俳諧は捻くれ者が好む

芸香という人の句に

どくだみの花も咲くらん明月院

というのがある。当人はいたって名句だと自讃しているが、これは相当捻くれ者の句だ。明月院といえば鎌倉の紫陽花で有名な寺。そこにこともあろうに「どくだみ」の花を想像する。紫陽花を詠めばいいものをと誰もが思う。しかし、先生皆が注目する紫陽花には触れずにきっと「どくだみ」の花だって咲いているはずだと想像する。なるほど、ここに俳諧がある。紫陽花を詠まずに「どくだみ」を詠むことによってかえって紫陽花が咲き誇っている様を想像させようという魂胆だろう。そういえばこの先生が私淑してやまない芭蕉にもこんな句がある。

霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き

確か箱根の見晴らしのいいところに句碑もある。霧時雨で富士が眺望できない。もう訪れることはないかもしれない。普通だったら残念がるところだ。しかしそれがかえって面白いとする。見えないからこそ想像する。そこが面白いのだろう。しかし捻くれ者の言には違いない。

そういえば死後100年とかでこのところよく取り上げられる、かの夏目漱石も自ら捻くれ者と称した。漱石とは「石で口を漱ぐ(すすぐ)」という意味だ。

確かに捻くれ者に優れた者がいる。しかし、捻くれ者がすべて優れているわけでもない。ねえ芸香先生。どくだみも紫陽花ももう盛りを過ぎているけど、先日旅先で紫陽花園なるところに立ち寄って思い出した。

 

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