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はじめに
まず、はたしてこれらは文学と言えるのか、という疑問が起きる。文学には評論(批評)というジャンルもあるが、ここにある文章は、そうした枠を遥かに超えている。いわば明治初期の思想的文書ということになる。しかし、この明治初期の思想的文書は間接的にその後の文学にそれなりの影響を及ぼしているという点で無視はできないのもまた確かである。ということでこの難解な文章をなんとか読み解していきたい。
思想家たちの共通点
さて、ここに登場する思想家たちの共通点はどにあるだろうか。まず言えるのは、いずれもはじめ儒学を学んで、後幕末に洋学を学んで、ほとんどが幕府に出仕し、維新後新政府に呼ばれて、新政府内で重要な役割を果たした人物だ、ということだ。
そこでこの思想家たちの出自と経歴を並べてみる。(本書の解説とネット上の情報による)
- 西周(にし あまね)
- 石見国津和野藩の御典医の家柄の出。
- 漢学の素養を身につける他、藩校で蘭学を学ぶ。
- 蕃書調所の教授並手伝となり哲学ほか西欧の学問を研究。
- 幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学。
- 法学・カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。
- 帰国後、目付に就任徳川慶喜の側近として活動。
- 王政復古後徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。
- 明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕。
- 軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努める。
- 明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。
- 津田眞道(つだ まみち)
- 美作国津山藩の料理番の家柄の出。
- 江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
- 蕃書調所に雇用される。
- オランダに留学。
- 幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。
- 大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想。
- 明治維新後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。
- 外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。
- のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官、元老院議官。
- 明六社の結成に関わる。
- 第1回衆議院議員総選挙に東京府第8区から立候補して当選。
- 杉亨二(すぎ こうじ)
- 肥前国長崎の医者の家柄の出。10歳の頃、孤児となる。
- 祖父・杉敬輔の友人上野俊之丞が経営する上野舶来本店(長崎の時計店)に丁稚奉公。
- 江戸幕府の蕃書調所教授手伝となる。
- 幕府直参として登用され、蕃書調所が改組されてできた開成所の教授並となる。
- 明治維新後は、津田真道が学頭をつとめる静岡学問所で教える。
- 西周が校長をつとめる沼津兵学校でフランス語を講じる。
- 明治維新後民部省に出仕。戸籍調査を命じられるが、これを拒否して辞任。
- 太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)に任ぜられる。
- 明六社の結成に参加している。
- 太政官正院政表課課長となる。
- 加藤弘之(かとう ひろゆき)
- 但馬国出石藩の家老家柄の出。
- 江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
- 大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
- 蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
- 旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
- 明治維新後新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。
