今回は『金槐和歌集』だ。
『金槐和歌集』とは
これは鎌倉時代の将軍源実朝の私家集である。自らの手で編集したものと言われている。金槐とは鎌倉の将軍という意味だという。武士の棟梁たる将軍の歌集が文学史上に名を残してること自体が異色だ。歴史的に江戸時代の終わりまで多くの武士の棟梁たる将軍と呼ばれた人たちがいた。その人たちも教養として和歌を詠んだであろう。しかし、誰一人として文学史上に歌集を残していない。この実朝だけが唯一の存在だ。まずはこのことがこの歌集を特色あるものにしている気がする。
しかもこの将軍は暗殺されている。鎌倉幕府を開いた父源頼朝は絶対的な力を持つ将軍であった。しかし、頼朝の死後将軍となったその子頼家は幽閉され惨殺されていた。その跡目を継いだその弟である実朝は独特な立場に置かれていたはずだ。単に将軍の歌集というばかりでなく、やがて暗殺されなければなかった将軍の歌集であるということもこの歌集の異色さを物語っている。
歌人としての実朝は
では純粋に歌人としてはどうだったのか。その和歌はどうだったのだろうか。一般的に中世和歌史上、この実朝の歌自体も異色だったと言われている。これは賀茂真淵の評価に始まり、近代の正岡子規、斎藤茂吉などのアララギ派の歌人たちによる実朝評価が大きいようだ。
記紀歌謡、万葉集にはじまり古今集に至って完成したといわれる和歌文学が、中世に入ってその本来の文学的な生命力を失って行ったなか、実朝の歌だけが万葉集にあるような生命力あふれる歌だと評価されている。
こうした経緯から実朝はその後も取り上げられることが多い。純粋な歌人と言うより、暗殺された将軍としての歌人という取り上げ方だ。先の太平洋戦争中は、太宰治と小林秀雄が取り上げている。また、戦後はそれを受けて吉本隆明が本格的にとりあげた。
『金槐和歌集』の構成
さて、こうした概略はともかく、この歌集と実朝の歌自体はどう言うものなのか。これからみていきたい。
『金槐和歌集』は春・夏・秋・冬および賀・恋・旅・雑の八部構成からなり、全663首の歌が納められている。(なお、この古典集成には「実朝歌拾遺」と言うことで94首プラスされている。)
八部構成の各部の歌数は以下のとおりである。
春116首・夏38首・秋120首・冬78首・賀18首・恋141首・旅24首・雑128首である。
実朝の歌作り
さて、実際の歌だが、この書を紐解いて頭注を見て目立つことは、ほとんどの歌に参考歌があると言うことだ。例えば歌の数が少ない夏の部の歌を見てみると38首中頭注に参考歌が引かれていないのがたった2首。しかもその2首とも前の歌とも関連があり、ある意味で前の歌の参考歌をつづいて見ていると言うことにもなり、ほとんどの歌に参考歌があると言うことになる。ただ、これは頭注者が考えたものであり、実際に実朝が影響されたかどうかは定かでは無いだろうが、(頭注とは別に巻末に「参考歌一覧」というのがあり、ここに影響関係を想定できる先行歌を挙げている。夏の部では9首が除かれている。)実は当時の歌作には「本歌取り」といういわば技法があり、これらが「本歌取り」に当たるかどうかはともかくにして、先行歌を踏まえて歌をつくることは決して不思議ではない。実際を見てみよう。
140 うたた寝の 夜の衣に かをるなり もの思ふ宿の 軒のたちばな
橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする (『新古今集』夏 藤原俊成の女)
この参考歌そのものも以下を参考歌にしているのは明らかだ。
さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする (『古今集』夏 読み人知らず)
他の部の例を見てみよう。春。
38 さりともと 思ひしほどに 梅の花 散り過ぐるまで 君が来まさぬ
さりともと思ひし人は音もせで萩の上葉に風ぞ吹くなる (『後拾遺集』秋上、三条小左近)
見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ (『万葉集』巻二十、中臣清麻呂)
なるほどこうやって作歌していたんだと思わせてくれる。実朝が歌を相当勉強していることが窺えるともいえる。実際に実朝は当時の和歌の宗匠と言える藤原定家に師事している。また、当時作歌は『古今集』を最も大切な手本としていたから、実朝の頭の中には『古今集』を中心とした歴代の歌集の歌があったと思われる。
ところでこうして作られた歌はどこに作った人間のオリジナリティがあるのだろうか。実際をみてみよう。
140番の歌は、『新古今集』夏・藤原俊成の女の歌から、「うたた寝」という言葉そのものと「たちばな」の香りをいただいている。藤原俊成の女の歌も
