日本古典文学総復習続編33『誹風柳多留』

はじめに

この古典文学総復習続編も残り二冊となった。いずれも時代がやや遡るが、『誹風柳多留』と『本居宣長集』である。これまで取りこぼしてきた二冊ということになる。

さて今回はまず『誹風柳多留』を取り上げる。この『誹風柳多留』はいわゆる古川柳のアンソロジーだ。川柳についてはご存知の向きも多いとは思うが、この古川柳については若干の説明が必要かと思う。そこから始めたいと思う。

古川柳について

川柳は現在でも多く作られ、読まれている。新聞でも毎週のように時事川柳が掲載されている。また、サラリーマン川柳なるものが人気があり、面白い作品も多くある。そしてその特徴はいずれもいわば「素人」が作っている点にあると思う。もちろん短歌や俳句も多くの「素人」が作っている。しかし短歌や俳句にはそれ以上に「専門家」が多くいて歌人や俳人を名乗っている。だが、専門の川柳人?といいうのは寡聞にして聞いたことがない。もちろん専門家を名乗る人もいるかも知れないが、多分俳人の余儀程度だと思う。

実は古川柳もやはり「素人」が作者である点は現在と変わらないのだ。この『誹風柳多留』に収められている多くの句に一つとして作者の署名などない。ここに川柳の第一の特徴があると言える。

ただ、古川柳には現在の川柳と大きな違いが存在する。それは古川柳が「前句付け」だということだ。元々この川柳は俳諧から発生したのだが、この俳諧が連歌から発生したことでもわかるようにいわゆる「発句」以外は全て「前句」があって、それに「付ける」ことで句を作るという性質があるのだ。「前句」をどう読んで、それにどう「付ける」か、そこに俳諧の妙味があることはこれまで取り上げた江戸の俳諧について復習したときに語ってきた。そしてこの古川柳はその「前句付け」自体を独立させて、その妙味自体を問題にした表現だということだ。

川柳という名は元「柄井川柳」という人の名から来ているのだが、この「柄井川柳」が大流行させたのが、いわば「前句付け」コンクールである。「前句」を提示して、その「前句」にどううまく付けるかを競いあい、それに点数をつけ、優秀な作品は刷物にして配り、賞金も出したようだ。それが大流行したのだ。それを判定するのが柄井川柳という人物であったというわけだ。もちろんこうしたコンクールは川柳以前にも京や大阪で行われていたが、これほどの大流行を見たのは江戸が経済的に発展した田沼時代だった。

もっと具体的に言おう。今月の前句はこれこれだと提示して、その前句につけた句を募集する。投句するには一句につき当時の蕎麦代ぐらいの料金がかかったという。投句できる場所は江戸市中のあらゆるところにあったようだ。料金を払いさえすれば、誰でも投句できた。それを集める人物がいて、そこから手数料を取って、柄井川柳のもとへ届ける。そして柄井川柳が点をつけ、優秀作を刷物にして人が多く集まる場所に貼り出す。しかも優秀作には賞品や賞金を出したという。初めは投句もそれほど多くはなかったようだが、この川柳の点つけが、他の俳諧の宗匠より甘かったというか、より庶民的であったということがあって爆発的に流行したというわけだ。

この「前句付け」は元元連歌や俳諧の修練として行われていた。またそれを指導し、点をつける習慣もあった。室町時代にもこの古川柳と同様なものが見られたようだ。しかしこれほどの大流行を見たのは江戸時代の柄井川柳の時代であった。これは経済的な発展と文化的な教養の庶民化なしでは考えられない。

『誹風柳多留』について

古川柳について多くを語りすぎたかも知れない。しかし、この古川柳についての知識なしではこの書を語れない。実はこの書、先ほど紹介した投句優秀作の刷物を集め、さらに編集した書だからだ。編者は呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)という人物。この古典集成本はその初編である。実はこの書なんと明和2年から天保11年(1765–1840)にかけて167編が刊行されたという。いわば川柳年報って感じのものなのだ。

ここではその初編を見ていくことになるが、それはどのように編集されているだろうか。
その序で

一句にて、句意のわかり安きを挙て一帖となしぬ。なかんづく、当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す。

と書いていることから、元々は前句抜きで独立した句を川柳が編集した「勝ち句刷」から抜き出し並べたようだ。しかし、その並べ方に特徴があって、全く違った句意の句を雑然と並べてはいない。この書を読むものが何か繋がりがあるように読める仕掛けになっている。これはまさに俳諧的である。俳諧はそれぞれの句が独立しながら、全体として独特な展開と情趣があるのだが、それを狙ったようだ。そこが「誹風」という題名の所以だ。