- 明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
- 『人権新説』出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確する。
- 『強者の権利の競争』では、強権的な国家主義を展開した。
- 『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。
- 神田孝平(かんだ たかひら)
- 岩手旗本竹中家家臣神田孟明の側室の出。
- 牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学ぶ。
- 幕府蕃書調所教授となり、同頭取に昇進。
- 明治維新後明治政府に1等訳官として招聘される。
- 兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任。
- その間、地租改正を建議するとともに農民の土地売買の自由を唱える。
- 元老院議官就任。
- 貴族院議員に選出される。
- 森有禮(もり ありのり)
- 薩摩国薩摩の藩士の出。
- 造士館で漢学を学び、藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。
- イギリスに密航、留学しユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学ぶ。
- 帰国後外国官権判事に任じられた。
- 少弁務使としてアメリカに赴任する。
- 明六社を結成する。
- 『明六雑誌』に「妻妾論」を発表。一夫一婦を主張する。
- 英国公使になる。
- 第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任。
- 国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺され死去。
- 箕作麟祥(みつくり りんしょう)
- 美作国津山藩の藩士の出。
- 藤森天山・安積艮斎に漢学を、家と江戸幕府の蕃書調所で蘭学を学ぶ。
- ジョン万次郎(中浜万次郎)について英学を学ぶ。
- 蕃書調所の英学教授手伝並出役となる。
- 徳川昭武とともにフランスに留学した。
- 帰国後開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。
- 外国官(現・外務省)翻訳御用掛となる。
- 同年大学南校(現・東京大学)大学中博士に転じる。
- 和仏法律学校(現・法政大学)の初代校長に就任する。
- 明六社において、啓蒙活動にも力を注いだ。
- 中村正直(なかむら まさなお)
- 幕府同心の出。
- 築地の井部香山の塾で漢学を学び、翌年桂川甫周から蘭学の指南を受ける。
- 昌平坂学問所の寄宿寮に入る。佐藤一斎に儒学を、箕作奎吾に英語を習った。
- 甲府徽典館の学頭となる。
- 幕府の御用儒者となる。
- 幕府のイギリス留学生監督として外山捨八(正一)等の留学生12名を引き連れて渡英。
- 静岡学問所の教授となる。
- サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』の邦題で出版
- ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』の邦題で出版
- 大蔵省翻訳局長に任じられ、後に帝国学士会員、東京大学教授となる。
- 女子教育・盲唖教育にも尽力。
- 明六社の設立に参加。
- 洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になる。
- 貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。
- 西村茂樹(にしむら しげき)
- 佐倉藩の支藩佐野藩の側用人の出。
- 藩校である成徳書院に入り、藩が招いた安井息軒から儒学を学んだ。
- 大塚同庵に師事し砲術を学び、翌年、佐久間象山について砲術修業をした。
- 堀田正睦が老中首座・外国事務取扱となると、貿易取調御用掛に任じられた。
- 明六社を結成。
- 文部省に出仕し編書課長に就任。
- 儒教主義的徳育の強化政策を推進した。
- また漢字廃止論者として『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』を発表した。
- 天皇、皇后の進講を約10年間務め、
- 東京学士会院会員、貴族院議員、宮中顧問官、華族女学校の校長をつとめた。
