この事件を一つのドキュメンタリーとして全八編24回にわたるシリーズものとして出版した。明治十二年二月二十二日に初編、八編は同年の四月二十二日には発行されたと言うから、ほぼ1週間に一編という短い間に発行されたわけだ。しかも一編が3話で二日に1話というペースでいわば新聞の連載とさほど変わらない。事件後のこの短い間に発行したのは、もちろん、こうした話題は読者の興味を惹きつける期間が短いからだろう。しかし先ずはこの作者の筆力に驚かされる。

さて、この「絵入読本」と言う形式は江戸時代の「合巻」のようなもので、全編総ルビで挿絵が多くあり、庶民にとってわかりやすい読みものだったらしい。現代の劇画の、文字が多いものと考えればいいかもしれない(画像参照)。そして内容も実際の事件を題材にして、ゴシップ好きの庶民に受けるものとしたようだ(ただ、現在は決して読みやすくはないが)。

さて、内容は実際の事件を題材にしているが、そこにはかなりの虚構があるようだ。実際のお伝と言う人物がどのような生まれで、何をしてきたかはある程度はわかっているようだ。しかし、この作品はあるところでは強調し、粉飾している。つまり「毒婦」と言うイメージにあうように話を面白くしているきらいがある。

このお伝という女性の事件はズバリ強盗殺人事件である。具体的には借金を返済するために姉の良人吉蔵という男に相談し、金を無心したが、関係を迫られ、しかも貸してくれないので、寝ている吉蔵に馬乗りになって剃刀で首を切り、殺し、金を奪ったという事件である。ただその際、罪を逃れるためか、これは姉の仇討ちだとする書き置きをその死骸においたという。吉蔵は姉を殺し、自分までも手込めにしようとした悪人だと。そして姉の墓参りを終えたら自首すると。(八編二十三回、画像参照。当時の絵入り版と翻刻した明治文学全集版の本文)

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明治文学全集の本文
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この本文を読むと実にリアルにその場面を描いているのがわかる。まさに記事というより小説である。ここに魯文の筆力がある。

ただ、驚くべきはここに至る「お伝」をその誕生から説き起こし、さまざまな人生の苦難を描いていることだ。どれだけの情報がこの短期間にあったか、どこまでが事実で虚構かわからないところだ。その中で、注目すべきは高橋波之助という人物との結婚生活だ。この波之助にハンセン病の兆候が表れ、治療費のために田畠を売ったり、身を売ったりの夫婦生活だ。ここでは「毒婦」というよりは夫の病を必死に看病する「孝女」の趣まである気がする。ただ、この波之助は明治5年9月に死去してしまう。ここから9年8月に殺人容疑で逮捕されるまでの凡そ4年間、お伝はつぎつぎと男を変えて渡り歩き、生きていくことになる。ここでも魯文の筆力と想像力に感心するしかない。また、お伝という女性を描く魯文の筆はこれまでの滑稽本作者の筆ではない気がする。

「嶋田一郎梅雨日記」

岡本起泉篇

これも当時流行とも言えた、事件に基づいた読本だ。その事件とは当時の権力者大久保利通暗殺事件である。その首謀者が嶋田一郎という人物。その一代記という形になっている。全5編15刷の明治式の合巻である。

この事件が起きたのが、明治十一年五月、この書の初編が発表されたのが翌年の明治十二年七月、完結したのが同年十二月だから、これも素早い出来上がりと言える。こうした事件に基づく物語は庶民の関心が薄れないうちに売るのが常套だが、それにしても単に事件そのものではなく、その首謀者の一代記まで仕上げるのは、やはり当時の戯作者の筆力に脅かされる。ただ、前の「お伝」の毒婦ものと違って、ことが権力者の暗殺事件だけに筆者もかなり気を遣ってはいるようだ。例えば、こんな件がある。ことが起きて、犯人たちが自首する記述の前に以下のように言い訳している。

此段尚記すべき事多けれど大方ハ憶測に類するのみか憚り多き事共なるが上に記者も爰に至り急に腕萎へ指しびれ胸塞がり筆の運びの渋りて其状を委しく記し能ハざれバ其大略を記すのみ看客よろしく察せられよ(筆者電子化、ルビは省略)

こんな言葉が挟まるのが、今読むとおかしいが、事件の性質が性質だけに作者も危ないと感じたに違いない。しかし、この一代記、明らかに犯人島田一郎に同情的なのは明らかだ。書き出しの嶋田一郎の出生の記述も加賀の足軽の長男だけれども、その父は実直な人であったとしているし、いわばその「孝子」だとしている。また、途中のこれは潤色だろうけれど芸者梅吉との絡みにしても決して悪人とは描いていない。実はここがこうした読本が大衆受けする要素なのだ。時は西南戦争時である。背景にやはり不平士族の鬱憤がある。そして庶民の鬱憤もあり、時の権力者よりも、それに一矢を報いる側に同情的なのである。しかしだからと言ってこれを声高に言うことはできない。事実、この犯人側を擁護する発言は幾つかあったようだが、即刻罰せられているという。

この途中の文言にこそ当時の戯作・読本の特質が現れているように思う。

「澤村田之助曙草紙」

岡本起泉篇

これは当時の名俳優、女形の沢村田之助の一代記。これも事実性を重視した五編一五刷の明治式の合巻。ここは第五編の序を引くのがいいだろう(画像参照、筆者が電子化するより総ルビの原文の方がよい)。ここで筆者はこの役者がいかに凄いかを説いている。早くから男遊び(絶世の美少年だった)や女遊び(役者は遊理でモテた)を繰り返し、そのせいか、はたまた舞台の宙吊りから転落のせいか、晩年手足を切断する羽目に陥る。しかしヘボンによって治療を受け(切断したのはヘボン。画像参照)、アメリカら義足を輸入してもらい、舞台に立ち続ける(といっても女方で遊女の役が多く、座っての演技が多かったというが)。しかし、三十四歳の若さで発狂して死したという。こうした役者についての事実性の高い物語は当時も庶民層に受けたに違いない。今でも芸能人ネタは週刊誌を賑わせている。ただ、この沢村田之助の話は小生の好きな成島柳北が田之助の没後直ぐに語ったというように、旧時代の(江戸時代的な)いわば手足を切られた状態で何もできなかった者たちにとってのヒーロー的象徴でもあったようだ。

鳴呼、彼レハ真ニ俳優中ノ人傑ニ非ズヤ、余ハ幕府ノ遺民ナリ、幕府麾下ノ士其ノ麗億ノミナズ、皆嘗テ観棚上ニ坐シテ親シク田之助ノ演劇ヲ看タル者ナリ、而シテ済々タル多士ハ尽ク偉丈夫ニシテ手足備ハル、然ルニ今日ニ至テ往々自カラ其ノ口ヲ糊スルニ難ク、手有レドモ一技ノ為ス可キ無ク、足有レドモ独リ立ツ能ハズ、旦暮凍飢ニ迫ルノ状傍観スルニ忍ビザル者有リ、此輩田之助ノ風ヲ聞カバ、豈深ク心ニ愧ヂザランヤ、今ヤ田之助死セリ、余一文ヲ草シテ之レヲ哭シ、併セテ以テ自カラ戒シム、(成島柳北「哭澤村田之助」「文芸倶楽部」版『柳北全集』より、一部漢字改め、筆者電子化)

明治文学全集の本文
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「金之助の話説」

前田香雪?篇

「東京絵入新聞」で大ヒットした「つづき物」。明治十一年八月二十一日から二十八日と九月三日から十二日までの連載。執筆者は実は不明。女遊びで借金を作って勘当された金之助という人物、馴染みの芸者小蝶に諭され、一念発起して大阪に降り、新聞の予備売りから始めて成功し、借金も返し、親にも認められ、小蝶とも添い遂げるという物語。これまで見てきたものとは異なるが、これも新時代の、その身一代の勤労と努力によって成功するのだという世相を反映しているという。

「巷説兒手柏」

高畠藍泉篇

これは全編、活版印刷の東京式合巻。この活版印刷は以前よりあったが、やはり木版の方が戯作には適していたようだ。すなわち絵が入り、くずし字がその周りにあるレイアウトの戯作は板に自由に彫れる木版が適していたし、江戸時代からの読者には馴染みがあった。しかしそれをあえて全編活版印刷にしたのは、新時代の教育を受けた読者を想定していたという。内容も勧善懲悪というより、幕末から明治にかけての人生模様を描いている。

「蝶鳥紫山裙模様」

高畠藍泉篇

これも同じ作者のもの。全編、活版印刷の東京式合巻。ただ元は雑誌に三十七回に亘って連載されたもの。しかし前作とは違って、所謂「仇討ちもの」。これも実際にあった住谷兄弟の仇討ち事件を題材にしている。「仇討ちもの」はいわば伝統的な題材だが、明治に入って仇討ちは禁止になっている。それだけに逆に新鮮な事件であり、庶民の関心を大いに引いたと思われる。ただ、内容が作者の前作とは違って勧善懲悪的な物に戻ってしまっているようだ。

「冠松眞土夜暴動」

武田交来篇

木版刷の明治式合巻。神奈川県下に実際に起こった農民暴動事件の合巻化。やはり事実性を強調した作品。眞土は現在の平塚にある一村。そこでの農民暴動は地租改正等を背景に、借金をした上土地を奪われた農民たちが暴徒化、戸長一家を殺害した事件。もちろん首謀者たちは斬罪ということになるが、多くの減刑の嘆願書が出され、結果無期懲役に減刑された(後恩赦になったという)。当然世論は農民側に味方したし、この物語も同様である。最末尾に言う。

茲に至て悪人亡び善人栄ふる冠の松真土の夜暴動晴わたり潤沢土地ぞめでたしめでたし(筆者電子化、一部漢字変更)

「勤王佐幕巷説二葉松」

宇田川文海篇

これも所謂「つづき物」。東京式合巻。ただ、大阪の「朝日新聞」に連載された。当時大阪はこうした出版では東京に遅れをとっていたようだ。しかしこの作品はヒットしたという。内容は所謂「お家騒動物」。尾張徳川家の幕末の内部抗争を描いている。もちろん実名は使っていないが、倒幕当時の尾張徳川家の微妙な立場を背景にしたお家騒動というか、内部の抗争を事実に基づくと言いながらかなりの粉飾を織り交ぜて描いている。尾張は実は倒幕にとって重要な地理的位置にあった。薩長は西だから当然倒幕となれば東征ということになり、尾張を通らなければならない。徳川となれば当然佐幕となるはずだが、そうでもないのだ。もちろんこの作品は明治になってから書かれているから結果は承知している。しかしそこをいわば芝居仕立てで描いたところに読者の興味を惹いたようだ。

