今回はあまり間をおかずに次に行けた。江戸時代で忘れてはならない人物、大田南畝集である。別名蜀山人、四方赤良で知られる文人の選集だ。大田南畝はこれまでもチラチラとその作品に触れていた。また、永井荷風によってその人柄や作品に触れていたこともあってスムーズに読むことができた。
太田南畝は寛延2年3月3日(1749年4月19日)に生まれ、文政6年4月6日(1823年5月16日)に死去している。その文筆活動は、天明期ということになる。天明期は江戸の文化が爛熟隆盛を見た時期である。田沼意次のいわばバブル期を生き、活動し、寛政の改革による緊縮期も経験したということにもなる。その時期に主に狂歌というジャンルで知られている。ただ、狂歌ばかりでなく、膨大な量の随筆を残しているし、洒落本、漢詩文、狂詩、なども多く残している。
また、太田南畝は一貫して幕府の御家人であり、支配勘定まで上り詰めた幕府官僚であったことも忘れてはならないところだ。南畝はけっして裕福な上級の御家人の家に生まれたわけではなかったが、幼少から学問に秀でていたため、かなり無理をして教育を受けたようだ。今でいう奨学金を貰って学問所に通っていたようだし、壮年期も田沼意次のブレインから援助を得ていた。また、幕府の官僚登用試験にチャレンジし、優秀な成績で合格してそれなりの地位を得たりしている。
こうした南畝の生涯は作品とどのような関係があるのだろうか、興味深いところである。実際の作品を見ていくことにする。
この選集には以下の作品が収められている。それぞれを見ていく。
「寝惚先生文集」
狂詩狂文集。すなわち漢詩と漢文が収められている。なんと南畝19歳の時の作品集。この若さで自らを寝惚先生とするところにすでに南畝のスタンスが伺える。もちろん漢文と漢詩であるからその教養は並々ならないものがあるが、まさに若き知識人がすでに韜晦と斜に構えた姿勢を持っていることに驚かされる。中国詩文集の体にならっているもの、「金ヲ詠ズ」「江戸見物」「桃太郎ヲ送ル序」など身辺の事象をおもしろおかしく写している。ただ、ここでは本音とも取れる以下の詩を引いておく。もちろん杜甫の「貧交行」のパロディだ。
貧鈍行
為貧為鈍奈世何
食也不食吾口過
君不聞地獄沙汰金次第
干挊追付貧乏多貧すれば鈍する 世を奈何
食うや食はずの吾が口過
君聞かずや 地獄の沙汰も金次第
挊(かせ)ぐに追い付く 貧乏多し
「通詩選笑知」
南畝二作目の狂詩集。「唐詩選」五言絶句部のパロディ。ただ、厳密にはすべて南畝個人の作とは言えないようだ。息子の三歳の祝いの席で狂詩仲間たちが集まった際の酒の勢いで作った作品集と言うことらしい。ここでは遊郭を題材にした五言絶句を紹介する。
色道後気 口説
客真争一夜 大象預期横
執心不相待 門外及落城色道に気を後る 口説(こうせつ)
客真一夜を争ふ
大象預め横を期す
執心相待たず
門外落城に及ぶ
こういう詩はもはや解説無くしては読めない。「気を後る」とは時を逸すること。「口説」とはここでは男女の痴話のこと。ただ、これは「くぜつ」とは読ませずに「こうせつ」としたのは元の詩の作者「張説」をもじったから。「客真」とは客と真実の恋人。遊女の客と間夫が一夜を争ったというお話。「大象」は「大蔵」で半可通のこと。「横を期す」とは、「横を切る」という遊女が客の目を盗んで間夫と密会することを意味する語からそれを期待したということ。「門外落城に及ぶ」とはこの本によれば、「交わらないうちに射精してしまう」ことだという。半可通の間夫をおちょくっている。
パロディには元がある。元の詩は以下。
蜀道後期 張説
客心爭日月 來往預期程
秋風不相待 先至洛陽城客心日月と争い
来往預め程を期す
秋風相待たず
先ず至る洛陽城
