日本古典文学総復習続編34『本居宣長集』

はじめに

この古典文学総復習もこれで一応の最後となる。最後が本居宣長というのも、ある意味象徴的かもしれない。宣長は初めて近代的な意味で言うところの「文学」を発見した人物と言えるからだ。その初期の『源氏物語』論である「紫文要領」がそれをよく示している。この論は文学を儒教的価値観や仏教的価値観から解放した、いわばマニュフェストと言える。まずはその跋文から見てみたい。

「紫文要領」について

跋文(本文)

右『紫文要領』上下二巻は、年ごろ丸が心に思ひよりて、この物語をくり返し心を潜めて読みつつ考へ出だせるところにして、まつたく師伝の趣きにあらず。また諸抄の説と雲泥の相違なり。見む人あやしむことなかれ。よくよく心をつけて物語の本意を味ひ、この草子と引き合せ考へて、丸がいふところの是非を定むベし。必ず人をもて言を棄つることなかれ。かつまた文章・書きざまはなはだみだりなり。草稿なるゆゑにかへりみざるゆゑなり。重ねて繕写するを待つべし。これまた言をもて人を棄つることなからんことを仰ぐ。

時に宝暦十三年六月七日 舜 庵

              本居宣長 在判

   安永六年七月二日 誂人書写畢 門人

口語訳(拙訳)

右の『紫文要領』上下二巻は、数年来私が心に掛けていて、この物語を繰り返し、心静かに読みつつ考え出したところを書いたもので、決して先生から教わったということではない。またいろいろある源氏物語の解釈とは雲泥の差がある。これを読む人はそのことを変に思わないでほしい。ようく心からこの物語の本意を味わって、私のこの冊子と引き比べ、私の説が正しいか否かを判断してほしい。私が無名の若輩というだけでその説を否定しないでほしい。ただ、文章や書き方はとても乱雑ではある。それはこの書が草稿であるため、十分に気をつけなかったためだ。今後清書するまで待ってほしい。こうした文章の乱雑さを理由に私の説を否定しないことをお願いする。

時に宝暦十三年(1763年)六月七日 舜 庵(しゅんあん・宣長の号)

              本居宣長 在判(ざいはん・ここに本人の花押がある)

   安永六年七月二日 誂人書写畢(ひとにあつらへてしょしゃをはんぬ・人に頼んで写してもらったの意)  門人(誰であるかは未詳)

ここには若き宣長の高揚した、自信に満ちた宣言がある。物語を物語として、あらゆる既存の価値観から裁断せずに、没入して読み、そこに新しいものを見出した感動が語られている。そしてそこに新たな価値観を付与できるはずだという自負心に溢れている様が読み取れる。

「紫文要領」の梗概

さて、跋文からみてしまったが、それを前提にその内容を頭注にある編者の小見出しを使って追っておく。

巻上
作者の事
 紫式部作という説以外は信じがたい
述作由来の事
 執筆の動機・事情は不明
述作時代の事
 1000年頃成立・ほどなく流布した
作者系譜の事
 父・夫・自身の履歴・紫式部と称する事・なぜ「紫」と呼ばれるのか・ゆかりの者ゆえに「紫」と呼ばれる
準拠(なずらへ)の事
 モデルのせんさくは無用
題号の事
 「源氏」の意味・「物語」の意味
雑々(くさぐさ)の論
 無用の論いろいろ・系図と年表は必要・河内本と青表紙本
注釈の事
 河海抄と花鳥余情は必読すべし・湖月抄は便利・紫家七論・契沖の源註拾遺・秘説などは信用するに足りない
大意の事 上
 物語は儒仏の書と本質を異にする・源氏物語に見える「物語」という語・源氏物語中の物語論は源氏物語にも当てはまる・蛍の巻の物語論こそ紫式部自身の物語論・源氏、物語をわざと否定する・物語中の二種類のテーマ・紫式部の慎重な配慮・源氏、物語肯定論を述べる・物のあはれを知る心から物語を書く・「よきこと」と「珍しきこと」・漢文の書物と物語との違い・物語は仏典の方便と同じ・物語を卑下して締めくくる・仏教に付会する従来の解釈への批判・歌・物語における善悪と儒仏の書における善悪・物のあはれを知るのが物語における善・人生万般にわたり物のあはれはある・儒仏で悪とすることの中にも物のあはれはある・不道徳な源氏こそ「よき人」の代表・不義を犯した柏木もまた「よき人」・女で「よき人」は藤壺・紫の上・「あだ」でもだめ・貞淑一方でもだめ・「よきほど」に身を処することのむつかしさ・「雨夜の品定め」の解釈・家事専一で情趣を解さない妻では不満足・「物のあはれを知る」ことと「あだ」との違い・「まめ」であるだけでは不十分・藤壺は物のあはれを知る人・物のあはれを知らぬ人・物のあはれによって善悪を分つ・事の心・物の心を知らねばならない・物のあはれにも種類がある・物のあはれの有無は知る人の心による・物のあはれを知らぬ人は虎狼にも劣る・仏道にも物のあはれに関わる面がある・物のあはれ知り顔するのはよくない