「淺尾よし江の履歴」

古川魁蕾篇

これも「つづき物」。「東京絵入新聞」に明治十五年四月二六日から八月五日まで87回に亘って連載され、後に「浅尾岩切真実競」として刊行された。東京式合巻。かなり読まれたらしく、坪内逍遥の「当世書生気質」にも紹介されるほどだった。なんと舞台は宮崎。そこの芸者若鹿という女は、岩切滋雄という若い官吏と恋仲となり、その後引き裂かれてお互に不幸な運命に陥ったが、一途に想いを通して、めでたく岩切の妾となることが出来たというお話。「妾」になることがめでたいかどうかはともかくとして、当時としてはそれも幸せの形だったのかもしれない。これも当時の庶民にとっては心をくすぐられる話だったようだ。

「惨風悲雨世路日記」

菊亭香水篇

この作はこれまでのものと形や内容が異なっている。まず発行だが、まず初めに「月氷奇遇艶才春話」と題され、明治十五年に上中二冊が刊行されたが、下は発刊に至らず、二年後にこの題名で上中下一冊として発刊されたという。また内容もこれまでの戯作とは違って翻訳物を参考にした恋愛小説というものだ。所謂人情本とも違うし、事実に基づいたつづき物とも違っている。いわば近代小説の先駆け的作品と言えるようだ。

青年教師の久松菊雄という人物が主人公。教え子の松江タケと将来を誓う仲となるが、この二人、さまざまな障壁に会いながらも添い遂げていくというストーリー。その間に当時の教育界への批判があったり、時代風潮への批判があったりし、最後には政治への傾倒が語られる点も新しいと言えそうだ。しかし文章は硬い漢文調で全く新しさはない。例えば以下のような調子だ。

 固本県ノ学務課員ニ能ク人材ヲ観察シテ以テ之ヲ登用スルノ識見ニ富ル者アルコトナク亦夕彼ノ巡回教師ノ如キ学区取締ノ如キ多クハ是レ愛憎ニ因テ事ヲ行ヒ私謁ヲ受ケテ務ヲ弁スルモノ少シトセス現ニ余カ知ル所ノ村井氏ノ如キハ才学共ニ兼備シテ加フルニ能ク意ヲ学事ニ注キ同校ノ進歩較観ル可キモノ少キニ非ラスト離モ憫ム可シ更ニ一等ヲ進タルコトナク之二反シテ彼ノ滝某ノ如キハ浅学不才一章ノ文辞スラ容易二之ヲ綴り得ル能ハス只兵長スル所ノモノハ軽弁卜諛笑トノミ然レトモ彼レ既ニ彼ノ高等ニ在り(中略)実ニ長大息ノ至リニ堪へシャ(第五回)

主人公が不当配転にあって怒っている言葉である。

この作品はこれまでのものと違って、それなりの教養を身につけた新時代の青年たちが読者だったのだろうと思われる。

おわりに

いやいや二冊目もかなり難航した。しかしなんとか終わった。この時期の作品はまさに過渡期で江戸時代的なものと新時代的なものとが複雑に絡み合っている。文章の形もその内容もだ。そこが読みにくい一つの原因でもあるが、この明治文学全集が二段組で多くの活字を詰め込んでいるせいでもある。また多く総ルビだというのもかえって読みにくい原因でもある。

なお、最後に「新舊過渡期の囘想」という坪内逍遙の文章が収められているが、これは解説の一つなので取り上げなかったことをお断りしておく。

2025.05.13

この項 了

日本近代文学総復習明治文学編1明治開化期文学集(一)を読む

はじめに

先月日本古典文学総復習正続終了したので、今月からは『明治文学全集』100冊(正確には99冊)の読破を始める。しかし、いきなり戸惑った。近代とはいえ、明治初期の作品は実に読みにくい。というのは表記や表現は古典同様というか、古典以上にわかりにくいのだ。しかも、この全集には古典作品によくある頭注が全くない。それに二段組で活字が小さいときている。(また総ルビなので余計に読み難い)極めて読むのに難儀した。しかしそんなことばかりは言ってはいられない。ともかくなんとか以下の作品を読んだので、その読みを記していく。

假名垣魯文の作品

「萬國航海西洋道中膝栗毛」

まずはこの作品。題名だけは聞いたことがあるという方は多いと思う。明治初期の作品には必ず次の「安愚樂鍋」とともに挙げられる作品だ。まずはその凡例を引く。

凡例
元祖十返舎一九が作なる道中膝栗毛の初編刊行なりて世に流布せしは享和二年壬戌歳の春にして當年を去ること既に六十九年に及べり。(中略)僕年来戯作の筆に口を糊せど滑稽の道に疎く笑語頗る不可にして斯かる稗史を綴らんこと世の嘲りを招くに似たれど活計を如何せん。趣向新奇を競ひ標目未発を可なりとするがゆゑに弥次北八の三世の孫等外国廻りの滑稽をもてこの稗史の大意とす(中略)さもあらばやつがれが文盲なる書は草冊子の外を読ず何ぞ学ばん異邦の事情、然れども文物盛典の徳たる近世福沢先生を始め諸々の洋学先生が著述されし翻訳の書とぼしからねば其階梯にとりつきて大略お茶を濁すものなり(下略)(一部漢字を現代表記等に書き換え。以下同)

これを読めばこの作品の概略はわかるはずだ。いわゆる弥次喜多道中記の近代版というか海外旅行版というわけだ。しかしここで断っているように作者は海外など行ってはいない。その頃盛んに紹介された海外事情の著作を利用している。また実際に洋行した人物に話を聞いたという。

作品は初編上下からなんと一五編下まで30巻に及んでいる。多分よく売れて読まれたのだと思う。内容は主人公弥次喜多が大商人の手代としてロンドンの博覧会見物に行くことになり、上海、香港、シンガポール、マラッカ、スマトラ、セイロン、アデン、スエズ、カイロ、マルタ島、ジブラルタルをへてロンドンに着く。そして一気に横浜まで戻るところで終わっている。こう書くと随分と現地の風物が描かれていると思うし、なかなかの紀行文学というふうになりそうだ。しかし、内容は全く異なる。要するに滑稽本そのままなのだ。江戸時代の戯作の滑稽本の舞台が洋行になっただけの話である。実にナンセンスのオンパレードなのだ。例によって女郎屋の話や下ネタ、ふざけた失敗談が中心だ。

例えばこんな下りがある。

波羅門の糞としらぬが佛國
 喰ひしあとの口をしきかな
弥次郎ハこれを聞くより例の口から出たらめに
佛とひる法屁の玉のまろめ菓子
 くさいものとハしらずに喰
通次郎もしばしかんがへ
きたなしとしらで喰ひたる尻割ハ
 大小便の通辞役なり
(五編下)

またこんな調子だ。

ちゑ舌もまハってくるハまわってきたハ。エー。ビー。スイー。デイー。イー。清濁の二ツの唇の軽重開口さハやかに。エフ。ジー。エイツチ。アイ。ゼイ。ケイ。エル。エム。エン。オー。いつぴんあいたいやアわんろ。一ろくどんたくちゑはうす。のみかけこっぷにどろんけん。あちやさんのちゃんちゃん坊主。南京米のなまがみ。天竺米のなまがみ。パン小麦のパンなまがみ。椅子エイス。数種異人。砂も貨幣ドル貨幣。紙ちょ幣にドル貨幣。どるくわへいの紙ちよへい。紙ちよへい。どるくわへい。ぷろいすのぷりてすたんと。あめりかのかりほるにや。(後略)(十編下)

こうした表現に当時の読者は慣れていたのかと思う。しかし、今やこうした表現は謎解き以外の何者でもないように思ってしまう。

「牛店雜談安愚樂鍋」

これも假名垣魯文による滑稽本。江戸時代の式亭三馬による『浮世風呂』の銭湯、『浮世床』の髪結床に代えて、明治初期に人気となった牛鍋店を舞台に、そこに集るさまざまな客の風態や会話を描いた作品。場所が限定されているだけに当時の風俗、人物が前作よりよく描かれているように思う。

初編二篇に以下の人物たちを登場させている。

◯西洋好の聴取 ◯堕落個の廓話 ◯鄙武士の独杯 ◯野幇間のおべっか ◯諸工人の侠言
◯生文人の会談 ◯商個の胸会計 ◯薮医の不養生 ◯文盲の無茶論 ◯半可の浮世談
◯人車の引力言 ◯話家の楽屋落

一つだけ引く

◯西洋好の聴取
▲年ごろハ三十四五の男いろあさぐろけれどシヤボンをあさゆふつかふと見えてあくぬけていろつやよくあたまハなでつけかそうはつにでもなるところが百日このかたはやしたるを右のかたへなでつけもつともヲーデコロリといへる香水をつかふとみえてかみのけつやよくわげハかくべつおほきからずきぬごろのみちゆきぶりに……(後略)

「モシあなたエ牛ハ至極高美でごすネ此肉がひらけちやアぼたんや紅葉ハくへやせんこんな清潔なものをなぜいままで喰ハなかったのでごウせう(中略)肉食をすりやア神仏へ手が合されねへのヤレ穢れるのとわからねへ野暮をいふのハ究理学を弁へねへからのことでげスそんな夷に福澤の著た肉食の説でも読せてへネ(後略)」

いかにも新しずきのキザな男を登場させている。今でもこういう人物いるのではないかな。これも新時代の風俗なのだろう。

「河童相傳胡瓜遣」

これは福沢諭吉の物理学書「窮理図解」のもじり。内容は全く「窮理」とも「胡瓜」とも関係ない。

凡例に
一 此小冊子翻訳書の表題を假用して号くれども更に翻訳の躰載に倣ハず専ら通俗の語を用ひ滑稽諧謔を旨として理屈に拘ハらざるハ窮理を胡瓜と付会たるを看て知るべし但し其事河童より伝習なれバなり
一 目次ハ湿気の章は運気の事とし空気の章を食気の事とし水の章風の章ハ矢張其の儘に原目を假用せる類あり不知其事に臨みて筆頭思ひ出る随意の趣向を設く則ち戯述の戯述たる故縁なり

とあるように福沢諭吉の物理学書「窮理図解」の章立に沿って、

第一章「湿気」を「運気」として「開運の身の上話」を、

第二章「空気」を「食気」として「下卑の食乱」を、

第三章「水」はそのまま「水」だが「酔狂の放心」を

第四章「風」はそのまま「風」だが「柳橋の春風」を

第五章「雲と雨」は「雲雨」として「遊女の通路」を

語るという趣向だ。

例によって内容はほとんどナンセンスだが、第二章の「食気」に登場する書生が翻訳のバイト代でやたら食い気を満たす話がこれも開化の風俗らしい。

「大洋新話蛸入道魚説教」

海底の竜王が地上の社会改革の話を聞き、海底の生物たちにも「文明と啓蒙」を促進する同様のプログラムを採用するよう命じるという話。

本文の一部

殊更南に太平洋西に大西洋の二大海あり其海底の各龍王疾くも人界の開化を聞知り各龍洲に固陋を改め海化に進む時に至り我浮漂洲のみ安閑と海中に孤立せバ版図忽地隣に併合られなんこと必せり