- 『日本道徳論』を刊行した。
こう並べてみると、いずれも決して雄藩の中核にいた家の出ではないことがわかる。杉亨二などは時計職人の丁稚から身を起こしていることからも言えるように、幕末維新という混乱期にあっては家柄ではなく、個人の意欲と能力がいかにものを言ったがわかる。
次にほとんどがまずは漢学すなわち儒学を学び、その後蘭学・洋学を学んでいる点、また、いずれの人物も自分が所属したところから脱出している点だ。いわば脱藩している。そして国の内外に留学している点が見逃せない。もちろんこれが啓蒙思想家の特徴、すなわち洋学を学んだということになるが、そうした者たちをいち早く登用したのが幕府側だったということも見逃せない点だ。
ここに登場する人物たちはほとんどが幕末の幕府に出仕しているのは、当時政権にあった幕府にこそ西洋の優位性がはっきり見えていたからだ。西洋の学問や制度を取り入れるのが、流行りの言葉で言えばいかに「喫緊の課題」であったかがわかっていた。それに対して維新を担った倒幕派は「尊王攘夷」というイデオロギーに呪縛されていたため、実は気づいていたには違いないが、表立って認めるわけには行かなかったというわけだろう。しかし自分たちが政権を担ってしまうと、いかにそうした人物が必要かがわかったというわけだ。そして自分たちの周りにはそうした人物がいなかった。しかもこの啓蒙思想家たちはもともと軽輩の出で、決して幕閣の中心にいたわけではなかったからだ。ここにもこの思想家たちの特徴があると言える。
さて、前提はこのぐらいにして、ここに登場する思想家たちは、それぞれ何をなしたのか、その著作に即して見て行きたい。
西周について
まず、以下の語彙を見ていただきたい。
「理性」「感性 」「演繹」「帰納」「観念」「命題」「主観」「客観 」「総合」「実在」
現在では実に一般化した語だ。もちろん一般の人々はあまり使わないかもしれないが、決して特殊な語彙ではない。ただ学問的な語彙である。実はこれらの語彙は西周が初めて英語の訳語として使ったと言われている。それぞれ以下の訳語なのである。
「理性=reason」「感性=sensibility」「演繹=deduction」「帰納=induction」「観念=idea」「命題=proposition」「主観=subject」「客観=object」「総合=synthesis」「実在=being」
全て初めは哲学用語だった。そもそも「哲学」という語も西の作った訳語だと言われている。
その著作「百一新論」の末尾に「物理」と「心理」の区別と総合を論じて言う。
ここは「明治文学全集」の本文と「日本の名著」の本文、それと口語訳を示す。(いずれも画像。)(はっきり言って明治文学全集の本文は実に読みにくい。これはカタカナ表記に我々が慣れていないせいなのだが、ひらがな表記に直しただけの「日本の名著」の本文になると俄然読みやすくなる。また菅原光氏等による現代語訳の仕事も素晴らしい)

さて、ここまで「百一新論」で西は儒教について批判してきている。その骨子は儒教が個人的な「徳」を重んじ、それをそのまま現実の「政治」に実現できるとした点に対する批判だと言える。「礼」から「法」、「法」から「教」へいう流れで論じている。実はこうした儒教の論点は小生には難解だ。ただ、受け取れるのは西が所謂「実証」を重んじる姿勢を貫いている点である。例えば「神風」を否定している部分に現れている。これは天然現象、すなわち「物理」である、とはっきり説明している。そしてそれをどう受け止めるかが「心理」であるとする。そしてそこを総合するのが「哲学」だと言うのである。そしてそれを体系化しようとしたのが「百学連環」と言う著作である。これは未完に終わったが、西が試みたのはこれまでの「知識」の西洋的な実証主義で再編することだったようだ。
また西は実に現実主義的な功利主義者であることが「人世三宝説」を読むとわかる。人生においては「健康」「知識」についで「富有」こそ必要だと解いている。さらには「天授の五官」に基づく実際の学を説いたことも注目される。
もう一つ注目すべきは西がローマ字による日本語表記を本気で奨めていた事実だ。これは「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」を読むとわかる。実は西も論文の漢字とカタカナの文章を問題視していたのだ。これは他の論者も触れていることだが、当時にあっては大問題であったようだ。現代の我々がこの時期の西のような優れた論客の文をまともに読めないのは実に学問にとって大きなマイナスであるのは事実である。先に画像で示したところをよく見て貰えば、この日本語表記の問題は決してなまじに否定することはできない気がする。これはやがて「言文一致」の運動へとつながっていくことになる。
