『日本古典文学総復習』63『本朝一人一首』 64『蘐園録稿』『梅墩詩鈔』『如亭山人遺藁』

『本朝一人一首』を読む

今回は江戸時代の漢詩。
漢詩は本来中国古典の詩であることはいうまでもない。しかし日本文学において独特な位置を占めるジャンルでもある。いわば外国の詩を日本人が作るという作業が古来近代に至るまで多くの知識人によってなされて来たこと自体が世界に類を見ないことだ。現代の我々はこうした伝統から遠ざかってしまったが、ここでそれを振り返るのも悪くない。
さて、日本の漢詩はどの様な位置を占めていたのだろうか?まずそれが知識人の文学だということだ。もっと言えば支配層の文学だった。なぜなら漢詩は漢文と共にかつて知識人にとって必須の教養であったからだ。圧倒的な文化の影響を中国大陸から得ていた江戸期までの日本の知識人にとっては、明治以降西洋の学問を学ぶことが必須であったのと同様だった。
ただ、その教養は教養の範疇を徐々に越えていったと思われる。特に漢詩は知識人にとって内面を表現する一つの手段となっていった様だ。江戸時代特に幕末期になるとそれは顕著になる。幕府の中枢にいて儒学を担っていた成島柳北などは足元の幕府自体を批判する内容の漢詩を書いている。また、近代の漱石は小説とは別に、行き詰まった心境を漢詩に表現している。このように漢詩は元は外国の古典詩であったにもかかわらず一つの日本文学のジャンルをなしたのである。

ここでまず読む『本朝一人一首』はそうした漢詩のこれまでの集大成というか、日本漢詩のアンソロジーである。
編者は江戸時代前期の儒者の林鵞峰という人物。有名な林羅山の三男である。古代の大友皇子の詩から始まって、僧機先という人物の詩まで、四百八十二首
の漢詩が編まれている。時に編者の注もある。あの俳諧師松尾芭蕉も座右の書にしたという。

本文は以下だが、この大系本では振り仮名付きの書き下し文になっている。

66
晚春三日遊覽
杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕  來燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清  雖欲追尋良此宴 還知染懊腳跉趶
大伴家持 旅人子。

66同じく  大伴家持 旅人の子
杪春(べうしゅん)餘日媚景麗し 初巳(しょし)和風払つて自づから軽し
來燕泥を銜(ふく)んで賀して宇に入り  帰鴻(きこう)蘆を引いて迥(はる)かにして瀛(おき)に赴く
聞く君が侶(とも)に嘯(うそぶ)き流曲を新にし 禊飲(けいいん)爵(さかづき)を催(うなが)して河清きに泛(う)かぶ
此の良宴を追尋せんと欲すと雖も 還(また)知る染懊腳跉趶(せんあうあしれいて)

 林子曰:此二首,見『萬葉集』。按大伴氏出自道臣命,世執朝政,或為相,或為將。逮藤氏之盛,大伴氏稍衰,然猶在朝為月卿,出為藩鎮。家持任中納言,管領奧羽,且以倭歌著名。又偶見此詩,可謂有文武之才。池主亦能歌,其詩比家持,則雖不及之,注其心于漢字者,不亦奇乎。家持行實,考國史可以知焉。此外『萬葉集』有山上憶良詩,其體異樣,故略之。

もう一つ

243
連理樹
靡隔布深仁 無私施景化 神工誠不隱 天道斯無詐

243連理樹  有名王(ありなわう)

隔靡(へだてなび)く深仁を布(し)く 私無く景化を施す
神工誠に隱れず 天道斯(これ)詐(いつはり)無し

それにしてもこれをすべて読破するのは至難の技だ。いかに現代の我々がこうした漢詩文化から遠ざかってしまったか痛感する。

今度は江戸時代の漢詩集。

『蘐園録稿』を読む

「ケンエンロクコウ」と読む。江戸中期の漢詩集だ。江戸の儒学者、荻生徂徠の門流「古文辞派」と呼ばれる人たちの漢詩を集めたもの。ここでは抄録で服部南郭ら四人の漢詩人の詩を収める。現在でも「詩吟」で好まれて歌われる服部南郭の「夜下墨水」を引く。

  夜、墨水を下る      

 金龍山畔江月浮かぶ
 江揺らぎ月湧いて金龍流る 
 扁舟住まらず天水の如し
 両岸の秋風二州を下る
    
 夜下墨水
金龍山畔江月浮
江揺月湧金龍流
扁舟不住天如水
両岸秋風下二州

 服部南郭は京都の裕福な商家に生まれ、子供の頃から和歌の教育を受け偉才ぶりを発揮していたという。若くして江戸で柳沢吉保にその才能を見込まれ仕えるようになったという。柳沢邸のいわばサロンで知った荻生徂徠に入門、漢学、漢詩を学び、優れた漢詩を多く残した。