本文の末尾

逐一決定建白仕まつらんと漢語尽しでこむつかしく尾鰭を張て演かけたり

この作品は冒頭から漢文調で滑稽本にはない硬い表現。初編の二回で終わっているのはあまり評判が良くなかったからのようだ。文明開化を説くというところだけに趣旨があって、それを海中にも求めているというところに魯文らしい発想はあるのだけれど、ちょっと表現が生硬過ぎた感じだ。

假名垣魯文の作品はここまで。

万亭応賀篇の作品

「當世利口女」

今度は万亭応賀という戯作者の文章。この人物假名垣魯文とは随分と異なる。魯文は新時代の風俗を面白おかしく語ったが、この応賀は全面否定という感じだ。

まずはこの「當世利口女」は福沢諭吉の「かたは娘」という文章への真っ向批判だ。福沢は女性の眉毛剃りとお歯黒を自ら「かたわ」にしているようなものだと語った。

冒頭に言う。

眉毛そる我を笑へばわれハまた
  耳鐶と顔の網をわらふぞ

末尾には

私として国の風俗を悖り世上の普通に異なる者あらバ渠こそ反て吾国のかたわものとわれハ思ふぞ穴賢

と結んでいる。

要するに風俗にはそれぞれの国の特徴があって、それを全面否定してはならないとしている。

「分限正札智惠秤」

「それ智者は、万事ばんじ転ばぬ前さきに杖をつけば、悔やむこと稀なり。」と言い。無闇に西洋かぶれの知識では決してうまくはいかないとしている。例えば以下のように語る。

愚人にも身の頭痛を以て一二日先の雪や雷鳴をしるものあれども究理発明の看板を掛ながら悪風暴風の兆もしらずに人命を魚腹に葬り大金の荷物を海に捨る舩ままあるを聞が。是等は究理尻の尻しらずと吾は思へり

ちょっと牽引附会の誹りを免れないが、福沢の「究理」が嫌いなのだ。

「青楼半化通」

本文

修行のために東京に来り或学校に入て間もなきに此猫又の片より開化屋といふ娼家におもむき流石野といふ娼妓に馴染て必用の洋書までを売払ひて修行に怠りければ終に学校を放逐されて本国に立ち帰りしが(後略)

今般家禄奉還の金貨を請取ゆへ是を以て一廉の商方に就名を天下に輝すにハ当地に限るものなれバ後月出府に及びけるが迚も洋学のベロベロにては埒があかねバ(後略)

と言うことで、洋学を学ぶために上京した田舎の武家の息子が学問に専念する代わりに、吉原の遊郭に出入りするようになり、一旦は金を失い田舎に帰るが、家禄奉還の金を得て花魁のパトロンになった。歓楽街の権威として出世した。西洋の学問なしにだ。こうして応賀は、西洋の学問の力だけが出世をもたらすという福沢の主張をあざ笑ったようだ。

「近世惘蝦蟇」

「きんせいあきれかえる」と読む。小冊子。冒頭に

唐土の痩蝦蟇は

 仙人に駆使せらるれど

日本の此蟇はは我慢仙人を

 駆使して世中を惘かへると笑ふ

世人此蟇にかならず

 笑ハれること

なきを欲せよ

とあり、これも文明開化に否定的な主張を表したもの。

しかしそれにしても魯文の文章より、まして読みにくい文章だった。

梅亭金鵞篇「寄笑新聞」

第一号から第一一語までの新聞というよりは雑誌。これもやや反時代的な内容。士族の現状を語ることが多いように思う。「笑い」はほとんどない。内容は実は商業的なものだ。

第一号は「金貨大評議」二号は「金借手前目算」三号は「貸借問答」という内容だ。これは金を巡る話。特にこの時代の士族の有様を描いている。一一号の「士商論」にそれははっきり表れている。この士族の現状を語るスタンスは自ずから近代化の風潮への批判となる。七号の「のぞき眼鏡欧行論」は外国留学、洋行流行を批判しているし、十号の「学問のすずめ」はもちろん福沢諭吉等洋学者を風刺した内容だ。

しかし、実はこの梅亭金鵞はこの「寄笑新聞」を別名で発行している。この梅亭金鵞の名で啓蒙書籍も出版していたようだ。この一見矛盾した姿勢にこの時期の知識人の一つの姿があるようだ。

條野採菊・染崎延房篇「近世紀聞(抄)」

全十一編あるという。黒船来航から西南戦争に至るまでを記した所謂通俗的な近世史ということになる。ここは以下の第四編までを収める。

第一編

亜船初めて浦賀へ着する事

亜国の書簡を和訳し各藩に示さる

墨使再び来舶及び各国通商を請ふ

朝議厳にして幕吏鎖開の間に困む事

五カ国互市の条約を結ぶ事

桜田の上巳に紅雪を降す事

第二編

浪徒蜂起して薩長大に周旋ある事

永井が入説調わず遂に勅使東下する事

島田梟首並関東大変革の事

列藩次第に入洛して京師繁栄の話

尊攘決議して鴨男山へ行幸

長海に五回外国船を砲撃す

第三編

薩海戦争及び大樹東下の事

一橋殿問答及び洛中動揺

朝議一変して七卿長門へ下向の事

県令を誅して浪士等五条に拠る事

山嶽に立籠りて天誅組四藩と戦う

第四編

南山の義挙鎮静する事

平野憤激して沢卿を誘ふ

生野銀山に義党等屯集する

但州鎮静及び長の両士入洛を請ふ

将軍家上洛 宸翰を賜る事

筑波太平の両山に有志ら屯集の事

内容はこれでわかるが、史実、巷説、風説の全てが盛り込まれているという。以後大衆作家の種本となったという。

松村春輔篇「開明小説春雨文庫」

第六編の「敍」に

男女同権てふことを唱へ出せるハ、西洋風の伝染にして、耶蘇者流より出づるものならん。茲に掲ぐるは同権を同賢となし、男子と並べて近世の義女貞女孝女の類ひを挙て、春雨文庫の宝物となさんとし、既に第六編に至りたり。

とあるようにこの作品は当時、幕末から明治初期にかけての「義女貞女孝女」と言った女性を描いた短編小説をシリーズ化したものということになる。

その第一編にある以下の句は貧しさ故に親のため苦界に身を売られた女がアメリカ人には身を委ねることができずに自ら死を選んだという話の句。

露をだにいとふ倭の女郎花
 ふるあめりかに袖ハぬらさじ

ここには如何にも旧時代の孝女を描いているように思われるが、一方筆者は以下のように語り、

引続き節婦孝女の物がたりにて近世稀なる真面目を表し頗る珍説を探り併ハせて序次に大部に逮ぶ最も目出度き春雨文庫は人情本の部類ならずして自然に人情の極意を知り交際事に迂遠人でも此文庫を開き給へば随つて愛国の志しに進み臆守るべからざるものハ旧習なりと(後略)

必ずしも旧習を重じているわけではないとしている。こんなところにもこの時代の特徴が窺える。

久保田彦作篇「鳥追阿松海上新話」

初め仮名垣魯文の『假名読新聞』に明治10年12月10日からつづき物として連載されたという。後にあらためて単行本として刊行されたという。内容は所謂「毒婦物」ということになる。「春雨文庫」とはかなりテーストが異なる。明治の新時代を背景にいわば懸命に生きた「悪女」の物語だ。
鳥追とは江戸時代に家々を回って三味線を弾き語り、鳥追い歌を歌う門付芸人の女性のことだが、身分は最下層の「非人」だ。もちろん貧しい生活を強いられて育ったはずだ。しかし、その美貌を武器に多くの男たちをたぶらかし、全国をまたにかけて生きてゆく。その中でも政府の要人となった男との出会いとその関わりが大きな筋となって話が展開してゆく。ここに新時代で出世し横暴に振舞う男をその色香でたぶらかし破滅に追いやろうとする主人公の姿が庶民に受けたのかもしれない。しかし、最後は落ちぶれ、かつて騙した男にお恵みをもらって生きたが、終に不遇のまま死んでしまうことになる。

現代でも週刊誌ネタとして「悪女」の話は結構受ける。少なくとも「孝女」「貞女」の話よりは庶民は好きなのだ。この時代においてもそうだったらしく、こうした「毒婦」物は以後も書かれてゆく。

終わりに

なんとか一回目を終えることができた。前にも書いたと思うが、この小生の仕事は「締切」があるわけではないので急ぐ必要はないのだが、実は人生の「締切」も迫っているのも確かだ。一ヶ月に1冊では八年以上かかってしまうことになる。ま、特にこの明治初期の作品が読み難いということをもって仕方がないということで、徐々にいくしかないとは思っている。次回は明治開化期文学集(二)ということになる。

この項 了
2025.04.23

Kindle本出版の話

Kindle本出版の話

これまでブログで書いてきた「日本古典文学総復習」正続終了したので書籍化を考え、実行した。その報告、というか記録(かつてやったことであっても忘れてしまうので)。

アマゾンのKindle本のサイトで検索すれば、出てくるはず。できれば買ってくれると嬉しいです。1米ドルです。

  1. ブログの書き出し。
    プラグインPrintMyBlogを導入して、カテゴリー「古典文学」の記事を書き出す。
    無料版なのでここではPDFファイルに書き出すまでにする。
    319ページに及んだ。
  2. PDFからテキストを書きだす。
    これはGoogleでもできるが、AdobeAcrobatの方が正確にできた。
  3. Excelで年代順に並び替える
    各テキストの題名(作品名)だけを抜きだし、Excelに読み込ませ、
    その作品のほぼ発表年を調べて書き込む
    その上で並び替える。
  4. テキストエディタで全体像を書き出す。
    この際コードに注意する
  5. Wordにテキストを読み込む
    この際電子ブック化を考えて見出し等の設定を行う。
    久しぶりにWordを本格的に使った。
    ここは校正をしながら行う。特に特殊な漢字はPDFを参照して行う。
    「はじめに」「あとがき」を書き加え、「目次」を自動生成する。
  6. 電子ブック化にあたり、表紙を作成する。
    EPUB形式はPNGでいいが、Kindle本の場合はJPEGにしなければならない。
  7. LeMEを使って、一次的電子ブック化する。
    表紙の画像とWordの本文を読みこませる。
    これでEPUB形式の電子ブックが出来上がる。
  8. Kindle Previewer 3を使ってKindle本化する
    EPUB形式の電子ブックを読み込み、Kindle形式にエクスポートする。
  9. アマゾンのKDPサイトにログインし、様々な設定を行って、作ったファイルをUPする。
    ちょっと時間はかかるが、公開されると登録したメルアドに販売開始の連絡が来る。