巻下
大意の事 下
 物のあはれは恋においてもっとも深い・桐壺院の恋・源氏の恋・夕霧の恋・柏木の恋・空蝉の恋・物のあはれを知る人は恋に理解が深い・玉鬘に対する源氏の配慮・源氏に対する桐壺院の配慮・夕霧に対する源氏の配慮・源氏に対する朱雀院の配慮・柏木に対する源氏の配慮・再び「物のあはれを知る」ことと「あだ」と・源氏物語は好色の戒めにならない・物語は好色の心をつのらせる・古来の道徳的解釈はすべて牽強付会・紫式部の謙虚な人柄・荘子・史記・資治通鑑に学ぶというのも牽強付会・「物のまぎれ」は問題にするほどのことではない・作書の意図は、深い物のあはれを描くため・もう一つの意図は源氏の栄華を尽くすため・天の咎めを受けたのは源氏ではなく冷泉院・源氏を皇位につけなかった理由・「物のまぎれ」に教訓の意図はない・尊貴栄華は物のあはれに関係がある・仏道には物のあはれの深い面がある・人情の真実は未練で愚かな物である・作中の迷信は当時の風儀人情である・加持祈祷も風儀人情・風俗は時代によって異なる・描かれているのは中以上の人の有様・歌人、この物語を見る心ばへの事・歌と物語の本質は同一・ともに物のあはれを知ることから出る・古えの中以上の風儀人情を知るべし・歌の根本は物のあはれを知ること・古えの歌はみな中以上の人のもの・古人は物のあはれを知ることが深い・源氏物語を読んで古人に同化すべし・再び中以上の風儀人情について・下賤の者も中以上の人を学ぶべし・今の公家は昔の公家と違う・三代集が歌の手本・三代集と源氏物語と風儀情趣は同じ・源氏物語は物のあはれを尽くす・源氏物語は儒仏の書とは異なる 

その内容

長くなってしまったが、こうして見出しを見ただけでも、宣長が源氏物語をどう読んだかがよくわかると思う。一言で言ってしまえば、それは「物のあはれを知る」と言うことに尽きるのだが、そこには宣長の人間観が色こくあらわれている。「不道徳な源氏こそ『よき人』の代表」と言い、「不義を犯した柏木もまた『よき人』」と言い切るためには以下のような人間観がなくてはならない。これは「下」で「人情の真実は未練で愚かな物である」と言っている場面だ。こうした「よき人」たちはみな女子供のようで男らしくないのに、それを「よし」とするのはどうしてか、という問いに答える形で言っている。引用する。

答へて云はく、大方人の実の情といふものは、女童のごとく未練に愚かなるものなり。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたるものなり。実の心の底をさぐりてみれば、いかほど賢き人もみな女童に変ることなし。それを恥ぢてつつむとつつまぬとの違ひめばかりなり。唐の書籍はそのうはべのつくろひ飾りて努めたるところをもはら書きて、実の情を書けることはいとおろそかなり。ゆゑにうち見るには賢く聞ゆれども、それはみなうはべのつくろひにて実のことにあらず。そのうはべのつくろひたるところばかり書ける書を見なれて、その眼をもて見るゆゑに、さやうに思はるるなり。

ここは小生の口語訳などいらないだろう。実に宣長の文は平易でわかりやすい。ここで宣長は「人情の真実は未練で愚かな物である」と言っている。表面を取り繕っている人も、一皮剥けばみな弱き「女童」と変わりはしない。それが人間というものだと言っている。ここで言っていることがその当時いかに思い切った言挙げかを想像してみると良い。現代ならまだしも、こうした発言は当時の武家社会の倫理観や人間観からすればとんでもない妄言と受け取られかねない。しかし宣長は思い切って言っている。そしてこの人間観こそが「物のあはれを知る」ことから導き出された物なのである。もっと言えば文学とはこうした人間の未練で愚かな面を描くものだと言っている。それを如実に描いているのが『源氏物語』だと。それを読むことが「物のあはれを知る」こと、すなわち「人間の真実」を知ることだと言っている。

「石上私淑言」について

さて、も一つの著作「石上私淑言」を見ていこう。
この書は実は書かれた時には刊行されず、没後に刊行されている。書かれた時期は前書と同じ宝暦十三年だという。最後を見ればわかるが、当時未完のままで保存されていたという。まずはその内容を校註者日野龍夫氏の頭注の小見出しによってみていきたい。全3巻あるが、通して百二項目に区切っている。ほとんどが問いに答える形で述べられている。小見出しは以下だ。

