『日本古典文学総復習』67『近世歌文集上』 68『近世歌文集下』

また、時間が空いてしまった。今度は江戸期における和歌の世界である。ただ、あまり興味を引くものではなかった。ここはその概要にとどめておくことにする。

『近世歌文集上』

以下21編が収められている。

『春の曙』 烏丸光広著
「後鳥羽院四百年忌御会」
『山家記』 木下長嘯子著
『身延のみちの記』 元政著
『三行記』 烏丸資慶著
『倭謌五十人一首』 宮川松堅編
『烏丸光栄歌道教訓』 烏丸光栄著
『初学考鑑』 武者小路実陰著
『雲上歌訓』 萩原宗固編
『若むらさき』 了然尼編
『霞関集』 石野広通撰
「水戸徳川家九月十三夜会」
「南部家桜田邸詩歌会」
「田村家深川別業和歌」
「諏訪浄光寺八景詩歌」
「飛鳥山十二景詩歌」
「詠源氏物語和歌」
『遊角筈別荘記』
『大崎のつつじ』
『富士日記』 成島峰雄著
『墨水遊覧記』

和歌はその文学的生命の中心を俳諧に譲り、その地位が失われたかに見える近世だが、「後鳥羽院四百年忌御会」に見られるように、宮中では相変わらずその伝統的な地位を保ち続けていた。また、中世歌学の正統を伝える堂上歌壇の指導者たちも対象を貴族から上級武士に移すことによってその命脈を保とうとしていたようだ。萩原宗固という人物の手になる『雲上歌訓』はその例である。また、江戸を中心に武家の中にも歌に関心を持ち続け、作歌した人々もいた。石野広通という人物の手になる『霞関集』がその例である。ここに登場する武家たちはいずれも冷泉家や烏丸家の門人たちである。和歌が古今伝授の伝統を生かしつつ貴族にとってはその指南役を務めることが糊口の糧となっていたのだろう。また、武士にとっては一種の教養というか、ハイソな趣味と言ったものだったと思われる。後半にある大名家の歌会の記録や遊覧や旅の記録の中の歌はそうしたことをうかがわせる。

しかし、この江戸期で和歌文学史において注目すべきは下巻にある国学者たちの思想である。

『近世歌文集下』

ここには以下8編が収められている。順不同。

『あがた居の歌集』
紀行『旅のなぐさ』
紀行『岡部日記』以上賀茂真淵著
『菅笠日記』本居宣長著
『藤簍冊子』上田秋成著
歌論『布留の中道』小沢蘆庵著
『庚子道の記』武女著
書簡集『ゆきかひ』油谷倭文子・鵜殿余野子著

賀茂真淵は古今伝授の古今集より忘れ去られていた感のある「万葉集」に歌の本質を見出したことで知られている。いわば国学の最初のホープである。
万葉集を評価する動きはかつてもあった。しかし、江戸時代に入ってそれが一つのブームとなったようだ。先駆けはこの書にはない契沖だが、賀茂真淵がもっとも強く「万葉集」を称賛した。真淵のこの万葉称賛は単に和歌の世界に止まらず、そこに現れた古代日本人の精神こそ本来今でもあるべき姿だとし、現状の支配倫理である朱子学の道徳を否定するところまで深化させることとなる。
こうした古代への関心と評価はいわば江戸時代を通じていろいろな局面で展開されたことが興味深いが、明治に至ってもう一度あらわれるこの万葉再評価とは趣が違っているように思う。純粋に歌の技術的な考え方や文学性からと言うよりも、そこにある精神性に注目してなされたと言うことだ。従って実践的に歌を詠んだ真淵も決して万葉調には詠めなかったようだ。
『旅のなぐさ』『岡部日記』はともに紀行文。『岡部日記』には賀茂真淵28歳のときの最愛の妻を亡くしてしまった悲しみが記されている。

賀茂真淵の思想を受け継いだ本居宣長は『古事記伝』を著し、国学の完成者と言っていい存在だ。
『菅笠日記』はその宣長が43歳の時に友人5人と一緒に、吉野・飛鳥を遊覧した紀行文。一番の目的は吉野の桜を見ることと吉野水分神社に詣でることであったようだが、その帰りに飛鳥や橿原を訪れ、『古事記伝』の裏づけ調査的な意味合いもあったようだ。

上田秋成は『雨月物語』で夙に有名だが、元々は古典学者で国学者と言っていい。この巻で最もボリュームがあるのは上田秋成の『藤簍冊子』だ。
寛政(1789‐1801)初年から享和(1801‐04)にかけて秋成が書きとめて身辺のつづらに入れておいた和歌や長歌,紀行文,折々の随想などをまとめたもの。最初は歌集となっている。

小沢蘆庵の歌論『布留の中道』は古今集の紀貫之の歌

いそのかみ布留の中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは(恋四・679・紀貫之)

からその題名が取られている。小沢蘆庵のこの書はどちらかというと伝統的な古今重視の歌論である。

武女という女性の『庚子道の記』は尾張藩名古屋に数年間客居した女性が、花の頃合、故郷の方へ帰る折の道中の記。
『伊勢物語』『十六夜日記』などを彷彿させる古典的な紀行文である。

書簡集『ゆきかひ』は油谷倭文子と鵜殿余野子という女性の書簡集。
共に賀茂真淵に入門して和歌・国学を学び、土岐筑波子とともに県門三才女と謳われた。ここに国学ブームの一端がうかがわれる。

2017.12.16
この項了

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