以上

日本古典文学総復習続編34『本居宣長集』

はじめに

この古典文学総復習もこれで一応の最後となる。最後が本居宣長というのも、ある意味象徴的かもしれない。宣長は初めて近代的な意味で言うところの「文学」を発見した人物と言えるからだ。その初期の『源氏物語』論である「紫文要領」がそれをよく示している。この論は文学を儒教的価値観や仏教的価値観から解放した、いわばマニュフェストと言える。まずはその跋文から見てみたい。

「紫文要領」について

跋文(本文)

右『紫文要領』上下二巻は、年ごろ丸が心に思ひよりて、この物語をくり返し心を潜めて読みつつ考へ出だせるところにして、まつたく師伝の趣きにあらず。また諸抄の説と雲泥の相違なり。見む人あやしむことなかれ。よくよく心をつけて物語の本意を味ひ、この草子と引き合せ考へて、丸がいふところの是非を定むベし。必ず人をもて言を棄つることなかれ。かつまた文章・書きざまはなはだみだりなり。草稿なるゆゑにかへりみざるゆゑなり。重ねて繕写するを待つべし。これまた言をもて人を棄つることなからんことを仰ぐ。

時に宝暦十三年六月七日 舜 庵

              本居宣長 在判

   安永六年七月二日 誂人書写畢 門人

口語訳(拙訳)

右の『紫文要領』上下二巻は、数年来私が心に掛けていて、この物語を繰り返し、心静かに読みつつ考え出したところを書いたもので、決して先生から教わったということではない。またいろいろある源氏物語の解釈とは雲泥の差がある。これを読む人はそのことを変に思わないでほしい。ようく心からこの物語の本意を味わって、私のこの冊子と引き比べ、私の説が正しいか否かを判断してほしい。私が無名の若輩というだけでその説を否定しないでほしい。ただ、文章や書き方はとても乱雑ではある。それはこの書が草稿であるため、十分に気をつけなかったためだ。今後清書するまで待ってほしい。こうした文章の乱雑さを理由に私の説を否定しないことをお願いする。

時に宝暦十三年(1763年)六月七日 舜 庵(しゅんあん・宣長の号)

              本居宣長 在判(ざいはん・ここに本人の花押がある)

   安永六年七月二日 誂人書写畢(ひとにあつらへてしょしゃをはんぬ・人に頼んで写してもらったの意)  門人(誰であるかは未詳)

ここには若き宣長の高揚した、自信に満ちた宣言がある。物語を物語として、あらゆる既存の価値観から裁断せずに、没入して読み、そこに新しいものを見出した感動が語られている。そしてそこに新たな価値観を付与できるはずだという自負心に溢れている様が読み取れる。

「紫文要領」の梗概

さて、跋文からみてしまったが、それを前提にその内容を頭注にある編者の小見出しを使って追っておく。

巻上
作者の事
 紫式部作という説以外は信じがたい
述作由来の事
 執筆の動機・事情は不明
述作時代の事
 1000年頃成立・ほどなく流布した
作者系譜の事
 父・夫・自身の履歴・紫式部と称する事・なぜ「紫」と呼ばれるのか・ゆかりの者ゆえに「紫」と呼ばれる
準拠(なずらへ)の事
 モデルのせんさくは無用
題号の事
 「源氏」の意味・「物語」の意味
雑々(くさぐさ)の論
 無用の論いろいろ・系図と年表は必要・河内本と青表紙本
注釈の事
 河海抄と花鳥余情は必読すべし・湖月抄は便利・紫家七論・契沖の源註拾遺・秘説などは信用するに足りない
大意の事 上
 物語は儒仏の書と本質を異にする・源氏物語に見える「物語」という語・源氏物語中の物語論は源氏物語にも当てはまる・蛍の巻の物語論こそ紫式部自身の物語論・源氏、物語をわざと否定する・物語中の二種類のテーマ・紫式部の慎重な配慮・源氏、物語肯定論を述べる・物のあはれを知る心から物語を書く・「よきこと」と「珍しきこと」・漢文の書物と物語との違い・物語は仏典の方便と同じ・物語を卑下して締めくくる・仏教に付会する従来の解釈への批判・歌・物語における善悪と儒仏の書における善悪・物のあはれを知るのが物語における善・人生万般にわたり物のあはれはある・儒仏で悪とすることの中にも物のあはれはある・不道徳な源氏こそ「よき人」の代表・不義を犯した柏木もまた「よき人」・女で「よき人」は藤壺・紫の上・「あだ」でもだめ・貞淑一方でもだめ・「よきほど」に身を処することのむつかしさ・「雨夜の品定め」の解釈・家事専一で情趣を解さない妻では不満足・「物のあはれを知る」ことと「あだ」との違い・「まめ」であるだけでは不十分・藤壺は物のあはれを知る人・物のあはれを知らぬ人・物のあはれによって善悪を分つ・事の心・物の心を知らねばならない・物のあはれにも種類がある・物のあはれの有無は知る人の心による・物のあはれを知らぬ人は虎狼にも劣る・仏道にも物のあはれに関わる面がある・物のあはれ知り顔するのはよくない

巻下
大意の事 下
 物のあはれは恋においてもっとも深い・桐壺院の恋・源氏の恋・夕霧の恋・柏木の恋・空蝉の恋・物のあはれを知る人は恋に理解が深い・玉鬘に対する源氏の配慮・源氏に対する桐壺院の配慮・夕霧に対する源氏の配慮・源氏に対する朱雀院の配慮・柏木に対する源氏の配慮・再び「物のあはれを知る」ことと「あだ」と・源氏物語は好色の戒めにならない・物語は好色の心をつのらせる・古来の道徳的解釈はすべて牽強付会・紫式部の謙虚な人柄・荘子・史記・資治通鑑に学ぶというのも牽強付会・「物のまぎれ」は問題にするほどのことではない・作書の意図は、深い物のあはれを描くため・もう一つの意図は源氏の栄華を尽くすため・天の咎めを受けたのは源氏ではなく冷泉院・源氏を皇位につけなかった理由・「物のまぎれ」に教訓の意図はない・尊貴栄華は物のあはれに関係がある・仏道には物のあはれの深い面がある・人情の真実は未練で愚かな物である・作中の迷信は当時の風儀人情である・加持祈祷も風儀人情・風俗は時代によって異なる・描かれているのは中以上の人の有様・歌人、この物語を見る心ばへの事・歌と物語の本質は同一・ともに物のあはれを知ることから出る・古えの中以上の風儀人情を知るべし・歌の根本は物のあはれを知ること・古えの歌はみな中以上の人のもの・古人は物のあはれを知ることが深い・源氏物語を読んで古人に同化すべし・再び中以上の風儀人情について・下賤の者も中以上の人を学ぶべし・今の公家は昔の公家と違う・三代集が歌の手本・三代集と源氏物語と風儀情趣は同じ・源氏物語は物のあはれを尽くす・源氏物語は儒仏の書とは異なる 

その内容

長くなってしまったが、こうして見出しを見ただけでも、宣長が源氏物語をどう読んだかがよくわかると思う。一言で言ってしまえば、それは「物のあはれを知る」と言うことに尽きるのだが、そこには宣長の人間観が色こくあらわれている。「不道徳な源氏こそ『よき人』の代表」と言い、「不義を犯した柏木もまた『よき人』」と言い切るためには以下のような人間観がなくてはならない。これは「下」で「人情の真実は未練で愚かな物である」と言っている場面だ。こうした「よき人」たちはみな女子供のようで男らしくないのに、それを「よし」とするのはどうしてか、という問いに答える形で言っている。引用する。

答へて云はく、大方人の実の情といふものは、女童のごとく未練に愚かなるものなり。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたるものなり。実の心の底をさぐりてみれば、いかほど賢き人もみな女童に変ることなし。それを恥ぢてつつむとつつまぬとの違ひめばかりなり。唐の書籍はそのうはべのつくろひ飾りて努めたるところをもはら書きて、実の情を書けることはいとおろそかなり。ゆゑにうち見るには賢く聞ゆれども、それはみなうはべのつくろひにて実のことにあらず。そのうはべのつくろひたるところばかり書ける書を見なれて、その眼をもて見るゆゑに、さやうに思はるるなり。

ここは小生の口語訳などいらないだろう。実に宣長の文は平易でわかりやすい。ここで宣長は「人情の真実は未練で愚かな物である」と言っている。表面を取り繕っている人も、一皮剥けばみな弱き「女童」と変わりはしない。それが人間というものだと言っている。ここで言っていることがその当時いかに思い切った言挙げかを想像してみると良い。現代ならまだしも、こうした発言は当時の武家社会の倫理観や人間観からすればとんでもない妄言と受け取られかねない。しかし宣長は思い切って言っている。そしてこの人間観こそが「物のあはれを知る」ことから導き出された物なのである。もっと言えば文学とはこうした人間の未練で愚かな面を描くものだと言っている。それを如実に描いているのが『源氏物語』だと。それを読むことが「物のあはれを知る」こと、すなわち「人間の真実」を知ることだと言っている。

「石上私淑言」について

さて、も一つの著作「石上私淑言」を見ていこう。
この書は実は書かれた時には刊行されず、没後に刊行されている。書かれた時期は前書と同じ宝暦十三年だという。最後を見ればわかるが、当時未完のままで保存されていたという。まずはその内容を校註者日野龍夫氏の頭注の小見出しによってみていきたい。全3巻あるが、通して百二項目に区切っている。ほとんどが問いに答える形で述べられている。小見出しは以下だ。