『如亭山人遺藁』を読む

柏木如亭は、江戸時代中期の漢詩人である。江戸に生まれ、生家は幕府小普請方の大工の棟梁であったという。最初の詩集はなんと『木工集』というから面白い。家督を一族のものに譲って、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになり、漂白の詩人となった。信州・越後から西は京都・備中に及んで滞在したという。その遺作を梁川星巌という人物が編んだのがこの詩集だ。面白い詩を一つ。

   大刀魚                     

吶喊(とっかん)声銷(き)えて天日(てんじつ)麗し
波濤(はたう)海靜かなり太平の初め
折刀(せつたう)百万沙(すな)に沈み去り
一夜東風(とうふう)尽く魚と作(な)る

大刀魚
吶喊声銷天日麗
波濤海靜太平初
折刀百万沈沙去
一夜東風尽作魚

『霞舟吟巻』を読む

江戸時代後期の儒者友野霞舟という人物の漢詩集。

 池辺に涼を趁(お)ふ             

涼を趁(お)ひて閑に曲池を繞(めぐ)りて行く 
雨後の微風竹を度(わた)りて清し
瞑色看る看る遠岸を籠め
紅蓮は漸く暗く白蓮は明るし

池辺趁涼
趁涼閑繞曲池行
雨後微風度竹清
瞑色看看籠遠岸
紅蓮漸暗白蓮明

『梅墩詩鈔』を読む

「ばいとんししょう」と読む。広瀬旭荘という江戸時代後期の儒学者・漢詩人の詩集。現在の大分県日田市の博多屋広瀬三郎右衛門という人物の八男に生まれたという。長詩が多いのだが、ここは引用に適した七絶を。

 春 寒                

梅枝幾ばく処か籬を出でて斜めなり
水に臨んで扉を掩ふ三四家
昨日の寒風今日の雨
已に開ける花は未だ開かざる花を羨む

春 寒
梅枝幾処出籬斜
臨水掩扉三四家
昨日寒風今日雨
已開花羨未開花

『竹外二十八字詩』を読む

「ちくがいにじゅうはちじし」と読む。江戸時代後期の漢詩人、藤井竹外の漢詩集。前編は安政5年(1858)刊で、上下2巻に七言絶句(二十八字詩)217首を収める。後編は明治4年(1871)刊。上下2巻で、七言絶句164首の他に五言絶句20種を収める。
作者竹外は文化4年4月20日生まれ。摂津高槻藩の藩士である。頼山陽、梁川星巌に師事。七言絶句にすぐれ、絶句竹外の称がある。鉄砲の名手でもあったらしく、奇行の人でもあったという。

 芳 野                 

古陵の松柏天飆(てんぺう)に吼ゆ
山寺春を尋(たづ)ぬれば春寂寥
眉雪の老僧時に帚(は)くを輟(や)め
落花深き處南朝を説く

芳 野
古陵松柏吼天飆
山寺尋春春寂寥
眉雪老僧時輟帚
落花深處説南朝

さて、こうして改めて江戸期の漢詩を読んでいくと、漢詩には独特な硬さがあって、これが和歌にはない男性的なものを感じさせるなと思える。日本文学には希薄な強さを感じるといってもいい。これは決して中国語で読むのとは違う、漢文訓読ならではのものだと思う。ただ、作者の感慨にはなかなか至ることはできなかったが。

2017.10.24
この項了

2件のコメント

  1. 林子曰:此二首,見『萬葉集』。按大伴氏出自道臣命,世執朝政,或為相,或為將。逮藤氏之盛,大伴氏稍衰,然猶在朝為月卿,出為藩鎮。家持任中納言,管領奧羽,且以倭歌著名。又偶見此詩,可謂有文武之才。池主亦能歌,其詩比家持,則雖不及之,注其心于漢字者,不亦奇乎。家持行實,考國史可以知焉。此外『萬葉集』有山上憶良詩,其體異樣,故略之。
    この書き下し文教えて下さい。
    勉強したいです。

    1. どうも。とりあえずは以下です。
      林子曰ハク、此ノ二首『萬葉集』ニ見エタリ。按ズルニ大伴氏道臣命自リ出ヅ。世朝政ヲ執リ、或イハ相ト為リ、或イハ將ト為ル。藤氏ノ盛ンナルに逮ンデ、大伴氏稍衰フ。然レドモ、猶朝ニ在ツテ月卿ト為リ、出デテ藩鎮ト為ル。家持中納言ニ任ジ、奧羽を管領ス。且ツ倭歌ヲ以テ名ヲ著ハス。又偶此ノ詩を見ル。謂ヒツベシ文武ノ才有リト。池主亦歌ヲ能クス。其詩家持ニ比スレバ、則チ之ニ及バズト雖モ、其ノ心ヲ漢字ニ注クル者、亦奇ナラズ乎。家持ガ行實、國史ヲ考ヘテ以テ知ルベシ。此ノ外『萬葉集』ニ山上憶良ガ詩有リ。其體異樣、故ニ之ヲ略スト。

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