今回は古事記の中身について触れなければならない。
古事記は古代日本の歴史について、天皇家の立場で書かれたものだが、後の正式な歴史書、例えば『日本書紀』と違って、歴史的に公式に評価されなかった歴史書である点が注目される。また、決して大部なものではなく、原文のままだと小冊子と言っていいほどのものである点も注目される。この古典集成本でも本文はたかだか280ページにも満たないものだ。これが上中下3巻に分たれている。ただその物語性ゆえに現代においても愛読される書だ。内容をざっと見ておこう。
上巻は序から始まって、創世の神々の話から、イザナギ・イザナミの国産みや人間の生死の起源の話、天照大神と須佐之男命の話、大国主命の話を経て、天孫降臨へと続く。
中巻は、神武天皇から応神天皇までの15代。
下巻は、仁徳天皇から推古天皇までで終わっている。
この中で古事記が最も面白いのはやはり上巻である。古事記について語られるのもこの部分が多いと思う。なぜならこの部分は日本の天皇制が確立するまでの過程を物語るものだからだ。ここにある様々な神話を読み解くと、如何にして天皇制が確立していったかが窺えるからだ。例えば、先に引いたスサノオの命の話にしても、出雲と大和朝廷との関係を窺わせるし、その他の様々なエピソードにしても、各地にあった伝承を如何に取り込んでいったが窺える。こうした点から古事記について語られる時上巻が多く取り上げられる。
しかし、中巻以降にも様々なエピソードが散りばめられている。中巻以降の各天皇の記述も、皇統譜と言って各天皇の来歴や事跡が羅列されている部分以外にはさまざまな話があって、後の世にも興味を引いた物語はある。
中巻では神武天皇の東征の物語、景行天皇の倭健命の物語は特に有名だ。他にも垂仁天皇の沙本ひめの反逆の話、仲哀天皇の神功皇后の話、などがある。
下巻では仁徳天皇の女鳥王と速総別王の反逆の話、允恭天皇の軽太子の話、雄略天皇の一言主神の話などだ。
こう観てくると、古事記は天皇家の歴史を軸に、当時まで伝えられたさまざまな伝承・説話をそこに絡めて形作られていることがわかる。これは、古事記にある伝承・説話は元々は独立して存在していたものであったとも言える。
もう一つ内容的に注目されるのは、古事記には多くの歌謡と言われる「和歌」が挿入されているということだ。いわゆる記紀歌謡と言われるものだ。これは万葉集に先行する日本古代の「和歌」である。しかもこれらの「和歌(歌謡)」はほとんどが、伝承・説話の中で引用されている点も注目される。この記紀歌謡は古事記に限っても百首以上ある。それが約三十の挿話の中で紹介されている。そのほんの一例を紹介しておく。
下巻、仁徳天皇の部分の女鳥王と速総別王(はやぶさわけのおほきみ)の話に以下の歌謡が登場する。
女鳥の わが王(おおきみ)の 織ろす服(はた)
誰(た)が料(たね)ろかも高行くや 速総別の 御襲料(みおすいがね)
雲雀(ひばり)は 天(あめ)に翔(かけ)る
高行くや 速総別 鷦鷯(さざき)取らさねはしたての 倉椅山(くらはしやま)を
嶮(さが)しみと 岩懸(か)きかねて わが手取らすもはしたての 倉椅山は
嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず()内は古典集成本のふりがな
この一連の歌謡は仁徳天皇とその弟速総別王との女鳥王をめぐる確執と謀反、そしてその滅亡の話の中で引用されている。仁徳天皇が女鳥王を嫁にしたいと弟の速総別王を女鳥王のところに遣わす。ところが女鳥王は仁徳天皇の申し出を断って、こともあろうか使者の速総別王と結ばれてしまう。それに怒った仁徳天皇はこの二人を責め立て倉椅山に追い詰めて滅ぼしてしまうというお話だ。この話は田辺聖子さんの小説で苞に有名となり、宝塚でも上演されたという。
では歌謡の内容を見ておこう。
初めの二首は天皇と女鳥王とのやりとりだ。「あなたが織っている布は誰の服を作るためですか」と天皇が問う。それに対して「これは素敵な速総別王の服のためです」と女鳥王が答えている。実に堂々と。
そして、三首目はその女鳥王が速総別王に歌った歌。「素晴らしいあなた、あのちっぽけな天皇なんてやっつけて終いなさいよ」と過激なことを言っている。(鷦鷯は仁徳天皇の別名であり、小さな鳥の「ミソサザイ」のことでもある)
そして後の二首は天皇の軍によって倉椅山に追い詰められた二人、その心境を歌う速総別王の歌。「私の手にしっかり掴まってなさい。そうすれば大丈夫。このあとは辛いことしかないだろうけど、お前と一緒ならなんともないよ。」と言ったところだろう。
しかし結末は、この倉椅山を乗り越えて宇陀の「そに」というところに至った時に派遣された将軍に二人とも殺されてしまうということとなる。こうしたお話である。
ここで私が注目したいのは、この歌謡がこの話のために作られたのではないのではないかということだ。もっと言えばこの話も古事記のために創作されたのではないのではないかということだ。もともと仁徳天皇と弟の確執と権力争いはあっただろう。そして弟が廃されてしまうということもあったろう。これを古事記は別の伝承とこれまた別に伝承された歌謡を巧みに繋いで、一編の物語に仕立て上げたと思えるのだ。特に歌謡はそれぞれ独立して鑑賞できる。このことは古事記の別の部分でも言えることで、これを証明するのはそんなに難しい事ではないと思う。日本書紀にもこの話は出ているが、かなりテーストは違っている。女鳥王は影を潜め、速総別王が完全に悪者化して語られている。また、歌謡も一部変更されている。この点も証左となるだろう。
この歌謡と伝承とのセットは後の文学にも大きな影響を与えていると思う。平安期の歌物語がその典型である。これはまた取り上げる機会があるだろう。この辺で古事記については擱筆する。
2021 01.19