その梗概

巻一
(一)ほどよくととのい、文(あや)のある言葉を歌という・有情のものの声には歌がある・非情のものの声は歌ではない
(二)ほどよくととのうとは五言か七音の句をいう
(三)語り物も歌の一種である
(四)イザナギ・イザナミ神の昌和が歌の始まり・二神の歌の解釈
(五)日本書紀より古事記の方が古語を伝えている
(六)八雲の神詠が歌の始まり・八雲の神詠の解釈
(七)下照姫の歌の位置づけ
(八)上古には歌体の区別の意識はなかった
(九)三十一字の歌体が自然と定着した
(一〇)連歌の起源・五七五・七七の連歌
(一一)(歌の出現)
(一二)物のあはれを知るということ・事の心をわきまえ知る・物に感ずる・「あはれ」という語の原義・感動詞「あはれ」の用例・「あはれといふ言」の用例・「あはれといふ」の用例・「あはれと見る」の用例・「あはれと聞く」の用例・「あはれと思ふ」の用例・「あはれなり」の用例・名詞「あはれ」の用例・深く感じた気持ちを「あはれ」と表現する・「をかし』も「あはれ」の中に含まれる・再び、事の心をわきまえ知る・深くあはれに感じた時、歌が生まれる
(一三)物のあはれに感じたら歌をよまずにはいられない
(一四)感動の表現には自然と文(あや)がある・外物に託した感情の表現・人は感動した時、他者の共感を求める・人の共感を得るためにも表現に文が必要
(一五)・「歌」という漢字と「うた」という和語・体の言葉と用の言葉・「うた」と「うたふ」・「うたふ」と「訴ふ」
(一六)(「歌」の字義)(一七)「歌」という字と「詩」という字
(一八)『釈名』の「歌」の字の解釈
(一九)「謡」という字
(二一)「歌をよむ」といういい方について・「よむ」の原義は「口に出していう」・歌を作ることを「よむ」という理由・歌を作るの意で「詠」字を用いるのは不可・「作歌」は「歌をよむ」と訓ずるのがよい
(二二)「古歌をよむ」といういい方について
(二三)「詠」という漢字について
(二四)「ながむ」と「うたふ」
(二五)「ながむ」が「物思いする」の意になる理由
(二六)「ながむ」が「見る」の意になる理由

巻二
(二七)「やまとうた」と「倭歌」
(二八)「倭歌」という表記について
(二九)「やまとうた」といういい方
(三〇)「やまと」という語
(三一)「やまと」の語は神代からある
(三二)「やまと」はもと大和の国のみを指す名称である
(三三)『書紀』に見える「日本(やまと)」は大和の国 
(三四)「大八洲」は日本全体の名称
(三五)「大やまと豊秋津洲」は本州を指すようになった
(三六)「やまと」が日本の総名になった時期
(三七)「やまと」が日本の総名になった理由
(三八)「やまと」の語源ー「山処(やまと)」
(三九)「山跡(やまと)」「山止(やまと)」という説
(四〇)「山外」「山戸」という説
(四一)「八洲元」の略という説
(四二)嘉号の論は無用の事
(四三)「倭」字を用いる理由
(四四)「倭」を「やまと」と読む理由
(四五)「和」字用いる理由
(四六)「和」字に改められた時期
(四七)天平勝宝四年以前の「和」の用例
(四八)「日本」という国号を用い始めた時期
(四九)「日本」という国号の由来
(五〇)「ひのもと」という語について
(五一)「やまと」を「日本」と表記し始めた時期
(五二)「やまと」を「日本」と書く理由
(五三)「大日本」「大和」の「大」の字について
(五四)「やまとみこと歌」という語
(五五)「敷島のやまと歌」という語
(五六)崇神紀の磯城と欽明紀の磯城島宮
(五七)「敷島の道」という語
(五八)歌道を「敷島の道」という理由
(五九)「しきしま」の正字
(六〇)磯城島の所在地
(六一)「歌の道」という語
(六二)詩と歌は本来同じもの
(六三)詩と歌の違い
(六四)詩と経学との違い
(六五)詩は女々しい情を詠ずるのが本来
(六六)人情は本来女々しくはかないもの
(六七)女々しい人情を詠ずるのが詩歌の役割
(六八)和歌にのみ神代の素直さが保存されている
(六九)漢詩にも和歌と同趣のものはある
(七〇)歌の道は神代の心ばえのまま
(七一)恋の歌の多い理由
(七二)恋以外の欲求はなぜ歌に詠まれないのか
(七三)欲から生まれる歌もないではない
(七四)不倫の恋が好んで詠まれる理由
(七五)わが国の古典に恋の話が多い理由
(七六)僧侶が恋の歌をよむのはなぜか・僧侶の方が俗人より恋の思いは深いはず

巻三
(七七)仮名序等の歌論は中国の詩論の模倣
(七八)真名序等の歌論を信用してはいけない・わが国では歌を政治の具に用いてことはない
(七九)歌の効用について・歌は神の御心を慰める・歌によって治者は被治者の心情を知る・歌によって人は思いやりの心を持つ
(八〇)歌の本質と効用を区別しなければならない・先達の説といえども誤りは正すべし
(八一)詩は人の心を感動させない・比喩による経書・詩・歌の違いの説明・詩ー理論による説得・歌ー感動による説得
(八二)歌の実作の必要について
(八三)歌を詠むのは人として当然のわざ
(八四)歌には偽りが必要
(八五)中国風の賢しらで神意を推測してはいけない
(八六)古の情・詞を学ばねばならない
(八七)古人の心を学ぶ必要性
(八八)歌の制禁について
(八九)心・詞ともに俗を避けなければならない・意より詞の方が重要
(九〇)古い心詞を珍しく詠みなす
(九一)「花」と「実」
(九二)「六義」の論は無用のこと
(九三)古来の説であっても誤りは正す
(九四)後代の歌も心は古代の歌に同じ
(九五)歌に上下のけじめはない
(九六)五句三十一字の道理を論ずるのは無用のこと
(九七)五句三十一字の道理は不明
(九八)五言七言について
(九九)句の続き方について
(一〇〇)長歌について
(一〇一)短歌について
(一〇二)反歌について(この以後著述なし。未完)

以上

その内容

こう見てくるとこの書は「和歌」について論じている書ということになる。前半は「歌」が、やはり「物のあはれを知る」ことにおいて成り立っていることを論ずる。ここは前書と同じである。しかし、その後「あはれ」という語についていくつか用例を挙げてその語釈を語っている。この点は国語学者としての宣長の片鱗を示す。また、「歌」という語やさらに「やまと」という語について論じる姿勢はやはり学者的である。これはあまり前書には見られなかった。ここらあたりから国学者への傾斜が読み取れる。相変わらずいわゆる漢詩との比較は見られるが、前書ほど批判的すぎていない気がする。また、「恋」や「女々しさ」を今度は「歌」を通して論ずるが、むしろ「古人の心」とか「神代の心ばえ」と言った言葉が見え、ここにも国学への傾斜が読み取れる気がする。

後に宣長は多くの国語学的業績を残す。また、その大著『古事記伝』を完成させる。もちろんこの書にもその業績に向かう片鱗は見られるが、むしろ「物のあはれ」論それ自体の徹底が欲しかった気がする。

ここで二つ本文を引用する。今回は本書のコピーを載せる。クリックして拡大できるはずだ。

本文コピー1

本文コピー2

初めは「物のあはれを知る」論の核心だ。これは前著にもある論だ。そして最後にそれを「歌」と結びつけている。

次はその「歌」を神道と結びつけている部分だ。もちろん当時の儒教の影響を受けた神道を批判はしている。しかし、「歌」を「神の御国の心ばえ」に結びつけている。

『源氏物語』ー「物のあはれを知る」ー「歌」ー「歌道」ー「神の御国の心ばえ」ー『古事記伝』ー神道という通路だろうか。

おわりに

ない物ねだりだろうか。「物のあはれを知る」論が「神の御国の心ばえ」論に行ってしまう通路が小生としては我慢できない。ましてや宣長ではなく、その追随者がそちらばかりを喧伝したついこの間(「もう」というか「まだ」というか、八十年前のこと)の思想的状況が、またそれをそっくりひっくり返したそれへの批判的思想的状況が嫌いだ。宣長の優れた「物のあはれを知る」論をもっと徹底する別の地平があったはずなのだ。

小林秀雄の『本居宣長』の「序」で折口信夫の言葉が引かれている。「小林さん、宣長は「源氏」ですよ」と。さすが、折口だ。私もそう言いたい。

2025.03.05

この項 了

追記

初めに書いたようにここでこの「古典文学総復習正続」を一応終了する。この仕事は小生が現役時代に「老後の楽しみ」として買い集めた岩波書店の「新古典文学体系」100冊と新潮社の「日本古典集成」82冊を重複は別にして全て読破するという試みだった。2017年の一月に始めた。実に7年を要したことになる。

実は小生の書斎にはまだ取り上げていない古典作品がある。それは前の岩波の「古典文学体系」に「日本書紀」と「風土記」、それに朝日古典全書の「古本説話集・本朝神仙伝」である。ただここは類似の作品で触れているということで取り上げないことにする。次に行かなければならないからだ。

次はもう一つ書斎に鎮座している全集、筑摩書房「明治文学全集」100冊だ。本年2025年4月から取り組む予定だ。では楽しみに?

新WEB開発入門講座4 個別編2 グリッドデザインの完全理解

WEB開発講座 個別編2 「gridレイアウト」徹底理解

使用するファイルです。すべてを適当なフォルダに以下のように納めるといいです。

webstudy_grid
(*.html)
css
(*.css)

1.flexboxレイアウトとgridレイアウトの相違点

2グリッドデザインの基礎

3.グリッドレイアウト

4.グリッドの中にもグリッド

5レイアウトテンプレート

以上

日本古典文学総復習続編33『誹風柳多留』

はじめに

この古典文学総復習続編も残り二冊となった。いずれも時代がやや遡るが、『誹風柳多留』と『本居宣長集』である。これまで取りこぼしてきた二冊ということになる。

さて今回はまず『誹風柳多留』を取り上げる。この『誹風柳多留』はいわゆる古川柳のアンソロジーだ。川柳についてはご存知の向きも多いとは思うが、この古川柳については若干の説明が必要かと思う。そこから始めたいと思う。

古川柳について

川柳は現在でも多く作られ、読まれている。新聞でも毎週のように時事川柳が掲載されている。また、サラリーマン川柳なるものが人気があり、面白い作品も多くある。そしてその特徴はいずれもいわば「素人」が作っている点にあると思う。もちろん短歌や俳句も多くの「素人」が作っている。しかし短歌や俳句にはそれ以上に「専門家」が多くいて歌人や俳人を名乗っている。だが、専門の川柳人?といいうのは寡聞にして聞いたことがない。もちろん専門家を名乗る人もいるかも知れないが、多分俳人の余儀程度だと思う。

実は古川柳もやはり「素人」が作者である点は現在と変わらないのだ。この『誹風柳多留』に収められている多くの句に一つとして作者の署名などない。ここに川柳の第一の特徴があると言える。

ただ、古川柳には現在の川柳と大きな違いが存在する。それは古川柳が「前句付け」だということだ。元々この川柳は俳諧から発生したのだが、この俳諧が連歌から発生したことでもわかるようにいわゆる「発句」以外は全て「前句」があって、それに「付ける」ことで句を作るという性質があるのだ。「前句」をどう読んで、それにどう「付ける」か、そこに俳諧の妙味があることはこれまで取り上げた江戸の俳諧について復習したときに語ってきた。そしてこの古川柳はその「前句付け」自体を独立させて、その妙味自体を問題にした表現だということだ。