さて、この集成本では理解のためにわかるものは前句も並べてか書かれているし、その頭注にはその流れもわかるように解説されている。

実際の句

では実際の句を見ていくことにする。まずは有名どころでいこう。ただ、その前後も挙げておく。

77 伊勢縞のうちは閻魔を尊がり
    長い事かな長い事かな

78 役人の子はにぎにぎをよく覚え
    運の良い事運の良い事

79 女房があるで魔をさす肥立ぎは
    長い事かな長い事かな
   女房が得手は魔をさす肥立ぎは

80 鑓持は胸のあたりをさし通し
    長い事かな長い事かな

81 白魚の子にまよふ頃角田川
    やさしかりけりやさしかりけり
   白魚も子にまよふ時角田川

句の後に描かれているのが前句である。79はその後にあるのが元の句だ。ということは編者の改作となる。有名なのは78の句だ。これは「風刺」句として読まれているはずだ。しかし、前句を見る限りそんなことはなさそうだ。当時「は振り」を効かせていた「役人」(武士)の家に生まれたラッキーを詠んでいるのである。これが前句付けとして読むか独立句として読むかの違いだ。さて77の句との繋がりだが、これは解説なしではわからない。伊勢縞は当時もっぱら商家の丁稚のお仕着せに用いられた着物のことでここはその丁稚のこと。閻魔堂に参詣した丁稚たちが長く時間を潰している様子をいう。ここで丁稚から役人の子へ運ばれる。79の句は今度は子を産む夫婦の機微。「肥立ぎは」病気の治り際、これまでが長かったので、ついつい不摂生してしまう。元の句の「得手」は女陰の隠語だという。これではあからさますぎるので編者が変更。80の句は長さを時間的でなく物理的な長さとして捉え、79の句のまさに「魔がさした」ことを今度は本当の鑓がさすと。そして81の句は前句を母の子を思う情と見て、謡曲「隅田川」を踏まえ、梅若忌を思い起こす。元の句ははっきり踏まえを表しているという。

どうであろうか。これは川柳そのものというよりは『誹風柳多留』の世界なのだ。

あとは通読して気になり付箋をつけた句を列挙する。みなさん自由に解釈してください。

104 指のない尼を笑へば笑うのみ
    こまりこそすれこまりこそすれ

165 これ小判たった一晩居てくれろ
    あかぬ事かなあかぬ事かな

172 江の島を見て来たむすめ自慢をし
    今が盛りぢや今が盛りぢや

316 小便に起きて夜鍋をねめ廻し
    無理な事かな無理な事かな

344 大門を出る病人は百一ツ
    愛しかりけり愛あしかりけり

377 大は小兼ねると笑ふ長局
    欲張りにけり欲張りにけり

380 母の手を握って炬燵しまはれる
    とんだ事かなとんだ事かな

422 大磯は欠落するにわるい所
    くたびれにけりくたびれにけり

537 大磯の落馬はすぐに煙草にし
    座りこそすれ座りこそすれ

597 本降りになつて出て行く雨宿り
    (前句不明)

640 黒犬を提灯にする雪の道
    山のごとくに山のごとくに

681 粉のふいた子を抱いて出る夕涼み
    よい気色なりよい気色なり

753 姑の屁をひつたので気がほどけ
    しをらしい事しをらしい事

おわりに

こうした句を江戸の住人たちが競って作ったというのは、まさに江戸の街の文化的程度の高さを証明していると言える。そこにはほのぼのとした親子の情があったり、日常を斜めから穿つ面白さや古典的な教養に基づいた見立てがあったりする。それは自分の生活や感情を対照化する教養がなければできることではない。それを批評精神と言ってもいいはずだ。ただ、このこの街の文化的程度の高さや批評精神は為政者に取っては決して手放しで喜べるものではなかった。川柳興隆も寛政の改革などの反動的幕府政策によって萎んだ時期もあったのはそのためだ。柄井川柳は晩年そうした衰退も経験した。辞世句として

 木枯や跡で芽を吹け川柳

との句を残したという。さて、現在「川柳」は柄井川柳が望んだような「芽」を吹いたでしょうか。

今回はここまで。

2025.01.20
この項 了

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