西周についてはこの辺りで筆を擱くこととする。
津田眞道について
略歴にある通り、津田も西と同様な道を進んできた。しかし唯一異なるのが、津田が幼少期から国学に親しんできたことだ。これが後の思想にどんな違いを生んだかは詳らかにしないが、和歌に通じていたことは西との大きな違いである。その著「天外獨語」も和文で書かれている。内容は平田篤胤風の狭隘な攘夷運動の無知を指摘し、富国強兵策を説くにあたって、進化思想や、西洋風の哲学を援用している点にあるが、これを和文脈で書いている点もこの時期のこうした文書としては特筆に値すると言っていい。
さて、津田は日本においての法学の先駆的な役割を果たした人物だが、その「泰西法學要領」はまさに要領に過ぎないが、初めての法学通論と言っていいものだ。
また、この書(明治文学全集)ではその他、“公議所議案集”があり、これは維新後の新官僚としての改革意見が述べられているものだが、一つは「人身売買」を禁ずべきとする論と「年号」を廃止すべき論がある。
さらに『明六雜誌』より数編の論文が紹介されているが、注目は
「開化を進むる方法を論ず」で開化=文明化のためには、キリスト教の普及が不可欠としていること
「拷問論」で欧米との対等と条約改正を志向するために拷問の廃止が重要だとしていること、
「死刑論」で復讐を禁止して死刑を禁止しないのは文明ではなく、社会から犯罪者の害悪を除去するには流刑または禁錮・労役従事・終身刑で十分だとしていること、
「情欲論」で「他人の自由を害する」ことは「不義」であるが、「情欲」(欲望)とは「天性の自然に出ず」ものであり、「国人一般身体上の幸福」をもともなった「自由」こそ真の自由であるとして、一定程度欲望を肯定し、人間生活を歓楽・快楽に変えることができると肯定していること、
等である。また、夫婦や男女の同権的な発想も語られているものも注目に値する。
さらに『東京學士會院雜誌』よりと言うことで
「唯物論」が挙げられ、西と同様な実証主義的な考え方が語られている。これはコントの実証主義の影響とされている。
そして最後に「如是我觀」と言う出版された小品集が載せられている。
こう見てくると津田真道の思想はキリスト教に立脚し、寛容をモットーとする政治的リベラリズムであり、自由主義経済を唱道する、西洋型の自由主義社会を志向していた、と結論できそうだが、明治政府内部に居続けたためかどうか、この政府が持っている反自由主義的な側面を批判はできなかったようだ。この辺りにもこの明六社の啓蒙思想家たちの特徴があると言えるかもしれない。津田についてもこの辺りにしておかざるを得ない。
杉亨二について
この人物はここの明六社の中でも異色な存在である。履歴のところでも示したようにその出自や年少の頃の生活は他の明六社の連中と全く異なる。それは単に彼が孤児で時計職人の徒弟であったということだけではない。殆ど漢学の薫陶を受けていないという点である。この点は杉がその後幕府や明治政府に身を置きながらあまり政治的な発言や行動をしていないことに影響していると思われる。江戸時代の漢学すなわち儒教の学習は個人的な倫理はもとより支配の、すなわち政治の学問を学ぶということであった。この明六社の啓蒙思想家たちの殆どは西洋の学芸や技術を取り入れたが、その奥には支配のための政治的な要素を持っていたといっていい。そうした漢学の薫陶を受けていないということで杉には政治的な要素が希薄であったと言えそうだ。従って、この杉はもっぱら統計学の泰斗として知られていて、明治政府にあっても技術官僚として過ごし、明治の政変や自由民権運動にも殆んど反応を示していない。しかも、福沢諭吉を除き、他のこの明六社の啓蒙思想家たちが後に貴族院議員となり華族に列せられたが、彼は在野の一統計学者として生涯を終えている。
しかし、ここでは以下のやや政治的・経済学的文章が掲載されているのでそれぞれについて触れておきたい。
「南北米利堅聯邦論」「空商事ヲ記ス 」「真為政者ノ説 」「人間公共説 」「貿易政正論」「想像国説」の六編である。
まず「南北米利堅聯邦論」「空商事ヲ記ス」は万国史の事例の殆んど翻訳のようだ。杉は旧幕時代、開成所で大部の万国史 (十冊)を二年半余かかって通読したという。そこでフランス革命の記事にいたく驚き、アメリカの歴史も学んだようだ。その成果ということだろう。
「真為政者ノ説」では真の為政者は内外の歴史に照らして現状を把握し「民情」にも通じて政治を行うべきとしている。ここに先ずは実態を把握するという後の統計学への傾斜がうかがえるという。しかし概念的な一般論に終わっている。