川柳という名は元「柄井川柳」という人の名から来ているのだが、この「柄井川柳」が大流行させたのが、いわば「前句付け」コンクールである。「前句」を提示して、その「前句」にどううまく付けるかを競いあい、それに点数をつけ、優秀な作品は刷物にして配り、賞金も出したようだ。それが大流行したのだ。それを判定するのが柄井川柳という人物であったというわけだ。もちろんこうしたコンクールは川柳以前にも京や大阪で行われていたが、これほどの大流行を見たのは江戸が経済的に発展した田沼時代だった。

もっと具体的に言おう。今月の前句はこれこれだと提示して、その前句につけた句を募集する。投句するには一句につき当時の蕎麦代ぐらいの料金がかかったという。投句できる場所は江戸市中のあらゆるところにあったようだ。料金を払いさえすれば、誰でも投句できた。それを集める人物がいて、そこから手数料を取って、柄井川柳のもとへ届ける。そして柄井川柳が点をつけ、優秀作を刷物にして人が多く集まる場所に貼り出す。しかも優秀作には賞品や賞金を出したという。初めは投句もそれほど多くはなかったようだが、この川柳の点つけが、他の俳諧の宗匠より甘かったというか、より庶民的であったということがあって爆発的に流行したというわけだ。

この「前句付け」は元元連歌や俳諧の修練として行われていた。またそれを指導し、点をつける習慣もあった。室町時代にもこの古川柳と同様なものが見られたようだ。しかしこれほどの大流行を見たのは江戸時代の柄井川柳の時代であった。これは経済的な発展と文化的な教養の庶民化なしでは考えられない。

『誹風柳多留』について

古川柳について多くを語りすぎたかも知れない。しかし、この古川柳についての知識なしではこの書を語れない。実はこの書、先ほど紹介した投句優秀作の刷物を集め、さらに編集した書だからだ。編者は呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)という人物。この古典集成本はその初編である。実はこの書なんと明和2年から天保11年(1765–1840)にかけて167編が刊行されたという。いわば川柳年報って感じのものなのだ。

ここではその初編を見ていくことになるが、それはどのように編集されているだろうか。
その序で

一句にて、句意のわかり安きを挙て一帖となしぬ。なかんづく、当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す。

と書いていることから、元々は前句抜きで独立した句を川柳が編集した「勝ち句刷」から抜き出し並べたようだ。しかし、その並べ方に特徴があって、全く違った句意の句を雑然と並べてはいない。この書を読むものが何か繋がりがあるように読める仕掛けになっている。これはまさに俳諧的である。俳諧はそれぞれの句が独立しながら、全体として独特な展開と情趣があるのだが、それを狙ったようだ。そこが「誹風」という題名の所以だ。

さて、この集成本では理解のためにわかるものは前句も並べてか書かれているし、その頭注にはその流れもわかるように解説されている。

実際の句

では実際の句を見ていくことにする。まずは有名どころでいこう。ただ、その前後も挙げておく。

77 伊勢縞のうちは閻魔を尊がり
    長い事かな長い事かな

78 役人の子はにぎにぎをよく覚え
    運の良い事運の良い事

79 女房があるで魔をさす肥立ぎは
    長い事かな長い事かな
   女房が得手は魔をさす肥立ぎは

80 鑓持は胸のあたりをさし通し
    長い事かな長い事かな

81 白魚の子にまよふ頃角田川
    やさしかりけりやさしかりけり
   白魚も子にまよふ時角田川

句の後に描かれているのが前句である。79はその後にあるのが元の句だ。ということは編者の改作となる。有名なのは78の句だ。これは「風刺」句として読まれているはずだ。しかし、前句を見る限りそんなことはなさそうだ。当時「は振り」を効かせていた「役人」(武士)の家に生まれたラッキーを詠んでいるのである。これが前句付けとして読むか独立句として読むかの違いだ。さて77の句との繋がりだが、これは解説なしではわからない。伊勢縞は当時もっぱら商家の丁稚のお仕着せに用いられた着物のことでここはその丁稚のこと。閻魔堂に参詣した丁稚たちが長く時間を潰している様子をいう。ここで丁稚から役人の子へ運ばれる。79の句は今度は子を産む夫婦の機微。「肥立ぎは」病気の治り際、これまでが長かったので、ついつい不摂生してしまう。元の句の「得手」は女陰の隠語だという。これではあからさますぎるので編者が変更。80の句は長さを時間的でなく物理的な長さとして捉え、79の句のまさに「魔がさした」ことを今度は本当の鑓がさすと。そして81の句は前句を母の子を思う情と見て、謡曲「隅田川」を踏まえ、梅若忌を思い起こす。元の句ははっきり踏まえを表しているという。

どうであろうか。これは川柳そのものというよりは『誹風柳多留』の世界なのだ。

あとは通読して気になり付箋をつけた句を列挙する。みなさん自由に解釈してください。

104 指のない尼を笑へば笑うのみ
    こまりこそすれこまりこそすれ

165 これ小判たった一晩居てくれろ
    あかぬ事かなあかぬ事かな

172 江の島を見て来たむすめ自慢をし
    今が盛りぢや今が盛りぢや

316 小便に起きて夜鍋をねめ廻し
    無理な事かな無理な事かな

344 大門を出る病人は百一ツ
    愛しかりけり愛あしかりけり

377 大は小兼ねると笑ふ長局
    欲張りにけり欲張りにけり

380 母の手を握って炬燵しまはれる
    とんだ事かなとんだ事かな

422 大磯は欠落するにわるい所
    くたびれにけりくたびれにけり

537 大磯の落馬はすぐに煙草にし
    座りこそすれ座りこそすれ

597 本降りになつて出て行く雨宿り
    (前句不明)

640 黒犬を提灯にする雪の道
    山のごとくに山のごとくに

681 粉のふいた子を抱いて出る夕涼み
    よい気色なりよい気色なり

753 姑の屁をひつたので気がほどけ
    しをらしい事しをらしい事

おわりに

こうした句を江戸の住人たちが競って作ったというのは、まさに江戸の街の文化的程度の高さを証明していると言える。そこにはほのぼのとした親子の情があったり、日常を斜めから穿つ面白さや古典的な教養に基づいた見立てがあったりする。それは自分の生活や感情を対照化する教養がなければできることではない。それを批評精神と言ってもいいはずだ。ただ、このこの街の文化的程度の高さや批評精神は為政者に取っては決して手放しで喜べるものではなかった。川柳興隆も寛政の改革などの反動的幕府政策によって萎んだ時期もあったのはそのためだ。柄井川柳は晩年そうした衰退も経験した。辞世句として

 木枯や跡で芽を吹け川柳

との句を残したという。さて、現在「川柳」は柄井川柳が望んだような「芽」を吹いたでしょうか。

今回はここまで。

2025.01.20
この項 了

久しぶりの木工の話題

ここのところ木工を続けて行った。fbで紹介しているがティッシュケースはそれなりに難しかった。要するに箱を作るのは難しい。
ここはそれより難度が低いトレーについて作成過程を記録する。
材料は例によって杉の大木の端の柔らかい板。実に木目が美しい。もう一つは枠に使う檜の細板。これは外に置いてあったので表面が焼けているもの。

杉板の加工は単に長方形にカットするだけだから簡単。ただ「うづくり」仕上げにする。
問題は外枠の加工。カンナがけした薄板を杉板を貼るための溝を作る。本当はトリマーで完全な溝にすればいいが、どうもトリマーは使いたくない。(電動工具は怖いし、セッティング面倒なので)そこで畦引きノコと薄い縦びきノコを使って簡易なものにする。

さらに手を入れる部分を作る。ドリルで穴を開け、欄間用ノコでくり抜く。

これで材料の加工は終了。

あとは組み立てだが、コーナーの部分が相変わらず難しい。溝の切り方も関係して、かなりの補填が必要となる。結局ここが肝心か。要するに誤魔化しを行う。これで一応完成。あとは塗装。今回は透明なウレタン塗料を使った。抗菌で安全性が高いものを選んだ。

以上。2024.12.25

日本古典文学総復習続編32『三人吉三廓初買』

はじめに

また歌舞伎台本。今度は幕末期の河竹黙阿弥の有名作「三人吉三廓初買」。ただし最近上演の「三人吉三巴白浪」のフルバージョン。最も初期の形の台本。内容は以下に場面ごとに追っていくことにして、白浪物ということで、いわば「ダークヒーロー」が主人公の話だが、このフルバージョンは如何にも「世話物」らしい人情噺的要素も色濃くある。実はこの部分は最近では割愛されて上演されている。なぜかその理由はいろいろあるだろうが、以下見ていくように話が長いのだ。全八幕もあるからだろう。しかしここはしっかりこのフルバージョンで読んでいくことにする。

その内容

第一番目 序幕

荏柄天神社内の場

話の発端に関わりある人物の登場。

同 松金屋座敷の場

安森家で盗まれた庚申丸の短刀を売る人物と買う人物のやりとり。

笹目が谷柳原の場

夜鷹小屋でのやりとり。十三郎とおとせ中心。

同 新井橋の場

安森家の家来弥作、海老名軍蔵一味を討つ

失われた名刀とその代価百両を廻ることの発端

例によって時代は鎌倉時代になっているが、鎌倉殿から預かった伝家の宝刀「庚申丸」という名刀を盗まれてお家断絶になった安森家とそれを探し出して出世の種にしようとする海老名軍蔵との争いが縦軸となって話が展開する。横軸にはその名刀を川底から拾ったのを二束三文で買い、売って金儲けをした研ぎ師、その代価を軍蔵に貸して儲けを企む金貸、それを買ってさらに売って百両を預かった小道具屋木屋の手代、それに惚れた夜鷹おとせらが絡む。一旦名刀は軍蔵のものとなる(実際は研ぎ師の元にあり、研いだ上での納めることになっている)が、軍蔵は安森家の家来弥作に討たれ、十三郎は預かったはずの金百両を夜鷹小屋で落としてしまう。なおこの幕では三人吉三はまだ登場しない。

第一番目 二幕目

花水橋材木河岸の場

軍蔵が討たれて、貸した金を失った金貸と思わず名刀を手に入れた研ぎ師がであう。預かった金を失った十三郎が身投げしかけるが、夜鷹小屋の主人伝蔵に助けられる。金は娘が預かっているという。

稲瀬川庚申塚の場

娘おとせが金を持ったままお嬢吉三に出会い、奪われてしまう。おとせは川に落される。そこをお坊吉三に見咎められ、よこせとお嬢吉三と争いになる。が、もう一人和尚吉三が現れ仲裁し、結局は三人の吉三が義兄弟の契りを結ぶことになる。

ここで初めて三人吉三が登場となる。お嬢吉三は八百屋のお七、実は旅役者で男。お坊吉三は実は安森の子息、吉三郎。和尚吉三は吉祥院の所化、弁長で巾着切り。という悪者。この幕で有名なセリフが披露される。以下である。お嬢吉三の台詞。

月も朧に 白魚の、篝もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔ひに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏の ただ一羽。ねぐらへ帰る川端で、竿の雫か濡れ手で泡。思いがけなく手に入る百両。
厄払  御厄払ひませう、厄落とし(繰り返し記号)
ほんに今夜は節分か。西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文の、銭と違つた金包み。こいつぁ春から、縁起がいいわへ。

第一番目 三幕目

化粧坂丁字屋の場

丁字屋二階、吉野の部屋の場

お坊吉三、馴染みの遊女吉野の部屋にいる。そこへ巾着切りが三人分け前を取りに来る。喧嘩となるが、そこに木屋の文里が現れて仲裁。文里はお坊吉三の妹の遊女一重に通っている。

一重の部屋の場

文里は他の遊女や周りの人間にはすこぶる人望があるが、どういうわけか一重だけは嫌っている。?

