『和泉式部日記・和泉式部集』を読み返した。
和泉式部日記
和泉式部は実に興味深い人物だ。平安朝の女性としては紫式部、清少納言とともに有名な人物だが、単に歴史上の有名歌人というだけではなく、いわば伝説的な人物なのだ。その奔放な男性遍歴が伝説的だし、近代になってからもそのファンが多いのも興味深い。
しかもどういうわけだが、いくつかの地方にその出生の伝説が残っていたりする。何故こんなことが起きるのか、伝説についての泰斗柳田國男は「和泉式部の足袋」という文章の中でこう言っている。
「説話の人物の固有名詞の如きは、決してさう固有のものでは無かつた。単に昔昔或る歌の上手な上﨟があつてと、話して居たものの引き続きに過ぎなかつたのが、何か因縁があつて小野村なら小野小町、泉といふ部落なら和泉式部と、一旦具体化してしまふともう変えられなかつた。さうして我々のやうにそれを昔話だといふ者を憎んで見たり、若しくは伝説とは歴史のことだと、考へたりするやうにもなつたのである。」(柳田國男集第八巻所収、一部漢字を新字体に改めた)
確かにその通りだろう。だが、和泉式部には伝説を生む何かが生前からあったと思われる。近代になってからの評価や人気もそのためだ。では一体どんな人物だったのだろうか。そんな興味を持って今回この『和泉式部日記・和泉式部集』を読み返した。
まずは「和泉式部日記」だが、これは日記と言っていいのか?いささか疑問に思われる作品だ。
内容は和泉式部と、亡くなったかつての恋人の弟との、一年足らずの交渉を歌のやりとりを中心に描いたものだ。
四月に始まり、八ヶ月にわたる二人の交渉、冬十二月についにその弟の屋敷に入り、いわば正妻を追い出してしまうまでの物語である。
基本的には和泉式部と思われる人物が一人称で語ると言う形は取っている。しかし、途中その本人がいないところでの描写が挟まれていたりする。特に後半の男の正妻の気持ちが語られる場面などは物語的である。ただ、日記であろうが物語であろうが、当時の上流社会の男女の恋愛模様を描いたものだとして読めばいいのかもしれない。
しかしそれにしてもこの男女の恋愛模様は現代からすると実に奇妙なものだ。お弟が兄嫁に惚れると言う話は現代でもよくある話かもしれない。しかも兄は亡くなっているのだから何の問題もない。しかし、この間和泉式部は事実として結婚をしていたはずだ。ただ、当時の婚姻形態は女が実家に居て、男が通ってくるという形態なので、ほとんど正式な相手が通って来なくなれば自然と離婚が成立していたのかもしれない。(この辺りは「伊勢物語」にも「男が三年来ざりければ、、、、、新枕、、、」と言う話があるから、そのなのだろう。)しかし、この日記の内容からすると、どうも和泉式部のところには複数の男が通っている形跡があるのだ。はっきりとは書かれていないが、弟宮が和泉式部のところにやって来ても何か別の男の気配を感じて帰ってしまうと言う場面がある。この弟宮はこの日記の中で実に優柔不断な男として描かれている。親王だと言う身分的なこともあるかのしれないが、当時の男としてはどうなのかと言う気がしてくる。ただ式部にとっては歯痒い所はあるものも誠実な男性であったに違いない。
一方和泉式部はどんな女性だったのだろうか?こう言う日記を読んでもあまりイメージできないのが正直な所だ。歌が多く引かれているが、その歌からもあまりイメージできない。ただ、常に男の気配がある女性であることに間違いはないようだ。ここらあたりから伝説が生じるのだろうが、当時のこうした女性は実に受け身であったことも念頭に入れておかなければならない。実家に居て、評判が立つと男たちがやって来る。すると、その男が強引であれば受け入れざるを得なかったのかもしれない。どうも和泉式部は当時からかなり貴紳たちの間で評判になっていた女性だった気配がある。この弟宮の態度にそのことが見え隠れするが、最後には自分の屋敷に和泉式部を招き入れたのはこうした事情があったのかもしれない。
ただ、この日記と言うか物語はここで終わってしまう。
和泉式部集
さて、今度は「和泉式部集」についても触れておかなければならない。
この「和泉式部集」和歌が150首しかない。和泉式部は多作の人として有名で、その10倍以上の歌を残していると言われている。したがって、アンソロジーというわけだ。元本は『宸翰本和泉式部歌集』だという。「宸翰」というのは、天皇直筆の文書を言う言葉、後醍醐天皇が写したと伝えられる本が残っていてそれを使ったようだ。もちろん編集したのが天皇ということはないだろう。いずれにしても後の世に何某が編集したアンソロジーということになる。
内容は春が6首、夏が3首、秋が9首、冬が5首と少なく、あとは恋の部の歌という構成である。全部で150首あるが内5首は和泉式部以外の人の歌となっている。
いくつか歌を抜書きする。
27 黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞこひしき
62 あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの 逢ふこともがな
81 おくと見し 露もありけり はかなくて きえにし人を なににたとへん
125 ものおもへば 沢のほたるも わが身より あくがれいづる たまかとぞ見る
132 あやめぐさ かりにも来らん ものゆゑに ねやのつまとや 人の見るらん
一応歌の解説
27 有名な歌。「まづかきやりし 人」がポイント。初めて乱れた黒髪を手で櫛上げてくれた男ということでしょう。こういう歌があるから和泉式部は男好きのする女性ということになるんだろうね。
62 これも有名な歌。百人一首にあるから知っている人も多いはず。「こころあしきころ、人に」と詞書にある。「もう死ぬかもしれない。だから来て。お願い。」と言っている。
81 「はかなくて きえにし人を」は詞書によれば、男ではなく、娘の小式部内侍のこと。若くして亡くなってしまった。その後一緒に仕えていた上東門院から連絡があって答えた歌。娘は萩に露を置いた模様の着物を愛用していたという。
125 有名な歌だが、他の歌集にはないという歌。詞書に「男に忘られて侍りしころ、貴船に参りて」とある。「あくがれ」は魂(あく)が離れる(がる)をことをいう。貴船に参りてとあるからか、貴船明神からの返歌がついている。「あまり物思いをしなさんな」という意の返歌である。本人が創作したのだろうか。
132 なんかやたら技巧的な歌。これも詞書があって、忍んできた男が明るくなってから帰り、「それを見られたことがむしろ嬉しい」と言ってきたのに返した歌。
集成本の訳をそのまま引く。
「いくら五月の節句の日だからとて、二人の仲が知られたことを、そんな手放し喜ぶなんてどうかと思いますよ。私の処などどうせ仮寝の宿なのですから、「妻」だなんて他の人が思ってくれるものでしょうかねえ。」
女も内心喜んでいるみたいだけど。
「かり」が「刈り」「仮」、「ねやのつま」は「閨の妻」と「根」「端」がかかっている。五月にあやめを屋根の軒先(端)に葺く(ふく)習慣があった。しかも「根」は「あやめぐさ」の縁語。
最後に引いた歌などはわかりにくさはあるが、全体に和泉式部の歌は素直に読める歌が多いように思う。
解説によれば後の時代になってから、多く勅撰集に取られている。『後拾遺集』にはなんと六十七首に及んでいて、集中第一位である。『新古今集』にも二十五首、時代が下った『玉葉集』にも三十四首も取られている。いかに和泉式部が人気歌人だったかがわかる。近代になってからもファンは多い。
和歌について批評するのは任ではないのでここまでにしておく。