成島柳北「柳北奇文」を読む5

二船問答(明治9年8月25日)

実に面白い文章。「芥舩ト屋舩ト二洲橋下ニ闘フ」という形で問答が展開する。
芥舩はゴミを運ぶ船、屋舩は遊びのための屋形船だが、芥舩が屋舩に「景気はどうだ」と聞く。屋舩はここのところ全く客がいないと嘆く。芥舩は「文明開化」の証拠だという。屋舩は「不景気」の証拠であり、「何が文明開化だ」と非難する。

「足下未ダ芥臭ヲ脱シ去ラザルヤ所謂文明開化ナルモノハ斯ノ様ナル卑陋世界ヲ謂フニ非ズ試ニ看ヨ英ト云ヒ仏ト云ヒ米ト云フ文明開化ノ本家本店タル諸都会ノ如キハ尽ク卑陋斯クノ如キ者ト思ヘル乎決シテ然ラザルナリト陸ニハ車馬有リテ水ニハ舟舫有リ日曜ハ論ナク平日モ晩食終レバ士女競ツテ遊ビ老幼争ツテ狂ス錦衣玉食嬌歌妙舞夏ハ涼ヲ清水嘉樹ノ間ニ追ヒ冬ニハ暖ヲ晶楼綺閣ノ中ニ領ス千金一擲萬銭一抛豪華互ニ誇ル何ゾ斯クノ如ク冷策憔悴(サミシキ)シタル僻邑荒村一般ノ都会ト同一ナル有ンヤ」と。

すなわち、「文明化開化の本家本元の欧米では日曜のみならず平日でも夜ともなれば老弱男女きそって遊んでいるではないか。これが文明開化じゃないのか。今の東京はまるでさびいしい鄙びた村と一緒だ。」と。

それに対して芥舩は「近事官吏ガ謹慎ナルガ」ゆえに屋形船が繁盛しないのだと言う。しかし、「とんでもない。官員が謹慎なのは当然で、全都の人民が遊べないのが問題なのだ。」と切り返す。

芥舩=薩長藩閥、屋舩=江戸町人という図式である。勿論柳北の意は屋舩にある。

柳北は旧幕時代、なによりも大川での船遊びが好きであった。ここに懐旧の情を読み取ってもいいのだが、例に江戸を引いていない。むしろ文明開化の本家である欧米を引いて、本来の文明開化はむしろ「町人が船遊びをできる世のことではないのか」と言っている。

さて、文末にこの二船の問答に糞舩が登場する。曰く

「兄等ハ何ヲ數無ク語(ホエ)ルンダ止メサツセイ己ラガ村方ア今年モドエライ豊作ダニ依テ嬶(カカ)アドノノ褌ヲ一貫三百デ新ラシク買ヒ村中揃テ豊年踊リヲブツ始メルコンダガ兄等モ来テ見ナサレ仲間喧嘩ナザアブチ止メテ」と。

ここで田舎者が登場し、二船を仲間としているところがおかしい。つまりは芥舟も屋形船も糞船からみれば仲間だということ。ここには田舎と都会という図式が現れる。田舎は結構いいよと言っている。田舎に来なよと。

だがしかし柳北は結句

「屋船ハ小声デ噫ヨクヨク銭ノ無イ国民ダナア」

と嘆く。

この図式はこの後の日本の近代の歩みを見てみればよくわかりますなあ。今だってそうなる可能性は十分にあるんじゃないかな。政府は田舎では農業(糞を運ぶ糞船)、都会では産業(ゴミを運ぶ芥船)に重きを置いて、町人の遊びが後回しになるってことがね。クワバラクワバラ。

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