「人間公共説 」もやはり学んだ洋学の翻訳に過ぎず、当時こうした洋学者に一般的な天賦人権論による社会契約説を述べたに過ぎないようだ。
さて、ここでもっとも注目されるのは「貿易政正論」・「想像国説」ということになる。
これはいわゆる保護貿易説である。当時明六社の西・津田らは自由貿易説を説き、それが主流であったようだ。それに対して保護法を行って自国の生産力をまず高めるべきだとしている。しかも輸入超過は金銀の流出を拡大し、最終的には枯渇し、ついに相手にされなくなり、自然に鎖国状態に陥り、世も漸々不自由になるとの想像説である。そして「是ニ至テ仏国ニテ唱フル『コムミニスミス』ノ説ノ始テ我国ニ行ハルルカ」云々として警告している。これは一種の極論だが、こうした説は実は杉が「明治六年以来の海外貿易表の作成に当っていたこと」の実績が裏付けとなっていたようである。
やはりここでも杉亨二は統計学の人である。杉亨二についてはここまでとする。
加藤弘之について
この人物は啓蒙思想家の中でも最も極端な振れ幅のあった人物といえる。加藤も初めは洋学に基づいて天賦人権論・社会契約論者であった。しかし、国会開設運動の高まりの中で転向し、社会進化論を唱えて、明治末期頃までには「極端な国家主義者」の烙印を押されるまでに国家主義へと傾斜していったと言う。
さて、この書では「民選議院ヲ設立スルノ疑問」・「馬城臺二郎ニ答フル書」・幾つかの『明六雜誌』の論文・『國體新論』・『人權新説』が収められている。
初めの二書は所謂民選議院開設運動に対する加藤の立場を表明した書。所謂時期尚早論と言う立場だ。馬城臺二郎とは民権運動の指導的立場にあった大井憲太郎のことである。『明六雜誌』の論文もこの時期の加藤の立場を表明したものだ。
さて問題は後の二書である。
『國體新論』は加藤の初期の思想を表明したものだが、転向時自ら絶版にした書。『人權新説』は転向後の加藤の立場・思想を表明したものだ。
『國體新論』はその章立ての文言を見ればその内容がわかる。以下だ。
- 第一章 国家民君成立セシ所以ノ大原因
- 第二章 国家ノ主眼ハ人民ニシテ人民ノ為メニ君主アリ政府アル所以ノ理
- 第三章 天下ノ国土は一君主ノ私有ニアラズ、唯之ヲ管理スルノ権特ニ一君主ニアル所以ノ理
- 第四章 君主及ビ政府ノ人民ニ対セル権利義務并ニ立法司法ノ二権柄
- 第五章 人民ノ君主政府ニ対セル権利義務
- 第六章 人民自由ノ権利及ビ自由ノ精神
- 第七章 国体ト政体ト相異ナルノ理并ニ政治ノ善悪公私必ズシモ政体ニ由ラザルノ理
ここで述べられていることは、本来の社会契約思想とはいえなかったとされるが、それでも政府の目的を人民の保護におき、私権を天賦のものとして認めると言うものであったようだ。また、人民の自由と権利をしっかり認めるよう述べている。
こうした論を自ら絶版にしたわけだ。そして『人權新説』を書いた。緒言に言う。「優勝劣敗是天理矣」と。そして第一章は「天賦人権ノ妄想ニ出ル所以ヲ論ズ」と題している。この「優勝劣敗是天理矣」こそ進化論の文言だ。進化論はもとダーウィンが唱えた「進化は生存競争・自然淘汰・適者生存による」とする自然科学の論であったはずだ。これを社会に適用したのが「社会進化論」と言うことになる。そして、これが「人間は生来自由・平等で、個人が契約を結んで国家や政府を設立した」という社会契約論に対する批判の理論として用いられたと言うわけだ。しかもこの「優勝劣敗」と言うことが「強者・適者の理論」と言う形をとって現状の社会を固定的に支持する理論となったようだ。しかし、スペンサーが唱えたという「社会進化論」は決してそれだけのものだけではなかったようだが、これがドイツにおいては国家〔全体〕があって個人があるというもともとドイツにおいて発達した国家有機体説と結びつきプロイセン啓蒙専制君主の支配を正当化する理論に変更されたと言う。
しかし、それにしても加藤弘之はなぜこんな大きな転向をしてしまったのだろうか。ここにこの時期の啓蒙思想家たちの特質が隠れていると思う。ある評者は加藤がドイツ語を主に学び、ドイツの哲学に影響されたためだとしている。福沢諭吉はイギリス流だからそうならなかったと。しかし、これは浅学な小生の創造に過ぎないが、やはり加藤の「支配の側に居たい」と言う止みがたい願望によっているのではないかと思う。それはこの啓蒙思想家たちの共通の特質だと思う。それともう一つ明治新政府が西洋的な制度と思想を維持しながら、一方で維新を推進した「尊皇攘夷」思想を捨てきれないと言ういわば矛盾した両面をどう同調させるかという要求の結果かもしれないと思う。この転向の直前、加藤は所謂「尊皇攘夷」論者に脅迫を受けていたと言う事実があるらしい。こうした内実は昭和の戦争期まで引きずることになる。あ〜あ。
