日本古典文学総復習続編6『太平記』1

『太平記』を読むその1

はじめに

『太平記』は大部な作品である。この古典集成でも五冊あり。物語としては八冊ある『源氏物語』に次いで長い。『源氏物語』はかなり以前から部分的に読んできたので通読に時間はかからなかった。以前の新古典文学体系の総復習で確か4回に分けて書いている。(このブログで検索していただければ幸いです。)しかしこの『太平記』はほとんど初見である。したがってかなりの時間を要したし、その内容を追うだけでも大変であった。

全体の構成

さてその内容だが、全体を三部に区分けできるようだ。全40巻あるが、解説によれば以下に区分けできるという。これにそってとりあえずは内容を追ってみたい。
第一部、巻1から巻11まで。
後醍醐天皇による北条幕府討伐の計画から、その成就、そして建武政権の確立までを楠正成らの動きを軸として描く。
第二部、巻12から巻21まで。
建武政権の乱脈を批判しつつ、諸国の武士の、新政に対する不満を背景に足利・新田の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。
第三部は、巻22から巻21まで。
観応の擾乱、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌から細川頼之の将軍補佐による太平の世の到来までを描く。

第一部を読む

そしてこのブログでは各部の詳細を追っていきたい。まず今回は第一部。(なお、集成本は5冊構成だが、この三部構成とは一致してはいない。1冊目は巻1から巻8まで。2冊目は巻9から巻15。3冊目は巻16から巻22。4冊目は巻23から巻31。5冊目が巻32から巻40までである。)

巻1

序を含んでいる。
後醍醐天皇即位から正中の変までを描く。北条高時の暴虐、後醍醐天皇の善政。しかしその後宮の乱れも指摘している。そして倒幕を企てた正中の変の挫折を描いている。その首謀者日野資朝・日野俊基に対しても批判的であることが注目される。

巻2

正中の変から6年経過。元弘の乱へと展開。後醍醐天皇の挙兵の準備とその発覚。幕府に皇位継承を提起。比叡山との戦いを描く。
語り物・中国の故事・合戦談を集めて元弘の乱への核心を描いているところに特徴が見られる。山門内の勢力争い、打算的な衆徒の動きも描き、一方漢楚の故事の引用、君臣の忠節も描く。

巻3

元弘の乱の緒戦から乱が一応の頓挫を見るまで。後醍醐天皇の夢に現れた楠木正成の登場。諸国の挙兵と東国の援軍鎌倉を出発。
後醍醐天皇、笠置を落ちる。六波羅へ遷幸。光厳天皇即位。正成の機略の数々。ここから楠木正成が中心的な人物として描かれるようになる。

巻4

笠置の合戦の後日談。幕府の事後処理をめぐる流刑等を多様に描く。もう一つは先帝の隠岐遷幸を描く。呉越説話がほぼ半分を占める。これは後日の先帝復活の伏線とおもわれるが、この長文の故事の引用は『太平記』ならではである。

巻5

持明院系の栄華からはじまり、やがて北条一門が滅亡の道を辿る前兆を描く。高時が田楽を愛好し、闘犬をあそぶことを記し、天下の乱れの予兆とする。
関東の命令に従う熊野別当や吉野在地武士の動きに関わらず、次第に先帝や大塔宮の側に有利に局面が展開し始める。ここでも漢籍の世界をかりて描いている。

巻6

先帝復帰の予告。楠木正成の活躍。関東の大群上洛するが、北条一門の滅亡が近いことを描く。楠木正成の奇略の数々が描かれる。

巻7

大塔宮と二階堂道蘊との吉野で戦い。千早城の楠。新田義貞の先帝側への意を通じ関東へ帰る。情勢の変化に基づいて先帝、隠岐を脱出、船上山に立て篭もる。攻める佐々木らは敗走。諸国の勢力、船上山へ馳せ参じる。新田義貞に綸旨を賜う。倒幕を企てる。

巻8

いよいよ京へ攻め入るが膠着状態が続く。赤松兄弟の奮闘がえがかれる。

巻9

足利高氏の裏切り。はじめ北条の大将であったが、高時への私憤から先帝に意を通じる。丹羽篠村で討幕の兵をあげることとなる。六波羅敗退。これによって機内の大勢決することとなることを描く。

巻10

前半は新田の軍記物語。後半は追い詰められた鎌倉勢の滅亡までを描く。

巻11

三部にわかれる。第一部は鎌倉幕府滅亡後の北条一門とその子女の悲劇。第二部は後醍醐天皇の二条内裏への遷幸と赤松と楠の供奉。第三部はこの間の地方各地の情勢変化を描く。

第一部の評価

というのが第一部だ。つまり戦乱を描いているからこれは軍記物語といっていいが、これまで軍記物語の一つの達成である『平家物語』と比べると、どうも文章が硬い気がする。確かに『平家物語』にあるような以下のような表現もある。

『この矢一つをば冥途の旅の用心に持つべし』と言ひて腰にさし、『日本一の剛の者、謀反に与し自害する有様、身置いて人に語れ』と高声に呼ばはつて、太刀の鋒を口に啣へて、櫓よりさかさまに飛び落ちて、貫かれてこそ死ににけれ。

しかし一方で漢籍の引用も多い。有名な「呉越合戦」「漢楚合戦」などは巻一つの何分の一をしめていたりする。これは『平家物語』にはないことだ。
また序文にある以下の考え方はこの書の政治的な考え方を如実に表していて、後醍醐天皇評価にもある治世論がおおく漢籍の儒教的な考え方に寄っていることがわかる。

もしそれその徳欠くるときは、位有りといへども持たず。いわゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗らる。その道違ふときは威有りといへども久しからず。

「もし君子がその徳に欠けている場合は、帝位にあっても位を維持できない。周知のように夏という国の桀という暴君は殷の国の王によって南巣という所に追われて滅びたし、その殷の紂という暴君も周の武王に追われて牧野という所で打たれて滅んだ。また、その臣下も臣下の道を誤ればたとえ威勢を奮っていてもそれは長続きしない。」(筆者口語訳)

周知のようにこの鎌倉幕府滅亡から南北朝へ展開する歴史は天皇制の問題と絡んでいわば微妙な時代である。天皇制が一時的とは言え分裂した時代だからである。後世この時代、特に後醍醐天皇をどう評価するか、南朝をどう見るか、ということが歴史的にも揺れてきた。それは幕末から明治初期、そして太平洋戦争期まで尾を引いてきた。ただ、『太平記』をここまで読んできて、そんな後世の後醍醐天皇や南朝に対する過剰な評価も過小な評価も見当たらなかった。むしろ比較的客観的に歴史を描いていいるように見えた。

今回はここまで。

2021.04.27

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