『古今集』夏・読み人知らずの歌から「花橘の香」をいただいているし、「昔の人の袖の香ぞする」もずばりそのままいただいている。ただ、内容は少しずつ変化している。『古今集』の歌は「5月になって、待っていたよう花咲く花橘の香をかぐと、その香りを身に纏っていた昔の恋人を思い出す。」と言う心情を直線的に歌っている。それに対し、藤原俊成の女の歌はそれを「うたた寝の夢」という観念のなかでのこととしている。さらに実朝はもう一度それを現実の「もの思ふ宿でのうたた寝」の自分の衣に香るとしているのだ。ここに実朝のオリジナリティがある。
しかし、38番の歌はどうだろう。二つの歌の前半と後半をほぼそのままつなぐことによってできているといえるから、今だったら「盗作」か、よく言って「剽窃」と言われかねない。しかし、よく考えてみると「盗作」「剽窃」と言った言葉自体、近代のものなのである。これは「著作権」なる近代的な概念に基づいて言われることなのだ。もっと言えば「オリジナリティ」なる概念も近代的なものなのである。実朝自身はそんなことなど考えていない。『後拾遺集』に使われていた「さりともと 思ひし」という歌い出しが気に入っていたのだ。これは現代語にすれば、「そうであったとしても」ということになるだろうが、もっといえば「いくらなんでも今日こそは」ということになる。『後拾遺集』秋上の三条小左近の歌には「資良朝臣、音し侍らざりければ、つかはしける」という詞書があり、これは女の来ない男への恨み節だ。『万葉集』巻二十、中臣清麻呂の歌は「恨めしく 君はもあるか やどの梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける」という歌の返しとなっている。これは男女の恨み節というのではなく、宴の主人と客との挨拶ということのようだ。梅が散り過ぎた後でも会えた喜びを逆説的に歌っている歌ということらしい。この歌をもういちど男女の歌に戻したのが実朝の歌ということになるようだ。無理に言えば、こうしたところに実朝の「オリジナリティ」があるということになるのかもしれない。
「本歌取り」とは
さて、こうした形の実朝の歌は当時の歌の技法であった「本歌取り」ということなのだろうか。実朝は時の和歌の大御所とも言うべき藤原定家に師事している。定家は和歌の作り手であると共に和歌についての理論家であったから、当時の歌の技法である「本歌取り」についても定家から学んでいるはずだ。
では、定家の言う「本歌取り」とはどう言うものなのか。定家は簡略化すると以下のようなことを言っている。
「本歌からはせいぜい二つくらいの句をいただいて、それを歌の上下に置くのがいい。そして内容も本歌が恋の歌だったら恋の歌では無い歌にするのがいい。」と。(実際はもっと詳しく『毎月抄』で展開している)
こうしたことから言うと先に引いた140の歌などは「本歌取り」と言えるだろう。しかし、38の歌などは明らかに定家のいう「本歌取り」からは逸脱している。そしてこうした逸脱こそが実朝の個性であり、実力であったと言えるのかもしれない。
実朝歌の真骨頂
では最後に実朝の実朝らしい個性ある実力を示した歌を引いておく。まずは若い実朝が「老い」について歌った歌
相州の土屋といふ所に、年九十にあまれる朽法師あり。おのづから来たる。昔語などせしついでに、身の立居に堪へずなむなりぬることを泣く泣く申し出でぬ。時に、老といふことを人々におほせて、つかうまつらせしついでによみ侍る歌
595 われ幾そ 見し世のことを 思ひいでつ 明くるほどなき 夜の寝覚に
596 思ひいでて 夜はすがらに 音をぞ泣く ありしむかしの 世々のふるごと
597 なかなかに 老いは呆れても 忘れなで などかむかしを いと偲ぶらむ
598 道遠し 腰はふたへに 屈まれり 杖にすがりてぞ ここまでも来る
599 さりともと 思ふものから 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しさ
もう一つは親を亡くした子に思いを寄せた歌
慈悲の心を
607 ものいはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ
道のほとりに、幼なき童の、母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、「父母なん身罷りにし」と答へ侍りしを聞きてよめる
608 いとほしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母を尋ぬる
そして有名な二所詣ででの旅の歌だ
636 旅を行きし あとの宿守 おのおのに 私あれや 今朝はいまだ来ぬ
638 たまくしげ 箱根のみうみ けけれあれや 二国かけて なかにたゆたふ
639 箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 浪のよる見ゆ
642 わたつうみの 中に向ひて いづる湯の 伊豆のお山と むべもいひけり
こうした歌を読むと、やはり実朝は当時の歌の専門家には無い自由な個性があったと言い得る。
2021.04.11
次回は『太平記』に挑む。