九重の部屋の場

九重が一重を説得。文里に対して、謝るようにと。

再び、一重の部屋の場

一重指を切って文理に誓いを立てようとするが、文里は拒否。一重が今度は短刀で自害しよとする。その短刀から一重が安森の娘であることを知る。

葛西が谷夜鷹宿の場

川に落ちた「おとせ」を八百屋の久兵衛が助け夜鷹宿に連れてくる。そこには十三郎が助けられ匿われている。おとせと十三郎は再会を喜ぶ。ただ、久兵衛から話を聞いて、おとせと十三郎は実は双子の兄妹で夜鷹宿の主人伝吉の実の子だとわかる。また、ここで和尚吉三が伝吉の息子であることがわかり、その和尚吉三が例の百両を持ってくるが伝吉はどうしても受け取らない。たまたま訪れた、おとせに惚れる武兵衛の手に入ることになる。

ここの伝吉の回想の台詞は重要。以下に本文の画像で示す。これまでの因果がわかる。読んでいただきたい。

第一番目 大詰

地獄正月斎日の場

ここでどういう訳か、地獄が舞台。閻魔大王、紫式部、地蔵、朝比奈という本編とは無関係な人物が登場。地獄とはいえ斎日で宴会騒ぎ。後の場でこれは和尚吉三の夢とわかる。ここは当時の歌舞伎のあり方か。

小磯宿化地蔵の場

和尚吉三、研師の与九兵衛に出会う。親父が件の百両を受け取らなかったことを知る。最後に丁子屋の長兵衛と一重が登場する。小磯宿は大磯にあるが、ここは焼場の小塚原のこと。

ここで第一番目が終わる訳だが、なんとなく中途半端な気がする。あの地獄の宴会騒ぎは何のためにあるかわからない。

第二番目 序幕

化粧坂八丁堤の場

研師与九兵衛と貸し物屋の利助、文蔵の女房おしづから着物を無理矢理取り返そうとする。文蔵は今や廓通いが祟って貧乏に。しかも一重を孕ませていた。それを気遣うおしづが廓へ向かう途中だった。運よく紅屋の息子与吉に出会い、金をもらって難を免れる。一方伝吉は武兵衛に出会い、娘を百両で買ってくれと頼むが断られる。

同丁字屋二階の場

一重の部屋の場

一重としづの会話。心を通わせる。一重の子を育てたいと申し入れる。

回し部屋の場

一重が遅ればせながら顔を出す。武兵衛は持参の百両と引き換えに刺青を自分の名に変えろとせまる。しかし、一重はそれを断り金を突っ返す。

隣座敷の場

この話を聞いていたのはお坊吉三と花魁吉野、一重に同情し、武兵衛の金を奪うべく追いかける。

元の回し部屋の場

一重の心中。吉野に慰められる。

平塚高麗寺前の場

お坊吉三、武兵衛からあっさり百両を奪う。それを伝蔵が見ていて、お坊吉三から奪おうとする。しかし、お坊吉三に切られてしまう。またそこに十三郎とおとせが現れ、お坊吉三が落とした刀の目貫を拾う。

ここで話が展開する。文里と一重の話がお坊吉三と絡んで、元の庚申丸と百両の話へと繋がっていく。

第二番目 二幕目

丁字屋別荘の場

座敷の場

産後の肥立が悪く、一重は明日も知れぬ病。丁子屋の主人長兵衛は年季証文を一重に与え、自由の身にした上で、文里を招いて、最後の対面をさせる。

表の場

やってきたおしづ親子は一旦は追い返えされそうになるが、おしづは文里を一重の元にいかせようとする。しかし戻ってきた主人長兵衛の計らいでおしづたちも座敷に招かれる。

元の座敷の場

一時の小康状態を保った一重は、我が子梅吉を抱いて別れを告げ、おしづに書置きを渡す。梅吉に残したその書き置きには、養父母への報恩孝養を説き、長じて決して廓遊びなどせぬようにと書かれていた。その場の人々は胸を打たれる。

ここはまさに人情話。白浪ものとは思えないエピソードとなる。ここは観客を泣かせる場面か。それにしてもここに登場する人々はいい人ばかり。

第二番目 三幕目

御輿が嶽吉祥院の場

本堂の場

お坊吉三とお嬢吉三は和尚吉三の住む吉祥院に隠れている。おとせと十三郎が和尚を訪ね、伝吉の殺害と百両を奪われた経緯を語り、仇討ちの助力と金の調達を依頼。だが、和尚は義兄弟の契りを重視、逆に二人を身代わりにして、お坊、お嬢を救おうと決意。お坊お嬢は我が身の罪の償いに、自害しようとする。

本堂裏手、墓地の場

和尚はおとせ十三郎を手にかける。和尚二人が双子の兄妹であることを告げる。二人は納得して手にかけられる。

元の本堂の場

お坊とお嬢は書き置きを残して自害しようとする。そこに妹たちの首を持って和尚が現れ、二人に逃げるように諭す。二人の首の代わりに妹たちの首を差し出す算段だ。ここでお坊は百両を、お嬢は庚申丸を差し出す。お坊には庚申丸を実家に、百両を久兵衛の元へ戻すように諭す。そこに追手が来る。

ここで話が終局を迎える。庚申丸と百両が揃ったことでこれまでの経緯が全て明らかになり三人吉三が最後の博打に出ることとなる。

第二番目 大切

南郷火の見櫓の場

南郷二丁目火の見櫓の場

和尚の苦心にもかかわらず、武兵衛の訴えで、届けた首は偽首と知れ、三人の吉三は窮地の追い込まれる。三人に対する包囲網が敷かれる。

火の見櫓の上の場

太鼓が打たれれば包囲網が解かれるということを知ったお嬢がお坊の助けで櫓に登り太鼓を打つ。木戸が開かれ、和尚が駆けつける。

元の火の見櫓の場

和尚は妹夫婦の死を犬死に終わらせた武兵衛を斬り殺す。そこへ八百屋久兵衛が登場。お嬢から百両を、お坊からは庚申丸を受け取り、道を急ぐ。逃れられないと悟った三人の吉三は、三つ巴になって差し違える。これでおしまい。

ここは最後の部分を本文でご覧ください。クリックで大きくなります。

黙阿弥が描きたかったもの

 

こう読んでくると、この話がやはり「因果」の物語であることがよくわかる。実に多くの人物が登場するが、それらがいずれも「因果」の糸で結ばれている。血縁的な結びつきはもちろん、この物語で重要な要素、失われた名刀「庚申丸」とその代価の「百両」という金銭が、登場する人物たちを翻弄する。これらもここに登場する人物たちを結びつけてやまない「因果」なのだ。

この舞台は「白浪物」ということでいわば「ダークヒーロー」三人を主人公にした活劇的な内容だと思われるが、初期のフルバージョンではかなり「人情噺」要素が色濃いと思われた。というのは「因果」に絡め取られた人物たちの人生がどうにもならない悲哀に満ちているからだ。

私はこの話を読んできて、ここに登場する人物で重要なのは「三人吉三」よりむしろまずは「伝蔵」であると思われる。そして知らずに夫婦となる「伝蔵」の双子の兄妹である。そもそもことの発端は「伝蔵」が「庚申丸」を盗み、逃げる際に孕んだ犬を斬り殺したことにはじまる。しかもその「庚申丸」を失ったことがこの話を膨らませていく。一方、盗まれた方はお家断絶・切腹となるが、その一族もこのことによって辛い人生を歩むことになる。最後に三人差し違えて死ぬことになる「三人吉三」もまたこの「因果」によって絡め取られた人生を歩んだということなのかも知れない。

実に未来のない陰鬱な話ということになる。前回見てきた『四谷怪談』のような陰惨さはないが、「俺たちに明日はない」的な世界が描かれているような気がしてならない。

おわりに

この作品が上演されたのは安政七年正月だったという。安政といえば、幕末期の大変な時代だったはずだ。江戸で安政の大地震があり、海外から責め立てられた時代であり、安政の大獄、桜田門外ノ変とまさにその名と裏腹に江戸時代が終わりを告げる時代だった。そんな中庶民たちは歌舞伎に何を求めていたのだろうか?やはり「ダークヒーロー」だろうか。いや、やはり「因果」によって絡め取られた人生を生きるしかなかった悲哀に満ちた「人情噺」だった気がする。そんなふうにこの台本を読んだ。

この古典総復習続編も残すところあと二冊となった。今年はここまでか。

2024.12.03
この項 了

日本古典文学総復習続編31『東海道四谷怪談』

当時のビラ

今回は四世鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』を取り上げる。

はじめに

この話、「お岩さん」の怪談話だといえば、なんとなく知っているような話かと思われる。しかし、実は詳しい内容はわかっているようでわかっていなかった。「お岩さん」というのは、かつては日本の幽霊の代名詞みたいなもので、今なら差し詰め「貞子」みたいなものだ。つまり、「お岩さん」とは、ただ単に顔に醜い傷跡のある女の幽霊だ、と知っているだけだった。しかし今回、この四世鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』を読んで、改めてこの「お岩さん」の話が実に複雑な、しかも極めて陰惨な話であることを知ったというわけだ。