「客心」は旅のこころのこと。まったく内容は違う。しかし、巧みに文言を似せている。これが狂詩のスタイルということができる。参りました。
「狂歌才蔵集」
南畝の第三狂歌集。南畝の狂歌集としては「千載和歌集」のパロディ、「万載狂歌集」があるが、その続編ということになる。天明六年に行われた「才蔵集撰歌会」の記録でもある。部立は勅撰集に倣って「巻第一春歌上」から「巻第十六神祇歌」まで六百二十七首に及ぶ大部なものだ。
ここでは三首を引く。
四 方 赤 良
抱ついてみれどたはいはなかりけり庭の柳の細き腰もと
初 冬 平 秩 東 作
今朝ははや禿頭のみ撫でられてかみなし月の寒さをぞしる
二日酔 古 来 稀 世 下毛
吐きもせずくれもやらぬあしたには朧豆腐にしくものぞなき
解説はいるまい。
「四方のあか」
南畝の最初の狂文集の刊本。この書が刊行されたのは田沼時代のバブル期が終わり、寛政の改革直前の時点だった。寛政の改革で粛清が行われ、田沼のブレイン土山宗次郎と言う人物が死罪になっているが、実はこの人物は南畝のパトロンだった。この事情からこの書では著者も町人の飯盛とまぎれるような細工をしているという。この辺りに南畝のような幕臣でありつつ文人を通す人物の苦悩があったかもしれない。また、南畝は子息が早死にしたこともあって、隠居できなかったという事情も見え隠れする。要するにこうした狂文も真っ向からの時代の批判へとは向かえないということになる。しかし、それを現代の目から批判してもはじまらない。その時代を精一杯生きた文人の姿を見れば足りる。
一つだけ短い文を引く。
遊女賛
誠は嘘の皮、うそはまことのほね。まよへばうそもまこととなり、さとればまこともうそとなる。うそとまことの中の町、まよふもよし原、さとるもよし原。
傾城のまこともうそも有磯海の浜の真砂の客の数々
「壬戊紀行」
南畝の紀行文。南畝は大阪銅座に支配勘定として出張勤務した。官僚生活だ。その任を終えて江戸に帰る旅の記録である。あえて東海道ではなく中山道を選んで帰っている。内容は旅の詳細をしっかり記録するというものだ。したがって即物的な記述が多く、やや退屈に思える。ただ、そこに南畝の人となりが伺え、やはり名文家と言える。柳田国男をして「一悲一笑せしめる程の力を持って居る」と評価せしめる所以だろう。(本書解説から)
「奴凧」
「世相風俗あるいは往年の知友の逸話の類を何くれとなく書きとめた随筆の一本」(本書解説から)ということになる。小冊子。随筆というよりほとんどメモといったらいい程のもの。ただ、そこに南畝のあらゆるものへの飽くなき好奇心が伺えて面白い。狂歌や狂詩のネタはこうしたところにあったのだろう。
「南畝集(抄)」
南畝自筆の漢詩集。約四千七百首あるという。ここはその抄録。晩年の以下の詩を引いて、この南畝の旅を終えることにする。
弄孫
抱孫不抱子
曾誦礼経言
為耽舐犢愛
却想含餳恩孫を弄ぶ
孫を抱くも子を抱かず
曾て礼経の言を誦ず
舐犢の愛に耽るが為に
却つて含餳の恩を想ふ
南畝五十五歳の作という。バブル期(田沼時代)を遊楽に生き、緊縮期(寛政の改革期)を幕吏として実直に生きた南畝の晩年の気持ちが伝わる一首だ。孫を抱いて親の恩を思うという。
最後に。太田南畝の作品を見てきて、常に成島柳北のことが念頭にあった。成島柳北は小生が最も敬愛する文人だが、柳北の原型が南畝にあったのではと言う思いが常にしていた。柳北もまた幕吏であったが、生きた時代が大きく異なっていた。幕末期という時代が柳北を南畝たらしめなかったのは言うまでもない。柳北はこの『新日本古典文学大系』の最終巻100冊目に登場する。それまでもう一息江戸文学を見ていくこととなる。
2018.08.24
この項了