加藤弘之についてはここまでとする。
神田孝平について
彼はこれまで見てきた思想家より地味な存在である。しかしそれは必ずしも彼が歴史に残した役割と業績が劣っていたためとは言えない。むしろ地方官としての業績や税制改革、民会設立の考え方は他の啓蒙思想家たちよりは優れたものがあったような気がする。
この書では以下の論書が掲載されている。
「農商辨」「會議法則案」「褒功私説」「日本國當今急務五ケ條の事」「論重板」「江戸市中改革仕方案」「人心一致説」「田税改革議」「“公議所議案集”から三編」「“民會規則”」「『明六雜誌』より・五編」「『東京學士會院雜誌』より九編)
である。
いずれも短いものだが、中心は経済学の分野というか財政に関する著作と言うことになる。これは幕府にいた時からのものから新政府に出仕してからのものまで収められている。
「農商辨」は幕府にいた時の作だが、趣旨は「課税対象を「農」の「産物」から「商」の「利」へと移行すべきだと」言うものである。これは江戸時代の租税を根本的に変更する考え方である。また、新政府時代も「地租改正」に関してかなり重要な役割を演じたようだ。
もう一つは所謂「民会」の必要性を説いたものだ。
「江戸市中改革仕方案」では、地方政治のレベルだが、「民」の代表者による議決機関としての議会開設を主張」していることが注目される。
また、幕府時のものだが、「會議法則案」で、従来では政策決定に加わることのできなかった武士の意見を政策に反映させるため「會議」に諮問機関としての役割を持たせようとした点も見逃せない。
これは「日本國當今急務五ヶ條の事」で、「士」の「衆議」のみならず,「農」・「工」・「商」をも含める「國人」の「衆説」を政策に反映させる必要があると説いた点も所謂民主主義的な意思決定を考えていたことを伺わせる。
こうなると、所謂自由民権運動の国会開設論に対しては大賛成ということになるはずだが、ここは他の明六社の同人同様、時期尚早論の立場だったようだ。しかし実際はまずは地方自治体においての「民会」の開設を考えていたようで、実際に兵庫県令としてその実現に努めている。
そのほか、「国楽ヲ振興スヘキノ説」(『明六雜誌』)や「邦語ヲ以テ教授スル大学校ヲ設置スヘキ説」・「暦法改良論」(『東京學士會院雜誌』)などユニークな提案もある。
なお、孝平は「たかひら」というらしい。
神田孝平についてはこれくらいにしておく。
森有禮について
今度は神田と違って派手な存在の森有礼。なぜ派手かというと、留学やアメリカ行きで学んだことを派手に意見し、周囲を巻き込むのが好きだったからだ。その結果かどうか最後は暗殺されるという派手な死に方をした。
この森の成したことはいくつかあるが、まずは一夫一妻制の主張と契約結婚の実施である。これは『明六雜誌』に発表された「妻妾論」に詳しい。一夫一妻制は今となっては当たり前のことだが、明治初年はそんなことはなかった。むしろ「妾」を法的に保護することさえ行われていた。これは所謂伝統的な「家」社会というべき日本の旧来からある制度を守る姿勢が明治新政府にも踏襲されていたことを意味する。しかもそれは家父長制を意味し、所謂男女同権、夫婦同権に大いに反していた。これを森はアメリカでのキリスト教の感化から敢然と否定しようとしたわけだ。この論文は明六社内でも激しい論議を生んだようだ。血統を守る上で「妾」は必要とする説や、更にはその頃流行した「レディファースト」に対しての反感(加藤弘之)まで生んだ。血統については「養子」制度があって「妾」を必ずしも必要としないと森は述べていて、森も「家」制度そのものは否定したわけではなかったようだ。福沢諭吉は「男女同数論」で曖昧な同調論を述べている。つまりこの頃の開明的と言われた連中も結局は所謂男女同権、夫婦同権の何たるかを本当は理解していなかったと思われる。
また森は公議所の議案で「廃刀論」を述べたが、ほとんどの所員に反対され、一時野に下ることになった。このように森は新しいことを敢然と述べる点では他の明六社の人々より長けていたようだ。
さて、この森のなしたことのもう一つは文部行政への貢献である。森は伊藤内閣の初の文部大臣である。その辺りは「教育論」「學政片言」「學政要領」「兵式體操ニ關スル上奏案」に詳しい。こうした森の文部行政へその後の日本の教育制度の根幹を成したものだ。
しかしそれにしても森がこの時代において敢然と述べたことの多くは今しっかりと実現していることを考えると、今から言えば限界はあるものの確かに優れた人物であったっことに間違いはない。
森の暗殺については伊勢神宮での不敬によるもので、所謂尊王論者によって行われたという。それだけ森は近代主義者とみなされていたようだ。