しかし、この『東海道四谷怪談』、決して読みやすいものではなかった。これは、この『東海道四谷怪談』が歌舞伎の台本という形で提供されている点にも関係していると思う。これがいわゆる戯作、今で言えば小説のような形で提供されていればもっと読みやすかったと思っている。

文学のジャンルには「戯曲」というものがある。しかし、この歌舞伎台本はそれとは全くと言っていいほど異なるものだ。もっと言えば本来は「読む」べきものではないと言っていい。それはあくまで芝居のためのものなのだ。現在映画やテレビの台本をそれ自体として「読む」という行為はありうるだろうか。そう考えてみるとこの「台本」を「読む」より、歌舞伎の舞台を「観る」方がよっぽど「まし」ということになる。しかもこの「台本」を通読してもこの「話」の内容がスムーズに伝わりにくく苦労した。

しかし、そんな事ばかり言っていても仕方がない。あくまでもこの「台本」に沿った形で『東海道四谷怪談』を読んできたので、それを紹介したい。

この『東海道四谷怪談』の内容

この「台本」は以下の形で展開されている。

  • 初日二番目序幕
  • 初日二番目中幕
  • 初日二番目三幕目
  • 後日二番目序幕
  • 後日二番目中幕

これは舞台展開だ。この「二番目」というのはこの舞台が「世話物」であることを意味するようだ。「一番目」が「時代物」「二番目」が「世話物」という一日の上演順序があってのことだ。そしてこの『東海道四谷怪談』は実は「一番目」の「時代物」たる「忠臣蔵」のいわば「スピンオフ」的位置付けだった。つまりこの「舞台」は「忠臣蔵」とともに二日間にわたって上演されたということになる。

さて、そしてそれぞれの「幕」に「場」が設定されていてそれが紹介され、その後に「役人替名」と言って登場人物と配役が示されている。(ここで画像を見てもらいたい。この本の最初の3ページを画像化したものだ。以下他の「幕」も同様だ。クリックすると拡大するはずだ。)

本文1

では、それぞれの「場」を見ながらこの「話」を追っていくとにしよう。

初日二番目序幕

浅草境内の場

幕開きの仕出しの会話・お梅の恋煩い・藤八五文の薬売り・お袖の意地・直助の仲裁・直助の横恋慕・お袖の肘鉄・新参の乞食・下心ある伊右衛門の仲裁・親の許さ夫婦仲・御用金の盗賊・伊右衛門の殺意・見送る喜兵衛とお梅・乞食に身をやつして・危うし廻文状・喜兵衛一行の帰宅・色男のうかれた会話

薮の内地獄宿の場

めかしこんで私娼窟へ・夜の顔・あの手この手の口説・与茂七の登場・美人売女・お梅の述懐・思いもよらぬ再会・お袖の恨みごと・仲直り・夫婦の酒事・お袖のしゃべり・だし抜かれた直助・直助の啖呵・愛想づかし・藤八の追打ち・裸にされる直助

同裏田圃の場

(一)乞食らの太平楽・秋山長兵衛の出・義士の本心・衣服を取り替えて・待ちぶせ

(二)二つの惨劇・行き合った姉妹・夜鷹と地獄・姉妹の嘆き・仕組まれた罠・悪人の甘言・下心ある諫言・血祭りの祝言

ここで登場人物、それぞれの関係、最初の事件がわかる筋書きになっている。筋書きといっても舞台だから、ほとんど会話が中心なのでそこから理解するしかない。人物関係をざっと観ると以下だ。

伊右衛門 お岩 夫婦。与茂七 お袖 夫婦。お岩 お袖 姉妹。その父 四谷左門。伊右衛門の不正を知る 伊右衛門を拒否。全て 塩谷側 つまり没落側。

伊藤喜兵衛とお梅 祖父と孫娘。高野側 つまり勝者側。お梅 伊右衛門に恋慕。祖父孫娘に大甘。

そして事件は、薬売り 直助 お袖に横恋慕。伊右衛門 義父四谷左門に殺意。直助 お袖の夫与茂七に殺意。それぞれ実行 ただし与茂七は同志正三郎だった。(与茂七は死んでいない)
姉妹 死体を発見。伊右衛門・直助 騙して 敵討ちを約束。それぞれ夫婦生活を始める。

これが序幕の内容

初日二番目中幕

雑司ヶ谷四谷町の場

伊右衛門浪宅の場

小平の逐電・家伝の唐薬・浪人者の内証・小平捕わる・小平哀訴・忠義の盗み・指を折る・伊藤家からの産婦見舞・もう一つの妙薬・質屋の強催促・唐薬の質物・恩を売られる・産褥中のお岩・隣家を礼訪・お岩の独白・感謝で飲む毒薬

伊藤屋敷の場

伊藤家の豪奢・小判の御馳走・狂言自殺・懺悔の述壊・窮地に立つ伊右衛門・伊右衛門の変心   

元の伊右衛門浪宅の場

お岩の変貌・伊右衛門の帰宅・伊右衛門の愛想づかし・形見の櫛・蚊帳を質草に・血染めの生爪・伊右衛門の奸計・奇怪な求愛・鏡の中の顔・宅悦の白状・髪梳・お岩絶命・伊右衛門の帰宅・菊五郎早替り・小平を惨殺・葬式と婚礼の隣合せ・お梅の輿入・新床の怪

ここのお話は。伊右衛門とお岩、貧しい生活。お岩、妊娠、出産、病気がち。伊藤喜兵衛の対照的な豪華な生活。孫娘お梅を溺愛。喜兵衛、お岩に薬を届ける。実は毒薬、お岩毛が抜け、絶命。伊右衛門、中間の小仏小平を殺害、お岩の間男に仕立て 二人を戸板にくくりつけ流す。お梅、念願かなって伊右衛門に輿入れ。その新婚初夜、お岩の亡霊現れて、錯乱の伊右衛門、喜兵衛とお梅を殺害。となる。ここでは有名な「戸板流し」が語られ、お岩の梳る櫛も小道具として、その後重要な役割を果たすことになる。

これが二幕目の内容

初日二番目三幕目

十万坪隠亡堀の場

伊藤一家の零落・小平の卒塔婆・死の淵への誘引・鰻掻きに変身・お熊の前身・悪人同士の再会・卒塔婆のゆくえ・長兵衛の強請・戸板返し・世話だんまり

ここは短い幕。人物としてはお弓というお梅の母が登場、伊右衛門を打とうとする。また伊右衛門の母お熊が登場。これが息子にもまして相当な悪女。伊右衛門を死んだことにして、お弓を騙す。また悪役長兵衛も登場。また、鰻掻きに変身した直助と再会。伊右衛門 お弓を殺害。悪役長兵衛に強請られ、その後 お岩と小平をくくりつけた戸板に出くわす。これが有名な「戸板返し」。

(この幕の最後の部分は本文を画像化したので、これをご覧ください。クリックすると大きく表示されます)

本文2

これが三幕目の内容

後日二番目序幕

深川三角屋敷の場

洗濯物の伏線・蜆売りの次郎吉・水死体の風貌・見覚えのある着物・小平の倅・老人と孫・孫兵衛の一家・お袖の述懐・日暮れて直助帰る・櫛の因縁・盥の中から手が・着物の怪と鼠の怪と・宅悦との再会・惨劇を告げる櫛・お袖半狂乱・逃げ出す宅悦・お袖の決意・生きていた与茂七・幽霊にされた与茂七・夫婦の再会・だんまりほどき・直助正体を明かす・回文状を挟んで睨み合い・悲愴な計略

小塩田隠れ家の場

強悪婆・嫁や孫の出商・居候の旧主・謎の衣類・重なる怪事・赤垣伝蔵の来訪・討入りの密談・分配金・質屋の嫌疑・お熊の奸計・お熊の悪態・深まる疑惑・お熊の悪態・窮地の立つ又之丞・借財責め・打擲場・辛い宣告・義士の資格・小平の亡霊・幽霊の意見事・卒塔婆と位牌・お花の嘆き・亡魂、息子に憑依・難病本復

元の深川三角屋敷の場

お袖の述懐・畜生道・直助の述懐

ここのお話。ここはお岩の妹 お袖の話が中心。姉お岩の死の真相を知る。元の夫の与茂七と今の夫直助両方を騙して殺そうとするが、結果はお袖が死ぬことに。その際に実はお袖と直助は兄妹だったことが判明。直助自害。またここでこの話が忠臣蔵のスピンオフであることを示す話や、盥・鼠・櫛を使った見せ物的要素がある。

これが四幕目の内容

後日二番目中幕

夢の場

牽牛と織女・色悪の美男・うちわもめ・仲直りの酒盛・差し向い・お岩に生き写し・蛍火のゆらめく中で・簾の向うの顔・場面は一変

蛇山庵室の場

百万遍念仏・もう一つの塩谷浪人・父子の対面・母子の邪な悲願・高野家からの使者・逢魔が時・戻ってきた属託・頼みの綱も・勘当場・法力に縋って・すさまじき執念・悪友の裏切り・伊右衛門の最期

ここでのお話。伊右衛門、夢の中で美しいお岩(実は亡霊)と出会う。その亡霊に散々苦しめられる。実の父や塩谷浪人たちと出会うが、伊右衛門は母とともに敵方高野家へ寝返ろうとしている。しかし、お岩の亡霊が燃える盆提灯の中から現れて、伊右衛門の母を首くくりにして殺し、悪に加担した秋山長兵衛を仏壇の中に引き込んで殺す。この辺りはまさにこの舞台の見どころか。最後には与茂七がお岩の亡霊の力を借りてみごと伊右衛門を討ち果たす。

(この幕の「すさまじき執念」の部分は本文を画像化したので、これをご覧ください。クリックすると大きく表示されます)

本文3

これが五幕目(終幕)の内容

この部分は大団円に相応しく、さまざまな小道具、大道具を駆使して、見せ物たる歌舞伎の、また怪談ものの真骨頂が見物できる仕掛けがある部分。これらの仕掛けについては「江戸東京博物館」の展示でみるとよくわかる。(ここではyoutubeで見ていただきたい。江戸東京博物館youtube

おわりに

こう読んでくると、この『東海道四谷怪談』が「忠臣蔵」を背景に、その話の裏で忠臣とは程遠い欲望に満ちた侍(浪人)や男たちの残忍に満ちた物語であることがわかる。またそうした男たちに翻弄される女たちの執念に満ちた姿も描かれている。そして、それを描くに歌舞伎という「見せ物」の、しかも「怪談」という設が功を奏しているように思う。歌舞伎の演出上の工夫や舞台の設についてはここで触れることはできなかったが、そこにこそ作者南北は心血を注いでいたのかもしれない。そこに触れないでは本当はこの歌舞伎台本を読んだことにならないかもしれないが、今回はここまでにしておく。

2024.11.09
この項 了