『日本古典文学総復習』65『日本詩史 五山堂詩話』 66『菅茶山 頼山陽詩集』

この「日本古典文学総復習」、ここのところ滞ってしまった。前回から一ヶ月を経過してしまった。当初の計画では一年間で100巻を読破する予定だった。しかし現在66巻目を読んでいる状態。しかも今日は11月末日。なんとか70巻までたどり着いて今年を終了するしかないようだ。残り30巻は4月まで読了したい。計画変更は何事にもありがち、よくここまで来たと自ら慰めている。

さて、今回も江戸期の漢詩だ。先ずは漢詩論というか、漢詩にまつわる著作。以下その概略を紹介するにとどめておく。

『読詩要領』

ここでいう「詩」は『詩経』のこと。儒者伊藤東涯が『詩経』についての考え方をまとめた書。しかし、『詩経』の解説を超えて「詩」一般の本質に触れる指摘もあるようだ。勧善懲悪の考え方を超えて、

「詩というものは、人の心におもふことをありように言ひあらわしたるもの也」
「詩は以て人情を道ふ」
「諷誦・吟詠して、人情・物態を考へ、温厚・和平の趣を得べき」

と言った言葉がある。

『日本詩史』

江戸時代中期の儒者、江村北海という人物になる日本文学史漢詩編といった書。日本における漢詩の沿革がわかる。
巻一・二が上代から戦国時代までの漢詩、残り巻三以降が江戸期の漢詩にあてられている。各時代の代表的な漢詩を紹介し、論評を与える形で書かれている。
江戸期の漢詩についてが多く割かれている。

『五山堂詩話』

菊池五山の漢詩文集。正篇10巻、補遺5巻からなる。文化4年(1807)から天保3年(1832)にかけて刊行された。ここでは巻一、二が収められている。
さて、五山は詩人のサークルである江湖社に参加し「続吉原詞」や「深川竹枝」などの詩作によってその才名を広く知られるようになった。そのことからもわかるように、五山の詩は唐詩どころか宋詩からも離れ、江戸の市井の生活を詠んだものに優れた作が多い。
これは漢詩が江戸期に成熟し、いわば日本化したというか、卑俗化した証であった。このことが寺門静軒をへて後の成島柳北を産む素地となったと言える。
また、五山はいわば批評家でもあり、当時の漢詩を多く批評した。この書はそうした漢詩の時評集である。

『孜孜斎詩話』

早熟の漢学者、西島蘭渓による日本漢詩の抜書きと批評の書。漢詩人石川丈山についてで始まっていることから、石川丈山に並々ならぬ傾倒ぶりがうかがえる。もちろん当時の多くの漢詩人及びその代表的作品が紹介され、論じられている。

『夜航余話』

津阪東陽による漢詩論集。死後出版された。上下2巻。上巻はカタカナ混じり文で書かれ、漢詩固有の話題を取り上げている。それに対し、下巻はひらがな混じり文で書かれ、漢詩と和歌・俳諧との関係に及ぶことが多く書かれている。東陽は儒者である。儒者にとって漢詩はいわば余技にすぎない。

「詩の学者におけるや特にそれ剰技のみ。行、余力有りて乃ち以て之を学ばば、君子必ずしも譏らざるなり」

とある。しかし、余技とは言えない並々ならない詩に対する関心があってこそこうした著作があることに間違いはない。というよりむしろ漢詩が儒者としての憂愁の友であったと言えそうだ。

『漁村文話』

江戸時代末の漢学者、海保漁村の著。これは漢詩論ではない。漢文の散文論と言っていい。対句をあまり使わない中国古典散文を論じている。漢文は日本語において大きな役割を果たしている。ここで小生が書いている拙い文章もいわば漢文崩しの文章ということができる。論理的な文章は漢文が向いている。これまで正式な文章は外国語である漢文で書かれていた。といってもどうしても日本語化する。そこに漢文崩しの日本語の文章が出来上がってくるのだが、その根本はやはり中国の古典的な文章にある。その中国の古典的散文を論じたのがこの書ということになる。これは日本語文章の歴史を考える上で重要な書と言えそうだ。

『菅茶山詩集』

菅茶山の詩集『黄葉夕陽村舎詩』を抄出している。

菅茶山は江戸末期の漢詩人。現在の広島県に生まれ、京都に遊学した経験はもつが、故郷神辺に塾をひらき廉塾とし、住居を黄葉夕陽村舎と名づけ多くの詩を残した。頼山陽とも交流があり、詩集『黄葉夕陽村舎詩』は京都で出版され、後明治期まで版を重ねたと言う。それだけこの菅茶山の漢詩は人々に親しまれたようだ。漢詩が儒者の余技や中国古典の模倣から脱却していわば「日本化」された、いい例といえる。その題材も自らが住む農村の風景が多く、鮮やかな写生的な詩に清新さが感じられる。またその詩から、なんの衒いもない落ち着いた人物が彷彿とする。ここに七絶二首を引く。書き下しは本書校訂者による。(以下同)

 即事

晏起家童未掃門   晏起するも家童未だ門を掃かず。
繞簷梨雪午風喧   簷を繞る梨雪午風喧かなり。
一双狂蝶相追去   一双の狂蝶相ひ追ひて去き、
直自南軒出北軒   直ちに南軒より北軒に出づ。

 冬夜読書

雪擁山堂樹影深   雪山堂を擁し樹影深し。
檐鈴不動夜沈沈   檐鈴動かず夜沈沈。
閑収乱帙思疑義   閑に乱帙を収めて疑義を思へば、
一穂青燈万古心   一穂の青燈万古の心。

初めの詩は農村の蝶が舞う朝の暖かな風景を写生したもの。後の詩は雪の夜の静かな読書後の感慨を述べたもの。
友人頼山陽は「菅茶山先生の詩に題す」の中で、「緒餘の小技も亦超倫」と言い、「終年白を衣る是山人」と言い、「高陽に跡を混じて韜晦に甘んず。」「名字何ぞ図らん薦紳に達するを。」とその人柄を絶賛している。

『頼山陽詩集』

江戸後期の儒者頼山陽の詩集『山陽詩鈔』『山陽遺稿詩』『日本楽府』からの抄出。山陽は夙にその書『日本外史』で有名な勤王家でもある。この『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなり、明治期は元より昭和の戦争期までよく読まれたという。ただこの書は歴史書としては誤謬が多いともされ、戦後は忘れ去られていった。しかし、頼山陽は前に紹介した菅茶山とも交流のあった漢詩人でもあり、詩吟で有名な漢詩の作者としてその名を止めている。
その詩は歴史的題材や歴史的人物を歌ったものも多いが、以下に紹介するような母を歌った詩などもある。

 癸丑歳偶作

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者已に水の如し。
天地無始終   天地始終なく、
人生有生死   人生生死あり。
安得類古人   安ぞ古人が類して、
千載列青史   千載青史に列するを得ん。

  中秋無月侍母

不同此夜十三回   此の夜を同じうせざること十三回
重得秋風奉一巵   重ねて秋風に一巵を奉ずるを得たり。
不恨尊前無月色   恨みず尊前月色なきを。
免看児子鬢辺絲   看らるるを免る児子鬢辺の絲。

2017.11.30
この項了

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