この書では他にロシヤ留学の紀行文「航魯紀行」が収められている。
森についてはこの辺でおわりにしておく。
箕作麟祥について
この人物は明六社の中でも最も地味な存在と言える。小生もこの書を繙くまで寡聞にしてその名を知らなかった。ある意味それが仕方がないのは、この箕作にはまとまった著作がほとんどないためだ。
ここでも『明六雜誌』より三編と「國政轉變ノ論」があるのみである。しかし彼は法学の面ではかなりの実績を残したようだ。特にフランス民法の翻訳と明治期の法典編纂事業、とりわけ「民法」の編纂には多大な貢献をなしたという。それは何よりもその語学力によるものだが、ここに収められている諸論文もその語学力によるところが大きいと言える。(箕作は江戸時代からの蘭学者の家系のでで、蘭学者の祖父に育てられたという。江戸時代にフランスへの留学もしている。(経歴の欄参照))
さて、その「國政轉變ノ論」にはヨーロッパの革命の歴史が語られていて、これも「万国史」の翻訳(というよりほとんど翻案?理解した上で日本語で書くというもの)から得た知識によっていると言える。ただ、これは明六社に対抗する立場の叢書に掲載され、いわば革命肯定論のような要素を持っていたので、反政府側から喝采を、政府側からは非難を受けたという。もちろん箕作は政府側にいた人物なので一時その立場を危うくしたという。
しかし、この箕作も他の明六社の人々と同じようにヨーロッパの歴史は理解し、紹介するが、それを直ちに当時の日本に適用しようとは思っても見なかったのだ。
この箕作麟祥についてはこのぐらいにしておく。
中村正直について
この人物はこの中では際立って大きな存在と言える。もちろん明六社には泰斗福沢諭吉がいるが、当時においてはその双璧というべき存在だったと言える。それはこの中村正直が、略歴に述べたように、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』の邦題で出版し、ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』の邦題で出版したからに他ならない。この二書は当時のベストセラーだったようだ。福沢の『西洋事情』とともに当時の有為な青年たちにとってのバイブルと言っていい書だった。(この書ではこの二書の序文のみ掲載されている。)まさに西洋思想の紹介者であったわけだ。
しかし、この中村正直は完全な漢学者でもあった。ここに挙げられている思想家たちがみな漢学を学んでいることは述べた。しかし、中村はそれを超えて完全な漢学者であり、江戸幕府のお抱え儒者であったのだ。しかもそうでありながら、キリスト教に帰依し、洗礼まで受けているのだ。いわば一見矛盾する思想経歴にこの人物の特徴があると言える。「儒教」「イギリス流自由主義」「キリスト教」これらが、この人物の中でどう連絡しているのか、またその葛藤はあったのか、そしてそれは無矛盾であったのか、実に興味深いところではある。
さて、小生はずいぶん以前にこの人物についての小論文を書いた。題して「中村敬宇『擬泰西人上書』の近代化論」というものだ。この文書はこの書にも掲載されているが、趣旨はキリスト教の禁教の廃止と、更には天皇に受洗を奨めている点にある。何とも大胆な主張である。この書は題名にあるように、ヨーロッパ人が天皇に物申すという形になっていて、しかも匿名で発表されたが、中村の書であることは証明されている。中村の静岡時代の文書である。流石に直接的な表現は変更されたようだが、それなりの反響はあったが、いわば完全に無視されたというのが本当のところのようだ。
しかし、ここに中村の思想の特徴を見る気がする。儒教的な「天」をキリスト教の「天守」に擬え、それを「天皇」に結びつけている。しかも、日本の近代化には何より国民の自立した近代的な思想が必要でそれは天皇自らが範を示し国民に伝播させるべきだとするものだ。そこにキリスト教の思想が必要だとしている。中村正直にとっては何よりも「近代化」、それは技術的な事柄というより精神的な「近代化」が喫緊の課題で、それには「儒教」も「イギリス流自由主義」も「キリスト教」も必要であったということなのだろう。
この書には以下の文書が掲載されている。
「留學奉願候存寄書付」「敬天愛人説」「擬泰西人上書」『序跋文集』『明六雜誌』『同人社文學雜誌』『東京學士會院雜誌』より数篇「報償論」「愛敬歌」「自叙千字文」
中村正直についてもこのくらいにしておかざるを得ない。
西村茂樹について