その梗概

巻一
(一)ほどよくととのい、文(あや)のある言葉を歌という・有情のものの声には歌がある・非情のものの声は歌ではない
(二)ほどよくととのうとは五言か七音の句をいう
(三)語り物も歌の一種である
(四)イザナギ・イザナミ神の昌和が歌の始まり・二神の歌の解釈
(五)日本書紀より古事記の方が古語を伝えている
(六)八雲の神詠が歌の始まり・八雲の神詠の解釈
(七)下照姫の歌の位置づけ
(八)上古には歌体の区別の意識はなかった
(九)三十一字の歌体が自然と定着した
(一〇)連歌の起源・五七五・七七の連歌
(一一)(歌の出現)
(一二)物のあはれを知るということ・事の心をわきまえ知る・物に感ずる・「あはれ」という語の原義・感動詞「あはれ」の用例・「あはれといふ言」の用例・「あはれといふ」の用例・「あはれと見る」の用例・「あはれと聞く」の用例・「あはれと思ふ」の用例・「あはれなり」の用例・名詞「あはれ」の用例・深く感じた気持ちを「あはれ」と表現する・「をかし』も「あはれ」の中に含まれる・再び、事の心をわきまえ知る・深くあはれに感じた時、歌が生まれる
(一三)物のあはれに感じたら歌をよまずにはいられない
(一四)感動の表現には自然と文(あや)がある・外物に託した感情の表現・人は感動した時、他者の共感を求める・人の共感を得るためにも表現に文が必要
(一五)・「歌」という漢字と「うた」という和語・体の言葉と用の言葉・「うた」と「うたふ」・「うたふ」と「訴ふ」
(一六)(「歌」の字義)(一七)「歌」という字と「詩」という字
(一八)『釈名』の「歌」の字の解釈
(一九)「謡」という字
(二一)「歌をよむ」といういい方について・「よむ」の原義は「口に出していう」・歌を作ることを「よむ」という理由・歌を作るの意で「詠」字を用いるのは不可・「作歌」は「歌をよむ」と訓ずるのがよい
(二二)「古歌をよむ」といういい方について
(二三)「詠」という漢字について
(二四)「ながむ」と「うたふ」
(二五)「ながむ」が「物思いする」の意になる理由
(二六)「ながむ」が「見る」の意になる理由

巻二
(二七)「やまとうた」と「倭歌」
(二八)「倭歌」という表記について
(二九)「やまとうた」といういい方
(三〇)「やまと」という語
(三一)「やまと」の語は神代からある
(三二)「やまと」はもと大和の国のみを指す名称である
(三三)『書紀』に見える「日本(やまと)」は大和の国 
(三四)「大八洲」は日本全体の名称
(三五)「大やまと豊秋津洲」は本州を指すようになった
(三六)「やまと」が日本の総名になった時期
(三七)「やまと」が日本の総名になった理由
(三八)「やまと」の語源ー「山処(やまと)」
(三九)「山跡(やまと)」「山止(やまと)」という説
(四〇)「山外」「山戸」という説
(四一)「八洲元」の略という説
(四二)嘉号の論は無用の事
(四三)「倭」字を用いる理由
(四四)「倭」を「やまと」と読む理由
(四五)「和」字用いる理由
(四六)「和」字に改められた時期
(四七)天平勝宝四年以前の「和」の用例
(四八)「日本」という国号を用い始めた時期
(四九)「日本」という国号の由来
(五〇)「ひのもと」という語について
(五一)「やまと」を「日本」と表記し始めた時期
(五二)「やまと」を「日本」と書く理由
(五三)「大日本」「大和」の「大」の字について
(五四)「やまとみこと歌」という語
(五五)「敷島のやまと歌」という語
(五六)崇神紀の磯城と欽明紀の磯城島宮
(五七)「敷島の道」という語
(五八)歌道を「敷島の道」という理由
(五九)「しきしま」の正字
(六〇)磯城島の所在地
(六一)「歌の道」という語
(六二)詩と歌は本来同じもの
(六三)詩と歌の違い
(六四)詩と経学との違い
(六五)詩は女々しい情を詠ずるのが本来
(六六)人情は本来女々しくはかないもの
(六七)女々しい人情を詠ずるのが詩歌の役割
(六八)和歌にのみ神代の素直さが保存されている
(六九)漢詩にも和歌と同趣のものはある
(七〇)歌の道は神代の心ばえのまま
(七一)恋の歌の多い理由
(七二)恋以外の欲求はなぜ歌に詠まれないのか
(七三)欲から生まれる歌もないではない
(七四)不倫の恋が好んで詠まれる理由
(七五)わが国の古典に恋の話が多い理由
(七六)僧侶が恋の歌をよむのはなぜか・僧侶の方が俗人より恋の思いは深いはず

