敗戦日冷やしケツネをずるずると 閒村 俊一
マネキンの皺なき肌や沖縄忌 浜なつ子
原爆忌泡立つてゐるコカ・コーラ 小田中雄子
どうです。これらの句。いいじゃないですか。
これらの句は「魂の一行詩」という文で角川春樹氏が紹介されていた。(読売新聞9月14日夕刊)
さて、翌日の朝の読売俳壇に宇多喜代子氏選ということで次の句があった。
新聞をていねいに読む敗戦日 千葉市 かとう祥子
いつもは俳壇など読まないのだが、昨夜の角川氏の文に触れて眺めてみたら、同様な季語を使った句が最初に載っていた。
でも、前三句に比べるといいとは思わない。
いずれも敗戦日(終戦と言っていない)や沖縄忌、原爆忌というちょっと重たい季語を使っているが、前三句には「俳諧」があるが、後の句にはそれがない。
これはもう「好みの世界」だから、その好みに従って句を作ったり、選んだり、いいと思ったりすればいいのだけれど、
俳句の肝は「俳諧」にあることを改めて考えてもいいのではないかと思える。
では、「俳諧」とはなに?
語義としてはいろいろあるだろうし、文学史的にもいろいろあるだろうけど
言葉をかえればそれは「断点」だ。「切れ」と言う言葉を使ってもいい。
そこに俳句的「喩」が生じるはずだ。俳句も一つの「詩」だとすれば、「詩」の本質である「喩」がなければ「詩」にならない。
「敗戦日」に配するに「冷やしケツネ」、「沖縄忌」に「マネキン」、「原爆忌」に「泡立つコカコーラ」、そこに「俳諧」すなわち「断点」があり、その「断点」が「喩」を生んでいる。
角川氏は「古俳諧」の復活を望んでいるらしい。
江戸末期の「俳諧」を「月並み」として否定し、「俳句」を革新した正岡子規の末流が、まさにまた「月並み」に陥っているからだろう。
小生かつてずいぶん「俳諧」(現代風に言えば「連句」)を試みていた。
久しぶりに当時を思い出した。その連衆の一人の句に
小動(こゆるぎ)もせずに球児の終戦日 仙木
と言うのがあった。(記憶で書いているので正しいかどうか)
いい句だとは思うが、もう一つ満足しない。
安保論夕餉はおでんにシシャモのみ 小生
結局は自己満足の世界ではある。
また、「俳諧」に遊んでみたい気になった。
師匠の挙げられた句、絶妙な2つの対象をぶつけていて、やはりお見事です。(*^_^*)v 師匠の句も勿論お見事!
以下、雑感。
(¬_¬) 正岡子規、そろそろ重し石のように感じます。実感です。
「蟷螂や我が肩越しに喰ふなる」 ふじっこ( ぶつけていません ; スミマセン ; ) この句を!
「蟷螂め我が肩越しに 〜 」と詠んでしまいたい衝動に駆られます。切れ字って破ってはいけないものですか?
「スカートのほつれ糸引く西鶴忌」ふじっこ ←(//_//)ぶつけました。
今私は、《読者に投げ出す句の創作》に魅力を感じています。
「向日葵の背伸びする程見たきもの」(…って、何?)
「星月夜星の名前を忘れけり」 ( (>__<) 話が逸れまくりました。済みません。