『日本古典文学総復習』85『米饅頭始・仕懸文庫・昔話稲妻表紙』

今回は山東京伝だ。京伝は前回取り上げた南畝とほぼ同時代に生きた文人である。南畝によって見出された人物でもある。すなわち天明期に活躍した戯作者であった。ただ、違いは南畝が幕臣だったが、京伝が町人だったということだ。江戸期の文人は下級武士と上層町人がほぼ二分していたようだ。ここに僅かながらの違いがあるだろうが、この時期の江戸の文化水準の高さを物語っている気がする。上層町人が下級とはいえ支配層である武士とほぼ同等な知識水準にあったということだ。しかも京伝が相手にしたと思われる読者層はやはり町人であったようだ。京伝の作品の多くは町人向けに書かれている。町人世界もまたかなりの高い文化水準の裾野を持っていたということだろう。
さて、この京伝が生きた時代は南畝と同様、バブル時代と緊縮政策時代に跨っている。ただ、京伝が活躍した時代はどちらかといえば緊縮時代に傾いていたと言える。事実、京伝は寛政の改革の締め付け政策から発禁処分どころか、「手鎖の刑」まで受けている。これは別段京伝が反権力的な作品を書いたということを意味しない。京伝が描いた世界が時の権力者の狙う儒教道徳と背反する世界だったためである。京伝は単に町人が好む世界を描いた。面白おかしく町人たちに受ければよかっただけな気がする。時の権力者はそれが気に食わなかったのだろう。いわば、ここに時の権力者の儒教道徳と町人の嗜好のギャップが鮮明になったわけだ。ただ、このギャップは対立と言うところまではいかない。町人の嗜好はあくまで嗜好と言うところにとどまって、町人思想と言うところまではいかない。ここに江戸時代の文人の独特なスタンスがうかがえる。そしてこの町人の嗜好がもっとも鮮明に現れるのが遊里の世界であった。
この時期の戯作は多く遊里を舞台にしている。いや戯作ばかりではない。この時代以前の浄瑠璃の近松が描いた世界も広い意味で遊里が唯一の舞台であった。なぜ遊里が江戸時代の文学の舞台の中心だったのだろうか。それは遊里がこの時代にあって独特な意味を担う場所だったからだ。この時代の遊里は表面的には(描かれている限りは)自由な世界のように見える。しかし実態は権力によって作られた世界であり、「金」に縛られた世界である。ただ、この世界はいわば実際の社会と隔絶されているために独特な倫理を産んだ世界でもあった。いわば町人の嗜好がもっとも純粋に現れる世界であったといえる。
京伝もまたこの世界に生きた。事実、京伝は管許遊里「吉原」に居ずっぱりだったという。前置きが長すぎた。ここからこの大系に収められた作品を見て行くことにする。

「米饅頭始」

お米と言う人物が色々と苦労の末、相愛の男と添い遂げて饅頭屋を始め、成功するというお話。一種のおとぎ話。ただ、このお米一旦は遊里に売られ女郎として過ごした時期があり、ここもその遊里が舞台となっている。さてこの話、いわば大人の絵本なのだが、絵は京伝本人が描いている。名は北尾政演となっているが。

「三筋緯客気植田」

「三筋緯」とは当時通人客の間に流行した上田紬の極上品生上田の縞模様のこと。これを三人の遊客の気性にたとえる。それぞれがそれぞれの見識をもって傾城買いを試みるという、これも遊里の話。実在の遊女と思わせる人物も登場する。独りよがりな二人は馬鹿を見、誠実な男が最後は遊女と添い遂げるというお話。

「玉磨青砥銭」

これは当時の寛政の改革を皮肉った作品。現代にも通じるところがある。時代は鎌倉に設定しているが、すべての人間が真面目に家業に精を出し、昼夜を問わず働く社会を描く。人間ばかりか動物まで働かせるという。いわばすべて無駄のない世界を描く。しかしその行き過ぎを愚かだとするところにこの話の結末がある。ただ、結論は「足ることを知れ」というところにあり、決して当時の緊縮政策への批判というところにはない。

「通言総籬」

京伝の代表作「江戸生艶気蒲焼」の続編。ここでも三人の遊び人が登場。遊里の当時の消息を伝え、実際に遊ぶ様を描く。洒落本の代表作と言える。
うぬぼれ屋の半可通艶次郎がたいこ医者わる井志庵ととり巻きの喜之介宅を訪れ、遊女あがりの女房を交えて種々うわさ話をするのが前半。その後三人は吉原に出かけて松田屋にあがって遊ぶ。これが後半。松田屋は当時の最高級の遊女屋。入り口を入ったところの格子すなわち籬(まがき)が全面天井まで達していたという。題名総籬(そうまがき)はここから取られている。

「仕懸文庫」

「仕懸文庫」とは遊女の衣類を入れて持ち運ぶ箱のことだという。ここも遊里が舞台だが、新吉原ではなく、深川だ。深川は官許の遊里ではない、新興の岡場所だ。深川はいわば流行の先端を行っていたという。その深川の新しい風俗・気質を描きたかったようだ。当時の取り締まりから舞台を郊外に変えたり、内容を教訓にひっぱたりしているが、当時絶版の憂き目を見たようだ。

「昔話稲妻表紙」

京伝の読本。これまでの作品とは異なる大部なもの。日本の古典文学や民譚・伝説・説話等に取材して一つの物語に仕立てている。馬琴の読本のような作品。基本はお家騒動もの。仇討ちもテーマとなっている。もちろん馬琴とは違っているだろうが、こうした武士のテーマも江戸時代の大きな題材であった。

さて、こう見てくると京伝の文学はいわば当時のエンターテイメント文学だと言える。ただ、このエンターテイメントのなかに当時の武家社会と町人社会の葛藤が見え隠れする。こうしたことをけっして正面から扱ったわけではないが、今から見るとこうした戯作にそう思えるところが多々ある気がする。ここでも幕末の文人成島柳北のことが心にかかっていた。

2018.09.05
この項了

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です