巻三
(七七)仮名序等の歌論は中国の詩論の模倣
(七八)真名序等の歌論を信用してはいけない・わが国では歌を政治の具に用いてことはない
(七九)歌の効用について・歌は神の御心を慰める・歌によって治者は被治者の心情を知る・歌によって人は思いやりの心を持つ
(八〇)歌の本質と効用を区別しなければならない・先達の説といえども誤りは正すべし
(八一)詩は人の心を感動させない・比喩による経書・詩・歌の違いの説明・詩ー理論による説得・歌ー感動による説得
(八二)歌の実作の必要について
(八三)歌を詠むのは人として当然のわざ
(八四)歌には偽りが必要
(八五)中国風の賢しらで神意を推測してはいけない
(八六)古の情・詞を学ばねばならない
(八七)古人の心を学ぶ必要性
(八八)歌の制禁について
(八九)心・詞ともに俗を避けなければならない・意より詞の方が重要
(九〇)古い心詞を珍しく詠みなす
(九一)「花」と「実」
(九二)「六義」の論は無用のこと
(九三)古来の説であっても誤りは正す
(九四)後代の歌も心は古代の歌に同じ
(九五)歌に上下のけじめはない
(九六)五句三十一字の道理を論ずるのは無用のこと
(九七)五句三十一字の道理は不明
(九八)五言七言について
(九九)句の続き方について
(一〇〇)長歌について
(一〇一)短歌について
(一〇二)反歌について(この以後著述なし。未完)

以上

その内容

こう見てくるとこの書は「和歌」について論じている書ということになる。前半は「歌」が、やはり「物のあはれを知る」ことにおいて成り立っていることを論ずる。ここは前書と同じである。しかし、その後「あはれ」という語についていくつか用例を挙げてその語釈を語っている。この点は国語学者としての宣長の片鱗を示す。また、「歌」という語やさらに「やまと」という語について論じる姿勢はやはり学者的である。これはあまり前書には見られなかった。ここらあたりから国学者への傾斜が読み取れる。相変わらずいわゆる漢詩との比較は見られるが、前書ほど批判的すぎていない気がする。また、「恋」や「女々しさ」を今度は「歌」を通して論ずるが、むしろ「古人の心」とか「神代の心ばえ」と言った言葉が見え、ここにも国学への傾斜が読み取れる気がする。

後に宣長は多くの国語学的業績を残す。また、その大著『古事記伝』を完成させる。もちろんこの書にもその業績に向かう片鱗は見られるが、むしろ「物のあはれ」論それ自体の徹底が欲しかった気がする。

ここで二つ本文を引用する。今回は本書のコピーを載せる。クリックして拡大できるはずだ。

本文コピー1

本文コピー2

初めは「物のあはれを知る」論の核心だ。これは前著にもある論だ。そして最後にそれを「歌」と結びつけている。

次はその「歌」を神道と結びつけている部分だ。もちろん当時の儒教の影響を受けた神道を批判はしている。しかし、「歌」を「神の御国の心ばえ」に結びつけている。

『源氏物語』ー「物のあはれを知る」ー「歌」ー「歌道」ー「神の御国の心ばえ」ー『古事記伝』ー神道という通路だろうか。

おわりに

ない物ねだりだろうか。「物のあはれを知る」論が「神の御国の心ばえ」論に行ってしまう通路が小生としては我慢できない。ましてや宣長ではなく、その追随者がそちらばかりを喧伝したついこの間(「もう」というか「まだ」というか、八十年前のこと)の思想的状況が、またそれをそっくりひっくり返したそれへの批判的思想的状況が嫌いだ。宣長の優れた「物のあはれを知る」論をもっと徹底する別の地平があったはずなのだ。

小林秀雄の『本居宣長』の「序」で折口信夫の言葉が引かれている。「小林さん、宣長は「源氏」ですよ」と。さすが、折口だ。私もそう言いたい。

2025.03.05

この項 了

追記

初めに書いたようにここでこの「古典文学総復習正続」を一応終了する。この仕事は小生が現役時代に「老後の楽しみ」として買い集めた岩波書店の「新古典文学体系」100冊と新潮社の「日本古典集成」82冊を重複は別にして全て読破するという試みだった。2017年の一月に始めた。実に7年を要したことになる。

実は小生の書斎にはまだ取り上げていない古典作品がある。それは前の岩波の「古典文学体系」に「日本書紀」と「風土記」、それに朝日古典全書の「古本説話集・本朝神仙伝」である。ただここは類似の作品で触れているということで取り上げないことにする。次に行かなければならないからだ。

次はもう一つ書斎に鎮座している全集、筑摩書房「明治文学全集」100冊だ。本年2025年4月から取り組む予定だ。では楽しみに?

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