最後になる西村茂樹はこの明六社に前の中村正直を紹介、加入させた人物。二人は明六社の中でも似たところがある。ともに儒教的な道徳観を持ち続けた人物である。ただ、中村はどちらかというと開明的で西村は保守的な人物とみなされがちである。それは西村が何より「道徳」を強調し、「弘道会」という道徳振興団体を創り、「欧化主義」に反対したからだ。しかし、中村同様西村も開明的な面を多分に持っていたように思うし、中村もやはり「道徳」の重要性を強調していたように思う。
では、西村の「道徳」とはどのようなものだったのか、それには『日本道徳論』を見るのが一番だろう。『日本道徳論』 の内容は以下の章立てで語られている。
- 第一段 道徳学ハ現今日本ニ於テ何程大切ナル者ナルカ
- 第二段 現今本邦ノ道徳学ハ世教ニ拠ルベキカ、世外教ニ拠ルベキカ
- 第三段 世教ハ何物ヲ用フルヲ宜シトスベキカ
- 第四段 道徳学ヲ実行スルハ何ノ方法ニ拠ルベキカ
- 第五段 道徳会ニテ主トシテ行フベキハ何事ゾ
西村は近代化にとって大事なのは「国民の品性」だとしている。これはヨーロッパにおいても同じである。ただ、ヨーロッパにはキリスト教というものがある。つまり宗教が「国民の品性」をたもさせている。ここで「世外教」と言うのは西洋のキリスト教すなわち「宗教」のことだろう。「世教」とは日本の儒教や国学をいうのだろう。しかし、日本においてはそうした「宗教」がすでにキリスト教のようには存在していないとする。では日本において何をもって道徳の基礎とするか。以下のように言う。
余が道徳の教の基礎とせんとするものは儒教に非ず哲学に非ず、況して仏教と耶蘇教に非ざるは勿論なり。然れども亦儒道を離れず、哲学を離れず、仏教耶蘇教の中よりも亦之を取ることあり。
と言い、
しかし、一定の主義を確立して後に諸教の説を採るときは心配ない。一定の主義とは、二教(儒教・哲学) の精神を取り、二教の一致するところを取り一致しないところは棄てる。一致するところとは「天地の真理」である。
とする。
つまりは西村の「道徳」は儒教と西欧哲学のいいとこ取りで成り立っていると言える。そしてその「道徳」の実際は「勤勉」「節倹」「剛毅」「忍耐」「信義」と「進取の気に富むこと」「愛国の心を盛んにすること」「万世一統の皇室を奉戴すること」だとしている。そしてその実践が第一は「我身を善くし」第二は「我家を善くし」第三は「我郷里を善くし」第四は「我本国を善くし」第五は「他国の人民を善くす」ことにつながるとしている。
これは功利主義的な視点から西洋文明を理解し、取り入れることとも違うし、単に西洋技術・東洋道徳といった二元論とも違っている。この西村の道徳論は功利主義的欧化主義者伊藤博文から忌避されたと言うのも頷ける。
だが、西村は決して頑迷な保守主義者ではなかったようだ。例えば、日本においての「父子同居の風」「一家同居」を「何の用にも立たず」として、「其父母たる者は決して其子の養育を受けざる様に心掛くべきこと」と言い、当時の家父長的家族制度を否定している。また、女子の「早婚」もやめるべきとしているなど、現代に通じる考え方を述べている。
この書には『明六雜誌』より二篇、「東西政事主義の異同」、「公衆の思想」、「日本弘道會の改稱に付きて一言す」、『東京學士會院雑誌』より四篇、「日本道徳論」が収められている。
なお、ここでの引用等については定平元四良氏の論文「西村茂樹の道徳論」を大いに参考にさせてもらったことをお断りしておく。
おわりに
ようやく辿り着いたと言う感じだ。結構難儀した。前の論が五月の13日に校了しているので実に一ヶ月以上かかってしまったことになる。かといって完璧に読みこなせたわけではない。実に読みにくかった。そこで随分と先学の論文のお世話になった。ネット上の論文はいつものことだが、今回は以下の書籍のお世話にもなった。たかだか200年にも満たない時代の作品がこれほど読みにくいと言うのはある意味日本の近代の弱点?と言う他ない。江戸から明治へという激動の時代を生きた知識人の一つの姿を何とか後づけることができたかどうか心許ないが、これからの人々も是非知ってほしい事柄ではあるので、この拙い小生の紹介?を読んでいただければと思う。
参考文献
- 『西周 現代語訳セレクション』菅原光・相原耕作・島田英明 慶應義塾大学出版会 2019
- 『幕末維新の文化』(幕末維新論集11)羽賀祥二篇 吉川弘文館 2001
- 『津田真道 研究と伝記』大久保利謙編 みすず書房 1997
- 『西 周 加藤弘之』(日本の名著34) 植手通有編 中央公論社 1972
- 『「明六雑誌」とその周辺』神奈川大学人文研究所編 お茶の水書房 2004
- 『「自由」を求めた儒者』李セボン 中央公論社 2020
- 『「民」を重んじた思想家 神田孝平』南森茂太 九州大学出版会 2022
- 『新版 日本の思想家 上』朝日ジャーナル篇 朝日選書 1975
2025.06.24 この項 了